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【談議1】水野氏と戦国談議(第十五回)

人と地、そして質

                                                        談議:江畑英郷

 水野青鷺氏が投稿された『東粂原村と水野十郎左衛門成之』では、本談議の第十回で触れた所領の分散性と零細性に相応すると思われる「相給」の具体例が、水野十郎左衛門成之の知行地に示されていた。今回は、水野青鷺氏が追加で掲載した「遠江国佐野郡高御所村相給図」を出発点として、所領の根底にあって時代を既定していた力について考えてみたいと思う。
 この図には旗本城氏領、横須賀藩西尾氏領、旗本近藤氏領が描き込まれており、この高御所村ではこの三氏が「相給」状態にあったことが実にビジュアルに見てとれる。そして同一村で三氏、それも旗本と横須賀藩主とがそれぞれ知行を得ているのであるが、村全体がきれいに三分割されているわけではない。かといってまったくの混交状態といったわけでもなく、三氏の所領はあるまとまりのある分布となっている。
 図は南北が逆になっているが、南から北に二筋の河川が描かれている。またその両河川からは黒の細線がくねって延びているが、これは用水であろうか。さらに河川の東に二つの溜池らしきものがあり、所領の印は基本的にこの河川・用水・溜池に沿ったかたちで分布している。そして右の二つの河川に沿った一帯は横須賀藩西尾氏の所領となっており、あと二つの溜池の間が西尾氏所領の印となっている。一方で旗本城氏の所領は、西側の河川から延びる用水に沿って広がるものと、その隣河川の用水に沿って分布するもの、さらに西尾氏の所領を越えた先のやはり用水沿いに所領の印がある。そして旗本近藤氏のものは、東側の幅の広い河川から真東方向に延びる支流に沿って分布している。
 こうしてみると、この一帯でおそらく最初に開拓されたのが引水の便が良い二河川と二池の間の田畠であろう。真東に延びる支流沿いの田畠はやや分散的で東に長く分布する格好となっているため、二河川・二池近辺が開かれた後に耕地化したと考えられる。そして最後は用水をめぐらせて開拓した地域となったのではなかろうか。この三氏の所領は、こうして想定される耕地の開拓順と重ね合う分布を示しており、それからすると一村という枠組みの中にある三つの異なる経緯をもつ領域を分割知行しているのである。
 「遠江国佐野郡高御所村相給図」は横須賀藩主と二人の旗本の相給地を描いているが、相給が一村でありながら異なった結合を持つ三つの地縁から成り立っていることをこの図は教えるのである。知行地は地元における地縁に規定され、その布置をなぞるようにして宛て行なわれる。地縁というもの事態は自らその輪郭を顕わさないが、その地縁に吸引されたように成立する知行によって地縁が透けてみえているのである。

 水野十郎左衛門成之の知行地は、「久米原村領主変遷図」からすると、天領から水野家、そして不行状によって十郎左衛門成之が切腹させられた後は再び天領へ移り、その後三つに分かれることになった。知行地はこのように転々と変わるのであるが、田畠とそこに生きる百姓は変ることがない。

 やがて江戸時代になると、魚沼地方の人々は、
  ①御地頭は当分の儀、私共の儀は所末代の儀、  (南魚沼郡、寛永十八年=一六四一、県史近世)
  ②御地頭は当分の儀、百姓は永代の者、     (津南町、寛文十年=一六七〇、県史近世)
と冷やかにいい切っていました。①も②もじつによく似ていて、領主はすぐいなくなる転勤族(よそ者)だが、われわれ百姓はゆるぎない土着者だ、というのです。

(藤木久志著『戦国史をみる目』)

 「御地頭は当分の儀」であることと、「百姓は永代の者」という二項対立には、地頭と百姓では土地・耕地に対する関わりが根本的に違うのだという主張が込められている。この認識は、土地・耕地とそれをめぐる編成の主導権は永代の者にあるのであって、知行者は編成に口を出すべきではないという主張を秘めているように思われる。こうしたことが、「遠江国佐野郡高御所村相給図」に現れた相給の背後にあり、それは知行を宛て行う側の意図や都合によるものではないと考えるのである。一方で、「久米原村領主変遷図」では、十郎左衛門成之改易によって天領となっていたものが、その後三つに分割されている。このことは地元の編成によったというよりは、幕府側の意図が働いたように思え、近世が進むにつれて地元主導の編成にも領主の操作が入ることとなったのだろう。

 水野青鷺氏は、「本談議の給知の時代からは、かなり時代が降っており、本談議とは大きく離れ、殆ど関係ない」と気遣っておられるが、近年の動向は戦国期と近世初頭の連続性に対する指摘が拡がりをみせているように思う。特に戦国期と近世の転換点として太閤検地を位置づけるのが従来であったが、「概して近世初頭においては太閤検地なるものは、画期性を帯びて行われなかったことが明示された」(『中世・近世土地所有史の再構築』)といった見解が多く出されるようになってきている。
 ところで、『東粂原村と水野十郎左衛門成之』で取上げられた水野十郎左衛門成之は、江戸初期に旗本奴として名を馳せたのであるが、尾張知多郡小河の水野惣領家の系譜を引く人物である。成之の父勝成は刈谷城主であった水野忠重の長男であり、そしてこの忠重は小河の水野信元の弟で父は忠政ということである。そして旗本奴、かぶき者の十郎左衛門誕生のおよそ八十年前、当時「大うつけ」と呼ばれていた男が、知多の水野領における商人たちの保護措置を周囲に命じていた。天文二十一(1552)年三月に執り行われた父信秀の葬儀から半年ほど経った時点で、織田信長は次のような印判状を記している。

智多郡并に篠嶋の諸商人の当所守山往反の事は、国質・郷質・所質并に前々或は喧嘩、或は如何様の宿意の儀ありと雖も違乱あるべからず候、然らば敵味方を致すべからざるもの也、仍って状件の如し、
  天文廿壱
   十月十二日                         信長(花押)
    大森平右衛門尉殿


 (知多郡と篠嶋の諸商人が守山を往来するに当たっては、国質・郷質・所質や前々からの喧嘩、あるいはどのような宿意があるからといって、これを妨げ騒動を起こすことがあってはならない。これに従うならば、敵味方分かれて争うようなことにはならない)

 この史料については、『織田信長文書の研究』(奥野高広著)に次のような解説がある。

 「知多郡」と篠嶋(知多湾上の島。面積七平方粁。漁業の島)の商人が守山(名古屋市守山区)に往来するについての自由を保証した判物である。国質・郷質・所質(くにじち・ごうじち・ところじち)についてはまだ明確な解釈がついていないけれども、貸借関係で債権者が債務の弁済をもとめることができない場合には質物を取上げるとの契約のことのようである。それらの違乱を禁じ、もちろん敵味方の戦いをしてはならないとした。大森平右衛門尉は、今の守山区大森の出身で、信長の「知多郡」の郡代であったろう。

 判物中に「当所守山往反の事」とあるが、この「当所」は大森平右衛門が守山に在住していることを前提に挿入されたと理解させるので、大森が知多の郡代であるというのは頷けない。また知多郡には水野氏の勢力が大きく伸びており、弾正忠家がこの地に郡代を置くような立場にもなかったように思う。当時の状況からすれば、知多郡内における商人の通行保証は水野氏が行なうべき領分であり、知多郡を抜けて北に向かい当時市域として発展していた守山への通行に関する保護措置として受け取るのが妥当ではないだろうか。この判物が出された二年後、この守山の地を領する信長の伯父信光と信長は、小河城の北二キロメートルほどの村木に構築された今川方の砦を攻略することになる。この判物にそれと名前は出ていないが、信長、信光、信元の三者を結びつける兆候を帯びているようで興味深い。

 さて、この判物で注目したいのは、奥野氏が「まだ明確な解釈がついていない」とした「国質・郷質・所質」についてである。実はその後、この「国質・郷質・所質」については明確な解釈が与えられている。

 勝俣鎮夫は、従来の研究史で諸説紛々として定まらなかった「国質・郷質」なる中世用語について、初めて明快な理解を示した。それによると「国質とは、債権・債務関係において、債務者が債権者の負債返還要求に応じなかった際、債権者がその損害賠償を求めて、債務者の同国人又は同国人の動産を差押さえる行為で、郷質とは同じく、債務者と同郷の者又は同郷の者の動産を私的に差押える行為」にほかならない。
 この場合の同国・同郷とは律令制以来の国・郷の概念にもとづく。しかしそのような国・郷の概念がよみがえってくる背景には、惣村の成立とそれを基盤とする大名権力による領国制の展開がなければならない。そのような新たに出現した「社会的結合の相互関係における強い一体観」を前提にしてこそ、債務の当事者ではなく、その当事者と同国同郷の者の人身あるいは動産を差押えるという無茶な行為が意味をもってくる。

(渡辺京二著『日本近世の起源』)

 奥野氏が「国質・郷質・所質」の「質」を貸借関係と理解している点は、勝俣氏の指摘と同じものであるが、「質」の語の前に国・郷・所と一定の土地空間が結びついていることにまったく言及できていない。一方の勝俣氏は、債務対象を債務者個人からこの土地空間内に含まれるすべての人々に拡大させるという斬新な解釈を持ちだした。債権者は「債務者の同国人」「同郷の者」を債務者の縁者として捉え、その縁者を債務者と一蓮托生の間柄と規定して、その「者の動産を私的に差押える行為」の根拠としたのである。この勝俣氏の「国質・郷質・所質」に関する解釈は、奥野氏のそれより国・郷・所の関わりが説明できている点で優れたものであるが、この国・郷・所は具体的に何を指すのであろうか。
 渡辺氏は、「この場合の同国・同郷とは律令制以来の国・郷の概念にもとづく」と述べているが、「所」も「律令制以来」の概念だと言うのだろうか。勝俣氏は「所という言葉は、当時、村の領域区分のヤマ・ノラ・ムラのムラにあたる聚落をさす言葉として一般的に使用されている」と述べている。村の聚落であれば、債務者の縁者、一蓮托生の間柄としてみることも可能であっただろう。しかし「律令制以来の国・郷」となると、縁関係を想定するには広域過ぎる。おそらく「郷」は「所」が複数結合した単位であり、「国」は国衆・国人といった用語が示す領域をあらわすものと思われる。
 
 山城国における国一揆といえば、普通、一四八五(文明十七)年に起こった、南山城(相楽郡など)でのそれを思い起こす。しかし西岡でも十五世紀末以降、住人の自治的な結集がみられ、彼らはみずからのことを「国」と名乗った。

(『戦国時代、村と町のかたち』仁木宏著)

 ここでは「西岡」という地域が、その住人によって「国」と称されていたことが示されている。この西岡は山城国にあって、「向日市・長岡京市の全域と、京都市南区・西京区、大山崎町の一部からなる」地域である。およそ一辺が六キロメートル四方の大きさと思っていいだろう。そして仁木氏は、「西岡とは、村々の集まりであり、それが街道・用水など、住人の生活に密接に関連した要素によって結びついている地域社会」であり、単なる行政上の区画とは本質的に異なると述べている。このように国・郷・所というのは、実態的で有機的に人々が結びついている地域を指す言葉として理解すべきだろう。
 さてここで、この「国質・郷質・所質」が発生している構図について考えてみよう。「質」は貸借と理解され、ここでは守山の住民が債権者とみなされる。そして債務者は知多郡と篠嶋の住人と理解できるだろう。するとまず知多郡や篠嶋の住人と守山の住人の間に貸借関係が発生しており、「債務者が債権者の負債返還要求に応じなかった」という事態が次に起こっていたことになる。そしてその債務不履行が深刻なものであったがために、債務者と同国か同郷か同所の商人が守山を訪れた際に、債権者がその身柄か商品を差し押さえたということになる。
 勝俣氏によって示されたこの構図は、特定個人の債務不履行という問題が無差別的に該当地域住民に向って拡がっている点で特異なものとなっている。債務不履行は、あくまで債権者と債務者という個人間の問題である。それが債務者と同地域に居住しているというだけで他人に転嫁されているのであり、それはまったくの不条理というものだろう。しかし勝俣氏はこの不条理に対して、それが可能であったのは「社会的結合の相互関係における強い一体観」があったからだと説明する。この「一体観」という言葉は、地域社会の一体性に対するこの時代共通の観念という意味であり、「国質・郷質・所質」においては債権者側の見方を指していることになる。しかし勝俣氏が指摘したこの構図は、信長の命令書に現れた「国質・郷質・所質」を的確に説明しきれていないように思う。以下では信長の命令書に従って、「国質・郷質・所質」の意味するところの構図を掘り下げてみよう。

 信長はこの命令書において、債務者本人でない者の身柄・動産を差押えることを禁止したようにみえるが、そうした強硬措置の原因となった債務不履行については何も言及していない。債権者の無差別的な強制補償措置はかなり乱暴な対応ではあるが、事の発端は債務者側の債務不履行にある。返すべきものを返さなかったがために強制補償措置がとられたのであり、その債権者側の対応を禁止するだけで、債務者側の不履行を棚上げしているとしたならば、信長の命令書も片手落ちなものだったことになるだろう。
 この命令書は、「国質・郷質・所質」に続けて「或は喧嘩、或は如何様の宿意の儀」と騒動の元となるものを並べあげ、「違乱あるべからず」としている。そして「然らば敵味方を致すべからざるもの也」と結んでいるのであるが、この箇所はどのように解釈すべきであろうか。たびたびこの談議に対してコメントを書いてくれている高村氏は、「それを受諾するなら、政治的な理由で敵味方分けることはしない」(『歴探』)としている。(補記1参照)この解釈であると信長が「敵味方分ける」ことになるが、貸借の紛争や喧嘩の当事者に対して信長が敵としたり味方としたりするというのは意味が通っているとは言えないのではなかろうか。また奥野氏は「もちろん敵味方の戦いをしてはならない」と受けとめるが、ここでの「然らば」には「もちろん」という意味はない。この「然らば」は「それならば」あるいは「それでは」といった意味で、「先行の事柄を受けて、後続の事柄が起こることを示す」(小学館『国語大辞典』)語である。高村氏は「それを受諾するなら」と約すが、こちらの方が正解だろう。先に原文(読み下し文)を掲載したところでは、「これに従うならば、敵味方分かれて争うようなことにはならない」と約しておいた。この解釈では、敵味方分かれるのは貸借紛争や喧嘩の当事者どうしであり、それを信長は諌めているという構図になるのである。
 この命令書を「国質・郷質・所質」に絞ってみると、「国質・郷質・所質」「ありと雖も違乱あるべからず候、然らば敵味方を致すべからざるもの也」となる。「国質・郷質・所質」があっても「違乱」があってはならないという言い方は、「国質・郷質・所質」自体は「違乱」ではないというように読める。同様に「喧嘩」や「宿意」自体も「違乱」ではなく、それらは皆「違乱」が起こるきっかけとして扱われているのである。そしてこの「違乱」は、領主である信長からみて、定めに違反し秩序を乱すことなのである。そして「違乱」がなければ「敵味方を致す」ことがないというのであるが、「喧嘩」や「宿意」の当事者は初めから敵味方である。そうすると「違乱」を介して敵と味方に分かれるのは、その周囲の者たちということになる。ここに個人間の争いが、地域間の紛争に発展することが示されているのであり、信長はそれがために「違乱」を禁止しているのである。
 信長がこの命令書によって問題としたのは、単なる個人間の「喧嘩」や「宿意」による争いではない。それがエスカレートして地域間紛争に発展し、それによって商人の往来に支障が出て商業発展が妨げられることを危惧しているのである。「国質・郷質・所質」もこの理解で考えてみると、知多郡の債務者が債務不履行を起こし、いくら要求しても返済しようとしないので強硬措置に出た。たまたま守山を訪れた知多郡の商人の身柄か商品を差押えたのである。この「違乱」がきっかけとなって、守山住人集団と知多郡住人集団が激しく争った。そんなことが頻発していたのであろう。そこで信長が「喧嘩」や「宿意」に加え、「国質・郷質・所質」を「違乱」の原因に指名したのである。
 勝俣氏の解釈であると、「国質・郷質・所質」の「質」を質取りと受け取ってそれ自体が違乱のようにいうが、信長の命令書では「国質・郷質・所質」は違乱の原因である。しかし「国質・郷質・所質」が違乱でないのであれば、ここの「質」とは無茶な質取りのことではないことになる。ここで「質」という語に注目してみると、担保という意味の他にこの語には「質す(ただす)」という意味がある。この意味に沿ってこの事態を考えてみると、債務者を抱える地域に対して、「借りたものを返さない者がそちらにいるが、これをどう思うか」と詰め寄る行為となる。地域の者が起した不祥事を、その個人ではなく地域に対して質すのである。なぜならば個人が自分で起した不祥事を解決できないからであり、より大きな解決力をもった地域にその代行を迫ることのほうが有益だからである。
 これとは別に「国質・郷質・所質」自体を違乱とした場合、債権者側だけが地域に一体性を観ているという奇妙さが生まれる。守山の債権者が同地域というだけで無差別的な質取りをしたのは、債務者と同じ地域に居住している者は一蓮托生であると認識していたからである。そしてこの認識が正しいものであり、知多郡の居住者が同様の認識をもっていたとするならば、このことで激しい地域間紛争が起こりえるであろうか。この点で守山側と知多郡側の認識が同じであれば、知多郡側では守山の対応を暴挙とはみなさないはずである。そして争うことよりも、地域住民が起こした債務不履行という不祥事を解決することに精力を傾けるのではないだろうか。したがって、「国質・郷質・所質」が無茶な質取りであるならば、それの根拠となった「一体観」は守山住民だけのものであり、知多郡住民にはそのような観方はなかったことになるのだが、これはどう考えてもおかしなことである。
 ところで、「国質・郷質・所質」には国・郷・所という地域呼称が含まれるが、これは貸主と借主の居住地域が異なることを意味し、この貸借が遠隔地間のものであることを示すものである。信長の命令書における守山と知多郡や篠嶋も、実際にそれなりに離れている。そうした遠隔地間の貸借は信用が成り立ちにくいものであろうと思われるが、この命令書が示すように実際のところ貸借が成立しているのである。ここに個の問題を集団で解決するという構造をもってくれば、この遠隔地間の信用の裏づけに、地域がそれを保証するという前提が組み込まれていた可能性は大いにあるだろう。しかし保証ということで、現代の連帯保障のようなものを考えるのは正しくないと思われる。なぜならば、この地域信用保証は連帯保障のような制度ではなく、人々が自ら生み出し支え続けている慣習であると考えられるからである。
 このようにしてみると、「国質・郷質・所質」は、個人が起した問題であってもその住民を抱える地域が自ら解決に動かねばならないという観念が、この時代に広く行き渡っていたことを示すものなのである。守山の貸主はその観念によって知多郡の借主を信用し、そこに遠隔地間の貸借が成立した。しかし知多郡の借主は返済に行き詰ってしまい債務不履行が発生したが、これに対して知多郡の人々が解決に動こうとはしなかった。そこで守山の貸主は、たまたま同地にやってきた商人の身柄か商品を差押えたが、それは知多郡住民の債務不履行解消への動きを促すためであった。しかしそれでも知多郡側は従来の慣習から離れてしまっており、事態がもつれて守山と知多郡の間における紛争に発展してしまった。こうした事態の頻発をみて、信長は大森平右衛門に先の命令書を出したということなのだろう。

 江戸初期の「相給」は、幕府や藩がその家臣に知行を給付したものでありながら、地元事情における地域編成に重ね合わせるような給付地分布をしていた。このことは幕府や藩が基盤としたのが、それぞれの経緯と事情をもった地域社会であったということを示すものだろう。また久米原村が天領、水野十郎左衛門知行、天領、そして天領と久喜藩への三分割と翩々とするのであるが、このことは領主が地域社会に対して恣意的な存在であることを示している。「御地頭は当分の儀」という言葉はその恣意性の表出であり、そのことは百姓の共通理解であったにちがいない。そうであるならば、地元地域は永代の視点に立って自律的にまとまる必要もあったであろう。また「国質・郷質・所質」という歴史用語は、地域に「社会的結合の相互関係における強い一体観」が存在していたことを示すものであるが、さらにこの用語の分析によって、地域どうしがある種の共通認識で結ばれていたことも見てとることができた。その一方で、「国質・郷質・所質」という従来からの慣習が違乱となるに及んで、その地域連帯に異変が生じつつあることが示されていたのである。
 生産と消費と居住という生存のすべてを一点に抱え込んでいた地域、それは現代では遠い存在であるように思える。「国質・郷質・所質」に現れている「一体観」にしろ、結びつきにしろ、わかるようでいてやはり現代人には理解しきれないものがある。同じ地域の住民だからというだけで、突然身柄や動産が差し押さえられるようなことは現代では起こりえない。現代においてそれは紛れもない不条理である。それが地域の一体性に吸収され、むしろ地域の主体的対応の欠如が問われているなどとする観念は、現代からみれば実に特異なものであり、個と集団が曖昧なカオスであると受け止められるであろう。しかしそれがどこかで、それは戦国期、この「国質・郷質・所質」という用語が違乱とともに語られるようになった時期だと思うが、変質をして現代に至っているのである。
 現代の我々には無差別的な差押えをした守山の債権者の行為が特異にうつり、債務者を抱える知多郡側は単なる被害者のようにみえてしまうが、当時においては事情は反対で、個の不祥事を進んで解決するよう動かない地域が特異なのである。戦国大名や江戸時代の幕府や藩の統治のもとで自律的な存在であった地域住民集団は、中世後期にある重大な変質を遂げているようであるが、現代の我々にはそのことが理解できない。それは勝俣氏がいう「一体観」というものが、現代ではほぼ完全に喪失しているからなのかもしれない。かつての「一体観」がわからなければ、その変質も理解できないのであり、その一体性の外側にあって住民を見ていた領主の視線でしか、我々はこの時代を捉えられていないのではないかと思うのである。

(補記1)
 高村氏のサイト「歴探」には、戦国期の関東・東海の史料が多数(400点を超える)掲載されている。現代語訳がついているので大変参考になるが、今回も利用させていただいた。アドレスは、 http://rek.jp/ 。

by mizuno_clan | 2009-06-07 11:10 | ☆談義(自由討論)