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【談義1】水野氏と戦国談議(第二十二回)

闘う者たち(2)-戦士の登場-
                                                         談議:江畑英郷

 『漢字源』によれば、「兵」とは「武器を持って戦う者」であり、「上部は斤(おの→武器)の形。その下部に両手を添えたもので、武器を手にもつさまを示す」会意文字(既成の象形文字または指事文字を組み合わせた文字)であるとされている。そして、この「兵」の対語が「将」である。かつて中指を将指と言ったが、これは一番長い指であることからそう命名されたもので、「将」には「長い」という意味と「持つ」という意味を含むとされている。「長」は「おさ」とも読むが、これはこの文字が「老人がながい頭髪をなびかせてたつさまを描いたもの」だからである。ここから「将」には、指揮をとるリーダーの意味が与えられることになったのである。
 語源からみても「将」は指揮官であり、「兵」は武器を取って闘う者である。しかし実際には、この「将」と「兵」は相対的な様相を帯びている。大名軍を考えてみると、総大将の大名は「将」そのもの、最高指揮官である。その大名と主従関係を結んでいるものは、大名からすれば「兵」であるが、大身の領主が自ら武器を振るって闘う兵であるのではない。大身の領主は「将」であり、その下に多数の「兵」を抱える、これまた指揮官である。このように「将」-「兵」の関係は、「将」-「兵(「将」)」-「兵」という関係であるが、末端には必ず「兵」が位置づけられる。そして前回、「地侍知行制」と呼んだ戦国主従制の基盤は、地侍をこの末端の「兵」とする軍事制度の基礎条件なのである。
 「兵」という言葉は、個々の戦闘者を想起させるが、「地侍知行制」における「兵」は、在地に根を張り自らも農業経営に直接関与する地侍とその従者より構成される集団である。末端「兵」=地侍における公式の戦闘者は地侍自身であるが、実際には従者を指揮しながら自らも武器をとるのであり、この地侍を中心とした集団が「兵」なのである。この点の理解はきわめて重要であり、この点を見誤ると、戦国期の合戦というものが実態から大きく離れることになる。
 さてここからは、この戦国大名軍における末端「兵」としての「地侍」の輪郭を、より踏み込んでつかみ出してみよう。前回二十一回で述べたように、北条氏が作成した「所領役帳」によれば、50貫未満の被官が半数を占め、「参陣する軍勢の九五パーセントほどは村落に屋敷をもち経済基盤をすえた」(『戦国の群像』池上裕子著)彼ら地侍であったという。その典型でもある八林郷で25貫文を領する道祖土図書助(さいどずしょのすけ)は、「下人などの従属農民を使った手作(てづくり)経営と小作地をもつ村落の上層」とされていたが、こうした図書助のような者は別に「土豪」とも称される。そしてこれとはまた別に、「国人」あるいは「国衆」という用語もあるが、現状これら用語の規定が使用者によってまちまちであるといった印象を受ける。したがって、まずは「地侍」・「土豪」・「国人」という用語の整理から始めることにする。
 吉田ゆり子氏は「兵農分離と身分」(『日本史講座 第五巻近世の形成』収録)において、こうした地侍・土豪と国人の識別について次のように述べている。

 しかし、従来小領主、地主と概念化されてきた中間層に、在地領主と地侍・土豪という次元を異にする実体が一括りにされていたため、在地社会のとらえ方に混乱を生じていた嫌いがあった。そこで、在地領主と地侍・土豪層を区別して在地社会の動向をみてゆくと次のように整理される。在地領主層は、本拠地とする村落の構成員ではなく知行権を有する領主である。(中略)<彼らは>在地においては百姓身分とは区別された地位を確保するか、武士化の機会を得て在地を遊離してゆく運命にあった。これに対して地侍・土豪層は、村落の運営を担い在地領主層に被官化する「侍衆」であった。
(<>内は筆者補足)

 吉田氏はここで、「在地領主と地侍・土豪」といった言い方で両者を区別するが、この区別は地侍・土豪が「手作」層であるのに対して、在地領主は「領主」であって耕地との直接関係はないとの認識を前提としているものである。「手作」とは、耕地を直接運営することであり、下人あるいはそれに相当する者に耕作させて、その活動一切を取り仕切っていることを意味している。こうしてみると、地侍・土豪の「地」や「土」は在地に居住しそこに根を張るという意味を表したものであるといえるだろう。これに対して、在地領主は「手作」はしないが「知行権を有する」のであるから、「手作」する者から用益(年貢と労役)をえる立場にあるということである。彼らは「手作」をしないのであるから農業経営者ではなく、生産現場からは距離を置いた存在である。したがって、「在地領主層は、本拠地とする村落の構成員」ではないとされるのである。
 次に、久留島典子氏による村の代表者の二類型をみることにしよう。

 一つの類型は、自らも村に基盤を持つ上層百姓で、他の百姓たちと一体となって村の利害を代表する名主たちである。(中略)一方、村の代表者のもう一つの類型とは、領主に対しては一荘一郷を代表して行動するが、自らは村落のみに留まるのではなく、武家被官となって、村落を越えた政治的・経済的関係を持っている国人(国衆)たちである。
(『一揆と戦国大名』久留島典子著、講談社日本歴史13)

 ここで久留島氏が「名主たち」と呼んでいる存在は、吉田氏が「地侍・土豪」と称した者たちと同様の存在であると思われる。そしてこの「名主たち」に対するもう一方の村の代表者を、久留島氏は「国人(国衆)たち」と呼んでいる。彼らは「村落を越えた政治的・経済的関係を持っている」のだから、吉田氏が言うところの「在地領主層」と基本的に重なるのであろう。
 こうしてみると、地侍・土豪はほぼ同じ階層を意味する用語であり、国人との違いは「手作」の有無ということになるであろうか。ここで彼らの階層的な位置づけをいっそう明確にするために、北条氏の「所領役帳」にみた知行高別の階層表に当てはめるならば、地侍・土豪は50貫未満の給人、国人は50貫以上の給人と考えてよいのではないだろうか。もちろん、50貫を境に地侍・土豪階層と国人階層がきっちりと分かれるはずもないが、目安としてそのように考えておくことにしよう。

 さて、地侍は土豪とほぼ同義であり、国人との識別は手作地の有無にあると規定された。そして階層的には、百姓と国人の中間層であり、手作する百姓の側面と知行者である側面の両面を持つことになる。この両義性がやがて兵農混在から兵農分離へと向かう流れ、戦国権力から統一権力へと移行する時代の趨勢の中で、一義性へと収斂していくことになるのであるが、「兵」の95%を占める彼ら地侍は、その一義性への転換をどのように迎えたのであろうか。
 吉田ゆり子氏は、先に引用した「兵農分離と身分」において、『熊谷家伝記』という史料をつかって「兵の形成を在地社会から考え直す」取り組みをしている。この吉田氏の取り組みに即して、末端「兵」としての地侍の実態を掘り下げてみることにしよう。
 『熊谷家伝記』は、信濃国下伊那郡坂部村(現在長野県下伊那郡天龍村)の熊谷直遐(なおはる)が明和8年(1771)に集大成した熊谷家の家伝書である。吉田氏はこの『熊谷家伝記』から、「熊谷家自身の歴史のみならず、三河、駿河、信濃三国境の山間を開発して定住してゆく複数の土豪らの領主化の過程を読み取ることができる」と述べ、熊谷氏はここで土豪(=地侍)と規定されている。『熊谷家伝記』が説き起こす初代熊谷貞直は、新田義貞の子息であり、「文和元年(一三五二)、主従一〇人で坂部を開拓し土着することになった」という。そしてその後の熊谷家とその従者は、次に示すような四つの段階を経ていったと述べられている。

第一段階:開発と定住である。
第二段階:開発領域=「分内」に対する領域観念が発生し、開発主は「郷主」として領域を主張し、周囲からも承認される。
第三段階:同族または同郷による郷主連合の形成である。
第四段階:より上級の「太守」への被官化である。

 坂部周辺に定着し開拓が進んで、熊谷家は第一段階から第二段階へと進み、「郷主」=土豪へと成長したのであるが、やがて第三段階「郷主連合」へと進んでいった。そのきっかけは、「直接的には但馬国の浪人村松源太左衛門が、新たに開発を始め(大立)多田分内をきり荒らしていた事態に対応したものであった」とされる。熊谷家を含む郷主連合は、縁戚の多田・田辺との間に結ばれたが、三者は同族でもありそれぞれ承認し合った郷主どうしでもあった。そこへ新参の開拓者が割り込んできたことが、同族を超えて連合に進展させた所以である。三者は共同して新参開拓者の「きり荒らし」に対抗したが、結局新参の開拓者連合が形成されて、双方は領分を取り決めて対抗関係は一応の終息となる。結局のところ、開発領主として「分内」に閉じこもることは許されず、周囲といやでも政治的関係を構築しなければならないということであろう。
 そして第四段階では、伊勢より流れてきた名族関氏が村松ら新参開拓者を被官として取り込んだことで、両者連合の均衡が崩れ、やがて熊谷家もこの関氏の被官と化していくことになる。有力国人関氏の登場で、周囲の土豪が所領安堵のために国人に従属していく過程といえるであろう。そしてその関氏も、より強力な国人である下条氏によって滅ぼされ、熊谷氏は下条氏被官へと立場を変えていく。
 そして吉田氏はそう記していないが、ここで第五段階を熊谷家は迎えることになるのである。それは下条氏が甲斐の武田氏に屈服し、その傘下に組み込まれたことに始まる。ここに至って熊谷氏は、「家来堤孫左衛門娘を人質に出し、新たに下条氏の下で晴信の家臣団に組み込まれることになるのである」。弘治2年(1556)、武田晴信が信濃最南端へも勢力を拡張してきたのであった。武田は戦国大名、それに従うことになった下条氏は有力国人、そして地侍熊谷家は下条氏を寄親とする武田の被官となったのである。
 被官となるという点では、第四段階と第五段階に違いはない。しかし戦国大名武田氏の被官となったことで、熊谷家の百姓と知行者としての両義性に亀裂が生じることになる。

 ここで、下伊那の郷主たちは、はじめて在地を遠く離れた地での戦いへ参加を強要される。下条氏が「当時晴信公御幕下属シ、遠国迄茂軍役可相勤旨上意なれば、多少不依一郷之郷主之分は何方迄茂御出陣之御供可仕」といったのに対し、郷主らは「遠方他国へ御供之義は取持高少分ニ御座候ヘハ難勤課奉存候」として、「御加領」か「所持分之内貫高相応に被召上候て成共、遠方御供之義御赦免被下置候様」に願ったという。その結果、熊谷家については、坂部分四五貫のうち二二貫五〇〇文と、福島にあった五貫文を召しあげられ、かわりに遠征を免除された。旧関領では、召し上げ率は郷主の戦功により一割から八割と区々であったが、多くの郷主が遠征を拒否したことがわかる。
(「兵農分離と身分」)

 国人領主であった関氏や下条氏に対して果たす軍役は、熊谷家の在地から遠く離れてのものではなかったが、戦国大名武田氏の被官となったことで、縁もゆかりもない地での戦いに身を投じることになった。そして熊谷家など多くの郷主はこの遠征を嫌ったわけであるが、その理由として吉田氏は、「一つには、熊谷家が下条氏に“加領”を求めたことにみられるように、遠征に耐える財力がないということである」と述べている。財力ということであれば、遠征の頻度とも関係していると思うが、それが度々あったということであろうか。吉田氏は郷主の遠征拒否の理由として、さらに、被官化したのは「あくまで郷主らの“分内”の安全と民の支配のため」であり、「郷中の支配を捨てて、在地を離れることはなかった」としている。遠征に出ることは「郷中の支配を捨て」るということとはイコールではないのであるが、在地を長い間離れ財を費やすことは、結局「分内」の支配を揺るがせることになるということなのだろう。郷主にとって被官となるということは目的ではなく、あくまでも「分内」支配の手段に過ぎないのである。
 熊谷家は坂部だけで45貫の所領があったのだから、先の階層構造でいえば国人に近い地侍ということになる。その熊谷家でさえ遠征に耐ええる財力がなく、在地を長く離れることに不安を感じていたのであるから、在地を優先する地侍の多くは戦国大名が要求する軍役に応じきれなかったことであろう。戦国大名軍の核であるはずの地侍が、その軍役を枷と感じ、召し上げと引き換えであっても軍役から離れようとしていることは、大名軍の根幹を揺るがす重大な事態である。そしてその事態が進行したならば、大名軍に「参陣する軍勢の九五パーセントほどは村落に屋敷をもち経済基盤をすえた人々であった」とは言えなくなる。果たして、戦国大名軍の末端「兵」であったのは、本当にこの地侍たちであったのだろうか。

 北条氏の「所領役帳」によれば、確かに50貫未満の給人が全体の半数を占めていた。したがって北条氏が求める軍役に、多くの地侍が耐え難いと感じ知行地召し上げによって脱落していく、その空白を埋める者たちは確かにいたのである。吉田氏は、地侍に代わる末端「兵」は、やはりその地侍の中から生み出されていたという。

 これに対して、『熊谷家伝記』には「武家を挊」という表現がみられる。「武家を挊(かせ)ぐ」とは武家に奉公することを意味している。熊谷家の男子には、武家奉公を志向するものが代々存在した。まず、四代直勝弟の直嶺は、武田信虎に奉公し、のち平谷の熊谷弥次郎直武の養子となった。また四代直勝の長男直康は、本来家督をつぐべきところ、「武家を挊度」との願いにより家督を辞し武田氏に奉公し、のち主命により伯父直嶺の跡を継いだ。さらに直康の子次郎吉(のち玄蕃)も武田信玄に奉公し、信玄の忠臣として働いた。(中略)このように、平谷の熊谷家は、代々熊谷本家の男子で、「武家を挊ぐ」望みを実現した者の家系となったのである。

 地侍が離脱した戦国大名軍の末端「兵」は、その地侍の家の、「武家を挊ぐ」志向をもった男子によって埋め合わされていた。しかしこれは、従来「兄の道、弟の道」として兄弟で兵と農の道を分けたという説明とは別のものである。地侍の家は、在地に根を張る郷主であることに留まり続けようとするのみで、そこに武家へ転じる道はない。被官化は、どこまでいっても郷主であり続けるための手段であり、武家になることは目的ではない。そして武家への志向をもった地侍家の男子が、まったくの個人の意思で武家奉公へと進むのである。そこに兄も弟もない。熊谷直康は長男で家督を継ぐべき立場にあった。しかし彼は家督を蹴って武田に仕えたのである。それは熊谷家の道とは、まったく別物だったのである。
 「武家を挊ぐ」ことを志向した熊谷直嶺そして直康によって、平谷熊谷家は武家奉公の家として継承されていくことになった。それは同じ50貫未満であったとしても、もはや「地侍」とは言えないであろう。彼らは「村落に屋敷をもち経済基盤をすえた人々」ではなく、大名からの知行に経済基盤をすえ、村落を離れて大名に奉仕し各地を転戦する戦士なのである。統治・支配領域が拡がり、「兵」が遠方まで移動しなければならなくなった戦国大名軍は、その末端を支える「兵」の転換を必要としていた。吉田氏は、これをもって「兵農分離の方向はすでに定まったといえる」と述べるが、戦国大名軍はその広域的な軍事活動の内に、必然的に兵農分離を内在させていたということになる。そしてその時、戦国大名軍に新たな闘う者たちが登場していたのである。

by mizuno_clan | 2010-01-02 14:43 | ☆談義(自由討論)