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【Ver.3.0】第1回 水野氏史研究会報告レジュメ

【Ver.3.0】 [第1回 水野氏史研究会報告レジュメ]
題  目:『下里知足の文事の研究』にみえる「水野氏」
報 告 者:水野 克彦 (水野氏史研究会会員)
日  付:2014年12月16日

更新履歴 :Ver.1.0 [2014.10.25] → Ver.2.0 [2014.10.29] → Ver.3.0 [2014.12.16]

はじめに
 2013年発刊の『下里知足の文事の研究』に掲載されている知足の日記から、水野氏に関した箇所のみを抜粋し、翻刻文の意訳およびその背景についての考察を試みた。底本となる書籍の詳細は以下のものであり、その内容を要約する。
「森川 昭『下里知足の文事の研究』第一部 日記篇 上・下 和泉書院 2013.01.22発行」
 下里知足(しもさと-ちそく)は尾州鳴海村(現名古屋市緑区鳴海町)の豪家下里家二代目で、同村庄屋を勤め下里家繁栄の基礎を築く一方、文事(*1)を嗜み芭蕉、西鶴など多くの俳人と交渉を持った。日記は、寛文七年(1667)から宝永元年(1704)四月十三日(3月13日改元)の急死直前まで連綿と書き続けた。本書第一部日記篇は、地方知識人下里知足の実生活の記録である日記を翻刻(*2)したものである。日記帳は来翰(*3)を主とする紙背文書(*4)で、その中には同村を管轄した御林方奉行所の奉行水野氏の来翰や、営為(*5)について記されたもののほか、譜代大名および尾張藩士など複数系統の水野氏が登場している。(和泉書院ウエブサイトの本書広告文章を参照し編集)

 これらの内容については最近、芭蕉時代の俳諧を研究しておられる古橋哲雄氏からのご教示により明らかとなった。このことから、水野氏史研究の一環として、この日記内容を次世代をになう高校生達にも容易に解って貰う一助となればと、誠に稚拙ながらも該当箇所の意訳を試みた。間違いや思い違いなどをご指摘いただけたら幸いである。
 尚 日記には、複数の水野氏が登場しており「水野氏史研究 分類表」のカテゴリの1つに集約することは甚だ不適切であることから、同分類表に従い「A-4>景俊系水野氏」「C-3>山川山形水野」C-7 >河和水野「C-8 >新宮水野」「E-1>系統不確定水野氏」の5つのカテゴリに分けて記載した。
 本日記の詳細については、同書をぜひ参照されたい。

 [付記]
*以下の年齢は下里知足の当時年齢。
   ページ数は「上下巻通し番号」(下巻pp.587-1135)
*本稿は会員および各位からのご教示・ご指摘により改訂を行い、小さな更新の場合
   には、Ver.1.0の次にVer.1.1、Ver.1.2とし、より大きな更新の場合は、Ver.1.0の
    次にVer.2.0、Ver.3.0とバージョンアップを行い、タイトルにそれぞれVersion№
   を付します。
   また、直前の旧バージョンの投稿には、朱書きで「この原稿はバージョンアップし
   ました。新バージョンを御覧下さい。」と断り書きを入れます。更に旧バージョン
    は暫く投稿状態にしておきますが、その後削除しますので、予めご了承下さい。
*登場人物の一部詳細および、Ver.1.0に引き続きVer.2.0の不備な箇所・誤謬などに
   ついて、古橋哲雄氏から、再び微に入り細に入り多くの貴重なご教示・ご指導を賜
   りました。
また、小生の見落としから、「Ⅱ.水野忠元系 (3).水野和泉守忠之[史料9]
   が欠落していましたが、古橋氏から補訂をいただきましたので、Version2.0に新た
   に[史料9]として追補し、従前の[史料9]を[資料10]として後ろにずらし、
   以降も順次置換しました。

   ここに記して感謝の意を表します。
 [註]
*1=文事(ぶんじ)=学問・文芸などに関する事柄。⇔ 武事。
*2=翻刻(ほんこく)=写本・版本などを、原本どおりに活字に組むなどして新たに
     出版すること。この場合、和紙に毛筆で書かれた日記を活字にして出版するこ
     とを指す。
*3=来翰(らいかん)=送られてきた手紙。来書。来信。
*4=紙背文書(しはいもんじょ)=古文書(こもんじょ)の裏に残された別の文書。
     一度使用された紙の裏を再び利用した場合の、もとの表側に記されたものをい
     い、史料的価値の高いものが多い。裏文書(うらもんじょ)。
  *5=営為(えいい)=人間が日々いとなむ仕事や生活。いとなみ。


Ⅰ.水野権平系 関連記録(第一部 日記篇 上)
 A-4 >景俊系水野氏……………A-2系 水野景俊を祖とする水野氏
               水野権平系・水野三郎左衛門系・水野高重系
本章では、上記カテゴリのメンバ「水野権平系」を取り上げる。
「水野氏系譜」は、「平氏系水野権平家伝系図」で、始祖は水野太平太景貞。 水野久
  之丞正勝は同家第十五代、水野権平正照は同十六代当主。
*参考 「御林方奉行所跡」=現在の愛知県瀬戸市水北町300番地付近
http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/8e9a6c6e048d1a5750e234ca9e8473c2

(1).水野久之丞正勝、水野権平正照
 ◆水野久之丞正勝
  尾張藩の春日井・愛知両郡の御林方初代奉行[寛文元年(1661)~同十二年(1672)]
御切米三十石 御扶持五人分。
  延宝四年(1676)十二月二十日病死。享年六十二歳(「水野氏系譜」)。
※「士林泝洄」の没年正保四年は誤り。
  ◆水野権平正照(勘太夫 初名権平)
水野久之丞正勝の長子。御林方第二代奉行[寛文十二年(1672)~享保元年(1716)]
御切米三十石 御扶持五人分。
享保元年(1716)三月七日病死。享年六十六歳」(「水野氏系譜」)。

【史料1】
  寛文八年(1668)7月4日 水野久之丞殿、小右所へ御越 (29歳) p.12
  四日 晴天 田畑日損所之書付仕ル。九郎兵衛殿、与次右衛門、作左衛門、
   文左衛門。此日文四ニてうどん百五十文が打喰。使三四郎、田畑書付常番ニ遣。
   なごやへ。水野久之丞殿、小右所へ御越。(四日から七日にかけての上欄に「米四
   斗内へ預ケ置。米櫃此米十二日迄ニかす」と横書き)

 «意訳»
寛文八年(1668)7月4日 晴天
   田畑はこの所の日照りにより乾いて損害を受けたので、記録のため書き記します。
九郎兵衛殿(鳴海の組頭)、与次右衛門(鳴海三皿の組頭)、作左衛門(鳴海根古屋の
   組頭)、文左衛門(鳴海根古屋の組頭)が、本日麵処「文四」で、うどん150文(5
人で1人30文の代金 ≒16文×10杯 ≒5人×2杯)を無雑作にさっさと食べ
る。召使の三四郎が田畑作米帳(耕作によって生産した自作米の数量を記入した帳
簿)を鳴海の常番の所に持っていき、常番がなごやへ持参した。水野久之丞殿が鳴
   海根古屋の旅籠小右衛門のところにお越しになる。[米4斗を自宅に預けおき、米
   櫃とこの米を12日まで保管を課す]もしくは[米4斗を家に預けおき、米櫃とこ
   の米を12日まで仮借する]などの意味であろうか。

 [補説]
うどんについては、当時の1杯の価格は「故事類苑」では16文となっており、上
    記の計算でいくと、それぞれが、1杯ずつお代わりをしたということになろうか。
    因みに「守貞漫稿」上巻 巻之五 生業 饂飩蕎麦屋 p75 には、1800年代の記録
であるが――
   「今世京坂ノ饂飩蕎麦屋繁盛ノ地ニテ、大略四五町或ハ五七町ニ一戸ナルベシ所ニ
    ヨリ、十餘町一戸ニ當ルモアリ、
    表格子に横長ノ行燈ヲ掛ルモアリ、是ハ上圖ノ如ク書ス(圖略、文字は以下)、
     行燈正面―麺類處
       側面―二八 うどんそば切
    又見世ノ壁ニハ紙ニ圖ノ如ク書テ張之、故ニ次ニハ説カズ(品書)、

一 うどん  代十六文
一 そば   代十六文
一 志つぼく 代廿四文 (後略)

  とある。
  さらには、「和・洋・中・エスニック 世界の料理がわかる辞典の解説」には、「に
  はちそば 【二八蕎麦】=古く、慶応年間(1865~1868)以前には、2×8=16で、1
  杯16文のそばをいったとされる。」とあることから、当時もうどん一杯は16文程度
  であったと推察される。

【史料2】
  延宝元年(1673)10月25日 水野久之丞殿へ人遣  (34歳) p.154
  晴天 水野久之丞殿へ人遣。うら表米納ル。

 «意訳»
寛文十三年(1673)10月25日 晴天
   水野久之丞殿へ人を派遣し、鳴海裏方と表方の米を納める。
 [補説]
鳴海は裏方の三皿町庄屋近藤九右衛門と表方の相原町庄屋下里金右衛門知足が管轄。

【史料3】
  延宝二年(1674)日記紙背文書               (35歳) p.184
 ①水野久之丞書翰
  猶以其元□□御事も無御座御無事之由、目出度珎重存候事ニ御座候。誠ニ其後ハ
  久々不懸御目ニなつかしくぞんじ候間、何様不斗以参可得御意候。以上。
  遠路御召寄御玉札、忝拝見申候。如御申被下候、同名権平祝言首尾能相済、
  拙者満足之段御察之通ニて御ざ候。
  依之御祝儀と被成、見事成串海鼠一折饋被下、誠ニ幾久忝存候。内之御使をも可被下
  と思召候や。小右衛門方申候間、遠方ニても御座候間、かならず御使被下候とも、
  御無事被成被下候様に各々様へ申給候へと、堅ク申参、遠地御飛脚被下、
  乍忝けつく迷惑ニ令存候。猶期面上具ニ御礼可申入候。恐惶謹言
   十月廿五日       水野久之丞(花押) 
  寺嶋伊右衛門様
  近藤九右衛門様
  青山喜三郎様
  下里金右衛門様 御報

 «意訳»
[本文]
   鳴海から瀬戸まで遠路お手紙をお届けくださり、ありがたく拝見させて頂きました。
  おっしゃる通り、水野権平の婚礼は都合よく済み、私が満足していることはお察しの
  通りでございます。
  この事から御祝儀に、贈物として見事な串海鼠(くしこ)一箱を下さり、誠に末長くあ
  りがたく存じます。近いうちお使いをも遣わされてはどうかとお考えなのでしょうか。
遠方でもありますので、決してお使いを下さるなど、何もなさいませんようにと、鳴
  海根古屋の旅籠小右衛門に申しましたとおり、皆様にしかと申し上げるようにと言い
  ました。遠地に飛脚を遣わされたことだけで、むしろ恐縮致しております。なお、時
  機を見て対面の際に御礼を申し上げます。  謹言
   10月25日              水野久之丞(花押) 
寺嶋伊右衛門様(鳴海根古屋[現名古屋市緑区鳴海町]本陣の主人、知足の従兄弟)
  近藤九右衛門様(鳴海三皿の裏方庄屋)
  青山喜三郎様 (愛知郡山崎村の人(現名古屋市南区)、知足の親戚)
  下里金右衛門様(下里知足本人、相原村(あいばらむら)の表方庄屋)
         御報(身分の高い人に出す返信。また脇付(わきづけ)。つまり宛名の
            左下に書き添えて敬意を表す語)
[袖書](追而書(おってがき)=本文を書き終わった後に改めて書き足した文章)
   追伸、そこの所□□の事もなく、お元気とのこと、めでたいことですので、どうか
   ご自愛下さい。ほんとうにその後は長らくお目にかかれず懐かしく存じております
   ので、不意になるかとおもいますが、ご機嫌伺いに参上致します。以上
 [補説]
   この書翰は、水野久之丞正勝が、長子水野権平正照に奉行職を譲り隠居二年目の延
   宝二年(1674)10月25日付のものであり、権平正照の婚礼に際して、御祝いに串海
   鼠(海鼠(なまこ)を串刺しにして干したもの)を連名で贈られたことに対しての礼
   状である。宛先は本陣主人を筆頭に記されているが、知足は表方庄屋といえども、
   当時35歳であったことから、おそらくこの内の最年少であったろうと推察される。
 また久之丞は、この二年後、延宝四年(1676)十二月二十日に病死しており、享年
   六十二歳であったことから、この書翰は六十歳時のものである。
    猶、この書翰は水野久之丞正勝が、御林方奉行所(愛知県瀬戸市水北町)付近の隠
   居所から差し出したものと推察される。
   ※参考資料 「R-4>【研究余滴】古文書の文法「已上」について」
http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/fc23477967de46f89db7ac586d140154

【史料4】
  延宝八年(1680)3月5日 水野権平殿へたばこ二は遣 (41歳) p.330
  伝左朝ノ間ひさしニ懸り、なごやへ被参候。
  五日 雨少朝降 道手代衆、昨夜両人食喰被申候。水野権平殿へたばこ二は遣。

 «意訳»
伝左衛門(名古屋の葺師)は、朝のうち庇(ひさし)にかかり、なごやへ帰られた。
 延宝八年(1680)3月5日 朝に雨が少し降る
   尾張藩の道手代衆二人が、昨夜食事をされた。
   水野権平正照殿へ葉たばこを二把贈る。
 [補説]
屋根葺師の伝左衛門が、朝の間に日除けや雨除け用の小型の屋根・庇(ひさし)
の工事にとりかかり、簡単にできる庇であったものとみられ、当日なごやへ帰って
 行った。道手代衆とは尾張藩の道奉行の配下で、藩内の道を管理する雑務を担当し
ていたのであろう。

【史料5】
  貞享三年(1686)9月9日 水野権平殿、久左ニ泊り (47歳) p.572
  不参 
  九日初時雨 山ニて松堀。のそき一本。水野権平殿、久左ニ泊り。

 «意訳»
木挽きは来なかった
貞享三年(1686)9月9日 初時雨
   山で松掘り取り。掘り取ったのは一本。
   水野権平正照殿は、久左衛門(鳴海の人)の屋敷に泊まる。(久左衛門は未詳)
 [補説]
納入用あるいは自邸用の五葉の松などであろうか。また、松は松茸のことか。

  *参照 R-1>水野権平家系譜(御林方役所・奉行)
      http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/7cd38a1915a44c061bbade3fa364eaef

Ⅱ.水野忠元系 関連記録(第一部 日記篇 上・下)
 C-3 >山川山形水野……………C-1系 水野忠元を祖とする水野氏
 本章では、上記カテゴリのメンバ「水野忠元系」を取り上げる

(1).水野右衛門太夫忠春
  山川山形水野家第三代、三河岡崎藩二代藩主。寛永十八年(1641)五月十三日生まれ、
  奏者番・寺社奉行兼帯、大阪仮城代、詰衆。五万石。元禄五年(1692)十月十五日没。
※「右衛門太夫」は正字「右衛門大夫」の異字とし、ママとした。
    詰衆=将軍家の身辺に常に侍して警固・奉仕の任にあたる人々。

【史料6】
  貞享元年(1684)5月9日 水野右衛門太夫殿、上使来ル (45歳) p.503
  同断(大工、木引来ル)
  九日 晴曇ル 上使十三日ニなごやへ御入り之由申来ル。
  水野右衛門太夫殿十八日御泊り注進有。橋泉、了寂(瑞祥寺隠居)、
  如意寺、伊右うどんニて振廻。

 «意訳»
前に同じ(大工、木挽が来た)
貞享元年(1684)5月9日 晴曇り 上使(上意伝達のため派遣される使者)が、13日に、
 岡崎からなごやへお入りになると言ってきた。
 岡崎藩主水野右衛門太夫殿は、18日に鳴海に御泊りになると報告があった。
   橋泉(西鶴の有力な弟子西鷺の別号)、了寂(瑞祥寺の隠居僧。俳人)、如意寺(鳴海
   如意寺の六代住職玄翁文英和尚。俳号如風)、寺嶋伊右衛門(鳴海本陣の主人。俳
    号菐言)にうどんを振る舞う。

【史料7】
  貞享元年(1684)5月17日 岡崎殿ノ先衆御泊まり。ほか (45歳) p.504
  十七日 曇ル 岡崎殿ノ先衆御泊り。伊右ハ加藤遠江守様泊。九右ニ木下右衛門様
   御泊り。
  十八日 曇ル 伊右ニ水野右衛門太夫殿泊り、私宅ハ上使宿ニ明也。

 «意訳»
貞享元年(1684)5月17日 曇り 岡崎藩主水野右衛門太夫殿の先衆(一番先に進む部
   隊、先手衆)がお泊まり。寺嶋伊右衛門宅には加藤遠江守様(伊予大洲藩三代藩主加
   藤泰恒-六万石)が泊まる。
   近藤九右衛門様(鳴海三皿の裏方庄屋)宅に、木下右衛門様(豊後日出藩三代藩主
   木下俊長-二万五千石)がお泊まり。
貞享元年(1684)5月18日 曇り 鳴海本陣(主人寺嶋伊右衛門)に、岡崎藩主水野右
   衛門太夫殿お泊まり。相原村表方庄屋の下里知足宅は上使の宿なので空く。

(2).水野豊前守忠盈(ただみつ)
  山川山形水野家第四代、三河岡崎藩三代藩主。寛文二年(1663)十二月六日生まれ。
元禄七年(1694)、西の丸大手門番に補任、以後京都上使役、奥詰など諸役を歴任。
  元禄十二年(1699)8月4日没。
   ※京都上使役は、御使番のことで、平時は命令伝達、上使(上意伝達のため派遣さ
    れる使者)、諸国の巡察、二条、大坂、駿府、甲府の定番(前4カ所の城に一定期
    間駐在して城を警護する役)、在番および諸役の目付を行った。戦時は軍目付と
    いう名誉の役で武官の誇りであったことから、家禄三千石以上の者も志願し役に
    就いた。豊前守は、この内の「二条上使」の任に就いていたものとみられる。

【史料8】
  元禄九年(1696)11月9日 水野豊前守早がけ。   (57歳) p.853
 九日 昼迄雨昼より晴 男共清左家仕切スル。三郎左衛門なごやへ行。
   大垣下里六右衛門殿御越。泊り被申候。
   水野豊前守様早がけニて京都へ御使ニ御越被成候。夜半比。

 «意訳»
元禄九年(1696)11月9日 昼まで雨のち晴れ  男の奉公人達は清左衛門家(鳴海の
   扇川沿いの住人)の片付けをする。三郎左衛門(知足末弟で庄屋を継ぐ)は、なごや
   へ行く。
   大垣第五代当主下里六右衛門延貞殿がお越しになり、お泊りなった。
  水野豊前守忠盈様が、早駆けで京都へお使いの途上、夜中頃お越しになられた。
 [補説]
  豊前守は「二条上使」として、江戸から二条城まで幕府の意向を伝達するため急い
   で京都に向かっていたのであろう。身分は五万石の譜代大名であっても、御使番と
  しての任務遂行時には、急務が多く本陣の予約は困難であり、宿泊はおろか休息す
  らままならなかったのであろう。これにより、庄屋宅で一服するか仮眠する程度の
   休息しかとれず、睡眠の不足分は早駕籠の中で補ったと推察される。

(3).水野和泉守忠之
  山川山形水野家第五代、三河岡崎藩四代藩主。二代藩主忠春の四男で、旗本水野忠近
  の嗣となっていたが、本家に戻り兄の三代忠盈の継嗣となる。寛文九年(1669)六月七
  日生まれ。享保十六年三月十七日没。

【史料9】
  元禄十五年(1703)4月11日 岡崎藩 四代藩主水野和泉守忠之 (63歳) p.1024
  十一日 雨天 なごや近習様方其外二十人斗、岡崎殿様へ御能有之候而みなみな御通
   りニて御寄不被成候。戻りニ寄可申之由申被成候。

 «意訳»
元禄十五年(1703)4月11日 雨天 なごや近習達と二十人程が、岡崎で藩主水野和
  泉守忠之様が能を興行するので、皆々様が鳴海を通過し岡崎に行かれた。戻りに立
   ち寄られると伺いました。

 [補説]
  藩主水野忠之が、国元岡崎で能の興行をするので、尾張藩の重臣たち二十人程を招
   待した。能の誘い応じた尾張藩の重臣たちは、興行に間に合うよう鳴海を素通
   りし岡崎に向かった。帰り道に鳴海に立ち寄られると伺った。


Ⅲ.河和水野系 関連記録(第一部 日記篇 上・下)
 C-7 >河和水野…………………C-1系 水野光康を祖とする水野氏
 本章では、上記カテゴリのメンバ「水野光康系」を取り上げる

(1).水野彦四郎(彦四は略称)
   河和水野家祖光康長子政康の次男重忠(水野彦四郎祖)。尾張藩の肝煎役。
   正徳五年(1715)九月没。
(参照)「河和水野系・彦四郎家系譜」http://mizunoclan.exblog.jp/8389166/

【史料10】
  元禄七年(1694)10月6日 刀一腰、水野彦四郎殿へ持参 (55歳) p.794
  表具や分右衛門、今日被参候。  
  六日 晴天 なごやへ行、又一ニ泊ル。刀一腰、水野彦四殿へ持参、御めニかけ申候。
  宿藤左ニて三平と二人食喰。

 «意訳»
  表具屋分右衛門(鳴海の人か)が今日来られた。
  元禄七年(1694)10月6日 晴天 なごやへ行く。又一(名古屋車町⦅クルマチョウ=
   現名古屋市中区⦆ の人。妻は知足の縁戚およめ。旅籠の主人)に泊まる。
   刀一腰(一振)を水野彦四郎重忠殿へ持参しお目にかけた。旅籠の藤左衛門(名古屋
   本町⦅現名古屋市中区⦆の旅籠の主人)宅で、三平(鳴海下里家の使用人)と二人で食
   事をした。
 [補説]
三日前の3日に、善之庵の伊兵衛から刀2振りを千之助(伊兵衛の子か)を遣い、私
  (知足)に届けさせたので、受け取り預かっている。その刀の内の1降りを水野彦四
  郎に見せた。
  善之庵は、鳴海枝郷の地名の一つである。知足は表方の庄屋であり、枝郷伊兵衛か
  らの刀の売買仲介も行っていたのであろうか。「お目にかけ」とあることから、進
  物に用いたとは考えにくい。
  また4日に「善之庵太左へ行」とあるが、これは枝郷の組頭の名前である。
  参考までに、「緑区情報バンク」には、「支村善之庵」の名が見える。


Ⅳ.水野重仲系 関連記録(第一部 日記篇 上・下)
C-8 >新宮水野…………………C-1系 水野重仲を祖とする水野氏
本章では、上記カテゴリのメンバ「水野重仲系」を取り上げる

(1).水野土佐守重上(しげたか)
紀伊新宮領三代領主水野重上。紀州藩の御附家老(2名)の1人で、江戸詰めであった。
  宝永四年(1707)3月1日没。

【史料11】
  元禄三年(1690)3月14日 水野土佐殿、い右泊。   (51歳) p.683
  同断(大工、左官弐人。)左官ハ仕廻帰ル。  
十四日 雨振 〆三日と朝ノ間ぬる。銭五百五十文遣。
 水野土佐殿、い右泊

 «意訳»
  左官は仕事を終えて帰る。
  14日 雨降る 締めて3日と朝の間左官が壁塗る。工賃の銭550文を支払う。
 水野土佐守重上殿は、鳴海本陣に泊まる。
 [補説]
   左官の1人工は160文とすると(160文×3日+70文)の計算になる。
水野土佐守は紀州藩の御付家老(35,000石)であり、大名並の領地を有していたが、
   大名格に準じる身分として、本陣に宿泊していたものとみられる。


【史料12】
  元禄十四年(1701)5月30日 水野土佐守殿、庄六泊。   (62歳) p.997
   晦日 天晴晩ニ少夕立 昼より東福院ニてはいかい有。奥田彦九郎殿御発句。野川分 
   内殿、私宅ニテ切麦打申由。又一、金右衛門相伴ニて碁有り。水野土佐守様、庄六
   泊り。紀州より下り。下宿五軒。
    吹ぬきハ両袖涼し夏座敷    独卜
     竹の子ほった藪のあかるき  独笑

 «意訳»
   元禄十四年(1701)5月30日 天晴(快晴のこと)晩に少し夕立 昼から東福院(花井
   町)で俳諧興行。奥田彦九郎殿(尾張藩大代官奥田太直。俳号独卜)が発句。野川分
   内殿(尾張藩の大代官手代あるいは奉行手代。俳号独笑か)が拙宅で、切麦(冷や麦)
   を打つそうだ。又一(鳴海の東問屋の吉田又市)と金右衛門(知足の弟で庄屋の三郎
   左衛門)が連れ立って来て碁を打つ。
    水野土佐守重上様は、庄六(鳴海の脇本陣)に泊まる。紀州から江戸に下る。下宿
    は五軒。
〈連句〉
肌着なしに着物を着ると、両袖ともに涼しく、開け放った夏座敷に風が渡る。
          独卜(奥田彦九郎尾張藩大代官)
竹の子を掘り竹を間引きした竹藪は明るく心地よい風も吹き抜けていく。
 独笑(野川分内の俳号)
 [補説]
切麦(きりむぎ)=小麦粉をこねて、うどんのように細く切った麺(めん)。熱くして
    食べるものを熱麦(あつむぎ)、冷やしたものを冷や麦といった。《季 夏》
   下宿(したやど)=大名行列などの供の者が宿泊する所。


Ⅴ. 系統不確定水野氏 関連記録(第一部 日記篇 上・下)
 E-1 >系統不確定水野氏………出自未詳の水野氏(出自判明次第移行する)
本章では、上記カテゴリのメンバ「出自未詳の水野氏」を取り上げる

(1).水野次郎兵衛(A)
尾張藩の御徒。実名・没年月日不明。
 ある資料では、「御徒」と記されているようだが、以下の仕事内容から徒目付か、
  あるいは徒目付組頭の役職にあったとも推察される。

【史料13】
延宝四年(1676)7月15日 水野次郎兵衛殿 天白へ御越。 (37歳)   p.227
十五日 天晴 水野次郎兵衛殿、天白へ御越。堤ふしん有。なごや御代官所左衛門殿
   へ作左衛門、踊之事ニ被参候。杁之訴状も上ル。

 «意訳»
延宝四年(1676)7月15日 天晴 水野次郎兵衛殿が鳴海庄天白村(現名古屋市緑区鳴
  海町天白)へお越しになった。天白川堤防の土木工事があった。尾張藩大代官の所
  左衛門殿(五味所左衛門延貞)の所へ、作左衛門(鳴海根古屋の組頭)が、踊の事(盆
   踊りカ)で相談に行かれた。杁(用水の取り入れ口)の訴状も出された。
   ※参考資料 「杁」について
http://heron.at.webry.info/201305/article_2.html


【史料14】
延宝五年(1677)6月1日 石橋かけニミさへ水野次郎兵衛殿。 (37歳)   p.248
朔日 晴天 河野喜兵衛様、近藤清左殿、植村藤右衛門殿御越。如意寺、九右所。
   上方順見衆御通りニ付。石橋かけニミさへ水野次郎兵衛殿、井村孫兵衛殿御越。
   うら方石橋御仕廻。

 «意訳»
延宝五年(1677)6月1日 晴天 河野喜兵衛様(尾張藩の大代官五味所左衛門の手
 代)、近藤清左殿(尾張藩の大代官手代あるいは奉行手代)、植村藤右衛門殿(尾張藩
 の大代官手代あるいは奉行手代)がお越しになった。如意寺(鳴海町作町)、近藤九
右衛門宅(鳴海三皿の裏方庄屋)に滞在。京阪地方担当の巡見使がお通りになるので、
 石製架橋工事を見分に水野次郎兵衛殿、井村孫兵衛殿(尾張藩の大代官手代あるい
 は奉行手代)がお越しになった。鳴海三皿の裏方の石橋工事は終了。

(2).水野次郎兵衛(B)
中嶋橋手代衆
中嶋(島)橋は現在、名古屋市中川区昭和橋通りの荒子川に架かっているが、この手
  代衆は、当時の中嶋橋に常駐する代官所や奉行所の手代衆か、あるいは商家の手代
  であったと考えられる。前述の、水野次郎兵衛(A)と同一人物か、あるいは別人
  かは、今のところ判明しない。従って両者の混同を懸念し(A)(B)の2つに
  分類した。

【史料15】
延宝七年(1679)2月2日 中嶋橋手代衆水野次郎兵衛殿。 (40歳)   p.295
二日 晴天 中嶋橋手代衆水野次郎兵衛殿、源助殿、御大工市兵衛殿御越。宿下中弥
   次右。如意寺にてかりや少入と俳諧有。

 «意訳»
延宝七年(1679)2月2日 晴天 中嶋橋手代衆の水野次郎兵衛殿と源助殿(尾張藩の
 道奉行手代日下部源助)、御大工市兵衛殿(尾張藩用達の大工)がお越しになった。宿
 は、鳴海下中の弥次右衛門宅(鳴海下中の組頭)。如意寺(鳴海町作町)でかりやの少入
  (刈谷の医師太田氏)と俳諧の会を催す。


(3).水野瀬兵衛
  尾張藩の附家老、尾張犬山藩第3代当主成瀬正親の家老。伊勢菰野温泉からの湯治
  の帰途、増水した小川で溺死。元禄九年(1696)九月二十九日没。
「知足日記」元禄九年十月二日の記事(p.851)には「水野瀬兵衛殿昨廿九日
  かものゝ川ニ而水ニながれ、夫婦并下人共ニ三人死去」と記述があるが、「か」
  は「こ」の翻刻ミスと判明。
    ――「水野瀬兵衛殿は、一昨日元禄九年(1696)9月29日、湯治してい
   た湯の山温泉の帰途、こものゝ川(三滝川、当時は三重川のことか)で、水に流
   され、夫婦ならびにお供の者2、3人が死去した」
 名古屋市博物館「名古屋城下お調べ帳」DVD の「宝暦5年(1755)」には 「成瀬
   陪審」とあり、また『金鱗九十九之塵』巻第八 に「尾張藩付家老成瀬隼人正
 正寿(当主1809-1838)の筆頭家老に水野瀬兵衛、同番頭に水野弥之右ヱ門が居り
   ……」とある。このデータは本日記成立から70年以上降るが、同家は代々「家
   老」職にあったと考えられる。

【史料16】
延宝八年(1680)12月18日 水野瀬兵衛殿 成瀬殿御供。 (41歳)   p.352
十八日 晴天 成瀬隼人様御下り。水野瀬兵衛殿、石原甚五兵衛殿、北尾弥三郎、藤
  八殿御供。此夜金ニ而も米ニても年貢ニ上る筈ニ申来ル。

 «意訳»
延宝八年(1680)12月18日 晴天 成瀬隼人様が江戸へ下られる。水野瀬兵衛殿、
   石原甚五兵衛殿(尾張藩の附家老成瀬正親の小番。元禄九年、江戸での悪所狂いで
   追放)、北尾弥三郎(尾張藩の用達喜多尾弥三右衛門⦅(成瀬家付属⦆の一族か)、藤
八殿(尾張藩の附家老成瀬正親の中間か)がお供する。今夜、金でも米でも年貢と
なる筈であると言ってきた。
 [補説]
翌9年12月1日以降、数回にわたり「御年貢金なごやへ持参」などと記されており、
  年貢が米だけでなく、金納でも許可されていたことが解る。
悪所狂い(あくしょぐるい)=遊里に入りびたって,遊びにふけること。悪性狂い。

(4)水野弥之右衛門
尾張藩の藩士水野利久(成瀬家付属)。新組、寛文十一年側役(馬・鷹支配)、延宝七年
惣領並、元禄二年家老。元禄二年(1689)8月7日付日記に「隼人正様へ三郎左衛門参
候。大竹又左衛門殿、水野弥之右衛門殿家老に御成候」と書かれており、御付家老成
瀬家の家老に就任したことが解る。
因みに、名古屋市博物館「名古屋城下お調べ帳」DVD の「宝暦5年(1755)」には
「成瀬陪審」とあり、また『金鱗九十九之塵』巻第八 に「尾張藩付家老成瀬隼人正
正寿(当主1809-1838)の筆頭家老に水野瀬兵衛、同番頭に水野弥之右ヱ門が居り……
とある。このデータは本日記成立から70年以上降るが、水野瀬兵衛家と同様に、同
  家も代々「家老」を継承する家柄であったものと考えられる。

【史料17】
  天和元年(1681)12月9日 九郎左衛門殿内水野弥右衛門殿。 (42歳)   p.391
九日 天晴 道手代衆笠寺へ御帰り。御国方足軽衆弐人御寄。酒断昼食参り、小なる
   みへ御通り。跡ニ又弐人御越。拙宅へ御泊り。御年貢無遅滞様ニとの御申付、両庄 
  や判仕ル。一郎左衛門殿内平岡久左衛門殿、九郎左衛門殿内水野弥右衛門殿。

 «意訳»
  天和元年(1681)12月9日 晴天 道手代衆が笠寺へお帰りになった。御国奉行足軽
   衆2人が寄られた。酒をやめて昼食に行くため、鳴海枝郷の古鳴海を通られた。そ
   の後にまた2人来られて、我が家にお泊まりになった。年貢の遅滞がないようとの
   お言いつけで、鳴海の裏と表両庄屋は証文に判をついた。立会人は、一郎左衛門殿
   (尾張藩の御国奉行林市郎左衛門正勝)内の平岡久左衛門殿(尾張藩の御国奉行林市
   郎左衛門の手代)、九郎左衛門殿(尾張藩の御国奉行稲葉九郎左衛門正俊)内の水野
   弥之右衛門殿(尾張藩の御国奉行稲葉九郎左衛門の手代)。

【史料18】
  貞享二年(1685)10月8日 水野弥之右衛門殿御下御寄。 (46歳)   p.543
八日 晴天 水野弥之右衛門殿御下御寄。預ケ田太左、七左見ニ被参候。
   岡本平兵衛殿、加藤一郎兵衛殿、伊右衛門殿川戸御覧被成候。

 «意訳»
貞享二年(1685)10月8日 晴天 水野弥之右衛門殿が江戸へ下る途中でお寄りにな
  った。預けた田を太左衛門(鳴海前之輪の組頭服部太左衛門。知足の縁戚)、七左衛
  門(鳴海丹下の組頭)が、見にいらっしゃった。岡本平兵衛殿(尾張藩の普請奉行手
  代岡本幸隆)、加藤一郎兵衛殿(尾張藩の大代官手代加藤智広)、伊右衛門殿(尾張藩
  の大代官手代あるいは奉行手代の内藤伊右衛門)が川戸(川門=カワト。川が両岸か
  ら迫って狭くなっている所)を御覧になられた。
 [補説]
2日から前日(7日)までの6日間、検見衆がやってきて田畑・塩田などを検見し、
  知足宅に泊まった。次いで尾張藩の手代衆3名が川門を検分した。
  この川戸とは、水戸、水門(水量調節の取水口に設けた門)、あるいは内海と外海の
  狭い境、大河の河口、みなと等のことであろうか。ともあれ城中から、見廻りの役
  人が定期的に巡回し領内を管理していた様子が窺える。加藤一郎兵衛は、「名古屋
  城下お調べ帳」には「加藤市郎兵衛」とある。

【史料19】
  元禄二年(1689)8月7日 水野弥之右衛門殿家老に御成  (50歳) p.660
七日 曇 隼人正様へ三郎左衛門参候。大竹又左衛門殿、水野弥之右衛門殿家老に御 
  成候祝儀ニ。

 «意訳»
  元禄二年(1689)8月7日 曇り 尾張藩の附家老(尾張犬山藩第3代当主)成瀬隼人正
  正親様へ三郎左衛門(知足末弟で庄屋を継ぐ)が参上し、大竹又左衛門殿(尾張藩の
  小姓大竹幸成⦅成瀬家付属⦆)、水野弥之右衛門殿が、家老に就任されたので祝儀を
  献上した。 


(5)水野金兵衛貞信
尾張藩の先手足軽頭(天和二年-貞享五年(1682-1688))。実名は貞信。北村季吟門の俳
  人虎竹。別号雀巣軒・贇賢。
  貞享五年(1688)六月九日没。

【史料20】
  貞享五年(1688)6月15日 九日水野金兵衛殿けんくわ之由 (49歳) p.624
十五日 晴天 浄古老、山崎へ被参候由。
   江戸ニて九日ニ水野金兵衛殿けんくわ之由申慣候。

 «意訳»
貞享五年(1688)6月15日 晴天 浄古老(知足の従兄弟の桑名宮通の伊藤重兵衛の隠
  居号。知足先妻の弟)が、山崎へ参られたと聞く。
  江戸で、9日に水野金兵衛貞信殿が喧嘩をしたと聞く、何時ものことでもう慣れた。


(6).水野又兵衛
  尾張藩の大代官手代あるいは奉行手代。

【史料21】
  元禄二年(1689)9月3日 水野又兵衛殿、西へ        (50歳) p.661
三日 晴天 水野又兵衛殿、西へ御寄夕食有。善之庵田見分。

 «意訳»
  元禄二年(1689)9月3日 晴天 水野又兵衛殿が、西(知足の末弟で庄屋の三郎左衛
  門宅)へ寄られ夕食なさった。鳴海枝郷の善之庵の田を見分された。

【史料22】
  元禄二年(1689)9月19日 水野又兵衛殿、伊藤太七殿昨日九右へ (50歳) p.662
十九日 晴天 水野又兵衛殿、伊藤太七殿昨日九右へ御越、晩田小けんミ昨今より有
  り。

 «意訳»
  元禄二年(1689)9月19日 晴天 水野又兵衛殿、伊藤太七殿(尾張藩の大代官手代あ
  るいは奉行手代)が昨日、近藤九右衛門(鳴海三皿の裏方庄屋)宅へお越しになった。
  晩稲(オクテ)の田を小検見される。晩稲の小検見が近頃行われるようになった。
 [補説]
検見については、まず代官の手代が行う小検見(こけみ)が行われ、その後、代官が自
 ら巡回して大検見(おおけみ)が行われた。旧暦九月中頃になると奥手の小検見が行わ
 れるようだ。
晩稲(ばんとう)=遅く実る稲。奥手(おくて)。稲の品種で、普通より遅く成熟する
 もの。

【史料23】
  元禄二年(1689)10月21日 晴天 新田見立ニ水野又兵衛殿、   (50歳) p.663
二十一日 晴天 男共うらの垣ゆい。新田見立ニ水野又兵衛殿、江崎金左殿、
   昨晩御越、九右ニ泊り。此町角借や、半兵衛口入ニてかす筈ニスル。

 «意訳»
  元禄二年(1689)10月21日 晴天 男の奉公人達は、屋敷裏の垣を作る。新田開発の
   適地を探す新田見立に、水野又兵衛殿、江崎金左衛門殿(尾張藩の大代官手代ある
いは奉行手代)が昨晩お越しになり近藤九右衛門宅(鳴海三皿の裏方庄屋)に泊まる。
  この町角の手持ちの借家を半兵衛(鳴海本町の組頭)の周旋で貸す手筈にする。  
 [補説]
二日前に小検見に訪れた水野又兵衛は、今度は新田見立に、相役を替えてまた夜分
  に前泊している。翌早朝から効率よくすぐに仕事に取りかかる段取りであろうか。

【史料24】
  元禄二年(1689)12月13日 晴天 水野又兵衛殿御越ニ付、   (50歳) p.666
  同。八兵衛雇。
十三日 晴天 すヽはく。七こ水落御見分ニ、江崎金左殿、冨田八郎兵衛殿、水野又
  兵衛殿御越ニ付、笠寺孫右方迄、晩ニ参候。

 «意訳»
元禄二年(1689)12月13日 晴天 すす払い。七子(しちこ)にある田から大江川に水
  が落ちる所を見分に、尾張藩の江崎金左衛門殿(尾張藩の大代官手代あるいは奉行
  手代)、冨田八郎兵衛殿(尾張藩の大代官手代あるいは奉行手代)、水野又兵衛殿が
  お越しになったので、笠寺の孫右衛門宅まで、夜分に挨拶に行く。(次の当番が孫
右衛門であったか)
 [補説]
 鳴海の郷土史家の榊原邦彦氏(元朝日大学教授)が「千代倉家日記抄の地名」という連
 載を、森川昭先生の私家版の雑誌「夷参」(いさま)に載せておられ、その中に「七
 子」(しちこ、天白川の西岸)と載っている。また「名古屋市南区ホームページ」
 の「中井用水緑道」を引用要約すると、「天白区下八事下池を水源とする水路。天
 白区・瑞穂区・南区の丘陵地の水を集めて、大江川に注いでいる。本地村の七子水
 田、水袋新田の灌漑用水として造られたと考えられている。大江川は、江戸初期の
 頃はまだ「大江湊」と呼ばれる海岸で、川ではなかった。新田開発が河口付近で進
 むたびに陸地が沖へ延びたため、この場所が川になり、現在では、水路は中井用水
 緑道として、下流の大江川は大江川緑地として整備されている。」と記されている。
    http://www.city.nagoya.jp/minami/page/0000001652.html


(7).水野長門守忠顕
   幕府の御書院御番頭水野忠顕。布袋一千石高、駿府に在番し使命を帯び遠国に出帳。
   宝永四年(1707)十月十五日没。
   成政(出自不詳) ━ 成清 ━ 長勝 = 忠貞 = 忠顕
 忠顕は水野忠清5男 市原多摩

【史料25】
  元禄五年(1692)7月20日 上使水野長門守様……   (53歳) p.732
廿日 雨降 御手代衆三人三郎左へ昨夕御越。上使水野長門守様御迎として、野崎主
   税殿七つニ御入、夜八つニ御立。今夕松平対馬守様、宮御金荷つかへ鳴海ニ御泊り
   被成度由ニ候へ共、御代官十郞右衛門殿御煩ニて、奥田彦九殿上使ニ御懸り故御断
   り取またぎ可申としんしやく申候。但しいつまでも断り不申候。以来ハ御断り申御
   宿可仕者也。
廿一日 天晴 上使水野長門守様御馳走御請、昼ノ七つニ御立。なごや衆何れも御帰
   り被成候。

 «意訳»
7月20日昨夕に、雨降、尾張藩の手代衆3人が、三郎左衛門(知足末弟で庄屋を継
 ぐ)の家にお越しになる。上使(上意伝達のため派遣される使者)水野長門守様をお
 迎えするため、野崎主税殿(尾張藩の御国老中野崎兼洪)が午後4時頃に来られ午前
 2時頃に出発された。今夕、松平対馬守様(豊後府内藩二代藩主松平近陳⦅チカノ
 ブ⦆。奏者番。二万一千石)は、熱田神宮の上納金を「御金荷」として江戸表まで
運ぶお役目であったであろうか、鳴海にお泊りになりたいという事なのですが、大
代官服部十郞右衛門殿は患っておられ、同じ大代官奥田彦九郎太直殿は、上使に係
り切りなので、断りを取り急ぎ申し上げてほどよく取りはからうように申しました。
但しいつまでも断りはしません。今後はお断りを申したお宿を提供します。
 これに対し「熱田で泊まろうとしたが、他の大名が宿泊しており、銀荷(カネニ)、
すなわち金銭などを一纏めにした荷物と本人が、泊まれなくなったので、鳴海にお
泊りになりたいという事……」の意ではなかろうかとご指摘を受けました。  
7月21日 晴天 上使(上意伝達のため派遣される使者)水野長門守様は尾張藩の接
待を受けられ、午後4時頃お発ちになる。なごや衆は皆お帰りになった。
 [補説]
鳴海は東海道の宿場町で、役人や旅人達が、昼夜を問わず頻繁に行き来している様
 子が窺われる。鳴海の庄屋・問屋および本陣は、尾張藩代官の支配下に有り、また
 東海道宿場であることから幕府道中奉行の支配も受ける。このような二重行政のも
 と、諸役人達は、旅籠には泊まらず、庄屋や問屋の家屋敷を旅館代わりに重宝に使
 っている。このような多忙な日々の中、松平対馬守は、奏者番であったと推定され
 るが、このような身分の人なら、当然本陣に宿泊すべきで、本陣に泊まるなら、代
 官などが挨拶程度に参上すれば、大した接待をしなくても良いのではとも考えられ
 る。この場合は、庄屋宅を宿に指定していたのだろうか。
  以上は報告者の感想ですが、この補説に、メールでご異見を頂戴いたしましたの
 で、ご披露いたします。
① 深い意味は無く、各地の大名の鳴海宿への宿泊は尾張藩に注進することになっているの
 で、おそらく尾張藩の両大代官が接待できない大名の宿泊を知足は断ったものと考えられ
 ます。

(8).水野一郎左衛門
  尾張藩の藩士水野常貞(成瀬家付属)。天和二年(1682)小姓、天和三年側役、宝永三年
(1706)小姓頭。一郎左衛門は市郎左衛門の当て字。牡丹愛好家。享保十年(1725)没。

【史料26】
  元禄十四年(1701)6月28日 水野一郎左衛門殿より竜田姫弐本参候 (62歳) p.1000
廿八日 晴天 金三郎、七郎右なごや行。なや丁ニ泊り。太左被参候。水野一郎左衛
  門殿江戸下り。今十八日ニ御祝言有之由。成瀬因幡守様。江戸より仁兵衛参候。

 «意訳»
元禄十四年(1701)6月28日 晴天 金三郎(知足の跡継ぎ蝶羽)、七郎右衛門(知足の
  縁戚。根古屋の旅籠屋寺嶋七郎右衛門)がなごやへ行き、納屋町に泊まる。太左衛
  門(鳴海前之輪の組頭)も名古屋に行った。水野一郎左衛門殿は江戸へ下られた。今
  月十八日に成瀬因幡守正幸様の御祝言が有ったと聞いた。江戸から仁兵衛(知足の
  弟で江戸の麹町で万屋という荒物屋を営む五左衛門の使用人)が来た。
 [補説]
成瀬因幡守正幸は、尾張藩の附家老、尾張犬山藩の第3代当主成瀬正親の長男。元
禄16年(1703年)9月20日父正親の逝去に伴いその跡を継ぎ、同年12月に従五
位下隼人正に叙任。附家老は、家老として付属された関係上、家督を継ぐと同時に
家老の地位につく。これは一般の家老と異なる点である。また成瀬正幸の祝儀の年
月は不明で有ったが、この日記から元禄十四年(1701)6月18日、21歳であった事
が判明した。


【史料27】
  元禄十六年(1703)3月11日 水野一郎左衛門殿、今日紅冷唐子 (64歳) p.1050
十一日 晴天 なごや行。隼人正様へ牡丹三つ、奥様へ壱輪藤白差上ル。水野一郎左
  衛門殿、今日紅冷唐子ニ替ル筈。京茂庵唐二重三入白分、大竹伝兵衛殿ニ替ル約束
  仕申候。上松紅大木一本、小池四兵衛殿可被下由、二重三入実白一本荻野七郎右衛
  門殿可被下筈ニ、四兵衛殿ニて約束仕候。白牡丹弐輪尾崎小兵衛様へ上ル。  

 «意訳»
元禄十六年(1703)3月11日 晴天 なごやへ行く。尾張藩附家老(尾張犬山藩第3代
当主)成瀬隼人正正親様へ牡丹3つ、奥様へ1輪藤白(不詳)を差し上げました。水
  野一郎左衛門殿は今日、紅冷唐子(不詳)に替える予定です。京茂庵唐二重三入白分
  (不詳)を、大竹伝兵衛殿(尾張藩の側役大竹成章⦅成瀬家付属⦆)と替える約束をし
  ました。上松紅大木(不詳)一本を小池四兵衛殿(尾張藩の大代官手代あるいは奉行
  手代)が下さるとのこと、二重三人実白(不詳)1本を荻野七郎右衛門殿(尾張藩の馬
  廻組荻野満補)が下さる筈になると、小池四兵衛殿宅で約束しました。白牡丹2輪
  を尾崎小兵衛様(尾張藩の御国奉行尾崎致隆)へ献上しました。
 [補説]
 此の日付では、牡丹愛好家達の、なごやでの情報交歓が記されている。成瀬隼人正
  も愛好家と窺える。この日記には、おそらく牡丹と思しき花銘が幾つか登場する
  が、参照できる資料をあたったところ、『歌壇地錦抄』に「茂庵(もあん):大り
  ん、五六重、平花。咲き出し少しうつろいあり。けしみ赤し。うすがきの実もあ
  り。はなひかり白し。上々」とのみ記され、他の花銘は散見されず、その詳細は
  不明のため、やむを得ずそのまま列記するに留めた。「紅冷唐子」「京茂庵唐二
  重三入白分」「二重三入実白」などは、これで1品種なのか数種なのかは不明で
  ある。


【史料28】
  元禄十六年(1703)8月23日 水野一郎左衛門殿より竜田姫弐本参候 (64歳) p.1062
  昼前甚七雇。牡丹少こわけ申候。楊貴妃紅も。  
二十三日 晴天 水野一郎左衛門殿より久留米、大竹伝兵衛殿より竜田姫弐本参候。
 此方より伝兵衛殿へ京茂庵、一郎左衛門殿へ冷庵白わけ遣申候。西尾三郎兵衛殿内
 儀平殿へ、越前へ之儀申遣。盆大豆卅三俵宮ニて買。弥助遣。壱石六升かへ、駄賃
 ニて同日ニ付仕廻。新米九斗二三升、銭四貫三百三十文。

 «意訳»
  昼前に甚七(鳴海下里家の使用人)を雇う。牡丹を少し小分けした。楊貴妃紅(金赤色
 の牡丹)も。
 元禄十六年(1703)8月23日 晴天 水野一郎左衛門殿より久留米、大竹伝兵衛殿
  から竜田姫を2本送られた。こちらから(大竹)伝兵衛殿へ京茂庵を、水野一郎左右
  衛門殿へは冷庵白を分けて送った。西尾三郎兵衛殿(尾張藩の町奉行西尾富首)の家
  臣儀平殿へ、越前へ(牡丹を)送ってもらうように伝えた。盆大豆33俵を熱田で買
  った。弥助(鳴海下里家の使用人)を遣わし1石6升を替え馬に付けて運んだ。新米
  が9斗2,3升に、銭が4貫330文の相場になった。
 [補説]
 牡丹の品種であろう「楊貴妃紅」「竜田姫」「京茂庵」「冷庵白」の花銘がみえる。元
  禄年間は将に太平の世で園芸品種の改良が大きく発展し、庶民の間にも園芸が広まり
  園芸の書物が出版された。園芸家水野元勝『園芸綱目』(1681)が刊行され花卉園芸書
  刊本のはじめとなった。旧暦8月23日は、グレゴリオ暦 10月3日で、牡丹の植え
  替え時期(9月~10月頃)に相当することから、この時期に高度な技術で根分けされ
  たのであろう。
  14日の日記には、「銭上り四貫三百文ニ成」とあり、銭の相場が上がったので、大豆
  や新米を買い付けている。
  21日付で、「越前行鮨調ニ参候」とあることから、越前に送る鮨を用意するために鮨
  調べ行ったもようである。
  また、味噌などの原材料として地元産の盆大豆33俵を熱田の市で買う。弥助を遣い
にやって、新米1石6升(106升)を買い付けた。

(9).水野与兵衛
 尾張藩の大代官手代あるいは奉行手代。
因みに、名古屋市博物館「名古屋城下お調べ帳」DVD の「宝暦5年(1755)」には
「留書奉行」に水野与兵衛正近(就任1735-1756)の名が見える。

【史料29】
  元禄二年(1689)11月17日 水野与兵衛殿振廻。      (50歳) p.665
  同断。八兵衛雇。  
十七日 晩ニ初雪降 新長屋三人ニてふく。ちん三百文出ス。水野弥兵衛殿振廻。

 «意訳»
  元禄二年(1689)11月17日 夜初雪 新長屋の屋根を3人で葺く。工賃300文支払う。
  水野弥兵衛殿を持て成す。
 


【史料30】

  元禄二年(1689)11月20日 水野与兵衛殿、西ニてうどん、 (50歳) p.665
  同。八兵衛雇。  
廿日 晴天 御役人今日切ニ上ル。水ノ与兵衛殿、西ニてうどんふるまい有。誓願寺
 ニて振廻有。三郎兵衛、三平なごやへ行。

 «意訳»
元禄二年(1689)11月20日 晴天 お役人は公務を今日切り上げる。水野与兵衛殿に
  拙宅の西の三郎左衛門(知足の弟の庄屋)が、うどんをお出しした。誓願寺で持て成し
  があった。三郎兵衛(鳴海下里家の使用人)と三平(鳴海下里家の使用人)がなごやへ行
  った。


おわりに
 本日記からは、東海道五十三次の四十番目の鳴海宿(なるみしゅく、なるみじゅく)の、様々な情報や人々が日夜通して行き交っていた様子が窺われ、当時の息づかいまでも聞こえてきそうなリアルさに、驚きを覚える。この宿場町に、何人もの水野氏が関わりを持って、それぞれが懸命に公務に励んでいたことが明らかにされ、その生き様が垣間見られたことで、改めて日記および古文書のおもしろさに惹かれた。
 本報告会の報告レジュメでは、資料・史料は末尾に纏めて記載されるのが通常であるが、本レジュメでは、翻刻文の意訳を主旨としていることから、変則的ではあるが、各章に系統ごとに集約した。
 日記内容に、公務内容や牡丹の栽培および花銘が記されているが、花銘については、以下の牡丹に関連したほぼ同時代の書物なども閲覧したものの、判明したものは残念ながら一件のみに留まった。このほか当時の生活など不明な点が多々あり、今後の研究課題としたい。
尚、本日記は膨大なページ数で、この中から水野氏に関する箇所を抜き出したが、力不足で何点かが抜け落ちている可能性が非常に高い。従ってこれ以外のお気づきの水野氏記載箇所をご教示願えたら誠に幸いである。
尚々、本レジュメ草稿を予め校閲いただいた会員諸兄に、心から厚く御礼申し上げます。

 

参考文献

⦿森川 昭『下里知足の文事の研究』第一部 日記篇 上・下 和泉書院 2013.01.22
⦿三之丞伊藤伊兵衛『歌壇地錦抄』草花絵前集 平凡社 東洋文庫 1976
⦿水野元勝「歌壇綱目」(『園芸』近世歴史資料研究会/訳編 近世歴史資料集成 第5期
 第8巻 草木奇品家雅見 科学書院 霞ヶ関出版 2008.11)
水野元勝= 江戸時代前期の園芸家。寛文4年(1664)園芸植物とその栽培法をのべた「花
       壇綱目」をあらわす。本書は延宝9年(1681)に刊行され、花卉(かき)園芸
       書刊本のはじめとなった。
⦿喜多川守貞『守貞漫稿』上巻 巻之五 生業 饂飩蕎麦屋 東京堂出版 1973.12
起稿 天保八年(1837)~30年間
⦿デジタル版「名古屋城下お調べ帳」名古屋市博物館 DVD 2013
http://www.museum.city.nagoya.jp/activity/publish/study/index.html

参考資料
[和泉書院ウエブサイト]
⦿本書広告文章:http://www.izumipb.co.jp/izumi/modules/bmc/detail.php?book_id=50762

[本書紹介]
⦿雑誌『國語と國文學』 2014年5月特集号
  紹介・森川昭著『下里知足の文事の研究 第一部 日記篇』(加藤定彦):
   http://www.meijishoin.co.jp/book/b166132.html

[版画]
⦿歌川広重『東海道五十三次・鳴海』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%B4%E6%B5%B7%E5%AE%BF#mediaviewer/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Tokaido40_Narumi.jpg

[日記関連略年表]
1589 天正17-相原町へ宿地より人家が移転。この頃 鎌倉街道を古海道と呼ぶように
        なる
1590 天正18-根古屋城(鳴海城)廃城-。豊臣秀吉全国統一
1597 慶長 2-桑名より下里次郎大夫信種が鳴海に移住。この頃 本陣の西尾四朗左ヱ門
       が美濃から鳴海に移住。
1601 慶長6-徳川家康が東海道伝馬制を制定し鳴海宿が東海道五十三次の宿場となる。
1604 慶長9 -有松(鳴海)に一里塚築かれる。
1607慶長12 朝鮮使節「回答兼刷還使」派遣始まり鳴海で昼食休息。徳川義直尾張に
       封ぜられる。
1608慶長13 -桶狭間村と大高村の検地実施。尾張藩布告で有松へ移住を奨励。鳴海か
       ら相原・平手新田が分村。
1615 元和元-鳴海宿本陣建設し浅岡吉右衛門が経営。
1656 明暦2 -大火で鳴海の宿場全焼。
1671 寛文11 -琉球使節鳴海宿通る。『寛文村々覚書』の編纂すすむ。
1680 延宝8 -込高新田開発(用水池として蛇池・砂走池)。
1682 天和2-琉球使節と朝鮮通信使鳴海宿で昼食休息。
1684 貞享元-大高村新田検地実施-。芭蕉七部集「冬の日」を成し遂げる。
1685 貞享2-松尾芭蕉初めて鳴海の知足を訪れ􄡄言・安信・如風・重辰・自笑らと句会
       開く。
1687 貞享4 -芭蕉「星崎の闇を見よとや啼く千鳥」発句の句会記念に千鳥塚建てる。
               「資料編 - 名古屋市 緑区 1略年表」から抜粋
      http://www.city.nagoya.jp/midori/cmsfiles/contents/0000057/57984/15.siryouhen.pdf


[地図(日記掲載場所)]
⦿鳴海宿周辺地図(緑色線は旧東海道)

【Ver.3.0】第1回 水野氏史研究会報告レジュメ_e0144936_20313816.jpg















⦿鳴海広域地図
【Ver.3.0】第1回 水野氏史研究会報告レジュメ_e0144936_14033894.jpg






































































by mizuno_clan | 2014-12-16 15:18 | ☆Web報告会(会員参加)