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【寄稿17】宮本武蔵と水野勝成 『宮本武蔵の大坂夏の陣』1/2 »»Web会員««

     まえがき 
 本稿は平成6年(1994)月刊『歴史研究』400号に掲載された「宮本武蔵の夏の陣」の転載です。出版社「歴研」の承諾もいただいています。
ただ「歴研」の投稿原稿が8000字(原稿用紙20枚)に制限されていましたので窮屈に圧縮させていた部分も、せっかくですから了解を得て拡げさせていただきました。

 当時までは宮本武蔵の大坂の陣は大坂方という認識が通説でありましたが、原論文は武蔵が徳川方であったことを決定づけた論文となります。
武蔵研究の第一人者となられました国際武道大学の魚住孝至先生を始め多くの著書・論文等に引用されましたが、今では新しい定説と化して当時のように特別に書かれることもなくなりました。
 しかし、まだこれまでいかなる歴史番組でも武蔵の徳川方説が語られた事はなかったと思います。
 今年2月23日、小生も出演させていただきましたNHK「歴史秘話ヒストリア」で初めて明瞭に「武蔵は徳川方の武将の護衛として出陣した」と解説されたのは本論に基づくもので、画期的でした。
 11年前のNHK「ときめき歴史館」でも本論文の取材を受け、武蔵の大坂の陣出陣の証として本論に乗せている小生提供の『黄耇雑録』も画面に表示されましたが、ついに武蔵が徳川方であったことに触れられることはなかったのです。
 武蔵の人生において水野勝成との出会いと大坂の陣に水野の陣営から徳川方として出陣したことが大きなターニングポイントとなっています。

 水野氏研究会の皆様にも宮本武蔵と水野氏との深い関係を知っていただければと存じます。

                                     福田正秀(宮本武蔵研究家)





宮本武蔵と水野勝成
『宮本武蔵の大坂夏の陣』


                                             福田 正秀

はじめに 
  宮本武蔵は生涯六十余度の兵法勝負に無敗の剣豪として知られている。しかし武蔵が晩年に著した『五輪書』序文によれば、その勝負は若かりし頃二十代までのことであり、「われ三十を越えてあとをおもいみるに兵法至極して勝つにはあらず」とその勝利は兵法を極めたからではなかったと反省している。なおも深き道理を求めて兵法修行に朝鍛夕錬し、至極の境地を得たのは五十歳の頃であった。すなわち悟道に至る武蔵の真骨頂は六十戦全勝の前半生ではなく、三十代以降の後半生にあったのである。
そのスタートに徳川が豊臣氏を滅ぼした大坂の陣(一六一四~)があった。武蔵はこの戦場に立っているが、豊臣か徳川か、武蔵はどちら側について戦ったのであろうか。武蔵の生涯を鳥瞰してみれば、兵法至極に至る人生の大きなターニングポイントであったことは間違いない。
 実は武蔵の大坂の陣には水野勝成が大きく関与していた。本稿では武蔵が大坂夏の陣に水野勝成の陣営から出陣していたこと、すなわち武蔵が徳川方であったことを証明する。

一、通説への疑問  
 宮本武蔵が大坂の陣に参戦した事は、武蔵の死後九年後に養子伊織によって建てられた「小倉碑」にも刻まれており、史実であろう。
『二天記』はこう伝えている。
 《一、慶長十九年大坂陣武蔵軍功証拠あり、三十一歳、翌元和元年落城なり》
 大坂方か徳川方か、どちらとも書いていない。 ちらほらと徳川方説を唱える論者もいたが、大勢を変えるに至らず、これまで武蔵は大坂方の浪人募集に応じて戦ったというのが通説であった。不思議なことに何の史料的裏付けもなく、そう信じられてきた。理由は大坂方には全国から十万人余の牢人が入城したし、武蔵も牢人であり、手柄を立てて立身の好機と、当然これに参加したであろうという単なる推測だけ。関ヶ原西軍説の延長もあるようである。
 司馬遼太郎氏はその著『宮本武蔵』で、「大坂の役関係のあらゆる資料のどこにも彼の名が片鱗も見えぬところを見ると、武蔵は微賤の軽士として大坂城の石垣のなかにこもっていたにすぎなかったのであろう」と述べている。
 ところがその反対史料が出た。それは大坂陣当時、三河刈谷城主であった水野日向守勝成の陣備えを記録した「大坂御陣之御供」の名簿の中に、宮本武蔵の名前が載っているというのである。この記録は昭和五十九年に、水野藩家老中山将監の子孫中山文夫氏(名古屋市)の家にある膨大な古文書類の中から発見された。水野日向守は徳川家康の従兄弟に当たり、大坂夏の陣では大和口方面軍の先陣の大将であった。当然、徳川方である。
 史料発見当時『週刊朝日』がこれを取り上げ、通説を覆す新史料としてセンセーショナルに報道した。しかし、なぜか研究家はほとんどこれを無視、あるいは否定したのである。その理由として歴史家の岡田一男氏は「宮本武蔵研究の問題点」(『歴史研究』平成三年十月号)にて、「武蔵が夏の陣で豊臣方に加担して大阪城に入ったことは「小倉碑文」が立証している。「大坂御陣の御供」にある名は同時代に宮本武蔵を名乗る者が何人もいたので、これも同姓同名の別人であろう」と書いている。
 はたして小倉碑文は武蔵の大坂方を立証しているか。私が現地で確認した碑文の該当部分は次の通りであった。
  《豊臣太閤公之嬖臣石田治部少輔謀叛之時或於攝州大坂 秀頼公兵乱時武蔵勇功佳名縦有海之口溪之舌寧説盡簡略不記之》
(読下し)
「豊臣太閤公の嬖臣(へいしん)石田治部少輔謀叛(むほん)の時、或いは攝州大坂に於いて、秀頼公兵乱の時の武蔵の勇功佳名は、縦(ほしいまま)に、海の口渓(たに)の舌に有り、寧(むし)ろ説き盡(つく)し、簡略に之を記さず」

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[小倉碑(宮本武蔵墓)]


どこにも豊臣方あるいは徳川方についたとの記述はない。それどころか「謀叛の時」とか「兵乱の時」という言い方は、それを鎮圧する側からの表現であり、「関ヶ原、大坂、この両陣での武蔵の勇功佳名は、あまねく天下の知るところであり、簡略には説明できないほどである」と伊織は父の軍功を高らかに誇っているのである。
 伊織はこの碑を建てた時、徳川譜代大名中の名門、小笠原藩の筆頭家老であった。藩主小笠原忠真は徳川家康の曾孫(母は家康の嫡男信康の女)で大坂夏の陣では父と兄が壮烈な戦死、自らも全身に七箇所の深手を負っている。その忠真から「武蔵の石塔山(墓地)にせよ」と下賜された山に建てた石碑である(宮本家由緒書)。武蔵がもし大坂方であったなら、何の勇功、何の佳名であろう、碑文から削除される事項となる。味方の徳川方であったればこその顕彰であろう。
 岡田氏の論拠で思い出されたのが、武蔵研究家の原田夢果史氏がその著『真説宮本武蔵』で述べられていた大坂方説の論拠である。
 「秀頼公の字の上に一字空白をおいてあるのは、直属の主君に対する敬意を表す闕字(けつじ)法で、彼が関東方でないことを示す」
 岡田氏もこの事をさして言われているのか。しかし残念ながら闕字は直属の主君にのみするものではない。一般的に記述者から見て貴人に対する敬意を表するために用いる文章作法であり、徳川の世になっても太閤や秀頼は貴人であったということである。しかもこの場合の記述者は伊織であって武蔵ではない。 結論はこの碑文から武蔵が西軍、あるいは大坂方であったことを立証する事はできないということである。
次にいよいよ大坂の陣で武蔵は徳川方であった証明に入る。

二、「大坂御陳御人数附覚」〈裏付一〉
 
慶長十九年の大坂冬の陣に武蔵が参戦した証明史料は今のところ出ていないが、翌二十年(元和元年)の夏の陣に出陣した裏付け史料をいくつか見つける事が出来た。
 まず中山家史料の信憑性は、まったく同一内容の記録が広島県福山市の福山城に収蔵されていることがわかり、立証された。福山は水野日向守勝成が大坂陣後に十万石で再移封された所である。その史料は中山家同様水野家の家老であった小場家文書の中の一本で「大坂御陳御人数附覚」となっており、現地鏡櫓にて確認したところ宝暦二年の写しと、文政元年の写し二本があり、奥附けに小場兵馬所持と記されていた。
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[大坂御陣御人数附覚(福山城鏡櫓蔵)]

 これによると夏の陣での水野軍の総陣容は、《総御供騎馬二百三十騎、総御人数三千二百人之由》となっている。士(さむらい)大将は中山外記、そして御供騎馬武者二百三十人の中「作州様附」十人の四番目に宮本武蔵の名前があった。作州様とは勝成の嫡男、美作守勝重(のち勝俊)のことである。
 この東西二つの同一資料は、武蔵が徳川方、水野勝成の陣営にあった事を裏付けている。週刊朝日の「士大将格」という判断は明らかな誤り。士大将は一軍の総大将で、通常は藩の家老が任命された。水野軍では中山外記であった事がこの覚書でわかる。武蔵の立場は当初陣場借りかとも考えたが、勝重付十人のうち二人までは名前の上に「牢人にて出陣」との但し書きがある。武蔵にはそれがないということは、仕官を求めての陣場借りとも思えない。この頃すでに六十余度の勝負に勝ち、天下無双の剣豪として高名であった武蔵は、その気になればいくらでも仕官が出来たはず。水野家では遊遇の名士、勝成の御客分としての身分で、後の島原の陣での小笠原家同様、若殿勝重の身を守る護衛の任を特に勝成から頼まれたものであろう。いわば客将と見るのが正しいと思う。

三、『黄耈(こうこう)雑録』〈裏付二〉
 
 水野勝成を祖とする福山水野藩は、五代勝峯がわずか二歳で没し元禄十一年に無嗣改易となった。先祖の功をもって勝成の曾孫となる勝長に能登国の内一万石で再興させられ、のち下総結城藩一万八千石として存続するが、家臣団は分散し、家老中山家は幕臣旗本へ、分家は尾張徳川家に移った。その尾張中山家に中山七太夫という長沼流兵学者が出て、この人がたくさんの写本を中山家の今に伝えている。その中の一本に武蔵が大坂陣で活躍する場面を記録したものが見つかった。出典を探していると、名古屋の郷土史家より、それと同じ記録が『黄耈雑録』に出ているとの指摘を受け、判明した。それは宝暦の頃(一七五一~)尾張藩の松平君山という学者が、藩士等の見聞録をまとめたものであった。彼は藩の書物奉行で、膨大な記録、文書の管理と編纂が職務であった。
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[『黄耈雑録』表紙(左)と中山七太夫筆の該当部分(中山文夫氏蔵)]


 中山文夫氏のご尽力により『黄耈雑録』の写本(全十巻)が名古屋市史史料の中に見つかって写しを送っていただいた。その第一巻に中山家蔵の記録と同一内容がある事が確認できた。該当部分を抜粋すると次のようになる。

    一、宮本武蔵ハ兵法の名人なり、十四五の時分剣術を得、父ハ無二といふ、是又一流の遣ひ手なり、是をハ古流と云、武蔵我代(わがだい=城)に仕かへしとぞ、十八歳にて吉岡清十郎と仕相し名を発し、廿余にて岩石と仕合、名を発す、大坂の時、水野日向守か手に付、三間ほとの志ないのさし物に、釈迦者仏法之為知者、我者兵法之為知者と書れる。よき覚ハなし、何方にて有れん橋の上にて、大木刀を持、雑人を橋の左右へなぎ伏れる様子、見事なりと、人々誉れる。

 一つ書の中の一項目であり、きわめて短文であるが、前半の伝聞は当時から武蔵が剣豪として有名であったことを、後半では戦場で働く武蔵の様子を生き生きと伝えている。そしてこの中に、「大坂の時、水野日向守の手に付」と明確に武蔵が徳川方水野軍に属して戦った事、すなわち「大坂御陳之御供」に記録されていた宮本武蔵が、同姓同名の別人などではなく、正真正銘のあの剣豪武蔵であった事を証明しているのである。
 それにしてもこの記録は実に興味深い。陣中の武蔵は三間ほどのというから五メートル余の大指物に、「釈迦者仏法之為知者、我者兵法之為知者(釈迦は仏法の知者たり、我は兵法の知者たり)」と大書した旗を立てていたという。普通一般に指物の長さは二間弱というから、極めて派手なパフォーマンスで、あの仏教開祖の釈迦と自分を並べてアピールするなど、自信満々たる壮年武蔵の姿が浮かび上がってくる。
 そして橋の上に陣取って、寄せ来る敵の雑兵へ大木刀を振りかざし、バッタバッタとなぎ伏せる戦闘場面は、剣豪武蔵の面目躍如、あまりの見事さに、皆口々に褒め称えたと言っている。戦場で闘う武蔵の目撃史料は他になく、非常に貴重である。
 ではこの戦闘は一体いつのどの戦場でのことであろうか。
「水野勝成覚書」によると、水野軍は夏の陣の五月六日、河内の道明寺方面において大坂方の猛将後藤又兵衛基次軍と激戦している。戦闘の様子はおよそ次のようであった。
 《片山の山を(後藤軍を)下へ追い崩し、道筋両側は深田にて、田の中に小さき石橋あり、先に拙者(勝成)二番に中山勘解由、三番に水野美作守、四番目に村瀬左馬、それを乗り越すと、本多左京の軍勢が追い崩され、その橋の際まで逃げかかってきたので、右四人の者、馬より降り槍を取って突き掛かり、敵を退け、藤井寺まで進撃した》
 まるで四将だけがいるような記述であるが、配下の侍、若党などが周りを固めているのは当然である。先の「大坂御陣御人数附覚」で武蔵は勝成の嫡男勝重付の騎馬武者であったことを確認した。勝重この時十七歳、武蔵はここにいたのである。『黄耈雑録』記載の武蔵が橋の上で戦闘する場面が事実なら、この小橋での事ではないだろうか。
 
四、「宋休様御出語」〈裏付三〉 
 水野家は刈谷三万石から戦功によって一旦大和郡山六万石に封ぜられた後、元和五年にはさらに備後福山十万石に加増転封された。
 この福山に武蔵史料がないかと思い、平成五年夏、福山城博物館に問い合わせてみたところ、福山市文化財保護審議会長でもある平井隆夫氏より回答を得、更なる裏付け資料が見つかった。それは水野藩の古記録「宋休様御出語」(小場家文書)というものであった。宋休とは水野日向守勝成の隠居号で、彼が隠居後に話したことを近侍の小場兵左衛門利之が晩年に筆録したものである。(のち福山城博物館蔵の写本を確認)
 注目したのは、その中〔勝成、島原出陣〕の一節であった。

  黄昏(たそがれ)に及て御着故、いまだ陣所を取しつめさるに雨は頻(しきり)にふり出す。陣中殊之外(ことのほか)騒々しく聞へければ、前備(まえぞなえ)の小笠原家にて是を聞き凡(およ)そ着陣には法あり、さしも日向殿、当時の良将とこそ聞こえし、あの着陣の騒敷(さわがしき)はいかにぞや、今にも夜討など有らば、あの人数は物の用には立つべからずと、口々に云いければ、宮本武蔵という者是を聞き、我先年、日向守殿家にこれあり、彼軍立よく知れり、凡慮の及ばざる大将なり、各評判の及ぶ処にあらず(後略)

 と、ここでも武蔵自ら「自分は先年、日向守殿に属してその軍立てを良く知っている」と言っているのである。この島原陣の前、大坂の陣でのことを言っていることは間違いない。「前備の小笠原家」とは、宮本伊織(武蔵養子)を総軍奉行とする小倉藩小笠原忠真軍のことであり、この中に武蔵がいた事は、原城落城の日の陣中より日向県(延岡)藩主、有馬左衛門佐直純へ宛てた書状や、後日肥後細川藩筆頭家老長岡佐渡守へ陣中音信のお礼を述べた武蔵直筆の書状が残っており、立証している。また新な小笠原家史料調査によって、有馬陣出陣記録の内、小笠原信濃守長次の身の回りを固めた「旗本一番」の騎馬武者の中に宮本武蔵の名が発見され、武蔵の役割までが立証されたのである。
 もはや、武蔵が徳川方で戦った事は、動かしがたい事実であろう。 (つづく)

by mizuno_clan | 2011-03-26 15:43 | ★研究論文