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【談義1】水野氏と戦国談義(第三十五回)

歴史と過去①-歴史学は経験科学かⅠ-
                                                談義:江畑英郷

 歴史に興味を持ち、探求してみようとする動機は人それぞれであろう。私の場合は以前から織田信長に惹かれ、彼が戦国史の表舞台に登場することになった桶狭間合戦に興味というか、思わず解き明かしたくなるような謎を感じて、この研究に着手したことが始まりであった。私の中でのこの合戦に関する謎の起こりは、藤本正行氏が執筆した『信長の戦争』(注1)を読んだことによる。そしてそこには、史実に基づいた確かな分析があると感じたのだが、その結論には不満が残った。
 藤本氏はこの著書の序章で、太田牛一が記した『信長公記』の史料批判を丹念におこない、その信憑性を確認した上で桶狭間合戦の考察にこれを用いている。そしてその考察の結論が、かの正面攻撃説なのであるが、その実証的な手順の運びにもかかわらず率直に頷けない説明となってしまっていた。したがって桶狭間合戦の謎とは、実証的な手続きを経て得られた結論が、常識的には受け入れがたいものとなっていること、このことに発していたのである。藤本氏の分析がそのような結果になってしまった原因は諸々あるであろうが、言わば藤本氏が生み出した謎に挑戦している中で、その挑戦がある矛盾を起こしていることに気がついた。その矛盾とは、今川義元がどうしてあのような敗北をするに至ったのか、その原因が『信長公記』の中に銘記されていることに関わる。

今川義元、山口左馬助が在所<ザイショ>へきたり、鳴海にて四万五千の大軍を靡<ナビ>かし、それも御用にたたず、千が一の信長纔<ワズカ>二千に及ぶ人数に扣<タタ>き立てられ、逃がれ死に相果てられ、浅猿敷<アサマシキ>仕合<シアワ>せ、因果歴然、善悪ニツの道理、天道おそろしく候ひしなり。
(『信長公記』新人物往来社 桑田忠親校注)

 『信長公記』のこの箇所は、本談義三十二回「国人小河水野氏の困惑③-山口左馬助生害」でも取り上げて考察を加えた。牛一は、桶狭間合戦における今川義元の敗北は、「因果歴然」なのだと断言している。今川軍4万5千、織田軍2千という格段の戦力差がありながら、優勢なはずの今川軍が惨敗したのは、戦略や戦術などの戦い方の問題なのではないという。牛一によれば今川の圧倒的な戦力は、「善悪ニツの道理」そして「天道」の前では「御用にたたず」だったのである。桶狭間合戦の謎といえば、圧倒的に不利であったはずの信長が、どのようにして大軍の今川を撃破したのか。その勝利に至った戦い方が謎の中核にある。かつては迂回奇襲というきわどい作戦を信長が敢行したことで、その手中に勝利が呼び込まれたとそれなりに説明づけられていたが、藤本氏は信憑性の高い『信長公記』に依拠することでそれを否定し、代わりに正面攻撃がおこなわれたと結論した。そしてそのことが、桶狭間合戦の謎の始まりであったわけである。兵力においても地勢的にも圧倒的に有利であった今川軍を、劣勢の織田軍が正面から攻撃してどうして勝てたのか、そこのところが当の本人は別にして、誰もが謎であると思ったわけである。そしてこの矛盾は、この合戦の勝敗を何が分けたのかが、『信長公記』に基づいて謎として取り出されたのであるが、その当の『信長公記』に、戦い方がどうあろうとそれは因果であり、今川義元は敗れる運命にあったと明言されているという点にある。
 序章の史料批判によって、『信長公記』の記載の信憑性は高いと判定された。少なくとも桶狭間合戦の記録に関しては、『信長公記』に勝る記録はないということに異論を唱える者はいないであろう。したがってこの合戦を読み解こうとする者は、誰もがこの記録の一字一句を取り上げて、その真実に迫ろうと企てる。そしてその真実の中核は、この合戦における信長の勝利がどのようにしてもたらされたかである。しかしながらこのとき、同じ記録の中に「因果歴然、善悪ニツの道理、天道おそろしく候ひしなり」があることを、誰もが無視するのである。著者の牛一に言わせれば、「どうやって勝ったかはどうでもよいことで、だからそれを記さなかったのであり、重要なのはどうして勝ったのかなのである」、ということになるだろう。そしてその牛一の言葉を無視し続ける態度が、実証的と形容されるものなのである。
注1:JICC出版より『信長の戦国軍事学』として刊行された同書は、その後講談社学術文庫版に収められたが、その著名が『信長の戦争』である。

 桶狭間合戦における今川義元の惨敗は、彼の為した悪行が時を経て彼に返ってきたものである。これが受け入れられるならば、どのような戦い方であっても結果は同じであったわけで、それは問題にならないはずである。この合戦の研究家は、誰もがこの箇所を無視するのであるが、それは他の箇所は事実に基づいているが、この記述は虚構であるとみなしているからである。それは科学が未発達なこの時代人の迷信であって、そのような迷信は検討する必要などないのだ、ということなのであろう。もちろん当の牛一はそのようには考えていなし、同様にこの時代の人々もここには迷信が書かれているとは思わなかったであろう。このことは見方を変えれば、現代の研究者にはここに書かれていることが理解できていないともいえる。「因果歴然、善悪ニツの道理、天道おそろしく」については、これが何を意味するかは難しいところである。善悪という価値観念が、因果関係を形成するというように読めるが、その理解が当たっているのかは定かではない。また天道というのは、自然法則とは別の法則であってそれが自然法則を超えるのだ、というようにも読める。この箇所の理解は様々あろうが、いずれにしても現代における科学的知見に反する事象を意味している、と受けとめられているのは確かであろう。しかしより慎重には、この箇所は何が示されているのかが不明である、とされるべきではないかと思う。
 『信長公記 首巻』には、ここと同様に何が書かれているのかが不明とすべき箇所が幾つかある。「景清あざ丸刀の事」、「蛇がへの事」、「火起請御取り候事」には、奇談としか言いようのない事件が記されている。それを手にした者は、必ず眼を患うというあざ丸という刀、頭部が鹿のように見える奇怪な大蛇、赤く焼けた斧を素手で運べるかどうかで罪を占う儀式が、信長周囲の事跡や合戦に関する記述の合間に無造作に挿入されている。そして牛一は、当然ではあるが、それら災厄をもたらす刀や大蛇が実在することを事も無げに前提とし、そして占いの儀式が罪人を言い当てることに何の違和感ももたない。そしてそのとき気づくのが、この『信長公記』の著者は異邦人であるということなのである。ここで牛一を異邦人であると規定する場合、それは現代の我々と彼の間には、深い断絶が存在するということを認めねばならないことを意味している。したがって、この箇所は疑うべくもなく理解できるが、ここは理解が及ばないという部分の違いなのではなく、それ全体が一つの体系として異質なのである。このことを念頭におくとき、歴史を探求するということは、すべからくこの断絶を越えようとする行為なのであり、その跳躍にこそ歴史探求の意義があるということなのである。
 桶狭間合戦における今川義元惨敗の原因を、牛一が『信長公記』の中に記していることをめぐっては、すでに本談義三十二回「国人小河水野氏の困惑③-山口左馬助生害」で取り上げた。そしてその考察については、次のように結んでおいた。

 しかしどちらも人智を超え出た結びつきであり、誰かの意図によるものだとか、合理的に説明できる成り行きだというわけではない。そしてこうした混迷を救おうとしていた今川義元は、この成り行きに彼の意図とは関わりなく運命的に結びつけられて、「山口左馬助が在所」に足を踏み入れたとたんに、絡んだ因縁にその足元をすくわれたのである。こうした義元が陥った状況を無理に説明することもできようが、様々な起こりうる可能性の中であの劇的な結末が用意されたのを思えば、それが「天道」であったとするのに、いつしか違和感は消えているのである。

 『信長公記』に描かれる桶狭間合戦は、「今川義元討死の事」が詳しいのであるが、それは今川義元が沓掛城に参陣したことから始まり、今川敗戦によって尾張の今川方が退去するまでのことである。しかし太田牛一は、この合戦を思いの他マクロ的な視点からみているのであって、「山口左馬助、同九郎二郎父子に、信長公の御父織田備後守、累年御目を懸けられ」という、この合戦に先行する10年以上前の経緯を、勝敗の原因に言及する箇所の冒頭に示している。牛一の脳裏においてこの合戦は、信長が勝ったことが語るべきことであったのではなく、負けるはずもない今川が敗れ義元が討死してしまったことこそが語るべきことであった。彼には寡兵が大軍を破るに至る経緯は一つの偶然であり、その偶然がどのようであったかには関心が向かず、どのような偶然にせよそれを生み出したもの、個々の偶然をそのように結びつけた力に牛一は瞠目させられた、ということなのだろう。そしてその力に、「天道」という語彙を当てたということなのである。私が「いつしか違和感は消えている」と書いたのは、この牛一と同じ観点に立ってみると、運命の不思議を感じざるをえないし、そのことはかの合戦において信長がどう行動したかよりも、確かに思い惹かれることであると思えたからである。
 太田牛一は、『信長公記』に何を記そうとしたのであろうか。歴史記録、あるいは歴史叙述を残そうとしたのであろうか。それともそれは、個人的な懐古録であったのだろうか。このことの答えは、「歴史」という用語をどのように定義するかによって変わってくる。そして少なくとも、客観的な事跡を並べるのが歴史であるというのでなければ、この問いへの答えはその探求活動の根幹に関わることである。そしてそこでは、マクロな視点な視点に立てば立つほど、それが何を意味するのかを問題とせざるをえないという事情に突き当たる。突き当たってみたところで、「何を意味するのか」においては、違いこそ問題であるということに気づくのである。そして先に述べたように、その違いを跳躍しようとする行為が現在を照らすのである。

 これより、長くなる哲学的考察を始める前に、その議論がどこへ向かおうとしているかを示すために、ここまで前置きを書いた。この長くなる哲学的考察のタイトルは、「歴史と過去」というものであるが、それは歴史と過去の相違に考察の焦点を合わせていくことになるからである。そしてそのような考察を、この「水野氏と戦国談義」のような場で展開しようとするならば、まずは歴史学の実証性について検討し、それによって被っている足枷を取り除いておく必要があるだろう。それによって第一回目は「歴史学は経験科学か」というタイトルにしたが、これはこれで大風呂敷なのでとても一回の談義では終わらない。それにしても、ここまでの前置きによって歴史学は経験科学ではないという結論に向かうだろうということは、容易に予想されたことだと思う。後に詳しく述べるが、歴史学が経験科学だということにとどまれば、それは二流三流の科学だという評価を免れえない。しかし歴史学、あるいは歴史探求といったほうが良いのかもしれないが、それは哲学と並んで全学問への批判学である。それであるのに、これを経験科学の枠に押し込めれば、その重要な批判力を喪失させてしまうのである。
 この談義ですすめたいと思っているのは、実証や経験科学に縛られない批判的考察である。そしてそれは現代が自身を読み取るための鏡であって、この読み取りには差異が不可欠なのである。しかし自身をいくら考察しても、その自身の差異は発見できない。それは自身ではないもの、現代であれば現代的ではないものへと向かうしかないのである。しかしそこには、深い断絶が横たわっている。そしてその断絶を飛び越える必要があるが、その力は実証学にはないということなのである。歴史学がその本来の跳躍力を取り戻すこと、そのことについての具体的考察がこの談義の主旨(いつしかそうなってしまった)なのである。そしてそのつもりで筆を進めたが、例えばそれは「それが“天道”であったとするのに、いつしか違和感は消えているのである」、といった言わば控えめな表現をこれまではするしかなかった。今ここで表現と言ったが、実際はそうではなく、私自身が実証に縛られて控えめな考察になってしまったというのが実態だろう。したがってその自身の拘束を打破するためにも、「歴史学は経験科学か」を正面から問い直す必要があるというわけである。


 歴史学の基礎論ということでは、少し古いのであるが林健太郎氏が著した『史学概論』に定評があって、いまだにこれを越えるものは出ていないという評価がされているようである。そこでまずはこの『史学概論』において、歴史学がどのようなものとして規定されているかを確認したいと思う。『史学概論』第三章、「歴史学における批判的方法」において、林氏は次のように述べている。

 私は前章の末尾において、歴史学の特質の一つが一般に「実証的」といわれるその研究法にあることを述べた。しかしこの「実証的」という言葉は今日の日本の通俗の用語法に従ったのであって、私はそれを必ずしも適当なものとは考えない。この言葉は具体的なデータを重んずるというほどの意味であるが、そのような意味での実証性は具体的な事物の研究に従事する科学においては共通の要請であるというべきであって、必ずしも歴史学のみの特性であるとはいえない。歴史学に特有の研究方法とは、史料を重んじ史料に基づいて事実の認識を行なうということである。そしてそのため歴史学には特に史料学及び史料批判と称せられる基礎部門が付随しているのである。このことは、事実を認識するためには単に事実の意識を持つだけでは不十分であってそのための特別な技術を必要とすることを意味している。したがって歴史学のいわゆる「実証性」の本質はこの「批判的」というところにあるのであって、それ故私は「実証的」という通俗の言葉をしりぞけて「批判的」ということを以って歴史学の特質を表わすのが適当であると考える。
(『史学概論(新版)』林健太郎著、有斐閣)

 林氏は歴史学の特質について、「史料を重んじ史料に基づいて事実の認識を行なうということ」であって、それは「実証的」という用語よりも「批判的」という用語のほうが適切であるという。なるほど歴史学の探求方法は、「実証的」で括るには無理がある。事実認識が史料に依存するのであるから、これは他の実証的な学問とは大いに異なるわけだが、「史料を重んじ」では軽すぎるように思う。歴史学の足場は史料以外にないのであって、この点こそが際立った特質である。そしてそれは歴史学が過去を探求するものだからであり、したがって経験できるのは今ここにある史料だけだからである。林氏はこの史料の批判的検討過程が、歴史学に固有の実証性を確保しているとの認識に立ってそれを「批判」というが、「考証」のほうがやはりわかりやすい。
 さて考証の技術論は脇に置いておくとして、この考証と事実との関係がどうなっているのか。このことについて、林氏がどのように述べているかここで確認しておこう。

 私はさきに、歴史学は歴史的事物をその歴史性においてとらえる「歴史的歴史科学」であると述べた。この場合「歴史的」とはとりもなおさず「時間的」ということであるから、事物を歴史性においてとらえるということは即ちそれを時間の経過の中においてとらえるということに外ならない。しかるに未来は未だ存在せず、現在は常に一つの瞬間に外ならないとすれば、対象を時間性においてとらえるということはそれを過去性においてとらえるということでなければならない。ところが過去の事実を認識するということは、人間の直接の感官によってはなし得ないことである。従って過去の事実と現在の我々の感官を媒介するものが必要である。この媒介物が即ち史料に外ならない。それ故史料を取り扱う技術としての史料学が歴史学の基礎をなすことは当然である。
(前掲書)

 過去の事実を直接に認識することはできないが、今目の前にある史料がそれを媒介すると林氏は主張する。この過去の事実を史料が現在に媒介するがために、その適切な媒介を可能にする条件として、史料批判が据えられねばならないということなのである。それは媒介しているものを見誤らないためであり、また事実以外の媒介を排除するためでもある。このことからすれば、史料には過去の物や出来事を現在に伝達する能力が備わっていると、林氏は考えているようである。しかしその伝達には、事実ではないものも混入しているので、これを技術的に除去する方法が必要となり、それが歴史考証なのだというわけだ。そして林氏は、「史料批判の方法が確立することによって、歴史学は初めて科学と称せられるに値するようになったいわれている」と述べるに至る。
 この林氏の主張においては、過去の出来事を現在に伝達する能力が史料に備わっているということが大前提であって、そこから事実を汲み出す方法が確立すれば、過去の事実は現在において観察しうるということのようだ。しかしながら、林氏の主張の大前提である、史料には過去の出来事を現在に伝達する能力が備わっているという見解は、何の検討もなしに認められるはずもない。それでは次にこの点について、林氏はどのように述べているかをみてみよう。

 しかしそれにしても、歴史学は対象を過去性においてとらえるといういい方が、別の意味で人々の非難を受けるかも知れない。何となれば「歴史認識を決定するものは現在の意識である」乃至は「一切の歴史は現代の歴史である」というような命題が、しばしば唱えられ、そのような見方からするならば、歴史を過去として眺めるということが既にはなはだ反時代的なことのように思われるおそれがあるからである。しかし私の考えによれば、この両者は決して矛盾するものではない。後に述べるように、「歴史認識を決定するのは現在の意識である」という命題は歴史認識論の上において極めて大事な意味を持つものである。しかしながら、たとい歴史学においては対象と認識主観とが容易に分離し難い性質を持っているとはいえ、それは決して対象と認識主観とが混同されてよいということを意味するものではない。従ってもしも人が、人間の主観が客観的事物そのものをつくり出すという観念哲学を文字通り信奉するのでないならば、右の歴史認識論の命題は決して文字通り現在の意識が歴史をつくるということを意味するものではない。それは過去の事実に対する歴史像が現在の意識によって形成されるということを意味するのであって、過去の事実そのものは、現在の認識主観の前にあらかじめ与えられているのである。従って我々が歴史上の事実をあくまで過去としてとらえることによって、始めて現在の立場からするそれの把握の前提が成立するのである。
(前掲書)

 ここでの林氏の主張で、注目すべきは以下の2点である。

①過去の事実に対する歴史像が現在の意識によって形成される。
②過去の事実そのものは、現在の認識主観の前にあらかじめ与えられている。

 ①の主語は「歴史像」、②の主語が「事実そのもの」であることに注意しなければならない。歴史像は意識によって形成されるが、事実そのものは認識主観の前に与えられている。林氏は「歴史学においては対象と認識主観とが容易に分離し難い性質を持っている」とするが、そのことは①の主張に関わることで、それは歴史像の形成においてのことである。そしてその歴史像の形成は、②の過去の事実そのものの認識が前提となっているのであるが、その過去の事実そのものは、「現在の認識主観の前にあらかじめ与えられている」というのである。この「あらかじめ」というのは、認識以前にということになるが、それは史料の物的な実在のことを指しているように思われる。つまり史料は物的実在であるから、当然に認識に先立って独自にそこにある。しかしそれは単なる物ではなく、過去の事実を媒介する能力があり、したがって媒介された過去の事実も物的実在と共に、認識主観に先立ってそこにあるということになる。林氏は、「史料(Quelle,Source)という字が単なる材料(Material)ではなく、事実をそこから汲みだす場所としての意味を持つ言葉である」と述べているが、そこでは物的材料である以上に事実の源泉であることが強調されているのである。このように過去の事実が史料によって現在に伝達されるのは、あらかじめ与えられているというほどに林氏にとっては自明なことである。その能力があるから「史料」と呼ばれるのであって、そうでなければただの古びたものに過ぎないということなのだろう。
 確かにそれを史料と捉えた時点で、そこに過去の出来事が現わされていることを認めていることになる。しかしながら、それがどのようにして可能なのかは自明のことというわけではないだろう。林氏も『史学概論』の「むすび」冒頭に、「“歴史とは何であるか”という問題が“いかにしてそれが認識できるか”という問題につき当たらなければならないことは、哲学における実在論が認識論につき当たるのと同じく必然的なことである」と述べている。ならば過去の事実に対して、「いかにしてそれが認識できるか」と問うべきであるが、それが常識的な自明性でかたづけらてしまっているように思われる。
そしてその常識的自明性とは、「むすび」の冒頭につづく次の文章に示されているようなものである。

 しかし一方において我々は、人間の意識の前に事実が客観的に存在するということを承認しないわけにはいかない。従って我々は人間によって知られ考えられた限りのものが人間にとっての歴史であって、歴史そのものは認識者の主観にかかわりなく存在するものであるとしなければならない。 [中略]しかしかつて何人かによって知られていたものはその人の死によって消滅し、その後にはただ痕跡のみが残される。かくして時と共に多くの痕跡が集積しそのあるものはその間に失われるが、しかもその集積は時々刻々に増大してゆく。そしてそれが我々にとって知られる歴史となる。歴史というものはこのようにして我々の前に与えられている。
 歴史とは過去において人間が行なった一切の事柄である。

(前掲書)

 史料とは、「過去において人間が行なった一切の事柄」の痕跡である。客観的に存在する事実は、人間の意識には関わりなく痕跡を残す。そしてその痕跡が現代に伝わったものが史料なのである。先に林氏は、「過去の事実そのものは、現在の認識主観の前にあらかじめ与えられている」と述べていたが、与えれているのは過去の事実そのものではなく、その痕跡だったのである。
 痕跡はその痕跡を残したものを指向する。例えばその痕跡が犬の足跡であれば、その犬は大きいとか、北に向かっていったとかが、その痕跡から知ることができる。このように史料が痕跡であるのならば、この痕跡を残したものへの指向性が過去を現代に運ぶのである。この史料=痕跡論は後に詳しく検討したいと思っているが、今は「歴史学は科学なのか」のテーマに即して考察をすすめよう。

[つづく]

by mizuno_clan | 2012-02-12 16:38 | ☆談義(自由討論)