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【談議1】水野氏と戦国談議(第十九回1/2)

袖触れ合うも“多少”の縁

                                                          談議:江畑英郷

栂尾の上人、道を過ぎ給ひけるに、河にて馬洗ふ男、「あしあし」と言ひければ、上人立ち止りて、「あな尊や。宿執開発の人かな。阿字阿字と唱ふるぞや。如何なる人の御馬ぞ。余りに尊く覚ゆるは」と尋ね給ひければ、「府生殿の御馬に候ふ」と答へけり。「こはめでたき事かな。阿字本不生にこそあンなれ。うれしき結縁をもしつるかな」とて、感涙を拭はれけるとぞ。

 これは、吉田兼好の『徒然草』第百四十四段に掲載されている一文であるが、現代語訳は以下のようなものであろう。

 栂尾(とがのお)の明恵(みょうえ)上人が道を歩んでいると、小川で男が「あし、あし」と言いながら馬の脚を洗っていた。上人は立ち止まり、「なんと尊いことか。前世での善根功徳が現世に現れたる人であろうか。阿字阿字(「阿」は梵語の第一字であることから、万物の根源を意味する文字)と唱えているぞよ。どのような方の御馬であろうか、このように尊く思えるのは」と言って男に尋ねてみると、「府生(ふしょう:六衛府および検非違使の下級幹部)殿の馬ですよ」と答えを返した。「これは実にめでたき事である。阿字本不生(あじほんぷしょう:万物の根源は本来不生不滅である)であるようだ。うれしき結縁(けちえん)を成し遂げたのであろうか」と言って、感涙を袖で拭われたそうだ。

 岩波文庫版の注釈には、「栂尾の上人」について次のように書かれている。

 京都市右京区梅ヶ畑高尾町にある栂尾山に高山寺を興した。華厳宗の高僧、明恵上人。後鳥羽上皇・建礼門院に受戒し奉り、また、北条泰時に尊崇された。一二三二年寂、六十歳。『華厳唯心義』『摧邪輪』『阿留辺幾夜宇和』『明恵上人歌集』等の著作がある。

 吉田兼好からみると、明恵はおよそ百年前の人物である。その明恵が、男が「あし、あし」と言っていたのを、「阿字、阿字」と言ったものと聞き間違えた。そして、男が洗っていた馬の持ち主が「府生殿」であると聞いて「不生」を連想し、「阿字」と「不生」から「阿字本不生」を引き出し、それと「結縁」したと受けとめて感涙したという話である。
 この段に描かれた明恵の話は、どう受け取るべきなのであろうか。私は初め、二度も勘違いをして一人合点して感激する高僧のユーモラスな姿を描いたものだと思った。しかしよく考えてみると、小川で馬の脚を洗っている男が、「阿字、阿字」などと場違い、そして不相応な言葉を発するはずもないことは、明恵とてわかっていたはずのことである。しかしそれは意図することなく、「阿字、阿字」と明恵には聞こえたのである。そしてその馬の持ち主が「府生殿」であると聞かされたとき、そこでもごく自然に「フショウ」という音から「不生」が連想されたのであった。そこで明恵は「阿字本不生」との邂逅を果たしたと思い、それを「結縁」として受けとめたのである。
 まったく意図することもなく「阿字本不生」に遭遇したことを、明恵は「うれしき結縁をもしつるかな」と言っているが、この「結縁」とは仏教語であり、「仏道に入る縁を結ぶこと。成仏・得度の因縁を結ぶこと」と『広辞苑』には書かれている。この時点で明恵は上人なのであるから、ここでは「仏道に入る縁を結ぶこと」ではなく、「成仏・得度の因縁を結ぶこと」という意味で使われていることになる。つまり「結縁」は仏道にある者にとって、何にもまして望ましい達成であり、それが最終目標であるということになるだろう。そして明恵は、それを道端で成し遂げた。「阿字、阿字」と言っているはずもないのに、「阿字、阿字」と聞こえてしまったこと、そしてそれに絡めて「フショウ」から「不生」が突然連想されたこと、これを単なる偶然、思い違い、あるいは熱心さが故に何でも仏教に関係づけると理解したならば、おそらくこの挿話は成り立たない。明恵の「阿字本不生」との遭遇は偶然や思いではなく、そこに「縁」が現れたことで達成されたのである。
 明恵は親鸞と同時代の人であるが、真言密教や華厳を学んだことから所謂鎌倉仏教徒とは違うわけで、明恵のような立場にある高僧は、自己の精進とか修行によって成仏・得度を成し遂げるのではなかっただろうか。要するに、自力によって本願を達成するスタイルである。ところが道端の思いも寄らぬ「結縁」ということになると、これは明恵の自力とは離れた「縁」の力、すなはち他力によるものと受けとめられるのである。自力と他力については、仏教理論的に難しい話もあるのだろうが、素朴に考えて真言密教や華厳経を修めた明恵上人のような人物が、果たして道端で出会った他力としか思えない縁によって得度できたなどと本当に思ったのだろうか。この点は、当会に仏教学専攻の先生がおられるので、是非教えを請いたいところである。
 「縁」という語を辞書で引くと、仏語として「広義には結果を引き起こす因。狭義には直接の内的な原因である因に対し、それを外から助ける間接の原因をいう」とある。そして一般的には、「二つ以上のものが寄りついてかかわりを持つ作用」とされる。しかし縁に関するそうした辞書的な意味とは別に、兼好はこの明恵の挿話によって世俗が受け入れている「縁」というのもを鮮やかに示した。兼好はこの段において明恵上人を登場させながらも、道端で偶然出会えるような縁を、聞き違えと連想というごく普通の出来事の中に出現させているのである。このような身近な縁は、今日でも諺として我々の生活の中に生きている。

・躓く石も縁の端(ふと躓いた石にも、何かのつながりがあって、躓きはその現れである)
・縁は異なもの味なもの(男と女のめぐりあい、結びつきというものは、予測のつかないほんとうに不思議なもの、おもしろいものである)
・合縁奇縁(人と人の気が合うのも、合わないのも全て不思議な縁によるものだ)

 現代でもよく使われるこうした諺は、縁とは説明のつかない不可思議なつながりであるというニュアンスを強く持つ。上記の諺以外に、「袖振り合うも多生の縁」というものがあるが、多くは「袖触れ合うも多少の縁」として理解しているのではないだろうか。「多生の縁」というのは、輪廻転生思想を背景として多くの前世でのかかわり合いを示しているのだが、そうした仏教観が除けたところでは、「多かれ少なかれつながっている」という意味で受け取られていることの現れなのであろう。正しくは「多少」ではなく「多生」なのであるが、むしろ「多少」という間違いに世俗の縁に対する理解が透けてみえているのである。世俗的には「つながっている」が縁なのであるが、つながっているということは、Aの存在がBに影響を与えるということである。そしてこの影響の与え方が因果として捉えられず、それゆえに何故そうなるのか理解できず、「不思議な」という表現・感覚になるのだろう。「あし、あし」が「阿字、阿字」に聞こえてしまい、「府生」の同音異義語の「不生」を連想して「阿字本不生」に至ったのが、上人だからとか、日頃から信仰が厚かったからと理解するなら、それは因果的な出会いであり遭遇にはならない。ここではそうした因果によるものではなく、不可知の中から突然紡がれた言葉であったことこそが明恵を感涙させたのである。

 さて、前回において中世の売買が成立するためには、そこに無縁が実現されなくてはならなかったことを確認した。この無縁とは、売買の場である市に売買以外のつながりを持ち込まないこと、そして売買の当事者どうしの間では、つながりが遮断されていることで対等・平等が実現できていることを示すものであった。そしてこの「市」実現のためには、神仏の媒介によって日常性が切断されていたのである。現代の我々は売買を非日常的行為だとは思っていないが、中世においては日常性そのものが売買を妨げるのである。この点から「無縁」ではなく日常的な「有縁」こそが現代からは遠い存在、しかしながら中世世界はそれによって強く規定されていたのだから、その有縁場というものの解明がぜひとも必要となるわけである。そこで今回はこの有縁場というものについて考えてみようということで、まずは「縁」という言葉についてここまで述べてきた。
 中世そして戦国期に人々が生きていた現場は、一部の都市を除けば庄・村であった。そうした村については、本談議の第六回と七回でも触れたが、ここでは村の自検断における我々の想像を超える過酷さについて考えてみることにしよう。

 永正元(一五〇四)年の冬は前年の旱魃のために「村人は深刻な飢饉に直面していた。村人たちは山野に入って蕨を掘り、それを粉にしてかろうじて飢えを凌いでいたが、灰汁(あく)の強い蕨(わらび)粉は一晩河流につけて晒さなければならない。それを連夜盗みにくる者があるので、村人は見張番を立てたところ、盗人は鎮守滝宮の一ノ巫女の子供であった。村人は逃げる子供を追いかけて巫女の家に逃げ込んだ子供とその弟、母親の巫女の三人を殺した。……四十日ばかりたってまた蕨盗人が見付かったが、このときにも、家内に追い込んで家族ともに殺害した。寡婦二人と十七、八の男子と年少の子供たちで、計六、七人にも及んだという」。
 笠松宏至は、「わが国の中世社会には『ぬすみ』に対して対極的な法思想が長期にわたって二つながら存在し続けた」と言う。ひとつは些少の盗みでも死刑、咎は「親類妻子所従に及ぶ」という「在地の村落社会において現に通用していた極めて過酷なルール」であり、この「窃盗重罪観」は荘園本所法にもとりいれられた。もうひとつは「撫民」(ぶみん)の見地から窃盗を「根本軽罪」「指たる重科にあらず」とする公家法、幕府法の「窃盗軽罪観」で、笠松によれば後者は前者すなわち在地の過酷な法実態を何とかして抑制しようとするものであった。支配者に悪と非理を見、被支配者に善と理を認めようとする民衆史観とは逆に、この場合、幕府・朝廷が在地の因習を改めようとする開明的な立場に立っていることは明らかである。

(『日本近世の起源』渡辺京二著)

 村の自検断は、なぜこのように過酷であったのだろうか。幕府法や公家法が開明的であるのに、村の裁きが異様に過酷であった理由について渡辺氏は、「惣村はいわば地域的小国家として乱世を生き抜くために、内部の統制はおのずときびしいものたらざるを得なかったのである」と述べている。しかし乱世に直面しているのは幕府や公家も同じであり、その法の力点が民を慰撫する点にあり、村の裁きだけが内部の引き締めのために過酷であったというのは、何かもっと本質的な違いがそこにあったからなのではないだろうか。
 法というものは、一般に社会の構成員に対する強制力をもった規範であるとされる。惣村においても強制力をもった規範が存在したのだが、それについては「法」とは言わず「掟」と呼ぶのが普通であろう。そして中世においては、この掟が法以上に過酷な罰則を科していたというのであるが、この法と掟とは何が違うのであろうか。
 両者の違いに注目してみるならば、「法」がもつ普遍性に対して「掟」がもつ閉鎖性があげられるだろう。ここで普遍といっているのは、法が誰に対してもどこまでも適用されるという意味である。もちろん法が及ぶ範囲というものはあろうが、法というものには原理的にすべてを覆いつくそうとする普遍志向が内在しているように思われる。これに対して掟が閉鎖的に感じられるのは、法には絶対にないある特性のせいなのではなかろうか。それは「掟破り」に対して科される、追放という処分である。
 法が普遍志向をもつのであるなら、違反者に対しても法の枠内で刑罰を科すことになる。法は自らに対して違反行為があったからといって、その違反者を法の外に放逐することはない。一方の掟においては、掟を裏切った者は掟の枠外へと弾き出される。しかし掟に必ず追放処分があるものだろうかと考えれば、それは必ずそうであると言い切れる自信はない。しかしここで重要なのは、法には原理的に追放処分はないのであるが、掟は往々にして追放処分を備えているという点である。
 規範、決まり、ルール、いずれも「こうすべし」あるいは「これはしてはならない」という行為の秩序づけである。その秩序を形成しようとする作用自身は、その形成の貫徹に邁進する。つまり規範で世を覆い尽くそうとするのである。そして「これはダメだ」と禁止を指定したならば、それに対する違反者を見過ごさない。つまり違反を暴き、違反の重さを測り、違反に相応する罰則を科し、その秩序の遵守者へと仕立て上げる。どうにもならない者でも決して手放さず、いざとなれば永遠に監禁するのである。純粋に秩序を形成する規範とは、無秩序を秩序に変える働きであるのだから、自ら規範の外という無秩序を認めることはないのである。
 そうなると、追放処分をもっている掟は規範ではないのだろうか。ここで掟の他に、規範の外を認めている決まりについて考えてみよう。世の中には法人団体と任意団体というものがあって、そこでの決まりは規則とか規約とか呼ばれている。大多数の人が属している会社は法人団体であり、従業員規則というものを備えている。この「規則」の枠内で行動しない場合は、訓告・譴責(けんせき)・減給・諭旨退職・懲戒解雇などの処分が科される。このうち諭旨退職と懲戒解雇が、規則からの放逐となる。例えば重大犯罪などを犯した場合は、即刻懲戒解雇となり会社はクビになるが、これは退場すればよいということでもある。しかし刑法には退場はない。
 訓告・譴責・減給が罰則だとうのはその団体内の扱いとしてそうなのだろうが、諭旨退職・懲戒解雇は違反者に退場してもらうというものだけに、それが罰則なのかどうか疑問に感じる。退職・解雇は、団体成員不適格者を排除するという意図に基づいているもので、その規範内罰則とはおそらく性質が異なる。つまり「規則」は、成員の行動規範を規定したものであると同時に、成員条件を規定したものなのである。追放処分があるということは、それが全体の中での有限の集団であり、そこに任意性をもって人が集合していることが前提とされているのである。したがって有限集団の輪郭が当然存在するが、その輪郭線を規定として含むのが「規則」なのである。これと同様に「掟」もまた追放処分を含む以上、そこには成員条件が規定されている。しかしこの「規則」と「掟」には、それが描く輪郭が全体の中で相意的に形成されているかどうかに、本質的な違いがあるように思われる。
 「規則」は全体の規範である「法」を超えることはない。あくまで法の枠内に規則があり、国家の施政の中に団体が存在している。しかしながら、開明的な幕府法や公家法と対立的に存在していたのが「掟」である。しかしこのことで、法と掟が敵対して相争っていたというのではない。この中世における法と慣習法の関係について、本談議の十四回で引用したものを再度掲載しておこう。

 一般的にいえば、領主は自らの公共性を意識し、裁判において自身の荘園法や上位の幕府法のみならず在地の慣習法にも依拠しつつ、「合理的」な決定を下すべく努めていたとみてよい。ただし中世の裁判全般に該当することだが、この領主の裁判はいわゆる職権主義とは正反対の性格を有し、自身以外の各種裁判と共存的であった点には留意したい。つまり、領主は在地の問題に介入的ではなく、下位権力で解決できる問題は基本的にその自律性に委ねられ、このことが中世後期に在地裁判の発展を促す重要な契機となった。
(『中世・近世土地所有史の再構築』-中世後期における下級土地所有の特質と変遷 西谷正浩著)

 上位の法に対して、ある閉じられた独自性を有していた村掟は、その点で規則とは本質的に異なる。そして実のところ村掟にとって、幕府法や公家法は上位にある決まりではない。村掟はそれ自身で完結的で、自身の輪郭線の内側にしか世界を認めていないのである。強く輪郭線を引くものの、それは内側を描き出すためだけのものであり、外側は黒く塗りつぶされている。村掟は村人の行動の規範でもあるが、それ以上に村人とは何であるかを規定したものなのである。そして村人でないについては、ただ「でない」という排他がそこにあるのみである。
 規則はそれを取り巻く全体、法との間に関係を形成しそこに従属的な整合性をつくりだしている。一方の掟は、掟の外がどうであろうと内に向ってのみ存在しており、それは極めて独善的な存在であるといえる。西谷氏は、「在地の問題に介入的ではなく、下位権力で解決できる問題は基本的にその自律性に委ねられ」と上位法の開明性、あるいは寛容性を指摘しているようであるが、実際は村掟の頑迷な内向き志向、その独善性に手を焼いており、それと争わずに上位法を安定させる道を選んだようにもみえる。このことは法が村の内部の個人を認定して、その普遍志向からその個人を法の枠内で扱うことが、村掟によって阻まれてしまったとみることもできる。法からみると、村はその掟の中であたかも一体の生物のようであり、その内部に独立した単位などはないのだと主張している存在なのである。
 有限なる集団の輪郭線は、その集団の内と外を区切り、そのことによって内部の成員が何であるかを定義する。それはおよそ一律に内部を定義し、輪郭線が太く濃ければ濃いほど内の一体性が明瞭に浮きあがる。中世の惣村は、村人の居住・生産・消費を一手に担っており、それは村人のかけがえのない生存基盤である。その太く濃く引かれた輪郭線の内側が生存空間であるならば、そこからの放逐はまさに生存の危機である。そうであるならば、村人は掟に示された村人の定義を生きるしかなくなる。しかしそれはどこか外からの強制なのではなく、また内側に村人を拘束する専制君主がいるのでもない。生存空間として強く引かれた輪郭線なればこそ、強制でも抑圧でもなく人はその輪郭線の内側を生きるのである。
 法社会の成員もその法の下を生きるより他ないのであるが、規範を遵守するかこれを破るかは成員に帰属した自由意志である。そこに外側がないのであるから、法は社会の構成員の定義ではない。行動の規範であって定義ではないのだから、人にはこれを守る犯すの選択肢が存在する。この社会の根源において、自由意志による選択肢があることが「個人」の証であるならば、掟社会において「個人」は存在しないことになる。掟社会には掟を破った者はいない。これから破る者はあるかも知れないが、その瞬間に掟社会の成員定義からはずれてしまい、輪郭線の外に出てしまうからである。
 わらび盗人はおそらく村掟を犯したのであり、それによって村からの放逐が逃れられない裁きとなった。そして、わらび盗人もまた村社会にその生存を依存していたのであり、放逐が決まった時点ですでに死人も同然だったのではなかろうか。自検断衆による殺害は、生きれるはずの者を殺したのではなく、死んだも同然の者に引導を渡したに過ぎないのかもしれない。

(2/2へ続く)

by mizuno_clan | 2009-09-12 17:28 | ☆談義(自由討論)