【寄稿17】宮本武蔵と水野勝成 『宮本武蔵の大坂夏の陣』1/2 »»Web会員««

     まえがき 
 本稿は平成6年(1994)月刊『歴史研究』400号に掲載された「宮本武蔵の夏の陣」の転載です。出版社「歴研」の承諾もいただいています。
ただ「歴研」の投稿原稿が8000字(原稿用紙20枚)に制限されていましたので窮屈に圧縮させていた部分も、せっかくですから了解を得て拡げさせていただきました。

 当時までは宮本武蔵の大坂の陣は大坂方という認識が通説でありましたが、原論文は武蔵が徳川方であったことを決定づけた論文となります。
武蔵研究の第一人者となられました国際武道大学の魚住孝至先生を始め多くの著書・論文等に引用されましたが、今では新しい定説と化して当時のように特別に書かれることもなくなりました。
 しかし、まだこれまでいかなる歴史番組でも武蔵の徳川方説が語られた事はなかったと思います。
 今年2月23日、小生も出演させていただきましたNHK「歴史秘話ヒストリア」で初めて明瞭に「武蔵は徳川方の武将の護衛として出陣した」と解説されたのは本論に基づくもので、画期的でした。
 11年前のNHK「ときめき歴史館」でも本論文の取材を受け、武蔵の大坂の陣出陣の証として本論に乗せている小生提供の『黄耇雑録』も画面に表示されましたが、ついに武蔵が徳川方であったことに触れられることはなかったのです。
 武蔵の人生において水野勝成との出会いと大坂の陣に水野の陣営から徳川方として出陣したことが大きなターニングポイントとなっています。

 水野氏研究会の皆様にも宮本武蔵と水野氏との深い関係を知っていただければと存じます。

                                     福田正秀(宮本武蔵研究家)





宮本武蔵と水野勝成
『宮本武蔵の大坂夏の陣』


                                             福田 正秀

はじめに 
  宮本武蔵は生涯六十余度の兵法勝負に無敗の剣豪として知られている。しかし武蔵が晩年に著した『五輪書』序文によれば、その勝負は若かりし頃二十代までのことであり、「われ三十を越えてあとをおもいみるに兵法至極して勝つにはあらず」とその勝利は兵法を極めたからではなかったと反省している。なおも深き道理を求めて兵法修行に朝鍛夕錬し、至極の境地を得たのは五十歳の頃であった。すなわち悟道に至る武蔵の真骨頂は六十戦全勝の前半生ではなく、三十代以降の後半生にあったのである。
そのスタートに徳川が豊臣氏を滅ぼした大坂の陣(一六一四~)があった。武蔵はこの戦場に立っているが、豊臣か徳川か、武蔵はどちら側について戦ったのであろうか。武蔵の生涯を鳥瞰してみれば、兵法至極に至る人生の大きなターニングポイントであったことは間違いない。
 実は武蔵の大坂の陣には水野勝成が大きく関与していた。本稿では武蔵が大坂夏の陣に水野勝成の陣営から出陣していたこと、すなわち武蔵が徳川方であったことを証明する。

一、通説への疑問  
 宮本武蔵が大坂の陣に参戦した事は、武蔵の死後九年後に養子伊織によって建てられた「小倉碑」にも刻まれており、史実であろう。
『二天記』はこう伝えている。
 《一、慶長十九年大坂陣武蔵軍功証拠あり、三十一歳、翌元和元年落城なり》
 大坂方か徳川方か、どちらとも書いていない。 ちらほらと徳川方説を唱える論者もいたが、大勢を変えるに至らず、これまで武蔵は大坂方の浪人募集に応じて戦ったというのが通説であった。不思議なことに何の史料的裏付けもなく、そう信じられてきた。理由は大坂方には全国から十万人余の牢人が入城したし、武蔵も牢人であり、手柄を立てて立身の好機と、当然これに参加したであろうという単なる推測だけ。関ヶ原西軍説の延長もあるようである。
 司馬遼太郎氏はその著『宮本武蔵』で、「大坂の役関係のあらゆる資料のどこにも彼の名が片鱗も見えぬところを見ると、武蔵は微賤の軽士として大坂城の石垣のなかにこもっていたにすぎなかったのであろう」と述べている。
 ところがその反対史料が出た。それは大坂陣当時、三河刈谷城主であった水野日向守勝成の陣備えを記録した「大坂御陣之御供」の名簿の中に、宮本武蔵の名前が載っているというのである。この記録は昭和五十九年に、水野藩家老中山将監の子孫中山文夫氏(名古屋市)の家にある膨大な古文書類の中から発見された。水野日向守は徳川家康の従兄弟に当たり、大坂夏の陣では大和口方面軍の先陣の大将であった。当然、徳川方である。
 史料発見当時『週刊朝日』がこれを取り上げ、通説を覆す新史料としてセンセーショナルに報道した。しかし、なぜか研究家はほとんどこれを無視、あるいは否定したのである。その理由として歴史家の岡田一男氏は「宮本武蔵研究の問題点」(『歴史研究』平成三年十月号)にて、「武蔵が夏の陣で豊臣方に加担して大阪城に入ったことは「小倉碑文」が立証している。「大坂御陣の御供」にある名は同時代に宮本武蔵を名乗る者が何人もいたので、これも同姓同名の別人であろう」と書いている。
 はたして小倉碑文は武蔵の大坂方を立証しているか。私が現地で確認した碑文の該当部分は次の通りであった。
  《豊臣太閤公之嬖臣石田治部少輔謀叛之時或於攝州大坂 秀頼公兵乱時武蔵勇功佳名縦有海之口溪之舌寧説盡簡略不記之》
(読下し)
「豊臣太閤公の嬖臣(へいしん)石田治部少輔謀叛(むほん)の時、或いは攝州大坂に於いて、秀頼公兵乱の時の武蔵の勇功佳名は、縦(ほしいまま)に、海の口渓(たに)の舌に有り、寧(むし)ろ説き盡(つく)し、簡略に之を記さず」

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[小倉碑(宮本武蔵墓)]


どこにも豊臣方あるいは徳川方についたとの記述はない。それどころか「謀叛の時」とか「兵乱の時」という言い方は、それを鎮圧する側からの表現であり、「関ヶ原、大坂、この両陣での武蔵の勇功佳名は、あまねく天下の知るところであり、簡略には説明できないほどである」と伊織は父の軍功を高らかに誇っているのである。
 伊織はこの碑を建てた時、徳川譜代大名中の名門、小笠原藩の筆頭家老であった。藩主小笠原忠真は徳川家康の曾孫(母は家康の嫡男信康の女)で大坂夏の陣では父と兄が壮烈な戦死、自らも全身に七箇所の深手を負っている。その忠真から「武蔵の石塔山(墓地)にせよ」と下賜された山に建てた石碑である(宮本家由緒書)。武蔵がもし大坂方であったなら、何の勇功、何の佳名であろう、碑文から削除される事項となる。味方の徳川方であったればこその顕彰であろう。
 岡田氏の論拠で思い出されたのが、武蔵研究家の原田夢果史氏がその著『真説宮本武蔵』で述べられていた大坂方説の論拠である。
 「秀頼公の字の上に一字空白をおいてあるのは、直属の主君に対する敬意を表す闕字(けつじ)法で、彼が関東方でないことを示す」
 岡田氏もこの事をさして言われているのか。しかし残念ながら闕字は直属の主君にのみするものではない。一般的に記述者から見て貴人に対する敬意を表するために用いる文章作法であり、徳川の世になっても太閤や秀頼は貴人であったということである。しかもこの場合の記述者は伊織であって武蔵ではない。 結論はこの碑文から武蔵が西軍、あるいは大坂方であったことを立証する事はできないということである。
次にいよいよ大坂の陣で武蔵は徳川方であった証明に入る。

二、「大坂御陳御人数附覚」〈裏付一〉
 
慶長十九年の大坂冬の陣に武蔵が参戦した証明史料は今のところ出ていないが、翌二十年(元和元年)の夏の陣に出陣した裏付け史料をいくつか見つける事が出来た。
 まず中山家史料の信憑性は、まったく同一内容の記録が広島県福山市の福山城に収蔵されていることがわかり、立証された。福山は水野日向守勝成が大坂陣後に十万石で再移封された所である。その史料は中山家同様水野家の家老であった小場家文書の中の一本で「大坂御陳御人数附覚」となっており、現地鏡櫓にて確認したところ宝暦二年の写しと、文政元年の写し二本があり、奥附けに小場兵馬所持と記されていた。
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[大坂御陣御人数附覚(福山城鏡櫓蔵)]

 これによると夏の陣での水野軍の総陣容は、《総御供騎馬二百三十騎、総御人数三千二百人之由》となっている。士(さむらい)大将は中山外記、そして御供騎馬武者二百三十人の中「作州様附」十人の四番目に宮本武蔵の名前があった。作州様とは勝成の嫡男、美作守勝重(のち勝俊)のことである。
 この東西二つの同一資料は、武蔵が徳川方、水野勝成の陣営にあった事を裏付けている。週刊朝日の「士大将格」という判断は明らかな誤り。士大将は一軍の総大将で、通常は藩の家老が任命された。水野軍では中山外記であった事がこの覚書でわかる。武蔵の立場は当初陣場借りかとも考えたが、勝重付十人のうち二人までは名前の上に「牢人にて出陣」との但し書きがある。武蔵にはそれがないということは、仕官を求めての陣場借りとも思えない。この頃すでに六十余度の勝負に勝ち、天下無双の剣豪として高名であった武蔵は、その気になればいくらでも仕官が出来たはず。水野家では遊遇の名士、勝成の御客分としての身分で、後の島原の陣での小笠原家同様、若殿勝重の身を守る護衛の任を特に勝成から頼まれたものであろう。いわば客将と見るのが正しいと思う。

三、『黄耈(こうこう)雑録』〈裏付二〉
 
 水野勝成を祖とする福山水野藩は、五代勝峯がわずか二歳で没し元禄十一年に無嗣改易となった。先祖の功をもって勝成の曾孫となる勝長に能登国の内一万石で再興させられ、のち下総結城藩一万八千石として存続するが、家臣団は分散し、家老中山家は幕臣旗本へ、分家は尾張徳川家に移った。その尾張中山家に中山七太夫という長沼流兵学者が出て、この人がたくさんの写本を中山家の今に伝えている。その中の一本に武蔵が大坂陣で活躍する場面を記録したものが見つかった。出典を探していると、名古屋の郷土史家より、それと同じ記録が『黄耈雑録』に出ているとの指摘を受け、判明した。それは宝暦の頃(一七五一~)尾張藩の松平君山という学者が、藩士等の見聞録をまとめたものであった。彼は藩の書物奉行で、膨大な記録、文書の管理と編纂が職務であった。
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[『黄耈雑録』表紙(左)と中山七太夫筆の該当部分(中山文夫氏蔵)]


 中山文夫氏のご尽力により『黄耈雑録』の写本(全十巻)が名古屋市史史料の中に見つかって写しを送っていただいた。その第一巻に中山家蔵の記録と同一内容がある事が確認できた。該当部分を抜粋すると次のようになる。

    一、宮本武蔵ハ兵法の名人なり、十四五の時分剣術を得、父ハ無二といふ、是又一流の遣ひ手なり、是をハ古流と云、武蔵我代(わがだい=城)に仕かへしとぞ、十八歳にて吉岡清十郎と仕相し名を発し、廿余にて岩石と仕合、名を発す、大坂の時、水野日向守か手に付、三間ほとの志ないのさし物に、釈迦者仏法之為知者、我者兵法之為知者と書れる。よき覚ハなし、何方にて有れん橋の上にて、大木刀を持、雑人を橋の左右へなぎ伏れる様子、見事なりと、人々誉れる。

 一つ書の中の一項目であり、きわめて短文であるが、前半の伝聞は当時から武蔵が剣豪として有名であったことを、後半では戦場で働く武蔵の様子を生き生きと伝えている。そしてこの中に、「大坂の時、水野日向守の手に付」と明確に武蔵が徳川方水野軍に属して戦った事、すなわち「大坂御陳之御供」に記録されていた宮本武蔵が、同姓同名の別人などではなく、正真正銘のあの剣豪武蔵であった事を証明しているのである。
 それにしてもこの記録は実に興味深い。陣中の武蔵は三間ほどのというから五メートル余の大指物に、「釈迦者仏法之為知者、我者兵法之為知者(釈迦は仏法の知者たり、我は兵法の知者たり)」と大書した旗を立てていたという。普通一般に指物の長さは二間弱というから、極めて派手なパフォーマンスで、あの仏教開祖の釈迦と自分を並べてアピールするなど、自信満々たる壮年武蔵の姿が浮かび上がってくる。
 そして橋の上に陣取って、寄せ来る敵の雑兵へ大木刀を振りかざし、バッタバッタとなぎ伏せる戦闘場面は、剣豪武蔵の面目躍如、あまりの見事さに、皆口々に褒め称えたと言っている。戦場で闘う武蔵の目撃史料は他になく、非常に貴重である。
 ではこの戦闘は一体いつのどの戦場でのことであろうか。
「水野勝成覚書」によると、水野軍は夏の陣の五月六日、河内の道明寺方面において大坂方の猛将後藤又兵衛基次軍と激戦している。戦闘の様子はおよそ次のようであった。
 《片山の山を(後藤軍を)下へ追い崩し、道筋両側は深田にて、田の中に小さき石橋あり、先に拙者(勝成)二番に中山勘解由、三番に水野美作守、四番目に村瀬左馬、それを乗り越すと、本多左京の軍勢が追い崩され、その橋の際まで逃げかかってきたので、右四人の者、馬より降り槍を取って突き掛かり、敵を退け、藤井寺まで進撃した》
 まるで四将だけがいるような記述であるが、配下の侍、若党などが周りを固めているのは当然である。先の「大坂御陣御人数附覚」で武蔵は勝成の嫡男勝重付の騎馬武者であったことを確認した。勝重この時十七歳、武蔵はここにいたのである。『黄耈雑録』記載の武蔵が橋の上で戦闘する場面が事実なら、この小橋での事ではないだろうか。
 
四、「宋休様御出語」〈裏付三〉 
 水野家は刈谷三万石から戦功によって一旦大和郡山六万石に封ぜられた後、元和五年にはさらに備後福山十万石に加増転封された。
 この福山に武蔵史料がないかと思い、平成五年夏、福山城博物館に問い合わせてみたところ、福山市文化財保護審議会長でもある平井隆夫氏より回答を得、更なる裏付け資料が見つかった。それは水野藩の古記録「宋休様御出語」(小場家文書)というものであった。宋休とは水野日向守勝成の隠居号で、彼が隠居後に話したことを近侍の小場兵左衛門利之が晩年に筆録したものである。(のち福山城博物館蔵の写本を確認)
 注目したのは、その中〔勝成、島原出陣〕の一節であった。

  黄昏(たそがれ)に及て御着故、いまだ陣所を取しつめさるに雨は頻(しきり)にふり出す。陣中殊之外(ことのほか)騒々しく聞へければ、前備(まえぞなえ)の小笠原家にて是を聞き凡(およ)そ着陣には法あり、さしも日向殿、当時の良将とこそ聞こえし、あの着陣の騒敷(さわがしき)はいかにぞや、今にも夜討など有らば、あの人数は物の用には立つべからずと、口々に云いければ、宮本武蔵という者是を聞き、我先年、日向守殿家にこれあり、彼軍立よく知れり、凡慮の及ばざる大将なり、各評判の及ぶ処にあらず(後略)

 と、ここでも武蔵自ら「自分は先年、日向守殿に属してその軍立てを良く知っている」と言っているのである。この島原陣の前、大坂の陣でのことを言っていることは間違いない。「前備の小笠原家」とは、宮本伊織(武蔵養子)を総軍奉行とする小倉藩小笠原忠真軍のことであり、この中に武蔵がいた事は、原城落城の日の陣中より日向県(延岡)藩主、有馬左衛門佐直純へ宛てた書状や、後日肥後細川藩筆頭家老長岡佐渡守へ陣中音信のお礼を述べた武蔵直筆の書状が残っており、立証している。また新な小笠原家史料調査によって、有馬陣出陣記録の内、小笠原信濃守長次の身の回りを固めた「旗本一番」の騎馬武者の中に宮本武蔵の名が発見され、武蔵の役割までが立証されたのである。
 もはや、武蔵が徳川方で戦った事は、動かしがたい事実であろう。 (つづく)
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by mizuno_clan | 2011-03-26 15:43 | ★研究論文

【寄稿17】宮本武蔵と水野勝成 『宮本武蔵の大坂夏の陣』2/2 »»Web会員««

五、三木之助は水野藩中川氏〈裏付四〉 
 今回の考証で思いがけず判明したのが武蔵の最初の養子、三木之助の出自であった。そしてそれがまた、武蔵が大坂の陣で水野家にあった事の証明であり、徳川方の四つ目の裏付けとなったのである。
武蔵の伝記で『二天記』より古い丹治峯均筆記『武州傳来記』によると、三木之助は造酒之助であり、武蔵が摂州尼崎街道で拾った馬子の少年となっている。二天記の「泥鰌(どじょう)伊織」と同類の伝承であるが、意外とこれを真に受けている人がいる。しかし、大方の史家、研究家は「新免宗貫の孫」としている。新免家は武蔵の養父無二之助の旧主にあたり、新免姓を下賜されている関係から、自然と受け入れられてきた。根拠もある。「作州新免系図」に三喜之助という名があり、脇書きにそのことが書かれているのだ。
《当世の美少年二刀剣術をよくす。宮本武蔵玄信の養子となり、播州姫路城主本多美濃守世子、中務太夫忠刻に仕える。七百石側小姓、宮本造酒之助と改める。本多忠刻寛永三年丙寅五月七日卒三十一歳、造酒之助即日殉死》
 三木之助と、字の違いをのぞいてはまったくその通りである。しかし不思議な事は、筑前黒田藩三奈木村に残る「筑前新免系譜」と、かなり相違がある点である。
 新免家は関ヶ原で西軍宇喜多秀家軍に属して敗れ、一族家臣とも九州へ落ち、黒田家に仕え明治維新まで続いている。領地だった三奈木村には今も「伊賀様」とよばれる新免伊賀守を祭る祠や供養塔が、新免宗家と家臣団の祭司の中心として大切に守られており、この系統の由緒は正しいが、こちらに残る新免系譜には三木之助らしい人物の記録は一切無い。
 「作州新免系図」に更に疑問が生じたのは平成三年夏、三木之助の墓を姫路に訪ねたときからであった。墓は姫路市郊外、書写山圓教寺内、本多家霊廟の中にある。寺域は広く、ロープウエイで山頂に上ってなお三十分は歩かねばならなかった。
 本多家霊廟の中は一番が幸千代(忠刻と千姫の子)、次が忠刻、そのあとは御霊家付で歴代城主墓が並んでいて見事であった。そして、忠刻の大きな五輪墓の後ろにかしずくように、殉死した三木之助と岩原牛之助の小さめの五輪墓があった。
 ちょっと本題から外れるが、圓教寺墓誌によるとこの牛之助は元忠刻の家臣で故あって牢人していたが、忠刻死するを聞いて立ち帰り、墓前で切腹したとあった。丹治峯均筆記『武州傳来記』では三木之助をそのように作り、大坂で武蔵と別れを告げさせて殉死するが、これは誤伝から出た説話であろう。
 三木之助の墓の後ろにもう一つ小ぶりの五輪墓があった。三木之助に又殉死した陪臣宮田覚兵衛の墓であるという。部下に慕われていた三木之助の人間味が偲ばれる。
 驚いたのは、三木之助の墓誌を見た時であった。
  《宮本三木之助 宮本武蔵の養子忠刻が卒すると墓前において切腹。伊勢の生まれで武蔵の養子当時二十三》
 三木之助は「伊勢の生まれ」となっていた。新免氏の作州でも筑前でもなく、まして摂州尼崎でもないのであった。三木之助と伊勢、宮本武蔵、どう考えてもこの頃の史料では結びつかない謎であった。そんな折、戸部新十郎著『考証・宮本武蔵』に出会った。そこには三木之助の出自について、先の二説のほかに「積翠雑話に宮本造酒之助は備後福山城主、水野勝成の家臣、中川志摩之助の孫だといってある」と、論評なしに付記してあった。
今度は福山。根拠がわからず、伊勢の時と同じでこの時も途惑うばかりであった。しかし、これが平成五年の発見につながった。
「大坂御陳之御供」を見た時、武蔵の名より先に飛び込んできたのがこの中川志摩之助の名前であった。その後に武蔵の名を確認し、ここで「武蔵―中川志摩之助―水野勝成」の関係が一本に繋がったのである。
『積翠雑話』が正しかった。しかも三木之助を養子にしたのはなんと大坂夏の陣が縁だったのである。このとき武蔵が客将として出陣した水野家の武者奉行が中川志摩之助であった。志摩之助は歴戦の勇将であり、槍の名手として知られていた。武蔵と意気投合し、三木之助を養子に貰い受ける事になったのではないだろうか。

以上四つの裏付けをもって、武蔵が大坂夏の陣で刈谷水野家、すなわち徳川方について戦った事を十分に証明出来たと思う。
 関ヶ原の時とは違い、この大坂夏の陣は戦国の終わりを告げるためか、大坂方に加担した牢人狩り探索は徹底的で厳しく、毎日おびただしい数の牢人が探し出されて首を切られ、路傍に三列に並べて延々晒されたという。豊臣秀頼の隠し子国松も見つけ出されて六条河原で斬首、女児は千姫が養女に引き取って尼にし、その血統を断った。
 武蔵は三木之助を連れて水野家を去り、やがて将軍家女(千姫)婿である姫路の本多忠刻に兵法師範として迎えられ、自らは仕官せず養子三木之助を代わりに仕官させて後見することになるが、武蔵がもし大坂方の牢人であったなら、とてもこの境遇は考えられないのである。
幕府が、相次ぐ改易であふれる牢人問題に頭を抱え、大坂牢人「御赦免」の方針を打ち出すのは、家光の政権となった元和九年(一六二三)のことであった。

六、「宮本小兵衛奉公書」を発見〈裏付け四の又裏付け〉
 平成五年、三木之助の姉の子孫とされる福山の平井隆夫氏の示唆を受け、岡山池田藩に宮本小兵衛なる者が提出した「宮本家由緒書」があることを知り、岡山大学付属図書館に依頼して調査したところ、所蔵の池田文庫(池田藩史料)に小兵衛が元禄九年(一六九六)に書き上げて藩に提出した「奉公書」を発見する事ができた。それが三木之助の系譜であった。冒頭に、「先祖、伊勢国中川原と申す処に小城持居り申す由」と、その出自が伊勢である事を述べている。墓誌の「伊勢の生まれ」の謎が解けたのである。武蔵の養子になった事も、子孫がなぜ岡山なのかの疑問もこの中で明瞭に判明した。
(読下し)
         奥方附足軽頭 高弐百五十石 宮本小兵衛 元禄九年子、五十五歳
一、先祖、伊勢国中川原と申す処に、小城持居り申し候由、申し来り候。祖父中川志摩之助、世倅の時分、牢々仕り、仙石権兵衛殿、讃州に御座候節、奉公罷出、武篇の走り廻り数度仕り候て、鉄砲頭に成、知行千石余り下され候、或る時、手柄仕り候褒美として、権兵衛殿の御紋、永楽之上字を下され、永ノ字を紋付け来り申し候、其の節、水野日向守殿、其の頃は六左衛門殿と申し、御父和泉守殿不和に付、権兵衛殿に御座候、其の時分より御心安く、別して入魂に仕り、其の馴みにより、其の後、日向守殿仰せられ候は、彼方此方と申すべきよりは、心安く、此方へ参るべく候。武者奉行を御頼み成されたき由にて、御呼び成され、鼻紙と仰せられ、知行六百石下され候、(後略)
一、中川志摩之助嫡子、同形部左衛門(略)
一、中川志摩之助次男、同主馬(略)
一、養祖父宮本三木之助儀、中川父志摩之助世倅にて御座候、私ためには實の伯父にて御座候。宮本武蔵と申す者の養子に仕り、児小姓の時分 本多中務様へ罷出、知行七百石下され、御近衆に召仕われ候、九曜巴紋に付け候へと仰せをもって、唯今に付け来り申し候、御替御紋と承り候、 圓泰院様、寛永三年寅五月七日 御卒去の刻、同十三日、二十三歳にて御供仕り候、
一、私父宮本九郎太郎、三木之助弟にて御座候。此者も 圓泰院様に児小姓に召仕われ候、兄三木之助殉死仕り、実子御座なく候に付、九郎太郎に跡式相違なく、 美濃守様より仰せ付られ、名も三木之助に罷り成り候、 天樹院様、 播州より江戸へ御下向成され候刻、 美濃守様御供を成され候。其の節、三木之助御供仕り候、天樹院様美濃守様へ御意にて、道中御旅館に於いて御目見え仰付られ候、 甲斐守様の御代、番頭に仰せ付られ候、内記様の御代に和州郡山に於いて、寛永十九年申九月に病死仕り候、
一、三木之助世倅、私兄、弁之助と申す、父跡式下され 内記様に罷り有り候へ共、若き時分に病死仕り、其の節、本多家を浪人仕り候、
一、私、生国大和国郡山にて御座候、十五の年、兄弁之助果て申し候。其の節より南都に罷り有り候、寛文二年寅十月十二日、江府に於いて、弐十一歳の時 当殿様へ召出され、同十一月十日、御礼を申し上げ候、今、俵六拾弐俵五人扶持下され、御式臺に相詰め、御供や御使者を、相勤め候、
(以後小兵衛の元禄九年までの池田家奉公の次第が一つ書きで年を追ってまだ延々十丁余も続くのであるが、本稿では省略する)

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福田正秀『宮本武蔵研究論文集』(2003年 歴研)より引用


 書き出しは先祖附で、伊勢の中川原城主の出。祖父中川志摩之助から三人の伯父、父、兄のことを書いて、自分の奉公書へと繋いでいる。まず冒頭の見出し等からこの奉公書は元禄九年(一六九六)、小兵衛五十五歳のときに岡山藩に提出したものである事がわかる。当時の役職は奥方附き足軽頭で、禄高二百五十石であった。
 中川志摩之助は讃岐の仙石家の時分、槍働きの戦功で知行千石の鉄砲頭となり、その頃父に勘当され放浪中の水野勝成と知り合って入魂となった。後、大名になった水野勝成に武者奉行を頼まれて六百石で仕えた。大坂の陣でも槍働きをしたと伝えている。「鼻紙」とは、「とりあえず、ほんの気持ちばかり」という意味で、今後の加増を含んだ言葉であろう。志摩之助の三男が三木之助で宮本武蔵の養子となった。三木之助は武蔵の後見で将軍家女千姫の夫・本多忠刻の児小姓に召し出され側近七百石の出頭人となるが、忠刻の死去に殉死することとなった。跡式は弟の九郎太郎が二代目宮本三木之助を襲名して継がされている。武蔵はどうやら水野藩中川志摩之助の子を三木之助だけでなく四男九郎太郎までも養子にして二人とも本多忠刻の小姓として出仕させていたようである。その子三代目弁之助まで本多藩宮本家は継承されるが、弁之助が若死して断絶となった。弁之助の名は武蔵の改名前の初名として知られており、父の二代目三木之助の死はまだ武蔵生前の寛永十九年であるから、武蔵が襲名を許したものであろう。
弁之助の弟が小兵衛で奇しくも父の没年に出生している。後に岡山藩池田光政に召し出されてこの奉公書の伝来に至ったというわけである。
池田光政の正室勝姫は三木之助が殉死した本多忠刻と千姫の子で将軍秀忠の養女である。この縁による召出しであることは明らかであり、奉公書によれば小兵衛は光政夫妻、二代綱政にも厚い信頼を得て側近くに仕えたようである。本多忠刻(圓泰院)の五十回忌には姫路の本多家菩提寺書写山圓教寺へ光政夫妻の名代を勤めて墓参している。このとき当然のこととして忠刻墓の後ろに控える同じく五十回忌の初代三木之助の墓に参拝を果たすことになった。小兵衛の感激と感慨はいかばかりであったろう。
 この史料の発見によって、武蔵の養子三木之助の出自が伊勢出身の水野藩中川志摩之助の子であることが明確となり、三木之助の本多藩宮本家は一代で絶えたとされてきた定説が覆り、代々続いていたこと。武蔵が肥後細川藩の御客分として逗留し、畢生の兵法書『五輪書』を書き終えてこの世を去った正保二年(一六四五)の頃は、二人の養子の宮本家は本多藩の宮本三木之助家も小笠原藩宮本伊織家(筆頭家老)も共に隆々と栄えていたことが明らかになった。

 武蔵が刈谷水野家より大坂陣に出陣することになった経緯、すなわち水野勝成との出会いがいかなる由縁によるものかは今後の研究課題であるが、このことが武蔵の後半生に三木之助や伊織を養子として徳川譜代雄藩へ出仕させ、自身を常に束縛の無い自由の境遇に置いて兵法の道を極めていくという独創的な人生戦略の起点となり、兵法を極め、『五輪書』完成への道に繋がっていったことは間違いないように思われる

*本稿は月刊『歴史研究』(歴研)1994年九月号掲載「宮本武蔵の夏の陣」に一部加筆し史料写真を加えた。
*謝辞 本論の成立には水野勝成家老・中山将監重盛のご子孫である中山文夫氏の多大なご協力がありました。故人となられた御霊に深甚の感謝を申し上げます。

福田正秀(ふくだまさひで)熊本県在住
著書『宮本武蔵研究論文集』(2003年 歴研)
『宮本武蔵研究第2集 武州傳来記』(2005年 ブイツーソリューション)
共著『加藤清正「妻子」の研究』(2007年 ブイツーソリューション)



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[参考資料]
 「中山氏の系圖」については、「S-1>《水野氏関連氏族》「中山氏の系圖」第2版」をご参照下さい。(研究会事務局)
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by mizuno_clan | 2011-03-26 15:42 | ★研究論文

【寄稿5】水野氏における桶狭間参戦の背景1/2  »»Web会員««

水野氏における桶狭間参戦の背景
                                            著者:foxblade

 先の投稿 「水野氏と桶狭間合戦」では、今川の攻勢に窮した水野氏が表面的には屈服したように見せかけ、合戦当日に背後から襲いかかったのだと述べた。そして桶狭間合戦において、信長の重要な同盟者である水野氏の動向が明らかではないのは、水野氏のこの偽装工作を後世に残したくないという作為によってであると考えた。
 この論拠は、今川義元が水野十郎左衛門に送った書状と、義元の死後に今川氏真が岡部元信に出した感状の矛盾にある。桶狭間合戦前、義元は水野十郎左衛門、すなはち水野信近に尾張出征への協力を依頼した。一方、氏真は岡部元信が鳴海城から退去の帰路、元信が水野信近を討ち取ったことを賞している。この合戦前と後の水野信近に対する相反する今川方の対応は、信近が今川の味方と思わせておいて合戦当日に裏切ったと考える以外、他に説明のつけようがないのである。
 桶狭間合戦において、桶狭間を含む南方知多半島一帯に勢力を築く水野氏の裏切り行為があったとするならば、それが合戦の帰趨に重大な影響を与えたであろうことは間違えがない。この合戦は、四万五千という圧倒的優勢にあった今川軍がたった一日で大敗し、しかも総大将の今川義元が戦死するというまさに劇的な戦いである。その戦いの裏面に、この合戦ではほとんど語られることのない水野氏の裏切りがあったとなれば、それこそが今川敗北の真因かと思いたくなるが、『信長公記』に描かれる合戦の推移をみれば、信長率いる織田勢が義元本陣を急襲し、それによって義元が斃れ今川は敗北しているのである。水野氏の裏切りは、『信長公記』に沿うならば、どこまで信長の大勝利に貢献したのかは定かではない。
 桶狭間合戦の真相には、そう容易に近づくことはできないものであろうと思う。むしろここでは、今川軍が圧倒的な有利にある中で、なぜ水野氏は信長陣営に留まり、偽装裏切りという危険な賭けに出たのかを問うべきであろう。そうすることでこの合戦の周囲が明らかになって、そこから永禄三年五月十九日のあの戦いの真の姿が立ち現れるかもしれない。

 信長が今川方の鳴海城と大高城の周囲に砦を築き、包囲して義元に宣戦布告したのがいつのことであるかは定かでない。信長の父信秀が三河安祥で敗退して以来、今川の勢力は尾張にまで浸透し、その中で鳴海城と大高城も今川方となった。両城は軍事的に落とされたという様子はなく、優勢な今川方に鞍替えしたかのように『信長公記』には記載されている。
 信秀の死後、同族や身内の相次ぐ離反に会い、これを撃破して信長が今川と対峙できるようになったのは、永禄二年になってからのことである。したがって、鳴海城と大高城が織田方の砦に包囲されたのも、この頃であるとするのが妥当である。そして史実を追ってみると、この時期まで信長と今川勢が直接激突したのが明らかなのは、たった一度きりである。それはあの村木砦の戦いである。そしてこの戦いは、水野氏をめぐる、義元と信長の綱引きのような戦いではなかったろうか。水野氏は、今川領と織田領の間に存在する一大国人領主である。当然ながら両陣営が味方としたい。それまで水野氏は織田と同盟を結んでいたのであるが、義元は水野氏の本拠である小川城の目と鼻の先である村木に砦を構えることで、水野氏に圧力をかけた。義元の意図は、水野氏の自陣への引き込みにあった。これに対して信長は、間髪をいれず村木砦を攻略して見せた。この時見せた信長の電光石火の如き進退は、後の彼の戦振りの原型となるものであったと考えられる。攻防一日にして村木砦は落とされたが、後続の戦いがあった様子はない。このことからしても、義元は水野氏に全面戦争を仕掛けたのではなく、むしろ政略的意図で水野氏の誘降を探ったと見られる。しかし義元のこの老獪な政略は、信長の大胆な電撃作戦により頓挫させられたのである。
 村木砦の戦いは多分に政略を背後に持ったものであると考えられるが、そのことは今川と織田が全面的な戦争状態にあったものではなく、むしろ天文十九年か二十年頃に実施された休戦和睦が信長の時代にも継続されていたことを窺わせる。信秀の死後、多少の衝突はあったものの今川は三河経営、信長は尾張国内の戦いに専念していたのであって、両者が正面きって戦う時期ではなかったと考えられる。桶狭間合戦があったことから、義元と信長はずっと戦っていたと素朴に思われるかもしれないが、実際は和睦が継続していたとするのが妥当だろう。
 この両者の関係を断ち切って、宣戦布告をしたのは信長であった。『信長公記』にあるように、明確な信長の意図を持って鳴海城と大高城は包囲されたのである。 大田牛一は『信長公記』において、鳴海城と大高城を囲む砦の配置や守将を記載する文中冒頭に、次のように書いている。

—御国の内へ義元引請けられ候ひし間、大事と御胸中に籠り候ひしと、聞こえ申し候なり—

 鳴海城と大高城を包囲することで、信長は「御国の内へ義元引請けられ候ひし」と覚悟を決めていたのである。この今川方の両城を包囲すれば、義元が尾張に来襲するであろう事は間違いのないことで、信長の胸中にこれを受けて立つ覚悟があったことを示している。
 このように、和睦から決戦に織田と今川の関係を転換させたのは、劣勢であるはずの信長である。永禄二年に岩倉の織田伊勢守を滅ぼして、同族の敵対者を一掃した直後であるが、尾張一国を平定したとはとても言える情況にはない。尾張八郡の内、中島郡、愛知郡、海東郡、春日井郡を服属させていた程度で、その中心とも言える愛知郡の南東部に今川の勢力が入り込んでいた。また同郡の北東岩崎を中心とした一帯には今川寄りと見られる丹羽氏が蟠踞しており、表立っては敵対はしていないが帰属もしていない勢力がまだ多数あったと思われる。
 桶狭間合戦は、四万五千の今川軍とその十分の一程度の信長軍の戦いとして『信長公記』に描かれているが、現在は今川軍は多くても二万五千程度であるとするのが一般である。反対に信長軍は、岩倉城の陥落で尾張が平定されたかのように捉えて、一万以上の兵力があったとする場合も少なくない。寡兵の信長が、あのように鮮やかな勝利をどのようにして達成したのかがはっきりしないために、兵力差を縮めて説明しようとする傾向がそうさせているようである。
 特に今川軍四万五千が多すぎるとする見解は、「慶長三年検地目録」に記された石高から計算するが、この俗に言う太閤検地の実態をよく検討する必要がある。太閤検地は、一般に理解されているほどには同質ではなく、地域によって差があったと考えられる。また米の収穫量=国力というわけでもなく、そもそも整備された動員制度をこの時期どれほどの大名が確立していたと言えるだろうか。上杉謙信は、永禄四年に十万の兵力で小田原城を包囲したが、謙信がその領国において十万の動員力を有していたわけではない。
 桶狭間合戦時の織田と今川の兵力差が、実際どれほどであったかは定かではない。しかし、大田牛一は『信長公記』に、今川の兵数をくり返し四万五千と記録した。対する信長は二千ばかりであったとし、圧倒的な兵力差があったと語っている。そして作り事は一切書いていないと主張し、大軍の今川が惨敗したのは天道に反していたからだと言う。主人信長の勝利は、彼の武威や戦術の巧みさにあったとは主張していない牛一の言葉に、事実を曲げて寡兵が大軍を破ったとの詐術を見ることはできない。
 大田牛一は、永禄三年の合戦当時、義元が四万五千という驚くべき大軍を率いて尾張に来襲したこと、そして迎え撃った信長が二千程度の兵力でしかなかったと認識しており、それを『信長公記』に記載したにちがいない。また当時の読者がそれを読んで、そんなはずはないと猜疑の目を向けるなどとは全く考えてもいなかったし、事実そうしたこともなかったのだろう。
 桶狭間合戦における実際の兵力差はさておき、義元と信長の実力差に対する当時の人々の認識は、『信長公記』のそれと変らず、信長の劣勢は誰の目にも明らかであったのである。それにもかかわらず、尾張東南にあって今川の脅威に直に接している水野氏は、何ゆえに信長の陣営に踏み留まっていたのであろうか。

 信長が、父信秀の代から続く今川との休戦和睦を継続している限り、水野氏は双方に誼を通じて、知多半島における自領拡大に邁進することができた。「水野氏と桶狭間合戦」で触れた水野十郎左衛門信近の、多方面外交にその典型を見ることができる。しかし村木砦の戦い以降、水野氏の去就をめぐる信長と義元の綱引きは激しさを増したであろうし、西三河の松平氏を掌握した義元の圧力は高まる一方であったと思われる。
 水野氏がこの事態に対処するのに、自立した国人であるがために自身の去就を単独で何の制約もなく選択できたとするのであれば、駿河、遠江、三河を領国とする今川氏に従うのが当然のことであったろう。天文十八年(一五四九)の三河安祥城攻略以来、今川の威勢は尾張東部に及び、尾張の国人や土豪が今川傘下に次々に属するようになっていた。
 『豊明市史資料編補二』に、岩崎を本拠とする国人丹羽氏に宛てた義元の安堵状が収録されている。

—沓掛・高大根・部田村之事
右、去六月福谷在城以来、別令馳走之間、令還付之事畢、前々売地等之事、今度一変之上者、只今不及其沙汰、可令所務之、近藤右京亮相拘名職、自然彼者雖属味方、為本地之条、令散田一円可収務之、横根・大脇之事、是又数年令知行之上者、領掌不可有相違、弥可抽奉公者也、仍如件—

 この安堵状は、天文十九年十二月と記されており、義元が安祥城を奪取した翌年に出されたものである。丹羽氏は天文七年(一五三八)に本郷から岩崎に本拠を移したとされ、現在の日進市から東郷町に及ぶ広範な地域を押さえていた国人領主である。家伝『丹羽軍功録』によれば、天文二十年(一五五一)丹羽氏清・氏職親子が信長と戦いこれを撃破したと伝えている。
 書状に登場する近藤右京亮とは、沓掛城主であったと伝えられる近藤景春のことである。桶狭間合戦前日、義元は沓掛城に宿泊しここから桶狭間へと向かった。文中では、天文十九年の時点で近藤景春を味方であると記している。そして横根、大脇の知行を安堵しているが、この地は水野氏の支配領域と重なっている。丹羽氏は、義元の勢威を背に岩崎から南下し、水野氏の領地に食い込むように勢力を拡大させていたのである。
 沓掛城の西でも国人や土豪が信長を見限り、次々と今川陣営に馳せ参じる様子が『信長公記』に記録されている。

—熱田より一里東、鳴海の城、山口左馬助入れ置かれ候。是れは武篇者、才覚の仁也。既に逆心を企て、駿河衆を引き入れ、ならび大高の城・沓掛の城、両城も、左馬助調略を以て乗つ取り、推し並べ三金輪に三ヶ所、何方へも間は一里づつなり—
 天文十八年(一五四九)に織田信秀が安祥城で破れ、天文二十一年(一五五二)に死去するに及んで、三河に隣接する東尾張一帯が今川方に走っていた。こうした情勢は桶狭間合戦時まで変ることがなく、『信長公記』にはさらに尾張海西郡の服部党が、船団を率いて義元に合流すべく大高城下に終結していたことを伝えている。海西郡の蟹江城は、弘治元年(一五五五)に今川方の松平親乗によって攻略されているので、服部党の船団には松平の兵も加わっていたことだろう。
 このように永禄三年(一五六〇)、義元が尾張に大軍を進めた時点の情勢を見れば、水野氏が今川陣営に組することが当然とも思えるが、合戦後の岡部元信の行動に明らかなように、水野氏は今川を謀り信長と共に今川の敵となったのである。武士世界の軍事的側面だけを捉えて考えるならば、水野氏の決断は理解しがたい。

 ここで、水野氏の国人領主としての領域統治について考えてみたい。
 水野氏の支配領域は、刈谷周辺の三河と小川を中心とした知多半島北部一帯である。一般に、天文十二年に死去したとされる水野忠政の代までに、小川、刈谷、常滑、大高を領するようになったと考えられている。そして忠政の後を継いだ信元は、尾張の実力者である織田信秀と同盟を結び、知多半島南部へ勢力を拡大した。
 刈谷市教育委員会が刊行した『刈谷水野氏の一研究』では、「知多半島における信元の動向は『知多郡史』『成岩町史』『野間町史』などにある程度触れられてあるが、史料上の問題で確証できる説とは言い難い」としながらも、次のように述べている。

—信元の同盟後ただちに半島平定を目指し、南下政策をとったようである。この頃の知多半島には水野氏の他、佐治氏や戸田氏が勢力をもっていたと言われる。(中略)佐治・戸田両氏と水野氏の関係を中心に、信元の半島進出の過程を『知多郡史』などから追ってみると、緒川から南へ乙川・半田・成岩というコースと、常滑から野間というコースに分けられる。つまり半島の北部は東海岸を、中部から南部にかけては西海岸を押さえていったことになる。このような形をとらざるを得なかったのは、右の図からもわかるように、当時大野を中心に内海から羽豆崎(師崎)にかけて勢力をもっていた佐治氏の存在が認められるからであり、また半島の南端羽豆崎(師崎)をはじめ富貴・河和には戸田氏が勢力をもっていたからである—

 水野氏の知多半島南部への進出は、信元の代になって急に始まったということではないようであるが、東と西の海岸沿いに領地を確保していったのである。水野氏の南下によって圧迫された佐治氏と戸田氏は、水野氏との婚姻関係を構築して知多半島に均衡がもたらされた。
 さて、ここで一つ考えねばならないことがある。それはこの水野氏の勢力拡張は、なぜ海岸沿いに進むことになったのだろうか、という点である。そしてその答えは明らかで、支配すべき拠点が海岸沿いにあったからである。そして拠点の多くが海岸沿いにあるのは、この地が半島だからである。
 知多半島は、西は伊勢湾、東は三河湾と衣ヶ浦が海岸線を形成し、東西幅が最も広いところが東浦と大野辺りで、十四キロほどである。その南五キロほどの半田・常滑から幅が五キロほどに狭まって、二〇キロほども南に伸びている。東西五キロという非常に細長い地形であり、河川というほどのものがないため農業にはいささか不向きである。今日は愛知用水がこの地を潤しているが、この用水が引かれる前は溜池と井戸水に頼るばかりで、旱魃の被害に見舞われることが度々であったという。こうしたことから、主要な産業が海運と漁業ということになり、半島の浦々に拠点ができるのである。
 信元以前に水野家の領有となっていた小川、刈谷、常滑、大高のいずれも海に面しており、隣接する港を有している。このことを見れば、知多半島で勢力を得るためには、その主要産業である海運と漁業を自らの経済基盤に組み入れる必要があったことがわかるのであり、その有力拠点を押さえたことが水野氏が台頭した所以であったと考えられる。

 水野氏の古くからの拠点である常滑は、室町時代になって窯業の中心地となっていった。製品としての大型の甕や壷は、海運によって東北、 関東、関西、中国、九州にまで運ばれていたという。水野氏は、伊勢湾、三河湾、衣ヶ浦の海運や漁業、そして常滑焼のような工業を担う商工・漁民を統治することで経済的な基盤を確立し、それを背景に勢力を拡大したのである。
 この水野氏と信秀・信長には共通点がある。信秀は祖父の代から勝端城を拠点とし、信秀の父信貞の時に尾張有数の港町津島を傘下に収めた。さらに信秀は、天文七年(一五三八)に今川氏豊から那古野城を奪い、その南方にある熱田を支配するようになった。そして津島と熱田という富貴の港湾都市を手に入れた信秀は、その経済力を背景に尾張一の実力者にのし上がったのである。
 信秀と信元の同盟は、当時の武士社会の軍事面だけで考察するのではなく、共に海運に基づく商工業を基盤としているという点にもっと注目すべきである。そして海運・交易であるがために、双方が相手を必要としている。
 当時伊勢湾と三河湾は、海運によって結び付けられた一つの経済圏としての側面があったことが指摘され始めている。この種の研究はまだまだ数が少ないようであるが、綿貫友子氏が『尾張・参河と中世海運』の中で語っていることを引用しておこう。

—十六世紀中期までに尾張においては、大野、常滑、野間、亀崎、岩成、緒川、刈谷、津島、大高、曙、篠島、参河においては、大浜、鷲塚、佐久島、今橋(吉田)、牟呂津などの港の存在が確認できる。そしてそれらの港は、桑名、楠、大津、長太などの伊勢沿岸の港と連絡されていた。
 幕藩体制の整備とともに、幕府や諸藩の貢租米の輸送を契機とする近世伊勢湾海運が発展し、さまざまな舟稼ぎが展開される以前、中世末までにそれらの輸送を可能にするだけの基盤は整えられていたことは確かである—
                                                 《つづく》
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by mizuno_clan | 2008-05-04 15:37 | ★研究論文

【寄稿5】水野氏における桶狭間参戦の背景2/2  »»Web会員««

水野氏における桶狭間参戦の背景
                                               著者:foxblade

 戦国期に伊勢湾や三河湾において、既に多数の港町が形作られ、それらを結ぶ航路を多数の船舶が行き来していたのである。そしてその海運の利点は、なんと言ってもその輸送コストの安さである。ものと人間の文化史シリーズの『船』に、海上輸送の能率と題して次のような記述がある。

—海上輸送というものは、その能率と経済性の点で陸上輸送とは段違いにすぐれていた。たとえば、一〇〇〇石の米を大坂から江戸へ運ぶ場合を考えてみよう。馬一頭に四斗俵二俵を積み、馬子一人が手綱をとるとすれば、一〇〇〇石では馬一二五〇頭・馬子一二五〇人を必要とし、順調にいって十五日はかかる。しかも実際には宿場での乗継をせねばならず、その手間や人馬の食料などは莫大なものとなる。ところが、一〇〇〇石積の船を使えば、わずか一艘、船頭以下の乗組は十五、六人ですみ、日程は天候に支配されるとしても、ふつう一〇日程度で走破できるのであるから、陸上輸送とは比較にならない高い能率と経済性をもっていたことがわかる—
 戦国の当時、既に一〇〇〇石を超える大船も建造され、交易船として回航していた。海路は天候に左右されやすいが、船の規模を大きくするだけで輸送力が格段に向上する。そして船の規模に乗組員の数は比例することなく、規模が大きいほど石積当りの乗組員が少なくて済むのである。伊勢湾内のような近海交易では、一〇石から二五石程度の小型船が使われていたようであるが、木曽川や天王川などで内陸の町とも連結された一大流通ネットワークが存在していたと考えられる。そしてその間を、短時間で大量の物資が行きかっていたのである。弘治二年(一五五六)に、山科言継が水野氏の常滑から伊勢湾を横断して長太(鈴鹿市)に向かったが、この時は七里を四時間で渡っている。陸路であれば二日はかかるであろう。
 海運は優れた交易手段であったために、信長と水野氏の経済基盤である港湾都市は、この高いコストパフォーマンスの海運を最大限利用して繁栄していた。熱田・津島と常滑・大高・小川は、互いに重要な交易相手であり、より遠隔交易への中継点としても相互に欠かせない存在であったに違いない。そして信長と水野氏の結びつきは、武士階級同士の軍事的な必要からである以上に、武士としての存立を支える経済基盤の分かちがたい関係から成り立っていたのである。そうであるが故に、軍事的な観点から見れば圧倒的に不利にあった信長を見捨てて、水野氏は今川方に走ることができなかったと考えることができる。

 信長と知多半島の経済関係を思わせる史料を、次に紹介したいと思う。

—智多郡并に篠嶋の諸商人の当所守山往反の事は、国質・郷質・所質に前々或は喧嘩、或は如何様の宿意の儀ありと雖も違乱あるべからず候、然らば敵味方を致すべからざるもの也、仍って状件の如し—

 天文二十一年(一五五二)に、信長が家臣の大森平右衛門に宛てた判物写である。この判物について、『織田信長文書の研究』では次のように解説されている。

—「智多郡」と篠嶋(知多湾上の島。面積七平方粁。漁業の島)の商人が守山(名古屋市守山区)に往来するについての自由を保証した判物である。国質・郷質・所質についてはまだ明確な解釈がついていないけれども、貸借関係で債権者が債務の弁済をもとめることができない場合には質物を取り上げるとの契約のことのようである。それらの違乱を禁じ、もちろん敵味方の戦いとしてはならないとした—

 天文二十一年といえば、信長の父信秀が死去した年である。家督を継いだ信長は、早くも水野氏の経済基盤である知多郡と篠嶋の商人たちに、守山への往来の自由を保証する行為を示した。そして守山は叔父の信光が領有地であり、周辺経済の中心地であった。おそらく信長は、自己の意思が貫徹するとは限らない守山の地であるからこそ、敢えてこのような往来自由保証を宣告したのではないだろうか。家督を継承したばかりで、信長の意に必ずしも従わない同族や家臣があることを承知で、弾正忠家の新当主としての施政を明確に打ち出したのである。
 自身の経済基盤に熱田と津島を抱える信長は、伊勢湾と三河湾、そして衣ヶ浦を含む海上交易圏の守護者たらんとした。『新修名古屋市史』では、「古くからの織田弾正忠家の勢力基盤である、津島を中心とした尾張西部地域についてみると、織田信長の家督継承は、抵抗なく受け入れられていったと思われる」と述べている。これは熱田も同じことで、家督継承後の相次ぐ同族や家臣との抗争が発生する中で、津島と熱田が変らぬ支持基盤であり続けたのは、信長の施政の基本に交易圏の擁護が貫き通っていたからと考えるのが妥当であろう。
 信長と水野氏は、その経済基盤である港湾都市が共に伊勢湾・三河湾交易圏に属していることから、歩調を合わせて協調する関係にあったのだと思われる。そして信長や水野氏という領主階級が、領内の港湾都市を一方的に支配していたというようりも、領主が都市の安全と自由を保証し発展を後押しする役割を果たす見返りに、都市は物資の調達や金銭提供をおこなっていたのではないだろうか。
 信長が敵対する同族や家臣を打ち破り織田家を掌握し、水野氏が佐治氏や戸部氏を屈服させ知多半島に覇権を得たのも、他を圧する経済力の裏づけがあってのことで、その経済力の源泉は領内の港湾都市から得ていたものと思われる。そうであれば、津島や熱田、そして小川や常滑、大高などは、彼ら進取の武士政権における生命線であったのである。
 村木砦の戦いに臨んだ信長が、本拠の那古野城を斉藤道三の一千の兵に預けて激浪の伊勢湾を渡ったのは、水野氏が今川に屈服しそうになったことで、伊勢湾・三河湾交易圏が危機に瀕したからである。また、永禄三年に圧倒的に優勢な今川軍が尾張に進攻した際に、味方と謀って矛先をかわし、桶狭間に至った義元を背後から攻めた水野氏も、信長の敗北が交易圏の崩壊をもたらすと考えたからに違いない。自身の経済基盤を支える交易圏の崩壊を食い止めようと、信長も水野氏も決死の行動に出たのである。

 今川氏の本拠である駿府は、居住人口が一万人を超えていたと言われ、戦国期における有数の大都市である。小和田哲夫氏は『今川義元』の中で、駿府を「今川氏親・義元は、『東の京』をめざして町造りを進めた」とし、商業の中心地であった本町とか今宿が「碁盤状市街となっていたのは、京都の町割りを模したもの」としている。町中には安倍川が流れ、東海道が通る陸上交通の要衝でもあった。また、この駿府の外港として清水港があり、『静岡県史』においては、「遠駿沿岸においても、陸上交通を補完する形で大小の船が往来し、人や物資の運搬が活発に行われていたことが窺える」としている。
 義元が居住する駿府は一大商業都市であり、「東の京」をめざした町造りをして、今川領国における経済の中心地として栄えていた。それならば、水野氏は信長支配下の熱田や津島との交易に拘らずに、三河までも手中にした今川の経済圏との関係を強化し、こちらに乗り換えてもよかったのではないだろうか。そうすれば、強国今川を敵に回す危険を冒さずに済むのである。
 「水野氏と桶狭間合戦」で考察したところでは、水野氏は偽装工作までして信長陣営に留まっている。そうまでして今川を拒絶したのは、、水野氏の経済基盤が伊勢湾・三河湾交易圏に組み込まれていたからだと考えるのであるが、今川もまた商業振興に力を入れており、軍事陣営と経済圏を同時に転換することも選択肢としてあり得たのではないだろうか。しかし水野氏はそれをせずに、信長と共に敗色濃厚な桶狭間合戦に臨んだのである。これはなぜであろうか。

 『今川義元のすべて』に収録されている『商業政策と駿府の豪商』の中で、長谷川弘道氏は次のように述べている。

—今川氏の商業政策は、「追加」第八条に見られるように、飽くまでも在来の座商人の旧権(特定商品販売の商売役の徴収権)を認めていくことが基本的な方針としてあり、台頭する新興商人等の役銭徴収権の要請を認めることはなかった。(中略)つまり、今川氏の商業政策は信長のように座を撤廃したり、新興商人を優遇するものではなかったのである。
 また、商人たちの領国外への荷物の移出についても統制し、重要物資の国外流出を防止した。さらに他国の商人の活動も制限し「かな目録」第二二条にみられるごとく、家臣との個人的な関係を結ぶことを禁止し、また、駿府を訪れた場合には今宿において監督下においた。これにより国内の商人を保護し、一方で、国内の情報が他国に流出することを防止した。つまり、今川氏は友野氏に対して旧権を安堵し、これを支配下に組み込み、商人頭に任じて商人の統制を行った。今川氏はこれらにより、商業を一元的に把握し、その利益の分散を防止し、間接的に収奪を達成したのである。—

 今川氏が友野氏や松木氏など駿府の豪商を優遇し、商人頭に任じて領国内の商業を統制下に置こうとしたことは良く知られている。今川氏の商業政策では、一部の特権商人が力を拡大する一方で、その統制下に入る商人たちには強い制約が課されることになる。自由闊達な商業活動が制限され、他国商人に対する排他性も伺えるようである。このことは水野氏の領内で商業活動を営む商人たちにとって、今川領国の経済圏に組み込まれたくない強い動機になるであろう。そして自領の商人たちの活力が失われることは、水野氏にとって経済基盤が弱体化することに繋がるのである。

 一方の信長はどうであろうか。ここで信長の第一号文書として知られる「尾張熱田八ケ村宛制札」を、『織田信長文書の研究』(奥野高廣著・吉川弘文館)から見てみよう。

一、当社御造営のために、宮中(神社の境内)に人別を収めらるべし、国次の棟別並に他所・他国の諸勧進は停止せしむるの事、
一、悪党現形に於ては、届けに及ばず成敗すべきの事、
一、宮中は先例にまかせて他国・当国の敵味方并に奉公人、足弱、同じく預ケ物等、改むべからざるの事、付り、宮中へ出入の者え路次に於て非儀を申かくるの事、
一、宮中え使事は三日以前 并にその村へ相届け、糾明をとげ、その上難渋につきては、譴責使を入るべき事、
一、俵物留の事、前々の判形の旨に任せて、宮中え相違なく往反すべき事、
右の条々違犯の輩に於ては、速に厳科に処すべきもの也、仍って執達件の如し、

 この文書は、天文十八年(一五四九)、信長十六歳の時に熱田八ケ村に宛てた制札の記載文である。確認されている信長の文書で最も古いものであるが、先の大戦時に焼失してしまって現存していない。
 この制札では「宮中」保護のための諸命令を掲げているが、この「宮中」を『織田信長文書の研究』では「神社の境内」と文字通りに解釈している。これに対して『新修名古屋市史』では、「熱田社も含めて、熱田周辺を指すときは、『宮中』と呼ばれていたらしい」と、より広義な意味で捉えている。このように、保護の対象が熱田社そのものであったのか、それとも熱田社を含む熱田の町全体であったのか、二通りの解釈が可能であるがどちらが妥当であろうか。また、父信秀が健在であるにもかかわらず、十六歳の信長が熱田社保護のためにこのような文書を発するというのも、何か腑に落ちない気がする。。いったいこの制札は何を目的として、織田弾正忠家嫡男の名によって出されたものなのだろうか。
 『新修名古屋市史』は、この点に触れて次のように指摘している。

—熱田八カ村に対して、熱田社造営のため課役を免除したり、人や物資の自由を保証した制札である。信長の初見文書として有名であるが、残念ながら原本の高札は太平洋戦争で焼失し、写真や写しでしか現在見ることはできない。この時期に尾張国内統治に関する信長の文書が初めて出現するのは、岡田正人・鳥居和之らが指摘するように、同月の三河安祥城失陥による信秀の威信低下に代わって、後継者信長を新たに登場させることで、織田弾正忠家の体制を補強しようとした政治目的があったためと推定される—

 この制札が出された天文十八年は、信秀が確保していた三河の安祥城が、太原雪斎率いる今川軍によって陥落させられた年であった。以降、信秀は三河より後退し、先に述べたように尾張東部にも今川の勢力が扶植されるようになっていく。そして信秀の死去は、この三年後である。こうした情況を踏まえて、信秀の安祥敗戦により低下した弾正忠家の威信を、嫡男を前面に出すことで回復させようとしたとするならば、この制札による保護の対象は、単に熱田社だけとするよりは、弾正忠家の経済を支える熱田町全体として考えた方がよさそうである。
 信長=織田弾正忠家は、熱田町に「自由」を保証した。「悪党現形」を届けずに「成敗」してよいとは、処罰権の承認とともに何が「悪」であるかも町方の規定に委ねるということだろう。また、「他国・当国の敵味方并に奉公人、足弱、同じく預ケ物等、改むべからざる」として、熱田町に治外法権を認めている。そこには、他国者、そして敵であってさえも、信長は介入しないと言っているのである。
 熱田が商業都市であることを想えば、他国の商人との交易、さらに尾張国内の敵対勢力下にある商人との売り買いを前提としているのであろう。経済活動に政治は介入しないという宣言が、この制札を掲げた者の意図であったことと思われる。それが、信秀に代わって表舞台に現れた信長によってなされたことに注目すべきだろう。弾正忠家凋落の刷新が、熱田の経済自由宣言であり、それを保証するのが信長なのである。このことは、単に威信の落ちた信秀でない人物というよりは、信秀以上に経済的自由に理解があり積極的であったのが信長である、という捉え方が妥当であると思われる。
 信長は弾正忠家の新政策を、より踏み込んだ経済活動の自由保障として打ち出した。その天文十八年は、三河における今川の領国化が始まった年である。つまり友野氏等、駿府の豪商による商業統制がいよいよ三河にも及ぼうとするその時に、尾張の新生織田弾正忠家では、熱田を経済自由都市として認定したのである。そしてこうした政策は、熱田だけに限られたことではなく、津島や守山などにも同様に適用されたものではないかと思われる。さらにそのことは、それら弾正忠家の有力商業都市と交易で結ばれる他領の都市へも波及効果を持ったことであろう。水野氏領地下の常滑や大高、小川や刈谷の商人たちは、今川の商業統制と信長の商業自由政策という対照的な事態が進展する様を目撃していたのである。

 桶狭間合戦で、水野氏が信長陣営に留まった理由を追ってきた。軍事的な力関係では今川が信長を圧倒しており、この点ではいかように考えても水野氏が信長の元を離れなかった理由は見出せない。その一方で、水野氏存立の基盤が知多半島沿岸の交易都市にあると考えると、津島・熱田の尾張における二大海運都市を領内に有する、信長との分かち難い関係が浮かび上がってくる。そして信長の記録として残る第一声が、熱田の自由商業都市宣言であり、対する今川義元の政策は、駿府豪商を介した商業統制にあった。
 水野氏は、今川の軍事的脅威は嫌と言うほど感じながら、自身を経済的・軍事的に支える領内の沿岸交易都市に根を張る商人勢力の選択を、受け入れざるを得なかったのである。そして駿府の商業統制ではなく、信長の自由交易を支持し、これに馳せ参じることを決断した下からの動きに乗せられたまま、信元や信近たち水野氏は桶狭間合戦に臨むことになったのである。
                                                      《了》
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by mizuno_clan | 2008-05-04 15:36 | ★研究論文

【寄稿3】「水野氏と桶狭間合戦」1/2  »»Web会員««

水野氏と桶狭間合戦

                                              著者:foxblade

 桶狭間の合戦における水野氏について、『刈谷市史』は次のように述べている。
―永禄三年(一五六〇)五月十二日、今川義元は駿府を出発し、四万と号する軍勢を率いて上洛の途についた。この出陣の目的は尾張平定であり、上洛までは考えていなかったとの説もあるが、ここでは通説に従っておく。義元の本隊は十六日岡崎に着き、十七日は池鯉鮒、十八日は尾張沓掛城(現豊明市)を本陣とした。すでに弘治年間(一五五五~五八)には今川の部将が鳴海,大高・沓掛に入城していたから、ここまでの進軍は容易であった。しかし翌十九日、天候急変にも援けられた織田信長の奇襲作戦の成功により、義元は討死し、大軍は瓦解した。この折、信元以下の水野一族がどのように織田方に動員されていたかは知られない―

 通説では、桶狭間合戦当時の織田家と水野家は同盟関係にあったとされている。にもかかわらず、この織田家存亡の危機ともいえる合戦において、同盟者水野一族の消息が不明であるというのは、一体どうしたことだろうか。
 また、当時今川方の最前線の居城の一つに大高城があったが、この城は元は水野一族が城主であったとされている。さらに桶狭間一帯には、水野氏の勢力が広範に扶植されていたとも言われており、水野氏の庭先で戦いが勃発したと考えてもおかしくない有様なのである。
 桶狭間合戦は、四万五千を率いる今川義元と迎え撃つ織田信長という構図で語られるが、この両者の間には、西三河の松平氏やそれに隣接する知多郡の水野氏の存在がある。岡崎松平家の当主である松平元康は、今川方として参陣し、先陣として大高城を囲む丸根・鷲津砦を攻略してそのまま大高城に入った。そして義元が討死して今川軍が壊走した後に、大高城を脱出して岡崎に帰還する。
 この合戦における松平元康の動向は『信長公記』に記録されている一方で、水野氏に関する同書の記述は、水野帯刀が丹下砦の守備についていたというばかりである。この帯刀は戸部水野氏とされ、大高もしくは常滑水野氏から分立した(『新修名古屋市史』)家に関わる人物とされている。戸部が信長の重要基盤である熱田に近いことから、水野帯刀の織田方参陣は、織田家と戸部水野家の直接的関係から発生したものと考えた方がよさそうである。したがって、帯刀のこのわずかな記述すら、小川惣領家のこの合戦への関わりを示すものとは言えないのである。
 この論考では、小川を中心とする水野一族が、三河と尾張のその後を決定付けた桶狭間の合戦において、どのような立場をとり、どのような役割を果たしていたのかを追ってみたいと思う。そして、この合戦での水野氏の動向が明らかになることによって、桶狭間合戦に新たな切り口が見つかるのかも知れない。

 まずは、水野氏の立場として織田家との同盟関係があるが、この点を検証してみようと思う。
 『刈谷市史』に、織田・水野同盟についての次のような記載がある。

―ところが信元は家を継ぐとすぐに外交方針を大転換し、従来の親松平政策を捨てて織田信秀と結ぶことにした。その理由は判然としないが、この前年八月十日の第一次小豆坂合戦における織田方の勝利、同年秋以後激化した広忠やその老臣衆と叔父信孝との争いと信孝の追放、その結果としての信孝の織田信秀との同盟などによって、尾三国境地域における織田方の圧倒的優位が確実になったためであろう―

 ここで述べられている織田家と水野家が同盟に至る経緯は、一般に広く受け入れられているものである。しかし忠政から信元へ家督が移ったとたんに、松平と絶縁し織田信秀と結んだというのは、何か唐突に感じないでもない。これに関して、刈谷市教育委員会が刊行した『刈谷水野氏の一研究』では、次のような異論を述べている。

―この頃の水野氏の所領は、三河は刈谷近辺のみであり、その大部分は尾張に属する知多半島北部にあった。ゆえに織田氏が三河進出を企てれば両氏は必ず激突する状態にあった。守護家をしのいで尾張支配の実権を手に入れた織田信秀に対して、この時期の忠政は有力ではあるが一国人領主にすぎないから、織田氏との衝突は避けようとしたにちがいない。むしろ織田氏と結ぶことにより領土保全をはかろうと考え、織田氏の東進政策に協力したとみられる。反松平清康派の信定と血縁関係を結んだこともこのような情勢を考慮してのことではないだろうか。したがって忠政に松平と結ぶ意志はなかったものとみられる。それはその後の水野氏の動向からも明らかである―

 忠政の時代においても、水野氏は織田信秀と結んでいたという見解であるが、いささか根拠に欠けているように思える。しかし、水野家が知多半島と刈谷に領地を持ち、織田と松平に挟まれて去就に悩んだであろうことは十分想像できる。忠政の時代において、水野家は織田方であったか、松平方であったか、状況的にはどちらもあり得ることで、むしろどっちつかずが一番良かったのではないだろうか。そもそも、織田対松平という対立の構図自体は正しいのだろうか。『刈谷市史』や『刈谷水野氏の一研究』の双方が指摘していることになるが、松平家には常に内部対立が存在している。特に岡崎松平と桜井松平、清康系と信定系の対立には根深いものがある。そして、得てして身内の争いは、他所との争いより激しくなるものである。そうであるならば、西三河というものは国外勢力によるものよりも、この松平家内部の抗争が中心となって動いていたと考えるべきではないだろうか。
 三河の周辺勢力と松平氏の関係をみると、織田信秀は松平信定と縁を結んでおり、今川義元は清康の嫡男の広忠を支援する立場である。ここでは、松平氏の分裂の構図と外部勢力の対立の構図が重なり合っている。そして水野忠政は、『刈谷水野氏の一研究』が述べるように、嫡男信元に反松平清康派の信定の娘を正室として迎えさせ、その一方で娘の於大を松平広忠に嫁がせて元康(家康)を生ませてもいる。どちらも松平ではあるが、岡崎と桜井は長らく対立しており、広忠は一時信定によって国を追われたことさえあったのである。
 このように水野忠政は、敵対する双方の松平家と縁を結んでいるのであり、単純に松平氏と親密であったと片付けるべきではないだろう。むしろ水野氏は、三河では中立的な足場を築いて深入りを避けて、知多半島での自領拡大を狙っていたとするべきであり、史実ではそのように水野家の領地は拡大したのである。
 忠政の後を継いだ信元も、岡崎の松平広忠とは距離を置いたかもしれないが、松平一族と手を切って織田信秀に乗り換えたということではないであろう。松平定信との婚姻関係は維持されているのであるから、桜井松平=織田信秀の陣営にシフトしたものとして受け取るのが妥当ではないだろうか。

 水野氏の対外政策を考える際に、松平氏内部の抗争に着目するのとは別に、水野氏内部の系統の問題にも目を配るべきである。『刈谷市史』に次のような記載がある。

―十六世紀中葉の水野氏には、①刈谷城主藤九郎・和泉守系と②緒川城主藤七郎・下野守系の二系統があったのではないかという推論が立てられる―

 この二系統説は、従来の史料批判を経ていない一系統説に比べて、それなりに確かな説得力がある。そして、信元が家督を継いでから桶狭間の合戦に至るまでの、水野氏と織田・今川・松平との関わりを追いかけると、この説であるとうまく説明できる部分が数多くあるのである。どのあたりがそうであるのかは、以降、順を追って述べていきたいと思う。
 まずは注目すべき史料、二点を引用する。

―今度、山口左馬助、別可馳走之由祝着候、雖然、織備懇望子細候之間、苅谷令赦免候、此上、味方筋之無事無異儀山左申調候様両人可令異見候、謹言―

 これは『妙源寺文書』として、『豊明市史・資料編補二』に掲載されている義元の書状である。ここで義元は、山口左馬助の忠節に満足を示し、次いで織田信秀が懇望するので刈谷を赦免すると言っている。この刈谷の赦免とは、どういうことであろうか。この点は、次に掲載する『今川氏真判物写』で明らかになる。

―苅屋入城之砌、尾州衆出張、雖覆通路取切之処、直馳入、其以降度々及一戦、同心・親類・被官随分之者、数多討死粉骨之事―

 義元死後に家督を継いだ今川氏真が、桶狭間合戦で討死した松井宗信の遺族宛てに、宗信の功績を賞したものである。この文面では、刈谷入城の際に尾張衆が攻勢に出てきたが、宗信とその一党の粉骨の働きによって撃退したことが述べられている。この「苅屋入城之砌」によって、刈谷城がこの時期今川方の城となっていたこたとが知られ、「苅谷令赦免候」とは、刈谷城を返還することであったことがわかるのである。
 刈谷城が一時期今川方の城となっていたとは、意外な事実であるが、この点に触れて、『新修名古屋市史』では次のように述べている。

―その山口左馬助の熱心な仲介で、信秀と今川氏は和睦し、信秀の要求によって今川氏が攻略した刈谷城も水野氏に返還されることになった。義元書状の年次は、天文十九年冬の後奈良天皇の和平工作以降、織田信秀の死去までの期間で、天文十九年か二〇のいずれかであろう―

 同書では、山口左馬助の「馳走」を和平仲介と解釈し、義元がそれに対して「祝着」と満足を示し、織田信秀の懇望を聞き届けていることから、両者が和睦したと結論付けているわけである。そして刈谷城が占拠された経緯を、次のように説明している。

―同年九月今川勢は織田方の吉良氏と戦い、一一月には雪斎の率いる大軍は安祥城を攻略し、城将織田三郎五郎信広を捕らえた。今川氏は、信秀と交渉して信広と交換に竹千代をとりもどし、駿府に送った。さらに、今川勢は、信秀の同盟者水野氏の三河刈谷城も攻略して、軍事的に優位に立った―

 通説では、松平氏の安祥城を織田信秀が攻略したのは、天文九年(一五四〇)とされている。(ただし天文十六年(一五四七)とする説もある)その後天文十八年(一五四九)に松平広忠が家臣に殺され、これに危機感を抱いた今川方が岡崎城に入城する。ついで織田に占領されていた安祥城を奪還し、守将であった信秀の長男信広を捕らえて、織田方の人質となっていた竹千代(元康)と交換したのである。この安祥城からみて、水野氏の刈谷城は北西十二キロほどの位置にあり、この一連の軍事行動において、今川方は三河にある水野領へも進攻して刈谷城を陥落させたとするのである。
 『刈谷市史』においても同様の見解が示されている。

―これらを考え合わせると「織備」すなわち織田備後守信秀と義元との間に一時的和議が成立し、義元が刈谷赦免すなわち占領した刈谷城を刈谷水野家の信近に返還したのは、十八年十一月以後二十年春頃までの間となる。おそらく刈谷陥落は安城落城の直後の頃であったのだろう。「赦免」の条件は当然のことながら、水野一族とくに信元・信近の織田氏との断交と今川氏への服属であっただろう。これが水野氏関係史料に記録されなかったのは、敗戦は外へは極力知らせないという当時の一般的慣行のほかに、永禄三年の刈谷水野家滅亡によって、それ以前の今川氏への屈服などは小事となってしまったからではなかろうか―

 『刈谷市史』では『新修名古屋市史』より踏み込んで、水野氏は今川に服属させられたとしている。しかしその水野氏が織田方として復帰する経緯に関しては、「水野氏の今川離反の過程は詳しくわからない」としているだけである。どうもどちらの市史も、この今川による刈谷城の占拠にやや戸惑っている観がある。実際、どうもわかりにくい事態で、水野氏はころころと手を結ぶ相手を代えていたように受け取れるのである。しかし相手もあることであるから、そう単純ではなかったはずである。
 『刈谷市史』の氏真書状の解釈で、一つ気になる点がある。それは「苅屋入城之砌」という文面から、「刈谷陥落」という事態を導き出している点である。刈谷城に松井宗信が「入城」したとはあるが、「攻略」したとか「陥落」したとかはどこにも記載が無い。刈谷城に今川軍が入城する前提は、刈谷城への攻撃・陥落だけではない。かの山口左馬助が織田から離反した際には、笠寺など山口方の城に今川の兵が引き入れられた。そして「入城」という表現からも、刈谷城が自主的に開城した可能性を排除することはできないのである。
 ここで先に確認した水野氏二系統説を適用すれば、この事態をうまく説明することができる。『刈谷市史』によれば、天文十九年春までは、刈谷城主は水野守忠であったことになるが、その時点で重病であったとされている。そして間もなく守忠は亡くなり、忠政の子である信近が刈谷城主となる。刈谷城の返還が「十八年十一月以後二十年春頃までの間」であることから、刈谷城返還と刈谷城城主交替の時期は、ほぼ一致していたことになる。このことから次の推定が可能になるのである。

①.刈谷和泉守系統は今川方に近い立場をとっており、今川勢が岡崎に入場し安祥城を攻略するに及んで、今川方であることを鮮明にし、自ら刈谷城を供与したのではないか。
②.「苅谷令赦免」とは、軍事的に占拠していた刈谷城を返還するという意味ではなく、守忠の家督を小川下野守系の信近が継承することを認めるということではないか。
③.刈谷は結果として親今川系から親織田系に転換するが、今川と織田の和睦が前提にあるため、これが許容されたのではないか。

 一度軍事的に攻略した城を水野氏に返還したとか、水野氏が今川に帰属することを前提に刈谷城を返還したといった解釈をするよりも、水野氏二系統説を適用して説明したほうが無理のない解釈が可能になる。前者は、三河において今川が優勢である中で、なぜ攻略した城を織田方に返還しなければならないかが問題となる。後者は、帰属した今川氏から、いかにして水野氏が織田に復帰したのかが説明できていない。水野氏については『刈谷市史』で「一族一揆」と規定しているが、この規定は、水野氏は一族としての一体性と多様性の両面を常に備えていたと理解することができる。そしてこの水野氏のあり方を、水野氏自身が意識的に活用していたのではないか、そう思わないではいられないものがある。
                                                 《つづく》
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by mizuno_clan | 2008-03-25 04:00 | ★研究論文

【寄稿3】「水野氏と桶狭間合戦」 2/2 »»Web会員««

 水野氏は、尾張東南部と三河西南部に一族を展開し、織田、今川、松平とそれぞれに関係を構築し、情勢に応じて追従しまた距離をとる柔軟な外交をおこなっていたのではないだろうか。そしてこれは強大な勢力に挟まれた弱小勢力が、生き抜いていくために普遍的に有効な処世であろう。分立する一族がそれぞれに有力な勢力と結びつき、水面下でそれを共有することで、水野一族としての存立を図っていく、そんな強かな外交政策があったように思われる。
 織田・水野同盟というものも、そんな水野氏の処世の一つの現れであり、その同盟も他の勢力とのパワーバランスの最中で揺れ動いていたものと理解すべきであろう。そしてそのような水野氏の多様性を体現したような人物が、一人存在していた。それは謎の人物とされている水野十郎左衛門尉である。
 この人物は水野一族の誰に当たるのかがわかっておらず、しかも実に幅広く外部勢力と交信をしており、この点で立場がよくわからず「謎」だと言われている。『東浦町誌・資料編3』に、五点の十郎左衛門に関する史料が掲載されている。この五点の史料の後に解説があるので、それを引用することにしよう。

―後世の家譜類には登場せず、謎の人物(『刈谷市史』)とされている水野十郎左衛門の関連文書である。内容からして信元と同時期である天文十三年(一五四四)頃から元亀三年(一五七二)頃まで知多半島にいた水野氏の一族であることは間違いない。美濃の斉藤道三・今川義元・織田信秀と多方面に交信しており、しかもどれも厚礼である。他国の大名とこうした交信を交わす人物としては、まず考えられるのは信元であろうが、他に子の元茂と弟の藤次郎忠分も考えられなくもない。ただ、別の人物とすれば、信元との政治的位置関係が問題となり、信元を中心としたこの時期の水野氏像は大幅に修正される必要が出てくる。しかし、仮に誰であっても、従来織田信秀・信長との同盟関係のみが指摘されてきた水野信元ら水野一党の動きが単純なものでないこと、そして政治的動きが自立的で他国の大名と多様な政治的関係を結びうるものであったことは確認できる―

 水野十郎左衛門の「謎」とは、この人物が系図上の誰に当るかがわかっていないというだけのことではない。この人物が織田家だけではなく、それと敵対している様な斉藤道三や今川義元とも結びついていたことで、水野氏の立場が織田との同盟関係だけでは捉えきれない幅広さを持っていたことを示唆するからである。だが、この人物が水野一族の中で占める位置がはっきりしないと、そうした動きが水野氏全体のものであるか、一個人あるいは一部の者達の動向に過ぎないのかが判断できない。ただし、『東浦町誌』が指摘しているように、「どれも厚礼」であることから、水野氏の中心人物であることが想定されるのである。
 前に見たように、刈谷城の「入城」や「赦免」をめぐっての考察から、水野氏は分立した一族ごとに情勢に応じた外交を展開していたことを示した。しかし、この水野十郎左衛門は、一人で織田信秀、斉藤道三、今川義元と親しく交信しているのである。織田と同盟関係にあるとされながら、敵対しているはずの斉藤や今川とも関係を築いているこの人物は、いったいどういう立場の者だろうか。そしてこの人物は、水野一族の中でどのような影響力を持っていたのだろうか。
 この十郎左衛門の謎を解くことで、きっと水野氏の実像に迫る鍵を手に入れることができるに違いない。そんな思いで、しばらくこの人物について足跡を追おうとしたが、何の手がかりも得られずにいた。そしてこの人物が誰であるのかが、遂に明らかになったのである。横山住雄氏の『織田信長の系譜』に、その答えが記載されている。

―天文年間に、織田信秀と岡崎松平氏に挟まれて、家名存続に腐心をした人物に水野十郎左衛門が居るけれども、これまでの尾張・三河の史書にはほとんど書かれていないために、その本貫地や系譜などが何も判明しなかった。私も長い間史料採訪を重ねてその手がかりを得ようとしたが、収穫はなかった。ところが近年になって、戸田順蔵氏著「東浦雑記」を見たところ、この人物が幻の人ではなくて、知多郡東浦町緒川の地に実在したことを示す史料が掲載されていて、これを契機にして十郎左衛門の実像に迫ることが出来るようになった。(中略)先掲の棟札によって、天文十三年頃の小河城主は水野十郎左衛門信近であることがほぼ確定出来、同時に翌天文十四年の刈谷城主は水野藤九郎守忠であることも推定できるから、とにかく水野忠政とか信元という人物が刈谷・小河両城主を兼ねたなどということはひとまず否定して考えた方が良いのである―

 水野十郎左衛門は、水野信近であることが確認された。横山氏は、この信近を水野信元と同一人物と解釈しているが、信近は信元の弟にあたり、刈谷城主であったとする『刈谷市史』の見解に従うべきだろう。この点について、横山氏に直接質問させていただいたが、横山氏は返信で私の指摘に対して「しかり」と回答されているので、水野十郎左衛門信近は小川(小河)城主ではなく、刈谷城主で問題はないだろう。
 今川義元の承認の元で、守忠の養子となって刈谷城主となった水野信近が、十郎左衛門であった。信近が水野氏惣領である信元の弟でありながら、織田との同盟に縛られず応変に敵対勢力とも関係を結んでいたことから、義元も刈谷城主となることを認めたのかもしれない。そしておそらくは、信元もこの信近の行動を承認しており、道三や義元が「厚礼」をもってしたのは、信元の代理と認識していたからではないだろうか。
 『東浦町誌』も解説で述べているように、「水野信元ら水野一党の動きが単純なものでないこと、そして政治的動きが自立的で他国の大名と多様な政治的関係を結びうるものであった」ことの背景には、「一族一揆」があった。このことは、水野という同名で一族でありながら、小川、刈谷、常滑、大高、戸部は、それぞれ自立しており、独自の路線を選択しうるものであったと理解される。そしてそれが「一揆」であることから、同時に協調・調和・和合の契機を常に持っているということでもある。こうした「一族一揆」の中心として分立した庶家をまとめるために、信元自身の外交も多様性を内包していたことだろう。だが最も強く結びついている織田家の関係を慮って、信元自身は前面に出ず、弟の信近を代理に立てていたと考えるのが妥当なところではないだろうか。

 さて、この水野氏と桶狭間の合戦の関わりにおいても、水野十郎左衛門は重大な鍵を握っている。水野十郎左衛門の多角的な外交の中には、単なる交信を超えた今川義元との驚くべき関係が存在する。十郎左衛門と義元の関係を示す史料は、現在二点が残されている。一点は、西三河の鵜殿長持が安心軒という人物に宛てた手紙である。この手紙について、『織田信長の系譜』では次のように解説している。

―この鵜殿長持の手紙によれば、信秀は飯豊すなはち引馬城主の飯尾豊前守に密書を出した。その密書は安心軒が使者になって引馬城へ向かう手はづになっていたか、あるいは安心軒が信秀の密使を捕らえて密書を奪ったと考えられる。安心軒はいづれにしてもこの密書を飯尾豊前守乗連に届けるべきか否かを主人の水野信近に図り、結論としてこれを西郡(蒲郡)の鵜殿長持のもとへ送ったのである―

 この手紙では、水野信近が今川方のために働いている様子がはっきりと示されている。鵜殿長持は、東三河(愛知県宝飯郡)上郷城主であり、義元の妹婿であったとされている。今川にとって、東三河支配の要となる人物である。また飯尾豊前守乗連は、遠江引馬城主で今川の有力武将であった。
 織田信秀が今川方の飯尾乗連に密書を送ったとすれば、内応の誘いか何かであろうが、信近はこれを鵜殿長持に託した。つまり信秀の計略を妨害したのであり、今川方の長持とは以前から連携を取っていたとも考えられる。
 この手紙は天文十七年(一五四八)と推定されており、織田と今川の小豆坂合戦の年に当たる。十郎左衛門信近は、織田信秀から懇意の手紙を受け取っているので、実に立場が複雑な人物である。この時期信近は未だ刈谷城主とはなっておらず、安祥城も織田方が押さえている。西三河では織田勢が優勢である中で、信秀の外交を妨げ今川に恩を売っているのである。先に見た翌年の刈谷城の一件は、このことを見ても、軍事的な攻略により今川方になったとするのは無理がある。

 水野十郎左衛門は、織田信秀と同盟を結ぶ小川の信元の元で、西三河で激突している今川義元と密かに関係を結んでいた。そして、信秀の「懇望」と義元の「赦免」によって刈谷城主となる。この信秀の「懇望」が、水野氏との同盟が保たれていたことの証でもあり、義元の「赦免」が、十郎左衛門信近の隠された今川との結びつきを表している。そして次の義元から十郎左衛門への書状が、桶狭間合戦と水野氏にとって、直接な繋がりをもつものである。

―夏中可令進発候条、其以前尾州境取出之儀申付、人数差遣候、然者其表之事、弥馳走可為祝着候、尚朝比奈備中守可申候、恐々謹言―

 この書状は年の記載がなく、四月十二日とだけ記されている。多くはこれを永禄三年、尾張出陣の一ヶ月ほど前に、十郎左衛門に出陣予定を伝達し、その際の協力を依頼したものとしている。私はこの書状があるがために、水野十郎左衛門が誰なのかを問うてきたのである。この書状は、桶狭間の合戦時、水野氏は信長の味方ではなく、今川方となっていたことを示している。通説とは全く違っており、これが事実なら桶狭間の合戦に極めて重大な影響をもたらしたはずである。ただ水野十郎左衛門が誰なのかが謎だったために、この書状の持つ意味を位置付けようがなかったのである。しかし今や、水野十郎左衛門が水野信近であることがわかっている。そして十郎左衛門が信近であったことで、桶狭間の合戦における水野氏の実像が浮かび上がってくるのである。

 冒頭で触れたように、水野氏が桶狭間の合戦をどう戦ったのかは不明である。この時点で知多郡をほぼ手中にし、三河の刈谷周辺や熱田に近い戸部付近にまで勢力を拡大していた国人領主が、自領と同盟者の危機にどう対処したかが全くわからないというのは、かえってそこに重要な秘められた何かがあったのではないかと疑いたくなる。『信長公記』は、村木砦の戦いで字数を費やして水野氏を扱いながら、桶狭間合戦ではこの有力な同盟者について一切触れていない。これは一体、どうしたことだろうか。
 桶狭間合戦での動向は明らかではないが、合戦直後の水野氏の消息を伝える史料は残されている。今川氏真が岡部元信に出した感状である。その中に次のような箇所がある。

―剰苅屋城以籌策、城主水野藤九郎其外随分者、多数討捕、城内悉放火、粉骨所不準于他也―

 岡部元信は鳴海城を守備していたために撤退の機会を得られなかったが、信長と休戦して退去することになった。その帰途、突如として刈谷城を襲撃し、水野藤九郎信近を討ち取ってしまったというのである。そしてこれを氏真が褒めているのであるが、これはよく考えると奇怪なことである。岡部元信は対面上強がっていたかも知れないが、目の前で今川の大軍が総崩れになる様をまざまざと見せつけられた。そして敵中尾張に取り残されて、内心は死を覚悟していたに違いない。しかし信長との休戦交渉がうまく運び、無事に鳴海城を退去することができたのである。九死に一生を得た思いで尾張を後にしたことだろう。その岡部元信が、信長の同盟者である水野信近を攻めたのである。これは如何なる心境の変化なのであろうか。
 今川にとって水野は敵であるから、帰りがけの駄賃とばかりに苅谷を攻撃した、というのはこの状況にはあてはまらない。岡部とその配下の今川残党は、信長と休戦したのである。信長と休戦したということは、その同盟軍である水野とも休戦したということに他ならない。そして休戦に当たって、諸々の誓約を双方がしたはずである。誓約内容については、立場が不利な岡部側が自身の安全を確保するために、あれこれ腐心したであろうことは十分想像がつく。つまり岡部とその配下にとっては、安全な今川領内に達するまでは、休戦協定だけが身を守る手段であったはずで、その休戦協定を、未だ安全圏とはいえない刈谷で、自ら破って水野に攻撃を仕掛けたというのは、尋常なことではない。これは、ただの武勇でかたづけてよい問題ではない。いったいこれは、何を意味しているのだろうか。

 刈谷で討たれたのは、あの水野十郎左衛門信近である。そして信近は、義元が一ヶ月前に自身の出陣を知らせ、協力を依頼した相手である。この二つを合わせれば、信近は今川を裏切ったという結論に達する。つまり今川に味方であると思わせておいて、最も重大な局面で敵となって攻撃を加えたのである。岡部元信の行動は、この裏切りに対する報復であり、その点で彼らは休戦協定違反だとは考えなかったのである。そうでなければ、今川の総大将がわざわざ協力を依頼した味方を、合戦が終った直後に攻撃した岡部元信の行動を、どのように説明するのであろうか。岡部の戦いぶりを見ても、信近を討ってさっさと引上げている。刈谷城をどうこうしようというのではなく、信近を討てればそれでよかったということであろう。
 水野信近は今川方のように装い、背後から義元を襲い、それが今川の敗北につながっていったとするならば、義元の書状と岡部元信の行動の矛盾が、うまく説明付けられるのである。それでは、この信近の裏切りに水野信元はどのように関与していたのであろうか。それは次の点を考えるとはっきりする。
 織田と水野が同盟関係にあれば、今川から見て水野も敵となる。そして敵との対決はこの場合、順次東側から発生する。織田領の最東端の桶狭間で戦いがあったのもそのためである。しかし桶狭間のもっと東に水野氏の刈谷城はあり、義元の進撃ルートからすれば小川城も最初の標的になってしかるべきである。それなのに史実では、今川の大軍はここを素通りしている。それまでの行軍となんら変らず、ただ通り過ぎたのである。これはもはや明らかで、敵の面前を通過したのではなく、味方かもしくは敵ではない勢力の脇をすり抜けたのである。このように水野信元も、信近に同調して織田との同盟関係を破棄したように装っていたのである。
 『張州雑志』には、大高城の南方に、正光寺砦と氷上砦があったことが記録されている。この砦の配置をみると、鷲津砦と丸根砦を合わせて大高城を包囲するかたちになっている。鷲津・丸根の砦だけだと、大高城の南方はがら空きといった状態になる。大高城包囲ということであれば、この正光寺砦と氷上砦があったとするほうが自然なのであるが、『信長公記』にはその記載が存在しない。このことは、砦はあったがある時点から放棄されて機能していなかった、そう考えると辻褄が合うのではなかろうか。そしてこの砦には水野氏の将兵が入っており、偽装としての信長との同盟破棄によって、破却されたものと考えることができる。そもそも太田牛一は、水野氏の偽装と裏切りを書き記すつもりがなかったのあろう。その結果、桶狭間の合戦からすっぽりと水野氏の姿が、二つの砦とともに消えてしまったように思われる。
 天文十八年(一五四九)に安祥城を落として、西三河から織田信秀の勢力を駆逐して以来、今川義元は十年に渡って三河の領国化に勤めてきた。今川領国の東の一大勢力北条氏と、北の強豪武田氏との間に同盟関係を締結している義元は、必然的に西へと領国を拡張させる戦略に立脚している。三河を電光石火の如く自領に組み込み、三河西南の刈谷城を守忠に供与させた。この後は、三河経営に力を注ぎつつ、さらなる西進をめざすことになる。そうなれば、刈谷に隣接する水野氏が次の標的になることは免れない。
 これに対して、水野十郎左衛門信近とその兄信元が、密かに今川寄りの立場をとるなどして、その攻勢をかわそうと腐心していたのである。そうして結局のところ水野氏は、今川に屈服したように偽装したのではないか。義元のような人物は、尾張の信長と決戦するに際して、その手前にいる水野氏を信長の同盟者のまま放っておく事はないだろう。むしろ義元の考えでは、水野氏の自軍引き入れに成功することが、尾張侵攻の前提条件であったことだろう。水野十郎左衛門信近などの行動から、軍事的手段を取るよりも、政略で十分に傘下に収められると見ていたのではあるまいか。織田家と長年同盟関係を結んできた水野氏であったが、義元の攻勢に抗することにも限界がきて、ついに義元に屈服した。義元は目論見どおりと満足しただろうが、これが偽装に他ならなかったのある。
 
 桶狭間の合戦当時、織田信長と水野信元は同盟関係にあった。これが通説であるが、桶狭間合戦において水野家の姿は見出せない。信元だけでなく、刈谷や常滑の水野一族もどうしていたのか消息不明である。この合戦の主役は今川義元と織田信長と相場は決まっているが、信長領より今川に近接している同盟者が蚊帳の外というのも奇妙な事である。
 桶狭間合戦の真実は、ひょとするとこうした奇妙さを解き明かすことで立ち現れてくるのではなかろうか。水野氏が今川方であると偽装してこの合戦に臨んだとしたのであれば、あの劇的な結末にどのような影響を与えていただろうか。寡兵の信長軍の攻撃による大軍今川の敗北は、最初迂回奇襲によって説明され、ついで正面攻撃説により説明されているが、未だ釈然とした全体像を得るに至っていない。その中で水野氏が果たした役割を解き明かすことで、永禄三年に起こった大逆転劇の真相を解き明かすことができるのかもしれない。
 ひとまず私は、桶狭間合戦において水野氏は今川方と偽って時を向かえ、合戦当日に義元の背後から襲いかかったと考えたい。この水野氏の行動が、桶狭間合戦にどのような影響を与えたのか。また、強大な今川に対して、なぜ偽装までして立ち向かおうとしたのであろうか。さらに、圧倒的な大軍を背後から奇襲するにしても、それで本当に勝てる自信があったのか。そして、本来奇襲の主役である信長との連携はどうなっていたのかなど、次々と疑問は生まれてくる。これらの疑問に答えるためには、もっと広範な検討が必要となるだろうが、本稿はここまでとし、その機会は別に譲ることとする。
                                                    《了》



著者foxbladeさんからのコメント――
 この「水野氏と桶狭間合戦」は、先に「『桶狭間合戦始末記』と私見」としまして、[水野青鷺に]読んでいただいた文章から水野氏に関する記述を取り出し、訂正を加えて独立した一文としたものです。
私として初の試みですので、拙いものではありますが、一研究結果として投稿いたします。
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by mizuno_clan | 2008-03-25 03:59 | ★研究論文