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【寄稿23】「水野忠分の菩提寺・梨渓山心月齊」»»Web会員««

水野忠分の菩提寺・梨渓山心月齊
  愛知県知多郡美浜町大字布土字明山8    Visit :2014-02-02 14:00

                                筆者:水野青鷺

●梨渓山 心月齊(りけいざん しんげつさい)
創建:天文十五年(1546) 常滑の曹洞宗天澤院に属す
開基:盛龍院殿心得全了大居士 天正六戊寅年(1578)十二月八日卒
    布土城主(寄留地)、本貫は緒川城主 水野藤治郎忠分(藤十郎範方)
    徳川家康の生母於大の方の実弟。
開山:大良喜歓大和尚(緒川から招かれた) 元龜二年辛未年(1571)九月廿二日寂
本尊:釋迦如来、脇佛は迦葉・阿難の両尊
Web : http://www.shingetusai.com/

●水野藤治郎忠分(みずのとうじろうただわけ)(みずのとうじろうただちか) 【注釈】

 水野忠分(1537--1578)は、紀伊新宮藩初代当主水野重央(しげなか)の父であり、菩提寺および墓所は「梨渓山心月齊」(*1)である。
 母方の祖父大河内左衛門佐元綱は、三河寺津(現愛知県西尾市寺津町)の城主で、母は華陽院、のちに松平清康の後妻などになる。実名は「於富の方」あるいは「於満の方」など諸説あり。
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【資料1】『新訂 寛政重修諸家譜 第六』㈱続群書類従完成会 1964.12.30発行
[寛政重修諸家譜巻第三百三十五 清和源氏 満政流 水野] (P.85)
忠分(たゞちか)
  初範方(のりかた) 藤次郎 水野右衛門大夫忠政が八男、母は大河内左衛門佐元綱が養女。
 織田右府(信長)に属し、天正六年荒木摂津守村重叛くのとき、右府にしたがひ摂津國有岡城を攻、十二月八日先鋒にすゝみつゐに戦死す。年四十二。法名全了。尾張國知多郡小河の乾坤院に葬る。

[意訳]
水野忠分は、天正6年(1578)、荒木摂津守村重が織田信長に叛き籠城した際、信長に従い摂津國有岡城を攻め、十二月八日(新暦1月中旬頃)、部隊の先頭に立って進むも終に戦死した。享年四十二歳、法名は盛龍院殿心得全了大居士。尾張國知多郡小河の乾坤院に葬る。
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●有岡城の戦い(ありおかじょうのたたかい)
 天正六年(1578)7月-天正七年(1579)10月19日にかけて行われた籠城戦。織田信長に帰属していた有岡城主荒木村重が、突如毛利方に寝返り謀反を起こしたことから、信長軍に攻撃され落城。別称「伊丹城の戦い」とも呼ばれる。

【資料2】『月刊 歴史街道』平成26年6月号 PHP研究所 2014.5.7発行
[特集:荒木村重の謎]工藤章興「懊悩の末の叛旗、そして有岡城脱出がもたらしたもの」
[有岡城脱出、そして…] (P.92)
 月が師走に変わった八日、信長は有岡城総攻撃を命じた。三万の大軍勢による力攻めだ。だが、攻略はならなかったばかりか、万見重元や水野忠分らが討死したので、信長は無理な力攻めは避け、十数城の付城を築いての兵糧攻めに方針を転換する。 (後略) 
 


◆十六世紀知多半島の情勢
 十四世紀の中頃、三河守護の一色氏が知多半島へ進出し、東岸の河和(知多郡美浜町)の実権を握っていたものの、「応仁(応仁・文明)の乱(応仁元年(1467))」の頃になると、一族同士が戦い自滅。この一色氏に代わって知多半島を支配したのが、一色氏の被官(律令制下、上級官庁に直属する下級官吏)であった佐治氏と、田原(田原市)城主の戸田宗光であった。佐治氏は大野(常滑市)・内海(知多郡南知多町)を拠点に知多半島の西海岸の支配権を握り、戸田氏は知多半島最南端の幡頭崎(知多郡南知多町師崎)に陣代を置き、半島東海岸の河和・富貴(知多郡武豊町)に砦を築き領有した。明応九年(1500年)、その子憲光の時には、幡頭明神の社を建立し、その後、河和・富貴の外に布土(ふっと=知多郡美浜町)と陣代のある師崎に砦を築いた。永正六年(1509)、家督を憲光の子政光に譲り、河和城に移り住み、「河和殿」と称し、三河湾の制海権を握った。
 この佐治・戸田両氏を脅かしたのは緒川(知多郡東浦町)の水野氏である。水野氏は、緒川に城を築き刈谷(刈谷市)にも進出していたが、水野信元の代になると織田氏と手を結び、知多半島を破竹の勢いで南進して佐治・戸田氏と戦った。

◆2014-02-02 梨渓山心月齊 東堂様(*2)にインタビュー
 心月齋の古くからの口伝によると、水野信元は河和の戸田氏を攻略するため、布土城を築き、弟の忠分を城主の任に当たらせた。これらの勢いに押された戸田氏は戦いに敗れ、富貴・布土・北方(知多郡美浜町)を失い半島における戸田氏の勢力が衰退した。さらに天文十六年(1547)、田原城主戸田宗光は、岡崎の松平氏から駿河の今川義元のもとへ人質として送られる竹千代(家康)を強奪するという事件を起こしたことで、今川氏に攻め滅ぼされ討死する。この危機的状況を脱するため、知多半島の戸田氏は信元と講和を結び河和を残すことを図る。そこで河和城主戸田孫八郎守光は、信元の娘妙源を妻にめとり婿となって水野氏の一族に連なった。
かくして、知多半島は水野氏の勢力下に入り、布土城の役目は終わったものの、忠分が開基した心月齋は存続されるに至った。

一方、忠分は、天正六年(1578)12月8日、有岡城総攻撃により戦死。この直後、忠分の側近達により、忠分の亡骸は塩漬にされ有岡城から布土の心月齋の墓所まで葬送したと伝えられる。
 東堂様曰く「おそらくこの墓石の下に忠分氏のご遺体が安らかに眠っておられることであろう」とのことでした。

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◆葬送についての考察
 今回の採訪で、有岡城で客死した水野忠分公のご遺体が、遠く離れた知多半島の先端近くまで、丁重に塩漬にされ葬送されたという事実に触れ、果たして亡骸は如何にして運ばれたのか、歴史学の一端として考察してみることにする。(以下敬称略)
①遺体の保存方法
棺桶は、おそらく樽状の棺桶(座棺)であったろうと推定される。塩漬というからには、棺桶に粗塩をギッシリと隙間無く詰め、搬送途中でも粗塩を補足していたと思われる。当時は、一月中旬頃であったことから寒く乾いた季節で、真夏のような劣悪な状況にはなかったと推測される。
因みに、隣国の朝鮮時代は、国法によって身分別に葬礼の期間が決められ、風水思想と関連して朝鮮王室における葬礼では、遺体が埋葬されるまでは腐敗してはならないことになっていたそうである。ところが、五ヶ月という長い葬礼期間中、王・王妃の遺体を良好な状態に保つことは甚だ難しい。従って氷室に貯蔵された氷で囲って腐敗防止に務めたが、
氷が解ける過程で発生する湿気の処理の為、湿気を吸収力する能力に優れた乾燥ワカメを各所に置き除湿剤として大量に使ったと言うことである。(*3)
 現代ならドライアイスが昇華してしまうので何も問題ないが、当時は客死した遺体を腐敗無く遠くまで葬送するには、果たしてどのような処置がなされたのであろうか。
②遺体の葬送方法
 一世紀前頃までは、埋葬方法は現代の火葬ではなく土葬が主流であったことから、先述の樽状の棺桶に棒を通して棺を運んだと考えられる。先ず有岡城から棺桶を担いで運び出し、次には水路か陸路、またはその両方の選択肢が考えられる。
 この葬送方法もまた如何にして行われたのであろうか。
 江戸時代に入ってからは、大名が江戸で死去した場合、江戸の菩提寺の外、国元の菩提寺にも遺骨が埋葬されている事実が確認されている。(e.g. 松本水野藩)

[ルート]
 有岡城(兵庫県伊丹市伊丹1丁目) ⇒ 心月齋(愛知県知多郡美浜町大字布土字明山8)
[google乗換案内]で検索 (「→」=陸路、「〜〜」=水路)
a.陸路
 徒歩(198Km 41時間)
  有岡城 → 吹田 → 守口 → 木須 → 島ヶ原 → 亀山 → 四日市 → 名古屋港 →
  阿久比 → 半田 → 心月齋
b陸路と海路(距離数・所要時間ともに不明)
有岡城 → 吹田 → 守口 → 木須 → 島ヶ原 → 亀山 → 白子〜〜上野間 → 心月齋
c.海路を主とする(距離数・所要時間ともに不明)
有岡城 → 猪名川〜(下る)〜瀬戸内海〜〜堺〜〜岸和田〜〜和歌山〜〜田辺
  〜〜新宮〜〜尾鷲〜〜志摩〜〜鳥羽〜〜師崎〜〜河和 → 心月齋
d.参考までに、現在であれば自動車で
 新名神高速道路 経由(204 km 2 時間41 分)
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[註]
*1=菩提寺および墓所については、寛政重修諸家譜などでは、「乾坤院」と記載されているが、今般の取材により墓所は「梨渓山心月齊」と判明。
*2=東堂(とうどう)とは、禅宗寺院において、退薫(引退)した住職をさす言葉。2008年11月2日の晋山式(しんざんしき=住職交代儀式)で、東堂の子息27世住職と交替。
*3=韓 星姫「朝鮮王陵に込められた知恵と哲学」(『韓国の芸術と文化 』韓国国際交流財団1988)

【注釈】(update 2014.6.30)
1.「水野藤治郎忠分」の称呼については、2014-06-27本文を投稿した直後、本会会員で福山結城水野家ご当主から、下記のようなメッセージを頂戴しましたのでご披露かたがた「忠分公の称呼」に修正を加えます。
 「忠分公は私どもでは、『ただわけ』と申し上げております。兄に忠近(近信)がいることと、長子に分長(わけなが)がいることからと思っております」
2.【資料2】で引用した工藤章興「懊悩の末の叛旗…」の本文には、「みずのただわけ」とルビが打ってあり、こちらでも「ただわけ」説を採っています。(画像参照)
3.上記2点の情報から、称呼を「みずのとうじろうただわけ」とし、【資料1】で引用した[寛政重修諸家譜] に記載の「たゞちか(ただちか)」を別称として併記します。
 この併記については、本ブログ記事が、裴松之に倣い「異同のあるものは全て載せるという方針」で投稿しているこにとよります。

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C-1 >梨渓山 心月齊
http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/850794e5ff361cecc77efa67c815e5c2
C-1 >布土城址
http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/22368de504d937e72b7bd99d0c1d9639
C-1 >村木砦址(水野金吾篇)≪考証≫
http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/5e502834710aa62a0c11bc6e718324dc
C-7 >河和城址/水野屋敷(追補版)
http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/ccc794c046b47627a6fc8e1b33fd0d30
有岡城跡(伊丹市ホームページ)
http://www.city.itami.lg.jp/shokai/sansaku/1397178541099.html
有岡城の戦い(ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E5%B2%A1%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84


☆旅硯青鷺日記
 今回は心月齋様の2回目の採訪となりましたが、東堂様から思いがけず貴重なお話しが伺え、これまで水野忠分の墓所は「乾坤院」だとばかり信じられてきましたが、菩提寺の心月齋様に手厚く葬られていることが判明し感銘致しました。
 東堂様のご許可を得て、当山の墓所に詣でると、掲載の写真のように瑞々しい菊の墓花が一対供えられ、墓石には紛うことなき「盛龍院殿心得全了大居士 天正六戊寅年……」と陰刻されていました。
 この採訪に同道くださり、色々とご支援いただいた学友達に、ここに記し感謝の意を表します。    合掌








by mizuno_clan | 2014-06-27 21:03 | ★研究ノート