【談議1】水野氏と戦国談議(第二十回)

『信長公記』首巻の中の奇談
「蛇がへの事」

                                                         談議:江畑英郷

 太田牛一が著した『信長公記』であるが、その首巻の信憑性については疑義を挟む向きも少なくない。一方でこの首巻には、若き信長が大うつけと周囲に言われながらも縦横奔放に振る舞う様が描かれており、我々読み手を魅了してくれている。父信秀の葬儀において、仏前に抹香を投げつけた事件。聖徳寺で会見した斉藤道三に「山城が子供、たわけが門外に馬を繋べき事」と言わしめた一件。信長の大うつけの行状を悔やみ、守役平手政秀が割腹した事件。などなど、信長という人物のイメージの根幹は、この首巻で形成されてきたとも言えるだろう。首巻以降の信長については、好き嫌いが大きく分かれるところで、そこに英雄像を見る人、あるいは残虐性に嫌悪する人々、そして信長は天才的戦術家だと言われたかと思うと、戦術家であるよりむしろ政略家であるなどと、実に様々に評されているのである。しかしながら、こと首巻における信長については、世間一般において好意的に受けとめられているようだ。
 この首巻はまた、あの桶狭間合戦が語られている巻でもある。そして水野氏が登場する奇妙な戦いである、「村木取手攻めらるるの事」が置かれてもいる。この首巻は、弾けるような信長と、どこか半端な記述に思われる戦いやエピソードが特徴のように思われるが、その中に明らかに奇談だと思わせる挿話が幾つか盛り込まれている。そこで今回は、その一つである「蛇がへの事」を捻くり回してみたいと思う。

 この「蛇がへの事」は、新人物往来社の『新訂信長公記』(桑田忠親校注)において、桶狭間合戦を描いた「今川義元討死の事」よりも後に置かれている。年の記載がないのでいつの事か定かではないが、桶狭間合戦よりは前のことだと思われる。少々長いので、中川太古氏の訳(『現代語訳 信長公記』)をそのまま引用することにしよう。

 ところで、不思議なことがあった。
 尾張の中央清洲から五十里東、佐々成政の居城である比良(ひら)の城の東に、南北に長い大きな堤がある。その西側に、あまが池という、恐ろしい大蛇がいると言い伝えられている池がある。堤の外、東側は、三十町も平坦な芦原が続いている。
 ある年の一月中旬、安食(あじき)村福徳の郷の又左衛門という者が、雨の降る夕方、堤を通りがかったところ、太さ一抱えほどもありそうな黒い物を見た。胴体は堤の上にあって、首は堤から伸びて来て、もう少しであまが池に達するところであった。人の足音を聞いて、首を上げた。顔は鹿のようであった。眼は星のように光り輝く。舌を出したのを見ると真っ赤で、人間の手のひらを開いたようだった。眼と舌とが光っている。これを見て又左衛門は身の毛がよだち、恐ろしさの余り、もと来た方へ逃げ出した。
 比良から大野木へ来て、宿に帰りつき、このことを人々に話したので、噂は広まった。いつしか信長の耳にも達した。
 一月下旬、信長は例の又左衛門を召し出して事情を直接聞き出し、「明日、蛇替(じゃが)えをする」と触れを出した。比良の郷・大野木村・高田五郷・安食村・味鏡(あじま)村の農民たちに、水替え桶・鋤・鍬を持って集まれ、と命じた。
 当日、数百の桶を立て並べ、あまが池の四方から取りかかり、二時(ふたとき)ほど水替えをさせたところ、池の水は七割がたに減った。しかしそれ以降は、いくら掻い出しても同じことであった。
 そこで信長は、「水中に入って大蛇を探そう」と言い出した。脇差を口にくわえ、しばらく池に入っていたが、やがて上がってきた。大蛇らしいものはいなかった。鵜左衛門(うざえもん)という水によく慣れた者に「もう一度入ってみよ」と命じ、自分のあとへ入れて探させたが、どうにも大蛇は見つからなかった。それで結局、信長はそこから清洲へ帰ったのであった。
 実は身の冷えるような危険なことがあったのである。
 というのは、その頃、佐々成政が信長に逆心を抱いているとの風説があった。それでこの時は、成政は起き上がれないほどの重病と偽って、出て行かなかったのだが、「きっと信長は、小城にしてはこの城ほどよい城はないと聞き知っているだろうから、蛇替えのついでに成政の城を見ようなどと言って、この城へ来て、私に詰め腹を切らせるのではないか」と心配した。
 成政の一族で、家臣の長老に井口太郎左衛門という者がいた。「そのことについてなら、私にお任せください。信長公を討ち果たしましょう。というのは、城を見たいというのであれば、この井口に申しつけられるでしょう。そうしたら私は、ここに舟がこざいますから、お乗りになって、まず城のかけりを御覧になるのが良いでしょう。と言いましょう。信長公ももっともだと言って舟に乗られたら、私は衣服を腰高にはしょり、脇差を投げ出して小者に渡し、船を漕ぎ出します。多分、信長公のお供にはお小姓衆だけが来るでしょうが、たとえ五人なり三人なりのお年寄衆が乗ったとしても、私は懐中に小脇差を隠しおき、好機を見て信長公に飛びかかり、何度も突き刺して突き殺し、組み付いたまま川へ飛び込みますから、御安心ください」と申し合わせたのだそうである。
 信長は運の強い人で、あまが池からどこにも立ち寄らずに帰ったのであった。総じて一城の主ともある人は、万事に注意して、油断をしてはならないということなのである。


 何とも妙な話である。この節は話しが大きく二つから構成されているが、最初がタイトル通り「蛇がへ」のことで、後段が佐々成政と家臣による信長暗殺の陰謀に関する話しである。どちらも怪しげな話しではあるが、この節の奇妙さの根源は、この内容のまったく異なる話がくつけられて一つになっていることにある。
 奇怪な大蛇捕獲の話と比良城における信長暗殺の陰謀談は、どちらも不発に終った点で共通しているが、内容はまったく違うものである。その異なる二つの話がどう接合されているのかと言えば、「此の次でに御一覧候はんと仰せられ候て」と、大蛇捕獲にあまが池まで来たので、ついでに比良城を見物しようと信長が言い出すだろうと、佐々成政とその家臣である井口太郎左衛門が思いをめぐらしたことに始まる。
 後段の信長暗殺未遂談はやや込み入っているので、箇条書きにしてこれを整理してみよう。

①この当時、佐々成政に信長に対して逆心の風説があった。
②このため、信長が佐々の居城間近にきたのに、正体を失うほどに煩っているという口実で、成政は比良城から出てくることがなかった。
③信長は、この佐々の行動に逆心ありを確信して、城見物を口実にして城に乗り込み、腹を切らせようと考えた。
④信長の成敗を阻止するために、佐々家臣の井口太郎左衛門が、小船にて川に誘い出し信長を仕留めようと、佐々と密談を凝らした。
⑤信長は城見物を言い出すこともなく、そのまま清洲に戻ったことで事なきをえた。

 ここで①と②は、こういったことがあったという作者牛一の史実認識である。そして③は実際に起こったことではなく、佐々と井口主従が信長の意図を詮索したものである。つづく④は、③の詮索を前提として、佐々と井口がその対策として決めたものである。最後の⑤は、③と④を踏まえて、信長が清洲に戻ったという史実を捉え直しているものである。
 信長が大蛇捕獲のためにあまが池にやってきたことで、佐々側は戦々恐々としてあれこれ思惑をめぐらしたというのであるが、信長の意図は実際のところどうだったのであろうか。考えられる答えは、信長が佐々と井口の策謀を察知して危険を避けたからか、あるいは最初から佐々の腹を切らせるつもりなどなく、比良城などに用はなかったかのいずれかである。このどちらが正解かというと、この節の結びに牛一が、「惣別、大将は万事に御心を付けられ、御油断あるまじき御事にて候なり」と書いていることでそれがわかる。もし信長が佐々側の策謀を察知していたことで、「あまが池より直ちに御帰りなり」であったならば、万事に気を配り油断していなかったことになる。そうして危険を避けられたのならば、牛一の結びの言葉は、「信長は万事に御心を付けられ、御油断なきにて候なり」となっていたはずであろう。したがって信長には、比良城に出向いて、佐々の腹を切らせようなどという意図はなかったのである。
 さてそうなると、信長がなぜあまが池にやって来たかであるが、単純には「蛇がへ」にきたということになる。そして信長が、「蛇がへ」などという酔狂なことに首を突っ込んでいるのは、持ち前の好奇心、あるいは気まぐれからというのが、この男のイメージに合うようである。しかしそうであるならば、なぜ佐々と井口主従は、信長のそうした心持ちを誤って読み違えたのであろうか。
 井口は、「如何となれば、城を御覧じなされたしと、井口に御尋ねあるべく候」、「先(まず)かけりを御覧じ候て然るべしと申すべく候。尤もと御諚候て」などと言っており、信長の心持ちをつかんで川に誘い出そうとしている。こうした点をみると、佐々や井口は信長の気質を承知した上で、あれこれ算段を練っているように思える。このように佐々側は信長を注視し、その意図や心持ちを斟酌しているのであるが、それでいて完全に誤解しているのである。こうしてみると、信長の酔狂や気まぐれが読めなかったというような、佐々側の単なる迂闊さでかたづけるのは少々単純かもしれない。佐々らの観測からすれば、信長の酔狂や気まぐれといっても、大々的に「蛇がへ」をやるほどではないということなのだろう。
 
 この挿話のポイントは、「蛇がへ」を言い出した信長の意図にある。佐々側は、「此の次でに御一覧候はんと仰せられ候て、腹を御きらせ候はん」と受け取ったのであるが、当人の意図はそこにはなかった。佐々は、「此の時は正体なく相煩ひ候由にて、罷り出でず」だったので、この「蛇がへ」そのものは見ていない。おそらくこの現場にいたのならば、彼らは信長の意図を邪推することもなかったであろう。それは、次の下りをよく読めばわかることである。

然るところ、信長水中へ入り、蛇を御覧あるべきの由にて、御脇指を御口にくわへられ、池へ御入り候て、暫(しばらく)が程候て、あがり給ふ。中~、蛇と覚しき物は候はず。鵜左衛門と申し候て、よく水に鍛錬したる者、是れ又、入り候て見よとて、御跡(あと)へ入り見申し候。中~御座なく候。然る間、是れより信長、清洲へ帰り給ふなり。

 この「蛇がへ」が実施されたのは、「正月下旬」ということなので、季節は冬の終わりから早春である。未だ水もぬるまぬこの季節に(注1)、信長は真っ先に池に飛び込んで大蛇を探している。それで見つからないと、さらに水練に長じた鵜左衛門に探させているのであるが、自分で水に入って探したのに、さらに別人に確認させるとは、気まぐれ男にしては妙に念が入っている。この光景を佐々らが見たならば、信長が蛇がへを口実にして、佐々の腹を切らせようなどと思っていなかったことは十分に伝わったはずである。それは、口実にしてはあまりにも真剣そのもの、気まぐれにしては慎重で念が入っているからである。このように信長は、大真面目で「蛇がへ」に取り組んでいたのである。
 さてこの「蛇がへ」は、どのようにして行われたのであったかを文中にみてみると、

比良の郷、大野木村、高田五郷、安食村、味鏡(あじま)村百姓ども、水かへつるべ・鋤・鍬持ちより候へと仰せ出だされ、数百挺の釣瓶(つるべ)を立てならべ、あまが池四方より立ち渡り、二時計りかへさせられ候

というものであった。太古氏の現代語訳では「数百の桶を立て並べ」とされていたが、原文は「数百挺の釣瓶を立てならべ」というのであるから、単なる桶ではなく、桶を吊るした滑車のついた水汲み出しの装置である。(注2)「数百挺」と「立てならべ」にそれが表現されているのであるが、これは実に壮観な光景であっただろうと思われる。また、「比良の郷大野木村、高田五郷、安食村、味鏡村百姓ども」と参集した村々が記載されているが、これからするとかなりの人数が集まったに違いない。口実ではとてもここまでやるまいと思うのだが、それにしても、どうしてここまで大掛かりな取り組みとなったのであろうか。
 この事件は正月中旬に発生し、「此の由、人に語る程に、隠れなく」ということで、ずいぶんの騒動になったようである。事件はあっという間に広まって、人々があれこれ噂をし合い、おそらく、あまが池の脇を通る堤道は誰も使うことができなくなっていたことだろう。そして、「上総介殿聞こし召し及ばれ、正月下旬、彼(か)の又左衛門をめしよせられ」ということで、「直に御尋ねたされ、翌日、蛇がへと仰せ出さる」となったというのである。これからすると、事件発生が正月中旬で、その後信長がその噂を耳にし、それから下旬になって又左衛門から事情を聴取したことになる。事件が発生してから、どれくらいで信長がそれを知ったかは定かでないが、騒動を耳にしてすぐ行動を起こしたのではない。騒動を知ってからしばらく経って、大蛇に遭遇した本人から事情を直に聞き取って、その上で「翌日、蛇がへと仰せ出され」と即座に動いたということなのである。

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 愛知県図書館は所蔵する絵図をインターネットで公開しているが、この絵図を元にあまが池周辺の地図を作成してみた。『信長公記』では、「比良の城の東、北南ヘ長き大堤これある内、西にあまが池」があったと記載している。そして又左衛門が「堤を罷り通り候」とあるので、この南へ伸びる堤の上に街道があったということだろう。この地図の元になった絵図は尾張藩時代のものであるから、この大蛇事件のころとまったく同じではなかろうが、線で引かれているのが村域である。これでみると、比良・大野木・味鏡・高田があまが池周辺の村々であったことがわかる。この怪しげな事件で、堤の上を走る街道の通行ができなくなり、また周辺の村々でも身の危険を感じて、彼らの生活にも大きな支障が出ていたものと思われる。そして、そのような騒然とした状況が、中旬から下旬まで放置されていたのである。
 さて、この事態に本来対処すべきは、いったい誰であったろうか。このあまが池の目と鼻の先に比良城があったのであれば、当然ながら佐々成政がこの一件に当たるべきであったろう。しかし実際に行動を起こしたのは、下旬になってではあるが信長であった。このことから考えれば、事件発生から一週間から十日ほど経っても、佐々らは何の手も打たず、動くようすもなかったことで、信長が乗り出したということなのだろう。噂を耳にしてから下旬まで、信長は佐々らの対応をじっと見守っていたのである。そして、佐々らが領主の責務を果たしそうもないので、代って事態に対処することにしたということなのであろう。
 この「蛇がへ」は、信長の公権者としての行動を示す一件であり、寒中に真っ先に池に飛び込むなど、デモンストレーションにも抜かりがなかった。そしてさらに念を入れて水練の達者にも確認させ、村人たちの納得がえられえるように努めたのである。信長の目的は、奇怪な大蛇出現の騒動を収拾することにあり、それは統治者そして公権力としての自覚に基づいた行動であったのである。信長自身と水練達者の鵜左衛門による二度の確認によって、「どうだ。何もおらんぞ、安心するがよい」という言葉を残して、「あまが池より直ちに御帰りなり」となったのだろう。

 この公権力を自覚した信長と対照的だったのが、佐々成政と井口太郎左衛門である。ここで、佐々による「信長へ逆心の由風説これあり」という背景を推測してみることにしよう。
 『信長公記』首巻には、佐々一族として、蔵人佐(内蔵佐)の成政と隼人正の成吉の二人の名前が挙がっている。隼人正は、小豆坂合戦に名が記され、桶狭間合戦で義元軍に三百ほどの兵力で突撃して討死している。一方の蔵人佐は、この「蛇がへ」の他に十四条合戦にも登場している。蔵人佐は、「蛇がへ」の時点で信長に敵対していたのであるが、永禄四年の十四条合戦では、信長の下で池田恒興などと共に奮闘している。このことからすれば、この「蛇がへ」と佐々らの信長暗殺未遂事件があった年は、信長が清洲城を奪取した天文二十三年(1554)よりは後のことで、永禄四年(1561)よりは前のこととなる。また永禄三年の桶狭間合戦において、佐々が信長に敵対していたとも考えにくく、普通に考えるならば永禄二年の岩倉城陥落よりは前であろう。
 『新修名古屋市史』は、「清洲・勝幡城などの有力領主の拠点に対して、佐々氏の比良城が“小城”と呼ばれているのは興味深い」と述べているが、その「小城」の城主である佐々が、単独で信長に対抗しようとしていたとは思えない。可能性として一番高いのは、弘治二年(1556)に斉藤道三が死去した後、信長の反対勢力が一挙に活気づいたというが、この時期のことだったのではないだろうか。同年に弟信勝は、林秀貞らと組んで稲生で信長と合戦に及んでいるが、地図で見ると稲生のすぐ北が大野木・比良である。こうしたことから、佐々の「信長への逆心」は、この信勝に与してのことだったのではないだろうか。
 上記のような推測であると、この「蛇がへ」の事件が起こった正月とは弘治二年の一月で、道三はまだ存命中ではあるが、すでに義龍は翻意を顕わにして道三の勢力を圧倒している状態にある。佐々もそうした時勢を背景に、尾張国内の権力闘争に目を奪われていたのであろうが、当の信長は村々に目を配り、彼らの迷惑を取り除くために即座の行動を起こす分別があった。この一件を記録した牛一も、「惣別、大将は万事に御心を付けられ、御油断あるまじき御事にて候なり」と結んでいることから、佐々らと変らない目線であったように思う。しかし、牛一が再三にわたって「大うつけ」と呼ばれていたと書いた信長は、武家の権力闘争に領主としての本分を忘れることなく、庶民の煩い迷惑に即座に対応する統治者の器量を示していたのである。

 『新修名古屋市史』は、第二巻「萱野の開発」の中で、この「蛇がへ」を連想させる「牛巻の淵伝説」という話を取り上げている。それは『熱田旧記追加』を引用したものであるが、以下のように書かれている。

 往古、熱田大社の東には芦山(あしやま)があり原野が続いていた。農夫らは牛馬を放ち草を喰(は)ませていた。ところが傍らに池があり、巨大な大蛇(おろち)が度々牛馬を喰ってしまうので、牛巻淵(うしまきふち)と呼んで人は近づくことがなかった。熱田の社職の一人大原真人武継(おおはらまひとたけつぐ)は射芸をよくし、大蛇を射殺さんとしたが、見付けることができないでいた。ある夜、大蛇が芦山に出て微睡(まどろ)んでいるのを見付けた武継は、喜びこれを射たところ、確かな手応えがあった。翌日見ると、大蛇の胸を射殺しており、牛巻の淵は紅に染まっておった。大蛇を芦山に埋めたが、今高田村に蛇塚と称しているのは、この場所である。牛巻の淵というのは二名橋(ふたなばし)の近所である。牛巻の田畑は武継の子孫が今に至るも領している。大蛇を射殺したのは弘治三年のことという。

 このような伝説話しであるが、『新修名古屋市史』はこれの解説に次のように述べている。

 人間による大地の開拓が未開の原野と接する最前線においては、未開の自然自体の有する人力を超えた巨大な生命力が大蛇として人びとに表象されることは、日本の歴史上しばしば見られる。農耕地としての開拓は、必ずや水を統制することによって成り立つものであったから、とりわけヤチと称される湿地の開発においては、大地を這いヤチに棲息する蛇は、大地そのものの表象となる資格を備えていた。人々に恐怖や煩いを与えた大蛇が、開墾を領導する一人の英雄(もしくは彼に招来された異能の人士)によって封じ込まれ、あるは屠られ、その跡にしばしば塚が築かれることによって自然との調和が回復したとする話は、古くは『常陸風土記』などにも見えて、蛇が鬼に変化したりしながら繰り返し時や場所を変えて語られてきた物語である。

 太田牛一が『信長公記』で語った「蛇がへ」は、伝説ではなく実話のはずであるが、この牛巻淵の伝説によく似た内容をもっている。もっとも武継は大蛇を射殺したが、信長は大蛇を発見できず、それがあまが池にいないことを人々に納得させたに過ぎない。しかし大蛇の存在を打ち消すことで、人々の不安と怖れを取り除き、村々の生活は元に復帰したことであろう。牛一が「堤より外、東は三十町計り、へい~としたる葭原(よしはら)なり」と書いているように、この辺りには広大な湿原が拡がっていた。人力を受け付けない自然が眼前にあって、村々の生活とはこうした自然に常に対峙することの中にあったのである。そしてそこには、「開墾を領導する一人の英雄」の姿もあった。自ら村人を先導して「蛇がへ」をおこない、真っ先に寒中の池に飛び込んだ信長もまた、村々の安寧を守る英雄だったのである。
 この「蛇がへ」の挿話は、結びに「惣別、大将は万事に御心を付けられ、御油断あるまじき御事にて候なり」とあるからには、佐々らの陰謀を逃れたことに何がしかの教訓めいたことを、牛一は示したかったのだろう。しかし大将がその関心を払うべきは、領民の暮らしぶりであり、村々に煩いや迷惑が及ばぬように気を引き締めることこそ大事と、当の信長はその行動で示していたのである。信長の周辺が騒がしくなるこの弘治二年という年の正月に、牛一の視点とは離れたところで、「蛇がへ」の奇談は信長の真の姿を映し出したのである。そして、牛巻淵の伝説が弘治三年のことであったというのは、また何か奇遇めいていて面白く、こうした奇談には似合ってもいる。

(注1)元は「季節は厳寒の最中である」と記していたが、暦換算に誤りがあったため、現在のように訂正した。
(注2)この頃の釣瓶は滑車がついたものではなく、竹の竿を斜めに地面に埋め、竹の先に綱をかけその先に瓶を繋いだもので、水を汲むときは、綱を引っ張り竹をしならせて桶を水に入れ、汲んだら竹の戻る反動でつり上げるというようなもの。との指摘があった。


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by mizuno_clan | 2009-10-18 21:25 | ☆談義(自由討論)