【談議1】水野氏と戦国談議(第五回2/2)

1/2からの続き

 給恩地は沢氏や戦国大名が知行として与えたものであるから、それを売ることを厳しく制限するのは当然であるが、地侍が先祖伝来所有していた本領地は規制の対象とすることはできなかった。これもまた当然と言えば当然であるが、このことは本領安堵などと言っても、それで主が従者に大きなご恩を与えたことにはならないことを示しているのではないだろうか。そうなると、荻原豊前守のようにご恩の代りに軍役義務を負っていたのは、給恩地に限られていたことではないかと思えてくる。あるいは給恩地は頂戴していても、本領は取り立てて安堵してもらっていないなどというケースも考えられる。本領が係争地になっているなどの事情がない限り、上位権力から本領を必ずしも安堵してもらう必要は無いように思うからである。
 沢氏や戦国大名が給御地の売買を法度をもって禁じねばならぬほど、戦国期には土地の売買が盛んであった。『戦国の群像』の中に、この土地買得に熱中した中氏の事例が掲載されている。

 和泉国日根野荘の北隣の熊取荘の地には、泉南地方きっての有力な百姓中氏がいた。約一〇〇〇点に及ぶ膨大な「中家文書」は、ほとんどが中氏と、その子息の入寺した根来寺成真院とが買い集めた土地の売券(売渡証文)である。惣村の歴史にくわしい故三浦圭一氏の分析によれば、室町期、一五世紀中の買得はわずかで、ほとんどが一六世紀、戦国期にかけてのもので、ことに一五三〇年代から五〇年代、すなわち天文年間から永禄の初めにかけての時期に集中している。
 売券に記された田畠の面積には三〇歩(三〇坪)、五〇歩など非常に零細なものも多く、微力な農民との間の売買が多かったことを示す。実はこれらの買得によって、中氏は土地そのものを集積したのではない。その土地の耕作者が負担する、加地子得分という余剰分を取る権利を主に集積したのである。


 この中氏、文中では百姓と言っているが、名字もあり実態は百姓役を果たす富裕な土豪といったところであろう。中氏が集中的に集積したのは加地子得分であるというが、この加地子得分について、池上氏は次のように説明している。

 本年貢額は在地領主あるいは名主百姓らの運動によって室町時代からほぼ固定され、あるいは減少する傾向にすらあった。他方、農民たちの努力によって生産力は上昇していったから、本年貢を納めた後に、かなりの余剰が残ることになる。また、室町から戦国時代にかけて新しく開発された耕地には本年貢はなく、それだけ大幅な余剰が成立した。これらの余剰は加地子といわれる得分となった。

 この加地子について池上氏は、「本年貢の一〇倍近い額になっているのはそうめずらしいことではない」と言い、「畿内近国では、本年貢にくらべて、加地子の額が圧倒的に高く、ほとんど二~三倍かそれ以上となっている」と述べている。そして「本年貢収取権をもつ在地領主層、寺社なども含め、身分を超えて、銭をもつものは誰でもこの集積に走った」とも述べており、地侍や国人など戦国大名の被官も加地子の集積に奔走していたのである。
 加地子自体は土地ではないが、耕地の余剰を取得する権利であり、それもまた所領ということができるであろう。この加地子は買得以外に、東寺上久世荘(京都市南区)では、「年貢などを納められない百姓の未進(未納)分をたてかえ、担保にした土地の加地子得分を集積するなどして、保有地を拡大し、一五世紀末の戦国初期には、荘内耕地の半分に及ぶ三〇町歩ほどを支配下に入れるようになった」(『戦国の群像』)在地領主の例がある。また領主に対する減免運動などによって勝ち取った余剰分などもあり、在地領主の所領拡大の機会は随所に存在していたのである。
 このように見てくると、領地というものは次の四つに分類することができるであろう。

①先祖伝来、固有に維持してきた本領地。
②荘園領主と百姓の仲介の中から獲得していった加地子得分。
③戦国大名や有力国人から給された給恩地。
④加地子を中心とした買得地。

 地侍などの在地領主は、戦国大名の被官となり所領拡大を求めて合戦に身を投じていったとの理解は、こうして見ると些か疑わしいように思われてくる。所領が上記のように四つに分類できるならば、所領拡大の方法は給恩地を獲得する以外にも幾つもあったことになる。そして合戦に参加しても戦功があげられねば恩賞は得られず、味方が敗北すればどれほど奮闘しても恩賞は少ない。ましてや合戦で命を落としたり後遺症の残る負傷を負えば、その後の領地拡大は望めず、維持さえも難しくなるかも知れない。このように考えると、恩賞を求めて合戦に出るのはリスクの高い賭けのようなもので、それに比べれば②と④は所領拡大の方法としてある意味安全で確実なのではないだろうか。
 戦国大名、そしてそれに従う重臣から地侍までが、所領を拡大したいがために戦いに明け暮れたということは、彼らが他人の所領を暴力的に武力で奪い取ることをもっぱらにしていたということになる。戦いに勝利することで確かに所領を増やすことはあっただろうが、そのためにのみ戦があったとするのは、所領を拡大する方法が他にも開けていることを思えば、やはり誤った見方であると言えるだろう。また戦国大名の戦力の重要な部分を占めていたとされる地侍は、在地性を喪失しつつあった国人と異なり、いっそう村に基盤を置いてその中での自身の発展を志向していたように思える。そうした地侍にとって、軍役で獲得する恩賞としての知行地はリスクが高過ぎるようであるし、軍役衆になることで免除される加地子はもともと彼らが内得として懐に入れていたものであった。こうした地侍層が、戦国大名と一体となって果たしてどこまで他国での争いにその身を投じていったのか、甚だ疑問に思うところである。

 今回は「所領」にこだわって戦国期の土地支配について触れたが、まだまだ考えて見なければならないことが残っている。前回のコメントで、水野青鷺さんが「これらの戦いの勝敗については、現代における一つの考え方として、“win-win”も考慮の対象としてみるのはどうであろうか」と述べていた。池上氏や久留島氏など多くの研究者は、戦国期の「win-win」は、村と戦国大名との間にあったとするだろう。リゾームの観点で言えば、「win-lose」や「win-win」が入り乱れて、同階層あるいは異階層間で揉み合うように前進したのが戦国時代ということになる。その意味では戦国大名対戦国大名の「win-lose」は、その表層に過ぎないと思うのである。
 そこで次回は、戦国期の村と地侍、そしてその両者と時に「win-win」、そして「win-lose」の関係を持った戦国大名に焦点を当てて、その中からどうして戦いの時代が出現したのかを考えてみることにしたい。
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by mizuno_clan | 2009-01-11 09:01 | ☆談義(自由討論)