【談議1】水野氏と戦国談議(第二十三回)

戦国組織論(1)
                                                          談議:江畑英郷

 前回持ち出した「将」-「兵(「将」)」-「兵」という関係について、この「図式は誤解を起させるものだ」という指摘があった。確かに言葉足らずで誤解もあったかもしれないと思うので、再度説明をしておきたい。近代的な軍隊であれば、「将」-「将」-「兵」というピラミッド構造をしており、指揮系統というものが存在する。そして指揮系統が存在するということは、系統的に指揮できる組織体であるということである。したがって、「将」-「将」という表記には戦闘力ではなく、指揮系統が表現されているのである。これに対して戦国期の軍というものは、軍のトップである大名からみれば、その下はすべて「兵」である。知行制によって支えられる軍は、主が知行の付与あるいは保障を与え、従者はそれと引き換えに軍役を差し出す。そしてその軍役の中心が、「武器を持って戦う」こと=「兵」なのである。こうした戦国大名軍の根幹にあるのは、一組織体としての指揮系統ではなく、主従関係であることを忘れてはならない。
 「兵(「将」)」という表記をしたのは、主従関係としてみれば「主」-「従」=「将」-「兵」という繋がりしかないが、実際の「従」のほとんどがその内部に主従関係をもっていることから、「将」-「兵」が連鎖しており、「将」-「兵:将」-「兵」という図式になることを示したかったからである。そして「兵(「将」)」、あるいは「兵:将」という奇妙な表記を必要とする戦国期の軍というものには、通念としての「将」-「将」-「兵」という構造を持つ軍隊とは異なる特性があるのではないかと思うのである。したがって今回と次回に渡って、このことに少し踏み込んで考えてみようと思う。

e0144936_22101492.jpg 第二十一回で掲載した「“役帳”給人の知行高よりみた階層表」には、50貫文未満から1000貫文以上と、5階層に分けられて北条氏給人の人数が集計されていた。その認定知行高にはかなりの開きがあるが、北条氏からみればどの給人も同じ従者・被官である。それにしても『所領役帳』に現れた北条氏の主従関係は、実に何とも不揃いである。これを大まかに表現すれば、図1のようになるだろう。前回の読者コメントに、「封建時代の軍事組織は葡萄の房に例えるべき」とあったが、このように不揃いな葡萄があるだろうか。
 封建時代の軍というものを「葡萄の房」に例えるのは、茎からそれぞれ独立に実が連結している状態を、「茎」=「主」、「実」=「従」として捉えているからなのだろう。その意味では軍の基盤が主従関係にあることを示す例えであり、縦の繋がりだけで横関係が存在していないことを示すものなのだと考えられる。ただし、葡萄に限らず植物において実はほぼ均等に成るものであるが、主従関係は極めて不揃いであるという特徴を備えている。したがって、「封建時代の軍事組織は葡萄の房に例えるべき」というコメントにもかかわらず、戦国期の軍は二重の意味において「軍事組織」としてははなはだ疑問な存在なのである。
 広辞苑を引くと、「組織」とは「社会を構成する各要素が結合して有機的な働きを有する統一体。また、その構成の仕方」だと書いてある。生物学的には、「ほぼ同形・同大で、働きも似通った細胞の集団。集まって器官を構成する」とある。近代の軍であれば、個々の兵士、これは「ほぼ同形・同大で、働きも似通った」人であるが、これが集まって小隊を構成する。そして、小隊どうしが有機的な働きをするような集団を中隊と呼ぶ。さらには、中隊どうしが連携して活動する単位を大隊と呼称している。このように、近代の軍には「隊」という横の関係が基盤をなして、それが集合してより大きな横の関係を構成するのである。そして指揮命令は、この隊の縦の階層である大・中・小を下って全体に行き渡る。近代の軍事組織は、横関係である「隊」を基盤としてそれを階層化し、上層から下層へと指揮命令が下ることで、全体の有機的な働きを可能にしている統一体なのである。
 さらに「組織」という言葉に注目してみると、「組」は「組む」、「織」は「織る」であり、組織の単位が組み合わされ織り合わされていることを示している。「織る」は、縦糸と横糸を組み合わせることで布を生み出すが、組織もまた縦関係と横関係が組み合わされて機能を果たす。これに対して主従関係から生まれる繋がりは、「織る」であるよりも「縒(よ)る」に近いもので、主の引き締めによって縒り合わされるといった結合であり、引き締めが緩めばほどけてしまうようなものと言えるだろう。近代の軍が「組織」であるのは、「隊」という横関係が基盤として構成され、それを有機集合体として機能させる縦関係が通っているからである。そして戦国時代の軍には、この「隊」という言葉が使われることはなかった。軍事集団は、勢、備、衆、手などと呼称されるが、軍事組織の純然たる横関係を示す「隊」とは異なり、ほぼ「集団」という意味で使われているように思われる。

 葡萄の茎と実は植物組織の縦関係であり、実と実の間に関係は成立していない。それでも植物組織としては、茎から均等に栄養分が行き渡ることで、「実」として統一され、必要な同等の機能を果たしている。しかしながら、この葡萄の房に例えられた戦国期の軍というものは、自立基盤をもった知行主を特定の有力な知行主に接続させたものであり、横関係が存在しないことに加えて不揃いで機能の大きさも異なるという代物である。広辞苑にあった字義だけで「組織とは何か」の答えとするつもりはないが、戦国期の軍を「軍事組織」であったと一口に規定するには、これだけでも重大な問題があるだろう。
 第二十一回の冒頭で、当時の法令や人々の日記に「戦国」という言葉が登場し、戦いに明け暮れているという時代認識が存在していたことをみた。そして「戦国大名」という歴史学用語が通用し、大掛かりな大名組織が大規模戦争を遂行していたという理解に立てば、そこに「軍事組織」が存在していたとみるのは自然なことである。しかしこの時代の大名軍は、主従関係に支えられて兵を糾合していたのであり、この「主従関係」とは分かったようで、実のところ理解しがたい概念であるように思われる。なぜならば、現代における我々には、「主従関係」とは経験したことのない未知の人間関係だからである。

e0144936_22114012.jpg 主従関係は、言うまでもなく縦関係である。そしてこの主従関係からは、どうやっても給人どうしの横関係は出てはこない。北条氏は「所領役帳」を作成して給人の知行を把握し、それに基づいて「着到定書」を示して給人の軍事負担を規定していた。このシステムによれば、「各家臣は七~八貫文に一人の割合で着到役を負担しなければならなかった」(『戦国の群像』)のであるが、「七~八貫文に一人の割合」は基準ではなく「平均」に過ぎない。表1は、小和田哲男氏の『戦国の合戦』に記載されたものである。この表をみると、「知行貫高/着等人数」が一番小さい鈴木雅楽助が4.1、一番多い香下源左衛門尉が11.5である。その差は2.8倍もあるが、このことは知行貫高だけをもって軍事負担が決められたのではなく、その他の個別事情が反映していたことを示している。つまり主従関係とは、知行貫高だけに還元できない個別事情を含んだもので成り立っていたのである。数値化可能な知行貫高だけで軍事負担が割り切れるのであれば、給人どうしの横関係はなくとも、軍事負担を同じ基準で適用された対象と規定できるが、実際はそうもいかないらしい。
 主従関係を、知行の保障および付与の「ご恩」に対する「奉公」と規定すると、この関係はそれぞれが閉じていたと考えた方がよさそうである。軍役について池上氏は、「着到役・出銭・知行役の三種類」があると述べているので、着到役だけで「奉公」を語ることはできないが、そうかと言って、それら三種類総合であれば同一基準で負担させられていたとも思えない。主従関係は、主と従者集団の関係ではなく、主と従者の個人間関係である。A-B、A-Cそれぞれ独立した関係であり、AはBやCとの関係に共通したルールを持ち込む必要はない。従者は横並びで主に対するのではなく、一対一で関係を構築するのであり、それが主従関係というものなのである。

 ただそれにしても、軍役が、たとえば鎌倉時代の御家人のそれのように、惣領にひきいられる同族的軍隊として、その人数・装備の武器などについて統一的な基準がなかった状態とくらべれば、はるかに統一性を高めてきていることは、戦国大名のばあい共通に認められるところである。
(『日本の歴史14-戦国の動乱』永原慶二著)

 『所領役帳』と『着到定書』が規定する北条氏の動員システムは、永原氏が言うように鎌倉時代のそれとは同じではない。しかし鎌倉殿と御家人の間に結ばれた主従関係と、戦国期の北条氏と給人との間に構築された主従関係が別物だというわけではないだろう。鎌倉時代の「惣領にひきいられる同族的軍隊」には、「統一的な基準がなかった」というよりは、横並びに設けられた基準によって動くのではなく、その同族単位で自主的な行動をとったのである。「ご恩」に報いるための「奉公」という言い方は、恩を受けた側の主体的な働きを示すのであって、数値で規定できるような機械的な線引きではなかったはずである。
 そもそも、ある集団の構成員に均等に適用される基準というものが成立するためには、その集団がそれに先立って組織として存立していなければならない。つまり単なる雑多な集まりではなく、自分たちに同じ基準が適用されてもおかしくないという共通基盤がそこにあるからこそ、統一的な基準というものが受け入れられるのである。そして12世紀における東国の地にそれがなく、源頼朝が単なる貴種の幽閉者であったがために、主従関係という上下だけの閉じた関係構築が選択されたのである。この主従関係であれば、頼朝と知行主が一対一で何物にも制約されることなく相互関係を結ぶことができた。このように主従関係とは、アナーキーな社会における最も便宜的な関係構築手段であったと考えられるのである。
 そしてこのことは、戦国大名組織における他国衆という存在に如実に現れていると思う。

 北条氏は、伊豆から東へ勢力を拡大し続け、ついで江戸から河越・松山・上野平井へと進出していった。大永四年に江戸城を奪ってから三十五年が経過している時点で、ようやく江戸廻りの在地領主層の編成が軌道にのりだしたという状況であり、松山の掌握にはさらに数段の遅れがある。では、この他の武蔵各地の状況はどうであったか「役帳」では他国衆がそれに関わってくる。(中略)
 以上をまとめれば、『役帳』では、岩付・忍領の領土・地侍や土地の掌握がほとんど進んでおらず、したがって大田美濃守や成田下総守を筆頭とする衆編成はもちろん、松山衆のような支配も行われていないということができる。ただ、この有力国人が全く独立で北条氏と対等な関係にあるのではなく、北条氏から給地を宛行われ、「誓句血判」の交換を通して服属関係に入っている。『役帳』の他国衆とはこのような有力国人からなっていると考えられる。三田弾正少弼も他国衆であり、のち松山城主となる上田案独斎もまた他国衆である。『役帳』はまさに永禄二年における武蔵国人の、対北条氏関係を如実に示しているといわなければならない。

(『戦国時代社会構造の研究』池上裕子著)

e0144936_2213347.jpg 北条氏の軍事動員システムの根幹を支える『所領役帳』が描き出す軍事組織は、その輪郭線が実のところ曖昧なのである。図2は北条氏の勢力範囲の変遷を示したものであるが、氏康時代の平井・忍はその圏域の外に置かれ、かろうじて松山と岩付が境界線に被るように描かれている。この図ではこのようであるが、池上氏の説明によればこれら領域には他国衆がいたのであり、「掌握にはさらに数段の遅れがある」、あるいは「掌握がほとんど進んでおらず」といった状況にあった。しかし彼ら他国衆は、北条氏と「“誓句血判”の交換を通して服属関係に入っている」のであり、そこには紛れもなく主従関係は存在していたのである。そうであっても、この服属関係は、「河越をとりまく東・北・西部の有力国人が一斉に北条攻撃に結集し、滝山に接する三田・師岡さえも未掌握という深刻な状況が永禄四年までの現実であった」(同書)というように、彼らを北条氏の軍事組織の一翼に迎え入れるには大きな問題があった。しかし服属関係に入り主従となっている以上は、この他国衆も北条軍の一員には違いないのである。空間的に北条領国を描こうとするとき、その周縁に他国衆の勢力地が存在するが、それがために輪郭線を強く引くことができず、滲んだように薄ぼんやりとした境界となってしまうのである。
 池上氏は、他国衆の「領土・地侍や土地の掌握がほとんど進んでおらず」と述べているが、このことは「領土・地侍や土地」が他国衆の知行である以上、北条氏は他国衆の一部分をもって主従関係を結んでいることになる。

 『役帳』で太田美濃守、その子源五郎、成田下総守は他国衆に入り、その所領は次のようである。
  一 太田美濃守
   七百七拾六貫四百文          一人束  古尾谷
  一 同 源五郎
   弐百貫文              (中郡) 小稲葉
  一 成田下総守
   八捨三貫八百文            中郡  大島郷
 古尾谷郷は岩付に近いところではあるが、荒川を越えており、岩付城周囲の土地が『役帳』に全く掌握されていない。小稲葉郷と大島郷は、高城氏や酒井氏等の他国衆と同様に、北条氏が服属のしるしとして給付したものであって、本領や旧来からの知行地とは全く関係のないところである。成田氏の場合は、その領内の在地領主層が全く『役帳』に掌握されていないし、太田領では、春日兵庫助・細谷新八・養竹院がそれぞれ相模東郡に三十~五十貫文の給地を与えられて他国衆となっているのみである。

(前掲書)

 ここに示された太田美濃守や成田下総守などは、北条氏から給付された知行地のみが『所領役帳』に記載されているだけであるが、それが「誓句血判」の主従関係の実態である。これまで「認定の知行地」という言い方をしてきているが、北条氏が認知していた給人の知行地を介して主従関係が結ばれていたのであり、それは給人の全貌を捉えたものでは決してない。そんな部分的で不確かな相手とも、主従関係というものは成立するのである。関係の無いところに関係を構築するには、主従関係とはまったくもって融通のきく便宜性の良い手段ということなのだろう。これと比較すれば、構成員に一律の基準を例外なく適用するなどという整合的な関係構築は、それを可能にするほどに組織化されたものでなくてはならない。ここで再度、「組織」の定義というものを、遠田雄志氏の『組織を変える<常識>』から引用しておこう。

 要するに、われわれはそれぞれ固有の意味世界を有しているのだ。そのため、同じ出来事や情報に接しても、ある人の感じ方や行動と別の人のそれとは本来異なるのがふつうである。しかし先ほど組織の特徴でふれたように、組織はまとまって行動する。なぜ同じ組織に所属する人びとはちぐはぐに行動しないで協同できるのか?これが組織についての根本問題である。
 意味世界を共有すること、これがその答えである。人びとは組織において同じ意味世界を築くからこそ協同行動が取れるのである。言い換えれば、組織メンバーが世界について同じ意味や解釈を有することが、組織の必要条件である。


 組織の定義については、一般にバーナードの「組織とは、一定の目的を達成するために意識的に統括された複数の人間の行動ないし諸力の体系である」が有名である。しかし遠田氏の組織定義は、バーナードのそれよりもずっと本質的で踏み込んだ見解である。この遠田氏の組織定義からすれば、戦国の世とは言っても、人それぞれ受け止めや認識は異なるのであり、その中で「同じ意味世界」を共有できる関係が組織を構成するということになる。主従関係は、両者の立ち位置を決め、なにがしかの互恵を期待する一対一の関係ではあるが、「ご恩」と「奉公」の間に等式は成立せず、それを同一線上で比較する「同じ意味世界」の共有も存在していないことだろう。
 北条氏など強力な戦国大名の登場によって、主従の「ご恩」と「奉公」が、数値的に把握された知行地の大きさと、それに対応する軍役として規定されるようになった。それ以前はこのような対応関係は存在せず、漠然と知行の保障と給付が「ご恩」、それに自主的に答える形で人数を出すのが「奉公」であった。そしてこの漠然性と曖昧性は、主従関係が契約関係ではないことを示している。主従となるのに、「わしが主となる条件はこれこれであるが、その方はこのようにしてそれに答えねばならない」などと、条件確認を経て初めて関係が成立するなど、およそ想像もつかないことである。また、鎌倉殿のビジョンや施策に共鳴して、つまり意味世界を共有して主従関係は結ばれたのではなく、とにかく鎌倉殿に付き従うのであり、それが「いざ、鎌倉へ」なのである。

 主従関係とは何であるかを、ここで整理しておこう。主従という一対一の縦関係からは、組織にとって根幹となる「意識的に統括された複数の人間の行動」も、「組織メンバーが世界について同じ意味や解釈を有する」ことも出てくることはない。そうしたことは、成員・メンバーという横関係のあり方なのであり、主従関係にあるのは「主」と「従」という対立項だけである。この上下二項関係が、同じ「上」=「主」を基点としてどれだけ集まっても、それで組織が成立するものではない。なぜならば、「下」=「従」の間に関係が構築されていないからであり、主の力でどれだけ縒り合されても、それで一体的な組織に変貌するわけではないからである。このように主従関係は一対の閉じた関係であるがゆえに、「従」の大きさはバラバラであっても差し支えないし、半属以下であっても成立するのである。
 戦国時代にあっても、大名など武士階級の組織は、こうした主従関係を基盤として成り立っていた。そしてもし、この主従関係だけを拠り所としていたのならば、それは「組織」とは呼べなかったであろう。しかし北条氏は、『所領役帳』の策定と『着到定書』の交付によって、「ご恩」と「奉公」=知行貫高と軍役に、数量的な統一基準を持ち込もうとしていた。また不揃いの給人を、支城を基点とした衆編成に再構築することで、ある種の軍事組織を成立せしめていた。このことは当然北条氏に限ったことではなく、この戦国の世を生き抜こうとする多くの武家集団が歩もうとした道でもある。こうして、鎌倉時代から連綿と続いてきた武家社会の関係構築法が、戦国時代になってある変貌を遂げようとしていたのであるが、次回はこの変貌の持つ意味についてさらに踏み込んで考察してみようと思う。
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by mizuno_clan | 2010-03-02 22:41 | ☆談義(自由討論)