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【寄稿5】水野氏における桶狭間参戦の背景1/2  »»Web会員««

水野氏における桶狭間参戦の背景
                                            著者:foxblade

 先の投稿 「水野氏と桶狭間合戦」では、今川の攻勢に窮した水野氏が表面的には屈服したように見せかけ、合戦当日に背後から襲いかかったのだと述べた。そして桶狭間合戦において、信長の重要な同盟者である水野氏の動向が明らかではないのは、水野氏のこの偽装工作を後世に残したくないという作為によってであると考えた。
 この論拠は、今川義元が水野十郎左衛門に送った書状と、義元の死後に今川氏真が岡部元信に出した感状の矛盾にある。桶狭間合戦前、義元は水野十郎左衛門、すなはち水野信近に尾張出征への協力を依頼した。一方、氏真は岡部元信が鳴海城から退去の帰路、元信が水野信近を討ち取ったことを賞している。この合戦前と後の水野信近に対する相反する今川方の対応は、信近が今川の味方と思わせておいて合戦当日に裏切ったと考える以外、他に説明のつけようがないのである。
 桶狭間合戦において、桶狭間を含む南方知多半島一帯に勢力を築く水野氏の裏切り行為があったとするならば、それが合戦の帰趨に重大な影響を与えたであろうことは間違えがない。この合戦は、四万五千という圧倒的優勢にあった今川軍がたった一日で大敗し、しかも総大将の今川義元が戦死するというまさに劇的な戦いである。その戦いの裏面に、この合戦ではほとんど語られることのない水野氏の裏切りがあったとなれば、それこそが今川敗北の真因かと思いたくなるが、『信長公記』に描かれる合戦の推移をみれば、信長率いる織田勢が義元本陣を急襲し、それによって義元が斃れ今川は敗北しているのである。水野氏の裏切りは、『信長公記』に沿うならば、どこまで信長の大勝利に貢献したのかは定かではない。
 桶狭間合戦の真相には、そう容易に近づくことはできないものであろうと思う。むしろここでは、今川軍が圧倒的な有利にある中で、なぜ水野氏は信長陣営に留まり、偽装裏切りという危険な賭けに出たのかを問うべきであろう。そうすることでこの合戦の周囲が明らかになって、そこから永禄三年五月十九日のあの戦いの真の姿が立ち現れるかもしれない。

 信長が今川方の鳴海城と大高城の周囲に砦を築き、包囲して義元に宣戦布告したのがいつのことであるかは定かでない。信長の父信秀が三河安祥で敗退して以来、今川の勢力は尾張にまで浸透し、その中で鳴海城と大高城も今川方となった。両城は軍事的に落とされたという様子はなく、優勢な今川方に鞍替えしたかのように『信長公記』には記載されている。
 信秀の死後、同族や身内の相次ぐ離反に会い、これを撃破して信長が今川と対峙できるようになったのは、永禄二年になってからのことである。したがって、鳴海城と大高城が織田方の砦に包囲されたのも、この頃であるとするのが妥当である。そして史実を追ってみると、この時期まで信長と今川勢が直接激突したのが明らかなのは、たった一度きりである。それはあの村木砦の戦いである。そしてこの戦いは、水野氏をめぐる、義元と信長の綱引きのような戦いではなかったろうか。水野氏は、今川領と織田領の間に存在する一大国人領主である。当然ながら両陣営が味方としたい。それまで水野氏は織田と同盟を結んでいたのであるが、義元は水野氏の本拠である小川城の目と鼻の先である村木に砦を構えることで、水野氏に圧力をかけた。義元の意図は、水野氏の自陣への引き込みにあった。これに対して信長は、間髪をいれず村木砦を攻略して見せた。この時見せた信長の電光石火の如き進退は、後の彼の戦振りの原型となるものであったと考えられる。攻防一日にして村木砦は落とされたが、後続の戦いがあった様子はない。このことからしても、義元は水野氏に全面戦争を仕掛けたのではなく、むしろ政略的意図で水野氏の誘降を探ったと見られる。しかし義元のこの老獪な政略は、信長の大胆な電撃作戦により頓挫させられたのである。
 村木砦の戦いは多分に政略を背後に持ったものであると考えられるが、そのことは今川と織田が全面的な戦争状態にあったものではなく、むしろ天文十九年か二十年頃に実施された休戦和睦が信長の時代にも継続されていたことを窺わせる。信秀の死後、多少の衝突はあったものの今川は三河経営、信長は尾張国内の戦いに専念していたのであって、両者が正面きって戦う時期ではなかったと考えられる。桶狭間合戦があったことから、義元と信長はずっと戦っていたと素朴に思われるかもしれないが、実際は和睦が継続していたとするのが妥当だろう。
 この両者の関係を断ち切って、宣戦布告をしたのは信長であった。『信長公記』にあるように、明確な信長の意図を持って鳴海城と大高城は包囲されたのである。 大田牛一は『信長公記』において、鳴海城と大高城を囲む砦の配置や守将を記載する文中冒頭に、次のように書いている。

—御国の内へ義元引請けられ候ひし間、大事と御胸中に籠り候ひしと、聞こえ申し候なり—

 鳴海城と大高城を包囲することで、信長は「御国の内へ義元引請けられ候ひし」と覚悟を決めていたのである。この今川方の両城を包囲すれば、義元が尾張に来襲するであろう事は間違いのないことで、信長の胸中にこれを受けて立つ覚悟があったことを示している。
 このように、和睦から決戦に織田と今川の関係を転換させたのは、劣勢であるはずの信長である。永禄二年に岩倉の織田伊勢守を滅ぼして、同族の敵対者を一掃した直後であるが、尾張一国を平定したとはとても言える情況にはない。尾張八郡の内、中島郡、愛知郡、海東郡、春日井郡を服属させていた程度で、その中心とも言える愛知郡の南東部に今川の勢力が入り込んでいた。また同郡の北東岩崎を中心とした一帯には今川寄りと見られる丹羽氏が蟠踞しており、表立っては敵対はしていないが帰属もしていない勢力がまだ多数あったと思われる。
 桶狭間合戦は、四万五千の今川軍とその十分の一程度の信長軍の戦いとして『信長公記』に描かれているが、現在は今川軍は多くても二万五千程度であるとするのが一般である。反対に信長軍は、岩倉城の陥落で尾張が平定されたかのように捉えて、一万以上の兵力があったとする場合も少なくない。寡兵の信長が、あのように鮮やかな勝利をどのようにして達成したのかがはっきりしないために、兵力差を縮めて説明しようとする傾向がそうさせているようである。
 特に今川軍四万五千が多すぎるとする見解は、「慶長三年検地目録」に記された石高から計算するが、この俗に言う太閤検地の実態をよく検討する必要がある。太閤検地は、一般に理解されているほどには同質ではなく、地域によって差があったと考えられる。また米の収穫量=国力というわけでもなく、そもそも整備された動員制度をこの時期どれほどの大名が確立していたと言えるだろうか。上杉謙信は、永禄四年に十万の兵力で小田原城を包囲したが、謙信がその領国において十万の動員力を有していたわけではない。
 桶狭間合戦時の織田と今川の兵力差が、実際どれほどであったかは定かではない。しかし、大田牛一は『信長公記』に、今川の兵数をくり返し四万五千と記録した。対する信長は二千ばかりであったとし、圧倒的な兵力差があったと語っている。そして作り事は一切書いていないと主張し、大軍の今川が惨敗したのは天道に反していたからだと言う。主人信長の勝利は、彼の武威や戦術の巧みさにあったとは主張していない牛一の言葉に、事実を曲げて寡兵が大軍を破ったとの詐術を見ることはできない。
 大田牛一は、永禄三年の合戦当時、義元が四万五千という驚くべき大軍を率いて尾張に来襲したこと、そして迎え撃った信長が二千程度の兵力でしかなかったと認識しており、それを『信長公記』に記載したにちがいない。また当時の読者がそれを読んで、そんなはずはないと猜疑の目を向けるなどとは全く考えてもいなかったし、事実そうしたこともなかったのだろう。
 桶狭間合戦における実際の兵力差はさておき、義元と信長の実力差に対する当時の人々の認識は、『信長公記』のそれと変らず、信長の劣勢は誰の目にも明らかであったのである。それにもかかわらず、尾張東南にあって今川の脅威に直に接している水野氏は、何ゆえに信長の陣営に踏み留まっていたのであろうか。

 信長が、父信秀の代から続く今川との休戦和睦を継続している限り、水野氏は双方に誼を通じて、知多半島における自領拡大に邁進することができた。「水野氏と桶狭間合戦」で触れた水野十郎左衛門信近の、多方面外交にその典型を見ることができる。しかし村木砦の戦い以降、水野氏の去就をめぐる信長と義元の綱引きは激しさを増したであろうし、西三河の松平氏を掌握した義元の圧力は高まる一方であったと思われる。
 水野氏がこの事態に対処するのに、自立した国人であるがために自身の去就を単独で何の制約もなく選択できたとするのであれば、駿河、遠江、三河を領国とする今川氏に従うのが当然のことであったろう。天文十八年(一五四九)の三河安祥城攻略以来、今川の威勢は尾張東部に及び、尾張の国人や土豪が今川傘下に次々に属するようになっていた。
 『豊明市史資料編補二』に、岩崎を本拠とする国人丹羽氏に宛てた義元の安堵状が収録されている。

—沓掛・高大根・部田村之事
右、去六月福谷在城以来、別令馳走之間、令還付之事畢、前々売地等之事、今度一変之上者、只今不及其沙汰、可令所務之、近藤右京亮相拘名職、自然彼者雖属味方、為本地之条、令散田一円可収務之、横根・大脇之事、是又数年令知行之上者、領掌不可有相違、弥可抽奉公者也、仍如件—

 この安堵状は、天文十九年十二月と記されており、義元が安祥城を奪取した翌年に出されたものである。丹羽氏は天文七年(一五三八)に本郷から岩崎に本拠を移したとされ、現在の日進市から東郷町に及ぶ広範な地域を押さえていた国人領主である。家伝『丹羽軍功録』によれば、天文二十年(一五五一)丹羽氏清・氏職親子が信長と戦いこれを撃破したと伝えている。
 書状に登場する近藤右京亮とは、沓掛城主であったと伝えられる近藤景春のことである。桶狭間合戦前日、義元は沓掛城に宿泊しここから桶狭間へと向かった。文中では、天文十九年の時点で近藤景春を味方であると記している。そして横根、大脇の知行を安堵しているが、この地は水野氏の支配領域と重なっている。丹羽氏は、義元の勢威を背に岩崎から南下し、水野氏の領地に食い込むように勢力を拡大させていたのである。
 沓掛城の西でも国人や土豪が信長を見限り、次々と今川陣営に馳せ参じる様子が『信長公記』に記録されている。

—熱田より一里東、鳴海の城、山口左馬助入れ置かれ候。是れは武篇者、才覚の仁也。既に逆心を企て、駿河衆を引き入れ、ならび大高の城・沓掛の城、両城も、左馬助調略を以て乗つ取り、推し並べ三金輪に三ヶ所、何方へも間は一里づつなり—
 天文十八年(一五四九)に織田信秀が安祥城で破れ、天文二十一年(一五五二)に死去するに及んで、三河に隣接する東尾張一帯が今川方に走っていた。こうした情勢は桶狭間合戦時まで変ることがなく、『信長公記』にはさらに尾張海西郡の服部党が、船団を率いて義元に合流すべく大高城下に終結していたことを伝えている。海西郡の蟹江城は、弘治元年(一五五五)に今川方の松平親乗によって攻略されているので、服部党の船団には松平の兵も加わっていたことだろう。
 このように永禄三年(一五六〇)、義元が尾張に大軍を進めた時点の情勢を見れば、水野氏が今川陣営に組することが当然とも思えるが、合戦後の岡部元信の行動に明らかなように、水野氏は今川を謀り信長と共に今川の敵となったのである。武士世界の軍事的側面だけを捉えて考えるならば、水野氏の決断は理解しがたい。

 ここで、水野氏の国人領主としての領域統治について考えてみたい。
 水野氏の支配領域は、刈谷周辺の三河と小川を中心とした知多半島北部一帯である。一般に、天文十二年に死去したとされる水野忠政の代までに、小川、刈谷、常滑、大高を領するようになったと考えられている。そして忠政の後を継いだ信元は、尾張の実力者である織田信秀と同盟を結び、知多半島南部へ勢力を拡大した。
 刈谷市教育委員会が刊行した『刈谷水野氏の一研究』では、「知多半島における信元の動向は『知多郡史』『成岩町史』『野間町史』などにある程度触れられてあるが、史料上の問題で確証できる説とは言い難い」としながらも、次のように述べている。

—信元の同盟後ただちに半島平定を目指し、南下政策をとったようである。この頃の知多半島には水野氏の他、佐治氏や戸田氏が勢力をもっていたと言われる。(中略)佐治・戸田両氏と水野氏の関係を中心に、信元の半島進出の過程を『知多郡史』などから追ってみると、緒川から南へ乙川・半田・成岩というコースと、常滑から野間というコースに分けられる。つまり半島の北部は東海岸を、中部から南部にかけては西海岸を押さえていったことになる。このような形をとらざるを得なかったのは、右の図からもわかるように、当時大野を中心に内海から羽豆崎(師崎)にかけて勢力をもっていた佐治氏の存在が認められるからであり、また半島の南端羽豆崎(師崎)をはじめ富貴・河和には戸田氏が勢力をもっていたからである—

 水野氏の知多半島南部への進出は、信元の代になって急に始まったということではないようであるが、東と西の海岸沿いに領地を確保していったのである。水野氏の南下によって圧迫された佐治氏と戸田氏は、水野氏との婚姻関係を構築して知多半島に均衡がもたらされた。
 さて、ここで一つ考えねばならないことがある。それはこの水野氏の勢力拡張は、なぜ海岸沿いに進むことになったのだろうか、という点である。そしてその答えは明らかで、支配すべき拠点が海岸沿いにあったからである。そして拠点の多くが海岸沿いにあるのは、この地が半島だからである。
 知多半島は、西は伊勢湾、東は三河湾と衣ヶ浦が海岸線を形成し、東西幅が最も広いところが東浦と大野辺りで、十四キロほどである。その南五キロほどの半田・常滑から幅が五キロほどに狭まって、二〇キロほども南に伸びている。東西五キロという非常に細長い地形であり、河川というほどのものがないため農業にはいささか不向きである。今日は愛知用水がこの地を潤しているが、この用水が引かれる前は溜池と井戸水に頼るばかりで、旱魃の被害に見舞われることが度々であったという。こうしたことから、主要な産業が海運と漁業ということになり、半島の浦々に拠点ができるのである。
 信元以前に水野家の領有となっていた小川、刈谷、常滑、大高のいずれも海に面しており、隣接する港を有している。このことを見れば、知多半島で勢力を得るためには、その主要産業である海運と漁業を自らの経済基盤に組み入れる必要があったことがわかるのであり、その有力拠点を押さえたことが水野氏が台頭した所以であったと考えられる。

 水野氏の古くからの拠点である常滑は、室町時代になって窯業の中心地となっていった。製品としての大型の甕や壷は、海運によって東北、 関東、関西、中国、九州にまで運ばれていたという。水野氏は、伊勢湾、三河湾、衣ヶ浦の海運や漁業、そして常滑焼のような工業を担う商工・漁民を統治することで経済的な基盤を確立し、それを背景に勢力を拡大したのである。
 この水野氏と信秀・信長には共通点がある。信秀は祖父の代から勝端城を拠点とし、信秀の父信貞の時に尾張有数の港町津島を傘下に収めた。さらに信秀は、天文七年(一五三八)に今川氏豊から那古野城を奪い、その南方にある熱田を支配するようになった。そして津島と熱田という富貴の港湾都市を手に入れた信秀は、その経済力を背景に尾張一の実力者にのし上がったのである。
 信秀と信元の同盟は、当時の武士社会の軍事面だけで考察するのではなく、共に海運に基づく商工業を基盤としているという点にもっと注目すべきである。そして海運・交易であるがために、双方が相手を必要としている。
 当時伊勢湾と三河湾は、海運によって結び付けられた一つの経済圏としての側面があったことが指摘され始めている。この種の研究はまだまだ数が少ないようであるが、綿貫友子氏が『尾張・参河と中世海運』の中で語っていることを引用しておこう。

—十六世紀中期までに尾張においては、大野、常滑、野間、亀崎、岩成、緒川、刈谷、津島、大高、曙、篠島、参河においては、大浜、鷲塚、佐久島、今橋(吉田)、牟呂津などの港の存在が確認できる。そしてそれらの港は、桑名、楠、大津、長太などの伊勢沿岸の港と連絡されていた。
 幕藩体制の整備とともに、幕府や諸藩の貢租米の輸送を契機とする近世伊勢湾海運が発展し、さまざまな舟稼ぎが展開される以前、中世末までにそれらの輸送を可能にするだけの基盤は整えられていたことは確かである—
                                                 《つづく》

by mizuno_clan | 2008-05-04 15:37 | ★研究論文