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Ver.1.0[第1回 水野氏史研究会報告レジュメ]

Ver.1.0[第1回 水野氏史研究会報告レジュメ]

題 目:『下里知足の文事の研究』にみえる「水野氏」
報告者:水野 克彦 (水野氏史研究会会員)
日 付:2014年10月25日


http://mizunoclan.exblog.jp/22527680/

※この原稿はバージョンアップしました。新バージョンを御覧下さい※

尚、この旧バージョンVer.1.0)は、暫く投稿状態にしておきますが、その後削除しますので、予めご了承下さい。





はじめに
 2013年発刊の『下里知足の文事の研究』に掲載されている知足の日記から、水野氏に関した箇所のみを抜粋し、翻刻文の意訳およびその背景についての考察を試みた。底本となる書籍の詳細は以下のものであり、その内容を要約する。

「森川 昭『下里知足の文事の研究』第一部 日記篇 上・下 和泉書院 2013.01.22発行」
 下里知足(しもさと-ちそく)は尾州鳴海村(現名古屋市緑区鳴海町)の豪家下里家二代目で、同村庄屋を勤め下里家繁栄の基礎を築く一方、文事(*1)を嗜み芭蕉、西鶴など多くの俳人と交渉を持った。日記は、寛文七年(1667)から宝永元年(1704)四月十三日(3月13日改元)の急死直前まで連綿と書き続けた。本書第一部日記篇は、地方知識人下里知足の実生活の記録である日記を翻刻(*2)したものである。日記帳は来翰(*3)を主とする紙背文書(*4)で、その中には同村を管轄した御林方奉行所の奉行水野氏の来翰や、営為(*5)について記されたもののほか、譜代大名および尾張藩士など複数系統の水野氏が登場している。(和泉書院ウエブサイトの本書広告文章を参照し編集)

 これらの内容については最近、某研究者からのご教示により明らかとなった。このことから、水野氏史研究の一環として、この日記内容を次世代をになう高校生達にも容易に解って貰う一助となればと、誠に稚拙ながらも該当箇所の意訳を試みた。間違いや思い違いなどをご指摘いただけたら幸いである。
 尚 日記には、複数の水野氏が登場しており「水野氏史研究 分類表」のカテゴリの1つに集約することは甚だ不適切であることから、同分類表に従い「A-4>景俊系水野氏」「C-3>山川山形水野」C-7 >河和水野「C-8 >新宮水野」「E-1>系統不確定水野氏」の5つのカテゴリに分けて記載した。
 本日記の詳細については、同書をぜひ参照されたい。
 
 猶々、ご教示いただいた某研究者に、ここに記して感謝の意を表します。

 [付記]
  *以下の年齢は下里知足の当時年齢。
   ページ数は「上下巻通し番号」(下巻pp.587-1135)。
  *登場人物の一部詳細については、某研究者の解説による。
  *本稿は、会員および各位からのご教示ご指摘により改訂を行い、小さな更新の場合
   には、Ver.1.0の次にVer.1.1、Ver.1.2とし、より大きな更新の場合は、Ver.1.0の
   次にVer.2.0、Ver.3.0とバージョンアップを行い、タイトルにそれぞれVersion№
   を付します。
   また、直前の旧バージョンの投稿には、朱書きで「この原稿はバージョンアップし
   ました。新バージョンを御覧下さい。」と断り書きを入れます。更に旧バージョン
   は暫く投稿状態にしておきますが、その後削除しますので、予めご了承下さい。
 [註]
  *1=文事(ぶんじ)=学問・文芸などに関する事柄。⇔ 武事。
  *2=翻刻(ほんこく)=写本・版本などを、原本どおりに活字に組むなどして新たに
     出版すること。この場合、和紙に毛筆で書かれた日記を活字にして出版するこ
     とを指す。
 *3=来翰(らいかん)=送られてきた手紙。来書。来信。
  *4=紙背文書(しはいもんじょ)=古文書(こもんじょ)の裏に残された別の文書。
     一度使用された紙の裏を再び利用した場合の、もとの表側に記されたものをい
     い、史料的価値の高いものが多い。裏文書(うらもんじょ)。
 *5=営為(えいい)=人間が日々いとなむ仕事や生活。いとなみ。



Ⅰ.水野権平系 関連記録(第一部 日記篇 上)
 A-4 >景俊系水野氏……………A-2系 水野景俊を祖とする水野氏
               水野権平系・水野三郎左衛門系・水野高重系
本章では、上記カテゴリのメンバ「水野権平系」を取り上げる。
「水野氏系譜」は、「平氏系水野権平家伝系図」で、始祖は水野太平太景貞。 水野久
  之丞正勝は同家第十五代、水野権平正照は同十六代当主。
*参考 「御林方奉行所跡」=現在の愛知県瀬戸市水北町300番地付近
http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/8e9a6c6e048d1a5750e234ca9e8473c2

(1).水野久之丞正勝、水野権平正照
 ◆水野久之丞正勝
  尾張藩の春日井・愛知両郡の御林方初代奉行[寛文元年(1661)~同十二年(1672)]
御切米三十石 御扶持五人分。
  延宝四年(1676)十二月二十日病死。享年六十二歳(「水野氏系譜」)。
※「士林泝洄」の没年正保四年は誤り。
  ◆水野権平正照(勘太夫 初名権平)
水野久之丞正勝の長子。御林方第二代奉行[寛文十二年(1672)~享保元年(1716)]
御切米三十石 御扶持五人分。
享保元年(1716)三月七日病死。享年六十六歳」(「水野氏系譜」)。

【史料1】
  
寛文八年(1668)7月4日 水野久之丞殿、小右所へ御越 (29歳) p.12
  四日 晴天 田畑日損所之書付仕ル。九郎兵衛殿、与次右衛門、作左右衛門、
   文左衛門。此日文四ニてうどん百五十文が打喰。使三四郎、田端書付常番ニ遣。
   なごやへ。水野久之丞殿、小右所へ御越。(四日から七日にかけての上欄に「米四
   斗内へ預ケ置。米櫃此米十二日迄ニかす」と横書き)

 «意訳»
寛文八年(1668)7月4日 晴天
   田畑はこの所日照りにより乾いて損害を受けたので、記録のため書き記します。
九郎兵衛殿、与次右衛門、作左右衛門、文左衛門が、本日麵処「文四」で、うどん 
  150文(5人で1人30文の代金 ≒16文×10杯 ≒5人×2杯)を無雑作に
  さっさと食べる。召使の三四郎を田畑作米帳(耕作によって生産した自作米の数量
を記入した帳簿)の番人として、なごやへ派遣する。水野久之丞殿が鳴海根古屋の
旅籠小右衛門のところにお越しになる。[米4斗を自宅に預けおき、米櫃とこの米
を12日まで保管を課す]もしくは[米4斗を家に預けおき、米櫃とこの米を12
  日まで仮借する]などの意味であろうか。

 [補説]
うどんについては、当時の1杯の価格は「故事類苑」では16文となっており、上
    記の計算でいくと、それぞれが、1杯ずつお代わりをしたということになろうか。
    因みに「守貞漫稿」上巻 巻之五 生業 饂飩蕎麦屋 p75 には、1800年代の記録
  であるが――
   
「今世京坂ノ饂飩蕎麦屋繁盛ノ地ニテ、大略四五町或ハ五七町ニ一戸ナルベシ所ニ
    ヨリ、十餘町一戸ニ當ルモアリ、
    表格子に横長ノ行燈ヲ掛ルモアリ、是ハ上圖ノ如ク書ス(圖略、文字は以下)、
     行燈正面―麺類處
       側面―二八 うどんそば切
    又見世ノ壁ニハ紙ニ圖ノ如ク書テ張之、故ニ次ニハ説カズ(品書)、

一 うどん  代十六文
一 そば   代十六文
一 志つぼく 代廿四文 (後略) 」

  とある。
  さらには、「和・洋・中・エスニック 世界の料理がわかる辞典の解説」には
、「に
  はちそば 【二八蕎麦】=古く、慶応年間(1865~1868)以前には、2×8=16で、1
  杯16文のそばをいったとされる。」
とあることから、当時もうどん一杯は16文程度
  であったと推察される。

【史料2】
  延宝元年(1673)10月25日 水野久之丞殿へ人遣  (34歳) p.154
  晴天 水野久之丞殿へ人遣。うら表米納ル。

 «意訳»
寛文十三年(1673)10月25日 晴天
   水野久之丞殿へ使用人を派遣し、鳴海裏方と表方の米を納める。
 [補説]
鳴海は裏方の三皿町庄屋近藤久右衛門と表方の相原町庄屋下里金右衛門知足が管轄。

【史料3】
  延宝二年(1674)日記紙背文書               (35歳) p.184
 ①水野久之丞書翰
  
猶以其元□□御事も無御座御無事之由、目出度珎重存候事ニ御座候。誠ニ其後ハ
    久々不懸御目ニなつかしくぞんじ候間、何様不斗以参可得御意候。以上。
遠路御召寄御玉札、忝拝見申候。如御申被下候、同名権平祝言首尾能相済、
  拙者満足之段御察之通ニて御ざ候。
  依之御祝儀と被成、見事成串海鼠一折饋被下、誠ニ幾久忝存候。内之御使をも可被下
  と思召候や。小右衛門方申候間、遠方ニても御座候間、かならず御使被下候とも、
  御無事被成被下候様に各々様へ申給候へと、堅ク申参、遠地御飛脚被下、
  乍忝けつく迷惑ニ令存候。猶期面上具ニ御礼可申入候。恐惶謹言
   十月廿五日       水野久之丞(花押) 
寺嶋伊右衛門様
  近藤九右衛門様
  青山喜三郎様
  下里金右衛門様 御報

 «意訳»
本文
   鳴海から瀬戸まで遠路お手紙をお届けくださり、ありがたく拝見させて頂きました。
  おっしゃる通り、水野権平の婚礼は都合よく済み、私が満足していることはお察しの
  通りでございます。
  この事から御祝儀に、贈物として見事な串海鼠(くしこ)一箱を下さり、誠に末長くあ
  りがたく存じます。近いうちお使いをも遣わされてはどうかとお考えなのでしょうか。
遠方でもありますので、決してお使いを下さるなど、何もなさいませんようにと、鳴
  海根古屋の旅籠小右衛門に申しましとおり、皆様にしかと申し上げるようにと言いま
  した。遠地に飛脚を遣わされたことだけで、むしろ恐縮致しております。なお、時機
  を見て対面の際に御礼を申し上げます。  謹言
   10月25日              水野久之丞(花押) 
寺嶋伊右衛門様(鳴海根古屋[現名古屋市緑区鳴海町]本陣の主人、知足の従兄弟)
  近藤九右衛門様(鳴海三皿の裏方庄屋)
  青山喜三郎様 (愛知郡山崎村の人(現名古屋市南区)、知足の親戚)
  下里金右衛門様(下里知足本人、相原村(あいばらむら)の表方庄屋)
         御報(身分の高い人に出す返信。また脇付(わきづけ)。つまり宛名の
            左下に書き添えて敬意を表す語)
袖書](追而書(おってがき)=本文を書き終わった後に改めて書き足した文章)
   追伸、そこの所□□の事もなく、お元気とのこと、めでたいことですので、どうか
   ご自愛下さい。ほんとうにその後は長らくお目にかかれず懐かしく存じております
   ので、不意になるかとおもいますが、ご機嫌伺いに参上致します。以上
 [補説]
   この書翰は、水野久之丞正勝が、長子水野権平正照に奉行職を譲り隠居二年目の延
   宝二年(1674)10月25日付のものであり、権平正照の婚礼に際して、御祝いに串海
   鼠(海鼠(なまこ)を串刺しにして干したもの)を連名で贈られたことに対しての礼
   状である。宛先は本陣主人を筆頭に記されているが、知足は表方庄屋といえども、
   当時35歳であったことから、おそらくこの内の最年少であったろうと推察される。
 また久之丞は、この二年後、延宝四年(1676)十二月二十日に病死しており、享年
   六十二歳であったことから、この書翰は六十歳時のものである。
    猶、この書翰は水野久之丞正勝が、御林方奉行所(愛知県瀬戸市水北町)付近の隠
   居所から差し出したものと推察される。
   ※参考資料 「R-4>【研究余滴】古文書の文法「已上」について」
http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/fc23477967de46f89db7ac586d140154

【史料4】
  延宝八年(1680)3月5日 水野権平殿へたばこ二は遣 (41歳) p.330
  
伝左朝ノ間ひさしニ懸り、なごやへ被参候。
  五日 雨少朝降 道手代衆、昨夜両人食喰被申候。水野権平殿へたばこ二は遣。

 «意訳»
伝左右衛門は、朝のうち久し振りぶりに、なごやへ行く。
延宝八年(1680)3月5日 朝に雨が少し降る
   道連れは手代衆で、昨夜二人で食事したと言っていた。
   水野権平正照殿へ葉たばこを二把贈る。

【史料5】
  貞享三年(1686)9月9日 水野権平殿、久左ニ泊り (47歳) p.572
  
不参 
九日初時雨 山ニて松堀。のそき一本。水野権平殿、久左ニ泊り。

 «意訳»
知足は参加しない
貞享三年(1686)9月9日 初時雨
   山で松掘り取り。掘り取ったのは一本。
   水野権平正照殿は、久左衛門の屋敷に泊まる。(久左衛門は未詳)
 [補説]
納入用あるいは自邸用の五葉の松などであろうか。また、松は松茸のことか。

  *参照 R-1>水野権平家系譜(御林方役所・奉行)
      
http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/7cd38a1915a44c061bbade3fa364eaef

Ⅱ.水野忠元系 関連記録(第一部 日記篇 上・下)
 C-3 >山川山形水野……………C-1系 水野忠元を祖とする水野氏
 本章では、上記カテゴリのメンバ「水野忠元系」を取り上げる

(1).水野右衛門太夫忠春
  山川山形水野家第三代、三河岡崎藩二代藩主。寛永十八年(1641)五月十三日生まれ、
  奏者番・寺社奉行兼帯、大阪仮城代、詰衆。元禄五年(1692)十月十五日没。
※「右衛門太夫」は正字「右衛門大夫」の異字とし、ママとした。
    詰衆=将軍家の身辺に常に侍して警固・奉仕の任にあたる人々。

【史料6】
  貞享元年(1684)5月9日 水野右衛門太夫殿、上使来ル (45歳) p.503
同断(大工、木引来ル)
九日 晴曇ル 上使十三日ニなごやへ御入り之由申来ル。
水野右衛門太夫殿十八日御泊り注進有。橋泉、了寂(瑞祥寺隠居)、
   如意寺、伊右うどんニて振廻。

 «意訳»
前に同じ(大工、木挽が来た)
貞享元年(1684)5月9日 晴曇り 上使(上意伝達のため派遣される使者)が、13日に、
 岡崎からなごやへお入りになると言ってきた。
 岡崎藩主水野右衛門太夫殿は、18日に鳴海に御泊りになると報告があった。
   橋泉(不詳)、了寂(瑞祥寺隠居)、如意寺(鳴海町作町85)、寺嶋伊右衛門様にうど
   んを振る舞う。

【史料7】
  貞享元年(1684)5月17日 岡崎殿ノ先衆御泊まり。ほか (45歳) p.504
十七日 曇ル 岡崎殿ノ先衆御泊まり。伊右ハ加藤遠江守様泊。九右ニ木下右衛門様
   御泊り。
  十八日 曇ル 伊右ニ水野右衛門太夫殿泊り、私宅ハ上使宿ニ明也。

 «意訳»
貞享元年(1684)5月17日 曇り 岡崎藩主水野右衛門太夫殿の先衆(一番先に進む部
   隊、先手衆)がお泊まり。寺嶋伊右衛門宅には加藤遠江守様が泊まる。
   近藤九右衛門様(鳴海三皿の裏方庄屋)宅に、木下右衛門様(不詳)がお泊まり。
貞享元年(1684)5月18日 曇り 鳴海本陣(主人寺嶋伊右衛門)に、岡崎藩主水野右
   衛門太夫殿お泊まり。相原村表方庄屋の下里知足宅を上使の宿として明け渡す。


(2).水野豊前守忠盈(ただみつ)
  山川山形水野家第四代、三河岡崎藩三代藩主。寛文二年(1663)十二月六日生まれ。
元禄七年(1694)、西の丸大手門番に補任、以後京都上使役、奥詰など諸役を歴任。
  元禄十二年(1699)8月4日没。
   ※京都上使役は、御使番のことで、平時は命令伝達、上使(上意伝達のため派遣さ
    れる使者)、諸国の巡察、二条、大坂、駿府、甲府の定番(前4カ所の城に一定期
    間駐在して城を警護する役)、在番および諸役の目付を行った。戦時は軍目付と
    いう名誉の役で武官の誇りであったことから、家禄三千石以上の者も志願し役に
    就いた。豊前守は、この内の「二条上使」の任に就いていたものとみられる。

【史料8】
  元禄九年(1696)11月9日 水野豊前守早がけ。   (57歳) p.853
九日 昼迄雨昼より晴 男共清左家仕切スル。三郎左右衛門なごやへ行。
   大垣下里六右衛門殿御越。泊り被申候。
 水野豊前守様早がけニて京都へ御使ニ御越被成候。夜半比。

 «意訳»
元禄九年(1696)11月9日 昼まで雨のち晴れ  男の奉公人達は江坂清左衛門(尾張
   藩大代官)家の精算をする。三郎左衛門(知足末弟で庄屋を継ぐ)は、なごやへ行く。
   大垣第五代当主下里六右衛門延貞殿がお越しになり、お泊りなった。
  水野豊前守忠盈様が、早駆けで京都へお使いの途上、夜中頃お越しになられた。
 [補説]
   男の奉公人達は江坂清左衛門(尾張藩大代官)家との取引・帳簿などを、この時点で
   区切って締める、つまり決算または“精算”することと意訳したが、あるいは“物事
   を処理すること”などとも解される。
   豊前守は「二条上使」として、江戸から二条城まで幕府の意向を伝達するため急い
   で京都に向かっていたのであろう。身分は五万石の譜代大名であっても、御使番と
   しての任務遂行時には、急務が多く本陣の予約は困難であり、宿泊はおろか休息す
   らままならなかったのであろう。これにより、庄屋宅で一服するか仮眠する程度の
   休息しかとれず、睡眠の不足分は早駕籠の中で補ったと推察される。


Ⅲ.河和水野系 関連記録(第一部 日記篇 上・下)
 C-7 >河和水野…………………C-1系 水野光康を祖とする水野氏
 本章では、上記カテゴリのメンバ「水野光康系」を取り上げる

(1).水野彦四郎(彦四は略称)
   河和水野家祖光康長子政康の次男重忠(水野彦四郎祖)。尾張藩の肝煎役。
   正徳五年(1715)九月没。
(参照)「河和水野系・彦四郎家系譜」
http://mizunoclan.exblog.jp/8389166/

【史料9】
  元禄七年(1694)10月6日 刀一腰、水野彦四郎殿へ持参 (55歳) p.794
  
表具や分右衛門、今日被参候。  
六日 晴天 なごやへ行、又一ニ泊ル。刀一腰、水野彦四殿へ持参、御めニかけ申候。
   宿藤左ニて三平と二人食喰。

 «意訳»
  表具屋分右衛門が今日来られた。
  元禄七年(1694)10月6日 晴天 なごやへ行く。又一(不詳)に泊まる。
   刀一腰(一振)を水野彦四郎重忠殿へ持参しお目にかけた。
  宿の藤左衛門(不詳)宅で、三平(不詳)と二人で食事をした。
 [補説]
三日前の3日に、善之庵の伊兵衛から刀2振りを千代之助を遣い、私(知足)に届け
   させたので、受け取り預かっている。その刀の内の1降りを水野彦四郎に見せた。
   善之庵は、鳴海枝郷の地名の一つである。知足は表方の庄屋であり、枝郷伊兵衛か
   らの刀の売買仲介も行っていたのであろうか。「お目にかけ」とあることから、進
   物に用いたとは考えにくい。
   また4日に「善之庵太左へ行」とあるが、これは枝郷の組頭の名前である。
   参考までに、「緑区情報バンク」には、「支村善之庵」の名が見える。


Ⅳ.水野重仲系 関連記録(第一部 日記篇 上・下)
C-8 >新宮水野…………………C-1系 水野重仲を祖とする水野氏
本章では、上記カテゴリのメンバ「水野重仲系」を取り上げる

(1).水野土佐守重上(しげたか)
紀伊新宮領三代領主水野重上。紀州藩の御附家老(2名)の1人で、江戸詰めであった。
  宝永四年(1707)3月1日没。

【史料10】
  元禄三年(1690)3月14日 水野土佐殿、い右泊。   (51歳) p.683
  
同断(大工、表ノかいニ懸ル。)左官ハ仕廻帰ル。  
十四日 雨振 〆三日と朝ノ間ぬる。銭五百五十文遣。
 水野土佐殿、い右泊

 «意訳»
  大工は表の階にかかる。左官は仕事を終えて帰る。
  14日 雨降る 締めて3日と朝の間左官が壁塗る。工賃の銭550文を支払う。
 水野土佐守重上殿は、鳴海本陣に泊まる。
 [補説]
   左官の1人工は160文とすると(160文×3日+70文)の計算になる。
水野土佐守は紀州藩の御付家老(35,000石)であり、大名並の領地を有していたが、
   大名格に準じる身分として、本陣に宿泊していたものとみられる。


【史料11】
  元禄十四年(1701)5月30日 水野土佐守殿、庄六泊。   (62歳) p.997
晦日 天晴晩ニ少夕立 昼より東福院ニてはいかい有。奥田彦九郎殿御発句。野川分
   内殿、私宅ニテ切麦打申由。又一、金右衛門相伴ニて碁有り。水野土佐守様、庄六
   泊り。紀州より下り。下宿五軒。
    吹ぬきハ両袖涼し夏座敷    独卜
     竹の子ほった藪のあかるき  独笑

 «意訳»
   元禄十四年(1701)5月30日 晴天少し夕立 昼から東福院(花井町)で俳諧興行。
    奥田彦九郎殿(尾張藩大代官)が発句。野川分内殿(不詳)がご自宅で、切麦(冷や
    麦)を打ったそうだ。なごやの又一(不詳)と金右衛門が連れ立って来て碁を打つ。
    水野土佐守重上様は、庄六(不詳)に泊まる。紀州から江戸に下る。下宿は五軒。
      [下宿(したやど)=大名行列などの供の者が宿泊する所。また、下級の宿屋。]
〈連歌〉
肌着なしに着物を着ると、両袖ともに涼しく、開け放った夏座敷に風が渡る。
独卜(奥田彦九郎尾張藩大代官)
竹の子を掘り竹を間引きした竹藪は明るく心地よい風も吹き抜けていく。
独笑(不詳)

Ⅴ. 系統不確定水野氏 関連記録(第一部 日記篇 上・下)
 E-1 >系統不確定水野氏………出自未詳の水野氏(出自判明次第移行する)
本章では、上記カテゴリのメンバ「出自未詳の水野氏」を取り上げる

(1).水野次郎兵衛(A)
尾張藩の御徒。実名・没年月日不明。
 ある資料では、「御徒」と記されているようだが、以下の仕事内容から徒目付か、
   あるいは徒目付組頭の役職にあったとも推察される。

【史料12】
延宝四年(1676)7月15日 水野次郎兵衛殿 天白へ御越。 (37歳)   p.227
十五日 晴天 水野次郎兵衛殿、天白へ御越。堤ふしん有。なごや御代官所左衛門殿
   へ作左右衛門、踊之事ニ被参候。杁之訴状も上ル。

 «意訳»
延宝四年(1676)7月15日 晴天 水野次郎兵衛殿が鳴海庄天白村(現名古屋市緑区鳴
   海町天白)へお越になった。天白川堤防の土木工事があった。なごや代官所の左衛
   門殿のご指示で、作左右衛門が、踊の事(盆踊りカ)でいらっしゃった。杁(用水の
   取り入れ口)の訴も出された。
   ※参考資料 「杁」について
http://heron.at.webry.info/201305/article_2.html


【史料13】
延宝五年(1677)6月1日 石橋かけニミさへ水野次郎兵衛殿。 (37歳)   p.248
朔日 晴天 河野喜兵衛様、近藤清左殿、植村藤右衛門殿御越。如意寺、九右所。
   上方順見衆御通りニ付。石橋かけニミさへ水野次郎兵衛殿、井村孫兵衛殿御越。
   うら方石橋御仕廻。

 «意訳»
延宝五年(1677)6月1日 晴天 河野喜兵衛様(不詳)、近藤清左殿(不詳)、植村藤右
   衛門殿(不詳)がお越しになる。如意寺(鳴海町作町)、近藤九右衛門宅(鳴海三皿の
   裏方庄屋)に滞在。京阪地方担当の巡見使がお通りになるので、石製架橋工事を見
   分に水野次郎兵衛殿、井村孫兵衛殿がお越しになる。鳴海三皿の裏方の石橋工事は
   終了。

(2).水野次郎兵衛(B)
中嶋橋手代衆
中嶋(島)橋は現在、名古屋市中川区昭和橋通りの荒子川に架かっているが、この手
   代衆は、当時の中嶋橋に常駐する代官所や奉行所の手代衆か、あるいは商家の手代
   であったと考えられる。前述の、水野次郎兵衛(A)と同一人物か、あるいは別人
   かは、今のところ判明しない。従って両者の混同を懸念し(A)(B)の2つに
    分類した。

【史料14】
延宝七年(1679)2月2日 中嶋橋手代衆水野次郎兵衛殿。 (40歳)   p.295
二日 晴天 中嶋橋手代衆水野次郎兵衛殿、源助殿、御大工市兵衛殿御越。宿下中弥
   次右。妙意寺にてかりや少入と俳諧有。

 «意訳»
延宝七年(1679)2月2日 晴天 中嶋橋手代衆の水野次郎兵衛殿と源助殿、大工市兵
   衛殿がお越しになる。宿は、下中弥次右衛門宅(不詳)。妙意寺(鳴海町作町)でかり
   や少入(刈谷の医師太田氏)と俳諧の会を催す。


(3).水野瀬兵衛
   尾張藩の附家老、尾張犬山藩第3代当主成瀬正親の家臣。元禄九年九月二十九日没。
 名古屋市博物館「名古屋城下お調べ帳」DVD の「宝暦5年(1755)」には 「成瀬
    陪審」とあり、また『金鱗九十九之塵』巻第八 に「尾張藩付家老成瀬隼人正
  正寿(当主1809-1838)の筆頭家老に水野瀬兵衛、同番頭に水野弥之右ヱ門が居り
    ……」とある。このデータは本日記成立から70年以上降るが、同家は代々「家
    老」職にあったと考えられる。

【史料15】
延宝八年(1680)12月18日 水野瀬兵衛殿 成瀬殿御供。 (41歳)   p.352
十八日 晴天 成瀬隼人様御下り。水野瀬兵衛殿、石原甚五兵衛殿、北尾弥三郎、藤
   八殿御供。此夜金ニ而も米ニても年貢ニ上る筈ニ申来ル。

 «意訳»
延宝八年(1680)12月18日 晴天 成瀬隼人様が江戸へ下られる。水野瀬兵衛殿、
    石原甚五兵衛殿、北尾弥三郎(不詳)、藤八殿(不詳)がお供する。今夜、金でも米
    でも年貢となる筈であると言ってきた。 
 [補説]
翌9年12月1日以降、数回にわたり「御年貢金なごやへ持参」などと記されており、
  年貢が米だけでなく、金納でも許可されていたことが解る。


(4)水野弥之右衛門
元禄二年(1689)8月7日付日記に「隼人正様へ三郎左衛門参候。大竹又左衛門殿、水
  野弥之右衛門殿家老に御成候」と書かれており、御付家老成瀬家の家老に就任したこ
  とが解る。
因みに、名古屋市博物館「名古屋城下お調べ帳」DVD の「宝暦5年(1755)」には
「成瀬陪審」とあり、また『金鱗九十九之塵』巻第八 に「尾張藩付家老成瀬隼人正
正寿(当主1809-1838)の筆頭家老に水野瀬兵衛、同番頭に水野弥之右ヱ門が居り……
  とある。このデータは本日記成立から70年以上降るが、水野瀬兵衛家と同様に、同
  家も代々「家老」を継承する家柄であったものと考えられる。

【史料16】
  天和元年(1681)12月9日 九郎殿内水野弥之右衛門殿。 (42歳)   p.391
九日 晴天 道手代衆笠寺へ御帰り。御国方足軽衆弐人御寄。酒断昼食参り、小なる
   みへ御通り。跡ニ又弐人御越。拙宅へ御泊り。御年貢無遅滞様ニとの御申付、両庄
   や判仕ル。一郎左右衛門殿内平岡久左衛門殿、九郎左右衛門殿内水野弥之右衛門殿。

 «意訳»
  天和元年(1681)12月9日 晴天 道手代衆が笠寺へお帰りになった。国元足軽衆2
    人が寄られた。酒をやめて昼食に行くため、鳴海枝郷の古鳴海を通られた。その後
   にまた2人来られて、我が家にお泊まりになった。年貢の遅滞がないようとのお言
   いつけで、鳴海の裏と表両庄屋は証文に判をついた。立会人は、一郎左右衛門殿内
   の平岡久左衛門殿、九郎左右衛門殿内の水野弥之右衛門殿。


【史料17】
  貞享二年(1685)10月8日 水野弥之右衛門殿の配下立寄。 (46歳)   p.543
八日 晴天 水野弥之右衛門殿御下御寄。須ケ田太左、七左見ニ被参候。
   岡本平兵衛殿、加藤一郎兵衛殿、伊右衛門殿川戸御覧被成候。

 «意訳»
貞享二年(1685)10月8日 晴天 水野弥之右衛門殿の配下がお寄りになる。須毛田
 太左右衛門(カ、不詳)、七左右衛門(カ、不詳)が、見にいらっしゃった。
   岡本平兵衛殿(不詳)、加藤一郎兵衛殿(尾張藩大代官)、寺嶋伊右衛門殿(鳴海本陣
   主人)が川戸(不詳)を御覧になられた。
 [補説]
2日から前日(7日)までの6日間、検見衆がやってきて田畑・塩田などを検見し、
   知足宅に泊まった。次いで尾張藩の大代官手代あるいは奉行手代と思しき水野弥之
   右衛門殿の配下2名が検分に訪れた。また尾張藩大代官ほか2名も川戸を検分した。
   この川戸とは、水戸、水門(水量調節の取水口に設けた門)、あるいは内海と外海の
   狭い境、大河の河口、みなと等のことであろうか。ともあれ城中から、見廻りの役
   人が定期的に巡回し領内を管理していた様子が窺える。加藤一郎兵衛は、「名古屋
   城下お調べ帳」には「加藤市郎兵衛」とある。

【史料18】
  元禄二年(1689)8月7日 水野弥之右衛門殿家老に御成  (50歳) p.660
七日 曇 隼人正様へ三郎左衛門参候。大竹又左衛門殿、水野弥之右衛門殿家老に御
   成候祝儀ニ。

 «意訳»
  元禄二年(1689)8月7日 曇り 尾張藩の附家老(尾張犬山藩第3代当主)成瀬隼人正
   正親様へ三郎左衛門(知足末弟で庄屋を継ぐ)が参上し、大竹又左衛門殿、水野弥之
   右衛門殿が、家老に就任されたので祝儀を献上した。 


(5)水野金兵衛貞信
尾張藩の先手足軽頭(天和二年-貞享五年(1682-1688))。実名は貞信。北村季吟門の俳
  人虎竹。別号雀巣軒・贇賢。
  貞享五年(1688)六月九日没。

【史料19】
  貞享五年(1688)6月15日 九日水野金兵衛殿けんくわ之由 (49歳) p.624
十五日 晴天 浄古老、山崎へ被参候由。
   江戸ニて九日ニ水野金兵衛殿けんくわ之由申慣候。

 «意訳»
貞享五年(1688)6月15日 晴天 浄古老(不詳)、山崎へ参られたと聞く。
  江戸で、9日に水野金兵衛貞信殿が喧嘩をしたと聞く、何時ものことでもう慣れた。


(6).水野又兵衛
  尾張藩の大代官手代あるいは奉行手代。

【史料20】
  元禄二年(1689)9月3日 水野又兵衛殿、西へ        (50歳) p.661
三日 晴天 水野又兵衛殿、西へ御寄夕食有。善之庵田見分る。

 «意訳»
  元禄二年(1689)9月3日 晴天 水野又兵衛殿、西問屋(花井町)へ寄られ夕食なさる。
  鳴海枝郷の善之庵の田を見分する。

【史料21】
  元禄二年(1689)9月19日 水野又兵衛殿、伊藤へ      (50歳) p.662
十九日 晴天 水野又兵衛殿、伊藤太七殿昨日九右へ御越、晩田小けんミ昨今より有
   り。

 «意訳»
  元禄二年(1689)9月19日 晴天 水野又兵衛殿、伊藤太七殿(不詳)が昨日、近藤九
  右衛門(鳴海三皿の裏方庄屋)宅へお越しになる。夜分に田を小検見される。近頃夜の
  小検見が行われるようになった。
 [補説]
検見については、まず代官の手代が行う小検見(こけみ)が行われ、その後、代官が自
  ら巡回して大検見(おおけみ)が行われた。検見は、けんみとも。元禄になって、なぜ
  夜間に田を小検見されるようになったのは不明だか、知足自身も疑問視しているよう
  だ。

【史料22】
  元禄二年(1689)9月21日 晴天 新田見立ニ水野又兵衛殿、   (50歳) p.663
二十一日 晴天 男共うらの垣ゆい。新田見立ニ水野又兵衛殿、江崎金左殿、
   昨晩御越、九右ニ泊り。此町角借や、半兵衛口入ニてかす筈ニスル。

 «意訳»
  元禄二年(1689)9月21日 晴天 男の奉公人達は、屋敷裏の垣を作る。新田開発の
   適地を探す新田見立に、水野又兵衛殿、江崎金左衛門殿(不詳、大代官江崎清左右
   衛門の親族カ)が昨晩お越しになり近藤九右衛門宅(鳴海三皿の裏方庄屋)に泊まる。
   この町かどを借りるのである、半兵衛(不詳)の周旋で貸す手筈にする。  
 [補説]
二日前に小検見に訪れた水野又兵衛は、今度は新田見立に、相役を替えてまた夜分
   に前泊している。翌早朝から効率よくすぐに仕事に取りかかる段取りであろうか。

【史料23】
  元禄二年(1689)12月13日 晴天 水野又兵衛殿御越ニ付、   (50歳) p.666
  
同。八兵衛雇。
十三日 晴天 すヽはく。七こ水落御見分ニ、江崎金左殿、冨田八郎兵衛殿、水野又
   兵衛殿御越ニ付、笠寺孫右方迄、晩ニ参候。

 «意訳»
元禄二年(1689)12月13日 晴天 すす払い。七カ所の水が落ちる所(カ)の見分に、
 江崎金左衛門殿(不詳、大代官江崎清左右衛門の親族カ)、冨田八郎兵衛殿(不詳)、
   水野又兵衛殿がお越しになったので、笠寺孫右衛門(不詳)宅まで、夜分に挨拶に行
   く。


(7).水野長門守忠顕
   幕府の御書院御番頭水野忠顕。布袋1,000石高、駿府に在番し使命を帯遠国に
      出帳。宝永四年十月十五日没。
   成政 ━ 成清 ━ 長勝 = 忠貞 = 忠顕
 忠顕は水野忠清4男 武蔵国男衾

【史料24】
  元禄五年(1692)7月20日 上使水野長門守様……   (53歳) p.732
廿日 雨降 御手代衆三人三郎左へ昨夕御越。上使水野長門守様御迎として、野崎主
   税殿七つニ御入、夜八つニ御立。今夕松平対馬守様、宮御金荷つかへ鳴海ニ御泊り
   被成度由ニ候へ共、御代官十郞右衛門殿御煩ニて、奥田彦九殿上使ニ御懸り故御断
   り取またぎ可申としんしやく申候。但しいつまでも断り不申候。以来ハ御断り申御
   宿可仕者候。
廿一日 天晴 上使水野長門守様御馳走御請、昼ノ七つニ御立。なごや衆何れも御帰
   り被成候。

 «意訳»
7月20日昨夕に、雨降、手代達3人が、三郎左衛門(知足末弟で庄屋を継ぐ)の家
    にお越しになる。上使(上意伝達のため派遣される使者)水野長門守様をお迎え
するため、野崎主税殿(不詳)が午後4時頃に来られ午前2時頃に出発された。今夕
   松平対馬守様は、熱田神宮の上納金を「御金荷」として江戸表まで運ぶお役目で、
   鳴海にお泊になりたいという事なのですが、大代官服部十郞右衛門殿は患っておら
   れ、大代官奥田彦九郎太直殿は、上使に係り切りなので、断りを取り急ぎ申し上げ
   てほどよく取りはからうように申しました。但しいつまでも断りはしません。今後
   はお断りを申したお宿を提供します。

7月21日 晴天 上使(上意伝達のため派遣される使者)水野長門守様のお食事を請
   け負う。午後4時頃お発ちになる。なごや衆は皆お帰りになった。
 [補説]
鳴海は東海道の宿場町で、役人や旅人達が、昼夜を問わず頻繁に行き来している様
   子が窺われる。鳴海の庄屋・問屋および本陣は、尾張藩代官の支配下に有り、また
   東海道宿場であることから幕府道中奉行の支配も受ける。このような二重行政のも
   と、諸役人達は、旅籠には泊まらず、庄屋や問屋の家屋敷を旅館代わりに重宝に使
   っている。このような多忙な日々の中、松平対馬守は、おそらく松平近陣のことで
   奏者番であったと推察されるが、このような身分の人なら、当然本陣に宿泊すべき
   で、本陣に泊まるなら、代官などが挨拶程度に参上すれば、大した接待をしなくて
   も良いのではとも考えられる。この場合は、庄屋宅を宿に指定していたのだろうか。
   日記の中で「但しいつまでも断り不申候。以来ハ御断り申御宿可仕者候。」と矛楯
   するような書き方をしているが、これは現時点における建前は、いつまでも断るつ
   もりはないとしながらも、本音では、今後はお断りする決意を著していると捉える
   べきであろうか。この辺りの解釈の仕方如何によっては、その本質が大きく違って
   くることになり、この日記における重要なポイントではあるものの、解釈が難しく
   各位の御教示を賜れば幸いです。
    これは小生の感想ですが、ともあれ「御金荷」の度毎に、毎回宿場揃っておもて
   なしをせねば成らず大いに迷惑をしていたようで、今後は鳴海宿に滞在しなく成る
   だろうと、端的な表現の中に清々した様子が伝わってきて興味深く思われました。


(8).水野一郎左衛門
  尾張藩の大代官手代あるいは奉行手代。牡丹愛好家。

【史料25】
  元禄十四年(1701)6月28日 水野一郎左衛門殿より竜田姫弐本参候 (62歳) p.1000
廿八日 晴天 金三郎、七郎右なごや行。なや丁ニ泊り。太左被参候。水野一郎左衛
   門殿江戸下り。今十八日ニ御祝言有之由。成瀬因幡守様。江戸より仁兵衛参候。

 «意訳»
元禄十四年(1701)6月28日 晴天 金三郎、七郎右衛門なごやへ行く。納屋町に泊
   まる。太左衛門が来た。水野一郎左衛門殿は江戸へ下られる。今月十八日に成瀬因
   幡守正幸様の御祝言が有ったと聞いた。江戸から仁兵衛が来た。
 [補説]
成瀬因幡守正幸は、尾張藩の附家老、尾張犬山藩の第3代当主成瀬正親の長男。元
禄16年(1703年)9月20日父正親の逝去に伴いその跡を継ぎ、同年12月に従五
位下隼人正に叙任。附家老は、家老として付属された関係上、家督を継ぐと同時に
家老の地位につく。これは一般の家老と異なる点である。また成瀬正幸の祝儀の年
月は不明で有ったが、この日記から元禄十四年(1701)6月18日、21歳であった事
が判明した。


【史料26】
  元禄十六年(1703)3月11日 水野一郎左衛門殿、今日紅冷唐子 (64歳) p.1050
十一日 晴天 なごや行。隼人正様へ牡丹三つ、奥様へ壱輪藤白差上ル。水野一郎左
   衛門殿、今日紅冷唐子ニ替ル筈。京茂庵唐二重三入白分、大竹伝兵衛殿ニ替ル約束
   仕申候。上松紅大木一本、小池四兵衛殿可被下由、二重三入実白一本萩野七郎右衛
   門殿可被下筈ニ、四兵衛殿ニて約束仕候。白牡丹弐輪尾崎小兵衛様へ上ル。  

 «意訳»
元禄十六年(1703)3月11日 晴天 なごやへ行く。尾張藩附家老(尾張犬山藩第3代
当主)成瀬隼人正正親様へ牡丹3つ、奥様へ1輪藤白(不詳)を差し上げました。水
   野一郎左衛門殿は今日、紅冷唐子(不詳)に替える筈です。京茂庵唐二重三入白分(不
   詳)を、久留米の大竹伝兵衛殿に替える約束をしました。上松紅大木(不詳)一本を
   小池四郎兵衛殿(不詳、造り酒屋カ)が下さるとのこと、二重三人実白(不詳)1本を
   萩野七郎右衛門殿(不詳)が下さる筈になると、小池四郎兵衛殿宅で約束しました。
   白牡丹2輪を尾崎小兵衛様(尾張藩三千君御用達250石)へ献上しました。
 [補説]
   此の日付では、牡丹愛好家達の、なごやでの情報交歓が記されている。成瀬隼人正
    も愛好家と窺える。この日記には、おそらく牡丹と思しき花銘が幾つか登場する
    が、参照できる資料をあたったところ、『歌壇地錦抄』に「茂庵(もあん):大り
    ん、五六重、平花。咲き出し少しうつろいあり。けしみ赤し。うすがきの実もあ
    り。はなひかり白し。上々」とのみ記され、他の花銘は散見されず、その詳細は
    不明のため、やむを得ずそのまま列記するに留めた。「紅冷唐子」「京茂庵唐二
    重三入白分」「二重三入実白」などは、これで1品種なのか数種なのかは不明で
    ある。また大竹殿は別の日付では、「久留米の」とあることから、なごやに公務
    で滞在しているのであろうか。


【史料27】
  元禄十六年(1703)8月23日 水野一郎左衛門殿より竜田姫弐本参候 (64歳) p.1062
  
昼前甚七雇。牡丹少こわけ申候。楊貴妃紅も。  
二十三日 晴天 水野一郎左衛門殿より、久留米大竹伝兵衛殿より竜田姫弐本参候。
   此方より伝兵衛殿へ京茂庵、一郎左衛門殿へ冷庵白わけ遣申候。西尾三郎兵衛殿内
   儀平殿へ、越前へ之儀申遣。盆大豆卅三俵宮ニて買。弥助遣。壱石六升かへ、駄賃
   ニて同日ニ付仕廻。新米九斗二三升、銭四貫三百三十文。

 «意訳»
  昼前に甚七(不詳)を雇う。牡丹を少し小分けした。楊貴妃紅(金赤色の牡丹)も。
元禄十六年(1703)8月23日 晴天 水野一郎左衛門殿より、久留米の大竹伝兵衛殿
  から竜田姫を2本送られたと聞く。こちらから伝兵衛殿へ京茂庵を、水野一郎左右衛
  門殿へは冷庵白を分けて送ります。西尾三郎兵衛殿(不詳)夫人平殿へ、越前へ行き鮨
  調をすることを話す。盆大豆33俵を熱田の宮で買う。弥助(不詳)を遣わし1石6升
  買え。駄賃として同日で方を付ける。新米9斗2,3升、銭4貫330文。
 [補説]
  牡丹の品種であろう「楊貴妃紅」「竜田姫」「京茂庵」「冷庵白」の花銘がみえる。元
  禄年間は将に太平の世で園芸品種の改良が大きく発展し、庶民の間にも園芸が広まり
  園芸の書物が出版された。園芸家水野元勝『園芸綱目』(1681)が刊行され花卉園芸書
  刊本のはじめとなった。旧暦8月23日は、グレゴリオ暦 10月3日で、牡丹の植え
  替え時期(9月~10月頃)に相当するすることから、この時期に高度な技術で根分け
  されたのであろう。
  14日の日記には、「銭上り四貫三百文ニ成」とあり、銭の相場が上がったので、大豆
  や新米を買い付けている。
  西尾三郎兵衛は、鳴海寺嶋伊右衛門が、西尾四郎左衛門政房(大庵休意庵主)であるこ
  とから、寺嶋伊右衛門の親族ではなかろうか。
21日付で、「越前行鮨調ニ参候」とあることから、尾張藩が既に岐阜の鮎鮨献上を行
  っており、それと同じく、越前で献上鯖鮨の製造工程から出荷にいたるまでを調べて
  くるようにと指示したと話したのではないだろうか。
  また、味噌などの原材料として地元産の盆大豆33俵を熱田の市で買う。弥助を遣い
にやって、新米1石6升(106升)買い付け、その内の約13~14升を弥助に運賃手数
料(約13%)として当日支払う。金額は銭4貫330文である。

(9).水野与兵衛
 尾張藩の御普請奉行水野正勝か。正徳三年(1713)野方大代官、享保二年濃州郡奉行、
同三年尾州郡奉行。享保四年十一月九日没。但し、「士林泝洄」に与左衛門の通称は
あるが、与兵衛はない。
因みに、名古屋市博物館「名古屋城下お調べ帳」DVD の「宝暦5年(1755)」には
「留書奉行」に水野与兵衛正近(就任1735-1756)の名が見える。

【史料28】
  元禄二年(1689)11月17日 水野与兵衛殿振廻。      (50歳) p.665
  
同断。八兵衛雇。  
十七日 晩ニ初雪降 新長屋三人ニてふく。ちん三百文出ス。水野弥兵衛殿振廻。

 «意訳»
  元禄二年(1689)11月17日 夜初雪 新長屋の屋根を3人で葺く。工賃300文支払う。
   水野弥兵衛殿を持て成す。
 

【史料29】
  元禄二年(1689)11月20日 水野与兵衛殿、西ニてうどん、 (50歳) p.665
  
同。八兵衛雇。  
廿日 晴天 御役人今日切ニ上ル。水ノ弥兵衛殿、西ニてうどんふるまい有。誓願寺
  ニて振廻有。三郎兵衛、三平なごやへ行。

 «意訳»
元禄二年(1689)11月20日 晴天 お役人は公務を今日切り上げる。水野与兵衛殿に
  西問屋(花井町)が、うどんをお出しした。誓願寺で持て成しがあった。三郎兵衛と三
  平がなごやへ行く。


おわりに
 本日記からは、東海道五十三次の四十番目の鳴海宿(なるみしゅく、なるみじゅく)の、様々な情報や人々が日夜通して行き交っていた様子が窺われ、当時の息づかいまでも聞こえてきそうなリアルさに、驚きを覚える。この宿場町に、何人もの水野氏が関わりを持って、それぞれが懸命に公務に励んでいたことが明らかにされ、その生き様が垣間見られ、改めて日記および古文書のおもしろさに惹かれた。
 報告会の報告レジュメでは、資料・史料は末尾に纏めて記載されるのが通常であるが、
本レジュメでは、翻刻文の意訳を主旨としていることから、変則的ではあるが、各章に系統ごとに集約した。
 日記内容に、公務内容や牡丹の栽培および花銘が記されているが、花銘については、以下の牡丹に関連したほぼ同時代の書物なども閲覧したものの、判明したものは残念ながら一件のみに留まった。このほか当時の生活など不明な点が多々あり、今後の研究課題としたい。
尚、本日記は膨大なページ数で、この中から水野氏に関する箇所を抜き出したが、力不足で何点かが抜け落ちている可能性が非常に高い。従ってこれ以外のお気づきの水野氏記載箇所をご教示願えたら誠に幸いである。
尚々、本レジュメ草稿を予め校閲いただいた会員諸兄に、心から厚く御礼申し上げます。


 
参考文献
⦿森川 昭『下里知足の文事の研究』第一部 日記篇 上・下 和泉書院 2013.01.22
⦿三之丞伊藤伊兵衛『歌壇地錦抄』草花絵前集 平凡社 東洋文庫 1976
⦿水野元勝「歌壇綱目」(『園芸』近世歴史資料研究会/訳編 近世歴史資料集成 第5期
 第8巻 草木奇品家雅見 科学書院 霞ヶ関出版 2008.11)
水野元勝= 江戸時代前期の園芸家。寛文4年(1664)園芸植物とその栽培法をのべた「花
       壇綱目」をあらわす。本書は延宝9年(1681)に刊行され、花卉(かき)園芸
       書刊本のはじめとなった。
⦿喜多川守貞『守貞漫稿』上巻 巻之五 生業 饂飩蕎麦屋 東京堂出版 1973.12
起稿 天保八年(1837)~30年間
⦿デジタル版「名古屋城下お調べ帳」名古屋市博物館 DVD 2013
http://www.museum.city.nagoya.jp/activity/publish/study/index.html

参考資料
[和泉書院ウエブサイト]
⦿本書広告文章:
http://www.izumipb.co.jp/izumi/modules/bmc/detail.php?book_id=50762

[本書紹介]
⦿雑誌『國語と國文學』 2014年5月特集号
  紹介・森川昭著『下里知足の文事の研究 第一部 日記篇』(加藤定彦):
   
http://www.meijishoin.co.jp/book/b166132.html

[版画]
⦿歌川広重『東海道五十三次・鳴海』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%B4%E6%B5%B7%E5%AE%BF#mediaviewer/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Tokaido40_Narumi.jpg

[日記関連略年表]
1589 天正17-相原町へ宿地より人家が移転。この頃 鎌倉街道を古海道と呼ぶように
        なる
1590 天正18-根古屋城(鳴海城)廃城-。豊臣秀吉全国統一
1597 慶長 2-桑名より下里次郎大夫信種が鳴海に移住。この頃 本陣の西尾四朗左ヱ門
       が美濃から鳴海に移住。
1601 慶長6-徳川家康が東海道伝馬制を制定し鳴海宿が東海道五十三次の宿場となる。
1604 慶長9 -有松(鳴海)に一里塚築かれる。
1607慶長12 朝鮮使節「回答兼刷還使」派遣始まり鳴海で昼食休息。徳川義直尾張に
       封ぜられる。
1608慶長13 -桶狭間村と大高村の検地実施。尾張藩布告で有松へ移住を奨励。鳴海か
       ら相原・平手新田が分村。
1615 元和元-鳴海宿本陣建設し浅岡吉右衛門が経営。
1656 明暦2 -大火で鳴海の宿場全焼。
1671 寛文11 -琉球使節鳴海宿通る。『寛文村々覚書』の編纂すすむ。
1680 延宝8 -込高新田開発(用水池として蛇池・砂走池)。
1682 天和2-琉球使節と朝鮮通信使鳴海宿で昼食休息。
1684 貞享元-大高村新田検地実施-。芭蕉七部集「冬の日」を成し遂げる。
1685 貞享2-松尾芭蕉初めて鳴海の知足を訪れ􄡄言・安信・如風・重辰・自笑らと句会
       開く。
1687 貞享4 -芭蕉「星崎の闇を見よとや啼く千鳥」発句の句会記念に千鳥塚建てる。
               「資料編 - 名古屋市 緑区 1略年表」から抜粋
      
http://www.city.nagoya.jp/midori/cmsfiles/contents/0000057/57984/15.siryouhen.pdf


[地図(日記掲載場所)]
⦿鳴海宿周辺地図(黄色細線は旧東海道)

Ver.1.0[第1回 水野氏史研究会報告レジュメ]_e0144936_00380827.jpg
⦿鳴海広域地図
Ver.1.0[第1回 水野氏史研究会報告レジュメ]_e0144936_00392225.jpg






by mizuno_clan | 2014-10-25 00:45 | ☆Web報告会(会員参加)