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◆【本会趣旨】本会は、時代を区切らず総合的に「水野氏」の歴史研究を、主としてインターネット上で行っています。この外、水野氏と関連した氏族など、水野氏と何らかの関わりがあれば、本研究対象とします。また本会趣旨は、幅広くオープンな参加にあり、広範囲な水野氏の研究はもとより、“ 極めて限られた範囲 ”での水野氏およびその関連の研究をも主体としています。従ってその研究成果を、グループ活動を通じてより多くの人達に広く知っていただき、会員および会員以外の人達からの情報を収集しやすくして、会員の更なる研究の一助となることを主眼とします。◆【見読方法】本ブログは、ブログの特性上、日付順にランダムに投稿されていますので、項目ごとに見読する場合は、サイドバーの「カテゴリ」の項目をクリックすると記事一覧が表示されます。またカテゴリの複数に関連するものや講演会などについては「タグ」を付けていますのでご活用下さい。◆【コメント】みな様からご意見・ご指摘・ご感想などのコメントを頂けると幸いです。初コメントの場合は、先ずは「挨拶から」お始め下さるようお願いいたします。 また事務局が不適当と判断したコメントは公開しません。なお「コメントを受け取らないよう設定された記事」へのコメントは「掲示板」にお願いいたします。◆【質問方法】ご質問やお問い合わせのコメントについては、本ブログの「コメント欄」ではなく、「掲示板か、「事務局へメール」からご送信下さるようお願いいたします。≪研究会事務局≫
 
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『続 加藤清正「妻子」の研究』

 本会員の水野勝之氏・福田正秀氏による共同研究『加藤清正「妻子」の研究』が、2007年10月に上梓され、本ブログにおいても紹介したが、この書により、根拠もなく語られていた清正の妻子の全貌を、史料考証により明らかにされた。
 刊行を機に、新たな史料の発見と発掘が進み、積み残された幾つかの謎も解け、お二人の研究は進展し、待望の続編として纏められようやく刊行されるに至った。
 この研究から見えてきたのは、清正と妻子とめぐる様々なの愛の形であった。

 本書は題名通り「加藤清正の妻子」についての研究書であるが、「あとがき(水野勝之)」に、「――清正夫人となった水野勝成の妹、清浄院のことを知りたいという単純な動機から、続編を出版するまでの広がりを見ようとは……」と書かれているが如く、水野家を出発点とした著書であるだけに、水野家についての史料考証は秀逸である。
中でも「第四章 正室清浄院(水野氏)と八十姫(瑤林院)」には、八十姫(瑤林院)生母を証明する該当史料が「水野家記」(福山城鏡櫓蔵)、水野家文書の「水野記」(京都・龍光院蔵)などから、根拠部分が紹介されている。この他、写真と共にそ今回初めて発見された史料も掲載されている。
 また福田・水野両氏がそれぞれ記された「あとがき」には、異口同音に「様々不思議な導き、宿命の出会い」の体験を書いておられるが、水野氏史研究においても過去に様々な不思議な導きを体験しており、多くの先人のお導きお力添えがあってこそ、氏史研究が進んでいくことを改めて実感した次第である。

 尚 今般著者の水野勝之氏から、本著の発刊に先立ち水野氏史研究会に恵贈されました。お心遣いに深謝申し上げます。

 会員各位にはぜひご一読をお勧めします。
                                 研究会事務局







『続 加藤清正「妻子」の研究』
水野 勝之著
福田 正秀著
ジャンル:論文・学術書・参考書
ISBN:978-4-434-16325-8
ページ数:312ページ
判型:上製本 A5判
発売日:2012年1月24日
価格:3,150円(本体価格3,000円)
分類コード:3021
出版 : ブイツーソリューション
発売 : 星雲社

【内容紹介】
新史料から見えてきた愛のかたち
『関宿加藤家文書』
『高田藩榊原家史料』
「第29回熊日出版文化賞」受賞作品 続編


【目次】
はじめに

第一部加藤清正の妻子
第一章清正の息女名前の謎
第二章糟糠の妻山崎氏と虎熊・百助
第三章側室竹之丸殿(淨光院)とあま姫(こや)
第四章正室清淨院(水野氏)と八十姫(瑤林院)
第五章側室川尻殿(本覚院)と忠正(清孝)
第六章側室正應院(玉目氏)と忠廣
第七章清正の息女あま姫(こや)
第八章清正の息女瑤林院八十姫
おわりに―「加藤清正の妻子」まとめ
◎加藤清正妻子年譜

第二部新出史料の研究
第一章関宿加藤家文書
第二章高田藩榊原家史料
第三章成羽山崎家文書
第四章庄林氏由来
第五章加藤清孝史料
第二部のおわりに

参考文献

あとがき







◆本会々員・後藤芳央様所蔵「第十一代新宮城主水野忠央公奉納十一面観音」
 第十一代新宮城主水野忠央公から、初代新宮城主水野重仲公に奉納されたと推定される「十一面観音」の記事と写真が、本会々員・後藤芳央様から寄稿されましたので投稿します。
                          研究会事務局



第十一代新宮城主水野忠央公奉納十一面観音

 今回は入会をさせていただきまして有難うございます。
小生の家に総高80cmの十一面観音様が居られます。光背にかすかに読み取れますが、「紀伊国新宮城主水野忠央公」「全龍院殿ニ奉納ス」とあります。かねてより気になっていましたが、貴会に判る方が居られるかもしれないと思い入会させていただきました。
 光背の裏側に痛みがありますが、像自体は指等の欠損も無くいたって良好です。「紀伊国新宮城主水野忠央公」は写真でも確認できますが、「全龍院殿ニ奉納ス」の部分は修理跡があるため写真では確認できません。しかし、よく見ると間違いなく書かれていることが確認できます。この仏像の由緒が少しでも解かりましたらと思っています。
 「全龍院(*1)」とは初代新宮城主水野重仲(*2)のことと思われます。といいますのも、重仲の法名は「全龍院殿日山常春大居士」となっています。ただ、ネットで調べてみました範囲では、荼毘にふされたお寺と、菩提寺とお墓が別々で、この仏像が何処にあったものかと悩んでおります。この仏様の由緒がわかりますように、お手伝いいただけましたら幸いです。
 以前別の仏像をレントゲンを撮りましたところいろいろなものが出てまいりました。もし由緒が光背に書かれている通りでしたら、レントゲンを撮ってみたいと思います。

                           後藤芳央


[註]
*1=『寛政重修諸家譜』「重央」の最後部に、「元和七年十一月十二日和歌山にをいて卒す。年五十二。月山常春[今の呈譜、日山常春全龍院]と號す。同國直川の全正寺に葬る。」とある。元和七年(1621)。
*2=『寛政重修諸家譜』の「重央」には、「藤四郎 藤次郎 對馬守 出雲守 従五位下 今の呈譜はじめ重信、重央、のち重仲にあらたむといふ。水野藤次郎忠分が三男、母は某氏」とある。

[参考資料]
【新宮水野家譜】
重仲━重良━重上=重期=忠昭━忠興=忠實=忠寄━範明=重啓━忠央━忠幹━


















●2011年9月から2011年11月まで、3ヶ月間の「水野氏史研究会ブログの第15回アクセス解析」を発表いたします。
 一般の研究会では、月に一度程度の例会、および年数回「会誌」を発行しておりますが、本会では委員会・講演会の外は、定例の大会・例会の開催および会誌等の発行を予定していないことから、これらの集会参加人数、および会誌の発行部数を定期公表する事は出来ません。
従って本ブログへのアクセス状況(ユニーク・ユーザー数)を、四半期毎にご報告する事により、甚だ変則的な方法ではありますが「集会状況と会誌の発行部数に代替」とさせていただきます。
 尚 今般12月1日発表の予定が、事務局の手違いにより一ヶ月遅れましたことをお詫びいたします。
 尚々 2011年10月8日、第1回 水野氏史研究会主催講演会を開催し、39名の参加がありましたので、アクセス数とは別に集会参加人数として付記します。

 みな様には日々お仕事などで、ご多用中にも関わりませず、本会にご理解ご尽力いただいておりますことに、ここに改めまして深謝し心から御礼を申し上げます。今後とも引き続き本会活動にご参加ご支援いただきたくお願い申し上げます。

                                               研究会事務局

▼【エキサイトブログ・レポートの集計データ】 更新2011.12.01
2011.9.01~2011.11.30 までの〝ユニーク・ユーザー数〟
合計 2,776 ip (前回比 117.6 %)

前計 25,383 ip
累計 28,159 ip
 ※ユニーク・ユーザー【 unique user 】数とは、ブログにアクセスされた接続ホスト数をユニーク(同じ物が他に無いの意)な訪問者の数として日毎に集計している。つまり同一人物が1日に何回アクセスしても、最初の1回のみがカウントされる。この集計基準は、ページ・ビューなどの基準に比べ判定方法が難しいが、実質訪問者数を示している事からサイトの人気度をより正確に反映できる。


▼2011.9.01~2011.11.30 までの〝ページ・ビュー数〟
合計 6,000 pv (前回比 87.5 %)

前計 69,197 pv
累計 75,197 pv
※ページ・ビュー数【 page view 】(=表示画面閲覧数)の月別日計グラフを以下に掲載する。
通常、訪問者はサイト内の複数のページを閲覧するため、訪問者数(ビジット)よりもページビューのほうが数倍多くなる。






2011.11 合計 1,686 pv







2011.10合計 2,434 pv





2011.09 合計 1,880 pv













【講演などの予定情報】―― update 2011-12-23

★本会主催講演および出講依頼講演などの予定表
   (一般者の参加が不可能なものも掲載しています)

  ヘディング記号の説明
     本会主催:【A】
     出講依頼:【B】


2012年2月15日(水) 9:00~11:00
 【B】各務原稲羽 ふるさと楽会―2月例会講演―
     演題:「鋳物師 水野太郎左衛門――その氏族と作品――」
    講師:水野克彦(本会委員)
    会場:稲羽ふれあいセンター(岐阜県各務原市上戸町3-324)






【談議1】水野氏と戦国談議   Update 2011-11-03


第一回 戦国時代の権力モデル

第二回 戦国期社会・権力モデルの転換

第三回 「リゾーム」型権力モデルで竹千代強奪事件を紐解く

第四回 戦国大名はなぜ戦い続けたのか

第五回 所領とは何か

第六回 名も無き戦国の牙城

第七回 怨は忠義に勝れり

第八回 三河武士は忠義に薄く

第九回 竿と錘の戦国力学

番外編:尾張・三河戦国マップ作成プロジェクト

第十回 当知行・当事案(1)

第十一回 当知行・当事案(2)-買得地拡がりの背景-

第十二回 当知行・当事案(3)-中世荘園制における所有の観念-

第十三回 当知行・当事案(4)-共生としての「当」-

第十四回 中世アナーキーのパラドックス

第十五回 人と地、そして質

第十六回 貸借と売買(インセスト・タブーと永代売)

第十七回 中世貸借と資本主義

第十八回 神仏と物神が媒介する市観念

第十九回 袖触れ合うも“多少”の縁

第二十回 『信長公記』首巻の中の奇談 「蛇がへの事」

第二十一回 闘う者たち(1) -地侍知行制の限界-

第二十二回 闘う者たち(2) -戦士の登場-

第二十三回 戦国組織論(1)

第二十四回 戦国組織論(2) -度合と統一基準-

第二十五回 戦国組織論(3) -交換と代替わり-

第二十六回 戦国組織論(4) -家とは何か①-

第二十七回 占有と所有

第二十八回 所有の意味を探る① -年貢請負と進止権-

第二十九回 所有の意味を探る② -融通と土地売買-

第三十回 国人小河水野氏の困惑① -苅谷赦免-

第三十一回 国人小河水野氏の困惑② -水野金吾構へ-

第三十二回 国人小河水野氏の困惑③ -山口左馬助生害-

第三十三回 アナーキーと主従関係① -欠所の意味を探る-

第三十四回 アナーキーと主従関係② -没収の意味を探る-


●談議とは、言うまでもなく「自由に考えを述べ合い議論すること」つまり「堅苦しくなくざっくばらんに
 複数の人達が談じること」ですから、本会員はもちろん、本ブログをご見読いただいております多く
 のゲストの皆さんにも談議に加わり、活発な論議を交わしていただきたく、よろしくお願い致します。
●談議をこのまま画面で見読したり、横書でプリントアウトするのが通例ですが、さらに熟読玩味する
 には、文書スタイルを「縦書、袋とじ、 1ページ 字数46、行数18行」などに設定し、縦書きでプリ
 ントアウトすれば、より理解しやすく、また読みやすくなるかと思われますので、皆様もぜひお試し
 下さい。
●談議および研究論文・研究ノートなどへの「コメント・トラックバック・寄稿による論評」などについて
 は、最新の投稿記事に対しては勿論のこと、本ブログに掲載されている全ての投稿記事に対して
 の時間的制限はありませんので、何時の時点でもお気軽にコメントなどお寄せ下さるようお願い
 いたします。
                                                研究会事務局



アナーキーと主従関係②-「没収」の意味を探る-
談義:江畑英郷

 前回は、尾張在国時代の信長文書に現れる「欠所」という用語について、それが現代語の「没収」と同義であると捉えることの問題性を指摘した。しかしそのことによって、当時(およそ戦国期としてもよいが)使われていた「欠所」という用語が現代語「没収」の意味ではない、ということを結論づけるつもりはない。考察の対象としたのは天文21年から永禄9年までの期間に過ぎないし、また信長文書と一部今川の文書に限定されているのだから、それで十分だと言えば異論もあることだろう。したがってこのことから導き出したいと思っているのは、「欠所」という用語の解釈ではなくて、その用語をそのように解釈させる諸前提であり、また現代語の「没収」がどのような概念であって、それとは異なる有り様がどのように可能であるかの考察である。そしてそれは、中世という時代の可能性の探索でもある。そこで今回はこの可能性の探索の第一歩として、まずは現代語の「没収」が如何なる意味をもつかを確認することにしよう。

 集英社の国語辞典には、「没収」の意味が次のように書かれている。

1.強制的に所有物・権利などを取り上げること。
2.財産刑の一つ。犯罪に関連した物の所有を国庫に移す刑罰


 この「没収」という用語の意味はどの辞典を引いても同じで、上記のように1と2に分けて記載されている。これは現代語としての「没収」の意味であるが、欠所をこの現代語の没収に当たるとする場合、どちらの意味を指しているのであろうか。もし欠所は上記1の意味のことだとした場合、略奪や収奪とその語の意味がどう違のか。同じ集英社の国語辞典で、「略奪」と「収奪」は次のように定義されている。

「略奪」:力ずくで無理に奪い取ること。
「収奪」:金品などを、強制的に取り上げること。


 前回述べたように、『新修名古屋市史』における「欠所」の定義は、「所領について過去に出された判形(先判)による保証など、旧来の権利関係を一切破棄して没収すること」であった。したがって、ここでの「没収すること」が上記1の意味であるならば、「略奪すること」や「収奪すること」に変わっても何ら差し支えないことになる。しかし「旧来の権利関係を一切破棄して」といった前置きがあるのだから、これを略奪や収奪と同義だとすることはできない。なぜならば、略奪や収奪は問答無用の強制であって、そこに「権利関係」への考慮などは一切ないからである。したがって、欠所が没収のことであるとされる場合、それは国語辞典の1の意味に2の意味を加味した内容であることになる。つまり何らかの処罰として、強制的に所有物・権利などを取り上げること、という意味内容であるわけだ。
 現代語の「没収」は、ルールを共有する集団を前提とし、そのルール違反に対する罰則としてこれが適用される。しかし一方で所有権が諸権利の中で突出した効力をもつため、「犯罪に関連した物の所有を国庫に移す」にそれは限定されてしまう。たとえそれが罰則であるにしても、個人の所有物を取り上げることは所有権を侵害することになり、それは著しく制限されるというわけである。したがって一見没収のようにみえる場合でも、その実態は所有権取引内の債権回収であったりするのである。
 「欠所」を没収の意味であるとする場合でも、現代語の「没収」とまったく同じ意味で捉える必要はないという意見があるかもしれない。しかし先にも述べたように、「取り上げる」というだけであるなら略奪も同じ意味の用語である。そうであるのに、「欠所」に「没収」を当てたというのは、問答無用に暴力的に取り上げたのでないという認識がそこにあるからであろう。それならば「欠所」は、略奪とはどこが違うというのであろうか。取り上げるという行為は同じなわけであるが、略奪という用語には、正当性を欠いたという意味が含まれていると考えられる。したがって略奪と没収には、個人の所有物を取り上げる根拠、その正当性に違いがあるのであって、没収には正当性が付随しているのである。略奪には暴力をともなうというイメージがあるが、それは不当な行為を強要するからであって、没収であっても相手が抵抗すれば暴力の発動はありえる。このため暴力的であるか、あるいは有無を言わせぬ実力があるかどうかでは、略奪と没収を識別することはできない。こうして取り上げる行為に正当性があるかどうかが、略奪であるか没収であるかを区別する指標となるのであるが、しかしその場合の正当性とは何であろうか。
 文書作成者が「欠所」という用語を使い、それを現代の我々が「没収」の意味であると受取るのであれば、まず現代の我々が文書に現れている「欠所」処分に正当性があると認識していることになる。しかし文書それ自体に、その「欠所」が正当なものであると記されている場合など、まずほとんどないと言ってよいだろう。それならば何をもって、その処分が正当であると判断するのであろうか。

① 処分決定者がそれを正当な措置と認識し、また周囲もそれを認めている。
② 処分決定者はそれを正当な措置と認識しているが、周囲はそれを正当だとは認めていない。
③ 処分決定者はそれを正当な措置と認識していないが、周囲はそれを正当だと思っている。
④ 処分決定者はそれを正当な措置と認識していないし、また周囲も正当だとは思っていない。

 取り上げる行為が正当か否かということでいえば、①が正当であることと④が不当であることは明らかであるが、②と③は捉え方によって正当にも不当にもなる。「欠所」の用語が使用され、それが「没収」のことであるとするならば、その用語の使用者は少なくともその措置が正当であると考えているはずなので、③についてはここから除外される。そうなると問題は②のケースであるが、一般的にその行為が正当であるとするためには、周囲の同意がともなっていることが欠かせない条件である。辞書による「没収」の定義に「犯罪に関連した」とあったが、これは「犯罪」と規定されている時点で、不当行為に対する正当なる処罰としての取り上げ措置が、社会的に同意・了解されていることが前提となっている。したがって②の場合は、現代の語の用法では「没収」とは言わないわけである。
 社会的な了解がない取り上げ行為であっても、取り上げる側がそれを正当な行為であると主張することは当然ありうる。この場合、取り上げる側の用語は「没収」であっても、取り上げられる側にとっては「没収」ではなく、そのことが文書に記されるならば、例えば「略奪」(当時の用語ならば「押領」)の文字が選択されることだろう。しかし信長が取り上げられる側に立って、取り上げ行為を否定しようとする文書においても、その取り上げ行為は「欠所」と記されているのである。

G:永禄6年:
新儀の諸役并に持分・買得方、誰々欠所の判形を出すことありと雖も、当知行に任せて自余に混せず、相違あるべからざるもの也
(第三十三回掲載「表1」より)

 ここでの「新儀の諸役并に持分」は宛人の知行であり、買得方は宛人が売買によって入手した知行を表している。そしてこれら宛人の知行に対して「欠所の判形を出す」ということになるが、その中で「誰々」とはどのような立場の者を指しているのであろうか。もしこれが「誰々に欠所の判形を出す」であれば、信長が欠所指定者であり、誰々は不特定の欠所対象者ということになる。しかしこの文書において、欠所対象者は宛人(この文書の宛人は池田恒興)であって、不特定の「誰々」ではない。したがってこの箇所は、「誰々が欠所の判形を出す」であり、「信長以外の誰かが欠所の判形を出そうとも」云々ということが示されているのである。
 さてここで文中の「欠所」を現代語の「没収」の意味、すなはち「正当に取り上げる」に、さらに「判形」を「公式文書」に置き換えてみよう。

「誰々が欠所の判形を出すことありと雖も」=「信長以外の誰かが正当に取り上げるとする公式文書を出そうとも」

 この用語変換によってみえてくるのは、信長がG文書において正当なる公式処分を否定しているということである。しかし「欠所の判形を出す」というのは、実際に誰かが「欠所」と記した判形を出すという事態を想定したものであり、それは「誰々」からすれば「欠所」であり正当な行為であっても、信長からみればその処分は正当ではないのかもしれない。ところが、その処分が正当か不当かは個々の処分に当たってみなければ分からないはずで、このG文書ではそれが特定されているわけではない。したがって、「正当であろうが不当であろうが何にせよ」その処分は否定されるわけである。
 信長はG文書において、正当なるものも含めて宛人に対する知行取り上げを全面的に否定してしまっている。正当なる行為を堂々と正面切って否定することを、通常我々は暴虐と言うのであるが、それではこの文書において、信長の暴虐性が示されていると受け取るべきなのであろうか。さらにその処分決定者が誰であってもというわけであるが、これらのことは信長の裁定の絶対性を思わずそこにみてしまう所以となる。『新修名古屋市史』は、この「欠所」に示される信長の裁定について次のように述べている。

 織田信長は、弟信勝(信行)など家中の反対勢力を倒し、清須・岩倉・犬山の各織田家など敵対勢力を滅ぼして尾張を統一した。その過程で生じた多くの闕所地(没収地)を、恩賞として家臣に宛行(アテガ)い、また帰参した家臣には所領を安堵(保証)することにより、尾張の統一者として家臣との主従関係を確立していった。(中略)そこでは、「誰々欠所の判形を出す事有りといへども、当知行に任せて自余に混ぜず」とか「たとへ何れの闕所の地類たるといへども免許せしむ」として、闕所分から区分することを保証している。このように在地での重なりあう土地の権利関係をめぐる争いは多かったと思われ、唯一裁定権を握る信長が、闕所地宛行と並行して買得地安堵を行うことにより、家臣との新たな知行関係を確立していったのである。

 天文21年から永禄10年8月までの信長尾張在国時代は、「家中の反対勢力を倒し、清須・岩倉・犬山の各織田家など敵対勢力を滅ぼして尾張を統一」する過程として同書によって認識されている。そしてそこでは「倒し」「滅ぼし」ということで、相手を実力をもってねじ伏せてゆく信長が念頭におかれている。このとき、倒し滅ぼした相手の正当性などは視界にないのであるが、それは「正当であろうが不当であろうが何にせよ」敵対者を一掃したという理解から出ているのだろう。そして少々図式的ではあるが、尾張一国という視点でみれば、信長の前に立ちふさがるものは誰であってもという点で、G文書の欠所処分者の不特定性と同じとみることができる。この「何にせよ」と「誰であっても」の一致という点からすれば、「欠所」を現代語の「没収」の意味として理解させたのは、信長の尾張在国時代を尾張の武力統一過程とみなしていることに基づくと考えられるのである。
 このように同書は、G文書の歴史背景に信長の尾張統一とそれによって発生した「唯一裁定権」を認め、そのことによって同文書の「欠所」を現代語の「没収」として捉えることに問題はないとしたのである。基本的に「欠所」を「没収」の意味であるとする場合、これと同様の歴史認識が前提になっているものと思われる。しかしながら、G文書にはこの歴史認識にそぐわない事態が「欠所」の用語とともに描かれている。そしてそれはまさに、「誰々欠所の判形を出す」という箇所に示されているのである。
 この箇所には、信長以外の者が欠所の判形を出しているという事実が示され、さらにそのことを信長が「欠所の判形」と認識していることが提示されている。信長に「唯一裁定権」を認めるのであれば、当たり前であるが信長以外の者は裁定をしていないということになる。そして信長の判断によって他の者に裁定が委ねられる場合でも、それは信長の唯一裁定権に由来するものであり、信長の意向に逆らうものでは決してない。しかしながらG文書の「欠所の判形」は、信長がそれを否定しなければならない類のものであり、信長の裁定権外で出されたものである。そして「欠所」が「没収」であるならば、それは信長にとって「家臣との新たな知行関係を確立」するための最重要手段であり、他者がそれを行なうことは絶対に認められない処分のはずである。にもかかわらずG文書の信長は、無頓着にも「誰々欠所の判形を出すことあり」と、自己の裁定外の最重要処分が存在することを認めているのである。
 『新修名古屋市史』は信長の「唯一裁定権」を主張するが、自身が引用するG文書「誰々欠所の判形を出す事有りといへども、当知行に任せて自余に混ぜず」に、その唯一裁定権を信長自身が否定するかのような文言が現れていることに気がついてはいない。そしてこの引用箇所は、「在地での重なりあう土地の権利関係をめぐる争い」を示すものだという。この理解からすれば、「誰々欠所の判形を出す」は単なる土地の権利主張に過ぎないものであり、ここでの「欠所」は現代語における「没収」の意味ではなくなっている。しかし信長がわざわざ「欠所の判形」と表現しているのは、それが判形として社会的な有効性をもっているからであり、だからこそ「判形であっても」という言い方でそれを否定するのである。したがって、これを諸々の土地に関する権利主張の一つに過ぎない、とかたずけるわけにはいかない。そしてG文書においてこそ、その「欠所の判形」は否定されるものであっても、このケース以外ならば信長によって否定されることもなく通用する。信長が問題にしているのは宛人に対する「欠所の判形」であって、「欠所の判形」一般ではないのである。そして重要なのは、信長の欠所と信長以外の者による欠所が、同時に同じ場所に存在しているという欠所並存の事実が、ここに示されているということなのである。そしてそうであるならば、信長以外の者が知行没収を決定し実行しているという事実が、信長の「唯一裁定権」と矛盾することになる。
 『新修名古屋市史』は、「欠所」という用語を「没収すること」だと規定するのであるが、すべての「欠所」を没収の意味で解釈しているわけではない。それは前回みたように、永禄6年の「今度国中欠所の儀を申付く」において、これを「総点検」や「再確認」のことだとしていたことにも現れている。そしてG文書などにおける「誰々欠所の判形を出す」は、「土地の権利関係をめぐる争い」というように解釈するのである。このことは前回述べたことであるが、欠所の意味として「旧来の権利関係を一切破棄」するという点では一致していても、その上に立って知行を取り上げるということになると、そこでは没収の意味を押し通せてはいないということである。さて、知行を取り上げるという意味においては、この時代、まさに「没収」という用語がそれに当てられている。

彼本知行有子細、数年雖令没収、為褒美所令還付、永不可相違
(彼の本知行は子細有りて、数年没収せしむと雖も、褒美として還付為さしめる所、永く相い違うべらず)
(『豊明市史資料編補二』 )注:()内筆者

 この箇所は、桶狭間合戦における岡部元信の功績を、今川氏真が賞した文書(前回全文を引用)の一部であるが、ここに「没収」の文字が現れている。この「没収」の意味内容は、「数年没収せしむと雖も、褒美として還付」されるとあることから、文字通り岡部の知行地を取り上げたということになる。そして「子細有りて」という前置きがあるので、そこには知行が取り上げられるに相当する事情があったということでもある。また「褒美として」とあることから、この没収地の還付実現にあたっては、岡部の功績が主要な要因となっていることがわかる。しかしこの知行還付にあたっては、たまたま岡部に功績があったので、氏真の思いつきで没収地を還付することにしたというのではなく、没収-功績-還付が没収の時点からセットでこの主従に意識されており、それが基となって実現したということだろう。さらに「数年没収せしむ」という文言があるが、この「数年」という没収期間の長さの表現は、(没収-功績-還付)のセットにおいては、「数年間も没収することになったが、ようやく還付できることとなった」というニュアンスになる。そしてそうでなければ、ここで「数年」という期間を挿入することに意味があるとは思えないのである。
 この文書に現れた「没収」という用語は、先にみた現代語の『没収』(注1)における1と2の意味に該当すると考えてよいだろう。ただし、没収地が功績によって還付されている点からすれば、罪と罰の関係が贖<アガナ>いによって強く規定され、罰則によって処罰者に負荷を負わせることよりも、罰則の解消を催促することに重きが置かれているように思われる。そしてこのことは、筋目を介してよりいっそうの関係強化を志向したものとも受け取れる。つまり罪は罪として罰するが、そこに岡部のいっそうの奮起を促し、彼がそれに答えることを見守るといった姿勢が見受けられるということである。ここでは制度や機能による処罰によって両者が規定されているというよりも、主従の関係が雨降って地固まる的に強化されることが、望まれているかのように思われるのである。
(注1:以降は、今川氏真文書の没収を「」で、現代語の没収を『』で表す)
 この没収に関してさらに興味深いのは、この没収地が岡部元信に還付されるまでの扱いである。

当知行之内、北矢部并三吉名之事
右父玄忠隠居分、先年分渡云々、然者玄忠一世之後者、元信可為計、若弟共彼隠居分付嘱之由、雖企訴訟、既為還付之地之条、競望一切不可許容、并弟両人割分事、元信有子細、近年中絶之刻、雖出判形、年来於東西忠節、剰今度一戦之上、大高・沓掛雖令自落、鳴海一城相踏于堅固、其上以下知相退之条、神妙至也、因茲本領還付之上者、任通法如前之陣番可同心、殊契約為明鏡之間、向後於及異義者、如一札之文言、元信可任進退之意之状如件
永禄三庚申年九月朔 氏真 判
岡部五郎兵衛尉殿

(右の父玄忠<ハルタダ>隠居分、先年分け渡し云々、然るは玄忠一世の後は、元信が計りを為すべし、もし弟ども彼の隠居分付嘱の由、訴訟の企てと雖も、既に還付為すの地の条、競望一切許容すべからず、并<ナラビニ>弟両人への割分の事、元信子細有りて、近年中絶の刻<ミギリ>、判形出すと雖も、年来において東西忠節、剰<アマツサ>え今度一戦の上、大高・沓掛自落せしむと雖も、鳴海一城堅固に相踏み、其の上下知を以って相退くの条、神妙の至り也、因って茲<ココ>に本領還付の上は、通法に任せて前の陣番の如く同心すべし、殊に契約為すが明鏡の間、向後において異義に及ぶは、一札の如き文言、元信の進退の意に任せるべきの状件の如し)
(『豊明市史資料編補二』 )注:()内筆者

 この書状の後段は、同年6月の氏真書状と同様に、岡部元信の知行地没収と功績による還付についての記載である。しかし同年6月とこの書状の違いは、「弟両人への割分の事、元信子細有りて」に始まってこの件が語られている点にある。この箇所を縮めて言えば、「元信子細有りて、近年中絶の刻」、「弟両人への割分の事」について「判形出すと雖も」、「本領還付の上は」「元信の進退の意に任せるべき」となり、元信本領の没収と還付の間に「弟両人への割分」が判形により実施されていたことになる。また前段の「隠居分」が、「既に還付為すの地」であるとされているので、この「隠居分」も没収対象であったことになるだろう。父親である玄忠の隠居分と元信の関わりが分かりにくいが、この文章全体で述べられていることを整理すると、以下の3点のようになる。

① 父玄忠の隠居分も含めて元信の知行が没収されていたが、桶狭間合戦における鳴海城守備の功績で還付された。
② 還付地に元信の弟たちが関わっており、それがために彼らが訴訟を企てるなどの異議を唱えることが予想される。
③ 「隠居分」は「競望一切許容すべからず」、「弟両人への割分」は「元信の進退の意に任せるべき」だと氏真が命じている。

 先に(没収-功績-還付)が一連のセットをなすと述べたが、ここではそれが、(没収-割分-功績-還付-異議・訴訟)というプロセスに変容している。岡部元信と今川氏の間で発生していた(没収-功績-還付)に、元信の弟たちの(割分-異議・訴訟)が加わっているのであるが、弟たちが訴訟に及ぶ原因がここから抜けている。そしてそれを補うのであれば、(割分-没収-異議・訴訟)というものになるであろう。元信への還付地が「割分」されていたということは、没収によって元信から取り上げた知行地を、今川氏が弟たちへ給付したということを意味する。そしてその弟たち給付地が再び元信へ還付されたということは、その給付地(=還付地)が取り上げられ、その上で今川から元信へ戻されたことを意味する。したがって、岡部元信からみての没収地還付は、その没収地を給付されていた弟たちにとっては没収として現れているのである。そして『没収』は正当な行為なのであるから、元信側に処分される罪科があったわけであり、そのことは2通の文書で「子細有り」という文言で示されている。しかしながら、弟たちの給付地が没収されるに当たっては何も示されておらず、ただ元信に功績があったとされるが、兄に功績があったからといって弟に罪科が発生するはずもない。このように還付することが別の没収を発生させるという構図は、今川の施策がそうであったというのではなく、これら文書の解釈が起こしたものであり、それは「没収」を現代語の『没収』と受けとったことに端を発するのである。
 さらにこの文中に「本領還付の上は、通法に任せて前の陣番の如く同心すべし」とあるのは、「鳴海一城堅固に相踏み、其の上下知を以って相退く」という事情と合わせると、どうにも違和感を覚える。本領を返したのだから「同心すべし」というのであれば、没収中は同心していなかったということになる。しかしながら鳴海城を堅固に守ったとか、下知を待って退却したとかはその同心ぶりを示すもので、だからこそ「神妙の至り」と評価されたはずである。そうなると、還付前と後で違ってくるのは「同心」なのではなくて、その前の「通法に任せて」という箇所なのだろうか。
 知行没収中が通法どおりではなかったとするならば、同心という点では変わりがなかったが、変則的な形態でその間、元信は働いていたことになる。これを「前の陣番の如く」という表現から推測すれば、知行給付にともなう奉公として通法(規則)に則って勤めていたのではなく、規則や命令のないところで、つまり元信自身の判断と意志で行動していたということになるだろう。そしてその自身の判断と意志行動が功績となったということは、知行没収という事態を超えて、元信の判断と意志は今川との同心関係を志向していたということになる。このように「同心」とは、命令と服従の関係に基づくものではなく、目的や意図の自発的共有を示すものだと考えられるのである。
(つづく)
(つづき)
 このような「同心」理解を前提として「没収」を考えてみると、先に先取り的に表明した(没収-功績-還付)という一連のセットは、この同心が根底にあって成立しているのだと思われてくる。現代語の『没収』は、その意味内容にこのような一連性を含むことはなく、正当に取り上げるということで完結している。それに対して元信への処分としての「没収」は、それ単独で終始するものではなく、功績を経て還付へ接続されるべきものとして位置づけられるものである。「通法に任せて・・・同心すべし」という文言を、「これからは規則と命令の枠内で、これまで通り意を合わせていくように」と理解するならば、この「同心」を媒介として没収に功績と還付が接続していたと解釈されるべきだろう。このことからすれば、氏真文書に現れた「没収」という用語は、現代語の『没収』とはそれ単独での意味内容は同じようであっても、「没収」の実態が(没収-功績-還付)であるかぎり、その本質的な意味内容は大きく異なると言えるだろう。
 「欠所」や「没収」がある処分であることは間違いないが、そうであれば処分する側と処分される側、さらに処分対象となる知行などが、その処分を構成する要素である。そしてその処分が何であるかは、処分する側とされる側の関係によって規定され、また処分対象によっても規定される。現代語の『没収』においては、処分する側もされる側も共に同じ集団に所属しており、同じ集団ルールによって拘束されている。そしてそのルールにおいて、処分する側が指定されており、また処分対象などの処分内容も同時に規定されている。現代語の『没収』が単に「取り上げる」という意味ではなく、「正当性をもった」ものであるというのは、こうした処分を構成する要素の規定によって成立しているわけである。つまりそれが正当だと言えるのは、共に従っているルールに基づいているという一点に他ならないのである。
 このような現代語の『没収』に比べると、歴史用語である「欠所」や「没収」をそれと同義であるとする見解は、この処分を構成する要素に関する規定がだいぶルーズなように思われる。そしてそのようなルーズさは、そもそも『没収』という概念にはとても収まらないものを、「没収のことである」で終わらせてしまっていることに起因しているのだと思う。さてここまでは、「欠所」や「没収」をする側とされる側の関係に注目して、現代語の『没収』と同義であるかをみてきたが、この先は処分対象である知行が『没収』の対象として妥当であるのかを考えてみたい。

 「欠所」という用語が現代語の『没収』に相当するという場合、必ず前提としているのが、欠所の対象は取り上げることができるものであるという認識である。そしてこのことは、没収対象が「屋敷」であるとか「俵物」であるとか、あるいは「知行」であっても同じことである。しかし一方で、「知行」は「屋敷」や「俵物」のような物ではなく、土地に対する用益権であるとされている。そして対象が物であるならば、眼前のそれを取り上げて鍵のかかった蔵にでも入れておけば没収は成立するが、用益の権利といったものであれば、どうやって被没収者からそれを切り離すのであろうか。
 権利は行使するものであるから、被没収者の権利が行使されている間は没収したことにはならない。知行であれば、年貢を徴収している限り没収されたことにはならず、徴収できなくなって初めて没収成立となる。そしてそこには権利を行使される相手がいるのであるから、その相手が年貢を納めることを停止しなければ没収は成立しないということである。ここで没収を構成する関係者を整理すると、物の場合は没収者と被没収者に限定されるが、知行の場合はこれに加えて貢納者が登場してくる。そしてこの没収がスムースに進むかどうかは、貢納者の行動にかかっている。たとえ被没収者が没収処分を受け入れていても、貢納者が従前同様に被没収者に年貢を納めてしまったら没収は成立しない。反対に被没収者がどんなにそれを拒んでも、貢納者が年貢を納めなければ没収は成立してしまうのである。こうして知行の没収に関しては、貢納者が没収を了解していることが、それを構成する重要な要素であると考えられるのである。
 次に没収対象の現存在という観点で言うと、物に対する没収処分であればその物は今そこに存在しているが、それが権利となると、その行使対象が現にそこに存在するとは限らない。たとえば年貢徴収の権利であれば、それは一回限りの行使ではなく、永続的な行使を可能にするものでなければならない。そしてその権利の対象となる年貢は毎年生み出されるもので、権利行使の前に生産活動とその成果の回収が事実として成立していなければ、それが当然の行使であっても実態がともなわない。しかしだからといって、この事実としての成立に権利が左右されるというわけではない。例えば、相手にお金がないから債権が行使できないということはなく、その場合は行使が時間的に延長される。あるいは行使先があるルールによって、別に振り替えさせられるのである。このように権利というものは、「相手にお金がない」といった事情を無視し捨て去った次元で成立しているものである。
 年貢を徴収するという事態は、徴収権という次元で捉える場合と、徴収するという事実の次元で捉えるのでは、その意味する内容が大きく異なってくる。権利の次元であれば、どうであろうと行使は当然であって、それを妨げるものは存在しない、させないという前提が成立している。したがって貢納者の了解だの、その年の実りがどうであったかなどは、徴収権の行使には無関係である。しかし事実・現実の次元では、この当然の行使を妨げる事態は往々にして発生する。このように権利の行使と現実は少なからず対立するのであるが、それを調整するのが制度でありシステムである。そうであるならばこの制度・システムの熟成度によっては、権利が現実に引きづられることは避けがたいこととなる。
 歴史用語としての「欠所」や「没収」が、現代語の『没収』と同じ意味であるとするとき、現代社会と同等な制度やシステムの熟成度が前提されているのだろうか。あるいは『没収』という言葉を使うとき、そのような権利を支える制度やシステムの熟成度は、まったく度外視できるものなのだろうか。『新修名古屋市史』においては、「欠所」を『没収』の意味で受け取ることと、信長のような統治者に「唯一裁定権」を認めることが、相互補完的な働きをしていた。この相互補完的な関係においては、権利が権利として機能し、その諸権利の上に立ってそれを総覧する権利が存在することが、そこにおける『没収』の存在の確信につながってもいる。しかしこの相互補完において、権利は現代よりもはるかに現実に引きづられていたのではないか、という疑問はどのように解消されたのであろうか。
 信長はG文書において、「当知行に任せて自余に混せず、相違あるべからざるもの也」と言った。この「当知行」とは、権利としての知行に対する事実としての知行を表す歴史用語である、というのが一般的な理解である。「当」という語を付加することで、実際に知行しているという事実性を強調しているのであるが、これは「不知行」という、年貢徴収権があるのに徴収できていないという実態の対概念である。このような当知行理解を前提としてG文書のこの箇所に向かうならば、誰かによって「欠所の判形」が出されているとしても、実際に年貢を徴収している事実にしたがい間違いなく知行せよ、という解釈になるだろう。このようにG文書においては、宛人の当知行が「欠所の判形」を排除する根拠としての役割を果たしている、という解釈も可能となるのである。
 この時代、知行に対する当知行の優先という現実があったと理解されているのであるが、そうなると没収もこの当知行に向けられることになる。しかしながら当知行、すなはち知行事実を没収するとは、いったいどういうことなのだろうか。知行を用益権とするのであれば、権利は没収可能であるからよいでのであるが、当知行となると知行と同様に没収可能であると言いえるものであるかどうか、この点についても考察をむける必要があるだろう。

 「当知行」というものが、年貢徴収事実であるとして、その「事実」の意味をまずは考察してみよう。ここで「事実」だとされるのは、年貢徴収が実際にできているという事態なのであるが、年貢徴収ができているという事実性を構成するものは何であろうか。

a.生産物が存在する。
b.生産物を年貢に交換できている。
c.年貢が徴収されることを生産者が了解している。

 まずは、生産物が存在しなければ話にならない。しかし生産物が存在するためには、生産者による生産活動がおこなわれ、その成果が生産物として回収されているのでなければならない。そしてその生産物が年貢になるのであるが、そこには直接の生産物を求められる年貢の形態に変換する必要がある。それが米であれば備蓄可能な米俵にするとか、売って銭に替えるとかである。さらに生産物を年貢に変換することを、生産者が同意していなければならない。このように年貢を徴収するためには、生産活動から年貢への変換までに幾つものプロセスが必要であり、その間には多くの人が関わりを持つ。そしてこれらの事実が積み上がって、ようやく年貢を徴収するという事実にたどり着くのであって、事実性の観点からはこれら一つたりとも欠かすことができないのである。
 事実であるということは、その事態が在ったり無かったりするということである。したがって年貢徴収の事実においては、徴収するに至るプロセスのどこで躓く可能性があり、その場合は年貢が徴収できなくなる。このことからすれば、年貢を徴収「している」事実というのは、無事に徴収に至るプロセスがつながったという結果から徴収を捉えているに過ぎない。しかしながら当知行の「当」は「当てる」という能動性を含むもので、起こった結果をなぞっただけのものではない。それは年貢徴収が「できている」という成就の意味であり、そこに成就させようとする強い指向が存在するものである。このことは、権利としての知行が在ることと無いことを超え出て、何であろうと行使できるものであることと対照的である。
 このように当知行とは、年貢徴収の事実を知行者が創出しているという点で捉えてこそ、権利としての知行とその実を明確に分かつことが可能となる。そうでなければ、権利によって年貢が徴収していることも年貢徴収事実となってしまい、その場合には当知行と知行に区別がつけられない。知行とは権利の次元での年貢徴収であり、当知行と不知行は事実の次元で捉えた年貢徴収の在り様なのである。そしてこの当知行と不知行を分けているのは、年貢徴収を可能にさせる生産活動への参与がなされているか、そこから切り離されているかの違いに基づくのである。
 「当知行」とは、権利の次元を超えて知行者が生産活動に参与し、その参与によって知行者と知行が分かちがたく結びついている事態を言い表すものである。そしてこのことは、これまで何度も繰り返し確認してきたことであった。例えば第二十九回「所有の意味を探る②-融通と土地売買-」では、長谷川氏の以下のような指摘を引用していた。

 したがって、ここの百姓による土豪への売買契約としてみえるものも、じつは村内部で対処できない場合に行われた年貢未進補填方法であったと考えられよう。このような土豪の融通機能=年貢未進補填のシステムは、村の収納のシステムと、村としての立て替えのシステムの外縁部に存在していた。そして、村の機能と土豪の機能が一体となって、「村の成り立ち」が維持されていたのである。
(『中世・近世土地所有史の再構築』-「売買・貸借にみる土豪の融通と土地所有」長谷川裕子著)

 この時代「村の成り立ち」が維持されることは、当然ではあるが社会の成り立ちにとって不可欠である。そして村は自立性を高めて、自らの機能によって生産現場を維持していたが、「村内部で対処できない場合」には「外縁部」にいた土豪がこれを支えていたのである。そしてそうした「村の成り立ち」の維持は、土豪の参画に限られるわけではなく、より上位の知行者・領主も広く関与していたのであった。

 以上のことから、蔵に納められる収穫物は、各年貢請負人のほうから直接各貸し主に支払う借銭・借米や小作料と、自己の生活必要分を指し引いた分であったこと、さらに蔵に納入された収穫分は、まず借銭・借米や種貸分、そして村をつうじて払われる小作料の返済にあてられ、そこから残った分が領主の年貢分として算用されたことがわかる。つまり領主への年貢は各年貢請負人からの蔵入分から一番最後に支払われたことがうかがわれるのである。
(前掲書)

 ここに年貢請負人・貸し主・領主が登場しているが、その中で年貢請負人は「自己の生活必要分を指し引いた分」とあることから、耕作者であることがわかる。貸し主は村であったり土豪であったりするわけであるが、そこに領主が蔵入分の収納者として現れている。そして長谷川氏がここで指摘しているのは、「領主への年貢は各年貢請負人からの蔵入分から一番最後に支払われた」という、領主の年貢徴収のあり方である。この領主の年貢徴収権は、一般に上級所有権とされるものであり、派生的所有権の源泉だとされている。そしてこの時代、なおも領主であり続けた彼らには、その権利をまっとうできる実力も備わっている。このような実力を兼ね備えた年貢徴収権の最上位者が領主であるならば、通常その成果物の分配は領主から始まるはずである。しかしながらその分配の順序は、長谷川氏の指摘ではまったく逆になっているのである。
 しかし考えてみれば、耕作活動あっての年貢徴収には違いないのであり、そこで権利を振りかざしたところで、年貢徴収が確実になるわけでもなかったのであろう。そこで働いていたのは、特定のパイを奪い合うことではなく、ともすれば縮小してしまうパイを確実にするための協働だったのではなかろうか。そして経済的に最大の融通力をもつ領主が、時々の成果変動を吸収して、この協働体全体としての安定役を買っていたのであり、それが分配順序に現れていたというのが事の実態ではないかと思うのである。また貸し主の土豪や村にしても、借銭・借米や種貸分の単なる債権者ではなく、耕作現場の継続性を支えるための貸し手であろうとした者たちであったろう。こうしてここで押さえておかねばならないのは、権利云々で耕作活動とその回収という現実を、部分的に切り出して完結させるのではなく、その分かちがたい有機性を認識することなのである。
 ここに登場する領主を知行者であるとするならば、その知行を没収するということが何を意味するかを考えなくてはならない。長谷川氏は、生産現場の有機的関係性を「年貢未進補填のシステム」と呼ぶが、それは単に機能的なシステムということではないだろう。年貢請負人・貸し主・領主は、耕作活動が継続されるように相互に協働する関係にあるのであって、その土台として相互理解やそれに基づく信頼関係がそこにはあったはずである。そしてそれは年貢未進補填に限られるわけでもなく、生産活動が滞りなく継続してできるだけ多くの成果物を回収するという目標に向かった、自然的協働関係なのである。この自然的というのは、組織的という以前の関係ではあるが、それだけに自発性と相互理解がその基盤となっていることを示すものとなる。
 年貢徴収を権利として捉えるならば、その権利とともに知行者の交換は可能なのであるが、それは知行者が権利保有者として生産活動の外側に存在するからである。そして外側にいるということであれば、権利というフックで生産活動に引っかかっているだけなので、これの取り外しに支障はない。これに対して、生産活動に分かちがたく結びつけられている当知行は、分かちがたいがために切り離すべき境界線が確定できず、その交換は容易ではない。したがってこれを実施するとなれば、生産活動における関係性の組み替えが必要となるのである。取り上げることが可能であるためには、取り上げる当のものが周囲から区別できるのでなければならない。取り上げるものが単に権利であるのならば、それは付与したり剥奪したりが可能なようにもともと設<シツラ>えてあるのだが、生産活動に巻き込まれつつある当知行では、無理に引き剥がせば生産活動を傷つけかねないのである。しかしながら、だから没収はありえなかったと言いたいのではない。そうではなくて、この当知行のあり方に、もっと適合的な{没収}があったろうと思うのである。そしてそれを突き当てたとき、{没収}という用語は廃棄されて、それはもっと別な言葉で語られることになるだろうと言いたいのである。

 武士の経済的軍事的基盤である知行は、信長一人の意志によって宛行いそして没収する。これが、『新修名古屋市史』が言うところの「唯一裁定権」の中身となる。そして、信長の尾張在国時代に発給された文書に度々登場する「欠所」という処分は、この「唯一裁定権」の一方を構成するものとして理解されている。したがって、信長文書における「欠所」を没収の意味に解することと、信長が「唯一裁定権」を掌握していたこととは、この時期の尾張における軌を一にした解釈において成立しているのである。しかしながら永禄6年に発給されたG文書に、「誰々欠所の判形」と書かれていることは、自分以外の者による欠所処分がなされることを、当の信長自身が想定していることを示すものである。したがって、知行宛行いと没収を一手に握ることによる権力の集中という、この時代の戦国大名らによる権力拡大モデルが、このG文書においては端的に矛盾に陥ってしまうのである。
 また「欠所」という歴史用語が現代語の『没収』に相当するものだとする理解は、一方で同時代に「没収」という用語使用が存在することで、「没収」という用語が使用されている中でなぜ同意語の「欠所」が存在するのか、という疑問を呼び起こす。しかしそれは、若干のニュアンスの相違をもつ同意語であったとなれば、何か不都合があるというわけではない。それよりも重要なのは、それら用語を含む史料が抱えもっている奥行きを、どこまで掴まえようとするかではないだろうか。ニュアンスの違いは誤差やバラツキではなく、我々が見過ごしがちな現代的ではないものの暗示ではないか、とする感度がそこで問われているのである。
 この点において、今川氏真が永禄3年に発給した岡部元信没収地の還付に関する文書は、「没収」という用語を含みながらも、戦国大名今川の知行運用システムとして割切りがたい面をもっている。大名の知行運用システムとしてみるならば、岡部元信の知行が何らかの罪科によって没収された/その後になって元信の働きが功績と評価され/先の没収地が褒賞として還付された、という措置が運用システムの機能によって捉えられるだけのことになる。そしてそこにおいて、罪科の認定、罪科の重さに相応する処罰としての没収がおこなわれたが、それは没収処分というシステムに備わった手順の進行に過ぎない。そしてその没収処分は、その後になって岡部元信があげる功績とは無関係に単独で実施される。そして元信の働きが報告されると、運用システムが基準にしたがって評価を下す。さらにやはり基準にしたがって、評価に相応する褒賞が元信に与えられるのである。そこでは、過去に惜しくも没収された愛着の地などという思いなど無関係に、システムで定められた価値で褒賞が測られるのである。当時の今川の知行運用システムがこれほど無機質であったとは思わないが、しかしそれは程度問題であり、システムの性能が高くてその機能を余すことなく発揮したならば、かくあろうという描写である。
 本来、家臣統制を目的とした知行運用システムであれば、没収と還付は単なる偶然に過ぎない。功績に等価の知行を給付することがシステムの働きであり、それ以外の知行地の属性(元の知行地であるなど)は、等価を定めるにあたって障害になるだけなので、むしろ積極的に排除されることだろう。そしてさらに重要な点は、褒賞を受ける側も、そうしたシステムを備えた集団あるいは社会に属する以上は、過去に惜しくも没収された愛着の地などという価値観はもたないし、あったとしても単なる感傷として切り捨てられるのである。したがって没収と還付は結びつかないのであり、その観点に立ってみると、氏真と元信は何とも奇妙なことに拘っているように思えるのである。褒賞としての知行給付は重要であるが、それが「還付」である必要はない。そうであるのに、氏真は何度も「還付」という言葉を使っており、まるで没収地を戻したことに格別の意味があるかのようであるが、要はこのことをどう見るかである。
 こうしたニュアンスの奇異さを感知することに発して、先に(没収-功績-還付)という一体的解釈を提示した。そしてその根底にあるのは、システムの機能性ではなく、氏真と元信の関係性を根本で規定している「同心」である。この(没収-功績-還付)に示される「没収-」は、現代語の『没収』とその措置の現れ方は類似しているが、その措置の意味合いは同じではない。『没収』はシステム的な機能の枠組みで捉えられるため、「取り上げる」で完了する。これに対して「没収-」は、還付を期待しながら取り上げ、その行為を功績にトスするのである。このように「没収」という歴史用語を、同心を基盤とした「没収-」として捉えるとき、その対象である知行は、付与と剥奪を制御することで下位の者を統制するための、単なる手段ではないという考えに進むのである。
 知行を没収する側と没収される側が、システム機能下における単なるアクターであるという見解を離れると、知行者と貢納者の関係もまた、単に権利行使者と義務履行者というシステムの枠には収まらないとする考えに進む。当時、「知行」という用語では済まなくなっていた現実を、人々は「当知行」という言葉で表していた。そしてそこから見えてくるのは、権利と義務という関係を超えて協働する知行者と貢納者であった。その実態における知行とは、それが獲得しようとする当のものに巻き込まれつつ実現するという在り方をしており、そのような知行は権利であるかのような取り上げを阻むのである。

 さて、前回と当回の2回連続で、歴史用語の「欠所」と「没収」について、それを現代語の『没収』と同義とする見解に異を唱えてきた。そしてそれは何度も断ったように、単に歴史用語の解釈に留まるものではない。むしろここでの用語解釈は、その先にある歴史解釈の問題へと到る通路に過ぎないと思っている。「欠所」や「没収」が現代語の『没収』と同義だというのは、同義としてその語を通用させる社会的同質性があったということにつながる。そしてその同質性を前提として「欠所」と「没収」の意味を主張しているのであれば、少々の異を唱えたとしても例外や誤差に解消されてしまうだろう。『新修名古屋市史』が言うところの「唯一決裁権」に示されるような権力モデルは、極めて強固でありそのために個々の史料解釈では当然の如く前提とされおり、それが前提となっていることなど省みることなく解釈が進められていく。そしてその史料解釈は、その前提となった権力モデルをよりいっそう強固なものとするために貢献するのである。
 「解釈」、歴史探求にとって欠かせないこの言葉、この概念の意味するところを、ここらで正面から考えてみたい衝動に最近駆られるようになった。この間、「欠所という用語は・・・」と何度も考えをめぐらしたが、そのたびに用語と文と歴史認識が堂々巡りするようであった。そしてこのことは、言語と認識の関係というものが、歴史という特異な探求分野で鋭く問われざるをえないことを示しているのだと思う。そうしたわけで、「アナーキーと主従関係」を主題とする談義はひとまず置いておいて、次回からは歴史認識というものが如何にして成り立つものであるかについて考えてみようと思う。
 この度、スキン(アプリケーションソフトを活用するためのサンプルフォーム)を変更しました。画面全体が、少し柔らかい感じになったと思いますが如何でしょうか。
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