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【談義1】水野氏と戦国談義(第二十七回)

占有と所有

                                      談義:江畑英郷

 長谷川裕子氏は、『中世・近世土地所有史の再構築』の序章「中世・近世土地所有史の現在」において、次のようにその書き出しを始める。

 戦後歴史学は、社会発展の基礎を、生産力の発展とそれにともなう生産様式の展開過程に求め、各時代における経済的諸関係の解明を中心課題に設定してきた。それは、生産様式の進化を歴史的発展ととらえた世界史の基本法則をうけ、その貫徹を日本史において行おうとした取り組みであった。そのため、戦後歴史学において主要な命題とされたのは、生産様式の段階を示す土地所有形態の解明であった。当然のことながら、中世史や近世史研究においても、土地所有の問題が取り組むべき主要な課題として揚げられてきたが、それは特に、封建的生産様式、すなわち土地経営のあり方をめぐる中世史と近世史との間の論争として出発した。

 ここで長谷川氏は、戦後歴史学がその探求の基礎にどのような社会観を据えていたかを述べているが、これについて補足しておこう。引用中に「生産様式」という用語が表れているが、まずはこれの定義について確認しよう。

 人間は、彼らの生活の社会的生産のなかで、社会の生産力の発展段階に対応する一定の諸関係を取り結ぶ。これを生産関係という。この生産関係こそが人間諸個人相互間のいっさいの社会関係の根底をなすものである。
 生産関係のかなめは、労働する諸個人がどのような仕方でその労働に必要な諸条件すなわち生産手段にかかわるのか、ということにある。このような、生産手段にたいする労働する諸個人のかかわり方が、社会を構成する諸個人による生産物の、とりわけ余剰生産物の取得のあり方を決定する。

(『社会経済学』大谷禎之介著)

 ここではズバリ、「生産関係こそが人間諸個人相互間のいっさいの社会関係の根底をなす」と言い切っている。そしてその生産関係は、「社会の生産力の発展段階に対応する」のであり、「特定の発展段階の生産力とそれに対応する特定の形態の歴史的生産関係のもとで行なわれている特定の生産のあり方を生産様式と呼ぶ」(同書)のである。これはマルクス主義における社会観であり、同時に歴史観でもある。生産力は基本的に右肩上がりに増大し、それにともなって生産を媒介とした人間関係の構造も変化する。この構造変化があるからそれが歴史となり、この歴史を動かす原動力は生産力と生産関係の相互作用でり、その相互作用の産物が生産様式なのである。
 こうしたマルクス主義的歴史観(唯物史観)を根底に据えて、戦後の歴史学は展開してきたのだと長谷川氏は述べているが、そのことがあって「生産様式の段階を示す土地所有形態の解明」がこれまでの主要課題となってきたのである。しかしながら、生産様式の解明=社会システムの解明という図式は、その図式に沿って展開された土地所有形態史の批判によって揺るがされる事態となっている。

 これまで、時代の発展度を測る尺度として土地所有形態の分析がさかんに行われてきた。それは、個人の所有が確立する近代的な所有を前提に、そこへと至る過程を前近代的社会で考えようとした作業であったともいえる。しかし、前近代社会では個人による排他的所有は確立せず、村共同体としての当知行が基本的な所有のあり方であった。そして、村の当知行のなかにあるのは、個人の土地占有であり、それは村の間接的共同所持といわれる村の管理下にある占有であった。したがって、その占有は最終的には村が差配するものである以上、所有権に高まるものではなく、その意味で前近代においては個人の所有は成立していなかったといえよう。従来の土地所有史は、こうした個人の占有を所有ととらえ、その歴史的変遷を発展段階的な視角から追求してきたところに問題があったといわざるをえない。
 では、時代の進展が土地経営の側面から測れないことが明らかになった現在では、土地所有史から何を見出し、また何を論じれば土地所有史になるのか、どのような方法論が必要になるのか。これらの問いに答えることは容易ではない。

(『中世・近世土地所有史の再構築』渡辺尚志・長谷川裕子編)

 歴史的な社会システムを解明するには、その時代の生産様式を明らかにする必要があり、生産様式はその時代の土地所有形態として捉えることができるという、戦後歴史学が堅持してきた前提が今日では揺らいでいる。しかし「時代の進展が土地経営の側面から測れない」とはいっても、生産様式となって現れている生産力と生産関係の相互作用が社会システムを形成しているという、単にマルクス主義に収まらない社会の通念までもが否定されたというのではなさそうである。さて上の引用には、「土地所有形態」と「土地経営」、「所有」と「占有」という用語が登場するが、この用語・概念に着目して、今回は土地における社会システムを論ずるための予備的な考察を進めてみたいと思う。

 長谷川氏は、冒頭の上記引用に続けて次のように述べる。

 さかのぼれば、両者の論争は、古代から中世への移行過程のなかに、封建的ウクラードとしての領主制、すなわち封建制の成立をみた石母田氏にはじまる。そして、名主による「名田経営」という家父長的大経営のなかから、南北朝期に独立小農民が分化することで封建制が成立するととらえた松本新八郎氏の「名田経営」論が、石母田氏の領主制論を土地経営の側面から補強した。石母田氏・松本両氏が、封建制の成立を中世においたことに対して、近世史の安良城盛昭氏は、名体制内の家父長的奴隷の農奴化を、単婚小家族としての小農民の自立に求めたため、近世の太閤検地をもって封建制の成立ととらえることになった。ここに、その後長く議論されることになる中世と近世との間の論争のはじまりをみることができる。
 一方で両者は、名を名主の経営体および土地所有の客体ととらえる点で共通する。しかし、名を経営体ととらえる研究は、名が年貢徴収単位であって、そのなかに土地所有としての作手が存在したことを実証した稲垣泰彦氏によって克服され、現在ではそれが共通認識となっている。稲垣氏の研究により、中世初期において想定されていた自立的な小経営の存在が実態的に認識され、それを前提に議論が展開されるようになったとともに、名内部の作手を土地所有の問題として取り上げて分析されるようになった。

(前掲書)

 上の引用の中に「経営」と「所有」という用語がたびたび登場するが、その背後に「経営」の根拠としての「所有」という前提がある。名は年貢徴収単位に過ぎず、「そのなかに土地所有としての作手が存在した」となると、これが「自立的な小経営」とみなされる。余剰生産物を産出する土地経営がどのようであったかをめぐっての議論であるが、土地所有から土地経営が抽出されているようでもある。その後の歴史学の展開において、この「経営」と「所有」は村の当知行に移されていった。村は経営体であり、所有の主体である。

 それに対して、その後の村論は、中世から近世初期の社会が慢性的飢餓状況にあり、生産に必要な用益を確保するための近隣との戦争が際限なく続いていた実態を明らかにし、村こそが百姓個々の生存を確保する「生命維持装置」であったことを実証した。それにより、これまで生産力が右肩上がりに発展していくととらえていた認識が成り立たないことが明らかになった。さらに、当該期社会にあっては、階級間の対立もさることながら、それと同等以上に百姓・村同士の生存をめぐる争いが激しく行われており、彼らの再生産を維持することが、領主や土豪など百姓の上に位置する支配階級を維持する根拠になるという、新たな階級観が提起された。つまり、階級差が一方的な暴力的強制によって維持されていたととらえた従来の見解に対し、その階級にともなう機能を果たすことで維持されたととらえる考え方である。このように、生産力発展論を否定し、階級観の転換が図られたことにより、戦後歴史学が拠ってきた思考から開放され、民衆の視点から歴史展開の要因を探るという新たな枠組みが提示されたといえよう。
 こうした研究のなかで、土地所有の問題は、それまでの土豪の経営論に対し、村としての所有が論じられるようになる。自立的共同体としての村は、村として再生産を維持していくために、居住領域(屋敷)・生産領域(耕地)・用益領域(山野)からなる村の領域を村として確保していた。前近代社会において村が所有の主体となるのは、百姓個々の小経営がいまだ不安定で、永続的な百姓の家が確立していない段階では、村がそうした不安定な小経営を支え、村ぐるみで再生産を維持していく必要があったためである。

(前掲書)

 当談義では、これまでここでまとめられているような成果に踏まえて諸々考察してきたつもりであるが、あらためて長谷川氏の総括を読むと、戦後歴史学が長らく囚われていたマルクス主義のテーゼを、実証的に乗り越えてきた道のりをみるようである。それは、右肩上がりの生産力に照応して生産関係が組み替えられ、それが生産様式=所有形態となって可視化されるのであり、歴史学においては階級闘争を中心とした枠組みにそれを適合させることが解明であるとする立場の克服である。こうして一種の観念体系であったマルクス主義的歴史社会観は解体されたのであるが、実のところ「民衆の視点から歴史展開の要因を探るという新たな枠組み」がそれに代わるとも思われない。ここに述べられているように、再生産維持という視角を基本据えて、村という自立的共同体がその主体的役割を果たしていたとか、支配階級とされてきた領主や土豪がそうした村との共生関係にあったという主張はよいとしても、経営と所有を並行的に理解しようとする立場は従来と変わりがない。

 しかし、耕地や用益地・屋敷地などの土地は、民衆生活においては必要不可欠なものである。その意味において、下級土地所有の問題を追及することは、民衆世界の営みを解明することにつながるといえよう。そして、そこにおいては村の所有が土地利用の基礎であり、そのなかに個人の占有があったとすれば、その具体的あり方をさらに突き詰めていくことが、人々の生活と土地との関係を解く一つの鍵になろう。したがって、今後は村の所有と個人の占有という、前近代的な土地所有の実態をふまえ、これまでの土地所有に関する議論を再検討したうえで、更なる方法論の再構築を図る必要があるのではないだろうか。
(前掲書)

 硬直的な階級闘争観は克服され、単純な「生産力発展論」は否定されたにしろ、生産力の発展にともなって生産関係が構築され、それが生産様式を生み出し、その生産様式は所有形態に現れるという図式に変わりはないようである。ステレオタイプの土地所有形態の議論ではなくなったとはいえ、「下級土地所有の問題を追及することは、民衆世界の営みを解明することにつながる」というのであるから、歴史的な土地所有形態に当該期の社会システムが現れているという認識には変わりがないのである。
 さて、長谷川氏は「村の所有が土地利用の基礎であり、そのなかに個人の占有があった」という認識を示しているが、このことの意味をここで立ち入って考えてみたい。「村の所有が土地利用の基礎」ということは、村がその土地を所有するがためにその土地利用が可能になっているということである。そしてその所有を「村の当知行」だと述べているのであるが、ここでの所有と占有の差異はどこにあるのだろうか。

 一方、生産領域である耕地は、個々の所有物として自由に質入・売買されるものであったと同時に、村全体のものでもあり、村による規制もかけられていたとされる。それは、一三世紀後半以降における惣村の成立にともない、徐々に村が領主の年貢を請け負う主体となったことにより、その納入を果たすため村の耕地の確保が必要となったためである。領主のみならず、個別の地主に対しても、村として年貢を差配していたことが明らかにされたことで、村請にともなう村の耕地把握の実態をうかがい知ることができるようになったといえよう。
(前掲書)

 ここでは村にその土地が帰属してことを、質入・売買の規制と年貢請負にもとめている。そして、個々の耕作者の土地質入・売買が村によって規制されていたとするならば、土地が「個々の所有物」であったという表現はうまくない。「村の所有と個人の占有という、前近代的な土地所有」といっているのであるから、そこは「個々の占有物」とすべきである。そしてその理解であると、当時は所有しているのではない単なる占有地であっても質入や売買が可能であったということになる。村における質入・売買は占有地においておこなわれ、村の所有はそれを規制するのであるが、それは年貢請負に支障を発生させないためである。こうして村の土地所有というものを整理してみると、年貢を請け負い差配することこそが土地所有の実態だということになる。
 年貢を納めている者が所有者であり、その年貢発祥の土地を利用している者が占有者である。この所有と占有を合わせてそれが「前期代的な土地所有」なのであり、名にしろ村請にしろ多くの場合その所有と占有が一致していないのである。こうした理解に立ってみると、この所有と占有というものは、同じ土地に対する異なる視点から生まれているように思われる。
 年貢を課す者は、当然耕作の外側にいる。そして年貢を納める者も多くは占有とは切り離れており、耕作の補完はするのであるが、年貢を納めるという点では耕作の外側に視線を移しそれに同調して土地を眺めている。所有というものを年貢収受の視線でみれば、それは耕作の外側からの観点であることになり、一方の占有は完全に耕作内部の視点であり、耕作事実こそが占有である。以前みたように、耕作者が逃散してしまってもその土地には年貢の負担義務が課せられるのだから、所有の視点は耕作事実を度外視するのである。一方で耕作者が逃散してしまったのだから、その土地には占有者などどこにもいないのである。占有の消滅は耕作の消滅と同一であり、所有に引きずられて「占有」と言ってはいるが、これは耕作事実のことである。
 このように耕作の内側と外側という視点の相違があるが、占有について「下級土地所有の問題」などと所有形態の一つであるかのように長谷川氏は述べているが、これは誤りだろうと思う。所有と占有=耕作事実は視点の違いであり、しかも次元の異なる視点の相違のように思われる。そしてこの次元の相違が理解されていないところから、両者の混同が起こっているのだと思うのである。この視点の違いとは何であるかは、次回に旧世代と新世代のシステム論について述べる中で明らかにしていきたいと思う。そして、「百姓個々の小経営がいまだ不安定で、永続的な百姓の家が確立していない段階では、村がそうした不安定な小経営を支え、村ぐるみで再生産を維持していく必要があった」と述べられていたように、耕地の再生産維持と「家」とはつながっているのである。つまり「家とは何か」に答えるためには、所有と占有にかかわる次元の異なる視点を理解し、その上で耕地の再生産維持を描きなおす必要があるということである。

※お断り
 これまで「戦国組織論」をタイトルとし、前回は「家とは何か①」をサブタイトルとしてきたが、このままであると戦国期の組織論に端を発しいつかはそこに戻るつもりでありながら、延々と(5)(6)・・と続いてしまうことになる。しかも現在は、歴史的な社会システムとは何かに迫ろうとしているところであり、当面組織論に直接触れることはないだろうと思う。したがって「戦国組織論」というタイトルは降ろして、その回の談義内容を端的に表すタイトルに変えた。前回サブタイトルの「家とは何か」は今回も引き継がれているが、それの②というほどには直接に論じていない。それは次回かその次になるだろうと思っている。

by mizuno_clan | 2010-08-15 19:06 | ☆談義(自由討論)