【推薦図書4 】 『下天を謀る』

水野氏の新聞連載小説 

今般本会員のお二人からご連絡を頂き、平成二十年(2008)一月四日から「中日新聞夕刊」「西日本新聞夕刊」「北海道新聞夕刊」に、安部龍太郎著『下天を謀る』と題する「水野氏」も登場する新聞連載小説が掲載中である事がわかりました。先日「織豊期研究会」例会で安部龍太郎先生と極短時間お話しする事が出来、本会の存在もお知らせする事ができましたが、残念ながら先生は大変ご多忙でいらっしゃるので、この小説についての仔細には話が到りませんでした。


安部龍太郎著 『下天を謀る』 (げてんをはかる)
 この小説の主人公は藤堂与右衛門高虎ではありますが、小牧長久手の戦い当時の水野忠重および嫡子勝成と水野信元の末娘照葉が登場します。この「照葉」(仮名?)については現在のところ史料は散見されませんが、どなたかご存じの方がおられましたらお知らせ下さるようお願いいたします。
<2010.3.18> ヒロインの水野照葉(水野信元の遺児)は、著者が造形した架空の人物であることが判明しました。


(あらすじ)2009.05.12更新
 浅井長政の家臣の家に生まれた藤堂高虎は、五人目の主である羽柴秀吉の弟・秀長の侍大将として仕えている。身長六尺を超える巨漢、高虎の武勇は広く知れわたっていた。
天正十二(1584)年、天下を狙う秀吉は小牧城に入った家康を包囲。二十九才の高虎は秀吉のもとに駆けつけ、家康の本拠地・三河を襲う策を聞いた。同年四月、長久手で秀次軍は徳川家康軍に惨敗。救援に駆けつけた羽柴秀吉軍は水野勝成隊の待ち伏せに遭うが、藤堂高虎らの活躍で退けた。六月、秀吉は竹鼻城を攻略。その間に家康は佐々成政、長宗我部元親、惣国一揆の面々、さらに朝廷にも調略を行い、秀吉包囲網を築いた。八月、ついに秀吉は犬山城に入り、小牧山城の家康と対峙する。この羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍による小牧、長久手の戦いは十一月に秀吉が信雄に単独講和を申し入れ終戦した。
 翌天正十三(1585)年三月、秀吉は紀州征伐を開始。根来を攻め落とし、信雄軍とともに雑賀の太田城を水攻めにする。その陣中で起きた水野勝成と池田輝政の私闘を、秀吉の侍大将・藤堂高虎は止めようとする。四月、太田城は降伏し、羽柴秀吉の紀州征伐は成った。陣払いの最中富永一門に襲われた水野勝成の盾になって照葉が撃たれた。藤堂高虎は照葉の身を預かり、介抱するうちに惹かれていく。六月、秀吉は四国攻めを開始。高虎は侍大将の身で抜け駆けをして胸に弾を受け、主の秀吉に叱責される。八月、高虎は秀吉のもとで四国の長宗我部元親との和睦を成功させた。
 天正十四(1586)年、関白になった秀吉は家康に母の大政所人質に出して、十月に上洛させ、高虎が改修した聚楽第の西の丸を与えて臣従させる。十一月、従兄弟の家康に勧められた縁談を断って刈谷に帰る照葉に、高虎は再会を誓った。同年、秀吉は惣無事令に反した島津義久に対し進軍を開始した。
 天正十五(1587)年、敗走する島津勢に対し、高虎は秀長の指示で追撃をしなかった。五月、これに恩義を感じた義久は降伏した。六月、九州征伐を終えた秀吉は突如バテレン追放を発令。しかし外国との貿易を継続するために秀長をイエズス会との交渉役にあてる。その使者として高虎は長崎に向かい、イエズス会から交渉を円滑にすすめる確約を得た。博多に渡る前日、加藤清正から照葉との縁談を打ち明けられ、高虎は照葉との恋仲になった事を伏せて祝った。
 天正十九(1591)
年、秀長は千利休とともに秀吉の朝鮮出兵を止めようとするが、叶わないままに病没。千里利休は切腹させられた。
 文禄四(1595)年、秀吉は関白を継がせた秀次を廃し、秀頼を後継者にしようとする。高虎はおびえる秀次に秀吉との対話を勧め、和解させた。政権内の権力争いの中で、主の秀保を暗殺された高虎は、初七日の後に出家。秀次は聚楽第の金を遣い込んだと罪に問われる。秀次の無実を訴える高虎のもとを、家康の書状をたずさえた照葉が訪れた。
同年、藤堂高虎は、徳川家康の考えに共感し、高野山を下りて板島城(伊予国宇和島城)主になる。三年後の慶長三年(1598)に秀吉が没し、後の覇権争いの中で、翌慶長四年(1599)一月に石田三成が家康襲撃を企てるが、高虎は事前に察知して家康を逃がした。三月に家康は前田利家を見舞うと三成が現れて挑発。高虎はいきりたつ武断派を抑え、家康の退路を確保して三成ら文治派の手出しを封じた。
 慶長四年(1599)閏三月、前田利家が没し、最大の後ろ楯を失った石田三成は、加藤清正ら武断派により襲撃され逃亡を図った。これを知った藤堂高虎は、文治派である宇喜多秀家の出兵を止めて両派の衝突を避けた。この騒動は徳川家康の仲介により、三成が奉行を辞して事は収まった。翌四月、清正の計らいで高虎は思いを寄せる照葉と大文字山中で一夜をともにする。
 慶長五年(1600)、高虎は、徳川家康の要請に応じて、上杉景勝を攻める会津征伐軍に加わるべく遠征を開始した。すると大阪では石田三成が挙兵し、諸大名の屋敷を包囲して妻子を人質にとった。これに対し加藤清正は、正室の清子を脱出させるために、家臣の梶尾助兵衛を派遣した。助兵衛は医者に通うと見せかけ、清子を侍女の照葉らとともに屋敷から救い出した。
同年八月、高虎ら東軍は、家康の命により岐阜城を攻略。石田三成は退き、西軍は関ヶ原に兵力を集中せざるを得なくなった。翌九月、密かに江戸を発った家康が本陣に入り、小早川秀秋と吉川広家から西軍を裏切る誓書を得た。両軍が布陣した関ヶ原で、高虎配下の多賀新七郎良勝が一番首を挙げる。
これら高虎の工作により、誓約通り秀秋が寝返り、徳川家康軍が勝利した。槍傷をうけた藤堂良政は勝勢を見届けるように没した。
 慶長十三年(1608)、高虎は伊予今治二十万石から伊賀伊勢二十二万石に転封。築城家として豊臣家包囲網の形勢に尽力し、三年後の同十六年(1611)には、領国の津城、伊賀上野城の改修に取り掛かる。
 慶長十六年(1611)三月、高虎は加藤清正に仲介を頼んで、徳川家康と豊臣秀頼の二条城会見を実現させた。会見は無事に終わり、六月に帰国の途についた清正は中風で倒れ、存命のうちに跡目相続を成すため、侍女の照葉を通じて高虎に幕府への取次を頼んだ。同年清正は没したが、高虎の後見により熊本藩は跡目相続を成した。
 慶長十九年(1614)、家康はわざと諱を分断する「国家安泰」の文字を入れた鐘銘を文英清韓起草させ、豊臣家の不備として転封を要求する。これを豊臣秀頼が拒んだことから、徳川方は即座に出兵し、先陣の高虎は大坂城に迫った。

5月2日付夕刊392回第九章 大坂の陣(四十一)で最終回となる。
元和二年(1616)4月17日、家康は多くの者に看取られて安らかに息を引き取った。行年七十五歳。当時としてはみれにみる長寿であった。
高虎はそれから十四年の寿命を保ち、和子の入内や肥後加藤家の内紛の収拾、日光東照宮の造営、幕藩体制の確立など、幕府の中枢となって力を尽くした。
遠行は寛永七年(1630)10月5日。家康と交わした約束通り七十五歳での大往生であった。

                                                 (完)

                                       事務局世話人 水野青鷺




●刊行されました――
『下天を謀る』(上)・(下) 安部龍太郎/著 新潮社
 1,680円(定価) 発売日 : 2009/11/27

 ソニーとCIAを併せたような智謀――。戦国最強のNo.2、藤堂高虎見参!
乱れ荒んだ天下を情報戦略によって再編成したインテリジェンス。関ヶ原の戦いを短期間でアレンジした外交術。築城革命と都市計画を推進した技術力。
晩年の秀吉を敬遠して家康に与した情勢判断力――しかし高虎はトップを避けて参謀役に廻り続けた。サバイバルの果てに江戸幕府の基礎を設計した、巨漢大名の壮大な生涯。

判型 : 四六判変型
頁数 : 326ページ
ISBN : 978-4-10-378807-2
C-CODE : 0093
ジャンル : 小説
歴史・時代小説
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by mizuno_clan | 2008-04-27 09:08 | 推薦図書