【寄稿17】宮本武蔵と水野勝成 『宮本武蔵の大坂夏の陣』2/2 »»Web会員««

五、三木之助は水野藩中川氏〈裏付四〉 
 今回の考証で思いがけず判明したのが武蔵の最初の養子、三木之助の出自であった。そしてそれがまた、武蔵が大坂の陣で水野家にあった事の証明であり、徳川方の四つ目の裏付けとなったのである。
武蔵の伝記で『二天記』より古い丹治峯均筆記『武州傳来記』によると、三木之助は造酒之助であり、武蔵が摂州尼崎街道で拾った馬子の少年となっている。二天記の「泥鰌(どじょう)伊織」と同類の伝承であるが、意外とこれを真に受けている人がいる。しかし、大方の史家、研究家は「新免宗貫の孫」としている。新免家は武蔵の養父無二之助の旧主にあたり、新免姓を下賜されている関係から、自然と受け入れられてきた。根拠もある。「作州新免系図」に三喜之助という名があり、脇書きにそのことが書かれているのだ。
《当世の美少年二刀剣術をよくす。宮本武蔵玄信の養子となり、播州姫路城主本多美濃守世子、中務太夫忠刻に仕える。七百石側小姓、宮本造酒之助と改める。本多忠刻寛永三年丙寅五月七日卒三十一歳、造酒之助即日殉死》
 三木之助と、字の違いをのぞいてはまったくその通りである。しかし不思議な事は、筑前黒田藩三奈木村に残る「筑前新免系譜」と、かなり相違がある点である。
 新免家は関ヶ原で西軍宇喜多秀家軍に属して敗れ、一族家臣とも九州へ落ち、黒田家に仕え明治維新まで続いている。領地だった三奈木村には今も「伊賀様」とよばれる新免伊賀守を祭る祠や供養塔が、新免宗家と家臣団の祭司の中心として大切に守られており、この系統の由緒は正しいが、こちらに残る新免系譜には三木之助らしい人物の記録は一切無い。
 「作州新免系図」に更に疑問が生じたのは平成三年夏、三木之助の墓を姫路に訪ねたときからであった。墓は姫路市郊外、書写山圓教寺内、本多家霊廟の中にある。寺域は広く、ロープウエイで山頂に上ってなお三十分は歩かねばならなかった。
 本多家霊廟の中は一番が幸千代(忠刻と千姫の子)、次が忠刻、そのあとは御霊家付で歴代城主墓が並んでいて見事であった。そして、忠刻の大きな五輪墓の後ろにかしずくように、殉死した三木之助と岩原牛之助の小さめの五輪墓があった。
 ちょっと本題から外れるが、圓教寺墓誌によるとこの牛之助は元忠刻の家臣で故あって牢人していたが、忠刻死するを聞いて立ち帰り、墓前で切腹したとあった。丹治峯均筆記『武州傳来記』では三木之助をそのように作り、大坂で武蔵と別れを告げさせて殉死するが、これは誤伝から出た説話であろう。
 三木之助の墓の後ろにもう一つ小ぶりの五輪墓があった。三木之助に又殉死した陪臣宮田覚兵衛の墓であるという。部下に慕われていた三木之助の人間味が偲ばれる。
 驚いたのは、三木之助の墓誌を見た時であった。
  《宮本三木之助 宮本武蔵の養子忠刻が卒すると墓前において切腹。伊勢の生まれで武蔵の養子当時二十三》
 三木之助は「伊勢の生まれ」となっていた。新免氏の作州でも筑前でもなく、まして摂州尼崎でもないのであった。三木之助と伊勢、宮本武蔵、どう考えてもこの頃の史料では結びつかない謎であった。そんな折、戸部新十郎著『考証・宮本武蔵』に出会った。そこには三木之助の出自について、先の二説のほかに「積翠雑話に宮本造酒之助は備後福山城主、水野勝成の家臣、中川志摩之助の孫だといってある」と、論評なしに付記してあった。
今度は福山。根拠がわからず、伊勢の時と同じでこの時も途惑うばかりであった。しかし、これが平成五年の発見につながった。
「大坂御陳之御供」を見た時、武蔵の名より先に飛び込んできたのがこの中川志摩之助の名前であった。その後に武蔵の名を確認し、ここで「武蔵―中川志摩之助―水野勝成」の関係が一本に繋がったのである。
『積翠雑話』が正しかった。しかも三木之助を養子にしたのはなんと大坂夏の陣が縁だったのである。このとき武蔵が客将として出陣した水野家の武者奉行が中川志摩之助であった。志摩之助は歴戦の勇将であり、槍の名手として知られていた。武蔵と意気投合し、三木之助を養子に貰い受ける事になったのではないだろうか。

以上四つの裏付けをもって、武蔵が大坂夏の陣で刈谷水野家、すなわち徳川方について戦った事を十分に証明出来たと思う。
 関ヶ原の時とは違い、この大坂夏の陣は戦国の終わりを告げるためか、大坂方に加担した牢人狩り探索は徹底的で厳しく、毎日おびただしい数の牢人が探し出されて首を切られ、路傍に三列に並べて延々晒されたという。豊臣秀頼の隠し子国松も見つけ出されて六条河原で斬首、女児は千姫が養女に引き取って尼にし、その血統を断った。
 武蔵は三木之助を連れて水野家を去り、やがて将軍家女(千姫)婿である姫路の本多忠刻に兵法師範として迎えられ、自らは仕官せず養子三木之助を代わりに仕官させて後見することになるが、武蔵がもし大坂方の牢人であったなら、とてもこの境遇は考えられないのである。
幕府が、相次ぐ改易であふれる牢人問題に頭を抱え、大坂牢人「御赦免」の方針を打ち出すのは、家光の政権となった元和九年(一六二三)のことであった。

六、「宮本小兵衛奉公書」を発見〈裏付け四の又裏付け〉
 平成五年、三木之助の姉の子孫とされる福山の平井隆夫氏の示唆を受け、岡山池田藩に宮本小兵衛なる者が提出した「宮本家由緒書」があることを知り、岡山大学付属図書館に依頼して調査したところ、所蔵の池田文庫(池田藩史料)に小兵衛が元禄九年(一六九六)に書き上げて藩に提出した「奉公書」を発見する事ができた。それが三木之助の系譜であった。冒頭に、「先祖、伊勢国中川原と申す処に小城持居り申す由」と、その出自が伊勢である事を述べている。墓誌の「伊勢の生まれ」の謎が解けたのである。武蔵の養子になった事も、子孫がなぜ岡山なのかの疑問もこの中で明瞭に判明した。
(読下し)
         奥方附足軽頭 高弐百五十石 宮本小兵衛 元禄九年子、五十五歳
一、先祖、伊勢国中川原と申す処に、小城持居り申し候由、申し来り候。祖父中川志摩之助、世倅の時分、牢々仕り、仙石権兵衛殿、讃州に御座候節、奉公罷出、武篇の走り廻り数度仕り候て、鉄砲頭に成、知行千石余り下され候、或る時、手柄仕り候褒美として、権兵衛殿の御紋、永楽之上字を下され、永ノ字を紋付け来り申し候、其の節、水野日向守殿、其の頃は六左衛門殿と申し、御父和泉守殿不和に付、権兵衛殿に御座候、其の時分より御心安く、別して入魂に仕り、其の馴みにより、其の後、日向守殿仰せられ候は、彼方此方と申すべきよりは、心安く、此方へ参るべく候。武者奉行を御頼み成されたき由にて、御呼び成され、鼻紙と仰せられ、知行六百石下され候、(後略)
一、中川志摩之助嫡子、同形部左衛門(略)
一、中川志摩之助次男、同主馬(略)
一、養祖父宮本三木之助儀、中川父志摩之助世倅にて御座候、私ためには實の伯父にて御座候。宮本武蔵と申す者の養子に仕り、児小姓の時分 本多中務様へ罷出、知行七百石下され、御近衆に召仕われ候、九曜巴紋に付け候へと仰せをもって、唯今に付け来り申し候、御替御紋と承り候、 圓泰院様、寛永三年寅五月七日 御卒去の刻、同十三日、二十三歳にて御供仕り候、
一、私父宮本九郎太郎、三木之助弟にて御座候。此者も 圓泰院様に児小姓に召仕われ候、兄三木之助殉死仕り、実子御座なく候に付、九郎太郎に跡式相違なく、 美濃守様より仰せ付られ、名も三木之助に罷り成り候、 天樹院様、 播州より江戸へ御下向成され候刻、 美濃守様御供を成され候。其の節、三木之助御供仕り候、天樹院様美濃守様へ御意にて、道中御旅館に於いて御目見え仰付られ候、 甲斐守様の御代、番頭に仰せ付られ候、内記様の御代に和州郡山に於いて、寛永十九年申九月に病死仕り候、
一、三木之助世倅、私兄、弁之助と申す、父跡式下され 内記様に罷り有り候へ共、若き時分に病死仕り、其の節、本多家を浪人仕り候、
一、私、生国大和国郡山にて御座候、十五の年、兄弁之助果て申し候。其の節より南都に罷り有り候、寛文二年寅十月十二日、江府に於いて、弐十一歳の時 当殿様へ召出され、同十一月十日、御礼を申し上げ候、今、俵六拾弐俵五人扶持下され、御式臺に相詰め、御供や御使者を、相勤め候、
(以後小兵衛の元禄九年までの池田家奉公の次第が一つ書きで年を追ってまだ延々十丁余も続くのであるが、本稿では省略する)

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福田正秀『宮本武蔵研究論文集』(2003年 歴研)より引用


 書き出しは先祖附で、伊勢の中川原城主の出。祖父中川志摩之助から三人の伯父、父、兄のことを書いて、自分の奉公書へと繋いでいる。まず冒頭の見出し等からこの奉公書は元禄九年(一六九六)、小兵衛五十五歳のときに岡山藩に提出したものである事がわかる。当時の役職は奥方附き足軽頭で、禄高二百五十石であった。
 中川志摩之助は讃岐の仙石家の時分、槍働きの戦功で知行千石の鉄砲頭となり、その頃父に勘当され放浪中の水野勝成と知り合って入魂となった。後、大名になった水野勝成に武者奉行を頼まれて六百石で仕えた。大坂の陣でも槍働きをしたと伝えている。「鼻紙」とは、「とりあえず、ほんの気持ちばかり」という意味で、今後の加増を含んだ言葉であろう。志摩之助の三男が三木之助で宮本武蔵の養子となった。三木之助は武蔵の後見で将軍家女千姫の夫・本多忠刻の児小姓に召し出され側近七百石の出頭人となるが、忠刻の死去に殉死することとなった。跡式は弟の九郎太郎が二代目宮本三木之助を襲名して継がされている。武蔵はどうやら水野藩中川志摩之助の子を三木之助だけでなく四男九郎太郎までも養子にして二人とも本多忠刻の小姓として出仕させていたようである。その子三代目弁之助まで本多藩宮本家は継承されるが、弁之助が若死して断絶となった。弁之助の名は武蔵の改名前の初名として知られており、父の二代目三木之助の死はまだ武蔵生前の寛永十九年であるから、武蔵が襲名を許したものであろう。
弁之助の弟が小兵衛で奇しくも父の没年に出生している。後に岡山藩池田光政に召し出されてこの奉公書の伝来に至ったというわけである。
池田光政の正室勝姫は三木之助が殉死した本多忠刻と千姫の子で将軍秀忠の養女である。この縁による召出しであることは明らかであり、奉公書によれば小兵衛は光政夫妻、二代綱政にも厚い信頼を得て側近くに仕えたようである。本多忠刻(圓泰院)の五十回忌には姫路の本多家菩提寺書写山圓教寺へ光政夫妻の名代を勤めて墓参している。このとき当然のこととして忠刻墓の後ろに控える同じく五十回忌の初代三木之助の墓に参拝を果たすことになった。小兵衛の感激と感慨はいかばかりであったろう。
 この史料の発見によって、武蔵の養子三木之助の出自が伊勢出身の水野藩中川志摩之助の子であることが明確となり、三木之助の本多藩宮本家は一代で絶えたとされてきた定説が覆り、代々続いていたこと。武蔵が肥後細川藩の御客分として逗留し、畢生の兵法書『五輪書』を書き終えてこの世を去った正保二年(一六四五)の頃は、二人の養子の宮本家は本多藩の宮本三木之助家も小笠原藩宮本伊織家(筆頭家老)も共に隆々と栄えていたことが明らかになった。

 武蔵が刈谷水野家より大坂陣に出陣することになった経緯、すなわち水野勝成との出会いがいかなる由縁によるものかは今後の研究課題であるが、このことが武蔵の後半生に三木之助や伊織を養子として徳川譜代雄藩へ出仕させ、自身を常に束縛の無い自由の境遇に置いて兵法の道を極めていくという独創的な人生戦略の起点となり、兵法を極め、『五輪書』完成への道に繋がっていったことは間違いないように思われる

*本稿は月刊『歴史研究』(歴研)1994年九月号掲載「宮本武蔵の夏の陣」に一部加筆し史料写真を加えた。
*謝辞 本論の成立には水野勝成家老・中山将監重盛のご子孫である中山文夫氏の多大なご協力がありました。故人となられた御霊に深甚の感謝を申し上げます。

福田正秀(ふくだまさひで)熊本県在住
著書『宮本武蔵研究論文集』(2003年 歴研)
『宮本武蔵研究第2集 武州傳来記』(2005年 ブイツーソリューション)
共著『加藤清正「妻子」の研究』(2007年 ブイツーソリューション)



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[参考資料]
 「中山氏の系圖」については、「S-1>《水野氏関連氏族》「中山氏の系圖」第2版」をご参照下さい。(研究会事務局)
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by mizuno_clan | 2011-03-26 15:42 | ★研究論文