【寄稿23】「水野忠分の菩提寺・梨渓山心月齊」»»Web会員««

水野忠分の菩提寺・梨渓山心月齊
  愛知県知多郡美浜町大字布土字明山8    Visit :2014-02-02 14:00

                                筆者:水野青鷺

●梨渓山 心月齊(りけいざん しんげつさい)
創建:天文十五年(1546) 常滑の曹洞宗天澤院に属す
開基:盛龍院殿心得全了大居士 天正六戊寅年(1578)十二月八日卒
    布土城主(寄留地)、本貫は緒川城主 水野藤治郎忠分(藤十郎範方)
    徳川家康の生母於大の方の実弟。
開山:大良喜歓大和尚(緒川から招かれた) 元龜二年辛未年(1571)九月廿二日寂
本尊:釋迦如来、脇佛は迦葉・阿難の両尊
Web : http://www.shingetusai.com/

●水野藤治郎忠分(みずのとうじろうただわけ)(みずのとうじろうただちか) 【注釈】

 水野忠分(1537--1578)は、紀伊新宮藩初代当主水野重央(しげなか)の父であり、菩提寺および墓所は「梨渓山心月齊」(*1)である。
 母方の祖父大河内左衛門佐元綱は、三河寺津(現愛知県西尾市寺津町)の城主で、母は華陽院、のちに松平清康の後妻などになる。実名は「於富の方」あるいは「於満の方」など諸説あり。
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【資料1】『新訂 寛政重修諸家譜 第六』㈱続群書類従完成会 1964.12.30発行
[寛政重修諸家譜巻第三百三十五 清和源氏 満政流 水野] (P.85)
忠分(たゞちか)
  初範方(のりかた) 藤次郎 水野右衛門大夫忠政が八男、母は大河内左衛門佐元綱が養女。
 織田右府(信長)に属し、天正六年荒木摂津守村重叛くのとき、右府にしたがひ摂津國有岡城を攻、十二月八日先鋒にすゝみつゐに戦死す。年四十二。法名全了。尾張國知多郡小河の乾坤院に葬る。

[意訳]
水野忠分は、天正6年(1578)、荒木摂津守村重が織田信長に叛き籠城した際、信長に従い摂津國有岡城を攻め、十二月八日(新暦1月中旬頃)、部隊の先頭に立って進むも終に戦死した。享年四十二歳、法名は盛龍院殿心得全了大居士。尾張國知多郡小河の乾坤院に葬る。
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●有岡城の戦い(ありおかじょうのたたかい)
 天正六年(1578)7月-天正七年(1579)10月19日にかけて行われた籠城戦。織田信長に帰属していた有岡城主荒木村重が、突如毛利方に寝返り謀反を起こしたことから、信長軍に攻撃され落城。別称「伊丹城の戦い」とも呼ばれる。

【資料2】『月刊 歴史街道』平成26年6月号 PHP研究所 2014.5.7発行
[特集:荒木村重の謎]工藤章興「懊悩の末の叛旗、そして有岡城脱出がもたらしたもの」
[有岡城脱出、そして…] (P.92)
 月が師走に変わった八日、信長は有岡城総攻撃を命じた。三万の大軍勢による力攻めだ。だが、攻略はならなかったばかりか、万見重元や水野忠分らが討死したので、信長は無理な力攻めは避け、十数城の付城を築いての兵糧攻めに方針を転換する。 (後略) 
 


◆十六世紀知多半島の情勢
 十四世紀の中頃、三河守護の一色氏が知多半島へ進出し、東岸の河和(知多郡美浜町)の実権を握っていたものの、「応仁(応仁・文明)の乱(応仁元年(1467))」の頃になると、一族同士が戦い自滅。この一色氏に代わって知多半島を支配したのが、一色氏の被官(律令制下、上級官庁に直属する下級官吏)であった佐治氏と、田原(田原市)城主の戸田宗光であった。佐治氏は大野(常滑市)・内海(知多郡南知多町)を拠点に知多半島の西海岸の支配権を握り、戸田氏は知多半島最南端の幡頭崎(知多郡南知多町師崎)に陣代を置き、半島東海岸の河和・富貴(知多郡武豊町)に砦を築き領有した。明応九年(1500年)、その子憲光の時には、幡頭明神の社を建立し、その後、河和・富貴の外に布土(ふっと=知多郡美浜町)と陣代のある師崎に砦を築いた。永正六年(1509)、家督を憲光の子政光に譲り、河和城に移り住み、「河和殿」と称し、三河湾の制海権を握った。
 この佐治・戸田両氏を脅かしたのは緒川(知多郡東浦町)の水野氏である。水野氏は、緒川に城を築き刈谷(刈谷市)にも進出していたが、水野信元の代になると織田氏と手を結び、知多半島を破竹の勢いで南進して佐治・戸田氏と戦った。

◆2014-02-02 梨渓山心月齊 東堂様(*2)にインタビュー
 心月齋の古くからの口伝によると、水野信元は河和の戸田氏を攻略するため、布土城を築き、弟の忠分を城主の任に当たらせた。これらの勢いに押された戸田氏は戦いに敗れ、富貴・布土・北方(知多郡美浜町)を失い半島における戸田氏の勢力が衰退した。さらに天文十六年(1547)、田原城主戸田宗光は、岡崎の松平氏から駿河の今川義元のもとへ人質として送られる竹千代(家康)を強奪するという事件を起こしたことで、今川氏に攻め滅ぼされ討死する。この危機的状況を脱するため、知多半島の戸田氏は信元と講和を結び河和を残すことを図る。そこで河和城主戸田孫八郎守光は、信元の娘妙源を妻にめとり婿となって水野氏の一族に連なった。
かくして、知多半島は水野氏の勢力下に入り、布土城の役目は終わったものの、忠分が開基した心月齋は存続されるに至った。

一方、忠分は、天正六年(1578)12月8日、有岡城総攻撃により戦死。この直後、忠分の側近達により、忠分の亡骸は塩漬にされ有岡城から布土の心月齋の墓所まで葬送したと伝えられる。
 東堂様曰く「おそらくこの墓石の下に忠分氏のご遺体が安らかに眠っておられることであろう」とのことでした。

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◆葬送についての考察
 今回の採訪で、有岡城で客死した水野忠分公のご遺体が、遠く離れた知多半島の先端近くまで、丁重に塩漬にされ葬送されたという事実に触れ、果たして亡骸は如何にして運ばれたのか、歴史学の一端として考察してみることにする。(以下敬称略)
①遺体の保存方法
棺桶は、おそらく樽状の棺桶(座棺)であったろうと推定される。塩漬というからには、棺桶に粗塩をギッシリと隙間無く詰め、搬送途中でも粗塩を補足していたと思われる。当時は、一月中旬頃であったことから寒く乾いた季節で、真夏のような劣悪な状況にはなかったと推測される。
因みに、隣国の朝鮮時代は、国法によって身分別に葬礼の期間が決められ、風水思想と関連して朝鮮王室における葬礼では、遺体が埋葬されるまでは腐敗してはならないことになっていたそうである。ところが、五ヶ月という長い葬礼期間中、王・王妃の遺体を良好な状態に保つことは甚だ難しい。従って氷室に貯蔵された氷で囲って腐敗防止に務めたが、
氷が解ける過程で発生する湿気の処理の為、湿気を吸収力する能力に優れた乾燥ワカメを各所に置き除湿剤として大量に使ったと言うことである。(*3)
 現代ならドライアイスが昇華してしまうので何も問題ないが、当時は客死した遺体を腐敗無く遠くまで葬送するには、果たしてどのような処置がなされたのであろうか。
②遺体の葬送方法
 一世紀前頃までは、埋葬方法は現代の火葬ではなく土葬が主流であったことから、先述の樽状の棺桶に棒を通して棺を運んだと考えられる。先ず有岡城から棺桶を担いで運び出し、次には水路か陸路、またはその両方の選択肢が考えられる。
 この葬送方法もまた如何にして行われたのであろうか。
 江戸時代に入ってからは、大名が江戸で死去した場合、江戸の菩提寺の外、国元の菩提寺にも遺骨が埋葬されている事実が確認されている。(e.g. 松本水野藩)

[ルート]
 有岡城(兵庫県伊丹市伊丹1丁目) ⇒ 心月齋(愛知県知多郡美浜町大字布土字明山8)
[google乗換案内]で検索 (「→」=陸路、「〜〜」=水路)
a.陸路
 徒歩(198Km 41時間)
  有岡城 → 吹田 → 守口 → 木須 → 島ヶ原 → 亀山 → 四日市 → 名古屋港 →
  阿久比 → 半田 → 心月齋
b陸路と海路(距離数・所要時間ともに不明)
有岡城 → 吹田 → 守口 → 木須 → 島ヶ原 → 亀山 → 白子〜〜上野間 → 心月齋
c.海路を主とする(距離数・所要時間ともに不明)
有岡城 → 猪名川〜(下る)〜瀬戸内海〜〜堺〜〜岸和田〜〜和歌山〜〜田辺
  〜〜新宮〜〜尾鷲〜〜志摩〜〜鳥羽〜〜師崎〜〜河和 → 心月齋
d.参考までに、現在であれば自動車で
 新名神高速道路 経由(204 km 2 時間41 分)
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[註]
*1=菩提寺および墓所については、寛政重修諸家譜などでは、「乾坤院」と記載されているが、今般の取材により墓所は「梨渓山心月齊」と判明。
*2=東堂(とうどう)とは、禅宗寺院において、退薫(引退)した住職をさす言葉。2008年11月2日の晋山式(しんざんしき=住職交代儀式)で、東堂の子息27世住職と交替。
*3=韓 星姫「朝鮮王陵に込められた知恵と哲学」(『韓国の芸術と文化 』韓国国際交流財団1988)

【注釈】(update 2014.6.30)
1.「水野藤治郎忠分」の称呼については、2014-06-27本文を投稿した直後、本会会員で福山結城水野家ご当主から、下記のようなメッセージを頂戴しましたのでご披露かたがた「忠分公の称呼」に修正を加えます。
 「忠分公は私どもでは、『ただわけ』と申し上げております。兄に忠近(近信)がいることと、長子に分長(わけなが)がいることからと思っております」
2.【資料2】で引用した工藤章興「懊悩の末の叛旗…」の本文には、「みずのただわけ」とルビが打ってあり、こちらでも「ただわけ」説を採っています。(画像参照)
3.上記2点の情報から、称呼を「みずのとうじろうただわけ」とし、【資料1】で引用した[寛政重修諸家譜] に記載の「たゞちか(ただちか)」を別称として併記します。
 この併記については、本ブログ記事が、裴松之に倣い「異同のあるものは全て載せるという方針」で投稿しているこにとよります。

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C-1 >梨渓山 心月齊
http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/850794e5ff361cecc77efa67c815e5c2
C-1 >布土城址
http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/22368de504d937e72b7bd99d0c1d9639
C-1 >村木砦址(水野金吾篇)≪考証≫
http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/5e502834710aa62a0c11bc6e718324dc
C-7 >河和城址/水野屋敷(追補版)
http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/ccc794c046b47627a6fc8e1b33fd0d30
有岡城跡(伊丹市ホームページ)
http://www.city.itami.lg.jp/shokai/sansaku/1397178541099.html
有岡城の戦い(ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E5%B2%A1%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84


☆旅硯青鷺日記
 今回は心月齋様の2回目の採訪となりましたが、東堂様から思いがけず貴重なお話しが伺え、これまで水野忠分の墓所は「乾坤院」だとばかり信じられてきましたが、菩提寺の心月齋様に手厚く葬られていることが判明し感銘致しました。
 東堂様のご許可を得て、当山の墓所に詣でると、掲載の写真のように瑞々しい菊の墓花が一対供えられ、墓石には紛うことなき「盛龍院殿心得全了大居士 天正六戊寅年……」と陰刻されていました。
 この採訪に同道くださり、色々とご支援いただいた学友達に、ここに記し感謝の意を表します。    合掌








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by mizuno_clan | 2014-06-27 21:03 | ★研究ノート

【寄稿18】秋葉山明王寺の鰐口 »»Web会員««

秋葉山明王寺の鰐口

                            筆者:水野青鷺

A.秋葉山明王寺(舞木町明王堂=まいぎちょう みょうおうどう)
 愛知県豊田市舞木町丸根164 Visit :2011‎-04-‎20‎‏‎ 12:01

 本寺は通称、明王堂と呼ばれ無住であり、弘法大師縁日以外の日は開扉されていない。
宗派:曹洞宗 本尊:釈迦牟尼如来
その他由緒などについては未詳。

B.豊田市郷土資料館
愛知県豊田市陣中町1-21 Visit :2011‎-04-‎20‎‏‎ ‏‎13:13
●天正五年(1577) 第二代水野太郎左衛門(範直・則重)(*1)作 鰐口
 [秋葉山明王寺所有、昭和四十五年(1970)、豊田市郷土資料館に寄託]

天正五年(1577) 十月二十九日 清水洞小太郎、三河国猿投社西宮に鰐口を寄進する
  一二四八 銅造鰐口陰刻銘 豊田市 明王堂
三州加茂郡高橋庄(西宮)舞木邑鰐口清水洞小太郎寄進
天正五年十月廿九日 大工水野太郎左衛門(範長)
 
                    (『愛知県史』資料編11 織豊1)

◆鰐口(わにぐち)とは、仏堂や神社社殿の正面軒先に吊り下げられた金属製梵音具(ぼんのんぐ=仏具の中で音の出るものの総称)の一種で、鋳銅や鋳鉄製のものが多い。形状は、鐘鼓(かねとたいこ)を二つ合わせた、鈴を扁平にしたような形をしており、鰐口の上部には、吊すための耳状の吊輪が二個あり、下側半分の縁に沿って細い開口部が設けられている。鼓面は、圏線によって内側から撞座区、内区、外区に区分される。

[寸法]cm
外径 31.4 径面27.0 厚胴8.1 (添付図参照)
 
◆本鰐口の由来
 鰐口に陰刻された銘によると、天正五年(1577) 十月二十九日、清水洞の小太郎が、猿投神社西宮(*2)に、鰐口を寄進したことがわかる。この「清水洞」については、現在の「愛知県豊田市雑敷町清水洞」という地名に比定され、この地を本貫とする小太郎は、猿投神社の氏子中として信仰する西宮に鰐口を奉納したものと推測される。清水洞の小太郎については、どのような身分の者であり、どういった理由から寄進したかについては、この銘のみからは判明しないが、おそらくは同地の有力者であったろうと推察される。また、この銘から、清水洞の小太郎が、第二代水野太郎左衛門(範長・則重)に鰐口を発注し鑄造させたことになるが、当時水野太郎左衛門は、春日井郡上野村(*3)に在住しており、上野村で鋳たものを清水洞か西宮に納入したと考えられる。さらには、陰刻の「西宮」の文字の上から「舞木邑」と改竄されていることから、当初は西宮社殿の正面軒先に吊り下げられていたが、いつの頃か猿投神社の麓にある舞木邑の明王堂に下げ渡されたものであろうことがわかる。四百三十余年もの間、風雨や吹雪の吹き抜ける軒下で、よくぞ耐えて当時の面影を伝えてくれている鰐口に愛おしさを覚える。

[註]
*1=二代目水野太郎左衛門の諱については、『愛知県史』では、「範直」としているが、水野平蔵家(水野分家道握系図)では「則重」と記されている。
*2=猿投山の山麓に猿投神社本社、東峯に東宮、西峯に西宮が鎮座し、古来、猿投三社大明神と称されたていた。
*3=この場所については、現在の「愛知県名古屋市千種区鍋屋上野町」と「愛知県春日井市上野町」の二説がある。


●あとがき
 この明王堂鰐口については、2005年に水野太郎左衛門についての研究を始めてから、豊田市高橋町を中心に色々と調べており、関係博物館や寺社など各所にも問い合わせをしましたが、残念ながらその所在地が判らず終いでありました。
 それから六年経った、つい先日、何のキーワードであったかは覚えておりませんが、ネットサーフィンしておりましたら、「『豊田市郷資料館だより』N0.71 P.3 2010.03」の記事にこの鰐口のことが書かれていることを承知し、「高橋庄」が、不覚にも北は猿投神社までの広範囲に渡っていたことに気付かされました。この鰐口陰刻銘からは、さらには猿投山の東北に位置する愛知県豊田市雑敷町(ざっしきちょう)清水洞の辺りまでもが、高橋庄であったことが分かりました。
 この情報を頼りに、豊田市郷資料館の所定手続きを経て、数日で鰐口の撮影許可が下りました。こうして一昨日同館を採訪し、ようやく念願の鰐口にお目にかかれることが出来ました。
 この採訪では、秋葉山明王寺の近くで、桃の花の手入れをなさっておられた農家の方が、お忙しいのにお手を止めて丁寧に明王堂のことを教えて下さいました。また鰐口の取材では、同館長様並びに学芸員様には、寛大なご配慮をいただきました。ご協力いただきました皆様に、心から深謝申し上げる次第です。


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雑敷町清水洞→猿投神社西宮→秋葉山明王寺



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猿投山


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猿投神社本社




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秋葉山明王寺




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Sanageyama03.jpg‎ (480×360ピクセル、ファイルサイズ:108キロバイト、MIMEタイプ:image/jpeg)
猿投神社西宮(ウィキペディア)
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by mizuno_clan | 2011-04-22 18:41 | ★研究ノート

【寄稿15】「金切裂指物使番」にみえる「水野久右衛門尉」(補遺1)»»Web会員««

◆本稿は、さきに投稿した「金切裂指物使番にみえる水野久右衛門尉」の「補遺1」として、新たな資料に基づき次の項目内容を追補した。――

                                            (文責:水野青鷺)

★水野久右衛門尉 ≪考証≫
1.水野久右衛門尉に関する史料
2.来島長親の経歴
3.玄興院について

■補遺1
『時空を超えて――森藩誕生四〇〇年』甲斐素純・竹野孝一郎著 西日本新聞社 2005.05. P.38に、――
[来島康親]正室は、福島正則の養女「玄興院」。彼女の名は「おちゃう」様といい(「秋山家文書」) 、実は福島正則の妹婿水野久右衛門尉の娘である。なお久右衛門は、初め豊臣秀吉の家臣であったが、妹婿の関係でのち福島家に仕えている。
正則が、一五八七(天正十五)年 東予・中予で十一万石を与えられ、伊予の大名となったころから来島家とも関係を結び、朝鮮出兵では、共に伊予の一員として出兵した。 玄興院は江戸にて死去し、墓は東京都港区の青松寺(曹洞宗)と同町[大分県玖珠郡玖珠町]森の玄興院(供養塔)にある。」


――とある。これによると、福島正則は水野久右衛門尉の義兄であり、久右衛門の娘おちゃうは、正則の養女となるが、正則の姪でもある。また、水野久右衛門尉正室のお鍋は、正則の妹であることが判明した。さらに「一五八七(天正十五)年東予・中予で十一万石を与えられ、[愛媛県]伊予の大名となったころから来島家とも関係を結び」とあることから、この頃、福島家は、新領地東伊予と海峡を挟んで近接する同伊予地方領主久留島家との間で、縁戚による一体関係強化を図るため、正則は姪のおちゃうを一旦養女とし、来島通総の次男で嗣子の康親に福島家から嫁がせたものと推察される。その後、徳川家同様に久留島家もまた外戚水野氏の血筋を継承していくこととなる。

【寄稿12】「金切裂指物使番」にみえる「水野久右衛門尉」»»Web会員««


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by mizuno_clan | 2010-05-08 18:21 | ★研究ノート

【寄稿12】「金切裂指物使番」にみえる「水野久右衛門尉」»»Web会員««

●「金切裂指物使番」にみえる「水野久右衛門尉」
※基礎データ:山鹿素行『武家事紀』上巻 原書房――巻第十四 續集 1982.12
 高柳光壽・松平年一『戦国人名辞典』増訂版 吉川弘文館 1962.12

                                                   (文責:水野青鷺)


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安土桃山通販様から転載許可済(2009.10.30)
豊臣秀吉 総金切裂(本陣旗) 




















★「金切裂指物使番(きんの きりさき さしもの つかいばん)」
 「使番」とは、戦国時代、戦場において伝令や監察、敵軍への使者などを務めた役職であり、「指物(旗指物)」は、
武士が戦場で目印のため、鎧(よろい)の背などにさしたり、従者に持たせたりした小旗や飾り物、背旗のことで、使番
の指物は「金色の切り裂き」、つまり、縁(へり)を適当に切り裂いて、なびきやすくしたものである。

 豊臣家臣「金切裂指物使番」については、『武家事紀』上巻「豊臣家臣」項目の最後部名簿に記載されていることか
ら、豐臣秀吉朱印状に記載された「熊谷半次と水野久右衛門尉」を中心に調べてみる。

『武家事紀』巻十四 續集 山鹿素行著
豊臣秀吉家臣「金切裂指物使番」――
<金切裂指物使番>(計32名)……[ ]内は筆者補閲
蒔田主水正[政勝]、石川兵藏[貞淸]、三上與四郎[季直]、山城宮内[忠久]、左田三六、水原石見守[吉一]、水野又右衛
門尉、熊谷内蔵允[直盛]、屋松治右衛門尉、佐久間河内守[政実]、瀧川豊前守[忠征]、 杉山源兵衛尉、奥村半平、佐
藤駿河守[堅忠]、松平藤助、小田喜四郎、森重蔵[十蔵]、新庄越前守[直定]、大屋彌八、河原長門守、渡邊與一郎、大
田半二、竹中貞右衛門尉、毛利兵吉、西川彌右衛門尉[方盛]、山田久三郎、小川清右衛門尉[長政]、美部四郎三郎[美
濃部四郎三郎]、石田備前守、佐尾左衛門尉、垣見和泉守、伏屋飛騨守。
※「水野又右衛門尉」と翻刻されているが、これは「又」は「久」の見間違いであると推定でき、『戦国人名辞典』でも、
「水野久右衛門 秀吉に仕え金切裂指物使番」とあることから、本稿では「水野又右衛門尉」を「水野久右衛門尉」に
比定する。また、「熊谷内蔵允」は、『戦国人名辞典』から「熊谷直盛」に比定する。

[人物考察]――『戦国人名辞典』増訂版 吉川弘文館
♦蒔田主水正[正勝]=秀吉に仕え金切裂指物使番。聚楽第行幸のとき供奉。
♦石川兵藏[貞淸]=秀吉の金切裂指物使番。小田原評定の後、秀吉から尾張犬山城一万二千石を与えられ、同時に豊臣
直領信濃木曽の代官。
♦三上與四郎[季直]=事典には「与三郎」で、秀吉に仕え金切裂指物使番。また船奉行。文禄元年(1592)九月肥後名護
屋駐屯中に病死。
♦山城宮内少輔[忠久]=秀吉馬廻、金切裂指物使番。文禄四年(1595)正月朝鮮に出張して、毛利元康に在陣の労を犒った。
♦左田三六=秀吉に仕え金切裂指物使番。
♦水原石見守[吉一]=妙楽寺村百石。金切裂指物使番。
♦水野久右衛門=秀吉に仕え金切裂指物使番。
また、『戦国人名事典』阿部猛・西村圭子編 新人物往来社 では「みずのきゅうえもん(のじょう)水野久右衛門(尉
)生没年不詳 豊臣秀吉に仕え、金切裂指物使番の一人。文禄元年(1592)朝鮮派兵に際して肥前名護屋に駐留、同城の
警衛にあたる。」とある。
♦熊谷直盛(くまがや なおもり)=(?~1600) (半次、内蔵允)名は直陳ともしてある。秀吉に仕え金切裂指物使番。文
禄元年(1592)、朝鮮の役に慰問使となって十一月渡鮮(武家事紀)。文禄二年(1593)閏九月、豊臣直領豊後直入郡(なお
りのこおり)三万二千九百八十九石余を支配(駒井日記)、大友吉統の欠所(*1)で其代官を命ぜられたので、被個人の所
領はこの内にあっても僅少だったろう(貝原益軒の朝野雑載に八万石とあるのは誤り)。文禄三年(1594)春、豊後安岐城
一万五千石に就領(豊後旧記・桃山末分限帳)。慶長二年(1597)、二次外征先手目付(*2)となって渡鮮、同十二月、蔚山
城救助に活躍(浅野家文書)。慶長三年(1598)、秀吉の遺物長光の刀を受領。慶長四年(1599)五月、外地目付時代のこと
で、太田一吉等と共に蟄居。慶長五年(1600)、関ヶ原の戦乱時西軍に投じ、兵四百五十人で近江瀬田橋を警固、ついで
諸將と美濃大垣城を守ったが、九月十八日、熊谷直盛は、同志相良長毎と秋月種長等が共謀し寝返ったことから彼等に
斬り殺された。相良等は最初から東軍に志を寄せていたという(真田文書・相良氏歴代参考・水野勝成覚書・譜牒餘録)。
彼は利休門下の茶人(茶人系譜)。 尚太田一吉は、文禄元年朝鮮の役に出動。六万五千石豊後臼杵城主。二次外征先手
目付。
また、『戦国人名事典』阿部猛・西村圭子編 新人物往来社 では、このほか、武勇をもって知られた。文禄二年帰国
して豊後国内の秀吉直領の代官となり三千石を与えられた。
慶長三年帰国し、功により豊後安岐城主となり一万五千石を領した。とある。
♦屋松治右衛門尉=無記載。
♦佐久間河内守[政実]=秀吉に仕え金切裂指物使番。文禄三年(1594)春、伏見城普請奉行の一人。慶長二年(1597)従五
位下河内守に叙任、豊臣の姓を授けられた。
♦瀧川豊前守[忠征]=金切裂指物使番で普請奉行。慶長二年(1597)七百石を加増され二千石。同九月、従五位下豊前守
に叙任。
♦杉山源兵衛尉=秀吉の馬廻か使番。
♦奥村半平=秀吉馬廻、後金切裂指物使番。慶長三年(1597)正月朝鮮蔚山に在陣の浅野行長に書を贈って慰問した。
♦佐藤駿河守[堅忠]=秀吉に仕え金切裂指物使番。従五位下駿河守に叙任。
♦松平藤助=無記載。
♦小田喜四郎=秀吉に仕え金切裂指物使番。
♦森重蔵[十蔵]=事典では[十蔵]。秀吉に仕え金切裂指物使番。
♦新庄越前守[直定]=秀吉に仕え金切裂指物使番。朝鮮の役から帰朝後、伏見城工事分担。当時一万二千石。
   ――[後略]

[文禄・慶長の役に参戦した水野氏]――『戦国人名辞典』増訂版 吉川弘文館
♦水野源左衛門=秀吉馬廻、文禄元年朝鮮の役に肥後名護屋城に駐屯。出自未詳。
♦水野忠重=(1542~1600)文禄元年肥後名護屋城に駐屯。結城水野家遠祖。
♦水野作右衛門=(?~?) 福島家臣、志段味城主。とある。この役に参戦したという記録はないが参考までに記す。


[註]
*1=本字は「闕所」。行方知れずになった者や犯罪者の領地財産を、支配者が没収することで、闕所処分が決まった
領地は、代官などを派遣し管理した。
*2=先手目付(さきてめつけ)は、先陣を受け持ち、主君の意を受けて同僚の非違(違法)を探索・報告する監察官(調
査監督役)。




★水野久右衛門尉 ≪考証≫
1.水野久右衛門尉に関する史料
 『戦国人名辞典』増訂版 高柳光壽・松平年一著 吉川弘文館 には、「水野久右衛門(みずのきゅうえもん) 秀吉に
仕え金切裂指物使番(武家事紀)。」と、短いながらも項目が設けられているが、生没年は未詳。
『戦国人名事典』阿部猛・西村圭子編 新人物往来社では、「みずのきゅうえもん(のじょう)水野久右衛門(尉)生没年
不詳 豊臣秀吉に仕え、金切裂指物使番の一人。文禄元年(1592)朝鮮派兵に際して肥前名護屋に駐留、同城の警衛にあ
たる。」とある。
また、『今治郷土史 資料編 古代・中世 (第二巻)』「久留島家文書」には、「水野久右衛門は、福島正則の養女となり、
後に久留島康親の妻となった玄興院の実父。水野久右衛門は、天正・文禄期は秀吉に仕えているが、慶長六年(1601)に
は福島正則の家臣となった。」と記されている。
しかし、山鹿素行『武家事紀』上巻 武家事紀巻十八 續集「福島正則」項には、家臣として水野久右衛門尉の名は見え
ない。


2.来島長親の経歴
 玄興院の夫・来島長親(のち康親)は、来島通総の次男。天正十年(1582)~ 慶長十七年(1612)。瀬戸内海で村上水軍
の一軍として活躍した来島水軍の後裔であり、伊予国来島(愛媛県今治市)に一万四千石を領した。慶長二年(1597)、父
通総が慶長の役で戦死、家督を継ぐ。慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いでは、西軍に属したことから所領を没収された。
しかし妻が養父福島正則に取り成しを頼み、正則から本多正信を通じて幕府に働きかけたことで、慶長六年(1601)、豊
後森に旧領と同高で森藩成立。二代通春は元和二年(1616)姓を久留島と改めた。


3.玄興院について
 現在も元城下にある「玄興院」(大分県玖珠郡玖珠町大字森580)という寺は、玄興院の国許菩提寺である。当寺に電
話取材したところ、御住持から寺の口伝では「小野忠正」であると聞かれたが、「水野」と「小野」は文字的に間違っ
て伝えられる可能性は高いと考えられる。また玄興院は、森藩の正室として江戸屋敷に居住したことから、没後は青松
寺(東京都港区愛宕2丁目4番7号)に葬られた。
尚、一説(Wikipedia)では、玄興院は「福島正則の弟・高晴の娘」とも、また「正則の姪で水野忠正の娘」とも記
載されているが、その典拠は記載されず不明。
しかし「正則の姪で水野忠正の娘」に注目すると、水野久右衛門尉と福島正則は、共に母が姉妹であった可能性もあ
る。正則の母は、豊臣秀吉の叔母であったことから、水野久右衛門尉の母も豊臣秀吉の伯母または叔母であった可能性
も考えられる。であるならば、玄興院は秀吉の姪ということになる。玄興院についても、今後更なる研究の必要がある。


4.「金切裂指物使番(きんの きりさき さしもの つかいばん)」の「熊半と水久」
 熊谷半次と水野久右衛門尉については、史料の各「家御内書」では、名前の序列が全て「熊谷半次、水野久右衛門尉」
と記されているが、「金切裂指物使番」名簿順では、熊谷内蔵允の前に水野久右衛門尉の名が記されている。
「金切裂指物使番」名簿順の一部の人名については前記の通り概括したが、名簿の二番目の石川兵藏[貞淸]は、尾張犬
山城一万二千石を与えられ、同時に豊臣直領信濃木曽の代官。六番目の水原石見守[吉一]は、妙楽寺村百石。八番目の
熊谷直盛は、一旦は三万二千九百八十九石余を支配するも、後に一万五千石。十一番目の瀧川豊前守[忠征]は二千石。
十八番目の新庄越前守[直定]は、当時一万二千石であり、以降の人物は省略したものの、詳細は記されていない。この
名簿順序は、必ずしも身分に応じて配列されたものではないと推察されることから、熊谷内蔵允の前に水野久右衛門尉
の名が記されていても、水野久右衛門尉が熊谷内蔵允よりも身分が高かったとはいえない。むしろ各家文書の秀吉発給
文書の書札礼や知行から見て、熊谷内蔵允が上役、あるいは同格であったと見るべきであろう。
両人の知行についての記述を、次の二書から抽出すると――
『戦国人名辞典』では、「熊谷直盛は、文禄二年(1593)閏九月、豊臣直領豊後直入郡(なおりのこおり)三万二千九百八
十九石余を支配(駒井日記)、大友吉統の欠所で其代官を命ぜられたので、被個人の所領はこの内にあっても僅少だった
ろう(貝原益軒の朝野雑載に八万石とあるのは誤り)。文禄三年(1594)春、豊後安岐城一万五千石に就領(豊後旧記・桃
山末分限帳)。」とある。
『久留島家文書』では、「水野久右衛門尉は、文禄三年(1594)三月廿一日に秀吉から、兵庫県南部に百石二斗を与えら
れており、僅か七ヶ月後の十月十六日には、兵庫県芦屋市打出で二百五十二石三斗七升の加増を受けており、これを合
わせると、三百五十四石三斗七升となり、さらに十ヶ月後の翌年八月三日は、二百石の加増があり、締めて五百五十四
石三斗七升となった。」
と、あり、文禄三年時点での二人の給知を比較すると、熊谷直盛は一万五千石、水野久右衛門尉は三百五十四石余で、
圧倒的に熊谷直盛の方が上回っており、翌四年の時点でも、五百五十四石余と、格差を縮める程の大きな変動は見られ
ない。しかし、これらの使番の職務を通して二人は懇意になっていったと推察される。

 天下を統一した豊臣秀吉が、32名の使番を2名ずつに組ませ、肥前名護屋から海を隔てた朝鮮にまで、何度も使番
を遣わしていたことに、その時代のコミュニケーションの一部が垣間見えて興味深い。
使番と聞けば、現代では使い走り的な意味合いが強いと思うが、古くは使役(つかいやく)とも称した役職で、「天下人
からの使者」であった訳である。近世の旗本は一万石未満であり、一万石を少しでも上回れば最下級でも大名の列に入
った。このことから、宛所に応じて、熊谷直盛のような万石クラスの使番を遣わしていたことが判る。また、これらの
金切裂指物使番は、奥村半平のように金切裂指物使番として慶長三年(1597)正月、朝鮮蔚山に在陣の浅野行長に書を贈
って慰問(浅野家文書)したり、また朝鮮に渡り、在陣の武将に秀吉の御内書と自らの副状を手渡し、上意を詳しく口上
していた事がわかる。

水野久右衛門尉は、管見では前述のように、文禄二年以前にしか使番として文書に登場しておらず、また同三年、四
年には、両名共に秀吉から領地を安堵されていることから、二人は金切裂指物使番として、文禄二年まで配されていた
と考えられる。慶長四年(1599)五月には、熊谷直盛が太田一吉等と外地目付として渡鮮していることから、この頃には
久右衛門は別の役目を担っていたと思われる。 なぜならば、豊臣秀吉家臣「金切裂指物使番」がいつ頃記されたもの
かは不明であるが、名簿に書かれた「三上與四郎[季直]が、文禄元年(1592)九月肥後名護屋駐屯中に病死。」と『戦国
人名辞典』に記載されていることから、少なくともそれ以前の名簿であろうと推測される。


5.「慶長の役」後の水野久右衛門尉と、熊谷半次との関係
 「熊谷直盛が外地目付時代のことで、太田一吉等と共に蟄居。さらに慶長五年(1600)、関ヶ原の戦乱時西軍に投じ、
兵四百五十人で近江瀬田橋を警固、ついで諸將と美濃大垣城を守ったが、九月十八日、熊谷直盛は、同志相良長毎と秋
月種長等が共謀し寝返ったことから彼等に斬り殺された」との記述が諸家の文書にある。
 一方、『ウィキペディア(Wikipedia)』「熊谷直盛」の項には――
「直盛は慶長2年(1597年)の慶長の役で朝鮮半島に在陣中、秀吉の訃報を知り、兵を撤収する直後、加藤清正や黒
田長政に私極を訴えられ、同4年(1599年)10月に国を除かれる。直盛は石田三成の妹婿にあたるため、その後は密
かに佐和山城に居過ごす。」
とあるが、秀吉は慶長三年八月に死去していることから、この記事に対する信憑性は低く、
また典拠は示されていないものの、他に散見されない資料として、「直盛は石田三成の妹婿」の語句に注目してみたい。
水野久右衛門尉は、加藤清正と親交のある福島正則と密接な関係にあり(後に家臣)、清正・正則が、共に三成と諍いを
起こしたことから、水野久右衛門尉と石田三成の妹婿である熊谷直盛との間に、不慮の亀裂が生じたと推察されること
から、慶長三年以降は行動を共にしなかった可能性は高い。


6.「秀吉没後」の水野久右衛門尉と福島正則
熊谷直盛については、『戦国人名辞典』に詳しいが、度々同道していた水野久右衛門尉については、同辞典等に詳細が
書かれておらず、また現時点では、上述の『久留島家文書』以外には、残念ながら確実な史料は散見されない。
 前述の「水野久右衛門は、福島正則の養女となり、後に久留島康親の妻となった玄興院の実父。水野久右衛門は、天
正・文禄期は秀吉に仕えているが、慶長六年(1601)には福島正則の家臣となった『今治郷土史』。」からは、慶長元(1596)
年から、慶長五年(1600)頃までの約五年間の消息が曖昧であり、さらには「慶長六年(1601)“には”福島正則の家臣と
なった」とあり、これは「遅くとも慶長六年(1601)“には”」と読めることから、慶長五年(1600)以前の可能性もあると
いうことになる。この間、慶長三(1598)年八月に秀吉が没していることから、おそらくは、この時点までは秀吉の家臣
であったろうと考えられる。されば、その後約二、三年間に福島正則の配下に組み入れられたことになる。久右衛門と
正則の関係は、自分の娘を養女に出していることから、何らかの縁戚関係があるか、または以前から親しい間柄にあっ
たとみるべきであろう。両名の主従関係に至る背景を、正則の経歴からたどり仮想してみよう。

 福島正則は、文禄四年(1595)、秀吉から尾張国清洲二十四万石の所領を与えられていたが、武断派である加藤清正、
福島正則などを中心とした武将達は、文禄・慶長の役においても、大きな戦功を立てたが、その功績に見合う重要ポス
トを占めていなかった。それに対し、戦功は少ないが文治派で五奉行の一人として政権中枢で権力を振るっていた石田
三成らとの関係が、急速に険悪となり、慶長四年(1599)、前田利家が死去したことから睨みが利かず、正則は朋友加藤
清正と共に三成を襲撃するなどの事件を起こしたが、徳川家康に慰留され襲撃を翻意した。それを契機に家康の大名と
なる。慶長五年(1600)、会津上杉討伐には六千人を率いて従軍。関ヶ原の戦いでは、宇喜多勢を打ち破り東軍の勝利に
大いに貢献し、安芸広島と備後鞆四十九万八千二百石を得た。
 

 ここで、文禄・慶長の役後の、水野久右衛門尉をめぐる正則、三成、直盛との相関関係について―― 
福島正則と水野久右衛門尉――◎
福島正則と石田三成―――――×
福島正則と熊谷直盛―――――×
石田三成と熊谷直盛―――――◎
石田三成と水野久右衛門尉――-
熊谷直盛と水野久右衛門尉――?
 この関係から見て、水野久右衛門尉は、やはり福島正則を頼り、家臣となったと考えて良さそうである。


7.水野久右衛門尉の出自を究明
 水野氏の中で「水野久右衛門尉」に比定できそうな候補者は複数居る。
拙ブログ、∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」に既投稿の「「愛知県姓氏歴史人物」にみえる水野氏 2/2」に、
次のように書いているので少し長いが引用する――
(7-1)
『大口町史』第3章 近世
 「二ツ屋新田」の項には、「この地は往古は、木曽川の支流であった所で、木曽川の築堤後、沼地となり原野であっ
た所を、元和元年(1615)、今から約三百六十五年前(現392年前)、春日井郡水野村の権右衛門、久右衛門の兄弟が移住
し開拓したところから、二家(二ツ屋)とよんだという。[中略]同所は現在の愛知県丹羽郡大口町二ツ屋にあたり兄弟
を租とする家がある。

(7-2)
『瀬戸市史 通史編 上』の「水野家系譜下書」によると、権右衛門は、水野致勝の三男で初代御林方奉行水野権平正
勝の叔父にあたるが、久右衛門については致勝の子としては系圖にはなく、権右衛門の弟は文右衛門雅勝があり、水野
文右衛門の租である。但し致勝は二男でありながら家督を継いでおり、嫡男が「某 実名相分不申候 久右ヱ門」と記
載されており、権右衛門の伯父に当たる人が久右ヱ門となっている。これらのことから勘案してみると、権右衛門の父
致勝が家督相続し宗家となり、その三男であることから年若ではあるが、権右衛門を兄とし、伯父の久右衛門を弟とし
たものか、または久右衛門は精神遅滞であったことで家督が継げず、更には移住者の長をも甥の権右衛門としたとも仮
想されるが真相は不詳である。大口町史担当部署に問い合わせてみたが、二十数年前の発行で各記事の出典は残念なが
ら不明とのことであった。
 また第1節村の支配の表に、「御供所村 水野与兵衛 二九石五斗」「余野村 水野彦四郎 五〇石」とあるが、両者
ともに権右衛門、久右衛門の兄弟の末裔であろうか。

ここに登場する水野久右衛門は、年代と「春日井郡水野村」の出身であるということから、水野致正の長男ではない
かと考えられる。(7-1)の人物については、元和五年(1619)時点で、水野久右衛門尉の主君福島正則が、広島城の領主
であったことから、元和元年(1615)に、二ツ屋新田となる原野に移住した可能性は極めて低い。
次の(7-2)の人物は、これを投稿当時は、(7-1)と同一人物ではないかとみたが、今年(2009)になり、新たな史料から
「水野三郎左衛門家」の祖である、水野久右衛門と判り、後裔の系譜も入手できたことから、別人と判明した。
だが、(7-2)の人物は、家督を弟の致勝に譲っており、その経緯も不明であることから、年少から福島正則と共に秀吉
に仕えていた可能性は否定できない。
(7-3)
 上述「3.玄興院について」の、「玄興院は「福島正則の弟・高晴の娘」とも、また「正則の姪で水野忠正の娘」(典
拠は記載されず不明)である事と、また玄興院の寺に口伝された「小野忠正」から、水野久右衛門尉の諱は「忠正」で
あった可能性も否定できない。つまり「水野久右衛門尉忠正」となるのかも知れない。
 水野氏史研究会ブログに投稿の「水野氏史研究 分類表」の「A-3>景家系水野氏」の景家の子、右京の進清忠は、川
村南城主で、織田信長に仕えており、その子清忠の子として「右衛門佐忠正」が居る。
詳しくは、「平氏系 桓武平氏水野譜」の「影家」以降に記している。
 この系図との照合から、現時点では「右衛門佐忠正」なる人物が、「水野久右衛門尉」と同一人物では無かろうかと
推定されるが、残念ながら比定される段階までには至っていない。
 尚 末筆になったが、この「水野忠正」については、水野氏史研究会々員で、水野久右衛門尉の共同研究をしている
研究員から、この人物が、水野久右衛門尉に比定されるのではないかと、以前からご提言をいただいており、研究をこ
こまで進めることが出来た。経緯を記して謝意を表したい。
 水野久右衛門尉研究については、不十分な内容ながらも、現状において知り得た史料を編集し、先ずは「叩き台」と
して中間報告するものである。今後は、大方、会員各位のご教示、ご批判をいただき補訂を重ね、更なる研究に努めた
いと考えている。見読いただいている各位からの、様々な情報をお寄せ下さるようお願いする次第である。
                                                      《了》


【寄稿15】「金切裂指物使番」にみえる「水野久右衛門尉」(補遺1)»»Web会員««
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by mizuno_clan | 2009-10-24 15:34 | ★研究ノート

【寄稿11】水野忠分と心月斎 »»Web会員««

水野忠分と心月斎
                                           著者 mori-chan


 去る11月2日(日)、愛知県知多郡美浜町布土にある梨渓山心月斎という、曹洞宗の寺院の晋山式に行ってきた。

<晋山式が執り行われた心月斎>
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 それは、岩滑城主、中山勝時ご子孫のSさんから誘われたからであるが、この心月斎の先代、当代住職はSさんのご親戚である。晋山式とは、新しい住職にかわるお披露目の式のようなものであるが、新しい住職とは、先代住職の息子さんで、副住職をつとめてこられた人である。小生の家も曹洞宗であるが、菩提寺は現住所と遠く離れ、今まであまりこういう行事にでることもなかった。  

 当方、こういう式に参加するのも初めてなら、心月斎のお堂の中に入るのも今回が初めてである。もちろん、心月斎という寺については、知多に来てから知っているし、何度か来たことがある。この心月斎は、「花の寺」というだけに、季節の草花がいろいろ咲いている。お堂の前の鐘楼の東側に階段があって、裏山のような場所に上ることができる。そこは、公園のようになっていて、階段を上がったところに、蓮池があって、ぐるりとまわってあるくときに、いろいろな石造物や草花を見ることが出来る。以前来たときは、その裏山の植物がいろいろ植えられている公園のような場所を散策したりしたが、蓮池でハグロトンボを見かけて写真を撮った。

<ハグロトンボ>
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 この心月斎は、天文15年(1546)に、緒川水野氏一族の水野忠分が開基となって創建された。開山は、緒川から招かれたという大良喜歓大和尚。戦国時代、緒川水野氏は知多半島を制圧すべく、一族を知多半島の要所に配置したが、河和の戸田氏に対する備えとして、この布土に水野忠分を領主として配置したようである。 水野忠分は、水野忠政の六男、あるいは七男という。名前は「ただちか」と読むが、「ただわけ」と書いている本もある。水野忠分は、水野忠政の第何子か不明なのは、水野近守を忠政の子とするかどうか、説が分かれるためである。

 水野近守が拠ったとされる、刈谷古城は、文明8年(1476)頃には築かれたらしい。通説では、緒川水野氏の祖である水野貞守が刈谷に進出したことになっており、その貞守は長享元年(1487)になくなっている。万里集九が書いた『梅花無尽蔵』という詩文集にも、文明17年(1485)9月の記事として「出二刈谷城一三里余」とあり、水野貞守存命中に水野氏が刈谷に城を構えていたことが知られる。その刈谷古城の築城が文明8年(1476)頃という訳は、三河守護細川氏と前守護一色氏の戦いが、その当時あり、そのころ水野氏は一色氏について知多半島から刈谷に進出したというのである。


 その水野近守は、連歌を嗜んだ風流人であったようで、連歌師の柴屋軒宗長と親交があり、永正17年(1520)、宗長の師宗祇の句集「老葉」に注釈を加えた「老葉註」を与えられている。さらに、「宗長手記」から水野近守は「藤九郎」という通称であることや、大永2年(1522)の時点で和泉守の官途名を名乗っていたことが分かっている。

 一方、その当時、水野忠政自身は、緒川にいたはずで、天文2年(1533)に今の亀城公園のところに刈谷城を築いた後、刈谷に移ったという。水野近守が拠った刈谷古城の南400mほど行った場所に、楞厳寺(りょうごんじ)という曹洞宗の寺がある。これは水野忠政が刈谷城を築き、刈谷に移住した際、この寺に帰信し、水野家の菩提寺になった。その楞厳寺に、水野忠政が残した享禄元年(1528)の年月の入った文書があるが、署名は妙茂となっている。

水野右衛門大夫妙茂寄進状

為月江道光毎日霊供□・・・□ 江末代
 渡申田之事
 合弐貫六百文目此内
  壱貫文目坪上松御会下之前次郎四郎散田之内
  壱貫六百文目坪江口御会下之前治郎五郎散田之内
  此田石米弐石六斗ニ延米在之
右於下地者子々孫々違乱煩不可
申上候、為其居印判所末代渡
進上如件
  享禄元年戊子拾二月廿六日 右衛門大夫 妙茂(花押・朱印)
楞厳寺 
   永諗東堂様




<楞厳寺本堂>
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 水野近守は忠政の文書が発給される前に、大永5年(1525)に楞厳寺に土地の寄進状を出しているが、その文書の体裁と、3年後忠政が出した文書の体裁が同じであり、花押の上に朱印を押し、その印判が瓜二つである。ということは、水野近守は水野氏一族ではあるが、水野忠政の子ではなく、刈谷における水野氏統治の前任者というような人物であった。大永5年(1525)から享禄元年(1528)の間で、刈谷の統治権力が、水野近守から水野妙茂(忠政)に移ったとみることができる。さらに、水野忠政は、築城後は本拠地を緒川から刈谷に移しており、徳川家康生母於大は刈谷城から岡崎の松平広忠に嫁している。

 その水野忠政は、天文12年(1543)に刈谷でなくなっている。跡を継いだ水野信元は、今川との関係を断ち、織田方の旗幟を鮮明として、織田の勢力をバックにして知多半島を南進していった。それは、天文12年(1543)で、早くも阿久比町宮津の宮津城にいた新海淳尚を下し、その出城で榊原主殿が守る岩滑城を落とすと、中山勝時を城主としたのに始まり、時宗の僧といわれる榎本了圓がまもる成岩城を落とし、そのあとに梶川五左衛門を入れて城将とした。

 また、さらに南の現在の武豊町にあった長尾城を攻め、城主岩田安弘をくだしている。岩田氏は、『知多郡史』によれば、室町時代初期、枳豆志庄は醍醐三宝院領となり、岩田氏がその管理者となったといい、醍醐三宝院に関連した武士であって、その三宝院領の管理のために京から下り、やがて土着して三宝院領を押領したとも考えられる。また室町時代になると、大野庄に入った一色氏が勢力をふるうと、対抗上岩田氏も武雄神社の南、金下(かなげ)の地に城を築いた。さらに、富貴にある富貴城も戸田法雲が築城したようにいわれているが、もともと岩田氏が長尾城の支城として活用していた。戸田法雲は、その岩田氏が衰退したために、富貴に進出、城を改修したものである。

 もともと水野氏は、知多半島の要衝をおさえるべく、常滑、大高に一族を配していた。常滑水野氏しかり、大高水野氏しかりである。たとえば、常滑水野氏は緒川水野氏出身の水野忠綱を初代として、歴代当主が監物を名乗る家であったが、もともとは、大野や内海に勢力を張った佐治氏との対抗上配されたのであるが、伊勢との交易のために常滑に港を開き、経済力をつけていった。また、和歌などの風流をたしなみ、織田信長や徳川家康とも書状のやり取りを行う立場にあった。

 知多半島の要衝に一族を配していった水野氏であるが、水野忠分もまたその一人といえるであろう。この水野忠分については、天文6年(1537年)生まれで、天正6年12月8日(1579年1月14日)に織田信長の有岡城攻めに従軍して討死にしたこと以外、明確な事績が伝わっていない。しかし、さまざまな歴史的文書や『信長公記』の記述から、以下のことが分かっている。また、於大の方の弟であるから、徳川家康にとっては叔父にあたる。

(1)名前 :

通称は、藤二郎(藤次郎、藤治郎ともかく)、あるいは藤十郎。 忠分は「ただちか」と読む。法名は、盛龍院殿心得全了大居士。

(2)本貫地 :

 終生、緒川であった(刈谷を本貫とした信元とは違う)。

(3)家族関係 :

 忠政の子、信元の弟(六男、七男、八男の諸説あり)。妻は大野の佐治為貞の娘。子としては後に緒川高藪城主となった分長や心月斎第三世寛秀和尚がいる。

(4)居城: 

 布土城(愛知県知多郡美浜町大字布土字明山)

  参考:「∞ヘロン『水野氏ルーツ採訪記』」ここをクリックしてください 縄張図等あり

(5)武功:

 天文23年(1554年)の村木砦攻めを織田信長とともに行ったらしい。天正6年12月(1579年1月)有岡城攻めで先鋒。討死。



<心月斎本堂>
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 また、水野氏の勢力下には、曹洞宗の水野氏系の寺院を建立していったのであるが、この心月斎もその一つといえるだろう。たとえば、水野氏の本拠、緒川には水野忠政の墓のある乾坤院がある。その緒川の北の村木にも曹洞宗の寺院が、なくなった臨江寺も含めて五つもあった。常滑には常滑水野氏が創建した天澤院、大高には大高水野氏が開いた春江院があった。そういう寺院は、民衆の信仰の場であるとともに、同じ曹洞宗を信じる水野氏と、精神的に結合し、その統治を隅々までいきわたらせるためのものでもあった。

 河和の戸田氏が水野氏の勢いに屈して、水野信元との和議によって河和を残すことを図って、水野氏の姻戚、一族に収まると、布土の戦略的な価値はなくなったといえよう。布土に城を構えた水野忠分がなくなったあと、跡継ぎの分長は水野忠重に従ったが、小牧長久手の合戦など数々の武功をあげ、慶長6年(1601)緒川一万石、高藪城の城主となった。




 しかし、心月斎は徳川家康のいとこにあたる寛秀全廓和尚の代以降も、連綿として存続し、地域の大寺として今日に至っている。




<心月斎の山門>
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参考文献:

『戦国歴史年表』 木原克之編 美浜町教育委員会 (2002)

『刈谷市史』 刈谷市 (1989)
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by mizuno_clan | 2008-12-14 10:15 | ★研究ノート

【寄稿9】 桶狭間合戦についての一考察 »»Web会員««

桶狭間合戦についての一考察
                                               筆者:助八郎

 桶狭間合戦の信長の乾坤一擲の挑戦に関して、表面的には「血湧き肉躍る男気のガチンコ対決」と高校生時代までは思っていましたが、大人になるにつれて大人の世界、特に政治の世界は、恐ろしいほど綿密に組み合わされた駆け引きがパズルのように組み合わされ、それがケースバイケースによって姿形を変化修正しながら、己が利益に結びついていく綱引きであった事が分かってくると、初めて戦国史を描いた歴史小説は「薄いのだ」という事に気が付きました。
 個人的には、我が美濃加茂市の戦国武将佐藤紀伊守忠能にも謎を感じているのですが、同様に水野信元にも謎を感じていました。横山光輝の『徳川家康』には、生来酷薄に描かれていましたが、実はしたたかな政治家であったと考えていました。これについては、ブログ「∞ヘロン『水野氏ルーツ採訪記』」のサイトに辿り着いてから確信しています。

 織田・今川の経済戦争は、現代のアメリカを見ていれば人間は何も変わっていないと思ってしまいます。――政治は経済を生み出し、生み出した経済に縛られ、時には経済を守るために他国を踏みにじるものである。――
 尾張流通経済が日本全国で商売が出来るように、「尾張経団連」(熱田商工会連合会主管)の推薦を受けた若き織田三郎(信長)が、「今川社会主義的統制経済」の拡大を阻止するという経済戦争のシナリオが「遠州と尾州の商人」によって描かれていたのは言うまでもありません。
この経済戦争のシナリオは現代史からみても古いものではないと思います。だから信長の軍事
的作戦が、サミット開催国である水野信元領近隣で行われたのだと思います。水野は元々自国経済保護のために織田の力を利用して今川社会主義勢力を駆逐したかったが故に、今川軍団を「はめた」のだと思います。
そして義元側近は水野経済と織田経済の乾坤一擲の牙に偶然倒れてしまった。――ゴルバチョフが西側経済に丸め込まれてしまったように。――
 実際の戦いの現場では二万数千の軍兵を各陣地に駐屯させ、手勢を分散していた義元は、千数百の旗本とその雑兵だけに守られていたのではないでしょうか。
しかも「信長は戦わずして降参するかもしれない」などというデマが、様々なルートから入っていたかもしれません。そこで義元自身は油断はしないだろうが、取り巻きの近臣が油断していたのかもしれません。

 目の前で水野信元が氷上陣地を退き、その監視役であり熱田神宮の手先でもあった千秋四郎が、責任をとって信長の目の前で白兵戦を「演じ」自決した訳は、水野の裏切り行為への加担はしていない事を証明したつもりであった。しかし信長は水野が二重スパイである事を理解していたことから、千秋は「無駄死にだ」と感じていた事と思います。
今川も、信長が家臣の手前「今川に屈するところを見せられない」と打診されていたことから、義元は千秋の突撃を切っ掛けとした「全軍を信長本陣に突入する采配」をしていない。そして信長本陣はおけはざま山の至近距離までスルスルと近づいていきます。なにも知らされていない近臣は諫めるが、信長は関係なくおけはざま山の麓までたどり着くと軍を止めた。敵陣にむき出しの状態でいることは近臣達を恐怖させていた事だと推測するが、当の信長自身は「義元はやはり油断している」と確認した故の行為であった。また村人が義元本陣に貢物を持ち込んで歓待していることも「制圧に時間をかけなくても済んだ」と義元を油断させる要因となった。
 氷上陣地を離脱した水野は「義元に対して敵対しないという意思表示」をしたと同時に、対する
信長には「背後から義元本陣を襲う準備を開始しました」という合図になっていたのだろうと思います。
水野が義元の退路を断つ陣立てを完了するであろう時刻に、信長はおけはざま山を駆け上がり義元本陣に突入した。
水野は「義元が逃れてきたところを襲って手柄にするパターン」と同時に、「義元を救い各陣地に散らばる今川勢を糾合して織田と敵対する」という離れ業を準備していただろう事は想像に難くない。
結果的に信長自身が義元を討ち取ってしまったので、水野は効果的な結果を出す事無く帰城したが、完全に織田方のスパイであったと判断された水野信元の弟信近は、鳴海城から撤退途上の岡部元信に「お前スパイをやったのか、道理でさまざまな情報が入ると思ってた、武士として腹を切らすことまかりならぬ」と攻め立てられたが、信元は松平と織田の仲介策を弄して四苦八苦している最中なので、松平元康の去就が定まっていない状態で、実弟信近に援軍を送るわけにはいかなかった。

 以上が私の推測です。何の史料も持たず皆様の研究の成果に妄想を展開してしまいました。

                                                     《了》
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by mizuno_clan | 2008-07-18 07:16 | ★研究ノート

【寄稿8】大脇曹源寺と周辺の水野氏勢力  »»Web会員««

大脇曹源寺と周辺の水野氏勢力 
                                              著者 mori-chan
 

 用事で土曜日に関東に帰り、翌日曜日に愛知に戻ってくると、武豊線の車窓から見える光景は相変わらずであるが、よくみると田んぼのなかに、小さな白いものが動いている。
白鷺である。

白鷺といえば、高田浩吉の白鷺三味線を思い出し、最近の流行についていけない小生は、いささか年取ったのであろうか。それはともかくとして、田んぼのなかには、白鷺以外にも雉もいる。雉のほうは、体が黒いのであまり目立たないが、白鷺は緑のなかに白なので、よく目だつ。しかし、目立とうが目立つまいが、白鷺は田の虫かタニシか何かを捕食しているだけだ。

<半田市内を流れる川にも白鷺が>
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白鷺を食べるような動物がいれば、目立つのは困るだろう。幸いそういう食物連鎖はないので、目立っても問題ない。

桶狭間合戦前の緒川・刈谷水野氏は、おそらく目立つまいとして必死だったのかもしれない。目立つ行動をとれば、今川氏の大軍の前に風前の灯になっていたであろう。そうならないために、水野氏は織田方でありながら今川氏にも密かに通じ、今川義元から書状まで貰っているのは前回述べた通りである。

その水野氏は、もともと愛知県瀬戸市あたりにいて、貞守といわれる人物の頃に、小川(緒川)の古城を拠点に、一円を支配するに至った。それは南朝について守護土岐氏に攻められて滅んだ小河氏の末裔で、故地に戻ったというが、実際は小河氏滅亡後に、その領地であった緒川の地に入り込んだもので、元々いた小河氏とは別系統であると思われる。当然、小河氏と同じ系統とすれば、中世の権威の考え方からは支配に都合がよかったので、そう名乗りはしたが、源氏である小河氏と別系統であることは、江戸時代の尾張藩などの識者の知るところで、彼らは水野氏の藤原姓の系図の存在を知っていた。実際、水野氏では、通称藤四郎、藤九郎などを名乗っている者が目立つ。源氏であれば、源四郎とかを名乗ったであろう。

<緒川城跡>
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水野氏が知多半島に来たころの事跡は、以下の通りである。

延文5年 (1360) 小河正房、土岐氏に滅ぼされる
室町前期 (1350頃) 緒川の高薮城を竹内直道が築城し、以降竹内氏が治めるも、5代直玄は水野氏の臣下となる。
文明7年 (1475) 初代緒川城主水野貞守、乾坤院を創建する。
延徳3年(1491)水野為妙、万里集九より「養月斎」の号を贈られる。
明応8年(1499)歌人飛鳥井雅康、緒川城主水野為則(貞守の嫡男という)を訪ね、祝い歌「緒川」を詠む。
永正6年(1509)緒川城主水野為則没する。法名は前野州太守一初全妙禅定門。
大永2年(1522)連歌師柴屋軒宗長、刈谷水野和泉守(近守、大高城主水野大膳の父か)宿所で連歌を興行

<水野氏ゆかりの乾坤院>
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 『寛政重修諸家譜』の水野貞守の説明では、「正房七代の蔵人貞守の代になって、旧臣牛田某と再興を図り、永見某、中山某、久松某等と君臣の義を結び、小河の旧塁修復し、三河国の刈谷、熊村、大日、大高、常滑の諸士を配下に治め、やがて刈谷に城を築いて移る」とある。

しかし、実際は瀬戸から来た水野氏が在地諸豪族を配下に取り込み、知多半島緒川周辺から刈谷へ勢力を伸ばしていったわけである。

桶狭間には、後に岩滑城主となった中山氏がいたが、中山重時が重原城で戦死し、その子の勝時は桶狭間合戦の頃には岩滑に入っていた。また今の大府市横根の横根城にいた梶川五左衛門も成岩城に移ったというから、桶狭間合戦のころは、桶狭間近辺の水野氏配下の武将たちはどこかに行っていた。

<刈谷古城>
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桶狭間合戦の当時、既に水野氏も緒川から刈谷へ拠点を移していた。周辺の武将たちも岩滑、成岩など拠点をかえていた。その間隙をついて、今川義元は西三河から知多半島緒川の北の村木(尾張森岡)にまで進出し、さらには寺本(知多市)の花井氏を傘下におさめるなど、織田方であった地域もドミノ倒しのように今川方にかえていった。それで、本来水野氏という織田方の勢力圏であった筈の桶狭間に今川義元の休憩のための陣地も作ることができたわけである。
水野氏が、桶狭間合戦で前面に出てこない所以もまた、そのあたりにあり、知多半島の制圧に熱心なあまり有力な配下の武将を分散させてしまい、その隙を今川に取られ、緒川・刈谷の本拠地を守るのに汲々としてとても織田方として参戦することはできなかったのであろう。

<曹源寺の山門(拡大)>
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しかし、桶狭間に近い地域にいた水野氏の勢力が、完全に拠点をかえていたかといえば、大脇城にいた梶川氏については別であろう。大脇は戦国時代には存在した集落であり、曹洞宗の古刹、曹源寺がある。この梶川氏は、水野氏の重臣であるが、別格のような待遇をされていたようである。公に平氏の出を名乗り、一般的には梶川五左衛門という戦国期の武将が有名である。

その梶川五左衛門は、天文12年(1543)に榎本了圓が守る成岩城を水野信元が落とした後、その城代として横根城から移されたというが、実名は文勝とされていた。年代的には同一人と思われるが、梶川五左衛門秀盛という人物がいる。「尾張志」「張州府志」によれば水野下野守信元の家人であり、「張州府志」ではさらに大脇、横根両城の城主であるとしている。

この人の文献での登場で、同時代のものといえば、天正11年(1583)に大府の延命寺に寺領を寄進したというのがあり、その際の実名が秀盛である。

梶川秀盛の父は梶川平九郎といい、実名は分からないが、法名は宗玄という。桶狭間合戦の際に、中島砦を守った梶川一秀と梶川秀盛は同姓であるが、小生別系と思っていた。以前、「中島砦をまもった梶川一秀は平氏の出で、織田信長の家臣である。出身も尾張国丹羽郡楽田といわれ、今の大府市横根に城を構え、水野信元の成岩城攻略後に成岩城主となった梶川五左衛門秀盛など、水野氏重臣の梶川氏とは関係ないかもしれない」と書いていた通りである。

しかし、二人は兄弟のようで、梶川平九郎の長男が梶川高秀、次男が一秀、三男が秀盛だそうだ。兄二人は織田信長に仕え、高秀の子高盛も含め数々の功名をあげていったが、三男五左衛門秀盛は地元の家を守る立場であったのかもしれない。

また梶川平九郎の法名「宗玄」から曹源寺の名前がついた(あるいは改名した)という可能性もあることから、戦国時代には大脇にいたのではないだろうか。長男高秀の名乗りは平左衛門尉で、やはり「平」の字がつく。この人は、永禄11年(1568)に70歳でなくなったとされているので、明応7年(1498)頃の生まれになる。その父となれば、25歳のときに長男誕生とすれば、文明5年(1473)頃の生まれになる。もし、梶川平九郎が曹源寺の開創の前年になくなっていたならば、31歳のときとなり、一応矛盾はない。

<曹源寺>
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梶川氏が平氏かどうかは不明で、紀姓の梶川氏というのもあるようだ。その出身は「知多郡梶村」とあるが、甚目寺町今宿梶村らしいので、「知多郡」ではないだろう。その一族は、水野氏の重臣でありながら、一部は織田信長の家臣にもなったのかもしれない。

そのルーツや系譜はさだかではないが、梶川氏は水野氏の重臣であったことは間違いない。その拠点は戦国時代から大脇に元々あり、やがて水野氏の知多半島制圧の動きに応じて、横根へ、さらに成岩へと移っていった。しかし、大脇には長く一族が住んでいたらしく、桶狭間合戦時も含めて拠点としていたらしい。

実際大脇には、地元の住民から「梶川五左衛門の屋敷跡」と呼ばれてきた大脇城跡があり、伊勢湾岸道路の建設に伴う発掘調査では、約60m四方の方形居館跡が検出され、「天正四年」(1576年)と年がかかれた大御堂寺の護摩札などの遺物が出土している。

その大脇城跡と大脇に永正2年(1505)西明寺三世実田以転和尚によって創建されたという曹源寺の旧在地は比較的近く、曹源寺は城の西北250mほどにあった。以下の図で赤く丸で囲ったのが曹源寺の現在地で、地図の2が江戸時代前期承応3年(1654)の火事で移る前の曹源寺の旧在地である。この位置関係をみても、曹源寺の開創に、梶川氏が関わっているか、梶
川氏のために建てられたのではないかと考えるのは別段おかしくない。そうなると、曹源寺という寺の名前も、梶川平九郎の法名「宗玄」の字を変えたものとも思えるのである。

<大脇城跡と曹源寺の旧在地>
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(『大脇城遺跡』 1999  愛知県埋蔵文化財センター より)

ちなみに、曹源寺には、享保2年(1717)に桶狭間の梶野清右衛門が寄進した立派な山門があるが、曹源寺は桶狭間の梶野氏一族の菩提寺である。宗派の関係もあるが、桶狭間にある長福寺が創建されたのが天文7年(1539)であるため、戦国期以前から当所にいた古い住民は曹源寺の檀家になっていたのであろう。

<曹源寺の山門>
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曹源寺の二世住職は快翁龍喜禅師である。快翁龍喜禅師は、後に岩滑城主となった中山氏の出身で、水野忠政の家臣中山又助の次男であったという。また、曹源寺は曹洞宗であり、二世の快翁龍喜和尚は水野氏の菩提寺である乾坤院で芝岡和尚について得度している。

つまり、曹源寺は水野氏の影響を多分に受けた寺であり、元来その地域はそういう土地であったわけである。

ところが、今川義元の発給文書で、丹羽隼人正に宛てたものであるが、以下のようなものが残っている。

「沓掛 高大根 部田村之事

右 去六月福谷外在城以来 別令馳走之間 令還付之畢 前々売地等之事 今度一変之上者 只今不及其沙汰 可令所務之 并近藤右京亮相拘名職 自然彼者雖属味方 為本地之条 令散田一円可収務之 横根大脇之事 是又数年令知行之上者 領掌不可有相違 弥可抽奉公者也 

仍如件

天文十九

 十二月朔日        治部大輔(花押)

                              丹羽隼人佐殿」


 西三河を制圧した今川義元は、天文19年(1550)頃になると、尾張にも勢力を及ぼし、このような安堵状を発給するようになった。この丹羽氏は一色氏系で、尾張国丹羽庄から起こる在地領主であり、本郷城主であったものが移動して、4代続けて岩崎城主として戦国時代を生きた一族である。この丹羽氏は、同姓の丹羽長秀とは別系統である。その岩崎丹羽氏の丹羽氏勝は、最初、織田信長の叔父守山城主信次に仕え、守山籠城の後は織田信長にも仕えるが、後に佐久間信盛らとともに追放され、徳川家康に仕えている。織田氏に近い在地領主も、一時は今川義元についていたわけで、有為転変は世の習いといわんばかりである。

なお、文中で味方に属するといわれている近藤右京亮とは、沓掛城主近藤景春のことである。近藤氏もまた、松平広忠に従っていたが、織田方が勢力を伸ばすとこれに組していたが、また鳴海城の山口教継によって今川方に転じた、戦国時代にはありがちであった二股膏薬的な生き方をしていた。

丹羽氏が横根、大脇の知行を安堵されていた頃、梶川氏はどうしていたのだろうか。大脇城をでて、ひたすら知多半島に水野氏勢力を拡大するために、戦っていたのだろうか。そんなことはあるまい。大脇城は、その後も梶川氏が継続して維持したようである。前述のように、大脇城跡からは、「天正四年」(1576年)と書かれた大御堂寺の護摩札が出土している。天正4年といえば、水野信元が織田信長に誅された翌年であり、その当時梶川五左衛門は水野氏を離れ佐久間氏に従った。さらに織田信雄に仕え、小牧長久手合戦後は岐阜城主であった池田輝政に仕えたらしい。

<野間の大御堂寺>
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天正11年(1583)には梶川五左衛門は大府の延命寺に寺領を寄進したが、その発給文書が残っている。

「延命寺領為 寄進合田畠拾九貫四百七十八文目此内田方拾四貫五百七十文目畠方四貫九百八文目 並山壱ヶ所寺之後 不可有相違者也 田畠坪付之儀別紙在之候

仍如件

      梶川五左衛門尉

天正十一癸未九月七日  秀盛(花押)

延命寺

 御坊中」


 この文書が出された頃、梶川氏は大府の延命寺周辺を統治していたことがわかる。つまり、天文19年(1550)頃から10年くらいはその領地を今川氏に蹂躙されたかもしれないが、このころには梶川氏は延命寺に寺領を寄進するまでになっていた。

少し、話が回り道をしたが、桶狭間合戦当時、水野信元らがおとなしくしていた背景には上述したような大脇など水野氏勢力圏の情勢があった。

(参考文献)

『豊明市史 資料編補2 桶狭間の戦い』  2002 豊明市

『大脇城遺跡』 1999  愛知県埋蔵文化財センター 

                                                   《了》
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by mizuno_clan | 2008-07-05 10:48 | ★研究ノート

【寄稿7】桶狭間の戦いと同盟関係の一考察 »»Web会員««

桶狭間の戦いと同盟関係の一考察
                                                筆者:水野青鷺

 「桶狭間の戦いと水野氏の関係」については、foxbladさん、mori-chanさんから共に鋭利な論考が寄せられており、特に「水野十郎左衛門とは誰なのか」という推考は、両者ともに史料に基づいた考察であることから、大変に興味深く拝読させていただいた。
後の十郎左右衛門「水野元茂」の実父は「水野信近」であり、養父は「水野信元」であることから、「元茂の父」は二人存在したのである。従ってfoxbladさん、mori-chanさんが「元茂の父」をどちらの父としているかによって、二者選択の余地が生まれる。今後もこの「水野十郎左衛門とは誰なのか」については引き続き考察される事を願っている。
 また「水野氏」が一般に言われているように「織田方」に与したのか、今川方に与したのかが論じられているが、日本の戦国時代と近似した中世ヨーロッパの諸事情と比較してみる事にする。
 今学期から愛知学院大学で、小林隆夫教授「国際関係史概説」を聴講しており、この講義で、国際関係とは、従前は国家間関係を国際関係といったが、現在は独立した諸国家の織りなす関係の総称であるとし、国家が基本単位であり、このヨーロッパ国際関係が現代国際関係の母体となっていると教示された。
また「中世的ヨーロッパ秩序」では、「無数の領主の間に権力が分散」しており常に領主間の争いがあった。その理由として「領主が一日で往復できる範囲を領土」としており、領主が領民を護るために、城を築き堀を廻らせていた。つまり城が領主権力の基盤であり、「領主同士も相互に同盟を結び安全保障の道具」としていた。これら領主間において上級領主(主君)と下級領主(家臣)に分かれ、下級領主は上級領主に領土を寄進し、上級領主は一旦受納した後下級領主に下げ渡し、内政干渉は行われず、戦争の際には下級領主は上級領主に荷担した。さらに下級領主はこの上級領主以外にも複数の同盟を結んでおり、5~20数カ国との同盟があったといわれている。つまり上級領主は複数の下級領主と、また下級領主は複数の上級領主と同盟関係締結していたのである。
  これらの状況は日本の戦国時代の領主間にも当てはまるのではないだろうか。北西部を織田氏、北部を斉藤氏、北東部を武田氏、東部を今川氏に挟まれた「水野氏」は、中世ヨーロッパの領主のように、それぞれの領主と対等な同盟関係を結んでいたのではなかったろうか。領主間の争いの際には、何れに与するか、あるいは静観するかはその一国の領主の判断によるものであり、他の何れの同盟国からも戦争荷担を強要される事はなかったものと考えられる。
 従って桶狭間における水野氏の動向は所謂「日和見」と観られる状況にあったが、水野氏にとって、諸国との同盟関係こそが自国の安全保障の道具であったのである。
                                                      《了》
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by mizuno_clan | 2008-05-11 17:17 | ★研究ノート

【寄稿6】桶狭間合戦当時と事後の水野氏の動向  »»Web会員««

桶狭間合戦当時と事後の水野氏の動向
                                           著者 mori-chan

 小生尾張徳川家に多少縁があり、以前から徳川家康の事績についてあれこれ調べてきた。もとより、専門家ではないので、足のむくまま、気の向くまま、まさに下手の横好きである。自分が開設しているブログ「夜霧の古城」においては、「徳川家康と知多半島」というシリーズで、桶狭間合戦において、尾張攻略をめざす今川義元が大軍を率いてきたのが、逆に織田信長によって討たれ、今川方の先鋒であった松平元康、後の徳川家康が合戦の前に兵糧を運び入れると同時に大高城に入ったものの、今川軍の敗戦の報に接して、大高城を脱出、岡崎城に戻って今川氏の支配から脱しようとするところまで述べてきた。

 さる2008年4月29日、豊明市の曹源寺(愛知県豊明市栄町内山45)にて郷土史研究家梶野渡氏の講演があることを、尾張中山氏御子孫のS氏から聞き、さっそく行ってきたのであるが、いかにして2千の兵力の織田勢は10倍もの大軍を擁する今川勢を破ったか、その軍勢の構成や織田信長の実家である織田弾正忠家と一族の関連、織田信長の軍人の育て方、大高を目指す今川本陣の動きをキャッチした情報戦、曹源寺住職であった快翁龍喜和尚と中山氏、桶狭間合戦との関わりなど、分かりやすく興味深い話が多かった。寺の本堂いっぱいにあふれた聴衆は2百名を大きく越え、3百名くらいはいたようで、280部用意した資料がまったく残らなかったらしい。

<曹源寺>
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 その講演後、S氏一行と梶野渡氏、曹源寺和尚と庫裏の座敷で少し雑談をした。ちなみに曹源寺自体は大脇村がもともと知多郡であったため、知多八十八ヶ所の一番札所になっているが、今の曹洞宗の地区分けでは名古屋とその周辺の地区に属し、曹源寺和尚はブロック長であるとのこと、道理で大勢を前にした話の仕方もうまいと思ったが、それはともかく。やはり桶狭間合戦での水野氏の動きがどうにも分からない、単に合戦が終わるのを水野氏は待っていたようにも思われるし、岡部元信が桶狭間合戦後籠城していた鳴海城から引き上げる途中に刈谷城を襲撃して水野信近を討っているが、なぜ籠城で疲れ果てている兵で襲ったのか(最初から攻めるつもりなら、今川の大部隊で桶狭間に行く途中でも攻め落とせば良いのではないか)というような話をした。

 この点については、以前ブログ「夜霧の古城」(「徳川家康と知多半島(その29:桶狭間合戦から今川氏からの自立まで)」)でも、「桶狭間の合戦で動向が分からないのが、水野信元である。桶狭間合戦に先立つ、村木砦をめぐる戦い、石ヶ瀬合戦においても、松平を含む今川勢は、織田方となっていた緒川水野氏と戦ったのであるが、当主水野信元の去就がはっきりしない。特に、村木砦に砦を築くようなことが今川勢に出来たとするなら、敵地に普請をしたことになり、刈谷、緒川の水野氏はそれを傍観していたのかということになる。(略) 

 天文23年(1554)の村木砦の戦いは、水野信元が日和見をするなかで、織田信長が緒川水野氏の流れであるが布土城主になって知多における織田直系であった水野忠分を助ける形で展開していたとみるべきで、その後の石ヶ瀬合戦や桶狭間合戦に水野信元が積極的に関与していない事情があったと思われる。すなわち、明確に今川方に寝返っていたわけではないが、水野信元は織田にも今川にも通じていたように思われる。

 確かに、水野信元の弟である刈谷城の水野藤九郎信近や主だった者は、鳴海城を開城し、駿河に帰る途中の岡部元信により、はかりごとをもって討ち取られ、城内に放火された。それは、岡部元信が、水野信元の立場をよく理解していなかったことによる、偶発事象かもしれない。もし、本当に水野信元が今川勢にとって脅威なら、桶狭間に行き着く前に刈谷を襲っていたか、すくなくとも別働隊を作ってでも攻撃を加えていたであろう。」と述べている。

<水野信近の墓のある楞厳寺の水野家廟所>
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 その水野氏の桶狭間合戦当時の態度、動向を理解するうえで興味深い文献がある。

それは『別本士林証文』にある「今川義元書状写」永禄三年(か)四月十二日付のもの。

「夏中可令進発候条、其以前尾州境取出之儀、申付人数差遣候、然者其表之事、弥馳走可為祝着候、尚朝比奈備中守可申候、恐々謹言

             (永禄三年か)四月十二日   義元

                         水野十郎左衛門尉殿 」
 

(書き下し文)

「夏中、進発せしむべく候条、それ以前尾州境取出の儀、申し付けの人数差し遣わし候、然らばその表の事、いよいよ馳走祝着たるべく候、なお朝比奈備中守申すべく候、恐々謹言

             (永禄三年か)四月十二日   義元

                         水野十郎左衛門尉殿」

これが永禄3年の文書であれば、水野十郎左衛門尉に尾張における今川方の前線にたってくれるように要請しているのであり、桶狭間前夜という時期に水野氏に今川方について働いてくれと言っているのである。

 この十郎左衛門尉は、その名前の署名が入った最も新しい文書(東浦町誌にあるが、もとは大御堂寺文書)では、元亀3年(1572)のものがある。しかし、これは後の十郎左衛門尉であり、前述の十郎左衛門尉の息子か跡継ぎということになる。

「野間大御堂寺従前代雖為守護不入、猶以御理之儀候条、一円令免許上者、諸役等寺中之竹木夫以下此外於向後も申事有間敷者也仍状如件

元亀三年 壬申 十月十八日

水野十郎左衛門尉

柿並

寺中参

是後ノ十郎左衛門也

元藤四郎元茂ト云 」


(書き下し文)

「野間大御堂寺、前代より守護不入たりといえども、猶もって御理之儀候之条、一円免許せしむる上は、諸役等寺中の竹、木、夫丸以下、このほか、猶向後も申す事あるまじきもの也。よって状くだんの如し。

元亀三年 壬申 十月十八日

水野十郎左衛門尉

柿並 寺中参

これ 後の十郎左衛門也 

元藤四郎元茂という」

<水野忠政の墓>
e0144936_1023795.jpg  では、この水野十郎左衛門尉とは誰であろうか。小生、それが分からず、ずっと胸の奥に引っかかった感じであった。水野十郎左衛門というと、旗本奴で幡随院長兵衛と争った子孫のほうが有名であるが。

 この水野十郎左衛門尉は、天文13年(1544)閏11月には織田信秀と書状のやり取りをしているし、斎藤道三とも交信しているのである。すなわち、戸田氏系水野氏のような水野氏の傍系であるとは考えられない。また天文13年(1544)閏11月の時点で存命であり、桶狭間合戦時も生きており、息子が元亀3年(1572)10月の時点で存命という水野家主流の人物ということになる。尾張、駿河、美濃の代表人物とも交信できる主流の水野氏というと、緒川・刈谷水野氏、大高水野氏、常滑水野氏以外ではない。しかしながら、大高水野氏なら、宛名にその代々が用いたらしい大膳亮という名前が用いられたであろうし、永禄3年の桶狭間合戦時には、その当主大膳亮忠守は大高城を追われて、刈谷に閑居していたのであるから、今川義元がわざわざ書状を送るはずがない。

<水野氏ゆかりの乾坤院>
e0144936_1032288.jpgもちろん緒川水野でも、天文12年(1543)になくなった水野忠政以前の人では時代があわない。残るは、緒川・刈谷水野氏の数人か常滑水野氏ということになるが、大御堂寺周辺の支配権は永禄初年に常滑水野氏から緒川・刈谷水野氏に移っており、元亀年間に大御堂寺周辺を支配していたのは常滑水野氏ではなく、緒川・刈谷水野氏である。

つまり、水野十郎左衛門尉とは緒川・刈谷水野氏の誰かである。

最後の文書にある「元茂」とは、水野信元の養子である通常「信政」とある人物である。その十郎左衛門尉が水野信政であれば、その先代とは、他ならぬ水野信元その人である。つまり、水野十郎左衛門尉は、水野信元であったことになる。この十郎左衛門尉という通名は、緒川水野氏の祖ともいうべき水野貞守の通称が水野九郎次郎十郎左衛門蔵人というのに端を発しているかもしれない。十郎左衛門尉というのは、水野家主流の名乗りであり、前出の旗本奴の水野十郎左衛門もその系統をひいているから、そう名乗ったのである。また水野信元の子に、松平信定の娘を母とする十郎三郎というのがいるが、その名前は十郎という父の子の三郎という意味であるから、信元が十郎ということになる。

 この水野氏が桶狭間合戦に際してとった可能性がある態度、立場を書けば、

(1)水野氏は織田方であることを貫いたが、相手が余りに自分の領土に近い場所に迫ってきたため、領内でおとなしくしていたか、合戦にも出たが働きが目立たず、歴史に残らなかった

(2)実は、水野氏は密かに織田方を裏切り、今川方についていたが、正史ではそう書かれずに今日にいたり、真相が分からなくなった。

(3)桶狭間合戦では、水野氏は両軍によしみを通じながら、どちらにもつかず、「洞ヶ峠」を決め込んだ

(4)関が原合戦のときの小早川秀秋のように、最初今川方について戦ったが、合戦の途中で織田方に戻った

(5)(4)とは逆に織田方であったが、途中から今川方になって戦った

上記のうち、(5)はありえない。もし途中から今川方になったら、桶狭間合戦後に岡部元信が刈谷城を攻めることが発生しえない。また、(2)は今川義元の書状が、裏切りの根拠となりえるが、実際に今川方について織田勢と戦ったのなら、織田にとっては大いなる背反であり、何か記録が残ると思われる。(4)も同じで、最初今川軍に水野がいたなら、人々の印象に残るだろうから、何か記録が出てきてもおかしくない。

残るは、(1)か(3)であるが、もし(1)で単純に織田方についていて動きが積極的でなくても、相手のある話で、もしそうなら今川勢が行きがけの駄賃とばかりに刈谷城を攻めたのではないかと思う。もっとも、桶狭間合戦の前に既に刈谷城が今川方の手に落ちていたら、話は別である。

残るは(3)であるが、本当は(3)でもない。今川勢が刈谷城を攻めなかったのは、やはり水野信元と今川勢の間で何らかの約束が出来ていたからであろう。それは義元の書状そのままに尾張境で前線にたつということかもしれない。しかし、その約束に関わらず、水野勢は動かなかった。つまり、今川方との約束を反故にして、水野勢は終始織田方のまま、積極的には戦おうとしていなかったと思う。つまり、「洞ヶ峠」を決め込んだのではなく、織田方のまま、今川に加担するフリをしたのである。あるいは、桶狭間の敗戦で敗走する今川勢に追い討ちをかけるようなことはしたかもしれない。そして、桶狭間合戦後は何事もなかったように、織田陣営にあったに違いない。

だから、合戦後に約束を違えた水野氏に対して、岡部元信が謀略をもって水野信近を討ち、刈谷城に放火する行為に出たのではないか。

<大高水野氏の菩提寺春江院>
e0144936_1042557.jpg これに関して、大高城を取り巻く砦のうち、鷲津、丸根という有名な砦以外に、大高城のすぐ近くの向山砦、あるいは氷上山砦(氷上姉子神社という熱田神宮の摂社がある)、正光寺砦という三つの砦があるが、千秋氏が守っていた氷上山砦以外の何れかを水野氏が守っていたが、勝手に撤退してしまい、それが元で氷上山ともう一つの砦も引かざるを得なくなった。それで、織田信長は大高城周辺の砦の守将と元守将に責任をとらせ、鷲津、丸根を見捨てるとともに、他の砦の守将であった千秋、佐々に敵軍の先鋒に突っ込むように仕向けたというように、まことしやかに書いている人がいる。

もともと大高水野氏の居城だった大高城であるから、土地に精通した水野氏が砦を守っていてもいいのだが、向山砦、氷上山砦、正光寺砦はそれほど大勢の軍勢をおける場所ではなく、桶狭間合戦時には兵をおいても、孤立するような位置関係にあった。特に氷上山は、「お氷上さん」と地元の人から言われる氷上姉子神社のある小山で、周囲は平地、大高城とも少し離れている。

<氷上山砦跡>
e0144936_105161.jpg 小生もその各砦跡と思しき場所を見て歩いたが、春江院の脇にあり、大高城とは尾根続きの向山砦は切岸と簡単な堀しか防御施設がなく、連絡用の砦の位置づけとみえ、実際の合戦ではすぐに兵が撤退する場所である。氷上山は小高い山であるが、大高城よりも海岸線の船の出入りを見張る物見がある程度の砦であった。よって、熱田湊から大高の船着場の監視所としての限定された役割しか果たしえず、砦を守備兵でいっぱいにするようなものではない。正光寺砦も、小高い山から大高城を見張ることができる(現在はマンションが邪魔で見通せない)が、ここは大高城の南東にあって、東側からの敵をけん制することができるように思えた。兵を置くとすれば正光寺砦なのだろうが、織田勢としてはそこに兵をさくよりも、今川本陣を狙う兵を多くしたかったのであろう。実際に桶狭間合戦でも、守備兵はいなかったと思われる。

<正光寺砦とおぼしき台地から大高城跡を望む>
e0144936_1054249.jpgよって、こうした砦に関しても、水野氏が出兵して云々ということもなさそうである。

一方、明らかに水野氏で桶狭間合戦に参戦した人物がいる。それは、丹下の砦を守った水野帯刀である。

水野帯刀は、常滑水野氏の喜三郎忠綱の子であったようで、戸部水野氏というべき家を分立していた。つまり、水野氏の主流からはずれた人物である。よほど、水野氏主流は、桶狭間合戦に名前を出したくなかったのか。

また、中島砦をまもった梶川一秀は平氏の出で、織田信長の家臣である。出身も尾張国丹羽郡楽田といわれ、今の大府市横根に城を構え、水野信元の成岩城攻略後に成岩城主となった梶川五左衛門秀盛など、水野氏重臣の梶川氏とは関係ないかもしれない。ちなみに、水野氏重臣の梶川氏は、大脇城の城主でもあったらしいが、大脇城は発掘によって実在が証明され、堀や溝で囲まれた居館や屋敷などが見つかっている。井戸からは常滑の壷と鉢が完全な形で出土しているほか、「天正四年」(1576年)及び「大御堂寺」が記された護摩札が出ており、戦国期の武士の生活を知る貴重な資料となっている。

 なお、真相を知る男、水野信元は後に天正3年12月(1576年1月)佐久間信盛の讒言により武田勝頼との内通を信長に疑われ、岡崎の大樹寺において殺害された。
                                                      《了》
<三河岡崎の大樹寺>
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by mizuno_clan | 2008-05-08 10:16 | ★研究ノート

【寄稿4】「水野次右衛門勝正」 »»Web会員««

水野次右衛門勝正

                                             著者:水野青鷺

 柴田勝家の義臣として有名な者の中に、水野次右衛門勝正がおり、さらには勝正と祖先は同じくするが、別系統で水野近仁の孫にあたる、姓を毛受(めんじょう)と改めた勝助家照(しょうすけ・いえてる)がいる。今日ではこの家照が、天正十二年(1583)四月二十一日の賤ヶ岳の戦いで華々しく散ったことから勇名となってはいるが、それに先立つ元亀二年(1571)の長島の合戦(第一次長島攻め)における、毛受家照の金の御幣奪還説については疑義があり、管見によれば書誌の記述から、毛受家照ではなく水野次右衛門勝正ではなかったかと推察される。このことから、この「金の御幣奪還説」について考察してみることにする。


◎水野次右衛門勝正および毛受勝助家照に関する参考資料
1-1.『尾張志』「水野次右衛門」の項には――
 「信長記の長島合戦の條に何とかしたりけん勝家の馬驗の五幣を一掻の奴原奪取時を噇とそ作りけるあはやと見る處に勝家が小姓水野次右衛門尉といひしものいまだ十六歳にて有りけるが面もふらす敵の中へつと懸入五幣を取返して勝家にこそ捧けけれ其恩賞に過分の領地を遣はし猶あきたらすやありけん耀衣(ホロ)をも預け申たり斯る希代のふるまひして後代までも名を残しける手柄の程こそ勇勇しけれ」――
つまり、「『信長記』の長島合戦の条に、勝家の馬印の五幣を敵奴ら(一向衆)が奪い取り、あわやというとき、勝家の小姓水野次右衛門尉という未だ十六歳の者ではあるが、脇目も振らず(よそ見もしないで)敵の中へと掛け入り、五幣を取り返して勝家に捧げた。勝家は次右衛門尉に恩賞として過分の領地を与え、まだ足らないと母衣(旗指物の一種)を預けるという名目により、これを授けた。このような世にも稀な振る舞いにより後世まで名を残す手柄をたて、たいそう立派である。」というような意のことを記している。

1-2.『尾張志』の「毛受勝助家照」の項には――
 「太閤記に毛受勝助ハ尾張春日井郡稲葉村(愛知県尾張旭市)の人なり柴田修理亮勝家に十二歳の頃より事へ後は小姓頭に任し一万石の地を領し素姓信篤く古風を事とし母に孝あり勝家敗北の折節(その時)舎兄茂左衛門尉もろとも忠死を心よくし其名尤(もっとも、いかにも)かうがし(神々しい)云々と見えたり」――
とあり、馬印の件については一言も触れていない。

2.『瀬戸市史』通史編 上 第一章尾張藩の支配と瀬戸市域 第二節林方支配
(一)水野氏 23 文化九年正月書上 水野家系譜下書 (表題)「系譜 水野久四郎」
致正の三男勝正の項には――
「 勝正
  柴田修理亮勝家に仕
 一 元亀二(1571)未年長嶋合戦之節に勇名を著し、其後水野ニ引籠リ有之
 一 病死年月等相知不申   」――
とあり、長嶋合戦では勇名を馳せたが、勝正はその後水野村に引き籠もったと記されている。 

3.『尾張群書系図部集(下)』水野氏 尾張春日井郡下水野村(瀬戸市水野)
  入尾城主、平姓水野氏
致正の次男として
「 勝正 次右衛門
・ 致正には久次郎
    春日井郡水野村に住す。織田信長に仕う。慶長元年(1596)七月二十日卒。」

4.「水野氏系譜」(平氏系にて水野権平家に伝わるものなり)
致正の三男勝正の細目には――
「 勝正 治右衛門
  柴田修理亮勝家ニ仕
   一 元亀二(1571)未早長島合戦之節勇名有之) 」

5.『東春日井群誌』東春日井群役所/編 名著出版/発行
  緒言
   本書は郡制廃止の記念事業として、大正十一年(1922)三月九日郡會の決議を経て、 同年五月編纂事業に着手し、大正十二年(1923)一月を以て完成の期とせり、[後略]
  毛受輝家
「家照元の名は照景、字は荘介稲葉村の人、新居城主水野又太郎良春四世の孫照昌の子なり、照昌始め稲葉村を開拓し之れに居り、姓を毛受と改む、家照素姓篤信にして古風を好み、又母に事へて至孝(この上ない孝行)なり、十二歳の頃より、柴田勝家に仕へ、後小姓頭に任ぜられ一萬石を食む、長島の戦に家照年十七、勝家に従ひ軍にあり、寇兵進撃勝家の騎標を奪ふ、勝家之を見て奮激し將に突入して之れに死せんとす、家照之れを諫止し、自ら寇中に混入して、騎標を奪い之れを勝家に送り、再び進撃敵中に入る、勝家精兵を遣はし之れを救ふ、事平ぎ偏諱(御一字)を與へ字を勝介となし、以て幕中の爪牙(主君を守る家来)と為せり、[後略]」

6.「稿本毛受勝助」水野瀬市/著/出版  発行1970.08 非売品
6-1.第一部 勝助・勝介・庄助・庄介「勝助の名前については、はつきりとした見解が示されたものは、なに一つ見あたらない。実に雑多な記法がなされ、数えあげたらきりがない。代表的なものだけでも、『勝助・勝介・庄助・庄介』などがある」と書かれている。
6-2.第一部 長島合戦の勲功で「勝」と「家」の二字を賜る
「[前略]勝助という名前は、勲功の恩賞である。名前が歴史を物語り、勝助の生涯を語っているからである。」
6-3.第一部 長島合戦の勲功で「勝」と「家」の二字を賜る
「真書太閤記」は、その時の恩賞として、「勝」と「家」の二字を与え、勝助の勇気を褒め称え……。挿絵(毛受勝助長島の合戦で金幣を取り返す)
6-4.第一部 長島合戦の勲功で「勝」と「家」の二字を賜る
「絵本太閤記」の挿絵に「毛受勝介馬印……」とある。
6-5.第一部 長島合戦の勲功で「勝」と「家」の二字を賜る
「 [中略]「『毛受』の姓も、『勝助』の名も『家照』の諱も、この長島の戦いを契機として一度に改めたものではないか。この仮説を抱き、長島の戦いに残る古記録に、金弊奪還を働いた小姓の名が、次のように挙げられていることからして(「…」以下は引用文から抜粋)
  甫庵信長記  水野治郎右衛門尉……勝家カ小姓水野治郎右衛門尉ト云シ者
  蒲生文武記  水野治郎右衛門……爰ニ勝家小姓水野治郎右衛門トテ
  當代記 水野治郎右衛門……柴田小姓水野治郎右衛門取返
  続武將感状記 水野治郎右衛門勝正……水野勝正、金の馬印
  尾張志 水野治郎右衛門尉……勝家が小姓水野治郎右衛門尉
  尾参宝艦   水野治郎右衛門……小姓水野治郎右衛門一騎適中に
『毛受勝助家照』の名を勝家から恩賞として賜った―とすれば元の名は何か? それは水野治郎右衛門(または水野治郎右衛門尉)であったのではないだろうか。[後略] 」


◎水野次右衛門勝正および毛受勝助家照の考察
7.「5」の『東春日井群誌』(1923)には、「家照元の名は照景」と記載されており、また「6-3」の『真書太閤記』(1849)には「毛受勝助長島の合戦」、「6-4」の『絵本太閤記』武内確斎(1799)では、「毛受勝介馬印……」とあるものの、「6-5」の「稿本毛受勝助」では、甫庵信長記(1626)を始めとする他の五書に「水野治郎右衛門」「水野治郎右衛門尉」「水野治郎右衛門勝正」と記され、「家照」の諱は書かれていない。著者の水野瀬市氏説では、長島合戦の勲功で「勝」と「家」の二字を賜ると書かれているが、「2.3.4」および「続武將感状記」には「水野治郎右衛門勝正」と明記されており、諱は「勝正」である。勝家の偏諱(御一字)の「家」を賜り照景から「家照」に改めたとしたとするのは納得できるが、治郎右衛門勝正の元々の諱に「勝」の一字があるにも関わらず、なぜ敢えて勝家の「勝」の偏諱を恩賞として授与されなければならなかったのであろうか。元々偏諱は文字通り主君の名の一文字を賜るものであり、二字共に賜るというのは如何にも不自然であると考えられる。
 これらのことから、近世に書かれた『絵本太閤記』武内確斎(1799)の頃に、長島の合戦の功労者が、無名な水野治郎右衛門から賤ヶ岳の戦いで高名を成した毛受勝助と混同されたか、又は故意にすり替えられ、さらには『真書太閤記』(1849)、『東春日井群誌』(1923)もまたそれに倣った可能性が高いのではないかと推察される。
「1-1」で、元亀二年(1571)の長島の合戦(第一次長島攻め)の時、「水野治郎右衛門勝正」は十六歳であったと記されていることから、弘治二年(1556)生まれということになる。「2」の『瀬戸市史』から、その後は何故か水野[村]に引き籠もったとあり、柴田勝家には仕えず、帰農したものとみられる。もし仮に賤ヶ岳の戦いに参戦していたとすると二十七歳の時であった。
 一方、毛受勝助は、「1-2」の『尾張志』に、「柴田修理亮勝家に十二歳の頃より仕えて、後は小姓頭に任し一万石の地を領し、……」とあり、順調に出世したことが窺える。しかしながら前述の通り、「勝家の馬印」の件については一言も触れてはいない。
長島の合戦で、柴田勝家の馬印である金の御幣が敵に奪われたのを、見事に取り戻し、その十二年後の天正十二年(1583)四月二十一日、賤ヶ岳の戦いで柴田軍が瓦解したことから、勝家は討死を覚悟し留まろうとした。しかしながら近習の毛受勝助は、主君に面目を保つことを諫め、即刻北ノ庄城へ落ちさせ、自らは勝家の馬印“金弊”を申し請けて、身代わりとなって山峡に盾籠もり、敵秀吉の大軍を欺き、二時間余りもそこに引きつけ死闘したが、ついに力尽きて金幣のもとに討ち死にした。このことから、同じ金弊の馬印にに絡み、「水野治郎右衛門勝正」と「毛受勝助」が同一視されたのではなかろうかと推測される。
 この“金弊”は、現在も柴田勝家の菩提寺である西光寺(福井県福井市左内町8-21)に所蔵されている。
元亀二年(1571)の長島の合戦(第一次長島攻め)から、四百三十余年後の今日において、改めて「水野治郎右衛門勝正」の功績を顕彰することとした。
                                                       《了》


★本稿は2008/02/12 ∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」に掲載したものを転載しました。また、掲載直後、毛受勝助氏のご子孫に本稿をご高覧いただきました。
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by mizuno_clan | 2008-05-01 05:08 | ★研究ノート