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【談議1】水野氏と戦国談議(第十七回)

中世貸借と資本主義
                                                          談議:江畑英郷

 前回は、土地そのものの売買と職=知行の売買が識別される一方で、土地そのものの売買と質入れの区分が曖昧であったとの勝俣鎮夫氏の指摘について、売買・貸借・贈与の関係から考察してみた。竹二十本の贈呈に対する信長の礼状については、さまざまなコメントをいただいたが、贈与の社会的な働きを媒介にしてそれなりに売買と貸借の本質がみえてきたように思う。前回含めて今後焦点を当てたいと思っているのは、現代用語としての「売買」や「貸借」で、中世社会の「売買」や「貸借」を捉えることには十分慎重でなければならないということである。「売買」「貸借」とは社会の基本となる交換概念であるが、中世・戦国期と現代における語の用法にズレがあることが秘めている意味は決して小さくないと思われる。今回は貸借について、この点をさらに掘り下げてみようと思う。

 中世の貸借を考える場合、避けて通れないのが永仁の徳政令である。鎌倉幕府が永仁五年(一二九七)に制定したこの法令は、御家人が売却所領を無償で取り戻せることを規定した条文が有名であるが、それとは別に貸借に関する規定条文を含んでいる。

 一、利銭出挙の事
 右、甲乙の輩要用の時、煩費を顧みず負累せしむるにより、富有の仁その利潤を専らにし、窮困の族いよいよ侘ていに及ぶか。自今以降成敗に及ばず。たとえ下知状を帯し、弁償せざるの由、訴え申す事あるといえども、沙汰の限りにあらず。次に質物を庫倉に入るる事、禁制に能わず。


〔「侘てい」の「てい」は漢字であるが、テキスト形式で保存できない難漢字であるためひらがなとした。「侘てい」の読みは「たてい」であり、その意味は「おちぶれること、窮乏。失意」(岩波書店『広辞苑』)である。〕

 この条文の現代語訳を、笠松宏至氏の『徳政令』から転載する。

 目先のことだけしか考えずに借金をするから、金持ちはますます富み、貧乏人はますます貧しくなる。今後は、もし債権者が債権取り立てを訴えてきても、幕府としては一切これをとりあげない。債権確認の安堵状をもっていても同じだ。ただし、鍋釜着物といった零細な質物で金を貸す質屋は、この法令の対象としない。

 笠松氏はこの現代語訳に続けて、この条文について次のように述べている。

 この第三条について注意しておかねばならない点が二つある。一つは、条文が「甲乙の輩要用の時」と書き出していることによって明らかなように、借り手をむしろ御家人以外の者に想定している点である。もちろん借り手から御家人を排除したわけではないが、前条が「御家人ら侘ていの基なり」と書き出して、売り手を御家人に限定していたのとは大きく違っていた。
 その第二は、「これからは金の貸借は禁止だ」とか「これまでの借金は棒引きだ、返さなくてもいい」とはちっともいってはいない。いっているのは「これからは、借金を返さないから怪しからん、と訴えてきても、幕府は知らない」としている点である。「知らない」と私が訳した原文は「沙汰の限りにあらず」であるが、これに類した表現は徳政関係の幕府法に頻出している。

(『徳政令』)

 笠松氏がここで前条と言っているのは、御家人はその売却地を無償で取り戻せるとした「質券売買地の事」を指している。この永仁五年の徳政令は、御家人救済のために発布されたと言われるが、「利銭出挙の事」ではすべての人々が対象であった。そしてそこで幕府が開陳したのは、「弁償せざるの由、訴え申す事あるといえども、沙汰の限りにあらず」であった。それは何かを命じているのではなく、「幕府は知らない」という非関与宣言だったのである。「知らない」という言葉は、幕府という統治機関として無責任な対応と捉えられるが、笠松氏は次のようにその戸惑いの思いを述べている。

 では、買った所領を現実に知行できない。貸した金が返ってこない、そういってきても幕府の裁判機関は一切とりあげない、こういうことを法できめる実際的な効果はどうなのか。そう疑問をもたれるであろう。実をいうと私にもよくわからない。それはつきつめていえば、中世の私的契約は、誰の力で、どのように保証されていたか、それがわからないからである。
(『徳政令』)

 笠松氏はこの条文について、注意しなければならない点を二つ指摘したが、実は三つ目が存在する。それは「利銭出挙の事」という条文タイトルが示しているのが、利子付貸借についての規定(宣言)であるという点である。この点について井原今朝男氏は、『中世の借金事情』で次のように述べている。

 永仁五年(一二九七)の幕府法で、無利子の借米をめぐる紛争はこれまでどおり幕府法廷で紛争処理がなされ、利子付借金の出挙・利銭・負物をめぐる紛争は幕府法廷ではとりあげられないことになった。したがって、一二世紀末以降の幕府裁判史料を分析しても、利子付借金や負物をめぐる事件はみられなくなる。中世社会では、無利子の借金が広がりをみせていった。

 条文タイトルにあるように、「沙汰の限りにあらず」の対象は「利銭出挙」であり、利銭(りぜに)や出挙(すいこ)は中世の代表的な利子付借金なのである。これに対して無利子の借金には頼母子(たのもし)などがあるが、幕府はそうした無利子貸借の訴訟までも「知らない」と宣言したわけではないのである。鎌倉幕府は、無利子と利子付による借金訴訟の扱いを差別し、利子付貸借については審理の門戸を閉ざすが、無利子貸借についてはこれまでどおり民間の借金に関する紛争解決をはかるとした。こうした差別の背景には、「利銭出挙」について違法だとか犯罪だとかまでは言わないが、幕府が描く借金像の範疇からはずれているという認識があったのであろう。
 このような利子付貸借に対する裁判審理からの排除には、「富有の仁その利潤を専らにし、窮困の族いよいよ侘ていに及ぶ」という社会の貧富の格差が理由して掲げられた。借金は人びとの生活に不可欠であるのだが、それは無利子貸借で賄われるべきだというのであろう。利子付貸借は、他者に貸与するだけの物持ちである貸主をますます富ませ、その一方で借金をしなければ生活が成り立たない借主をますます困窮させる。貧富の格差は是正させなければならない。この条文が御家人だけを対象としたものでないだけに、社会の貧富格差の増大が社会不安につながるという認識を幕府が持っていたことを窺わせる。
 しかし利子付貸借の訴訟を幕府が受理しなくなると、それによって困るのは誰なのだろうか。この条文が貧富の格差是正を志向したものであるならば、それは貸主ということになるであろう。貸借に関する訴訟が受け付けられないと、正当な第三者による紛争解決がなされないことになるが、このことは結局現状維持、すなわち借り手が借金を抱えたままという状態が継続することになる。したがって幕府の「知らない」は、借金を返さない状態を黙認することになり、借主側に有利に働くことになるのだろう。
 これについては笠松氏が、同書で「寄沙汰」というものを取り上げて借主側の反撃を次のように記している。

 寄沙汰というのは、何かの訴因をもつ者、たとえば返してくれない貸金を取り立てたいと思う者が、自ら当事者となることなく、これを第三者に委託する(沙汰を寄せる)。委託をうけてこれを受託した(沙汰を請取る)者が、以後本人に代って訴訟を遂行し、たとえば貸金を取り立てる、そうした中世の、それも前期に特有の現象のよび名だった。

 この寄沙汰にはかなり乱暴で悪質なものが多かったようであるが、裏を返せばそれだけ貸金の返済が滞っていたということである。さらに笠松氏は、「寄沙汰の結果、かりに目的を達したとしても、その成果の大半は寄沙汰実行者たる山僧・神人の手に奪い去られることを百も承知しながら、なおかつ沙汰を寄せなければ」ならなかっと述べている。寄沙汰に頼ったとしても、やはり貸主に幕府の「知らない」は不利であったのである。現代社会からみると、利子付貸借が不利になるような法令を出すことは社会の貸借を縮小させ、結局困窮する人々から貸借の機会を奪ってしまうことになりかねないように思われるが、この点はどうなのであろうか。

 中世では、無利息の消費貸借を「借物(しゃくもつ)」、利子付消費貸借は「負物(ふもつ)」といい、両者を明確に区別していたことが指摘されている。
(『中世の借金事情』)

 中世社会においては、利子の有無によって「借物」と「負物」という言葉が使い分けられていたと井原氏は言うのであるが、現代社会にはこれに相当する言葉はないように思う。この用語の相違は、利子の有無が社会において注目すべき観点になっているかどうかに依存しているのであろう。中世社会ではこの識別が人々にとって重要であったのであるが、現代社会では無利子貸借というものは例外的なものという認識があるために、「借物」に当たる言葉が存在していないものと思われる。今日において無利子貸借は、ごく親密な間柄での貸し借りなどに現れるものであり、一般的な経済行為とはみなされていない。それが中世では独自の「借物」として通用していたのであるから、決して例外的なものではなく、鎌倉幕府などは負物が減少することが社会をよりよくすることだと考えていたのである。したがって、利子付貸借が縮小したところで、その分を無利子貸借がカバーする可能性は十分あったのである。

 中世社会においては、借金が「借物」と「負物」に明確に分けられており、永仁の徳政令においては「負物」訴訟が幕府裁判から排除されることになった。このことは、この中世という時代に、無利子貸借が社会に深く浸透していたこと示すものである。しかし現代の我々の視点からすれば、いったい利子が取れないのに誰が金を貸すのだろうか、という疑念を禁じえない。どういった経済構造であれば、無利子の貸借が成立するのだろうか。そして現代社会とは何が違うのだろうか。
 ここで現代の経済学において、利子というものがどのように説明されているのかを確認しておこう。

 資本主義的生産では、貨幣は、生産過程および流通過程に資本として投下されれば、利潤(産業利潤および商業利潤)を、さらに利潤率の均等化が行なわれる場合には、平均利潤をともなって還流する。つまり、貨幣は、産業資本ないし商業資本として運動することによって、平均利潤を生むことができる。だから、ここでは貨幣は、一般的等価物として機能するという属性に加えて、さらに資本として機能し、平均利潤を生むことができるという属性をもっているわけである。(中略)だから利子は、資本主義社会で、機能資本家が貨幣資本家から借り受けた貨幣を資本として機能させて平均利潤を取得するときに、機能資本家がそのうちから貨幣資本家に引き渡す部分であり、したがって実体は余剰価値にほかならない。
(『社会経済学』大谷禎之介著)

 ここで大谷氏は、利子は剰余価値にほかならないと述べている。貸主(貨幣資本家)から借金をして、その金を「産業資本ないし商業資本として運動」させること、つまり原料や製品の購入費用に当て、原料から製品をつくりそれを販売する、あるいは購入した製品を転売することによって「利潤(産業利潤および商業利潤)」を生むことができる。そして経済学では、この借主(機能資本家)が得た利潤の一部が貸主に還流されるとして、その部分を利子と規定しているのである。「実体は剰余価値」だというのは、機能資本家が得た製品の売却価格から借金を差し引いた残余の意味であり、その残余を借主と貸主が分け合うと理解するのである。
 経済学的には、利子は「資本主義的生産関係」の下で発生する。つまり借金は「生産過程および流通過程に資本として投下」されるのであり、そのプロセスから発生した利潤の一部が利子として貸主に還元されるのである。その点で借金は貨幣であり、貨幣は資本なのである。そして資本主義における「資本」は、利子を生む出す独自の働きをする。
 
 最初に貸し付けられた価値は、流通するなかでその価値を維持するだけでなく、その価値を大きくし、剰余価値を付け加える。つまり価値増殖をするのである。そしてこの運動が、この価値を資本に転化するのである。
(『資本論』カール・マルクス著)

 ここで史的システムとしての資本主義と呼んでいる歴史的社会システムの特徴は、この史的システムにおいては、資本がきわめて特異な方法で用いられる-つまり、投資される-という点にある。すなわち、そこでは、資本は自己増殖を第一の目的ないし意図として使用される。このシステムにあっては、過去の蓄積は、それがそのもの自体のいっそうの蓄積のために用いられる限りにおいて、「資本」となったのである。
(『史的システムとしての資本主義』ウォーラーステイン著)

 資本は自己増殖する。この原理に従うならば、資本の所有者にはその増殖分が帰属することになる。貸借の場合は、資本の所有者は貸主(貨幣資本家)である。したがって貸主は、資本の増殖分を利子として受け取る当然の権利がある。このことは我々が銀行に預金して、その預金についた利子を受け取る行動に示されている。それは預金の利子を銀行から受け取るたびに、我々はこの資本の自己増殖という原理を再確認しているといってもよいだろう。現代に生きる大多数の人々が疑いもせずに預金利子を受け取っているのであるから、資本の自己増殖は揺るぎない経済の原理なのである。

 大谷氏の『社会経済学』における利子の説明は資本主義社会におけるものであり、資本の自己増殖は資本主義経済の原理に他ならない。利子は資本の自己増殖によって発生する利潤の一形態であるから、資本主義社会では資本の所有者に利子は帰属する。貸借における資本の所有者は貸主であるから、当然利子が貸主に支払われるべきだという論理なのである。したがって、現代の資本主義社会では利子付貸借が基本であり、無利子貸借は資本の貸出しではないとみなされ、それは経済行為とはいえないのである。そうであるならば、「借物」という無利子貸借を示す専用の用語があり、ときの統治機関が利子付貸借を排除するような社会は資本主義社会ではないことになる。
 中世社会は資本主義社会ではない。おそらくこのことは別段何の新たな意味も持たず、当然のことと受け取られるであろう。しかし中世社会にも売買、貸借、そして市場も存在した。

 少なくともこれまで用いられてきた意味での「封建社会」の規定では到底、包摂し切れない実態を持っていることはまず間違いない。そこには商業、金融等の流通、信用経済を支える、いわゆる「市場原理」がある程度、貫徹していたことは明らかで、「資本主義」の源流はおそくとも十四世紀まで遡ってさぐってみる必要がある、と私は考えている。
(『日本中世に何がおきたか』網野善彦著)

 網野氏は同書-中世の商業と金融-において、中世の為替や手形の存在にふれて「十一、二世紀の社会にはすでに信用経済がそれなりに展開」していたなど、商業・金融の発達を指摘している。そうした動向に基づいてこの時代に「“資本主義”の源流」を認めているのであるが、そのことは先ほどの中世社会は資本主義ではないという確認と矛盾してしまう。「源流」であるということを部分的に存在したと解釈し、中世社会は資本主義的な要素と非資本主義的な要素が混在・同居していたという理解でもいいように思うが、それで社会は混乱しなかったのであろうか。いや、混乱していたからこそ徳政令であのような法令が制定されたのだと言うこともできそうだが、そうなると鎌倉幕府は資本主義へ向う流れを阻止しようとしたことになり、時代を逆行させるような保守的な施策であったことになる。そう言ってしまうのは簡単なのであるが、異なる経済構造の混在・同居を安易に認めてしまうのも問題ではなかろうか。

 中世社会は、無利子貸借が今日よりもはるかに大きな比重を占め、無利子の借金が不可欠の経済行為として成り立っていた。このことは中世社会というものが、我々の生きる現代資本主義社会とは大きく異なっていることを示すのであるが、そのことによって我々が獲得しているはずの「所有」「売買」「貸借」「利子」などの経済概念は、そのままでは中世社会の説明に使用できなくなっているのである。この経済活動を語るための基礎用語が使えないということは、現代社会と中世・戦国社会に知の断絶があるということである。「貸借」という用語と「借物」と「負物」という用語を橋渡しするには、その用語の存在を知っただけでは不十分であり、無利子で金を貸すという経済行為が解き明かされる必要がある。無利子では、金を貸しても経済的には何も貸し手にもたらさず、貸した金が返ってこないというリスクがあるばかりである。どうしてそのような貸借が存在するのか。しかしながら、貸し手が無利子貸借から何もえられていないことはありえず、それはこの行為の本当の意味に理解が到達していないことを示しているのだろう。そしておそらく「所有」や「売買」においても同様で、社会の根本の部分で現代を投影してしまうことで、真の実態が覆われてしまっているのではなかろうか。そしてその真の実態は、呪術的な観念にとどまるものではないと思うのである。

by mizuno_clan | 2009-07-14 21:01 | ☆談義(自由討論)