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京都 天龍寺・永明院と常滑水野家

 嵐山を借景として、嵯峨三名蹟のひとつである天龍寺は、延元四年(1339)
崩御された後醍醐天皇の冥福を祈るため、足利尊氏、直義が夢窓疎石を
開山として、天皇が幼少の頃、修学に過ごされた亀山離宮の地に
建立されました。貞和元年(1345)足利尊氏、直義が臨席して、落慶法要が
盛大に修厳され、翌月には光巌上皇が臨幸なされました。以後天龍寺は、
京都五山(五山第一位)に列し、室町時代には、幕府の庇護のもと、
臨済宗夢窓派の中心寺院として、多くの高僧、名僧が輩出、住持して繁栄し、
多数の塔頭も営まれました。
しかし、応仁の乱(1467)をはじめ、文禄、元治の兵火にあい、都合八回の
火災で、古い建造物は消失し、残されておりません。
しかし曹源池を中心とする庭園は、夢窓疎石の作庭になり、その遺構を
今日にとどめております。

 永明院は、天龍寺塔頭として、夢窓国師三世の法孫、太岳周崇禅師が
応永二十年(1413)に開創された寺であります。
応仁の乱(1467)、戦国時代の兵火に遭うなど、堂宇などは、そのほとんどが、
消失したとされます。
水野監物守次(守隆)は織田信長の摩下として桶狭間の戦いに初陣。
その後、数々の武勲をたて常滑城三代目城主となりました。
「本能寺の変」に際し、明智光秀に味方したため城を落去、豊臣方の追及を
さけて、永明院中興の第六世三章令彰(慶長二十年(1615)三月二十二日示寂)
を頼って、監物入道として隠棲しました。
監物入道は、常滑において、常滑焼を奨励、普及させたことからわかるように、
連歌や茶道をたしなむ文化人で、京の地にあっても、千利休、津田宗九らと
親交を結び、常滑焼を茶人らに紹介しました。しかし、明智残党として、
豊臣方に追求され、慶長三年(1598)四月二十一日、京都において自害して
果てました。法名「祥光院殿雲室全慶大禅定門」そして、豊臣政権が滅び、
徳川の治世になると、徳川家康から破格の信頼を受けた監物公の息子である、
水野河内守守信公は、自身の父の名誉を回復するため、そして常滑城に
帰参かなわず、嵯峨の地にて果てた父の為、生前、繋がりがあった
京都、嵐山天龍寺、永明院を再興し、中興開創となりました。寛永十三年(1636)
十二月二十二日示寂。


江戸時代後期、元治の兵火(蛤御門の変(1864)に遭い、永明院は
衰退しました。昭和初期に、たくさんの寺院、仏閣を再興された山口玄洞居士
が大寄進。当院、十五世 黙宗立規禅師の代に永明会を設立して
再興されました。
しかし、院内の水野家墓所は、歴史の闇に沈んでおりました。
 昭和62年(1987)7月、十九世住職、国友憲道師のとき、常滑市の
郷土史家から水野家の墓所の照会があり、当時の田中泰彦、京を語る会会長や
久保仁平・歴史考古学史跡美術同好会副会長に、墓所調査に協力を要請し、
永明院過去帳や常滑水野家の系図を調べると共に、院内にある、
水野一族の墓所と伝えられる宝塔六基の墓石の碑面を拓本にとり、
消えかけた院号戒名を解読。墓石群の左から二基目の一番小さな宝塔が、
監物公のものとわかり、他の五基も昭和に建てられた一基を除き、
慶長五年(1600)徳川家康に従い上杉征伐に戦功をたて、その後お使番、
長崎奉行、大阪町奉行、堺奉行、大目付などを歴任した幕府の重鎮である
水野河内守守信公をはじめ一族のものと判明しました。


 平成20年3月20日

 
                               天龍寺 塔頭 永明院
                                 第二十世住職 国友憲昭


Update: 2010.10.17
臨済宗大本山天龍寺塔頭 永明院のサイト


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by mizuno_clan | 2008-03-24 17:39 | ★研究ノート