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【談議1】水野氏と戦国談議(第三回1/2)

リゾーム」型権力モデルで竹千代強奪事件を紐解 
                                                談議:江畑英郷
 『水野氏と戦国談議』の第一回と第二回は、水野氏そっちのけで戦国期の社会・権力モデルについて述べさせてもらった。水野氏史研究は、水野氏という一氏族に関わる研究であるからその内容はかなり個別で詳細な史料の検討となるであろうが、それでもやはりその時代の社会・権力モデルに依存せざるをえない。
 私が桶狭間合戦の謎を解こうとして水野氏に注目した時、一番よくわからなかったのが、強大な戦国大名である今川氏に囲まれるようにして隣接していたのに、なぜ信長との同盟を維持したのかという点である。最近の傾向をみると、桶狭間合戦における信長と義元の戦力差を少なく見積もって信長の勝利を説明しようとするケースが多いように思うが、そこにも当時の軍編成に対する群雄割拠型権力モデルが介在している。詳細は別に論じたいと思うが、安易に『信長公記』が記録した今川軍四万五千をしりぞけるべきではない。そうして今川絶対優位を牛一の記述のままに受け入れると、水野氏は本当に信長との同盟を維持していたのだろうかという疑問が生じてくる。水野青鷺さんは「ある中世日本史専攻の教授」が、「“この戦いで、水野氏がどう動いたかが重要な問題である”旨のお考えを持って居られることを知り、まさに判物をいただいた如くに意を強くしました」とこの談議第一回のコメントに記載されているが、今や水野氏の動向を無視して桶狭間合戦を語ることは研究に値しないものにまでなっているように思う。
 橋場日月(はしばあきら)氏が今年9月に学研新書から出した『新説 桶狭間合戦』でも、水野氏の扱いは大きく、そこで橋場氏は水野氏が合戦当時今川方であったと述べている。これは橋場氏が、私同様に当時の信長と義元の勢力差を考えれば、水野氏が信長との同盟に留まったとするのは考えにくいと見るからであろう。そして桶狭間合戦の直前に今川義元から協力を依頼された水野十郎左衛門を水野信近とし、それを根拠として水野氏は今川傘下にあったのだとしている。
 橋場氏の見解は、以前私が当ブログに投稿させてもらった『水野氏と桶狭間合戦』と重なる部分が少なくない。橋場氏が「駿河から尾張・伊勢を結ぶ“海の道”」に注目し、織田方の「伊勢湾海上交通社会」を今川義元が圧迫・切り崩そうとする動きの最中に水野氏の興廃を捉えようとする点でも見解が似ている。しかし橋場氏がそうした桶狭間合戦解釈の下地としているものは、やはり群雄割拠型の権力モデルであるように思える。
 私が当ブログへの投稿『水野氏における桶狭間参戦の背景』において目指したものは、今川・織田・水野という領主権力の軍事バランスだけで織田・水野同盟を捉えないということであった。そして、その思いで投稿文の最後に次のように記したのである。

 水野氏は、今川の軍事的脅威は嫌と言うほど感じながら、自身を経済的・軍事的に支える領内の沿岸交易都市に根を張る商人勢力の選択を、受け入れざるを得なかったのである。そして駿府の商業統制ではなく、信長の自由交易を支持し、これに馳せ参じることを決断した下からの動きに乗せられたまま、信元や信近たち水野氏は桶狭間合戦に臨むことになったのである。

 私は桶狭間合戦に至る水野氏の動向というものは、上層権力の動きを論じるだけでは解明できないと思い、「伊勢湾・三河湾交易圏」というものを想定してみた。この交易圏の主体は地域で活動する商工業者であり、そうした武士でなく所領を持つ者でもない勢力をひとつの有力な権力と捉えることで、この権力の意志が国人権力である水野氏の動向に強い影響を与えていたと考えたのである。桶狭間合戦に至る水野氏の動向には、群雄割拠型の権力モデルではその根本問題である、なぜ強大な今川を敵に回したのかを解くことができない。
 橋場氏は、「桶狭間の決戦というミクロの事象、“バトル”だけを見るのではなく、織田と今川の対決を広く大名家同士の戦争、“ウォー”としてマクロで捉えて考える必要がありそうだ」と述べている。「バトル」だけではダメで「ウォー」として捉える必要があるという点では全く同感なのであるが、この「ウォー」を「大名家同士の戦争」に限定するのは群雄割拠型権力モデルを下地としていることに他ならない。リゾーム型権力モデルであれば、より広く地域諸権力の衝突として捉えなければならない。私はリゾーム型の権力モデルを適用することで、信長陣営に水野氏が留まったのは、水野氏の領地があった知多郡においてその経済基盤を支えていた商工業者たちの意向がそこに働いたからだと推測した。そして水野氏という領主階級はそれを受け容れざるをえなかったとすることで、織田・水野同盟の継続とその本質を規定しようとしたのである。
 桶狭間合戦に至る水野氏の動向にリゾーム型権力モデルを適用したものの、私の知識や理解が浅いために、十分に妥当性のある推論をそこに導き出せたとは思っていない。しかし池上氏や久留島氏など歴史学の専門家が、このリゾーム型権力モデルこそ戦国期の実情だと言っているのであるから、水野氏の動向解明のアプローチは間違っていないはずである。

 前置きが長くなってしまったが、今回は群雄割拠型権力モデルで理解されているが故にどうにも解せないことになっている事例を取り上げ、それをリゾーム型権力モデルで解くとどうなるかを、別の事例で確かめたいと思う。
 その事例とは、あの竹千代強奪事件である。
 この竹千代強奪事件、『岡崎市史』の述べるところに従ってまずは整理をしておこう。

 天文一六(一五四七)年八月二日、数え年六歳の竹千代(家康)は駿府へ赴くために岡崎を出発した。竹千代に付き随う者は二八人という。この駿府行は人質の旅であった。『三河物語』によれば、竹千代一行は西郡から船で三河湾を航行し、田原へ上睦して陸路駿府へ向かったが、途中で田原城主で継母真喜姫の父戸田宗光と兄尭光(具説に弟政直)に竹千代の身は奪い取られた。
 奪い取られた竹千代は船で尾張へ送られ、繊田信秀に渡された。信秀は一〇〇貫文とも一〇〇〇貫文ともいう賞金を与えたという。竹千代は熱田の加藤図書順盛に預けられ、そこで二年余を過すことになる。


(松平広忠は、水野家の於大を離別した後に戸田宗光の娘真喜姫と再婚し、竹千代にとって真喜姫は継母となっていた。松平家と戸田家に婚姻関係があったことから、松平方は戸田領を通過することに危険はないと判断していたという)
 事件のあらましは以上である。この竹千代強奪事件の背景には、三河をめぐる織田信秀と竹千代の父松平広忠の争いがあった。そして織田信秀の攻勢によって窮地に立たされた広忠が今川義元に救援を依頼し、その見返りとして竹千代を駿府に人質に送ろうとしていたのである。つまり竹千代は、松平氏が義元へ服属することの証だったのである。
 これはまさに群雄割拠の権力モデルで理解された事件のストーリーで、三河の松平広忠、尾張の織田信秀、駿河の今川義元という戦国大名(織田信秀や松平広忠が戦国大名であったかどうかという議論はあるが)間の外交政策が展開している。そして松平氏と今川氏の外交政策を担うのが、わずか6歳の竹千代というわけで、その竹千代が奪われるという大事件が起こり、松平の対今川の外交政策は危機に瀕したといったところであろうか。
 群雄割拠型の権力モデルでは、この竹千代強奪事件は外交上の大問題である。そこには戦国大名である松平広忠の嫡男というかけがえの無い存在が、敵方に奪われたという認識がある。このモデルでは、三河の群雄松平氏惣領家の嫡男における価値は、当主の広忠に次ぐものである。今川との外交においても重要なカードで、これを失った損失は計り知れないということになる。この権力モデルに基づく『松平記』などは、信秀は広忠に使者を送って今川から離反して信秀に味方するように説いたが、広忠は竹千代の命を奪われても決して今川を裏切りはしないと返答し、信秀がこれに感心したと述べている。
 さてその後この事件は、次に続く今川の田原戸田氏への攻撃と戸田氏の滅亡、そして三河東端の今橋に拠点を確保していた今川氏がさらに田原城まで手に入れて、東三河に睨みを利かせる事態へと展開していく。『岡崎市史』は、竹千代を強奪された今川方の動きを次のように記載している。

 義元からみれば田原戸田氏の行動は叛逆にあたる。早速に天野安芸守景秦、同小四郎景貫らに命じて田原城を攻撃させた。八月下旬のことである。田原攻めの総指揮は大原崇孚であったが、九月五日に田原城は落城し、田原戸田氏は滅亡した。

 『岡崎市史』は諸説あるとしながらも、竹千代強奪事件の発生は八月二日としている。そして八月下旬には田原城は包囲・攻撃され、九月五日には落城している。事件発生からおよそ一ヶ月で、強奪を実行した田原戸田氏は滅亡したのである。私はこの事件の推移を見て、田原の戸田親子はなんと馬鹿なのだろうかと思ったものである。田原城は渥美半島の付け根にあって、遠江の国境は目と鼻の先である。今川氏は駿河と遠江を領国とし、東三河には服属を誓う国人領主も多数いた。そんな今川氏から人質を横取りすればどういうことになるか、戸田親子は分からなかったのだろうか。
 さらにこの事件のわずか九ヶ月前、同族の戸田宣成(のぶなり)の居城であった今橋城が今川軍の攻撃を受けて落城している。田原の目と鼻の先で同族が滅ぼされたのを見ていながら、なぜ義元の報復必須と分かっている竹千代強奪などをおこなったのだろうか。実に奇妙な事件である。
 この事件がなぜ起こったかについて、『岡崎市史』において新行紀一氏は次のように述べている。

 竹千代奪取事件の最大の謎は、戸田氏が長年の今川氏への服属関係を破棄して、なにゆえ信秀と結んだかである。前年の今橋城の戸田宣成滅亡とからめて、戸田氏が台頭しつつある信秀の勢いをみて、二連木城の宣光は今川方、今橋・田原は織田方という一族二分策で家の存続をはかったとの説もある。しかしそれは二大勢力に直接境界を接する場合にとられる方策である。この時点では松平が西三河にあって、戸田は織田とは境を接していない。しかも信秀はたしかに強くはあっても新興勢力であって、いまだ尾張一国を統一するまでにもいたっておらず、駿遠二国を抑えた今川とは大きな格差がある。想像するところ、信秀の遠交近攻策による働きかけがあって、西三河分割案などが提示され、それに田原戸田氏が乗せられたということではなかろうか。それが広忠の抵抗や二連木戸田氏の田原離反と今川義元の敏速な行動によって、計算がはずれたということではなかろうか。

 この新行氏の発言を受けて、平野明夫氏はその著書『三河松平一族』で次のように述べる。

 新行紀一氏は、織田氏と戸田氏が境界を接していないとする。しかし、戸田氏の勢力は、渥美半島のみならず、知多半島にも伸びていた。河和(愛知県美浜町)が知多半島における戸田氏の拠点であった。したがって、織田氏の勢力伸長に、直接的脅威を受けていたと考えられるのである。しかも水野氏が織田方となったことによって、すぐ北の常滑までが織田方になっていた。田原・吉田の戸田氏が、知多半島での圧迫を感じ、政策を転換したと想像される。すでに一族一揆が解体し、各家ごとに行動していた戸田氏の場合、一族二分策と捉えなくてもよいかと思われる。

 両氏とも、戦国大名に届かない戸田氏が、今川・織田の二強の前でその生き残りに腐心して思い切った手段に打って出たが、裏目に出て滅亡したという理解には変わりがないようである。戸田氏のとった奇妙な行動を理解するためにその外交施策をあれこれ論じているが、やはりそこでは地域権力の頂点にある者だけしか視野に入っていない。一族二分策だの西三河分割案などと、机上演習のような策謀を論じており、私にはそれが地に足の着いた議論には思えないのである。
 新行氏も平野氏も戸田氏が織田信秀の領地あるいは勢力圏と境界を接しているか否やを問題としているが、それは信秀が障害なく戸田領へ軍事侵攻できるかどうかという議論なのであろうか。そうだとするならば、信秀はひたすら自領を拡大するために軍事侵攻を目論む野望に満ちた群雄、そして義元も同様で、その二強に挟まれて生き残りを模索する弱小戸田氏という、まさに群雄割拠型権力モデルにどっぷりと浸かった議論ということになる。
 そしてもし単なる軍事面だけでないとしたならば、戸田氏が知多半島に進出していることを持ち出すまでもなく、海というものを視野に入れれば境界が接していないなどとは言えないはずである。海路を通じて伊勢湾と三河湾の間には頻繁な行き来があり、直接的あるいは間接的に両者は経済的関係を構築していたはずである。そこにおける「直接的脅威」とは何を意味するのであろうか。またこれも後に論じたいと思っているが、当時の所領(耕作地)というものが零細でその権利が重層的に折り重なっていたことを思えば、そもそも境界などは非常に曖昧なものなのである。
 結局のところ、新行氏にしても平野氏にしても、戸田氏と織田氏、戸田氏と今川氏という地域頂点権力だけを視野に入れて、この奇妙な事件が起こった背景を考えようとしているところに無理が生じているのではないだろうか。これをリゾーム型権力モデルで考えるならば、事件を起しえるのは地域領主だけではない。彼ら戦国大名あるいは国人領主だけに権力が集中し、その権力に敵対できるのは同じ権力だけというモデルから離れれば別の視野が開けてくる。
 この事件のあらましの中に、戦国大名あるいは国人領主以外で登場している人物が一人いる。それは強奪された竹千代が預けられたという、熱田の加藤図書順盛(のぶもり)である。群雄割拠型権力モデルにおける竹千代の身柄は極めて重要なものであるが、その竹千代はなぜか熱田の商人加藤順盛に預けられた。
 西三河の松平惣領家の嫡男である竹千代が、どうして熱田商人に預けられることになったかについては、一般に信秀と加藤順盛との間の信頼関係と「羽城」(はじょ)という加藤家の特異な屋敷が理由としてあげられている。この「羽城」について、『熱田歴史散歩』(日下英之著)は次のように説明している。

 羽城とはいったい何だろう。『尾州志路』は「葉上」と記し、『尾張地名考』は「羽城又は端所とも書き、或は端瀬と呼」といっているが、意味はあまりよくわからない。『尾張徇行記』は「コレハ以前カキアケ城ノアトナル故、前々ヨリ羽城トイヒ伝ヘルト也」と記している。(中略)ここはもと熱田社の修理職の屋敷であったものを、東加藤家が順盛の代に求めてその控地とし、周囲を精進川や堀で取り囲み、館を構えたものと思われる。

 そして『熱田歴史散歩』は、「羽城は川・堀・海に囲まれた曲輪であり、幽閉には格好の場所であったのであろう」と竹千代が預けられた理由を述べている。「羽城」の特異な立地条件が、信秀が加藤家に竹千代を預けた真意であるとするのは、およそ一般の見解と変わらないであろう。しかし商人の屋敷としては特異で幽閉に適していたとしても、尾張最大の有力者である織田信秀の居城であった古渡城よりも外敵から守りやすかったわけではないだろう。『三河物語』によれば1千貫文も払って掌中のものとした竹千代を、なぜ信秀は古渡城中で幽閉しなかったのであろうか。
【談議1】水野氏と戦国談議(第三回1/2)_e0144936_14491053.jpg

2/2へ続く

by mizuno_clan | 2008-12-28 15:57 | ☆談義(自由討論)