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【談議1】水野氏と戦国談議(第四十二回)

温故知新

談議:江畑英郷

 昨年8月、水野氏史研究会の委員でもある水野智之先生のお骨折りで、「歴史と過去」で考察してきたことを歴史学を専攻する現役の大学院生に聞いてもらう機会をえた。そこでまず以下に示す4つの著作から適宜抜粋した文章を事前に読んでもらい、当日はそれを踏まえた内容ですすめるようにした。

『歴史学ってなんだ?』小田中直樹(社会経済史)著
『歴史の作法』二宮宏之(西洋史)著
『史学概論』遅塚忠躬(西洋史)著
『物語の哲学』野家啓一(科学哲学・分析哲学)著

 まず小田中直樹氏の『歴史学ってなんだ?』は、タイトルに表れているとおり一般向けの啓蒙書である。ご本人によれば、「歴史を学ぶことには意味と意義があるか、あるとすればそれは何か、という問題を論じている」歴史学の入門書である。この書の序章は「悩める歴史学」であり、それはマルク・ブロックの『歴史のための弁明』冒頭の引用から始まる。

「パパ、歴史は何の役に立つの。さあ、ぼくに説明してちょうだい」。このように私の近親のある少年が、二、三年前のこと、歴史家であるその父親にたずねていた。読者がこれから読まれようとするこの本について私の言いたいことは、この本が私の返答であるということである。

 続けて小田中氏は、歴史学の有用性に疑問が呈されるシーンを、自身が考えたフィクションとして3つ提示する。そしてその3つ目は、学生数が減少した大学において廃止される学科リストの第一に歴史学科が挙がっているというものである。小田中氏は、歴史学をこれから学ぼうとする人々が内心もっとも気にかけていることが、この歴史学の有用性であると考えているわけである。そして歴史学の入門書として掲げるべきテーマは、次の3つであると述べる。

①歴史学は、歴史上の事実である「史実」にアクセスできるか。
②歴史を知ることは役に立つか。
③そもそも歴史学とは何か。

 ①は②の前提となる問題であり、史実にアクセスできるのでなければ②の答えはノーとなる。ただし小田中氏は「史実」を集団的合意形成の枠内で捉えようとし、「みんなで考えれば、よりよい認識や解釈や歴史像に到達できる」と述べる。そして③は「何か」というより他の学問領域との相違であり、歴史学の固有性を問うものであるが、そこに固有性がなければ②はノーとなるといった仕方で②に接続していると見るべきだろう。したがって歴史学は何の役に立つのかという問いが、ストレートに表明されている点がまさに入門書ならではということなのだろうが、これに真正面から答えることは容易ではない。そしてこの困難な問いは「悩める歴史学」の本源なのだろうが、そうした悩むこと自体を忘れている現実があるのであって、そのことが小田中氏に廃止学科のトップというフィクションを描かせるのではないのだろうか。

 小田中氏の入門書には、歴史学は悩むべきだという主張があると思うのだが、二宮宏之氏はこのところを『歴史の作法』で次のように書いている。

 歴史学の場合には、史料に基づくことで歴史事実そのものに到達しうるという実証主義以来の考え方が、ながらく学問としての歴史学の存立を保証する大前提とされてきただけに、歴史を認識するという行為の根底を問いなおすといった議論は、歴史学一般の共通の関心事になりにくい状況がある。理論的なレベルでは、現代思想や歴史哲学の分野で歴史認識論の再検討に鋭く切り込む仕事が重要な展開をみせ、近代歴史学の根本的な再検討に貢献するところは大きいけれども、これら最先端の議論は、いわゆる「プラクティカルな歴史家」、古文書館に通い生の史料をひもとく作業をもっぱらの仕事と考えている歴史家にはすんなりとは入っていかないところがあって、両者のあいだの対話はスムーズに進んでいるとは言えない。

 ここで「両者のあいだの対話はスムーズに進んでいるとは言えない」というのは、「プラクティカルな歴史家」が「歴史を認識するという行為の根底を問いなおすといった議論」に無関心であるという現実からきている。そしてそうした対話の停滞・無関心が蔓延する背景を、二宮氏は次のように説明する。

 歴史の具体的な探求と歴史学という学問についての理論的な省察がまったく切り離されていることがある。とくに近代の大学制度ができてからは、制度的枠組みとしても別だてになり、史学科では歴史哲学や史学史の授業がほとんど行なわれていない。辛うじて史学概論という形での概括的な講義があるだけで、あとは具体的なテーマに直ちに取り組んでいくのが史学科のやり方である。他方、歴史認識論はどこで論じられてきたかと言えば、それはもっぱら哲学科の領分であり、こちらはこちらで、歴史の具体的探求の作業とは無関係に抽象的な思弁に走る傾向が強く、史学科と哲学科が共同作業を行なうのはむずかしい仕組みになっている。

 二宮氏は「プラクティカルな歴史家」を、「古文書館に通い生の史料をひもとく作業をもっぱらの仕事と考えている歴史家」と規定する。そして「生の史料をひもとく作業をもっぱらの仕事と考えている」のであれば、それ以外のことは視野に入らないのだろうし、歴史認識論を論じる哲学においては、「歴史の具体的探求の作業とは無関係に抽象的な思弁に走る傾向」が強いとなれば、両者の対話が進まないのは当然と言える。そしてこの断絶が、「史学科と哲学科が共同作業を行なうのはむずかしい仕組み」であることに起因すると言うのであるが、その仕組みが見直されないままである現実が何によるのかを見ておく必要があるだろう。

 遅塚忠躬氏が著した『史学概論』は、歴史学者が歴史認識論について論及した著作であり、二宮氏の言うところの「両者のあいだの対話」に切り込もうとする労作である。そしてこの遅塚氏の歴史認識論の根幹は、以下のような二つの客観性を保証する条件によって支えられている。

 歴史学は、そこで提示された命題が公衆の自由な討論に付されて、その命題の「反証可能性」(だれもが反証を挙げてそれを論破しうる可能性)が保証されているかぎり、消極的にではあれ、客観的な科学と見なされてよい。
 では、歴史学上のある命題を論破するための「反証」の基準は何か。その基準は、提示された命題が論理的につじつまが合っているかどうか。また、その命題の根拠とされた事実を覆すような事実はないかどうか、という二点である。この二点を精査してみて合格ならば、その命題は、その当座、客観性を有していると言ってよい。こうして、まさに、前項で歴史学の前提たる「約束ごと」としておいた論理整合性と事実立脚性とこそが、歴史学をして客観的な科学たらしめる根拠であり、必要不可欠な条件なのである。


 ここに「提示された命題が公衆の自由な討論に付されて、その命題の「反証可能性」(だれもが反証を挙げてそれを論破しうる可能性)が保証」されれば、歴史学は「客観的な科学と見なされてよい」という箇所は、小田中氏が示した「みんなで考えれば、よりよい認識や解釈や歴史像に到達できる」と共通した見解であるようにみえる。ただし歴史学が「よりよい認識や解釈や歴史像に到達」する条件として、そこに「反証可能性」が保証されていることが必要であるとされる。そして遅塚氏の言うところの歴史学における「反証可能性」は、「提示された命題が論理的につじつまが合っているかどうか。また、その命題の根拠とされた事実を覆すような事実はないかどうか」の2つの条件をいつでも適用できることである。これは科学哲学者であるカール・ホパーの主張を取り込んだものであるが、そこに「事実立脚性」を当てたことで遅塚氏の主張の根幹が瓦解してしまっている。
 遅塚氏は、「その命題の根拠とされた事実を覆すような事実はないかどうか」を精査すると言うのであるが、事実を覆すような事実というものは存在しない。ホパーの反証可能性においては、事実(観察・実験)によって反証されるのは理論である。理論は事実によって裏づけられるから事実によって反証されもするのであるが、同じ資格の事実間で裏づけたり反証したりするなどということは論外である。ホパーの「反証可能性」においては、理論の妥当性の要件として厳しいテストを絶えぬいたことが挙げられるが、歴史的事実はテストすることができない。そしてそれは「歴史的」事実だからテストできないのではなく、事実をテストするということ自体が背理なのである。事実として認定できるのは確かな手順による観察と実験の結果であり、その事実(観察・実験)自体は反証可能性などを持ち出すまでもなくそれと確定できるものである。そうであるならば、遅塚氏が「事実」と呼んでいるものは「理論」なのである。それが「理論」という知的構築物であるからこそ事実によって覆るのであり、その場合の「事実」とは史料にある記述そのものである。由緒の伝承が添えられた古めかしい用紙に記載があること、それはテストするまでもない事実である。しかしながらその記載内容から読み取れることは事実なのではなく、知的構築物であるからテストすることが必要となる。そしてこの場合のテストとは、他の「事実」から引き出された知的構築物との比較であり、同じ知的構築物であるからこそ比較が可能なのであり、その比較を主導するのが「論理整合性」なのである。
 遅塚氏は「事実を覆す」と言うのであるが、それは史料における特定の記載内容に「事実」というランクを付与していたが、それが他のよりランクの高い史料の記載内容と矛盾したことから、付与されていたランクを剥奪したという事態である。つまり史料の記載内容という点では同格であるものに、「事実」というランクを付与するルールが存在するのであり、そのランクには強度があるということなのである。そして遅塚氏が「論理整合性」と呼ぶものも、このルールの性格の一面を示したものである。この史料をランク付けするルールは、歴史学において史料批判の方法論と呼ばれているものに相当する。そしてこのルール自体には反証可能性は適用できない。そこにあるのは粗略なルールがより精巧なルールによって置き換わるだけであるが、そこに事実が関与する余地はない。
 またホパーの「反証可能性」論自体も、今日の科学哲学においてはその有効性を失ってしまっており、別の文脈で捉えなおされるようになっている。

 実験による「反証」と理論の「棄却」とは論理的には独立の事柄であり、科学者はむしろ「反例」を未解決の「課題」として意識し、既成の枠組の内部でその解決に腐心するのである。そのような科学者の行動様式を、I・ラカトシュは、「科学者は厚顔なのだ」と単刀直入に言い表している。[中略]
 科学者は厚顔なのだ。彼らは事実が理論に合わないからといって、理論をおいそれとは捨てない。そういう場合彼らは、新しく救済用の仮説を案出して、理論に合わない事実を単なる一つの変則事例と呼べるようにしてしまった上でそれを説明してしまうか、その変則事例をうまく説明できない場合には、それを無視して、別の問題に関心を移してしまうのである。

(野家啓一著『科学の解釈学』)

 事実と理論は直接に対応しているのではなく、理論は事実から距離をおいた自立性を備えており、それがために反証となると思われた事実を理論の自己増殖でかわすことが可能となっている。このことはその理論の客観性を保証しているのが、事実との対応である以上に当該専門家集団の認定にあり、その認定の下地としてパラダイムの共有があるというトーマス・クーンの主張に共通するものである。
*パラダイムとは、「一般に認められた科学的業績で、一時期の間、専門家に対して問い方や答え方のモデルを与えるもの」(クーン)である。
 歴史学において事実ランクを付与するルールもまた、その妥当性は歴史家集団が共有するところのパラダイムに依存している。実際のところ、歴史家集団が揃って事実だと認定しているものを否定することなどできないのであり、そのことを離れて客観性を主張する必要などはどこにもないだろう。小田中氏の挙げた入門書の課題でいうならば、「①歴史学は、歴史上の事実である“史実”にアクセスできるか」は、事実ランクを付与するルールが現に機能している以上、答えは「yes」である。そしてこのようにして「yes」であるからこそ、歴史学における専門家集団は、「歴史を認識するという行為の根底を問いなおすといった議論」に無関心でいられるのである。遅塚氏のように不慣れな哲学的議論に入り込まずとも、歴史学は進んでいけるのである。しかしながら問題は、①が「yes」であってもそのことによって核心である「②歴史を知ることは役に立つか」が「yes」にならないところにある。

次へ続く
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by mizuno_clan | 2014-01-12 11:40 | ☆談義(自由討論)

【談議1】水野氏と戦国談議(第四十二回)

前からの続き

 小田中氏が『歴史学ってなんだ?』で述べた「みんなで考えれば、よりよい認識や解釈や歴史像に到達できる」は、一応クーンの議論を踏まえたものであり、素朴な表現ながら①の問いに対する回答となっている。しかしながらここで小田中氏は、「認識や解釈や歴史像」という言い方をしているが、これらはいづれも知的構築物であることが強調されねばならない。そして歴史学において、このことを果たすために「物語」という用語の導入が要請されたのである。
 歴史家としてこの「①歴史学は、歴史上の事実である“史実”にアクセスできるか」の問題に切り込んだ遅塚氏の胸の内には、「近年、いわゆる“言語論的転回”以降、歴史の“物語り”論がにわかに学界で脚光を浴びていることは大方に周知のところであろうが、そこでは、歴史学と文学の間の垣根を取り払うことが提唱されているのである」という危機感が充満していた。①の問題は言語論的転回、そして歴史物語論に触発されるかたちで、歴史学の悩みとなっていったのである。この言語論的転回、ことに歴史物語論は歴史哲学以外の多方面で議論を呼んだ経緯もあって、この用語で何を意味するかにもバラツキがある。その中で歴史学がそれとして受容すべき言語論的転回・歴史物語論は、例えば野家啓一氏が『物語の哲学』に記載した次の説明であろう。

 現実に物語り論は社会構成(構築)主義ともゆるやかな連携を保ちつつ、文学理論や歴史哲学のみならず、臨床心理学、医学、教育学などの諸領域において、人間科学の方法論ないしは文化の基礎理論として多様な展開を見せている。[中略]この機能概念としての物語りがしばしば実体概念としての物語(たとえば「国民の物語」)と取り違えられるところから、物語り論はあらぬ誤解や曲解を招き、不毛な応酬が繰り返されることになる。それゆえここでは、物語りが機能概念であることに加えて「方法概念」でもあることを強調しておきたい。つまり、「物語り」はわれわれの経験を時間的に分節化する言語行為であるとともに、その存立構造を解明する一つの分析装置でもあるのである。

 歴史物語論はとかく誤解を受けているのであるが、ここで野家氏は物語りを「機能概念である」として実体概念と区別している。歴史物語論は歴史記述=物語(作者の意図による創作物:実体)を主張するものではなく、「物語り」が歴史記述に不可避的に表れる構造であり働きであることを意味するものである。このことはアーサー・ダントーにおいては、「物語り構造が出来事に関するわれわれの意識に浸透している」(『物語の歴史』)と表現される。そしてこの出来事記述に不可避的に表れる構造というものを、野家氏は以下の具体例で説明している。

 このことは出来事の典型的事例である「行為」を考えてみれば明らかであろう。ピアノの演奏やピッチャーの投球動作が示すように、あらゆる行為は時間的出来事であり、それは「始め-中間-終わり」という時間的構造をもっている。「右手を上げる」というごく単純な行為ですら、その例外ではない。右手を上げ始め、上げ続け、やがて上げ終えるという時間的経過がそこには含まれている。しかも、右手を上げるという行為は、それだけで完結する出来事ではない。右手を上げ始めたのは、向こうからやってくるタクシーが見えたことの結果であろうし、右手を上げ終えたことが原因となって、タクシーは停止することであろう。また、ピッチャーが投球動作を開始するのはキャッチャーのサインに促されてのことであろうし、投げ終えた球は逆転満塁サヨナラホームランを帰結するかもしれない。その場合には、ピッチャーの投球動作を中間部分と見なし、この出来事を「キャッチャーのサイン・ミスが敗戦をもたらした」と記述することも可能であろう。このように、出来事は入れ子型の連鎖構造をなしてゆるやかな「原因-結果」のネットワークを形作っているのである。[中略]出来事は物理的事物のように路傍にころがっているものではなく、一つの出来事を同定しようとすれば、何かを原因とし何かを結果とするかをめぐって、それを確定する「視点」と「文脈」とが要求されるからである。この視点と文脈を与えるものこそ、われわれの言う「物語り(narative)」にほかならない。とりあえずここでは、簡単に「物語り」を複数の出来事を時間的に組織化する言語行為として特徴づけておこう。

 歴史物語論は、「歴史学と文学の間の垣根を取り払うこと」を目的としているものではないが、両者の記述構造の類似性は指摘する。そしてこの類似性は、歴史学の客観性に対する疑義に向かっているのではなく、両者の創造性(知の拡大という意味で)に向かっていると理解すべきである。「右手を上げ始め、上げ続け、やがて上げ終える」という行為は、この記述においては3つの動作の連続である。そしてその同じ行為が、やってきたタクシーを呼び止めるという一つの出来事で記述されたり、ピッチャーの投球という出来事として記述されもする。しかしながら3つの動作という出来事を集めることによって、タクシーを呼び止める、あるいはピッチャーの投球という出来事が生まれたわけではない。3つの動作を一つに編み上げる文脈が関与しなければ、それぞれの出来事は出現しない。出来事を記述するということは、それ自体にないところの意味を文脈的に構成するということであり、その働きを「物語り」と呼び、この働きが歴史記述を可能にしているという認識を示したものが歴史物語論である。
 出来事の粒度は様々に決めることができる。「右手を上げ始め」も出来事であるし、ピッチャーが直球を投げたも出来事である。そうした出来事によって歴史は描かれるのであり、動きようもない固定した事実の集積が歴史となることはできない。このことは例えばダヴィンチが描いた絵画を、後世の人々が見るということで考えるとわかりやすいかもしれない。ダヴィンチは筆を動かしてキャンバスに色を重ねた。そしてその行為をとおしてダヴィンチはダヴィンチの絵画を描いたのであるが、後世の我々が見るのはキャンバスに重ねられた色である。その色の重ね合わせから微笑する女性を見て取るとしても、それがダヴィンチが描いた絵画なのではない。人はそれぞれの眼をもっていて、その眼が色の重ね合わせから何かを受け取る。何を受けとるのかはそれぞれが行使していることであって、その受け取りの行使に隅々まで行き渡った決まりがあるのではない。それでも同じ絵画を見て、これは女性を描いたものだとは誰もが思うのであるから、その人たちに共通する受け取りの行使は存在する。それでも幼い子供が、「この女の人、怒っているね」と言うのを止めることはできない。大人が「少し笑っているのだよ」と訂正しても、その子供は「変なの」と子供なりの事情を返すだけである。人として共有しているものもあれば、その時代に生きる大人として共有しているものもあって、それが「同じ物」を見ているのだと人に思わせるが、そうではなくて「同じように」見ているのである。
 その著作のタイトルに惹かれて読んでいる『言語派社会学の原理』(橋爪大二郎著)に、次のような箇所がある。

 社会科学の樹てる理論モデルは、近代社会の人びとが自分たちの社会について抱くイメージをかたどったものだ。経済学者の資本主義社会論、政治学者の民主主義論、社会学者の現代社会論、…。どれも一応もっともらしく、何かを説明してくれるような気がする。だがそれは、その社会の人びとの常識をなぞっているので、そう思えるだけである。
 記述のための概念も、常識からの借り物である。権利、人格、自由、家族、…。社会を記述ためのもっとも基本的な概念を、その研究対象、近代社会を生きる人々から借用している。人類学では、ある社会の人びとが自分たちの社会について持っている知識を、「原住民の知識」というが、いまの社会科学は、そうしたものの一種だ。
 すると、どうなるか。記述概念や説明の枠組を、説明の対象(近代社会を生きる人びと)と共有しているのだから、一見説明力があるのは当り前。なるほど社会科学者の言うとおり、と人びとは容易に納得できる。そこで生じているのは、循環にほかならない。だからいまの社会学は、西欧近代社会だとうまく分析できるが、それと似ていない社会(たとえば、日本の現代社会)だとそれほどうまく説明できなくなり、もっと異質な社会だとほぼお手あげ。要するに社会一般を考察することができていないのだ。


 ここで橋爪氏は。「常識からの借り物」である基本概念を使っての説明は、西欧近代社会には妥当するが「もっと異質な社会だとほぼお手あげ」だと書いている。思うに現代社会と同じであるならば、それが時計時間においてどんなに過去であってもそれは現代社会である。時計時間で例えば「50年以前は現代ではない」と規定できない以上、時間の隔たりではなく社会の相違によって時代を区別するより他にない。そうであるならば、例えば中世社会は「もっと異質な社会」に当たるはずだが、歴史学は「ほぼお手あげ」とはなっていない。それでは歴史学においては社会学と事情が違って、常識からの借り物である基本概念を使っていないのだろうか。社会一般を考察しようとして奮闘している社会学にとって盲点となっている基本概念に、歴史学が依存していないなどということはまずない。なぜならば社会学は、社会一般を考察するために歴史社会も視野に入れているからである。そしてその歴史社会の知識を提供しているのは、他ならぬ歴史学以外にはないだろう。そして歴史学が提供する知識を社会学が理解しようとするとき、そこにはやはり常識からの借り物である基本概念が知識の橋渡しを果たしているのである。つまり社会学も歴史学もともに常識からの借り物である基本概念を共有することで、相互に知識の交換が可能となっているのである。したがって歴史学は「ほぼお手あげ」となるのではなく、社会学そして現代の常識と「同じように」過去をみることによって、「もっと異質な社会」の異質性を埋め合わせてしまうのである。そして現代の常識からなる借り物概念を使って説明された異質な社会(歴史社会)は、現代に取り込まれた擬似現代社会として理解され、その「異質」は同軸上の布置の差に過ぎなくなる。「異質」として現れることが「歴史」であるはずなのに、断絶のない過去から現代への進化モデルに包摂されてしまうのである。
 「歴史と過去」というタイトルは、時間同軸上の布置の差である「過去」から「歴史」という概念を救出する意図を込めている。「歴史」とはそれを捉えようとする者にとっての差異であり、その異邦性のゆえにまずは理解不能という言葉(呪術的とか未開など)を投げかけられるものである。そして現代に同化してしまうのではなくその異邦性を乗り越えようとすれば、否応なしに現代の盲点に到達し、現代の常識からなる借り物概念の使用を停止し、その底へと降りて行かねばばならないとき、「歴史」が開かれるのだと思う。
 「歴史を知ることは役に立つか」と問われて、「温故知新」と答えるとしよう。この答えは半ばは当たっているといえるが、もう半分は現実が追いついていない。なぜなら、史実を確定するルールが機能していることで「温故」は当たっているのだが、そこから未来を切り開く「知新」を生み出せていないだろうからである。しかしながら、理解が及ばないような異質を踏み分けて行こうとするなら、それは既知を打ち破らねば無理なわけで、そこに「温故知新」が成就するのではないだろうか。

 昨年8月に歴史学を専攻する大学院生たちに聞いてもらった内容を、加筆修正してこれまで記載してみた。話をした内容は、「歴史と過去」で考察したことをコンパクトにしてわかりやすくしたつもりであったが、聞いてもらった彼らに変化があったようすはない。参加のあった大学院生のほとんどが中世史学専攻であるが、このことは日本の中世史学におけるパラダイムが安定していることを示すものであろう。その一方で廃止学科リストのトップという小田中氏の不吉なフィクションが、社会一般の動向とのギャップを示すものであるようにも思われる。私自身は学生時代に哲学を専攻したことから、「知新」から入って「温故知新」へという推移を経ているが、「温故」から入って「温故知新」へと進むことはむしろハードルが高いように思える。哲学のような学問はある種の貪欲さのようなものがあって、何にでも考察の手を伸ばすのであるが、膨大な古文書を抱える日本の中世史学はともするとそこに埋没しがちであるのかもしれない。
 二宮氏は「史学科と哲学科が共同作業を行なうのはむずかしい仕組み」があるというが、「両者のあいだの対話はスムーズに進んでいるとは言えない」のは仕組み以前の問題によるのだと思われる。「温故」と「知新」は既存と革新に相当するのであり、「温故」に向かう中から革新がもたらされることはない。「温故知新」は相対するベクトルの働きを一つにしているところに意味があるのだが、それは「温故」と「知新」を分離した後に一つにするといったものでは成就しない。「温故」は過去に向かうものであっても、歴史は同じアプローチでは到達できないものである。それ一体として働く「温故知新」が歴史なのであり、現在を破りながら異邦へと降り下るものが歴史なのであって、そうであってこそ歴史は現代において渇望されるものとなるのである。
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by mizuno_clan | 2014-01-12 11:36 | ☆談義(自由討論)

【談議1】水野氏と戦国談議(第四十一回)

歴史と過去⑦-歴史と言語Ⅱ:読解と批判-

談議:江畑英郷

 文字史料は言語で記述されている。そしてこの「言語で」という箇所の理解によって、歴史学はどう変わるのだろうか。実証史学はこの「言語で」という箇所を、「過去に実在した出来事を復元可能な手段で」というように理解する。そこでの言語は復元手段なのであり、差し詰め復元するための指図書といったところである。これに対して言語論的転回を踏まえた視点に立つと、まず出来事はそれを捉える言語によって規定される。そして言語により捉えられ記述された史料は、それを読み取る言語によって規定される。この場合の「言語」は、ソシュールであれば「ランガージュ」と呼ぶであろうが、これは通常「言語能力」と訳される。ここではこの「ランガージュ」を、「理解能力」のことだとしておこう。言語は理解を表現する手段ではなく、理解能力そのものである。そして理解は、あるものをあるがままに受容することではなく、身に寄せて捉えることであり、身に寄せるというのは生活という遂行に組み込むことである。
 実証史学は、言語を復元手段だと捉えることから、とにかく「事実に基づく」を第一とする。史料を媒体だと言い、そこでの言語の相違は同じ対象に対する発音や綴りの違いとしてしか意識されない。しかしながら歴史学者の中には、そうした実証史学から少しズレた人(適切な表現ではないが)もいる。その一人である笠松宏至氏は、そうした個性が伺える『法と言葉の中世史』という本を書いている。この本には同僚の勝俣鎮夫氏の解説がついているが、まずはこの解説の冒頭を引用しておこう。

 著者の笠松宏至さんは、中世史家として、日本の中世に生きた人々との対話を求め、それを楽しんでいるように思われる。この対話は、中世の人々が現実の生活活動のなかで書き記した史料で、現在は「古文書」として眠り続けているものを、読む者が働きかけて目覚めさせなければ成立しない。この古文書の再生は、働きかける現代人が、近代的価値観から解き放たれて、中世の人々が生きていた世界に近づき、相互理解が成立したとき、はじめて可能となるのであるが、その相互理解のいとぐちのひとつは、いうまでもなく言葉である。中世の人々が使用した言葉の理解をとおして、中世の人々との対話ができたと著者が実感しえたことをまとめたものが、本書に収められた短編群であると思われる。

 ここで勝俣氏は、「古文書の再生は、働きかける現代人が、近代的価値観から解き放たれて、中世の人々が生きていた世界に近づき、相互理解が成立したとき、はじめて可能となる」と述べているが、これをどのように理解したらよいのだろうか。勝俣氏は、この「対話」「相互理解」は、「働きかけ」によって実現できるように書いているが、この「働きかけ」が何を意味しているか、ここでは判然としない。しかし続けて、「その相互理解のいとぐちのひとつは、いうまでもなく言葉である」と書いている。「いうまでもなく」というのは、古文書が言語で書かれたものだからということなのか、「言葉は文化である」ということで、そこに中世独自の文化が現れているという意味なのか。答えはこの、『法と言葉の中世史』を読めばわかるということなのだろう。しかしながら、現代の我々と中世の人々の間に「相互理解」や「対話」が成り立つとは、どういうことなのだろうか。その間は「いうまでもなく」言語が介在しているが、言語が単なる媒体などではなく自制的に世界を構成するものであるならば、それは「相互理解」や「対話」を妨げるものであるかもしれない。今回の主題は、この勝俣氏の見解を批判的に検討することにある。「近代的価値観から解き放たれて、中世の人々が生きていた世界に近づき、相互理解が成立」するとは、どういうことでそれがどのように可能となるのか。それは今回で7回目となるこの「歴史と過去」で考えてきたことの、一つの区切りとなる考察となるはずである。
 勝俣氏の解説は、「本書に収録されている"中央の儀"という作品は、このような著者の創作スタイルがよくうかがえる短編である」と続く。この作品は、笠松氏が「中央の儀」という見慣れない用語に出会って、その意味を明快に解き明かしたものであるが、中世の言葉の読解と批判について、今回はこの短編を元にして考察することにしよう。

 この「中央の儀」は短編なので実際に読んでもらいたいが、笠松氏の結論からすると、この用語の意味は以下のようなものである。
(以降、引用元を示さない場合は、『法と言葉の中世史』より抜き出したものである)

決定権者たる権力トップが除外された場における家臣たちの決定が、トップの意志として外部に表明される、これがこの時代「中央の儀」とよばれたことの中身であることは、今やほぼ疑いないところといえよう。そしてもっとも肝心な点は、それが単なる「無法」や「越権」ではなく、なんらかの「合法性」、新しく生れつつあるルールの存在を暗示することにある。このような新たなる政治形態、もしくは政治思想を、外部者は多分に非難を込めて「中央の儀」と表現した。それは一種の新造語、ある一部に通用する流行語であったに違いない。

 「中央の儀」という用語の意味を、笠松氏は別に以下のようにも整理している。

(1)本来の決定権者たる室町殿が、関与しない、というよりむしろ意識的に桟敷におかれ
(2)実際上は管領、侍所、所司代等々の優勢者が下した決定を
(3)「上意」の名において他に強制しようとする


 「中央の儀」という用語の意味自体は、この上記3項目の内容に示されている。しかしながら、これだけのことであれば「従者による主人意志の単純な詐称、いつの時代でも珍しくない越権行為」に過ぎないことになる。ところが笠松氏は、史料から読み取った越権と詐称に、「新しく生れつつあるルールの存在」を認める。笠松氏が「もっとも肝心な点」だと言うように、この新ルールの創出を「中央の儀」という用語に見て取ることが、単なる不明な用語の意味を解明することを超えたこの短編の意義である。
 「中央の儀」という用語の意味は上記3項目の内容なのであるが、それが新ルールの創出という時代理解にまで進むのはなぜだろうか。上記の(1)と(2)は、従者集団の越権行為を示し、(3)が詐称であることは明白である。そうであるのに、「それが単なる“無法”や“越権”ではなく」とされるのは、そうした違反に対する反撃がなく、その違反が黙認されているからである。
 笠松氏がこの短編の中で検討する史料は、伏見宮貞成親王が書き記した『看聞御記』であり、その内容は応永24年に起こった事件の事後処理をめぐってのものである。貞成親王は侍所所司代の命令に不審を覚え、「室町殿へ内縁をもって尋ね申しいるるのところ、御存知なしと云々。中央の儀、謀言露顕比興なり」となった。この時点で越権と詐称の二重の違反が所司代の命令にあることを貞成親王は知るのであるが、「その数日後所司代の使節が来て、例の一件の起きたときどのような処置がとられてたのか、起請文にしてさし出せ」との命令が返ってきた。それに対して貞成親王は起請文を提出したのであるが、すでに中央の儀であることは承知の上であるのに、またもや命令に従っている。所司代の命令が越権行為であり、それが室町殿の名をかたっているだけだと承知しながらその命令に従う親王の対応をみて、笠松氏はこれを単なる越権と詐称としてかたづけられないと考えたのである。そして明らかな違反行為が黙認され居座るということを理解するためには、この場合の越権と詐称が違反行為とはならないルールを想定するしかなかったのである。そして佐藤進一氏の「室町幕府論」で提示されていた「従者の協議決定が優先する」に依拠して、これを「新たなる政治形態、もしくは政治思想」の出現としたのである。
 笠松氏がここで「新たなる政治形態、もしくは政治思想」と言っていることが、具体的にはどういうことであるか。佐藤氏の「室町幕府論」からの引用に続けて笠松氏が述べている箇所があるので、そこからこのことを検討することにしよう。

一は将軍がかれの継嗣決定を重臣に委ねられており、他は御家人の継嗣を、かれの一族家人の意向によって、将軍が決めようという。事情は大きく違うけれど、継嗣について形式的な決定権をもつものの決定が、そのまま認められず、かれの従者の協議決定が優先するという考えに立っている点では一致する。これを単に、法に対する力の優先と片付けてしまってよいだろうか。つまり武家古来の通法に優先する価値があると考えられているのではないか。[中略] そして平和と秩序の維持を保障するものは、将軍にあっては有力大名、守護にあってはその一族家人の支持であるという認定に立てば、義持のケースも一貫した説明が与えられる。
(以上、佐藤進一著「室町幕府論」より笠松氏引用部分)
 ここに「武家古来の通法」に優越するものとして新しく発生した政治思想の特徴は、単純な従者のカの優越ではなく、彼らの「協議決定」の優越であった点にあったと私は考える。いいかえれば、元来主人と個々に結ばれていた従者のある部分が、一種の横の連帯をとげ、その総体として主人と対応する関係が、社会的認知をうけたことを意味する。したがってそれは、たとえばあの「下克上」などでは同時代人にとっても表現し切れない、新しい通念であったのではないだろうか。

 主人の決定に計らずに従者集団が決定を下すという事態を、笠松氏は「彼らの“協議決定”の優先」であるとする。佐藤氏は継嗣問題に関して将軍が示した決定の当事者主義を、「武家古来の通法」に対する「従者の協議決定」の優先としたのであるが、笠松氏はそれを「新たなる政治形態、もしくは政治思想」にまで進める。このことは佐藤氏が「平和と秩序の維持を保障する」ことが政治の責務であり、社会的な価値であるとする点に同調し、「従者のある部分が、一種の横の連帯をとげ、その総体として主人と対応する関係」となることで、時代が求める社会的価値を実現するという時代認識を、笠松氏が抱いていることを示している。したがって、従者の協議決定の優先が社会における「新しい通念」となっていたことで、貞成親王は従来で言えば越権と詐称である違反を、それとして告発できなかったという論理がここに構成されているのである。
 「中央の儀」という用語の考察は、この語の通用の背後にある新しい社会通念の登場を導き出したことで、単なる用語の意味の解明に終わっていない。勝俣氏が中世との「相互理解のいとぐちのひとつは、いうまでもなく言葉である」と述べていたことは、このことかと思えるのであるが、ここに真の意味での「相互理解」があるとは思えない。それはなぜなのかに答える前に、まずは笠松氏が導き出した、新ルールとしての従者による協議決定の優先について考えてみよう。

 「中央の儀」という用語に関わる背景も含めてこの用語の意味を整理すると、それは以下のようになるだろう。

①組織の決定権者は、その決定権に基づいて命令を下す。
②決定権者の命令は、その直接の下位者によって命令対象者に通達される。
③上記①が成立していない状態で、決定権者の直接下位者が複数集まり、その協議によって決定をおこない、それを決定権者の命令として通達する。
④上記③が命令対象者および決定権者に対して露見した場合でも、③の命令は無効とならない。

 上記③の事態は①が前提である以上、越権行為であり詐称である。しかしながら④の事態が続くことで、③の越権と詐称は消去される。そして③が違反でないのならば、①の前提は成立しない。ここでは、③が④によって継続的に成立する以上、実質的に①は否定されていると考えるべきである。笠松氏は従者協議決定の「優先」だとするが、これは①の決定が従者協議決定と一致した場合①は成立し、不一致の場合は成立しないのであるから、①は従者協議決定に従属していることになる。したがって実質的には、上位者単独決定の否定と命令権の剥奪と同じ意味になる。そしてこの①が否定されていながら、上位者の名をもって命令が発せられている事態を、どう理解すべきかがここでの第一の問題となる。
 この事態の理解として、命令形成の周辺で上位者の実質が失われていても、その外部である命令を受ける側では、依然として上位者の命令権限が有効性を保っている、という捉え方は可能である。ところが④においては、命令を受けた者が詐称であることを承知しているのである。史料の中では、貞成親王は室町殿の上意ではないことを明確に認識した後も、所司代の呼び出しに応じている。したがって命令を下される側にも、①の否定を目の前にしてそれを黙認する通念が存在したことになり、①の否定は命令形成の周辺だけに留まらないのである。したがって①の否定は世間周知のことでありながら、従者の協議決定は主人の名をもって下されているのである。
 笠松氏は、「ほん物の“上意”なのか、“上意”を装う“中央の儀”なのか、それを“室町殿へ内縁をもって尋ね”なければわからない。こんなことが、少なくとも前の時代にはなかったことだけは確かであろう」と書いている。しかしながら、ルール変更があったのならば、「ほん物の“上意”なのか」は問題とはならないはずである。実際に内縁をもって尋ねて中央の儀であることを知った貞成親王は、結局為すことを知らなかった。越権と詐称が居座る事態を説明するために、笠松氏はルール変更を持ち出したのであるが、そこでなぜ「上意と号す」必要があったのか。笠松氏が言うところの、従者の協議決定の優先という理解では、このことを明確に説明できていないのである。
 次に①の決定権者の「決定」という点について考えてみよう。何かを決定するには基準が必要で、その基準に基づいて決定がなされ、その決定を実施するために命令が下される。佐藤氏はその基準を「平和と秩序の維持を保障する」ことだと述べているが、上位者の決定が「そのまま認められず」ということならば、その決定がその基準に反しているということになる。そして上位者の決定が「平和と秩序の維持を保障する」ことに反するのであれば、それは上位者が判断ミスをしたか利己的に決定をしたかの何れかである。そしてもしそれが判断ミスなのであれば、従者の連帯はミスを指摘し上位者にミスのない決定に訂正してもらえばよい。そもそも上位者が「平和と秩序の維持を保障する」ことを基準に決定をするのであれば、独断を避けて関係当事者の意向を重視することになる。佐藤氏が挙げた例に即して言えば、幕府機構のトップの選出であれば重臣たちの意向を重視するだろうし、御家人の継嗣問題であれば一族家人の意向に基づこうとするだろう。そうであるのに上位者の決定が「そのまま認められず」、「平和と秩序の維持を保障する」ことに反しているというのであれば、その決定が私的で利己的なものだからであろう。
 ここで①の決定は、何に基づいてなされるのかという問題が浮上した。「平和と秩序の維持を保障する」という時代の要請に答える形で、従者の協議決定の優先が社会の新ルールとなったというのであれば、その主人の決定はなぜ否定されたのか。笠松の考えに従えば、それは主人の私的で恣意的な意向によって決定がなされ、それが「平和と秩序の維持を保障する」に反するからであろう。佐藤氏の挙げた事例では、将軍足利義持と義教は私的恣意性を避けるために、自らの判断を抑制して当事者集団の協議決定を望んで優先させていた。両人は自ら私的で恣意的な決定とならぬよう、当事者主義をとったのであるが、それが進めば将軍は決定しないが常態化する。そこに中央の儀が成立しているとも考えられるが、従者協議が必ずしも「平和と秩序の維持を保障する」わけではない。そしてもしこれが当事者主義であるのならば、当事者はより広汎な下位層へと広がっているのであり、そのことによって中央の儀の連鎖が出現するはずである。この中央の儀の連鎖とは、上意層の決定を待たずに下位層協議が決定する事態が、下方に向かって止めどなく進行することである。そしてこの中央の儀の連鎖が起こり、底辺に拡大した当事者協議が紛糾した場合を想定するならば、社会の平和と秩序の維持は返って実現しがたいものとなる。
 新たな政治形態として、従者協議決定の優先が出現していたのなら、なぜ「上意と号す」必要があったのか。また「平和と秩序の維持を保障する」ために、上位者単独決定を否定することが時代の趨勢であったのならば、下方に拡大する従者協議優先をどのように政治的な安定につなげたのだろうか。あるいは、上位者が平和と秩序の維持に反するようになっていた、というのは本当なのだろうか。笠松氏の打ち出した「中央の儀」の理解には、このような問題が解決されないまま残っていると思うのであるが、その根幹には上意の否定という事態が横たわっている。そしてこのような問題が生じるのは、この否定された「上意」の理解の仕方に何か不都合があるからなのではないだろうか。

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by mizuno_clan | 2013-05-25 13:37 | ☆談義(自由討論)

【談議1】水野氏と戦国談議(第四十一回)

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 笠松氏は「中央の儀」という用語の意味を、「決定権者たる権力トップが除外された場における家臣たちの決定が、トップの意志として外部に表明される」ことだと規定した。この規定には違和感を覚える箇所があるのだが、それは「トップの意志として外部に表明される」という下りである。トップを決定権者と規定しているのであれば、なぜ「トップの決定として」ではないのだろうか。「意志」と「決定」は、簡単に置き換えられるものではないと考えるが、笠松氏が「トップの意志として」としたのには何か意味があるのだろうか。
 この「トップの意志として」という規定は、「上意と号す」からきている。笠松氏はこの「上意」という用語を、トップの権限においては「決定」とし、それが表明される段では「意志」だとする。「上意」という用語は、「中央の儀」のような意味不明な用語ではないのだが、ここであらためて辞書を引いてその意味を確認しておこう。

主君・支配者の意見、または命令。(大辞泉)
上に立つ人や政府の考え命令。(集英社国語辞典)

 このように上意には、「意見」「考え」と「命令」という二つの側面があるとされるが、ここで次に「命令」の意味も確認しておこう。

上位の者が下位の者に対して、あることを行うように言いつけること。また、その内容。(大辞泉)
下位の者に対して指示通りに事を行うように求めること。また、その内容。(集英社国語辞典)

 「命令」には、上位者が発し下位者がこれに従うという構図があるが、この点は辞書による「上意」の構図も同じである。一方で「考え」や「意見」には、当然ながらこのような構図はない。「主君・支配者」や「上に立つ人や政府」が頭になければ、意見や考えは上意の意味を形成しえないが、命令はそれ一語で上意に対応している。したがってこれに従えば、「上意」という用語は上下関係を含意する命令と個人としての意見や考えを、共に意味として抱え込んでいることになる。これに対して現代語においては、「考え」「意見」と「命令」は別のカテゴリーに属しており、その異なるカテゴリーをまたいで、それらを一括りにする用語は存在しない。そしてなぜ存在しないかと言えば、考えや意見は私的なもののカテゴリーに属するが、命令は公的なもののカテゴリーに属するからである。そして命令が公的カテゴリーに属するというのは、命令する側とされる側という上下関係が自然状態で存在することはなく、それは何らかの社会契約に基づいて形成されると考えられているからである。
 辞書における「命令」の意味は、「上位の者が下位の者に対して、あることを行うように言いつけること」である。しかしながら、この「言いつけ」に下位の者が従う何らかの保障がないと、それは命令にはならない。命令は、単に命令口調で言葉を発することではなく、それを受ける側がその命令に従う用意があることを要件として成立している。そしてその保障は、上位と下位という関係に規定されている。例えば企業の上司は部下に命令を出すが、これはこの組織の中でそのように規定されているからである。つまりこの上下関係は、職務の範囲内で命令しそれに従う関係であると規定されており、それがこの上下関係の前提となっている。そしてここで重要なのは、「職務の範囲内で」という制限がそこに存在することである。逆に言えば、職務外ではこの上下関係は無効である、ということになる。したがって「職務の範囲内で」成立する命令は、私的意見や考えではなく、職務遂行に基づいた適切な判断の結果として言いつけられているのである。
 このような意見・考えと命令を一括りにするならば、それは公私混同であり、現代社会においては重大な違反となる。私的欲望や見解を公的権限を行使して実現しようとする「混同」は、現代にあってももちろん存在する。しかしながらそれは、権限行使において公私の区別がないとか、つけられないといったことではない。したがって辞書が示すような「上意」に相当する用語は、現代には存在しない。それでは、現代に存在しない概念である「上意」の意味が辞書に記載されており、それを読んで意味が理解できるということは、いったいどういうことなのだろうか。
 「上意」という言葉は、上位者の私的意向である場合と、命令である場合とがあり、状況によって意味が異なるのだろうか。大辞泉での意味記載は、「主君・支配者の意見、または命令」なのだから、まさにこの意味であると受け取れる。しかしながらこの理解では、上位者の意向であったり命令であったりするものを、どのように見分けるかが現実場面では深刻な問題となる。上位者が、この上意は私的意見でこの上意は命令だといちいち示してくれればよいが、そんなことをするくらいなら「上意」などという面倒な用語を使うことは避けるだろう。そしてそう思うのは、私的意向と権限に基づく命令は混同してはならない、という不文律が染み込んでいる現代人だからなのである。現代語としての「意見」「考え」と「命令」は、それを一括りにすることはできず、それを一括りとした用語もまた存在することはない。したがって、辞書に示された「上意」の意味は、二つの別々の意味であって、その別々の意味をそれぞれに理解することはできても、二つ意味を包含した「上意」を理解することはできない。結局のところ「上意」とは、現代語の「意見」「考え」でもなく、また現代語の「命令」でもないのであり、この用語を「知っている」というのは、歴史からそれを引き剥がして現代語に翻訳していることによってであり、本当のところでは歴史における「上意」は未知なのである。

 ここで歴史用語と現代語の関係について整理してみると、それは次の5つのタイプに区別することができる。

①現代語と同じ綴りで同じ意味の語彙。
②現代語と異なる綴りで同じ意味の語彙。
③現代語と同じ綴りで別の意味の語彙。
④現代語と異なる綴りで異質である意味の語彙。
⑤現代語と同じ綴りで異質である意味の語彙。

 ①は読解の基本前提であって、日本の史料のほとんどがこの①に相当する。②で示しているのは異音同義語であり、③は同音異義語である。現代から時代が隔たると②と③の割合が増加するが、用例を増やしつぶさに検討すれば意味は理解可能である。ところが④と⑤は、これとは事情が異なる。②と③は綴りと意味の組み合わせが異なるだけで、別の綴りでその意味にぴったり当てはまる別の語彙が存在する。これに対して④と⑤は、史料に現れる語彙に対応する意味をもつ語彙が、現代語に存在しないのである。
 これまでの「上意」という用語の考察から、この用語がこの区分では④に該当するであろうことが伺われた。そうであるならば、それは語彙の綴りと意味が食い違っているのではなく、現代人にとっては未知の概念なのである。しかしながら、現代人にとって「上意」はそれほど耳慣れないものでもなく、時代劇などで繰り返しその用語が使われるのを見ている。そして将軍とか藩主の意向が命令となって下されたもの、という程度の理解でそれを受容している。この「意向が命令となる」を受容するためには、意向の持ち主と命令を下される側の上下関係を、ある仕方で理解しておく必要がある。それは「身分」である。この用語の意味を辞書で引くと、以下のように記載されている。

ある集団・組織における、その人の地位・資格。「―を明かす」
封建的社会における上下の序列。「―の違いを考える」
境遇。身の上。やや皮肉をこめていう。「まったく気楽な御―だ」
人の法律上の地位。民法では親族法上の夫・妻というような特定の地位をいう。

(大辞林)

 「身分」という用語は、現代においては「地位・資格」という意味で使われる。一方で歴史用語としては、「上下の序列」である。この地位と序列という用語単体ではその違いはわからないが、この用語が適用される集団・組織が、任意のものか、それとも必然のものかで、この用語の違いが示される。選択・契約の結果それが有効である間だけ成立するのが「地位」であり、選択の余地なく組み込まれ無期限に継続するのが「序列」である。したがって勤務先では地位をもち、親子関係においては序列をもつということになる。もっともこの場合の「地位」とか「序列」の意味規定は、『大辞林』に合わせた限りではあるが。
 主人の「意向が命令となる」のが可能なのは、この「序列」という意味の「身分」においてである。選択・契約によって成立している上下関係であるならば、選択の基準あるいは契約の範囲・制限がその関係成立の前提条件として存在している。そして命令が有効なのは、その前提条件が満たされている限りであり、命令は無制限ではない。上位者はその前提に則り、また前提を実現するために命令を発するのであり、それは恣意的ではありえず、関係成立の目的に対して拘束的でさえある。これに対して例えば親子関係は、関係成立の前提条件などない。したがって親が子に何かを言いつけるに際して、従うべき範囲や制限があるわけではない。そしてそのような拘束がなくとも、親の意向に子は従い、親の意向は子の利益につながるのである。「親の言いつけ」という言い方をする場合、この「言いつけ」は「上意」に近い意味合いをもつ。それは意向とも命令とも決めがたいものであるが、それというのもこの「言いつけ」の前提が「序列」だからである。このように無条件の上下関係においてのみ、上位者の意向が命令となりうる。したがってこの「身分」を前提として、あの時代劇における「上意」が理解されているのである。そしてここで重要なのは、この「無条件の上下関係」というものをどう考えればよいか、という問題なのである。
 「上意」という用語は、歴史用語と言うほど馴染みのないものでもなく、それなりにその意味もわかっているように思えるのであるが、現代社会の実場面においてこの用語を使用することはない。それは使用しないというよりも、使用できないのである。それは命令でありながら、批判することや変えることが引き抜かれており、何であっても従わねばならない絶対命令として意識するからである。「上意」とは絶対命令のことであると辞書に書かれてはいないが、封建社会では通用しても現代社会で使えない理由はこの点にある。しかしながら封建社会にあっては、絶対命令という意味の「上意」が時代劇の場面におけるように通用していた、というのは現代人の理解である。
 「絶対命令」という表現は、「命令」という用語の実質を無視したところに成立する。命令というものは、命じられたものがそれに従う用意がなければ成立しない。したがって「絶対命令」とは、命じられた者が何が何でも従う命令である。それでは命じられた者が、何が何でも従うのはなぜなのだろうか。例えば「死ね」と命じられた者が、それでも従う状況とはどのようなものか。強烈な信仰心によって、死をも辞さないということもあるだろう。それでは、その「信仰を捨てよ」と命じられたなら、それでも命令に従うのだろうか。意思をもち動機を抱える人というものは、絶対服従などできないのであり、服従するには理由が、つまりは前提が必ず存在する。したがってどの時代であろうと、無条件・無前提で成立する命令などないのである。
 「上意」において意向が命令になるには、無条件の上下関係である「身分」が前提となる。しかしながら、この無条件の上下関係から絶対命令を導き出すと、「命令」という概念が内包する意味に矛盾してしまう。このことは「意向が命令となる」という、私的意向と命令を一つに結び合わせたことに起因するのであるが、結局のところそれは、現代語としての「意向」と「命令」の概念では「上意」は捉えられない、ということの再確認となったわけである。したがって、この「上意」という言葉における現代の我々の理解は、こうして失敗していると言わざるをえないのである。

 見慣れぬ「中央の儀」の理解の鍵は、見慣れた「上意」の理解如何にかかっている。しかしながらその「上意」という言葉は、現代用語による置き換えでは、奇妙な社会の奇妙な習俗として馴染まれるに過ぎない。このような社会と言語の関係について、丸山圭三郎氏は『ソシュールの思想』で次のように述べていた。

言語はまさに、それが話されている社会にのみ共通な、経験の固有な概念化・構造化であって、各言語は一つの世界像であり、それを通して連続の現実を非連続化するプリズムであり、独自のゲシュタルトなのである。
(前回引用の一部)

 「それが話されている社会にのみ共通な」ということは、現代日本語が現代日本社会でのみ共通であり、現代日本社会でない社会では言語が異なるということである。それならば中世日本社会は、現代日本社会と同じなのであろうか。もしそれが同じというのであれば、そこに「歴史」を認めることはできないはずである。そして同じでないということならば、言語が異なるということであって、この言語間の橋渡しを翻訳によって果たすことはできないはずである。なぜならば言語とは、「経験の固有な概念化・構造化」だからである。この経験の練り込みが浸透している言語は、その経験の練り込みを共有しない者には理解できない。その固有性は、本質的に翻訳不能なのである。練り込みの違う経験どうしは、一見同じようであっても実質には隔たりがある。
 言語名称目録観では、言語外の対象が言語に先んじて存在し、言語はその対象のラベルに過ぎないと考える。この言語観においては、異なる言語間の翻訳がこの対象の先行性によって保障されている。言語の違いはラベルの違いであるが、そのラベルが張り付いている対象は同一なのである。そこでは対象の認識は言語に先立って成立しているのだから、用語と用語の対応表がありさえすれば、言語の違いは乗り越えられ相互理解が可能となる。しかしながら、この言語名称目録観の否定を根幹とする言語論的転回においては、言語が対象を規定するのだから、このような対応表を使った翻訳は機能しえない。そして言語の違いを超えて相手を理解するためには、経験の練り込みに迫らなければならない。この「経験の練り込み」については、次回以降ウィトゲンシュタインが提示した「言語ゲーム」に言及しながら、この意味するところを考えてみる。したがって今のところは、同じ人間として経験の練り込みが同じくなる次元と、これが異質となるものに分かれていく次元があり、歴史探求はこの後者の次元にあると理解しておこう。
 先に整理した現代語と歴史用語の関係においては、「中央の儀」は④「現代語と異なる綴りで異質である意味の語彙」のタイプであり、「上意」は④あるいは⑤「現代語と同じ綴りで異質である意味の語彙」のタイプとなる。それでは、この経験の練り込みが現代とは異質である社会の言葉に迫ることは、どのようにして可能となるのだろうか。

 「わかっている」と思っている用語は、理解の足場となり、それが「わかっていない」という想定は省みられることはない。それどころか、理解の足場を疑うあるいはそれが崩れることになれば、それによって理解した多くを危機に晒すことになる。したがって足場となっている用語は、省みられないのではなく、堅い防衛網の中で守られる。そしてそれによって理解した多くが、その現代的真っ当さでもって疑念を打ち払うのである。そのことによって、④と⑤のタイプの用語は現代語に翻訳される。翻訳されるということは、理解できるような現代語に置き換えられるということである。
 笠松氏が示してみせた「中央の儀」は、「決定権者たる権力トップが除外された場における家臣たちの決定が、トップの意志として外部に表明される」に翻訳された。同時に「上意」は、「トップの意志」あるいは「決定権者たる権力トップ」の決定に翻訳された。そしてこの翻訳によって、この言葉の意味が理解され、この時代に決定や命令に関するルール変更があったことを知ることになる。以降では、この言語名称目録観に依存した翻訳を超えて、歴史に到達するように試みる。そのために、翻訳によって「知った」「わかった」「理解した」知識や概念の枠組みを解除し、そうした翻訳用語を使用しないようにする。さらには史料の文脈に限りなく近づくことが必要であるため、この「中央の儀」においては、貞成親王の「中央の儀か」に込められた、切実なる要請について考察することから始めるのが順当だろう。
 貞成親王は、「上意に非ず、中央の儀か」に拘り続けた。それはまるで上意であれば、自らの求める正義が実現されるはずだと確信しているかのようである。親王の意図に即して考えてみれば、ここでやみくもに新たな政治形態への移行に反抗しているわけではない。親王は、自領内で発生した強奪事件が正当に解決されることを願っているわけで、その正当・正義が上意と同等とみなしているのである。つまり「上意であったならば、このような不当な命令は出されないはずである」という確信があって、実際に下された命令を「中央の儀」と疑ったわけである。ところで、笠松氏がこの「中央の儀」という用語に初めて出会った史料の内容は、次のように訳されている。

ところで、もしかしたらこのような不法行為は、中務少輔殿自身は御存知ないことで、中央の儀なのかとも思われるが、どうなのであろうか。本当のところを、貴方から聞いてもらえれば大変有難い。
もしまた、当知行歴然たる在所であっても兵粮米徴集のために下地を押領するのが、当り前のやり方であるというなら、京都で幕府の意向を尋ねてみることにするが。


 ここでの押領のことは、中務少輔自身も知らないのではないかと疑っているが、もしそれが中務少輔自身の命令であるのならば、京都で幕府の意向を尋ねると史料の記載者である経祐は書いている。ここで経祐が問題としているのは、中央の儀かどうかではなく、下地の押領は不当であることをもってその返還を実現することである。経祐にとっては、上意とは正義の命令であって、中務少輔の命令が不当ならばそれは上意ではなく、京都の幕府の意向が上意なのである。先に「上意」という用語の意味を掘り下げて検討したが、その結果、それは現代語の「命令」に翻訳できるものではなく、無制約無条件の命令(この表現のままだと矛盾しているが)として理解しなければならないとした。上意が無制約の命令であるというのは、それが専制体制における命令だからではなく、正義の命令だからという解釈がここから導き出せる。
 「上意」とは正義を実現する命令である、という解釈に立ってその構造をここから考えてみることにしよう。現代の命令においても、非常に強権的な命令が存在する。例えば、死刑制度を敷く国家における死刑執行命令である。これは抵抗できない相手を死に至らしめる行為であり、その命令の適用は厳格である。無抵抗の人間を殺害するという最も非人道的行為でありながら、それは命令として発せられ確実に執行される。なぜこのような命令が成立しうるのかと言えば、それが正義の命令だからである。そしてこの場合の正義とは、国法に反して犯罪行為に手を染めた者を、国法として規定された手続きに則って処罰することである。そして国法における正義の源泉は、国民の合意で制定されたという一点にある。したがって「正義」とは観念的なものではなく、構成員の合意に基づいて力を付与されたものなのである。
 それでは経祐や貞成親王が求めた正義とは、構成員の合意に基づくという現代の正義とは別ものなのだろうか。この両者には、本当の上意であれば正当な命令が下されるはずだという確信があり、それがあって中央の儀という言葉が発せられている。しかしながら、なぜ彼らが望むことが正当であり、またなぜ正当だとして他者からも同意がえられると考えられたのだろうか。それはそのことが立法化されていて、その法律を彼らが知っていたからなのだろうか。経祐は「当知行歴然たる在所であっても兵粮米徴集のために下地を押領するのが、当り前のやり方であるというなら、京都で幕府の意向を尋ねてみる」と述べていた。兵粮米徴集に関しての法律が存在しており、それに基づいて経祐が違法を訴えているのならば、「京都で幕府の意向を尋ねてみる」とはならないはずである。

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by mizuno_clan | 2013-05-25 13:36 | ☆談義(自由討論)

【談議1】水野氏と戦国談議(第四十一回)

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 ここで正当性と法について、橋爪大二郎氏がその著書『言語ゲームと社会理論』の中で述べていることを見ておこう。

 日常の社会生活もまた、ルール(法=規範)にしたがっているはずだ。しかしそのルール(一次ルール)は、ひとびとの遂行の前提になっているだけで、その姿を積極的には現さない。それが積極的な姿をとる-法として存在しはじめる-のは、法的言説を操る言語ゲームのなかでである。法的言説を操る言語ゲームは、日常の社会生活の成立を前提にして、そのルールへの言及関係を張りめぐらす。こうして、二種類の言語ゲームが、言及を通じて結びあうこと-これが、ハートのいう「一次ルールと二次ルールの結合」のいみするところにほかならない。[中略]
 ハートによると、すべてのルール(にもとづくゲーム)は、周辺部があいまいな「開かれた構造」をそなえている。すなわち、ルール(にもとづくゲーム)は、誰がみても明白で異論の余地のない確実な芯部のまわりに、疑わしい半影をしたがえている。この疑わしい半影の部分こそ、審判の出番であり、審判の権威がゲームの円滑な進行のために必要な場合である。

 20世紀を代表する法哲学者であるハートは、法というものを一次ルールと二次ルールの言及的結合であると考えた。一次ルールは「ひとびとの遂行の前提になっているだけで、その姿を積極的には現さない」規範であり、二次ルールは「法的言説を操る言語ゲーム」である。一次ルールは言及されるもので、「社会生活に規範的な構造を与えるルールである。ただしその規範性は、端的に遂行的なものであって、言及されなければ存在が明らかとはならない」(橋爪)ものである。したがって通常、目にして口にする法律は一次ルールへの言及であり、この言及にも「承認・変更・裁定」といったルールが存在しそれが二次ルールということになる。ここに「言語ゲーム」という概念が登場し、橋爪氏のハート理解はこの言語ゲーム理解を前提としている。先にも断ったようにそのことは次回以降に述べるとして、ここでは法律というものを言説として捉え、その遂行的な規範に対する言及としてこれを押さえておこう。たとえ法律がない社会においても生活が現に可能となっているということは、そこに何らかのルールが働いているということである。そこでは明示的なルールが可視的に存在していて、それに意識的に従っているのではなく、人が現実の状況を規範的に形成しているのである。
 このハートの主張するところのルールを説明するために、橋爪氏は野球における「審判のいるゲーム」を例として示す。野球のルールはそれがルールであるために従っているというよりは、ルールに従わないと野球そのものが成立しない。したがってこのゲームのプレイヤーたちは、野球をしているのであって、そのルールブックに行動を合わせているのではない。ピッチャーがボールを投げて、バッターがそれをバットで打つ。それはそのようなルールだからそのようにしているのではなく、野球とはそういうものであり、そこにあるのは規定ルールに則った行為なのではなく、野球というゲームの「プレイ」なのである。したがって、「誰がみても明白で異論の余地のない確実な芯部」というものは、このプレイ自体を構成するものであり、「端的に遂行的なもの」というのはそのことを示している。
 「審判のいるゲーム」と同様に、社会生活の営み自体に織り込まれそれを構成する一次ルールが存在する。社会生活が営まれているということは、すでに何らかのルールが始動しているということである。それはルールを決めてから社会生活が営まれたのではなく、営みという遂行が成立するために自身を律したものである。法の言説はこの始動している自己律に関する言及であり、自己律であったものの対象化であり可視化である。このようなハートの法哲学からすれば、貞成親王や経祐は、この社会生活の営み自体を構成する「誰がみても明白で異論の余地のない確実な芯部」として、自身の主張を確信したと考えられる。そしてその確信から、上意が離れないこともまた確信していたのであるが、それは上意が私人の意見でも考えでなく、また法的権限に基づく命令でもないからである。
 上意というものが法的権限に基づく命令であるならば、権限の剥奪に関する法が存在するのでなければならないが、「これこれの要件に該当したならば上意を禁止する」などという法があったはずもない。上意とは法的権限に支えられているのではないが、先に述べたように私的意向に基づくものでもない。これが私的意向であるのならば、「上意であったならば、このような不当な命令は出されない」と確信できなかったはずだからである。法的権限を根底で支え、私的意向を超えるものは、「誰がみても明白で異論の余地のない確実な芯部」としての一次ルールであり、この芯部のことを「正義」という概念で捉えることができるだろう。先に構成員の合意が正義を規定すると述べたが、そのような合意形成が可能なのは、その根底に「誰がみても明白で異論の余地のない確実な芯部」が存在するからである。しかしながら、この芯部は不可視の一次ルールであって、それへの言及としての形ある法ではない。したがって上意がこの一次ルールであるならば、それへの言及としての二次ルールがないところで働いていることになる。そして二次ルールがなければ「決定権者」といった規定はなく、「室町殿」も職位ではないことになる。

 「室町殿」という用語は、時の将軍個人を意味していたり、室町幕府体制の最高権力者の意味であったりする、と我々は理解する。しかしながらこれまでの考察で、「上意」は個人の意向でも権限に基づく命令でもないのだから、室町殿も個人でも幕府のトップでもないことになる。そうでありながら「上意」には、無条件に発せられ抗うことができないという意味が付与されている。そしてそのような上意は、社会において不可視の遂行的な規範を体現することで、社会正義に導くものであったのではないかと考えてみた。この想定、あるいは解釈でもって、そのような立場の室町殿がどのようにして出現するのかを考えてみたい。
 笠松氏の書いた『中央の儀』は、その終わりを意味ありげなイメージを読者へ投げかけることで閉じている。そのことに関する勝俣氏の解説文を、以下に引用する。

ここで著者は、「中央の儀」という言葉の用例をさがし求めるとともに、「中央」という当時使用された言葉を解析し、現代ではほとんど使用されていない時間的「中央」の語義が、「中央の儀」につながるものとし、この言葉の意味を「本来は決定権者の意向にまつべきところ、その途中の合議で……」と確定している。論文としては、これで立派に完結しているわけであるが、著者は、最後に、この時代最も一般的に使用され、節用集などの同時代の古辞書に共通して記されている中央=香台という中央の語義との関連が捨てきれないとして、次のような文章で結んでいる。

 ある夏の日の午後、デパートの最上階近く、壼やら茶器やらそんな道具類がならぶ一隅を歩いていた。短く太い四脚をふまえて、いかにも安定感のある黒塗りの香台、その上にこれはまたいかにも精巧で華著な香炉が、ちょこなんと載っている。強力な家臣団の支え(中央)がゆらげば、台上の公方(香炉)はひとたまりもない。しかし香炉(上意)のない卓(中央)も、無意味だ。

 私は、この文章こそ、著者が、この言葉を追う過程での「対話」で、正しいイメージであると実感しえたことであったと想像している。そして、この文章こそ、著者が最も書きたい文章で、このイメージを書きたいために、この作品が書かれたように思われるのである。著者自身が「正しい」と感じ確信したことがら、中世の人々があたりまえすぎるほどあたりまえであると考えていること、しかし現代に生きている人々に、近代の論理をもちいて証明してみせることがきわめて困難であること、それが著者をしてこのようなスタイルをとらせたのであり、文章力豊かな著者の腕のみせどころでもあったのである。


 ここで勝俣氏は、香炉と香台の「イメージを書きたいために、この作品が書かれたように思われる」と述べているが、これはどういうことだろうか。ここまで笠松氏は「中央の儀」という用語から、従者の協議決定の優先という時代のルール変更を読み取ってきた。それは「強力な家臣団の支え(中央)がゆらげば、台上の公方(香炉)はひとたまりもない」という表現に示されている。しかしながらそれに続く、「しかし香炉(上意)のない卓(中央)も、無意味だ」はこの読み取ったルール変更に逆行する。香炉の置かれていない香台が無意味であるのは確かだが、公方・上意のない協議決定は無意味ではなく時代の趨勢だったのではないだろうか。そしてこの文章こそ、笠松氏が書きたかったことであるとする勝俣氏の解説も、ここにきて意味不明となる。見方を変えれば、時代の趨勢でルール変更があったにも関わらず、「上意と号す」ことへの回答にも思えるが、上意のない中央も「無意味だ」では、これまでの笠松氏自身の主張も「無意味だ」となりかねない。勝俣氏は、「近代の論理をもちいて証明してみせることがきわめて困難であること、それが著者をしてこのようなスタイルをとらせた」と言うが、それならばやはり笠松氏の現代語による翻訳は無意味だったことになる。どうもこの両人の意図は測りかねるが、この香炉と香台のイメージを「“正しい”と感じ確信したこと」は、あながち的外れなことではないように思う。ここからは香炉と香台のイメージを糸口にして、そこに生まれる実感を私なりに詳述してみよう。

 香炉と香台は、どちらもそれ単独では香を焚くには不足がある。香を焚くにも趣があって、それがために香炉は「精巧で華奢」である。そして、それがためにがっしりとした香台を必要とする。また香台は香炉に合わせて設えてあり、香炉なくしては台とならない。香台が「中央」であるのは、香炉のために中を空けていることによるのだろう。例えば、砂を円形になるよう厚く敷き詰め、その真ん中から砂を四方によけると、中に円形の空きができる。そしてここに香炉を置けば、この砂の場が香台となる。ここでは周囲がよけられた中の空間が中央であり、それは「空ける」という行為によって成立する。
 周囲によって空けられ設えられた空間、それが「中央」の意味とも解釈できるが、この意味で「上意」を理解すると、中央という空けられた場のもつ力による行使という意味となる。この解釈のポイントは、トップやその従者といった実体にではなく、それらが共有する空間に力を認めることにある。そしてこの空間は、上位者と下位者どちらが欠けても成立しない。笠松氏の解釈では、中央は成就の途上という意味となる。この意味おいては、成就は上位者による命令の発動にあるのだから、本質的にはあくまで上意下達である。したがってその上意下達が、下位の一揆によって越えられるというストーリーを描き出していることになる。そしてこのストーリーの描き出しにおいては、上意は越えられるものとなり、それによって現代における組織内命令に同化されることになる。
 香炉と香台と同様に、上位者と下位者どちらが欠けても「中央」は成立しえない。これに対して、上位者がその力で下を押さえつける、あるいは関係者の合意がその力の均衡を生み出すとする捉え方は、どちらも上位と下位の共有・相互依存には至らない。したがって香炉-香台の関係によって出現する「中央」は、どちらにしても力の論理とは別の次元にあると言える。そしてその「中央」を「退き空いた」場とすることは、そこに「虚」を見てとることに進む。しかしながら、この「虚」は何もないということではなくて、突き合う力が引き退いたことで、事の芯部が露わになるといった場を意味するものである。そして退く行為が呼び覚ますのは、「敬う」という力の論理とは別の求心力である。
 退き空ける行為が生み出す場として、「神前」を考えるとこの視点について得心が得られるかもしれない。神前では誰もが頭を低くし、腰をかがめて進退する。この姿勢は身を小さくするものであるが、それは「畏まる」「謹む」と言われるもので、自ら身を緊縛することである。この自身の身を緊縛するというのは、「戒め」であり、私心を収め縛るを意味する。「出張る・誇示する・私欲に走る」に対して、「退く・謹む・戒める」という態度が「神前」を形づくる。こうして言葉を並べてみると、一方が力の発揮・行使であるのに対して、「神前」ではその力が自己解除されることが明らかになる。
 この「神前」では、そうした力の自己解除とともに、「神を敬う」という態度が示される。「退く・謹む・戒める」態度が自己自身に向かっていたのは違って、この「敬う」はその対象が存在する関係概念である。「敬う」と同義語扱いされる「尊敬」という言葉があるが、「神を敬う」という使い方をする場合は、「尊敬」がもっている「模範とする」という意味を除外する。この言葉はむしろ、「師を尊敬する」という使い方が中心で、その意味は「優れた相手を模範とする」である。この場合の「尊敬」では、相手が私的見方にせよ「優れている」ことが前提となる。これに対して「神を敬う」は、神が人間的尺度で優れていることを前提とはしない。欧米などの神はそこのところが違うのかもしれないが、少なくとも日本人にとっての「神」は、何かが優れていることを前提としない。このことは、『古事記』に登場する神々の描写にも示されていることであるが、それは汎神論の形態をとることと関係があるのかもしれない。
 相手が優れているのでもないのにそれを「敬う」となると、この態度は何に基づくのだろうか。これは一つの解釈であるが、やはりそれは「退く・謹む・戒める」ことの方が先行しているのではないだろうか。つまり自己緊縛、私心の解除という行為が先行し、その空いた場に「敬う」が宿るのである。人々が退き空いた場が出現したとき、そのような場が現れたこと事態が「尊い」のであり、そこに理由や前提を見て取ることに意味はない。この事態の現前は、人々の生きる営みの中に潜んでいた「社会」が姿を現したもので、おそらく生の芯部なのである。人はやはり単独の存在ではなく、「人々」として生きているという実が現前したものとして、このことを捉えておきたいと思う。
 それでは、この構図を先の「上意」の理解に適用するとどうなるであろうか。室町殿とは「敬う」対象であるが、それは彼の何かが優れている、あるいは他を圧する力があるからではなく、人々が退き空ける行為によって出現した「中央」に置かれたからである。そしてこの中央に置かれた室町殿は、「敬われる」のみでそれを超えて自らを示すことはない。力の大きさによって上に立つ者、あるいはその優れた器量によって先んずる者は、そのことを折りにつけて示さねばならない。そのことは同時に、その力と器量を行使することでもある。そしてそこにあるのは、模範としての尊敬あるいは追従であったとしても、相手に対する「敬い」ではない。退き空けた場に置かれた者は、力も器量も問われない「虚」に住まうのであって、そこでは不動でなければならない。そうでなければ、「中央」という「虚」が崩壊し、退き空ける行為も失われる。
 このような考察は、当時の人々の頭の中にあった観念を、これまた観念的にあれこれひねくり回した結果のように思えるかもしれない。しかしながら、当時の人々の脳裏にこういった観念があって、それによって謹みや敬いが行為として現れていたというのではない。それは思い込みなどではなく、遂行の中に現前するものである。このことの理解は、やはり「言語ゲーム」の考察を必要とするが、それはまたの話である。そして笠松氏の読解では、権限・トップ・命令・協議優先・ルール変更という用語の連鎖があった。そしてこの連鎖を引き継がない香炉-香台のイメージから、退き空ける・虚・謹む・敬う・不動という言葉の連鎖を引き出した。この連鎖には内的共働関係があり、それはそれぞれの体系を形作っている。そして前者が事実を表す連鎖で、後者が観念の連鎖であるといった偏見を振り払うために、あの言語論的転回が持ち込まれるのである。

 「上意」という言葉は、上位者の意見あるいは考えとして、もしくは命令として「わかった」つもりでいても、それは現代社会とは違う奇妙な社会における上下関係を現代的に理解し、そこから上位者と下位者の共働行為としてこの言葉の意味を捉えたものである。そうして把握された言葉の意味は、現代語への翻訳であり、現代においてのみ理解可能な意味を形成している。こうして④「現代語と異なる綴りで異質である意味の語彙」は、異音同義語の類へと同化される。「中央の儀」という用語は、笠松氏によって読解翻訳され、現代へと同化された。それは、この用語の意味として書き出された用語を見れば歴然である。

決定権者たる権力トップが除外された場における家臣たちの決定が、トップの意志として外部に表明される、これがこの時代「中央の儀」とよばれたことの中身であることは、今やほぼ疑いないところといえよう。

 ここに書き出された用語の中身は、読めば誰でもわかる。そこには、「権力者」「トップ」「決定」「意思表明」と現代語が並んでおり、この言葉に意味を吹き込む組織内上下関係は、現代人が日々その中に身を置いているものである。その組織内上下関係からすれば、ここで示されたことは紛れもない越権と詐称である。ところが史料には、この中央の儀が社会に平然と居座っていることが示されている。それは現代ではありえないことで、「中央の儀」という用語の解明の核心は、不当・違反が社会に居座る事態を説明することとなる。そしてその説明は、「平和と秩序の維持を保障する」ことを背景とした、決定プロセスのルール変更として提示された。そしてこの説明もまた、徹頭徹尾現代的なものである。
 実証的という態度は、現代における理解の枠組みに引き込んで、その枠組みの中で体系整合的であることを目論むものである。したがって「事実」であるとは、この体系に整合的にはめ込めるということであり、そのとき人はそれを「理解できた」というのである。歴史学は、進行形ではない過去を扱うが、その過去は現代語によって構築される。この「構築される」は、「現代語で説明される」と同義である。しかしながら、歴史に向き合う者は本質的にその社会、その言語から隔てられた者であり、その意味では過去を構築することしかできない。史料は翻訳され読解されるのであり、そうでなければ「理解した」とはならないのである。しかしながら、構築された過去と「歴史」は別物である。それが「歴史」であるためには、「理解できない」のでなければならない。現代語による疑似現代社会としての整合体系に引き込まねば、「これは事実である」といった理解と確定ができないのだから、その意味で「歴史」は理解も確定もできないのである。それならばそこにあるのは、歴史には到達できないという懐疑主義なのであろうか。
 現代の我々は、理解の足場を現代においている。この場合の「現代」は、丸山氏が言うところの「それが話されている社会にのみ共通な、経験の固有な概念化・構造化」が生み出している言語である。しかしながら言語は、その社会において閉じきっているわけではない。人間として同質の経験を形成する次元もあるし、親から子へ受け継がれる同質性もある。それはハートの言う一次ルールのように、整然とした言及体系をもったものでも可視的なものでもないだろうが、社会における営みの深部で息づいている。そして「現代」と「歴史」を区分するのは、現代が再生産し続けている「経験の固有な概念化・構造化」そのものであり、「歴史」はその差異として浮かび上がる。ここでは現代語で説明され、現代固有の概念化・構造化に同化されてしまった過去と、その差異として立ち現れる「歴史」とを意図的に区別している。それはこの用語の一般的な使い方ではないが、そのように「歴史」を規定することは、言語論的転回を踏まえれば、あるべき姿だと言えるだろう。
 その意味の「歴史」において重要なことは、史料を現代語に翻訳して読解しないことである。「歴史」が過去の出来事に関するカタログを作ることではないのなら、現代との差異をこそ求めるべきであり、そのことは本質的な次元で現代を照らすのである。史料を現代に同質化して理解することを「読解」とするのであれば、「史料批判」とはそれに対峙する者の理解の足場を批判するものである。この「批判」という言葉には、辞書を引くと二つの意味が載せられている。

① 物事に検討を加えて、判定・評価すること。「事の適否を―する」「―力を養う」
②人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。「周囲の―を受ける」「政府を―する」
③哲学で、認識・学説の基盤を原理的に研究し、その成立する条件などを明らかにすること。


 この『大辞林』に書かれた意味は3つであるが、意味的に①②と③は大きく隔たっている。③の意味は、あの哲学者カントの大著『純粋理性批判』の「批判」の意味である。認識の基盤を省みること。この意味において歴史研究を捉えるならば、その足場である言語を省みることであり、それが「経験の固有な概念化・構造化」であるならば、それはすなわち自己批判となる。そしてこの自己とは現代社会に生きる自己であり、その自己を批判するとは現代社会を本質から批判することなのである。かくて歴史学は、現代社会の本源的な批判学として、その学としての意義を示すことになる。

「歴史と過去」完
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by mizuno_clan | 2013-05-25 12:16 | ☆談義(自由討論)

【談議1】水野氏と戦国談議(第四十回)

過去と歴史⑥-歴史と言語Ⅰ-

談議:江畑英郷

 遅塚氏が書いた『史学概論』は、詰まるところ「歴史学は事実に基づく」ということを、分厚くなった紙数を埋める文字で訴えたものだと思う。そして「歴史学は事実に基づく」などという基本的なことを、今さらことさらに主張しなければならなかったのは、その歴史学の根本基盤が揺らいでいる、と危機感を募らせたからである。この遅塚氏が捉えていた危機感は、その著作に頻繁に登場する歴史物語論および言語論的転回の浸透に向けられている。もっともこの浸透は、学術的側面ではほとんど進んでおらず、政治がらみの歴史認識で一時期ばっと騒がれた、ということに過ぎないのかもしれないが。
 これまで遅塚氏の『史学概論』からは何度も引用させてもらったが、これも詰まるところ、「歴史学は事実に基づく」という場合の「事実に基づく」とは、何であるのかを考察するためであった。前回は「事実と解釈」をテーマとして掲げこのことに言及したが、それだけでは十分とは言えない。なぜならば、このことを言語の面から考察していないからである。遅塚氏が危機として認識した言語論的転回、それは歴史物語論の基礎をなすものであるが、これが何であるかについて遅塚氏はほとんど理解できていなかった。そしてそのことが本人の熱意を裏切るように、「歴史学は事実に基づく」を陳腐なお題目に貶めた原因である。このことからすれば、歴史学はこの言語論的転回を知らぬ、では済まされないはずである。したがって今回からは、この言語論的転回を踏まえた「歴史と言語」について考察していこうと思う。

 現在の歴史学者が、歴史と言語の関係をどのように見ているのか、それを示す一例を以下に掲載する。

 歴史認識は、歴史的事象の事実そのものについての認識である事実認識と、そこに各人の生き方からの判断を加える価値認識とからなる。これらの認識において子供の頭の中に成立している知識は、前者は事実的知識、後者は価値的知識と呼ばれている。これらの歴史的知識は何層かに分けることができる。ここではそれらを次の6層でとらえることにする。すなわち「事象の構成要素」、「事象記述」、「事象解釈」、「時代解釈」、「社会の一般法則」、「価値的知識」である。
(1) 事象の構成要素-これは歴史的知識の基礎をなすもので、事象を構成するさまざまな事項にかかわる用語である。たとえば、鎌倉、阿波、東海道といった地名等、源頼朝、徳川家光といった人名、文永11年、1467年といった年号、上げ米の制、勘定奉行といった制度・職名等、元寇、2・26事件といった事件名等がこれにあたる。
(2) 事象記述-これらの用語を組み合わせ、ある事象に対して解釈を含まない命題の形で記述したのが「事象記述」である。たとえば、「文永11年、元軍が博多湾に攻め込んできた」とか、「1722年、上げ米の制が実施された」などの記述である。
(3) 事象解釈-このようにして記述されたいくつかの事象を概括的に解釈することによってなされた説明が「事象解釈」である。これは、いくつかの事象の関連を探求することによって、ある事象がなぜ生起したのか、その結果どのようになったのかといったことを説明するものであり、それは一つの解釈を示している。たとえば「江戸幕府の財政が窮乏したので、幕府は財政の立て直しを図って享保の改革を実施したが、立て直しは一時的なものに終わった」というような享保の改革に対する解釈を述べたものがこれにあたる。

(伊藤亮三著『社会科教育学』)

 この歴史的知識階層の説明は、(4)「時代解釈」、(5)「社会の一般法則」、(6)「価値的知識」と続くがそれは省略する。この伊藤氏による歴史的知識の6階層は、前回引用した遅塚氏の5階層の作業工程表と基本的に変わるところがない。しかしながら、「歴史的知識の基礎をなすもの」として「名」を挙げている点が、遅塚氏の作業工程表との違いとなっている。歴史的知識の階層と歴史の作業工程階層であるから、整理の仕方に違いがあるのは当然であるが、知識を記述とし、その構成要素を「名」と捉えた点が注目される。(2) の事象記述は、「ある事象に対して解釈を含まない命題の形で記述した」ものであるのだから、遅塚氏の定義するところの「事実」に当たる。そして伊藤氏は、この事象記述が「名」であるところの「用語を組み合わせ」て成立するとして、その事象の記述構造を示すのである。
 このように伊藤氏は、歴史的知識の階層を示そうとすることから、それを記述されたものとして捉えるのであるが、これによって事象あるいは事実と言語の関係を、暗黙的にではあるが示す結果となった。そして伊藤氏が示す結果となったのは、歴史的事象が記述可能なのは事象の構造と記述の構造が一致しているからだ、ということである。事象は知識となりうるのであり、知識であるならば記述が可能である。記述が可能ということは、事象は言語で示すことができると言うことである。そしてなぜ事象を言語で示せるのかと言えば、構造が合致しているからということになる。伊藤氏がこのことをどこまで明確に意識していたかわからないが、用語と記述の関係を示すことで、この前提が露見したのである。そして歴史的事象を言語で示すことができないならば、歴史学というものも成り立たないであろうから、このことは歴史家であれば誰もが前提としているということになる。
 歴史事象が記述可能であるということは歴史学の大前提であろうが、あまりにも基本的なことなので、歴史学の中でこのことが踏み込んで言及されるのは稀であろう。伊藤氏の示したことがその踏み込みに当たるというのではないが、この「事象記述」について考察することから「歴史と言語」を始めることにしよう。

 伊藤氏によれば、名を示す用語は「歴史的知識の基礎をなすもの」であり、「事象の構成要素」である。つまり名を示す用語は歴史的知識の基礎要素なのであるが、この基礎要素だということは、これをそれ以上の要素に還元できないということである。これは歴史学の原単位が名を示す用語だと規定するもので、歴史的知識はこの原単位の「組み合わせ」で成立しているという主張である。そしてこの原単位の最小の組み合わせが、事象記述なのである。歴史学は事象記述を基盤としており、その事象記述の構成要素が用語なのであるが、その用語の妥当な組み合わせを示すのが歴史学の使命である。つまり「文永11年、元軍が博多湾に攻め込んできた」という事象記述においては、「元軍が攻め込んできた」のが「文永11年」かどうか。あるいは「元軍が攻め込んできた」のが「博多湾」なのかどうか。あるいは「博多湾に攻め込んできた」のは「元軍」なのかどうかが、この歴史的知識の妥当性に関わることになる。ところで伊藤氏のこうした歴史的知識と言語の捉え方をみていると、20世紀を代表する哲学者であるウィトゲンシュタインが示した、言語の写像理論が思い起こされる。

 像の理論とは、端的に言えば、「命題は現実の像である」ということにほかならない。命題は「名前」と呼ばれる単純記号の構造的連鎖であり、名前は現実の構成要素である「対象」を名指している。そのことによって、単純記号の配列である「命題」は、諸対象が鎖の輪のように繋がり合って成立する「事態」を描写することができる。だが、それだけでは「像」としての命題が事態を正しく描写しているか否かを決めることはできない。そのためには像と現実とがある種の「形式」を共有する必要がある。すなわち、「いかなる形式の像であるにせよ、およそ像が現実を正しく、あるいは誤って写せるには現実と共有しなければならないもの、それがすなわち「論理形式」にほかならないのである。そして、現実と「論理形式」を共有する像の最小単位は「要素命題」と呼ばれる。要素命題の真偽は、事態の存立・非存立と余すところなく一致するのである。それゆえ、ウィトゲンシュタインは次のように主張する。
「すべての真なる要素命題を枚挙すれば、世界は完全に記述される。すべての要素命題を挙げ、さらにそのうちのどれが真であり、どれが偽であるかを指定すれば、世界の完全な記述が得られる。」(論理哲学論考)

(『岩波講座現代思想4 言語論的転回』収録野家啓一著「ウィトゲンシュタインの衝撃」)

 ウィトゲンシュタインにおけるこの写像理論の核心は、現実と像の「論理形式」の共有にある。その点で伊藤氏の見解とは別次元なのであるが、言語と現実が写像関係にあるから、事象を言語で示すことが可能であるという点は、伊藤氏あるいは歴史家の暗黙の前提と合致する。名前は「現実の構成要素である“対象”を名指している」のであり、この名指しが成功していることで、名前は命題の要素となることができる。名前は命題(事象記述)の構成要素であり、名前によって名指される対象は現実の構成要素である。名前と対象、命題と事象(現実)が対応し、<名前-命題>と<対象-事象>の構造が合致していることで、事象は言語(命題)で示すことができるというものである。
 伊藤氏の暗黙の前提は、この言語の写像理論を介して捉えるならば、歴史事象は歴史要素命題として「すべての真なる要素命題を枚挙すれば」、歴史は「完全に記述される」ということになる。そして歴史要素命題の真偽は、名前の組み合わせの妥当性次第であり、歴史家はこの妥当な組み合わせを示す役割を担っている、ということになる。ただしここで言いたいのは、伊藤氏の歴史事象と言語に関する暗黙の前提が、ウィトゲンシュタインの写像理論と同じであるということではない。正しくは同じではないはずだが、名前と対象をを写像関係で結びつけ、その写像関係が成立していることが暗黙の前提となっている、ということをここで明確にさせておきたかったのである。伊藤氏の前提がそうでなかったのならば、「事象の構成要素-これは歴史的知識の基礎をなすもので、事象を構成するさまざまな事項にかかわる用語である」とは記せなかったはずである。こうして、事象の構成要素は言語の外側に実在する対象であり、歴史的知識の還元限界であるのだから、歴史学は名前から始めるのである。

(つづく)
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by mizuno_clan | 2013-03-31 13:40 | ☆談義(自由討論)

【談議1】水野氏と戦国談議(第四十回)

(つづき)

 伊藤氏がこのような歴史事象と歴史認識における言語の写像関係を前提としたのは、歴史学が客観的な学問であるということを示す必要があったからである。客観的な歴史的知識は、単に「私は認識した。それは私の頭の中にある」では済まないわけで、歴史的知識は記述されねばならないという点から、伊藤氏は事象記述の構造について言及した。このことはもちろん適切なことで、林氏と遅塚氏の二つの『史学概論』では、正面から言及されなかったところのものである。事象、事実、あるいは客体でも実在でもよいが、それはどのようにして記述されるのか。歴史学の対象とそれを捉えた成果としての記述がどのような関係にあり、さらにはどうして捉えられたと言えるのか。歴史と言語の問題は、歴史学存立の根幹に関わることだと言えるだろう。
 歴史事象と歴史記述(歴史の要素命題)の構造が一致しているという見解の中心には、事象における対象と記述を構成する名前(用語)が、名指しによって直接に結びついているという前提がある。また伊藤氏は「用語を組み合わせ」たものが事象記述だと述べているが、このことは歴史家が主観的に用語を組み合わるということではないだろう。事象対象に対する適切な名指しが為されれば、必然的に適切な用語の組み合わせになるのであり、組み合わせそのものは事象側にあるはずである。したがって歴史事象の認識の根幹を支えているのは、この事象対象の適切な名指しであり、その作用の結果としての妥当な用語の使い方にあることになる。それでは、伊藤氏の挙げた事象記述の事象例は、そのような事象対象の適切な名指しとなっているのかをここで詳しくみることにしよう。

 伊藤氏によれば、「文永11年、元軍が博多湾に攻め込んできた」は事象記述である。そうであるならば、「文永11年」「元軍」「博多湾」は、この事象記述の構成要素であるということになる。「攻め込んできた」は名詞ではないが、これも事象記述を構成する要素である、と考えねばならない。そして事象記述は事象と写像関係にあり、「元軍」「博多湾」はその名に対応する対象を指し示している、ということになる。それではここでまず、「元軍」という用語が指し示す対象とは何であるかを考えてみることにしよう。
 「元軍」とは元の軍隊のことであるが、この「元の」というのは、中国の元王朝が編成維持しており、その元王朝の命令に従わせている、という意味であると理解される。したがって、「元の」というのは「軍」の所属を表す用語であり、「元軍」の本体的用語は「軍」ということになる。それでは「軍」とは何んであるかと言うと、辞書(大辞林)での「軍」は「軍隊」のこととされ、「一定の秩序をもって編制された軍人の集団」とある。ではその「軍人」とは何かと言えば「兵士」だと書かれている。そして「兵士」は「戦闘に従事する者」とある。つまり「軍」とは、戦闘行動を目的として編成された組織(一定の秩序をもった集団)ということになるが、この規定を箇条書きにすると以下のようになる。

①編成された集団である。
②秩序(決定と行動の統一性)が維持されている。
③戦闘を目的としている。

 この「軍」の定義の①と②は、「軍」の外部に主体を必要としており、「軍」を編成した主体と「軍」の行動を決定する主体が必要である。そして「元軍」は、このどちらの主体も「元」だということを示している。そして②の秩序であるが、この秩序が維持されているかどうかは、「元軍」という存在の根幹に関わる。なぜならば、この軍としての秩序が維持されていなければ、編成されていようと命じようと、それは軍として働かないからである。そして軍として働くということは戦闘することであるから、その秩序は厳格でなければならない。例えば元王朝によって動員編成された軍隊であれば、その時点でこの集団の目的は戦闘行為となる。ところが、どうしたことか元王朝の命令を聞かず勝手に動いているとしたら、これはもはや元軍ではない。つまり①と③は成立しているが、②が欠如してしまうとそれは軍隊とは言えず、無秩序で暴力的な集団である群盗とか暴徒ということになる。またその集団は秩序立ってはいるが元王朝の命令に従わない場合、それは反乱軍と呼ばれるようになる。このように②の秩序・統制については、特にその程度というものが実態を規定することになるが、文永の役における元軍はこの点どうであったかを確認することにしよう。

 文永十一年(一二七四)十月、日本遠征の準備は整い、遠征は決行された。元軍の第一次日本遠征すなわち文永の役である。その兵力は史料によってまちまちであるが、屯田軍・女真軍(もと金の領内の兵、漢軍ともいう)・水軍からなる元軍が二万人、高麗軍が六〇〇〇人で、計二万六〇〇〇人というのが、池内宏氏の説である。高麗軍は金方慶に率いられ、蒙漢軍(モンゴルと旧金の軍)は忻都<キント>が主将で、洪茶丘<コウサキュウ>・劉復亨<リュウフクコウ>がこれを補佐した。
(佐伯弘次著『日本の中世9 モンゴル来週の衝撃』)

 ここで佐伯氏は、「元軍の第一次日本遠征すなわち文永の役である」という表現をする一方で、「元軍が二万人、高麗軍が六〇〇〇人」とも書いている。同じく「元軍」と記しても前と後では意味が違うことになるが、これらの記述では用語と事象対象が一対一の関係とはなっていない。前者の「元軍」と後者の「元軍が二万人、高麗軍が六〇〇〇人」が等しいのであり、後者の記述の「元軍」の指し示す対象の方がより限定されている。この点について他の記載に当たってみると、講談社の『日本の歴史10 蒙古襲来と徳政令』では「モンゴル・高麗連合軍」と記され、海津一朗氏の『蒙古襲来』でも「蒙古・高麗連合軍三万数千人」と記載されている。このことからすれば、より適切には元王朝と高麗王朝の連合軍であり、前者の「元軍」というのはその総称ということになる。そしてそうした総称が可能なのは、高麗王朝が元王朝に臣従しているという前提があってのことである。
 しかしながら佐伯氏の記載をさらによく見ると、「屯田軍・女真軍(もと金の領内の兵、漢軍ともいう)・水軍からなる元軍」という表現がされている。つまり後者の意味での「元軍」がさらに細分化されており、ここでの「屯田軍」とは、高麗人の抵抗勢力である珍島政府や三別抄に対して派遣されたモンゴル人主体の戦力である。

 開城の元宗政府が頼りとするのは、モンゴル駐留軍であった。珍島掃討作戦は、海の戦いとなる。そのため忻都を指揮官とする五〇〇〇のモンゴル騎馬軍団は、半島南部沿岸の金州に進駐した。合わせて、高麗人コロニーの主人、洪茶丘(洪福源の子)は、自分の領民から成る私兵軍を率いて屯田した。時に、中国本土の中央部では裏陽戦のさなかであった。
 モンゴルの指令下で、元宗政府による造船作業が開始された。一二七一年、モンゴルの部将アカイ率いる第一次の珍島攻撃は、多くの損害を出して失敗した。陰暦五月、ヒンドゥ麾下のモンゴル・高麗連合軍は夏の海を渡り、珍島に猛襲を加え攻略した。捕獲された王温は、斬刑に処せられた。モンゴルとしては、ささやかであったとはいえ、事実上、最初の海戦の勝利であった。

(杉山正明著『モンゴル帝国の興亡<下>』)

 佐伯氏は、高麗軍と連合した「元軍」に対して、さらにモンゴル人主体の屯田軍と旧金軍というような識別を与えている。このように一口に「元軍」と言っても、それを単一で均質的な軍隊とみることはできない。特に高麗軍については、「クビライ王朝に最も忠実な附庸国」(杉山)であったのだが、高麗人内部の内乱に連合軍として対処するなど共同関係を続けており、両者の関係は軍事力を背景とした強圧的な力の前の服従として済まされるものではなかったのである。こうした事情が「元軍」には存在するのであるが、「文永11年、元軍が博多湾に攻め込んできた」における「元軍」は、このような連合あるいは混成の軍事的集団であったことを何ら示してはいない。むしろそれを示さないことで、一口に「元軍」と言ってしまえる単一の対象が存在する、と思わせる結果になっている。そうであるならばこの記述は、非常にシンプルであるために解釈を含まない記述であると思いがちではあるが、実際は「元軍」という単一の存在を喚起するという解釈を生んでしまっていることになる。それは「元軍」が「攻め込んできた」と結びつくことで、「攻め込まない」ことはなかったとしているわけで、攻め込むことに関しての単一性・均質性を示す結果となっている。しかし連合とか混成といった集団は、単に種別の違うものが組んでいるというだけでなく、目的や行動における不一致を孕んでいるということでもある。そうであるならば、「攻め込まない」ことを完全に排除することはできないはずで、具体的には旧金軍(漢人化した女真人と華北の漢人)がモンゴル人と同程度には忠実に攻撃していないとか、高麗人の中には隠れて攻撃の足を引っ張る者もいた、ということを排除できないだろうと言うことなのである。そうであるのに、「元軍」を「攻め込んできた」と結びつかせることで、そこに単一の意味しか示せなくなっているのである。この点からすれば、歴史的知識の基礎になるという事象記述は、その意に反して物事を単純化し粗略に記述したもの、ということになるだろう。

 次に「元軍」という中国の王朝軍が「攻め込んできた」場所である、「博多湾」について考えてみよう。この「博多湾」は、この場合単に自然地形の名前として機能しているのではない。この記述においては、「攻め込んできた」場所が博多湾なのではあるが、より正確には進入した場所が博多湾であり、攻め込んだのはそこの施設とかそこにいた敵対集団に対してである。そして博多湾にいたことを理由として、その施設や集団が攻められたのではなくて、そこが日本であり日本の施設や集団であったから攻め込まれたのである。つまり「博多湾」は、元軍の敵対者である「日本」の隠喩としても機能している、ということなのである。
 事象記述に隠喩が紛れ込んでいるというのは、かなり問題である。というのは隠喩である以上、それが何を指し示すのかを解釈しなければならないからである。そうなると、解釈を含まないことが事象記述の要件である以上、この伊藤氏が挙げた記述は事象記述ではないことになる。それならば、「博多湾」を事象要素としての「攻め込んだ」対象に変えればよいか、と言うとそうもいかない。「博多湾」は「日本」の自然地形だから、この用語を「日本」に変えたとする。しかしながら、「日本」に攻め込んできたというのも隠喩である。この場合の「日本」とは、日本人とか日本人の所有する施設という意味であって、特に「攻める」というのであれば、何らかの抵抗が想定されるのでなければならないだろう。つまりそこに戦闘が含まれているのであるから、元軍は敵対的日本人を対象として「攻め込んだ」のである。それならばこの場合の敵対的日本人とは、具体的にどのような人々を指すのだろうか。「対外戦争の社会史」という副題が付されている海津一朗氏の『蒙古襲来』には、文永の役が次のように説明されている。

 六度にわたる通好要求の無視によって、モンゴル帝国(一二七一年、国号を元とする)皇帝フビライによる日本征討は必至の情勢となった。一二七三年(文永一〇)に高麗の三別抄の乱(崔氏残党)を鎮圧すると、翌七四年(文永二)に蒙古・高麗連合軍三万数千人(戦闘員二万五六〇〇、水手・大工六七〇〇)を擁して、対馬・壱岐の両国を軍事占領し、一〇月二〇日未明に博多湾岸に上陸した。毒矢やてつはう(炸裂弾)などみなれぬ兵器と、統制のとれた集団戦法を駆使する元軍の前に、幕府に動員された御家人ら武士たちはたまらず大宰府まで没落した。だが、この夜、海上の船に引き上げた元軍は、夜半の暴風によって多くの被害をだして高麗に撤退した。第一次の蒙古襲来(後世「文永の役」と呼ばれる)の顛末である。
 この時の元軍敗退については、季節はずれの暴風の有無も含めて謎が多く、予定された撤退ではないかという説もある。けれども、暴風が吹いた事実は複数の一次史料で確認されるし、また元の正史が一万三五〇〇人の戦死者と捕虜を出したと被害を明記していることもあり、通説にしたがってよいとおもう。
 この戦闘では、御家人であっても戦場に行きながら戦闘を拒んだり、境を守ると称して動かないなど「不忠の科」が続出した。幕府は、このような者の名前を出させるなど厳罰を求め、御家人に対する当世は以降しだいに強化されていったのである。


 ここで元軍の対戦相手は、「幕府に動員された御家人や武士たち」と記載されている。そして彼らの実態については、「御家人であっても戦場に行きながら戦闘を拒んだり、境を守ると称して動かないなど“不忠の科”が続出した」とある。この海津氏の説明からすれば、この幕府によって動員された集団は、軍隊としての統制力に大きな問題があったことになる。そしてその後、「御家人に対する統制はしだいに強化されていった」ということなので、その7年後におこった弘安の役ではどうであったかをみてみよう。

 五月に高麗の合浦<ガッポ>を出帆した九百余艘の東路軍は、対馬・壱岐を占領し、三〇〇艘を長門に向かわせ(『勘仲紀』弘安四年六月一四日条)、主力は六月六日博多湾に到着した。ここで、幕府軍と海陸において交戦したが、頑強な抵抗にあって上陸を断念し壱岐に撤退した。
一方、江南軍の大船団三五〇〇艘は、予定より二週間遅れて七月に慶元(寧波)を出発し、平戸付近で東路軍と合流し、二六日伊万里湾の鷹島を占領した。三〇日夜半から閏七月一日にかけての台風接近により、海上の元軍は壊滅的な打撃をこうむり高麗に敗走した(後世「弘安の役」と呼ばれる)。この日は、ユリウス暦の八月一六日、台風シーズンの真っ最中であった。異民族の混成軍は世界各地でみられる元軍の特徴だし、最新鋭の巨大軍艦と、海戦に熟練した宋の指揮官に率いられた江南軍が壊滅したことは今もって謎となっている。

(前掲書)

 文永の役においては、総勢「三万数千人」に過ぎなかった元軍であったが、「たまらず大宰府まで没落した」幕府軍であった。一方の弘安の役での元軍は、「幕府軍と陸海において交戦したが、頑強な抵抗にあって上陸を断念し壱岐に撤退した」のであった。この時の元軍は、「東路軍四万」「江南軍一〇万」(海津)という大軍勢であったが、元軍は幕府軍の防衛線を突破できなかったのである。このように、二度の戦役における日本側の戦力には、大きな違いがあったのであるが、その一度目の事象記述が「文永11年、元軍が博多湾に攻め込んできた」ならば、二度目の事象記述は「弘安4年、元軍が博多湾に攻め込んできた」なのであろうか。
 事象記述は解釈を含まないと伊藤氏は言うのであるが、それは事象の記述だから解釈を含まないのではなくて、解釈を排除した残余の記述を事象記述と称しているからなのではなかろうか。そうなれば、文永の役と弘安の役の違いを年次だけで表わし、それ以降は「元軍が博多湾に攻め込んできた」とするのが無難である。どこまでが事象記述でどこからが解釈であるのかは、実に厄介な問題であるのだから、このような無難な選択も十分あると言える。「博多湾に攻め込んできた」は隠喩を含むので、「博多湾に進入し幕府軍に攻め込んだ」に変える必要があるだろうが、年次だけを異なるものとして、二つの蒙古襲来事象を記述することに不都合はない。しかしながらそうしてその二つを並べてみれば、これらの記述に陳腐さを感じないではいられない。
 攻め込んできたのはどちらの戦役も「元軍」であり、攻め込まれた場所はどちらも「博多湾」であるが、方や簡単に上陸を許し陸戦でも敗れて大宰府へ退却し、後の方は50日余りも上陸を阻止して暴風雨の到来を呼び込んだ日本側を、同じ「幕府軍」あるいは「鎮西御家人」とすることができるであろうか。この場合どう見ても、この二つの戦役を事象的に分けているのは、元軍の規模もさることながら博多湾で「元軍」を迎え撃った集団の戦力の違いにある。そしてそれが同じ「幕府軍」であるとしたならば、どうしてこのように軍の根幹をなす戦力に大きな違いができたのかを示す必要がある。「文永11年、元軍が博多湾に攻め込んできた」は、この戦役の根幹にある攻め込まれた側の実体を隠喩に逃げ込んで済ましているのであり、それは一口で「幕府軍」と言い表すことに躊躇したからではないかと思うのである。

 「文永11年、元軍が博多湾に攻め込んできた」が事象記述かどうかは、「これを事象記述として読みなさい」という指示に従っているかどうかによる。「元軍が」という箇所を海津氏が読めば、「蒙古・高麗連合軍三万数千人」が念頭に浮かぶのであり、さらには副元帥として参戦していた洪茶丘について、「高麗出身者でありながら完全なモンゴル人としてふるまい、高麗人将士の怒りと憎しみを一身にあつめた(高麗軍の大将軍金方慶は、茶丘のために誣告され、国王の面前で拷問を受けた経験をもつ)」(講談社『日本の歴史10』)といった事情から、軍内の統制に問題があったことを思い起こす場合もあるだろう。そうしたことのどこまでが事実でどこからが解釈であるかは線引きが難しいが、「文永11年、元軍が」にはそうしたことが重ね合わされる。したがって「文永11年、元軍が」と言うだけでは、その読み方は多様なのであり、「元に帰属する軍隊」の意味に限定して読まねばならないという理由はない。同様に、博多湾に攻め込まれた側を、その内容を顧みずに「幕府軍」や「鎮西御家人」で済ませるのかどうかは、読み手の見識・力量に依存するだろう。つまり「文永11年、元軍が博多湾に攻め込んできた」は、それを様々な解釈をともなって読むことができない、などということにはならないのである。そうではなくて、それを実証史学の命題という文脈で読む際には、そこから解釈部分を除いて読むのであり、またそれでも命題として崩れないということなのである。しかしながら、その分内容は極端に限定され、例えば文永の役でも弘安の役でも、年号だけが違うだけで後は同じということになりかねない。

 伊藤氏が挙げた一つ目の事象記述の事例についてここまで考察を加えたが、次にもう一つの例文、「1722年、上げ米の制が実施された」にも言及しておこう。ここでの「上げ米の制」は、その内容はわからずとも、用語の意味としては制度のことである、と理解することができる。それでは「制度」とは何であるか。この用語を辞書で引くと、以下のように記載されている。

社会における人間の行動や関係を規制するために確立されているきまり。また、国家・団体などを統治・運営するために定められたきまり。「封建―」「貨幣―」
(大辞林)

 簡素に過ぎる記述で却ってわかりにくいが、「社会における人間の行動や関係を規制するために」ということは、制度には社会的な目的があるということである。この目的が存在しない、あるいは不明確な場合は、それを制度だとどうして言えるのかがわからなくなる。単に「きまり」というだけなら約束や慣習などもそれに該当するが、約束や慣習と制度には大きな違いもある。それでは、「1722年、上げ米の制が実施された」という事象記述において、どうして「上げ米」が制度だと言えるのか。この事象記述は解釈を含まないと言うが、これを制度であると規定するためには、「江戸幕府の財政が窮乏したので、幕府は財政の立て直しを図って」といった目的が示されねばならない。また制度だと言うのであれば、それが施行され一定期間は継続したことが要件に含まれるだろう。「享保の改革を実施したが、立て直しは一時的なものに終わった」には、制度の実施とそれの継続が示されている。制度が施行されれば、一定の経過の後に成功と失敗のどちらかの結果が生まれるわけである。制度の中身はわからずとも、少なくともここまで示されて、「上げ米の制」は制度だと言えるのである。しかしながら、「江戸幕府の財政が窮乏したので、幕府は財政の立て直しを図って享保の改革を実施したが、立て直しは一時的なものに終わった」は、伊藤氏によれば事象解釈である。事象記述は解釈を含まないと言うが、この事象解釈を含まないと「上げ米の制」は制度とは言えないはずである。まさか「~の制」という呼び方をしているから、それは制度であると言うのではあるまい。それならばこの事象記述は、解釈を含まずしてどうやって制度であることを示しているのだろうか。

(つづく)
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by mizuno_clan | 2013-03-31 13:40 | ☆談義(自由討論)

【談議1】水野氏と戦国談議(第四十回)

(つづき)

 記述の中で対象を指定するために用語を使うが、この用語の使用に解釈を含まないと言えるのは、それが名指しであるからである。この名指しであるということは、「元軍」や「上げ米の制」が対象を指し示す単なる指標に過ぎず、その指標が指し示す対象の実在こそが事象記述を支えている、と言うことを意味する。先に言語の写像理論について言及したが、写すという機能は写されるものの存在が前提となる。そこでは写され方は問題となるが移されるものの存在は前提であり、それ自体は問題とはならない。したがって「元軍」や「上げ米の制」という用語は、その名の指し示す対象に真っ直ぐに向かっているのであるが、その対象にまつわる諸々は写され方の問題を孕む、と実証史学の写像理論は考えるのである。
 文永11年に博多湾に攻め込んだ「元軍」は、蒙古・高麗連合軍であったり、高麗人の将軍が同国人から激しく恨まれていたといった解釈はあるにせよ、「元軍」はその解釈の前提である。なぜならば、何にせよそれは「元軍は」を主語として始めなければならないからである。そしてこの「元軍」が名前であるならば、それが名指すところの対象が存在し、その対象が「元軍」の意味なのであり、用語としての「元軍」はその透明な指標に過ぎないのである。事象は対象の生起であり、その対象は用語の名指し機能によって記述に持ち込まれ、その用語の適切な組み合わせが事象記述を可能とする。そしてこうした認識論的前提が、事象あるいは事実を記述できるとしている実証史学を支えているのである。
 このように実証史学の認識論的の根底には、用語が対象を名指すという基本認識が存在する。そしてこの名指し機能は、すべての写像理論の基本原理である。しかしながら、この言語の働きの中枢はこの名指し機能にある、という言語観こそが、あの言語論的転回によって突き崩された当のものなのである。

 我々の生活世界は、コトバを知る以前からきちんと区分され、分類されているのではない。それぞれの言語のもつ単語が、既成の概念や事物の名づけをするのではなく、その正反対に、コトバがあってはじめて概念が生まれるのである。たとえば、「牛」はフランス語では boeuf 英語では ox と呼ばれているから、第二の言語を学習することは、すでに知っている事物や概念の新しい呼び名を学ぶことであり、すべての概念は各言語に共通していると考えがちである。ところが「牛」と boeuf と ox とは、それぞれに異なった意味範囲をもつ概念であり、それぞれの語が生まれる以前は存在しなかった概念なのである。フランス語の boeuf は ox ばかりか beef をも包摂しているし、また例えば日本語の「木」は、机などを作っている材料でもあれば、庭の青々とした樹木でもあるが、英語では前者が wood 、後者が tree であることは中学生でも知っている事実である。それでは材木の意味の「木」と wood が完全に重なりあう概念であるかというと、これもそうはいかない。wood には「森」という意味も含まれているからである。
 それぞれ「犬」と「狼」という語で指し示される動物が、はじめから二種類に概念別されねばならぬという必然性はどこにもないのと同様に、あらゆる知覚や経験、そして森羅万象は、言語の網を通して見る以前は連続体である。[中略]言語はまさに、それが話されている社会にのみ共通な、経験の固有な概念化・構造化であって、各言語は一つの世界像であり、それを通して連続の現実を非連続化するプリズムであり、独自のゲシュタルトなのである。

(丸山圭三郎著『ソシュールの思想』)

 文を構成する要素が単語である、ということは誰もが知っている。しかしこの場合の「要素」とは、文を構成するのだから、文が依存するところのものであっても文に依存することはない、という意味で「要素」なのではないだろうか。ところが「日本語の「木」は、机などを作っている材料でもあれば、庭の青々とした樹木でもある」ということならば、「木」という単語単体では意味を確定できない。この「木」の意味を確定するには文脈が必要なのであるが、そうなると単語は文の構成要素だとは言えなくなる。文法上は文の構成要素であっても、意味論上では単純に要素だとは言えないのである。このことは日本語の「木」が、特定の英単語にぴったり一致しないことにも関わりがある。「木の温もり」という表現があるが、この場合の「木」は樹木の「木」なのだろうか、それとも材質としての「木」なのだろうか。答えはどちらとも言えないであるが、それはどちらでも意味は通るということでもある。それではこれを、英語に翻訳しようとするとどうなるか。そこでは「tree」か「wood」か、どちらかの単語を選択しなければならない。そして問題はここにある。
 この場合の「温もり」という表現は、温かいという物理的なものであるよりも、精神的な「安らぎ」とか「心地よさ」を示している。そしてそれが精神的なものであるだけに、材質そのものの物性から受けるものではなく、樹木というものに対する日本人の心持ちに由来するものなのである。そうであるから、「木の温もり」における「木」は「tree」でも「wood」でもないのであり、英語には翻訳できないのである。このことは丸山氏が、「言語はまさに、それが話されている社会にのみ共通な、経験の固有な概念化・構造化であって、各言語は一つの世界像であり、それを通して連続の現実を非連続化するプリズムであり、独自のゲシュタルトなのである」と言うところの由縁となっている。「木の温もり」という表現は、「温もり」であるから木を身近に引き寄せた場面で適用される。したがって木を材料にして作られた家具とか、木製の道具や装飾品などに対して用いられることになる。その点では「wood」なのであるが、材質が温もっているのではなく、その材料が何からできているのかを指向していることにそれは基づいている。つまり元は生命のある樹木であり、それが別の形になっても生命は失っていない、という感覚がこの場合の日本人にはあるのだろう。「温もり」は暖かいとかなめらかといった物性ではなく、生命のもつ包容力に対する感応だと思われる。そうであるから、形は変わっても「木」という言葉を、この感応を宿している文化においては使い続けるのではないだろうか。
 異なる言語間では、語彙の範疇がぴったりと重なり合わないことが多々あるのであるが、ソシュールはこれを日常言語のルーズさとは考えず、言語が自制的に対象を捉えているからだと理解した。このことによって、「それぞれの言語のもつ単語が、既成の概念や事物の名づけをする」という捉え方が、ある特定のしかも誤った言語観であることが自覚され、これを言語名称目録観と呼んだのである。ソシュールのこの自覚を「言語名称目録観」と呼んだのは丸山氏であるが、これは広く普及してはいるが一つの言語観であり、しかもそれが誤っているということの認識が重要である。そしてこの認識はウィトゲンシュタインにも共有されており、言語論的転回はこの認識からスタートすると言っても過言ではない。さてそのウィトゲンシュタインであるが、彼が『論理哲学論考』の中で示した言語の写像理論は、その後ウィトゲンシュタイン自身によって批判され放棄されることになった。その事情をここで詳しく述べるつもりはないが、野家氏はこのことを次のように表現する。

 ここに見られる「要素論(atomism)」的な構えこそは、『論考』全体を貫く根本前提とも言うべきものであり、やがてはウィトゲンシュタインにとっての「蹟きの石」ともなるものなのである。
(野家前掲書)

 ここで要素論的な構えが「蹟きの石」となったと述べているが、これは名前を事象記述の構成要素とする伊藤氏の考え方においても同じことが言える。この要素論的な構えとは、即自的で自己規定的な要素という原単位を想定し、それを組み合わせることで全体が成立する、という考え方である。自動車を例にすると、車体、タイヤ、エンジン、座席などの部品を組み合わせると、全体として機能する自動車が完成する。この場合、各部品は各々それ自体で固有の機能をもっており、自動車はこれらの機能の複合機能を発揮するものである。このように部品(要素)は、組み合わせ以前にそれとして存在し(自即的)、独自の性質を保持している(自己規定的)のである。このように構成要素であるということは、自即的自己規定的であるということである。そしてこのことは、要素への分解・分析と、その要素からの再構成によって客観世界を説明しようとする、時代制約的な知の枠組みがその根底にあることを暴き出すのであるが、そのことには今後言及することにしよう。ウィトゲンシュタインは、この要素論的な構えという「蹟きの石」を自覚したとき、言語の働きに体系的全体というものを認めるようになる。

 ある対象の長さを記述する諸々の言明は、一つの体系を、命題の一体系を構成しているのである。そのような命題の体系全体が現実と比較されるのであり、一つの命題が現実と比較されるのではない。もし私が例えば、視野のこれこれの点は青いと言えば、私はただ単にその事のみを知っているのではなく、その点は緑ではない、赤ではない、灰色ではない、等々という事をも知っているのである。私は色の序列全体を一度にあてがったのである。(中略)このことは、要素命題は相互に独立である、すなわちある一つの事態の成立から人は他の事態の不成立を推論することはできない、という事を私は信じていた、という事と関係している。しかしながら、命題の体系についての私の今の所見が正しいとすれば、人は、命題の体系によって記述されるある事態の成立から、それ以外のすべての事態の不成立を推論することが可能であるという事は規則ですらあるのである。
(『ウィトゲンシュタインとウィーン学団』)

 ここでウィトゲンシュタインは、要素から体系全体へ言語の働きの場を移している。「言語論的転回」の根底には、この要素から体系全体へという言語観の転換があるということを、ここでしっかりと見ておく必要があるだろう。そこで再度、ソシュールの言語論に戻ることにする。

e0144936_13283554.jpg その体系の中では、ここの単位の大きさとか価値は、ネガティブにしか規定されない。少々突飛な例かもしれないが、箱の中に入っている饅頭と、同じ大きさの箱の中に押し込められている同じ数の風船のイメージを考えてみよう(図参照)。その風船はただの風船ではなくて、圧搾空気が入っているものと仮定する。さて、饅頭の場合は、その中から一つ取り出して箱の外においても、当然そこに空隙が残されるだけで箱の中の他の関係は変わらない。箱の外に取り出した饅頭自体も一定の大きさ、一定の実体を保っているであろう。ところが、技術的に可能かどうかはさておき、圧搾空気をつめた風船の場合は、箱の中でしか、また他の風船との圧力関係においてしか、その大きさはない。もしその中の風船を一つ外に出すと、当然ながらパンクして存在しなくなってしまう。また、残した穴もそのままであるはずはなく、緊張関係におかれてひしめきあっていた他の風船が全部ふくれ上がってたちまち空隙を埋めてしまうであろう。これがソシュールの考えていた体系であり、ここの項の大きさとか実体性というものは、もともと存在しない。在るのは隣接諸項との間に保つ関係だけであり、ネガティブというのもこの意味に解されねばならない。これを否定的あるいは消極的と訳しにくい理由もそこにあるのであって、ネガティブというのは、「・・・ではない」という規定しか出来ず、「・・・である」という規定が出来ない存在に対して用いられるのである。これはまた、「言語の中には《差異》しかない」というテーゼと深く関わっている。
(ソシュールの思想)

 言語における「饅頭」は、箱の中における圧搾空気の緊張であり、それが同じ箱の中にある別の緊張との平衡を生み出す最中に、この「饅頭」が出現する。言語名称目録観を脱却した言語観を示す表現として、丸山氏のこの例えは秀逸である。ソシュールは言語を、「価値体系」として捉える。その場合の価値とは、圧搾空気の緊張であり、その緊張の平衡が体系である。そして言語におけるこの緊張は、不断の「経験の固有な概念化・構造化」が引き起こしているものなのである。
 先にウィトゲンシュタインは、ある色を示すということは、「色の序列全体を一度にあてがった」ことで成立すると述べていた。「序列全体を一度にあてがう」というのは、順番に比べるとか全体を見渡すといったことではなくて、色の価値が均衡によって示されるのであり、そこに時間差はない。均衡というものは、すべてが同時に働くことで成立するのであり、ウィトゲンシュタインの言うところの「一度に」というのは、このことを指している。そして、この「一度に」が逐次経過的ではないといことが、必然的に「ネガティブ」を意味することとなる。「視野のこれこれの点は青いと言えば、私はただ単にその事のみを知っているのではなく、その点は緑ではない、赤ではない、灰色ではない、等々という事をも知っている」ことだと、ウィトゲンシュタインは述べていた。このことは、見えていると思っている青は、青でない他色との緊張関係によって現前しているのであり、ここに色彩体系が下地として働いている、ということを意味する。そして丸山氏がこれを「ネガティブ」として強調するとき、実在はポジティブというあり方をするということが、ネガティブに示されているのである。
 「言語の中には《差異》しかない」というテーゼは、ポジティブに何かが示されるのではなく、「ではない」という仕方で対象が示されることである。このことを先の「元軍」で考えてみると、ポジティブにある存在対象が示されているのではないから、「これこれ」とそれは規定できないし、「これ」と指で指し示すこともできない。そこで「元軍」の意味は、次のような複合系列の一つのポジションだと考えるとよいだろう。

系列1:中国/日本/朝鮮/…
系列2:王朝/共和制国家/民主国家/…
系列3:集権体制/分権体制/離散的権力体制/…
系列4:集団/離散/個/…
系列5:人間/馬/犬/…
系列6:戦闘/厭戦/非戦/…

 以上の系列1から系列6までの、左端を串刺しにした複合ポジションが「元軍」の意味である。もっともこれは簡略的な系列の列挙であるし、あまり正確であるとも言えない。さらに難しいのは、例えば「元」を中国の王朝だとした場合、その中国は単に日本や朝鮮などを並べて、その系列を表せるものではない。その系列は「国」の系列のように見えるが、「中国」という国は存在しない。また地域のようでもあるが、やはり「中国」という地名は存在しない。ユーラシア大陸の東の二つの大河を中心とし、歴史的にその一帯に幾度も統治体が出現し交代した、といったことを念頭において理解されているのが中国であり、民族を軸として理解できる日本や朝鮮とは同系列とは言えない。このように「中国」という用語がまた、高度に複合的な系列のポジションをその意味とすることを思えば、「元軍」の意味は単なる系列の串刺しに留まるはずもない。それは意味の宇宙という、果てしのないネットワークという表現が相応しいのかもしれないが、そうなると「元軍」の意味は、広大なマトリックスにおける、一つのセルを示すものだと言えるだろう。
 圧搾空気の膨張力が相互に働き合って均衡が生ずると、そこに場というものが出現する。ソシュールはこれを「価値」と呼んだのであるが、ここではそれに「ポジション」という用語を当てた。そしてこれを意味の宇宙だと言うのは、ある膨張力の均衡はまた別の均衡との間にも緊張関係をもっており、それらの間にもまた均衡が出現しているからである。均衡のそのまた均衡というように、それは入れ子状にもなっているのであるが、実際の意味の力場は圧搾空気のような物理的なものではないので、これらが重なり合って相互に浸透もする厄介なものなのである。
 このように多層的多元的な力場の緊張は「作用」なのであり、この作用(もちろん物理的な作用ではない)には実体がない。そして実体がないのだから、それを主題的に見ようとすれば、それは「でない」というネガティブな表現になるのである。意味というものを、実体的な対象のように捉えれば、それはネガティブなのであるが、実際には「その点は緑ではない、赤ではない、灰色ではない」などとは言わない。このように逐次的に並び立てても、それは「青」にはならないからである。ウィトゲンシュタインの言うように、それは「全体を一度にあてがった」のであり、一が全なのである。
 こうしてみると意味とは実に不思議なものであるが、それもまた何かを前提としなければ「不思議」と感じることもないだろう。この意味の宇宙の自覚から、「構造」という用語が生まれた(というのは通常の意味とは異なるからである)のであり、そこから構造主義という思潮が出現もした。この場合の「構造」は「価値体系」のことであるが、このことを「構造」と言うのには問題がある。なぜならば、「構造」という用語は、「何かの構造」というように「組成」に通じてしまい、そこからあの「要素論的構え」に舞い戻ってしまいかねないからである。そしてこの「要素論的構え」の残滓が少しでも残っていると、非実体的な力場のダイナミクスが失われることになる。

 事象世界の基本単位である対象を、名指すという機能によって認識に持ち込み、それら持ち込まれた対象を組み合わせて事象を写像する。これが事象記述の働きであり、この働きに則ることが「事実に基づく」ということである。そしてこのような認識論を前提とする歴史学を、ここでは実証史学と呼んでおこうと思う。なぜならば、史料に基づくとか、論理整合性を備えるなどということは学問であれば当然のことであり、それをもってことさらに実証史学などと言う必要はないからである。その一方で「事実に基づく」というのは、事象世界に直結する名指し機能に依存することである。名指しは機能であってそれ自体は実体をもたないため、遠方にあろうと過去であろうと、時空を超えて直接に届くのであり、この直接性が事実性を保証しているのである。
 そうは言っても、歴史の研究活動のすべてが、こうした意味での実証史学に基づいているのではない。しかしながら、「文永11年、元軍が博多湾に攻め込んできた」を、事象記述だと言って憚らない歴史家が大多数である、という実態は厳然として存在する。そしてそうした人々は、読解や推測の核として、また学としての客観性の源泉にこの事実記述を位置づけるのであるが、そのとき彼らは例外なく要素論的構えを取っているのである。確固とした核となる事実命題があり、この事実命題を要素命題として解釈を含んだ歴史命題が構築されているのだと考える。そしてこの事実命題の事実性は、「元軍」や「博多湾」などの用語が支えているという、これまた要素論的構えを取っているのである。伊藤氏の歴史的知識の段階論も、遅塚氏の歴史の作業工程表も、この点で変わるところはない。
 これ以上遡及不可能という要素に至り、その要素の組み合わせとして事象を説明する。これは今日我々が収得している基本的な知の枠組みなのであるが、このモデルにはめ込むために持ち出されるのが、事実と解釈の二分法である。しかしながら事実とは、前回述べたことであるが、便宜的な機能なのである。「文永11年、元軍が博多湾に攻め込んできた」が事実であるのは、他の多様な言及(解釈)において共有されているところの集約としてである。ほとんどの言及がこの「文永11年、元軍が博多湾に攻め込んできた」を含むために、それは異論のない命題として「事実」なのである。またこの記述は、事実命題として読むものなのであり、ここで「元軍」とは何であるか、などという問いを発しないことがここでの約束事である。この約束を無視して「元軍とは何か」といった問いを一度発すれば、それは際限のない応答となってしまう。例えば、「元軍とは元に帰属する軍隊のことである」と答えれば、「元とは何か」「軍隊とは何か」「帰属するとはどういうことか」という問いが返される。「元とは13世紀後半から14世紀半ば過ぎまで、中国を支配した王朝である」という答えは、次に「中国とは何か」「支配とは何か」「王朝とは何か」という問いを呼び起こす。こうして尽きることなく応答は繰り返され、しかもその範囲は拡大する一方である。そして何よりも、そうした問いに対する答えが事実に留まり、解釈を含んでいないと言い切ることが困難になる一方であることが、この応答の最大の問題なのである。
 事実とは、多様な解釈の共通集約記述であるのだが、共通集約であるために確実なのだ、というわけでもない。それは研究や議論を先に進めるための起点として機能的に設定されたものであり、その機能性を根拠として有効な記述とされるものなのである。このように事実を機能として捉えるならば、事実と解釈は相互依存的なものとして理解されるようになり、語彙の意味を実体的に捉える必要はなくなる。歴史的知識というものは、事実と解釈の本質的区別はなく相互に依存し合う記述体系として存在し、その体系全体で自らを支えているのである。それは記述体系の外側に規範をもつのではなく、言語として必然的に関係し合っている記述集合が、自らの求心力で歴史学を支えているのである。
 そうした意味で歴史学は、自己実現をしているのであるが、自己実現のあり方も様々である。そしてここに示した実証史学の作法は、歴史学の本来の自己実現を妨げている。それは本来の史料批判の力を奪っている。それと言うのも、言語の本来の姿を完全に見誤っている実証史学が、言語による史料批判を本来的に遂行できるはずがないからである。事実記述と解釈的記述の二分法の根底には、それ単独で事象に一致することで確固たる命題となるものを創出する狙いがある。それは言語の外側の事象に何もかもを委ねてしまっているのであり、言語はただ対象を名指すだけの指標に過ぎないものとされる。言語論的転回は、この言語観の上に立った認識論を否定し、言語の自制的働きに新たな展望を開こうとする。この展望においては、事実と解釈は地続きなのであって、事実命題にその機能的有効性を超えるような優越的特権は認められない。そして特定の史料の一文を解釈を含まない記述であるとか、歴史家が提示する一命題が歴史記述の前提になる、といった実証表明を解体するのである。

次回へつづく
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by mizuno_clan | 2013-03-31 13:31 | ☆談義(自由討論)

【談議1】水野氏と戦国談議(第三十九回)

歴史と過去⑤-事実と解釈-

談議:江畑英郷

 前回は、出来事というものは実体的なものではなく、先回りによって全体を指向することで、その端緒から循環的なものである、ということを論じた。過去の出来事が史実であるならば、事実もまた実体的なものではなく、それが解釈とどのように区別されるのかが問題となろう。「出来事」「事実」「解釈」という概念は、歴史学においてはお馴染みのものであるが、身近であるということが自明とは限らず、ここにおいては返って灯台下暗しの例えが当てはまるように思われる。そして「出来事」は、この三つの概念の中で最も理解しがたいものである。そうしたことから、前回の出来事に関する考察は、具体的のようでいて捉えどころのないものであったかも知れない。そこで今回は、事実と解釈について踏み込んで考察し、「出来事」に再度近づいておくことにしよう。

 『史学概論』の中で遅塚氏は、事実と解釈は明確に区別されうると強調する。これは実証史学の立場からすれば当然で、この区別が曖昧ということは事実が曖昧ということであり、それではこの学における実証性および客観性が揺らいでしまうことになるからである。したがって事実と解釈の峻別は、この『史学概論』における要の議論であると言っても過言ではない。その遅塚氏は、この事実と解釈の区別を次のように説明する。

 史料にはさまざまな種類があるが、市場価格表や課税台帳のような数量的記録は別として、事件や状態を記述した報告書や議事録等の史料においては、事実がありのままに記述されていることはほとんどありえない。そのため、歴史家は、媒体としての各種の史料を批判し・照合し・解釈して、媒体の背後にある客体としての事実を認識しようとする。事実の「認識」という場合、事実を確認したり復元したりできればよいのだが、それが困難で、事実の推測にとどまる場合も多い。だが、その推測は、合理的な蓋然性を備えていることが必要である。以上が工程表の③であって、ふつう実証と呼ばれる作業であるが、私は、のちに第3章で触れるように、実証よりも考証がよいと思っているので、以下ではなるべく考証と記すことにしたい。この作業は、歴史学にとって不可欠の作業であるが、そこで歴史学の作業が終わるのではない。たとえば、1789年7月14日の事件について、参加者の身もとを入念に考証して、パリの民衆が主体だったことを明らかにすれば、それは歴史学の重要な成果である。だが、歴史学はさらに④に進む。
 ④の作業は、いまの例で言えば、バスティーユ占領という事件、ないし、その参加者の主体が民衆だったという事実が、革命という大きな動きの脈絡の中で、いかなる意味を有するかを問うことである。ある事件の意味は、その事件だけを見ていてもわからない。それに関連するさまざまな事件の関連(相互連関・因果連関)の中に位置づけられて、はじめて、その事実の意味が理解されるのだ。いまの例でいえば、バスティーユの占領は、その他の事実との関連において、フランス革命の発端だったと解釈される。その場合、諸事実の間の関連は、歴史家が主観的に想定するのだということに注意しよう。諸事実の関連を想定し、ある事実をその関連の中に位置づけて、その事実の意味を明らかにしようとする主観的な営み、そういう営みを一括して表現すれば、事実の「解釈」と言ってよいだろう。したがって、以上の③と④の作業は、単純化すれば、それぞれ、「事実の認識」と「事実の解釈」と言ってよいのである。

(遅塚忠躬著『史学概論』)

 この説明は、遅塚氏が歴史学の「作業工程表」と呼ぶ5つのステップの3段階目と4段階目に対して与えたものである。以下にその「作業工程表」の③と④を引用しておく。

③諸種の史料の記述の検討(史料批判・照合・解釈)によって、史料の背後にある事実を認識(確認・復元・推測)する。(この工程は考証ないし実証と呼ばれる)
④考証によって認識された諸事実を素材として、さまざまな事実の間の関連(因果関係なり相互連関なり)を想定し、諸事実の意味(歴史的意義)を解釈する。


 遅塚氏の挙げる「作業工程表」の③は、「事実の認識」だとされるが、そこに「史料批判・照合・解釈」とあることから、別に「史料の解釈」であるとも言っている。歴史学は史料から出発することになるが、それは単にそこにある事実を眺めるわけではなく、史料に基づいた操作が必要なのであって、その操作のことを「批判・照合・解釈」だとしているのである。この操作が必要であるということは、史料が不完全であり事実がありのままには記述されていないことを意味する。事実は「痕跡」であるという言い方がまさにこれを表わしているのであるが、それは史料が事実の断片であるということなのだ。そしてそうであるならば、その断片の元である事実は逆に完全であるということになる。しかしながら、史料という断片の背後にあって操作を必要としている事実が、完全なものであるとどうしてわかるのか不思議である。そもそも「断片」とか「背後」という用語が「完全」とか「本体」を前提にしているのだから、当然のことではあるが、この完全であったり背後にあったりする事実とは、何を意味しているのであろうか。
 事実は完全であるという前提に立つと、史料を媒介としなければならない史実認識は常に不完全ということになる。そしてその不完全な史実認識は、どのように数を集めても完全にはならない。遅塚氏はこのことを、「推測にとどまる場合も多い」と言うが、推測を超えて事実そのものに到達することは、史料に基づく限り原理的に不可能なはずである。そしてこの推測は、具体的には「批判し・照合し・解釈し」という操作であり、その操作の結果である。ここに「解釈」が登場してくるが、これは④の「事実の意味を明らかにしようとする主観的な営み」としての解釈とは意味が異なる。もしこれが別ものでなければ、③と④は区別ができないことになるのだから、当然同じものではない。遅塚氏によれば、③は「史料の解釈」であり、それは「合理的な蓋然性を備えている」が、④は「事実の解釈」であり、「主観的な営み」である。このことで、③の合理性と④の主観性が対立しているようであるが、④が主観的であることによって非合理だということではないはずだ。また③は事実で、④は「その事実の意味」であると言うが、③も事実そのものではなく事実認識なのだから、④の「その事実の意味」と何かどう違うのかがいま一つはっきりしない。
 こうした遅塚氏のような実証史学の事実・解釈観に対して、二宮宏之氏は次のような批判を加えている。

 ところで、史料の厳密な検証作業と歴史記述としてまとめることのあいだにギャップがあることは多くの歴史家が認めるところで、そのズレを埋めるために好んで提起されるのが実証と解釈の二段階論である。まず第一段階として、史料の綿密な検討に基づく過去の出来事の実証という局面があり、ついで第二の段階として、こうして確定された過去の出来事をどう関連づけて説明するかという解釈の局面がくるというわけだ。[中略]ぼくらの手に遺されている痕跡は起こった出来事そのものなのではなく、文字史料の場合で言えば、その出来事を言語によって表象したものに他ならない。さらにまた、この痕跡から歴史を探り出そうとするいわゆる実証作業はと言えば、すでにしてそこには読み手の眼が介在しているのであって、それは歴史家による読解行為に他ならないのである。しかもこの史料読解の過程には、歴史家が過去を再構成する際のナラティヴの構図がはねかえってこざるをえない。このように見るとき、実証と解釈を二分してそれぞれを別個の相互に独立したオペレーションと捉える発想は成り立ちがたくなってくる。
(『二宮宏之著作集1』収録「歴史の作法」)

 二宮氏は、実証と解釈の二段階論を否定する。そしてその否定の理由として、史料は「出来事を言語によって表象したもの」だからという点と、実証作業には「すでにしてそこには読み手の眼が介在している」からであるという二点を挙げる。理由の一点目は、「言動によって表象したもの」が何を意味するのかが分かりにくい。二点目については、二宮氏が別に事例をあげて説明している箇所があるので、次にそちらを見てみよう。

 年表は、基本的とみなされる歴史事象を時間軸に沿って記載するかたちを採っている。それだからこそ日本では、大学を受験する者ならばせめてこれぐらいの日付は暗記しておくべきだといった話にもなるのだ。「八〇〇年一二月二五日、フランク王カール(シャルル)は教皇レオ三世より西ローマ皇帝の帝冠をうけた」とか、「一七八九年七月一四日、パリの民衆がバスチーユを襲撃した」という記述は、たしかに起こった出来事に照応している。しかし前者の場合、カールとドイツ式に表記するかシャルルとフランス式に表記するかでカロリング王国をどちらの側から見ているかを示すことになるし、後者の場合、襲撃した集団をパリの民衆と呼ぶのはすでにある解釈を含んでいることになるだろう。
(前掲書)

 「基本的とみなされる歴史事象」とは、この場合事実のことであると見てよいだろう。そしてそうした事実の記述においても、記述する者の視点によって表記の仕方が違ってくる。また「民衆」のような基本的な用語が、「襲撃した」といった用語とともに使用される場合、特定の社会的立場を意図的に強調することになる。つまりそれは「人々が」では、やはり記述者の意図を適切に反映することにならないのだ。しかし襲撃したのが「民衆」であるならば、民衆に敵対的な人々が襲撃される側にいたことになる。そこには、民衆と彼らを抑圧する人々という対立する社会階層が前提されているわけだが、こうした前提がある以上、解釈抜きの事実認識であるとは言えないはずである、というのが二宮氏の主張である。
 「事実」という用語は、認識された事実という意味と、事実そのものという意味の二通りに使用される。そして時にこれが曖昧となり、混同される。しかし歴史学において重要なのは、事実は認識されたものに限られる、という点である。認識されてもいない事実そのものは、どうやっても手が届かないからであるが、さらに重要なのは、認識は記述されねばならないという点である。
 記述するということに着目する利点は、ひとまず文字という目に見える形で議論できるということであるが、そもそも学問としての歴史学が、記述されることで成り立っているという現実に沿うことになる。歴史学の成果は、実際に論文、著作、講義といった言語表明によって示される。頭の中にある認識こそが歴史学であり、記述されたものはその表現に過ぎないのではない。個々人の頭の中にある認識そのものでは議論することはできないのであって、議論するには言語を通さなくてはならない。二宮氏が言うところの「言語によって表象した」というのは、ひとまずこの意味であると考えておこう。この記述するということからすると、事実は人知れず客体として独立している事実ではなく、また形のないところで成立している事実認識でもなく、事実として記述された出来事ということになる。歴史学においては、超越的な事実が文字に写し取られているから事実記述なのではなく、「事実として」記述されているから事実なのである。このことは、事実と解釈の考察をもっと深めたところで、再度考えてみることにしよう。
 この記述に考察の足場を置くことでまず見えてくるのは、記述されるものは文であり、そこでは必ず文脈というものが働く、ということである。先の例で言えば、「民衆」や「襲撃」という単語単体では、その意味を確定することができない。同様に、「パリの民衆がバスチーユを襲撃した」という一文単独では、その意味は「D地域の人々がB施設で活動した」以上を確定することはできない。このことは、以前行った高校生のタイムトラベルという思考実験を思い出してもらえれば、分かってもらえることだろう。見えるのは「民衆」ではなく人々であり、彼らの活動は分かるがそれが「襲撃」かどうかは俄かには判断し難い。そこには「見える」を超えた意味が付与されているのであって、この記述で「パリの民衆」を「パリの人々」にしないのは、その行為が特定階層の集団によって敢行されたこと、そしてそれが抑圧に対する反撃であったという意味が必要であったからである。同様に「襲撃」も、夜盗のように忍び込んで目的を果たし、それが済むとさっさと引き上げたというものではない。「民衆」と「襲撃」という語彙は、互いに引き合い意味を規定しあって、「革命」という次なる語彙を準備しているのである。そしてそれが「暴動」という語彙を準備するのではないのは、「パリの民衆がバスチーユを襲撃した」という文が置かれている文脈からくるのである。(ただしこの場合の「文脈」は、実際の論文や著作などの記述された文との関わりを意味するのではない。その文の意味を理解可能としている知識や了解など、理解の地としての全体のことを「文脈」と言っている)
 「パリの民衆がバスチーユを襲撃した」という単文が、それだけで事実に対応しているなどということはない。この記述文が意味するところは、「民衆」と「襲撃」そして「バスティーユ」という、この3語からの組み合わせなのではない。「一七八九年七月」には、パリにおいて無数の出来事が起こっていた。人々は、様々な施設に足を踏み入れただろうし、その施設でこれまた様々な事が起こったであろう。それら無数の出来事の中から、「民衆」「襲撃」「バスティーユ」という語彙が立ち上がるとき、それは単に起こったことの写し取りではなく、抑圧への反撃として脳裏に残すべき出来事であることが、すでにそこでは知られているのである。
 「バスチィーユ」は監獄であるが、これは社会秩序を維持するための機構をなす施設である。それを襲撃するのは、社会秩序の崩壊を意味することとなり、通常これは暴動である。その襲撃者が街の店員や工場労働者であったとしても、それは犯罪であり店員や労働者だからといって特別扱いはない。今日であれば、こうした施設の襲撃は「テロ行為」だと言われるだろう。これが革命的行為なのかテロ行為なのかは、「カロリング王国をどちらの側から見ているかを示す」のと同様の問題である。そしてどちらの側から見ることもそれは解釈であるのだが、それでも「パリの民衆がバスチーユを襲撃した」には何れの解釈も含まないと言うのであれば、そこには「パリの酒場で男たちが暴れた」と区別する特別な理由はないだろう。それならば、毎夜パリのどこかで起こる「パリの酒場で男たちが暴れた」がフランス史に記述されないのに、「パリの民衆がバスチーユを襲撃した」がそこに記載されるのは何故なのだろうか。
 出来事から解釈を剥ぎ取ってゆくとどうなるかは、前回示したとおりで、それは人知を超えた有象無象に還元してしまうことになる。このことはより明確に示す必要があるだろうから、それは次回にソシュールの言語論的に言及することで果たそうと思っている。今ここで考えねばならなないのは、解釈は「歴史的意義」よりももっと基本的な認識のレベルで働いているのであり、どんな認識の場合でもそれが形成されるとき、解釈は地として動き出しているということである。遅塚氏が自身の作業工程表の③で、この「解釈」という用語を使ってしまった真の理由はここにある。
 歴史家は出来事の渦中から遠ざかっているだけに、その出来事をリアルに把握することは難しい。したがって、歴史家の言うところの事実は、それだけに冷静で覚めた講釈となる。その事件の渦中にあって最も事実に近い人々は、これに反してこう言うかもしれない。「あの時はもう、誰もが熱くなっちまって、ほとんど無我夢中で自分が何をやらかしたのかもよく覚えてはいない」と。そして彼は次のように続ける。「だけど今は皆が言うように、貴族や金持ちの奴らに対するしっぺ返しだったんだと思っている」と、当然のように言うのである。だが本当のところ、彼のやらかしたことは、「こうだ」と言えるほど整然とはしていない。あの時彼は酒に酔っていたが、酒を飲んだ理由まで「しっぺ返し」だったはずがない。そして彼の女房は、そんな彼の言い分を言い訳だと思っている。
 起こったことは有象無象で数限りなく、渦中においては誰であっても、後になって言うほどにそれが何であるかを理解してはいない。その渦中が過ぎた後になって、「民衆」と「襲撃」そして「バスティーユ」という語彙を、分別をもった者が当てるのであるが、二宮氏はこの分別を解釈と呼ぶ。そしてこの分別が成立するところには、あの先回りがあり、予見による全体像が先行しているのである。

 遅塚氏の作業工程表の③と④に、「解釈」という用語が登場していたが、問題はやはりここにあるのだろう。遅塚氏は、③の工程に対して「事実の認識」と「史料の解釈」という二通りの言い方をし、④の工程については「事実の解釈」だと言う。こ③から④の認識構造を整理すると、「事実→史料→史料解釈=事実認識→事実認識の解釈」となる。そしてここで問題なのは、史料解釈=事実認識という箇所である。二宮氏はこの箇所を捉えて、「すでにしてそこには読み手の眼が介在している」と言っているのであるが、遅塚氏は「解釈」という用語を使っていながら、そこに主観性を認めない。それは何故かというと、③の解釈は「合理的な蓋然性を備えている」からであり、それは客観的であると考えるからである。しかしそこでは、③の解釈に使用される基本用語の意味という次元が、すっかり抜け落ちていて、そこの所を埋め合わせるために客体というものを持ち込んでいるようにみえる。「民衆」と「襲撃」そして「バスティーユ」は、解釈を含まない客体で、事実はこの客体を組み合わせたものだと考えているのであり、その組み合わせが「合理的な蓋然性を備えている」とするのである。これに対して作業工程の④では、「諸事実の意味(歴史的意義)を解釈する」と言っているので、この場合の「意味」は「意義」すなわち価値ということになるだろう。しかし二宮氏が言うところの、「言語によって表象したもの」という視点では、言葉の意味に照準が向けられているのであり、「民衆」「襲撃」「バスティーユ」は実体ではなく意味なのである。そして意味と言えば、例えば「カロリング王国をどちらの側から見ているか」という価値を抜きにしては、何が示されているか判然としないものなのである。

(つづく)
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by mizuno_clan | 2013-01-01 19:10 | ☆談義(自由討論)

【談議1】水野氏と戦国談議(第三十九回)

(つづき)

 言葉の意味が、事実と解釈にどう関わっているのか。ここからは非常にシンプルな史実を、その典拠となっている史料を確認しながら、この点について考えてみることにしよう。
 まず、桶狭間合戦を歴史事典で引いてみると、そこには次のように記載されている。

 1560(永禄3)尾張桶狭間における今川義元と織田信長との戦い。義元は駿河・遠江・三河3か国の大軍を率いて信長の領内尾張にはいり、沓掛から進んで桶狭間に駐軍したところを信長に奇襲されて敗死。信長制覇の端緒となった。
(角川書店『日本史辞典』)

 この辞書で記載されているところの桶狭間合戦は、歴史上の事実とされているから、辞書にこのように記載されている。そしてこの桶狭間合戦が史実であると言えるのはなぜかと問えば、多少とも歴史学を学んだ者ならば、それを示す良質な史料が存在するからだと答えるだろう。

<史料①>
夏中進発せしむべく候条、其れ以前に尾州境取出の儀申し付け、人数を差し遣り候、然らば其の表の事、いよいよ馳走祝着たるべき候、尚朝比奈備中守へ申すべき候、恐々謹言
 四月十二日             義元
            水野十郎左衛門尉殿

<史料②>
今度不慮の儀出来、是非なく候、然らば当城の儀、堅固申し付けの由喜悦に候、やがて出馬すべく候、なお三浦内匠助申すべく候、謹言
 五月廿五日             氏真
               天野安芸守殿

<史料③>
今度合戦の儀について、早々御尋ね本望に存じ候、義元御討死の上候は、諸勢討捕候の事、際限これなく候、御推量あるべく候、其の立願の儀について、委細御使与三郎殿へ申し候、聊かの相違あるべからず候、恐々謹言
 六月十日          佐久間御書判
             福井勘右衛門尉殿

<史料④>
(略)
去る五月十九日、天沢寺殿尾州鳴海原の一戦において、味方勝利を失う処、父宗信は敵を度々追い払い、数十人手負し出し、これに相与むと雖も叶わず、誠に後代の亀鏡、比類無しの事
(略)
永禄三年 十二月二日         氏真
                松井八郎殿

(『豊明市史 資料編補二 桶狭間の戦い』収録)

 これらは皆、一次史料とか一級史料とか言われるもので、その時点における伝達・記録の必要性から記載されたものである。そうしたことから、桶狭間合戦の概要ですらここには示されておらず、永禄3年5月19日に尾張の「鳴海原」で今川方と尾張勢の間で合戦があったこと、この合戦で今川義元が討死にしたことがわかる程度である。これは、これらの史料の差出人と宛人が、起こった出来事を同時代人として共有しているために、出来事自体の説明を必要としないからである。これに対して、この合戦の基本骨格および詳細については、『信長公記』『松平記』『三河物語』などに頼る他ないが、これらが上記の4点の史料と同格というわけにはいかない。ここでは史実と解釈の原理的分離の是非について考察しているので、これら後年の記録は除外することにする。
 さて、上記4点の史料と歴史辞典の記載を比較してみると、合戦の勃発した日付については一致しているが、場所については「桶狭間」に対して「尾州鳴海原」の違いがある。しかしこれは、ほぼ同一場所に対する表現の違いであるとしてよいだろう。次に、「今川義元と織田信長との戦い。義元は駿河・遠江・三河3か国の大軍を率いて信長の領内尾張にはいり、沓掛から進んで桶狭間に駐軍したところを信長に奇襲されて敗死。信長制覇の端緒となった」は、4点の史料には存在しない記載である。これは歴史辞典が『信長公記』などに拠っていることによるのだろうが、史実に厳格な態度をとるとしてその部分を切り捨てたとしても、「今川義元と織田信長との戦い」の箇所を落とすことはできないであろう。
 桶狭間合戦が「今川義元と織田信長との戦い」であったことは当たり前で、それがもしそうでないなら、桶狭間合戦の定義が変わってしまう。しかしながら、上記4点の史料にしたがう限り、合戦当事者の一方に今川義元がいたことは確かであるが、もう一方の当事者が織田信長であったことは、これらの史料からでは確認できないのである。さらには、今川義元の当事者としてのポジションが、これら史料において明確であるとも思えない。この合戦における直接の当事者が、今川義元であったとどうして言えるのか。また、合戦を何らかの紛争解決の一手段だとして、これはいったい何の紛争であったのか。この合戦の事実を示す根拠となる史料には、これらのことが記載されていない。ましてや、もう一方の当事者とされる織田信長においては、この合戦にどのように関わったのかが、これら史料からはまったくわからないというのが実情である。
 厳格に事実に向き合おうとすると、実際のところこれら史料はかなり頼りない。もっとも厳格の意味をどう捉えるかで、取り扱う史料も変わってくるのであり、かつて織田信長の家臣であった太田牛一が、江戸時代になって書き上げた『信長公記』の記載内容を、この厳格な事実の中に加えようとする場合もある。最近公刊された『愛知県史』は、この『信長公記』の記載の一部をその資料編の中に加えている。ただし一定度の保留つきである。そしてこの『信長公記』においては、この合戦の当事者が織田信長であることは明らかである。そればかりか、信長個人の意志と行動で、この合戦が展開しているという描き方さえなされている。ここで信長はまさに戦いの最中に身を投じているのであるが、これらの記載が事実であったかどうかは、実際のところ定かではない。しかしながらこの『信長公記』は、この合戦の当事者の一方が織田信長であったことを、事実として印象づけるには絶大な効果があったように思う。それでも原点に返ってみれば、この合戦の当事者については不明な点が多いと言わざるをえない。こうして桶狭間合戦について厳格に事実を追求しようとすると、わかっているのは永禄3年に鳴海方面で、今川義元が関与した合戦があったこと。そしてその合戦で義元が死去したことに過ぎない。この他にも、今川氏真の書状から見て取れる岡部元信の鳴海城守備などあるが、合戦に直接関わることの事実は極めて少ない。そうであるのに、歴史事典にこの合戦があのように記載されるのはなぜなのだろうか。
 合戦があったとしたならば、少なくとも敵対する二つ以上の軍事的な集団が必要となる。そしてその合戦において(実際のところ義元の死とこの合戦がどのような関係にあるのかは定かでないが)、今川義元が死去しているということからすれば、小さな小競り合いということもないだろう。ただし小競り合いでないことを示す明確な根拠はないのであって、そうである以上これは解釈である。そして小競り合いの多くは、合戦とは言わない。したがって、合戦と規定した段階ですでに解釈なのであるが、そこから相応の当事者が必要となってくる。義元が鳴海で死去したならば、彼は前線に出ていたことになり、義元ほどの人物が前線に出る戦いであるのに、彼が総大将(戦闘集団の筆頭指揮者)でないというのは、従来の戦国軍事観ではありえないことである。こうして一方の総大将が今川義元であったという解釈が俄然優勢になる。一方で合戦が起こった地名として「鳴海原」が挙がっているが、この鳴海は尾張東南部の伊勢湾に面する地域である。そしてこの鳴海の西隣には熱田があるのだが、ここは織田信長との関わりが非常に深い場所である。そして永禄3年ともなると、尾張における信長の勢力が大きくなり、外部勢力との軍事的衝突に信長が関与していないとはかなり考えにくいことから、彼の参戦が事実同然とみなされる。そして佐久間信盛の書状から、信盛の参戦が事実とされ、その上位者であった信長がやはり総大将の位置にあったはずだと推測されるわけである。
 歴史事典に史実として記載されていることでも、事実という用語の厳格な意味においては、事実とみなされうる解釈であることの一例がここにある。ここで事実を厳格に扱おうとしているのは、歴史研究はそうあるべしということを言いたいがためではない。そうではなくて、通常史実とされていることも、事実という用語の厳格な適用においては解釈になってしまうということであり、さらに踏み込んで言えば、事実などなくてすべては解釈なのだと言いたいのである。このように主張すると、それは事実と事実認識を混同していると反論されるかも知れない。しかしながら、事実とその認識を分離すると、事実はどうしても実体であり実在であると主張せざるをえなくなる。認識の側が事実を完全には捉えられないのだという考えは、事実はそれ自体で完全で確実であるという前提に立っていることになるが、そうしたものを実体あるいは実在と言うのである。この実体論あるいは実在論に対する批判は、前回の出来事実在論で少なからず述べたところであるが、これがなかなか掴みづらいところだと思う。

 私の目指したのは、世界と意識、世界と私、という基本的構図をとりこわすことである。その構図は古くから哲学を呪縛してきただけではなく、われわれの日常生活の隅々にまで浸透している。そしてその日常の知識を発祥の地とする科学もまたその構図の中で成長してきたものであり、したがって現代の科学者はそれを殆んど自明のこととしてこの図の中で思考し、実験し、生きているのである。
 それにもかかわらず、この構図、世界と意識とをまず剥がしそしてダブらせるというこの構図は、錯覚であり誤解であると私には思われる。(中略)しかしこの堅固な積年の眩惑をはらうのは、自分自身でからでさえ容易ではない。それはこの構図の中で鋳こまれた言語、その言語による思考の習慣や感慨の表白、非難や賞賛、といったものから身をはがすことだからである。

(『流れとよどみ』大森荘蔵著)

 ここで大森氏が言うところの「世界」が、実在論的事実の総体に当たり、「意識」がその事実認識ということになるだろう。そして解釈はこの「意識」の側にあって、実在論的事実の不完全な写し取りの補完ということになる。しかしながら、日本史辞典における桶狭間合戦の記述に紛れ込んだ解釈は、その史料の不足にあるというのではない。どのようにしても、史料は解釈を免れないということにそれは起因しているのであり、それは歴史学が言語に浸透されているということなのである。しかし出来事実在論を振り払うことは、大森氏に「自分自身でからでさえ容易ではない」と言わしめるほど困難なことなのであり、それを平易に語る努力もなかなか成就しない。

 歴史辞書における辞項である「桶狭間合戦」あるいは「桶狭間の戦い」には、すでにそこに「合戦」あるいは「戦い」という用語が使われている。この「合戦」(「戦い」も「合戦」の意味)は、同じ歴史辞書には載っていない。国語辞典には辞項としてあるが、どれも簡素で、集英社の『国語辞典』では、「敵味方の軍勢が出会って戦うこと」と記載されていた。「出会って戦う」というのは直接の戦闘行為を指すのだろうが、そこに「軍勢が」とある。これは戦闘用に組織(といっても程度は様々であるが)された集団を意味するが、このことから直接の戦闘行為に及ぶことを想定して組織された集団間の、意図された戦闘行為を「合戦」は意味することになる。そうなるとこの戦闘集団は、あらかじめ戦う相手も想定しているわけで、どこでどの程度の規模の戦闘集団と戦うのかが、この集団編成に先行して組み込まれていることになる。戦う相手が想定できなければ、どれくらいの集団規模にすべきかが決まらないし、戦う場所の見当がなければ補給物資の量も定まらない。そんなことでは「合戦」はできないし、直接の戦闘ともなれば被害の想定もあることだろう。これは単にどれくらいの被害というだけではなく、どこに被害が出るかという想定でもある。これについて別の言い方をすれば、集団全体が均一にリスキーなのではなく、ハイリターンの者たちがハイリスクなのであり、それは軍勢という当事者の中にさらに真の当事者がいるということである。このことはまた、この戦いが何のための戦いなのかということに関わっている。このように「合戦」という用語は、単に出会って戦うという以上の多様な意味内容を包含しているのであり、その意味するところは一様ではない。
 先の歴史辞典は、「今川義元と織田信長との戦い」と記述した時点で、「戦い」を戦国大名級の意図的組織的戦闘と既定したことになる。後段の「義元は駿河・遠江・三河3か国の大軍を率いて信長の領内尾張にはいり、沓掛から進んで桶狭間に駐軍したところを信長に奇襲されて敗死」は、この「今川義元と織田信長との戦い」に折り込まれているからこそ、『信長公記』などによる記載から取り込めるのである。歴史事典では、個人名Aと個人名Bの戦いという記載の形式に、突出した軍勢の指揮者の存在と、その指揮者の意図による戦闘行為、そしてその指揮者による軍勢の召集という意味が内包されている。そして「1560(永禄3)」によって、戦国期の合戦であるという認識が加わることで、その戦闘集団の発起決定、召集方法と召集対象者、指揮命令系統、戦闘の展開と戦後処理に至るまでが、暗黙の内に「今川義元と織田信長との戦い」という記述に重ね合わされるのである。その点で後段の記述は、国名や地名、進軍経路や戦闘経緯など固有項は別にして、前段の記述に内包されていたことが展開されているだけのものであり、それだからこそ先の①から④の史料に存在しない記述を、歴史辞典に記載できるわけである。
 「戦い」という用語の用法は非常に多彩であり、直接戦闘などではない「嫁と姑の戦い」や、直接戦闘であっても「巌流島の戦い」などのように個人戦闘である場合など、その意味は用語が登場する文脈によって異なる。そして「今川義元と織田信長との戦い」は、「佐々木小次郎と宮本武蔵の戦い」と同じ「戦い」の用法ではないのは明らかであるが、そのような用法の違いを可能にしているのは、「今川義元と織田信長との」に個人名でありながら軍勢の意味を見て取る解釈が加わっているからである。この解釈には、個人名を軍勢の代わりに記述可能とするような組織モデルが適用されているのであり、そのような組織モデルを念頭におかない限り、「佐々木小次郎と宮本武蔵の戦い」と同じ「戦い」の用法になるはずなのである。
 遅塚氏のような理解では、「信長制覇の端緒となった」が事実の解釈で、「1560(永禄3)尾張桶狭間における今川義元と織田信長との戦い」は事実である。そして「義元は駿河・遠江・三河3か国の大軍を率いて信長の領内尾張にはいり、沓掛から進んで桶狭間に駐軍したところを信長に奇襲されて敗死」は、史料の解釈といったところであろうか。しかしすべては言語の内にある以上、言語の外の事実などというものは「錯覚であり誤解」なのである。文脈を離れては、どんな記述も意味を確定出来ないのであり、文脈に先んじて存在する事実などないのである。

(つづく)
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by mizuno_clan | 2013-01-01 19:05 | ☆談義(自由討論)