アナーキーと主従関係②-「没収」の意味を探る-談義:江畑英郷
前回は、尾張在国時代の信長文書に現れる「欠所」という用語について、それが現代語の「没収」と同義であると捉えることの問題性を指摘した。しかしそのことによって、当時(およそ戦国期としてもよいが)使われていた「欠所」という用語が現代語「没収」の意味ではない、ということを結論づけるつもりはない。考察の対象としたのは天文21年から永禄9年までの期間に過ぎないし、また信長文書と一部今川の文書に限定されているのだから、それで十分だと言えば異論もあることだろう。したがってこのことから導き出したいと思っているのは、「欠所」という用語の解釈ではなくて、その用語をそのように解釈させる諸前提であり、また現代語の「没収」がどのような概念であって、それとは異なる有り様がどのように可能であるかの考察である。そしてそれは、中世という時代の可能性の探索でもある。そこで今回はこの可能性の探索の第一歩として、まずは現代語の「没収」が如何なる意味をもつかを確認することにしよう。
集英社の国語辞典には、「没収」の意味が次のように書かれている。
1.強制的に所有物・権利などを取り上げること。
2.財産刑の一つ。犯罪に関連した物の所有を国庫に移す刑罰。
この「没収」という用語の意味はどの辞典を引いても同じで、上記のように1と2に分けて記載されている。これは現代語としての「没収」の意味であるが、欠所をこの現代語の没収に当たるとする場合、どちらの意味を指しているのであろうか。もし欠所は上記1の意味のことだとした場合、略奪や収奪とその語の意味がどう違のか。同じ集英社の国語辞典で、「略奪」と「収奪」は次のように定義されている。
「略奪」:力ずくで無理に奪い取ること。
「収奪」:金品などを、強制的に取り上げること。 前回述べたように、『新修名古屋市史』における「欠所」の定義は、「所領について過去に出された判形(先判)による保証など、旧来の権利関係を一切破棄して没収すること」であった。したがって、ここでの「没収すること」が上記1の意味であるならば、「略奪すること」や「収奪すること」に変わっても何ら差し支えないことになる。しかし「旧来の権利関係を一切破棄して」といった前置きがあるのだから、これを略奪や収奪と同義だとすることはできない。なぜならば、略奪や収奪は問答無用の強制であって、そこに「権利関係」への考慮などは一切ないからである。したがって、欠所が没収のことであるとされる場合、それは国語辞典の1の意味に2の意味を加味した内容であることになる。つまり何らかの処罰として、強制的に所有物・権利などを取り上げること、という意味内容であるわけだ。
現代語の「没収」は、ルールを共有する集団を前提とし、そのルール違反に対する罰則としてこれが適用される。しかし一方で所有権が諸権利の中で突出した効力をもつため、「犯罪に関連した物の所有を国庫に移す」にそれは限定されてしまう。たとえそれが罰則であるにしても、個人の所有物を取り上げることは所有権を侵害することになり、それは著しく制限されるというわけである。したがって一見没収のようにみえる場合でも、その実態は所有権取引内の債権回収であったりするのである。
「欠所」を没収の意味であるとする場合でも、現代語の「没収」とまったく同じ意味で捉える必要はないという意見があるかもしれない。しかし先にも述べたように、「取り上げる」というだけであるなら略奪も同じ意味の用語である。そうであるのに、「欠所」に「没収」を当てたというのは、問答無用に暴力的に取り上げたのでないという認識がそこにあるからであろう。それならば「欠所」は、略奪とはどこが違うというのであろうか。取り上げるという行為は同じなわけであるが、略奪という用語には、正当性を欠いたという意味が含まれていると考えられる。したがって略奪と没収には、個人の所有物を取り上げる根拠、その正当性に違いがあるのであって、没収には正当性が付随しているのである。略奪には暴力をともなうというイメージがあるが、それは不当な行為を強要するからであって、没収であっても相手が抵抗すれば暴力の発動はありえる。このため暴力的であるか、あるいは有無を言わせぬ実力があるかどうかでは、略奪と没収を識別することはできない。こうして取り上げる行為に正当性があるかどうかが、略奪であるか没収であるかを区別する指標となるのであるが、しかしその場合の正当性とは何であろうか。
文書作成者が「欠所」という用語を使い、それを現代の我々が「没収」の意味であると受取るのであれば、まず現代の我々が文書に現れている「欠所」処分に正当性があると認識していることになる。しかし文書それ自体に、その「欠所」が正当なものであると記されている場合など、まずほとんどないと言ってよいだろう。それならば何をもって、その処分が正当であると判断するのであろうか。
① 処分決定者がそれを正当な措置と認識し、また周囲もそれを認めている。
② 処分決定者はそれを正当な措置と認識しているが、周囲はそれを正当だとは認めていない。
③ 処分決定者はそれを正当な措置と認識していないが、周囲はそれを正当だと思っている。
④ 処分決定者はそれを正当な措置と認識していないし、また周囲も正当だとは思っていない。
取り上げる行為が正当か否かということでいえば、①が正当であることと④が不当であることは明らかであるが、②と③は捉え方によって正当にも不当にもなる。「欠所」の用語が使用され、それが「没収」のことであるとするならば、その用語の使用者は少なくともその措置が正当であると考えているはずなので、③についてはここから除外される。そうなると問題は②のケースであるが、一般的にその行為が正当であるとするためには、周囲の同意がともなっていることが欠かせない条件である。辞書による「没収」の定義に「犯罪に関連した」とあったが、これは「犯罪」と規定されている時点で、不当行為に対する正当なる処罰としての取り上げ措置が、社会的に同意・了解されていることが前提となっている。したがって②の場合は、現代の語の用法では「没収」とは言わないわけである。
社会的な了解がない取り上げ行為であっても、取り上げる側がそれを正当な行為であると主張することは当然ありうる。この場合、取り上げる側の用語は「没収」であっても、取り上げられる側にとっては「没収」ではなく、そのことが文書に記されるならば、例えば「略奪」(当時の用語ならば「押領」)の文字が選択されることだろう。しかし信長が取り上げられる側に立って、取り上げ行為を否定しようとする文書においても、その取り上げ行為は「欠所」と記されているのである。
G:永禄6年:
新儀の諸役并に持分・買得方、誰々欠所の判形を出すことありと雖も、当知行に任せて自余に混せず、相違あるべからざるもの也(第三十三回掲載「表1」より)
ここでの「新儀の諸役并に持分」は宛人の知行であり、買得方は宛人が売買によって入手した知行を表している。そしてこれら宛人の知行に対して「欠所の判形を出す」ということになるが、その中で「誰々」とはどのような立場の者を指しているのであろうか。もしこれが「誰々に欠所の判形を出す」であれば、信長が欠所指定者であり、誰々は不特定の欠所対象者ということになる。しかしこの文書において、欠所対象者は宛人(この文書の宛人は池田恒興)であって、不特定の「誰々」ではない。したがってこの箇所は、「誰々が欠所の判形を出す」であり、「信長以外の誰かが欠所の判形を出そうとも」云々ということが示されているのである。
さてここで文中の「欠所」を現代語の「没収」の意味、すなはち「正当に取り上げる」に、さらに「判形」を「公式文書」に置き換えてみよう。
「誰々が欠所の判形を出すことありと雖も」=「信長以外の誰かが正当に取り上げるとする公式文書を出そうとも」
この用語変換によってみえてくるのは、信長がG文書において正当なる公式処分を否定しているということである。しかし「欠所の判形を出す」というのは、実際に誰かが「欠所」と記した判形を出すという事態を想定したものであり、それは「誰々」からすれば「欠所」であり正当な行為であっても、信長からみればその処分は正当ではないのかもしれない。ところが、その処分が正当か不当かは個々の処分に当たってみなければ分からないはずで、このG文書ではそれが特定されているわけではない。したがって、「正当であろうが不当であろうが何にせよ」その処分は否定されるわけである。
信長はG文書において、正当なるものも含めて宛人に対する知行取り上げを全面的に否定してしまっている。正当なる行為を堂々と正面切って否定することを、通常我々は暴虐と言うのであるが、それではこの文書において、信長の暴虐性が示されていると受け取るべきなのであろうか。さらにその処分決定者が誰であってもというわけであるが、これらのことは信長の裁定の絶対性を思わずそこにみてしまう所以となる。『新修名古屋市史』は、この「欠所」に示される信長の裁定について次のように述べている。
織田信長は、弟信勝(信行)など家中の反対勢力を倒し、清須・岩倉・犬山の各織田家など敵対勢力を滅ぼして尾張を統一した。その過程で生じた多くの闕所地(没収地)を、恩賞として家臣に宛行(アテガ)い、また帰参した家臣には所領を安堵(保証)することにより、尾張の統一者として家臣との主従関係を確立していった。(中略)そこでは、「誰々欠所の判形を出す事有りといへども、当知行に任せて自余に混ぜず」とか「たとへ何れの闕所の地類たるといへども免許せしむ」として、闕所分から区分することを保証している。このように在地での重なりあう土地の権利関係をめぐる争いは多かったと思われ、唯一裁定権を握る信長が、闕所地宛行と並行して買得地安堵を行うことにより、家臣との新たな知行関係を確立していったのである。 天文21年から永禄10年8月までの信長尾張在国時代は、「家中の反対勢力を倒し、清須・岩倉・犬山の各織田家など敵対勢力を滅ぼして尾張を統一」する過程として同書によって認識されている。そしてそこでは「倒し」「滅ぼし」ということで、相手を実力をもってねじ伏せてゆく信長が念頭におかれている。このとき、倒し滅ぼした相手の正当性などは視界にないのであるが、それは「正当であろうが不当であろうが何にせよ」敵対者を一掃したという理解から出ているのだろう。そして少々図式的ではあるが、尾張一国という視点でみれば、信長の前に立ちふさがるものは誰であってもという点で、G文書の欠所処分者の不特定性と同じとみることができる。この「何にせよ」と「誰であっても」の一致という点からすれば、「欠所」を現代語の「没収」の意味として理解させたのは、信長の尾張在国時代を尾張の武力統一過程とみなしていることに基づくと考えられるのである。
このように同書は、G文書の歴史背景に信長の尾張統一とそれによって発生した「唯一裁定権」を認め、そのことによって同文書の「欠所」を現代語の「没収」として捉えることに問題はないとしたのである。基本的に「欠所」を「没収」の意味であるとする場合、これと同様の歴史認識が前提になっているものと思われる。しかしながら、G文書にはこの歴史認識にそぐわない事態が「欠所」の用語とともに描かれている。そしてそれはまさに、「誰々欠所の判形を出す」という箇所に示されているのである。
この箇所には、信長以外の者が欠所の判形を出しているという事実が示され、さらにそのことを信長が「欠所の判形」と認識していることが提示されている。信長に「唯一裁定権」を認めるのであれば、当たり前であるが信長以外の者は裁定をしていないということになる。そして信長の判断によって他の者に裁定が委ねられる場合でも、それは信長の唯一裁定権に由来するものであり、信長の意向に逆らうものでは決してない。しかしながらG文書の「欠所の判形」は、信長がそれを否定しなければならない類のものであり、信長の裁定権外で出されたものである。そして「欠所」が「没収」であるならば、それは信長にとって「家臣との新たな知行関係を確立」するための最重要手段であり、他者がそれを行なうことは絶対に認められない処分のはずである。にもかかわらずG文書の信長は、無頓着にも「誰々欠所の判形を出すことあり」と、自己の裁定外の最重要処分が存在することを認めているのである。
『新修名古屋市史』は信長の「唯一裁定権」を主張するが、自身が引用するG文書「誰々欠所の判形を出す事有りといへども、当知行に任せて自余に混ぜず」に、その唯一裁定権を信長自身が否定するかのような文言が現れていることに気がついてはいない。そしてこの引用箇所は、「在地での重なりあう土地の権利関係をめぐる争い」を示すものだという。この理解からすれば、「誰々欠所の判形を出す」は単なる土地の権利主張に過ぎないものであり、ここでの「欠所」は現代語における「没収」の意味ではなくなっている。しかし信長がわざわざ「欠所の判形」と表現しているのは、それが判形として社会的な有効性をもっているからであり、だからこそ「判形であっても」という言い方でそれを否定するのである。したがって、これを諸々の土地に関する権利主張の一つに過ぎない、とかたずけるわけにはいかない。そしてG文書においてこそ、その「欠所の判形」は否定されるものであっても、このケース以外ならば信長によって否定されることもなく通用する。信長が問題にしているのは宛人に対する「欠所の判形」であって、「欠所の判形」一般ではないのである。そして重要なのは、信長の欠所と信長以外の者による欠所が、同時に同じ場所に存在しているという欠所並存の事実が、ここに示されているということなのである。そしてそうであるならば、信長以外の者が知行没収を決定し実行しているという事実が、信長の「唯一裁定権」と矛盾することになる。
『新修名古屋市史』は、「欠所」という用語を「没収すること」だと規定するのであるが、すべての「欠所」を没収の意味で解釈しているわけではない。それは前回みたように、永禄6年の「今度国中欠所の儀を申付く」において、これを「総点検」や「再確認」のことだとしていたことにも現れている。そしてG文書などにおける「誰々欠所の判形を出す」は、「土地の権利関係をめぐる争い」というように解釈するのである。このことは前回述べたことであるが、欠所の意味として「旧来の権利関係を一切破棄」するという点では一致していても、その上に立って知行を取り上げるということになると、そこでは没収の意味を押し通せてはいないということである。さて、知行を取り上げるという意味においては、この時代、まさに「没収」という用語がそれに当てられている。
彼本知行有子細、数年雖令没収、為褒美所令還付、永不可相違(彼の本知行は子細有りて、数年没収せしむと雖も、褒美として還付為さしめる所、永く相い違うべらず)
(『豊明市史資料編補二』 )注:()内筆者
この箇所は、桶狭間合戦における岡部元信の功績を、今川氏真が賞した文書(前回全文を引用)の一部であるが、ここに「没収」の文字が現れている。この「没収」の意味内容は、「数年没収せしむと雖も、褒美として還付」されるとあることから、文字通り岡部の知行地を取り上げたということになる。そして「子細有りて」という前置きがあるので、そこには知行が取り上げられるに相当する事情があったということでもある。また「褒美として」とあることから、この没収地の還付実現にあたっては、岡部の功績が主要な要因となっていることがわかる。しかしこの知行還付にあたっては、たまたま岡部に功績があったので、氏真の思いつきで没収地を還付することにしたというのではなく、没収-功績-還付が没収の時点からセットでこの主従に意識されており、それが基となって実現したということだろう。さらに「数年没収せしむ」という文言があるが、この「数年」という没収期間の長さの表現は、(没収-功績-還付)のセットにおいては、「数年間も没収することになったが、ようやく還付できることとなった」というニュアンスになる。そしてそうでなければ、ここで「数年」という期間を挿入することに意味があるとは思えないのである。
この文書に現れた「没収」という用語は、先にみた現代語の『没収』(注1)における1と2の意味に該当すると考えてよいだろう。ただし、没収地が功績によって還付されている点からすれば、罪と罰の関係が贖<アガナ>いによって強く規定され、罰則によって処罰者に負荷を負わせることよりも、罰則の解消を催促することに重きが置かれているように思われる。そしてこのことは、筋目を介してよりいっそうの関係強化を志向したものとも受け取れる。つまり罪は罪として罰するが、そこに岡部のいっそうの奮起を促し、彼がそれに答えることを見守るといった姿勢が見受けられるということである。ここでは制度や機能による処罰によって両者が規定されているというよりも、主従の関係が雨降って地固まる的に強化されることが、望まれているかのように思われるのである。
(注1:以降は、今川氏真文書の没収を「」で、現代語の没収を『』で表す)
この没収に関してさらに興味深いのは、この没収地が岡部元信に還付されるまでの扱いである。
当知行之内、北矢部并三吉名之事
右父玄忠隠居分、先年分渡云々、然者玄忠一世之後者、元信可為計、若弟共彼隠居分付嘱之由、雖企訴訟、既為還付之地之条、競望一切不可許容、并弟両人割分事、元信有子細、近年中絶之刻、雖出判形、年来於東西忠節、剰今度一戦之上、大高・沓掛雖令自落、鳴海一城相踏于堅固、其上以下知相退之条、神妙至也、因茲本領還付之上者、任通法如前之陣番可同心、殊契約為明鏡之間、向後於及異義者、如一札之文言、元信可任進退之意之状如件
永禄三庚申年九月朔 氏真 判
岡部五郎兵衛尉殿(右の父玄忠<ハルタダ>隠居分、先年分け渡し云々、然るは玄忠一世の後は、元信が計りを為すべし、もし弟ども彼の隠居分付嘱の由、訴訟の企てと雖も、既に還付為すの地の条、競望一切許容すべからず、并<ナラビニ>弟両人への割分の事、元信子細有りて、近年中絶の刻<ミギリ>、判形出すと雖も、年来において東西忠節、剰<アマツサ>え今度一戦の上、大高・沓掛自落せしむと雖も、鳴海一城堅固に相踏み、其の上下知を以って相退くの条、神妙の至り也、因って茲<ココ>に本領還付の上は、通法に任せて前の陣番の如く同心すべし、殊に契約為すが明鏡の間、向後において異義に及ぶは、一札の如き文言、元信の進退の意に任せるべきの状件の如し)
(『豊明市史資料編補二』 )注:()内筆者
この書状の後段は、同年6月の氏真書状と同様に、岡部元信の知行地没収と功績による還付についての記載である。しかし同年6月とこの書状の違いは、「弟両人への割分の事、元信子細有りて」に始まってこの件が語られている点にある。この箇所を縮めて言えば、「元信子細有りて、近年中絶の刻」、「弟両人への割分の事」について「判形出すと雖も」、「本領還付の上は」「元信の進退の意に任せるべき」となり、元信本領の没収と還付の間に「弟両人への割分」が判形により実施されていたことになる。また前段の「隠居分」が、「既に還付為すの地」であるとされているので、この「隠居分」も没収対象であったことになるだろう。父親である玄忠の隠居分と元信の関わりが分かりにくいが、この文章全体で述べられていることを整理すると、以下の3点のようになる。
① 父玄忠の隠居分も含めて元信の知行が没収されていたが、桶狭間合戦における鳴海城守備の功績で還付された。
② 還付地に元信の弟たちが関わっており、それがために彼らが訴訟を企てるなどの異議を唱えることが予想される。
③ 「隠居分」は「競望一切許容すべからず」、「弟両人への割分」は「元信の進退の意に任せるべき」だと氏真が命じている。
先に(没収-功績-還付)が一連のセットをなすと述べたが、ここではそれが、(没収-割分-功績-還付-異議・訴訟)というプロセスに変容している。岡部元信と今川氏の間で発生していた(没収-功績-還付)に、元信の弟たちの(割分-異議・訴訟)が加わっているのであるが、弟たちが訴訟に及ぶ原因がここから抜けている。そしてそれを補うのであれば、(割分-没収-異議・訴訟)というものになるであろう。元信への還付地が「割分」されていたということは、没収によって元信から取り上げた知行地を、今川氏が弟たちへ給付したということを意味する。そしてその弟たち給付地が再び元信へ還付されたということは、その給付地(=還付地)が取り上げられ、その上で今川から元信へ戻されたことを意味する。したがって、岡部元信からみての没収地還付は、その没収地を給付されていた弟たちにとっては没収として現れているのである。そして『没収』は正当な行為なのであるから、元信側に処分される罪科があったわけであり、そのことは2通の文書で「子細有り」という文言で示されている。しかしながら、弟たちの給付地が没収されるに当たっては何も示されておらず、ただ元信に功績があったとされるが、兄に功績があったからといって弟に罪科が発生するはずもない。このように還付することが別の没収を発生させるという構図は、今川の施策がそうであったというのではなく、これら文書の解釈が起こしたものであり、それは「没収」を現代語の『没収』と受けとったことに端を発するのである。
さらにこの文中に「本領還付の上は、通法に任せて前の陣番の如く同心すべし」とあるのは、「鳴海一城堅固に相踏み、其の上下知を以って相退く」という事情と合わせると、どうにも違和感を覚える。本領を返したのだから「同心すべし」というのであれば、没収中は同心していなかったということになる。しかしながら鳴海城を堅固に守ったとか、下知を待って退却したとかはその同心ぶりを示すもので、だからこそ「神妙の至り」と評価されたはずである。そうなると、還付前と後で違ってくるのは「同心」なのではなくて、その前の「通法に任せて」という箇所なのだろうか。
知行没収中が通法どおりではなかったとするならば、同心という点では変わりがなかったが、変則的な形態でその間、元信は働いていたことになる。これを「前の陣番の如く」という表現から推測すれば、知行給付にともなう奉公として通法(規則)に則って勤めていたのではなく、規則や命令のないところで、つまり元信自身の判断と意志で行動していたということになるだろう。そしてその自身の判断と意志行動が功績となったということは、知行没収という事態を超えて、元信の判断と意志は今川との同心関係を志向していたということになる。このように「同心」とは、命令と服従の関係に基づくものではなく、目的や意図の自発的共有を示すものだと考えられるのである。
(つづく)