【談義1】水野氏と戦国談義(第三十三回)

つづき

 信長の尾張在国時代の最後の年に発給されたM文書は、信長が命じた欠所処分によって宛人の知行を保護しようという、他とは違った構造をもったものである。この文書については、『新修名古屋市史』が次のような解説を加えている。

 永禄九年(一五六六)葉栗郡島村(一宮市)の兼松又四郎正吉<マサヨシ>には、「兼松弥四郎名田并<ミョウデンナラビ>びに諸買徳」が「誰々如何様<イカヨウ>の判形を帯<タイ>すといへども欠所として申し付く」として宛行われている。兼松弥四郎は天文二〇年に熱田社へ太刀を奉納しており、その銘文によれば実名を秀吉<ヒデヨシ>といい「葉栗郡島住人」としている。兼松正吉への宛行は、前年に犬山織田氏を滅ぼした直後であり、犬山方に属した同族の秀吉の闕(欠)所地が与えられたものであろう。また元亀元年(一五七〇)祖父江秀重には、「闕所方」として祖父江豊後分四〇貫文・櫛田<クシダ>分五〇貫文が宛行われているが、「先判免状有るといへども破棄せしむ」とされている。以上の二例は、同族の所領を闕所として引き継いだため、その後の血縁間の争いを断つために敢えてこうした注記を必要としたと考えられるが、このように闕所とは、その所領について過去に出された判形(先判)による保証など、旧来の権利関係を一切破棄して没収することを意味している。
(『新修名古屋市史第二巻』)

 ここで同書は、「闕所とは、その所領について過去に出された判形(先判)による保証など、旧来の権利関係を一切破棄して没収することを意味している」と、改めて「欠所」あるいは「闕所」の意味を規定している。そしてこの一文の構造は、①「旧来の権利関係を一切破棄」することと、②「没収すること」の2項が「~して」という言葉で結合されており、②の前提として①が存在するという表され方をしている。しかしながら「没収」という言葉の概念は、対象物の所有権と人との関係を切断し、その後に切断主体にその権利を帰属させるという内容をもつ。したがって没収という概念には、「旧来の権利関係を一切破棄」することが包含されているのである。
 ここでの「欠所」定義は、②「没収すること」を示しながら、その②に包含されている①「旧来の権利関係を一切破棄」をわざわざもちだし、しかもその前に配置されている「その所領について過去に出された判形(先判)による保証など」という箇所は、まるまる①の補足事項である。こうしたことからすれば、同書の「欠所」定義は、その意味合いを②「没収すること」とする以上に、①「旧来の権利関係を一切破棄」するに重点を置いているように思える。本来であれば、「所領を没収することを意味している」で十分であるはずなのであるが、この定義で「旧来の権利関係を一切破棄」することを強調しなければならなかった理由は何なのであろうか。
 『新修名古屋市史』のM文書解釈では、弥四郎の名田と買得地を信長が没収した後に、それを叉四郎に宛行ったものとしている。そしてこの一連の処置の手順は、以下の3ステップに分解することができる。

a:既存の所有権の破棄
b:信長の所有
c:信長から又四郎への所有権移動

 そして信長のこれら処置に対して、「誰々如何様の判形を帯す」といって抗議する者が出現するのであるが、このことは第一段階の既存の所有権の破棄が不十分であるということを示している。つまり抗議する者は、弥四郎名田と買得地に関する一切の権利が破棄されたとは考えず、「誰々如何様の判形」が有効だと思っているのである。しかしここで奇妙に思えるのは、上記の「b:信長の所有」という過程が存在するのに、その前提となる既存の所有権破棄がまっとうできていないことである。信長の所有物となった弥四郎名田と買得地であるのに、信長以外の誰かの判形を持ち出して不服を言うなどということが、本当にありえるのだろうか。そしてそれはまだしも、このM文書ではそのことを当の信長自身が想定しているというのは、何ともおかしな話である。例えば、ある者が織田伊勢守の判形を持ち出して、「その名田は私の所有物にございます」と没収に抗議したとしよう。織田伊勢守は永禄2年に信長が滅ぼした守護代であるが、その敵対者の判形をもって信長の裁定に抗議するなどということは、まず考えられない。しかも信長がそんなこともあるだろうと想定するということは、巷では織田伊勢守の権威が信長を上回っていると思われているということを、信長自身が認めていることになるのである。
 M文書の解釈を受けて、『新修名古屋市史』が「欠所」の意味のポイントとして、「旧来の権利関係を一切破棄」するという点を取り出したことは、実のところ重要である。これはH文書で信長が、「免許の類を破棄せしめ申しつく」と述べていたことにも現れていたが、要は「a:既存の所有権の破棄」を「b:信長の所有」とするための単なる前提、手段、あるいは経過点だとして済ませないことである。M文書発給の意義は、まさにこの「旧来の権利関係を一切破棄」することが不完全であることの補完にこそある。なぜならば、弥四郎名田や買得地に対する既存の権益の切断が十分であれば、弥四郎知行に「相違」など起こらないはずだからである。

 ここまでの考察で、「欠所」という用語のもつ意味合いは、領地没収というよりはその領地に関わる既存の権益すべてを破棄させることに、重点があるようだということがわかってきた。それでは「欠所として申し」つけたにもかかわらず、なぜ既存の権益がきちんと切断できないのであろうか。この問題を探るために、あらためてM文書の構造を整理すると以下のようになる。

① 信長が弥四郎名田と買得地に欠所処分を命じた。
② 欠所処分を命じても、第三者の判形をもちだして抗議する者が現れることが予想される。
③ ②のような抗議は、欠所処分なのだから又四郎知行に相違はない。

 ①で命じた欠所処分であるが、②においてはその効力が不十分であろうことが想定されている。しかしながら③では、その欠所処分を根拠として又四郎知行が保護されるとしているのである。これは念を押したに過ぎないとも思われるが、問題は「欠所として申し付くるの上は、相違なく知行すべきもの也」という文言である。本来であれば、「信長が宛行ったのだから間違いなく知行せよ」と、ここはなるべきではないだろうか。つまり又四郎に関わっているのは、「c:信長から又四郎への所有権移動」であって、その前段の既存の権益破棄と信長の所有、つまり没収それ自体が彼に結びついているのではない。それなのに、なぜ「欠所として申し付くるの上は」なのであろうか。
 ここで「欠所」の意味を、「a:既存の所有権の破棄」に限定してみよう。そうすると信長の所有はなく、したがって宛行いもなくなる。あるのは該当名田と買得地の権利が、弥四郎から分離されたという事態だけである。しかしこれであると、これら所有権が宙に浮いた状態で止まってしまうことになり、弥四郎知行が実現しない。そこで信長が「a:既存の所有権の破棄」を命じたのではなく、彼がそれまで弥四郎知行を認めていたこと、それ自体をやめたと考えてみよう。つまり所有権といったものを一旦脇において、弥四郎知行の根拠はその知行地にたいする所有権ではなく、信長の知行認定であったと考えるのである。そしてこの信長の知行認定によって、弥四郎は周囲の介入を気にすることなく、安心して彼の名田と買得地を知行できていたとするのである。
 この前提でM文書を見直せば、信長の知行認定が停止したのだから、「誰々如何様の判形を滞す」といって介入してくる者が現れてくることに不思議はなくなる。そして又四郎の知行についても、信長が行ったのは又四郎当知行という既成事実を認定しただけということになるが、それでは又四郎はどのように弥四郎名田と買得地を当知行することになったのであろうか。
 『新修名古屋市史』はこの文書の解説に、「同族の所領を闕所として引き継いだため、その後の血縁間の争いを断つために敢えてこうした注記を必要とした」と述べていた。ここに「闕所として引き継いだため」とあるが、これではまるで財産相続のようであり、それだから「その後の血縁間の争い」が懸念されねばならなかったと言っているかのようである。同書が「同族の所領を」「引き継いだ」とか、「その後の血縁間の争い」とかを何によって導き出したのかは分からないが、まさにM文書の核心はそこにこそある。信長によって弥四郎の知行認定が解除されたことで、兼松一族内部で相続の話し合いが持たれ、一族は又四郎に知行させることを決定したのではないだろうか。そして信長がそれを受けて又四郎知行を認定したことで、この一件は落着となったように思われる。
 このような理解においては、「欠所」の意味は「旧来の権利関係を一切破棄」することでもなく、信長の私的認定をとりやめることに他ならない。したがって、このM文書の解釈は、「弥四郎の名田と買得地については、信長の認定は解除されたのだから、これらについて様々な言い分もでてくるであろうが、その方ら一族で決めたように相違なく知行せよ」ということになる。ただし冒頭に「扶持として」とあるので、又四郎の知行認定を信長は事後承認ながら、「扶持」であると認識していたと考えられる。信長が「認める」ということは、他所からの介入が一切なくなるわけで、そのことは恩顧だということなのだろう。

 H文書およびM文書の考察で、「欠所」とは領地没収のことではなく、主従関係にある者どうしの間における、知行認定の解除であることが判明した。この理解で買得地に関わる欠所の意味を見直すと、それは売主欠所による連座的な買得地没収ではなく、売った側の売地に対する認定消滅が、売買そのものの消滅に波及するものであるとして理解できるようになる。先にあげた解釈のジレンマでは、財産没収という強権的な所有権獲得の発動が、買主の権益を脅かす唯一の存在として、その発動者を映し出してしまうことによって起こってくる。そしてその発動者の行為を抑止する存在として信長が位置づけられ、それならば発動者は信長の被官でなければならないという結論に導かれてしまうのである。しかしながら、欠所が知行認定の解除であるならば、そのことによって売主の知行売却そのものが支えを失い、売却物に対して諸人からの諸々の主張や行動が発生する。つまり欠所処分が、潜在的に抑止されていた異見や相違を再浮上させてしまうのであり、それを主張するのは欠所処分者ではない。そして信長の文書に示されていたのも、信長による新たな売買の認定によって、諸人の異見から宛人買得地を保護しようというものであったわけである。
 そこに間違いなく売買があったという事実は、何かによって支えらなくてはならない。そしてそれを支えるのが売買証文であるとするならば、その証文を証文として成り立たせる権力が必要である。信長は「誰々如何様の判形を帯すといへども」その効力は認めないと明言していたが、このことは証文や判形そのものが事実の証とはならないことを示している。したがって信長の認定こそが、宛人の買得事実を成り立たせる根拠となっているのである。また「今度国中欠所の儀申付く」とは、尾張国中の所領を没収するという意味ではなく、信長に従っている国中の知行地に関する従来の認定は、全て無効であることを宣言したものである。この従来の認定とは、「誰々如何様の判形」や売買証文などを指しており、結局のところ、信長の免許や判形による認定だけが知行における唯一の根拠であることを示したものだったのである。


 弘治元年、星崎・根上の領主たちは、鳴海の山口左馬助が引き込んだ駿河衆の駐屯費用負担から逃れるため、今川義元との主従関係を断ち切った。そしてこのことによって彼らは、所領知行を認定し保護する後ろ盾を失ったのであるが、C文書はこの状態のことを「跡職」と呼ぶ。そして星崎・根上の領主たちは、所領知行の認定と保護を求めて信長の元へ帰参することになったのである。
 信長は彼らの帰参を受け入れたが、彼らの所領については「悉く欠所」、つまり一旦彼らの知行認定を棚上げして、「堅く糾明を遂ぐべき」ことを命じたのであった。つまり離反と帰参の実態を詳しく調べた上で、帰参者への知行認定を行う方針を明らかにしたのである。そしてこの糾明の間、星崎・根上の領主たちは、信長の認定がないままにこれまで通り所領を知行していたのである。そしておそらくは、この糾明の後には、彼らの所領は当知行に任せて「相違なく知行申しつくべきもの也」となったことであろう。
 今回の談義では、信長文書に度々現れる「欠所」という用語の意味について詳しく考察してみた。その結果、「欠所」は没収という意味ではなく、主による被官知行認定の解除であるとみるべきことがわかった。しかしこのことは、「欠所」という当時の用語の意味が正しくはどうであるかが判明した、ということに終わるものではない。そこには、現代の我々が捉え損なってしまうような何かがあるのであり、その何かの探求は、当時と現代における社会システムの差異に迫るものとなるであろう。次回以降は、「欠所」を没収と取り違えてしまう何かについて、そしてそれを梃子にして戦国の社会システムについて考察していこうと思う。
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by mizuno_clan | 2011-07-03 17:22 | ☆談義(自由討論)