【談議1】水野氏と戦国談議(第八回2/2)

(1/2から続く)
 今川義元の支援に助けられて松平広忠は天文五年から岡崎城主となり、惣領として屋台骨が揺らいでしまった松平家を立て直そうとするが、天文十二年になってとある事件が起こる。その事件とは、広忠の伯父で一門を代表する松平信孝が広忠の重臣から疎まれて、信孝の留守中にその所領を奪い取られてしまったというものである。この事件について、『岡崎市史』は次のように記している。

 清康の弟信孝は三木(みつぎ)に分出していたが、守山崩れ後の松平氏の分裂の際には、最終的には広忠を支持し、その還住に協力した。それゆえ、広忠の家督相続後は大きな発言権を有していた。また一門の岩戸殿(誰をさすのか不明、岩津松平の白清か)および天文一一(一五四二)年二月一八日に死んだ弟十郎三郎康孝(浅井松平)の遺領を兼併し、惣領家に匹敵する所領と被官を保持するようになった。これにたいし、桜井家の信定の先例にこりた広忠の老衆は、信孝の排除を企てた。

 「桜井家の信定の先例」とは、清康が弑逆された守山崩れの後、清康の伯父である桜井城主の松平信定が岡崎城に乗り込み、広忠を追い出した一件を指している。広忠にとって信定は大伯父であったが、今度は父の弟である伯父の信孝が威勢を増したのを警戒して先手を打ったということである。ただし、「若年の広忠の意志というよりは、老衆の合議によって信孝排除が決定された」(『岡崎市史』)のであり、広忠に伯父排斥の意図はなかったようである。平野氏は、「松平氏の権力構造が、一族の一揆を中心とする権力から、惣領家の家とそれを支える家臣によって動かされる権力へと移行している」(『三河松平一族』)と述べているが、広忠を囲む家臣たちの意向が松平の意思となっていることに注目したい。
 『岡崎市史』や『新修名古屋市史』など多くが、天文九年にかつての松平長忠の居城であった安城城が織田信秀によって攻略されたとするが、この立場からすると尾張織田と交戦状態にあって松平家の危機が高まっている最中に、広忠とその老衆は一門の信孝排斥というような内輪揉めを起していたことになる。また、この天文十二年は、水野貞守から三代後の小河城主となった水野忠政が死去したとされている年でもある。この忠政については、「行跡として伝えられている事はまことに少な」く、「徳川家康外祖父として後世の粉飾をうけた多くの逸話がある」(『刈谷市史』)というやや謎めいた人物である。この忠政が死去したことで、それまで親松平路線を取っていた水野氏が、外交方針の大転換をして織田信秀と手を組むようになった。この経緯について、『刈谷市史』は次のように述べている。

 ところが信元は家を継ぐとすぐに外交方針を大転換し、従来の親松平政策を捨てて織田信秀と結ぶことにした。その理由は判然としないが、この前年八月十日の第一次小豆坂合戦における織田方の勝利、同年秋以後激化した広忠やその老臣衆と叔父信孝との争いと信孝の追放、その結果としての信孝の織田信秀との同盟などによって、尾三国境地域における織田方の圧倒的優位が確実になったためであろう。さらにいえば、信元の岳父信定の室は信秀の姉妹で、信元室の姉は尾張守山城の織田信光の妻となっていた。このような姻戚関係も相当の意味をもつであろうが、尾張国内の情勢も大きく影響していた。一応守護斯波家、守護代清洲織田家を推戴して、天文初年から台頭した織田信秀は、西の美濃と東の三河で斉藤と松平という二大勢力を敵に回していた。松平に対しては天文四年の清康の突然の死とその後の内訌、それに乗じた天文九年の安城城奪取によって順調な領国拡大が進行したが、東方経営の必須条件は、衣ヶ浦・伊勢湾に大きな力をもった水野一族に背後を脅かされないことであった。これに対して小河・刈谷・常滑の三家を中核とする水野一族にとっては、信秀との協調は不可欠であり、小勢力分立の知多半島統一を目指すならば、弱体化した松平ではなく攻勢的な織田と手を結ぶことが最上の道と考えられたのであろう。

 ここでは、水野信元が外交を大きく転換した理由として、「尾三国境地域における織田方の圧倒的優位が確実になった」ことをあげているが、この圧倒的優位のひとつが「前年八月十日の第一次小豆坂合戦における織田方の勝利」だという。
 今川義元と織田信秀が直接激突した戦いとして、三河小豆坂(岡崎市羽根町付近)での合戦があったが、この合戦については天文十一年説と天文十七年説がある。天文十七年の合戦については、今川義元が西郷弾正左衛門や松井惣左衛門、朝比奈藤三郎に出した感状が残されているため、この年に合戦があったことは間違いない。したがって、問題は天文十一年の合戦が本当にあったかどうかであるが、『岡崎市史』は「一一年と一七年の二回説で考えるべき」と述べている。天文十一年の小豆坂合戦は『信長公記』がその典拠であるが、『信長公記』には「八月上旬、駿河衆、三川の国正田原へ取り出し」という書き出しで語られているだけで、天文十一年という年の記載はない。『岡崎市史』はこの天文十一年について、「そのはじまりは小瀬甫庵「信長記」(初刊元和八・一六二二年〕らしい」と書いている。また『新修名古屋市史』は、「『信長公記』の「八月上旬」の戦いと、天文十七年の三月十九日の戦いでは、月日の混同とするには相違がありすぎる」とし、さらに「『信長公記』によれば、小豆坂の戦いで活躍した織田与三郎(信秀弟)は、天文十六年(天文十三年説も)の稲葉山城下の戦いで戦死しており、天文十七年の小豆坂の戦いに参加することはあり得ない」とも述べている。
 『岡崎市史』と『新修名古屋市史』は小豆坂合戦二回説であるが、平野明夫氏は天文十七年の一回だけであったとする。

 「信長公記」をよく見ると、時を示す言葉は「八月上旬」とあるのみで、年次を記していない。しかも、安城城を織田信秀が抱えているとする。後述するように、織田信秀の作戦は、安城城を起点としている。したがって、安城城攻略後でなければ、その作戦は展開できない。織田信秀の安城城攻略後となると、天文十六年以降のことになる。今川氏にしても、天文十一年ごろは、駿河東部における小田原北条氏との抗争が膠着状態とはいえ、終結しておらず、東三河の要衝吉田城も押さえてはいない。今川・織田双方ともに、岡崎付近への侵入は不可能と捉えられる。こうした状況からも、天文十一年小豆坂の戦いはなかったと考えるのが妥当であろう。(『三河松平一族』)

 平野氏が織田信秀による安城城の攻略を天文十六年としているのは、先にみた通りである。この平野氏の指摘とともに、『刈谷市史』が「東方経営の必須条件は、衣ヶ浦・伊勢湾に大きな力をもった水野一族に背後を脅かされないこと」と記載していたことをよく考え合わせる必要がある。水野氏が織田信秀と同盟を結んだのは、忠政が死去した天文十二年以降のことである。これからすると、第一次小豆坂合戦があったとする天文十一年の段階では、水野氏は松平と同盟関係にあったのであり、信秀はその脅威を背後に受けながら小豆坂で今川・松平連合軍と戦ったことになる。
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 図2は天文十一年ごろの織田(オレンジ)、水野(黄色)、松平(緑色)、今川(青色)の勢力図である。仮にこの年に小豆坂で合戦があったとすると、織田領域から小豆坂は三十キロメートルほどの距離があり、さらに黄色の水野氏は松平と幾重にも婚姻関係を結んだ同盟勢力である。
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 図3は天文十七年ごろの勢力図で、織田と水野は同盟し織田方は安城城を手中にしている。オレンジと黄色をあわせると、矢作川以西は信秀の勢力圏となっており、そこからの小豆坂は目の前ということになる。こうしてみると、平野氏がいう安城城の確保と、水野氏との同盟が小豆坂合戦が起こる前提であるというのは揺るぎないことのように思える。小豆坂合戦については横山住雄氏も天文十一年の合戦を否定しているが、「全く同じような戦が一度ならずも二度くり返されるとは考えがたい」と述べており、これに何か妙に説得力を感じるのは私だけであろうか。
 このように小豆坂合戦と織田・水野同盟、そして織田信秀による安城城奪取は、実に密接な関係にあったのである。そしてこれら一連の動きは、織田信秀の野心でもなく、今川義元の西への拡大方針でもなく、松平氏内部から引き出されてきたことなのである。ことの発端は、天文十二年に岡崎の老衆が一揆を取り結んで松平一門の信孝を排斥したことにある。
 『岡崎市史』によると、信孝追放は「天文一二年正月に病気の広忠の名代として駿府の今川義元に年始の挨拶に信孝が赴いている間に」実行された。それは、「屋敷と知行を占拠するというものあったが、信孝は広忠への「忠節は人に勝れたり」と言って、「和解をはかったが、結局それは不調におわった」のである。そして「信孝は駿府へ行って義元に事情を訴え、義元は老衆の本多忠高・酒井政親・石川清兼・阿部定吉・植村氏明らを駿府に呼んで和解を勧めたが、老衆は承知しなかった。信孝は仕方なく酒井忠尚や松平忠倫らとともに信秀に通じることとなった」とされているのである。
 この一件では、今川義元が仲介に乗り出していたが岡崎老衆はこれを拒み、信孝は織田信秀を頼って一時尾張に身を寄せることになった。先に北条氏康から織田信秀に遣わされた天文十七年の書状があったが、そこに「三河のことは駿河今川氏に相談せず」と氏康が書いていた箇所があった。この信秀と義元が三河のことについて相談する間柄であったかのような記述は、まさにこの天文十二年に起こった松平信孝排斥事件での両者の対応にぴったりと合致する。義元は信孝を元の鞘に収めさせようと岡崎老衆を説得し、それが不調に終ると信秀が信孝を庇護したのであり、義元も信秀もこの事件への対応では同一歩調をとっていたのである。
 こうしてみると、天文十二年の時点まで西三河への織田・今川の進出はなく、松平氏は天文四年に起こった森山崩れで清康が横死して以来の混乱を収拾しつつあったのではなかろうか。そうして英傑であった当主の突然の死と、それに乗じて松平信定が惣領の地位を奪おうとした松平家の危機を乗り越えたとき、一門トップの信孝と老衆たちとの内輪揉めが始まったのである。これによって信孝ばかりでなく、酒井忠尚(ただひさ)や松平忠倫(ただもと)、さらには松平信定の嫡男清定もが信孝を追放した老衆たちと対立した。西三河は松平氏の激しい内部抗争に曝されることとなったのである。
 松平信孝は、失地回復のため隣国の有力者である織田信秀を頼った。尾張には守護の斯波義統(よしむね)や守護代の織田達勝(みちかつ)がいたが、すでに信秀の力が両者を凌ぎ、尾張最大の実力者となっていたからである。この信秀の立場からすると、隣国三河の動乱に対して公権を体現する者として黙視することはできない。窮鳥である信孝が懐に飛び込んできた以上、対岸の火は尾張にも飛び火しているのである。同様に、西三河に隣接して、さらに三河刈谷に拠点を構える水野氏にとっても、これは他人ごとのように見ていて済む問題ではない。
 状況から推察すると、今川義元や織田信秀、そして水野信元らは、松平信孝の現状復帰を広忠とその老衆に再度働きかけたのではないだろうか。しかしながら、広忠はともかく老衆の態度は頑なでこれを拒否し続けた。結局これの懲罰的な意味も込めて、織田信秀と水野信元は松平信孝を支援して西三河に軍事侵攻したのではないだろうか。天文十三年に松平広忠に嫁いでいた水野忠政の娘於大が離縁され、双方の衝突も激しさを増すようになったであろう。一方、このころの今川義元は東に問題を抱えていた。それは先に触れたように、天文十四年に起こった第二次河東一乱の勃発である。義元は北条氏康とこの河東地域で対決することとなり、松平氏への対応は織田と水野に任せたといったところであったのだろう。
 そして天文十六年、松平信孝と織田信秀、そして水野信元の連合軍は、松平氏の重要拠点である安城城をついに攻略したのである。この軍事的な成功は、しかしながら「駿河今川氏に相談せず」といった状況で敢行されていた。また敗れた広忠側は大きなショックを受け、危機的な状況を打開するために、広忠の嫡男の竹千代を駿府に送って今川氏の救援を請うことになった。この間義元は北条氏との河東地域をめぐる戦いに勝利して、西三河問題に本腰を入れる。広忠と岡崎老衆は安城城が落とされたために、掌を返して救援を求めてきている。また義元から見ると、西三河の争乱はますます混迷を深めており、信秀・信元の軍事行動も明らかな行き過ぎであると考えた。こうして広忠の申し入れを受けて、事態の収拾を図ろうとしていたところで起こったのが、あの竹千代強奪事件である。
 竹千代強奪事件は、この談議の第三回で詳しく触れた。そこでは信秀が主体となってこの事件を引き起こしたのではないと考えたが、義元からするとその主犯が誰であろうと、竹千代は尾張に連れ去られたのである。そしてその尾張の仕置きに責任をもつのは、権力の頂点にいる織田信秀なのである。かくして今川義元は、広忠を助けて西三河から尾張勢を駆逐するために立ち上がったのである。そうして起こったのが、岡崎南方の小豆坂における織田信秀・松平信孝連合軍と、今川義元・松平広忠連合軍の合戦である。

 天文年間後半における西三河の争乱は、隣国尾張の織田信秀、そして三河にも所領を持つ水野信元を巻き込み、さらに東の大大名今川義元が乗り出してくるといった大名間戦争に発展していった。この三河を東西で挟み込む戦国大名どうしの戦いは、元はといえば岡崎の老衆が松平氏の一族一揆から広忠を中心とした家中主導の体制へ転換することを目論んだことにはじまる。このことは、久留島氏が「戦国大名自体が一揆を自らのなかに抱え込んでいる」と語っていたことを思い起こさせるが、これまで確認したことは、そうした戦国大名権力の中のリゾームがときに戦国大名間の戦いを呼び込むことがあるという事例である。
 さて、西三河をめぐって織田、今川、松平、水野が入り乱れて戦うことになったこの紛争劇は、その後どのような展開をみせたのであろうか。天文十七年の小豆坂合戦は、どちらが勝利したのか明らかではない。この合戦で決着がつかなかった両者間ではその後も戦いが続いたが、同年の耳取縄手の戦いで松平信孝が戦死してしまう。そして翌天文十八年になると、今度は松平広忠が岡崎城内で家臣の岩松弥八によって殺害される。広忠の嫡男である竹千代はいまだ熱田の羽城に囚われており、当主の急死に松平家は大きく動揺していた。この状況をみてすばやく動いたのが今川義元である。今川軍はすぐさま岡崎城を接収し、ついで信秀の長男信広が守る安城城を取り囲んだ。そして安城城が落城寸前となると、織田・今川双方の交渉によって、羽城で囚われの竹千代と安城城に押し込められた信広の交換というかたちで決着させ、安城城は再び松平方に戻ったのである。
 天文十二年に松平信孝の排斥によって始まった西三河の動乱は、戦いの当事者であった広忠と信孝がともにこの世を去り、安城城を奪還された織田方は西三河から撤退していった。今川と松平の連合軍が勝利を収めたようにもみえるが、竹千代は駿府に送られ、岡崎城には今川の代官が入って、以降西三河は義元に服することとなる。東三河はすでに義元の傘下にあり、これで今川は駿河・遠江・三河の三国を領有することになった。結果からみると、漁夫の利を得たのは今川義元であったわけである。
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 天文十二年から始まった西三河六年間の争乱で、松平氏は広忠と信孝という中心人物をともに失い、跡継ぎの竹千代まで駿府にとらわれる始末であった。また、松平内部が二つに分裂して戦ったことでその権力基盤が大きく弱体化し、三河の公権は東の大大名である今川義元に委ねられるようになったのである。戦国大名に転化せんとする松平氏は、自ら墓穴を掘って公権力者失格の判定を下されたようなものともいえよう。

 三河武士は忠義に厚いとは、よく耳にする言葉である。この言葉が人口に膾炙しているのは、徳川が天下を取れたのもそれを支えた三河武士の忠義があってこそであると、大久保彦左衛門が声をあげて言い放ったからなのであろうか。とにかくそうした定評がある三河武士、この場合は松平家家臣団を指していると思うのだが、しかし三河武士の主君である松平氏には、先にみた長忠以降、当主に禍が次々と降りかかっていた。
 長忠の嫡男で第六代松平家惣領の信忠は、三十四歳にして家督を十三歳の嫡男清康に譲ることとなった。これは一門と家臣団が信忠に従うことを拒み、相談の結果信忠を隠居させて清康を新当主に立てたからだという。「松平氏由緒書」では、「神仏の祭礼を行なわず、仁義礼智といった徳目に従わないで、親類や一門の遺領をしかるべき人物に与えて跡を立てることをしなかった」からだとしているが、平野明夫氏は「軍事指揮能力に不安のある信忠が“無器用”として一門に排除された」(『三河松平一族』)と述べている。何にせよ、信忠は一門や家臣によって当主の座から降ろされたのである。
 信忠の後を継いだ清康は軍事に秀でた英傑であったが、二十五歳で家臣の阿部弥七郎によって斬り殺された。そしてこのどさくさに、清康の伯父であった松平信定は清康の嫡男である広忠を岡崎城から追い出した。広忠は隣国の今川義元の支援を受けて岡崎城主となるが、本人の意とは別に伯父の信孝を排斥することになる。これは広忠周囲の老衆が信孝を疎んじたためであるが、失地回復のために西三河に侵入した信孝と広忠は激しく戦い、矢を受けた信孝が戦死すると、「我が方より無理に敵としてしまったが、内膳(松平信定)が仇をなしたのとは全く事情が違っていた」といって広忠はひとり落涙したという。
 父を十歳にして斬殺された広忠は大伯父に家を追われ、岡崎城への復帰に功あった伯父をはからずも討取ることとなり、自身も身近に仕えていた家臣に切り殺されるという悲劇の人生を送った。松平家の当主は、二代続けて二十代半ばにして家臣に斬殺されたのであるが、このような不運を負った家が他にあるであろうか。松平氏の衰退は、信忠・清康・広忠と皆家臣によって当主を追われたり殺されたりしたことで、常にその内部が混乱と動揺にさらされていたことから発している。このような松平氏の家臣が、どうして忠義者なのであろうか。史実をみる限り、三河武士は忠義には薄く、家臣の一揆が常に当主を圧迫するような一団であったように思える。だが、清康・広忠の親子二代の不運の分だけ幸運を身に受けて、竹千代はやがて徳川家康となって天下をその手に入れたのである。

 天文年間後半、西三河は今川義元の領国に組み込まれたが、その背後に松平家の内部抗争があり、この抗争の発端は松平信孝の排斥にあったことを示した。そして松平家の内部抗争が西三河の動揺・混乱を生み出したことから、隣国の織田信秀と今川義元がその公権力の立場からこれに介入し、紆余曲折を経て今川領国への編入で決着をみたのであった。戦国大名は、隣国で発生した紛争が自領に飛び火すれば、これの解決に乗り出し、事と次第では軍事力にも訴えるということであろうが、他国の紛争が自国に波及するメカニズムというものがあるはずである。次回はその辺りを掘り下げて、リゾーム型権力モデルの第二の原則を提示したいと思っている。
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by mizuno_clan | 2009-02-01 22:22 | ☆談義(自由討論)