【寄稿22】「鳥居観音史料取材の進捗報告Vol.1」

「鳥居観音史料取材の進捗報告Vol.1」

 この度、本会会員の広中一成さんから、「水野梅暁史料に関する中間報告書」をお寄せいた
だきましたので、会員の皆さんにご報告致します。

 以下の報告書は、Word形式でいただいたものを、コピー・アンド・ペーストしたものです。

                                              研究会事務局

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水野梅暁史料について

水野氏研究会 会員各位

 水野克彦様はじめ、御研究会会員のみなさまには平素よりお世話になっております。
今年1月30日付の「水野氏研究会」ブログで、「【寄稿20】ワークショップ「淨圓寺・鳥
居観音史料から見る近代日中関係」をご報告いたしました。すでにそこにも書きましたと
おり、鳥居観音は戦時期中国で活躍した曹洞宗僧侶の水野梅暁氏と縁のある寺院です。
 ワークショップの後、二度にわたって鳥居観音にうかがい、史料の保存状況などを確認
してまいりました。
 現在も調査中ですが、ここには水野梅暁氏が中国から携えてきたと思われる書画や写真
などが数多くあり、これらを整理することで水野梅暁の人物像がみえてくるのではないか
と思います。
 また、整理が進み次第、このブログでご報告いたします。

                               広中一成
=====================================


[註]
1.「【寄稿20】ワークショップ「淨圓寺・鳥居観音史料から見る近代日中関係」


2.史料取材時の状況につきましては、取材に立ち会われた川口泰斗様の「Facebook」の記事を、
水野氏史研究会公式「Facebookページ」にシェアしていますので、ぜひご覧下さい。


3.広中氏の著書で、現在話題の『ニセチャイナ』と、著者略歴につきましては、
出版社のウエブサイト「社会評論社」をご参照ください。
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by mizuno_clan | 2013-09-26 03:23 | ★史料紹介

【寄稿21】刈谷市文化財指定「水野氏関連古文書」の翻刻

刈谷市文化財指定「水野氏関連古文書」の翻刻

                              文責:水野青鷺

 刈谷城は、天文2年(1533) 、水野忠政(徳川家康の外祖)によってに築城され、その後、江戸時代に刈谷藩が設けられると、忠正9男忠重の世嗣・水野勝成が初代藩主となり、明治維新を迎えるまで、9家22人の譜代大名が藩主となった。
 平成25年(2013)は、本城築城480年記念にあたることから、本年度は「刈谷城築城480年記念事業」として、刈谷城に関する記念展覧会をメインイベントとし、そのほか様々な関係行事が実施されている。

 これに先立ち、平成25年1月24日、新たに水野氏に関連した「水野忠重」に係わる2件の古文書が刈谷市指定文化財に指定された。

詳細は、次のURLを閲覧いただきたい。
[Web]刈谷市公式サイト「新たに2件の文化財が指定されました」


【明細】
指定 区分 :刈谷市指定
区    分:古文書(*1)
指定年月日:平成25年1月24日
名   称:福谷定乗書状/津田宣久判物
所 在 地:刈谷市郷土資料館(愛知県刈谷市城町1-25-1)
所 有 者:刈谷市

(今回の指定により、刈谷市内の指定文化財は「国指定1、県指定11、市指定79」の計91となった。)


 上記のWeb記事には、これら二点の古文書内容の「解説」および「判物(*2)・書状の画像」は記載されているものの、本文の翻刻文(*3)は、掲載されていない。
 従って、当記事について、担当部署に問い合わせたところ、翻刻については『刈谷市史』に記載済との事であり、明確な返答は得られなかった。


】『刈谷市史』第六巻 資料(近世) を閲覧したところ、「第一章 水野氏の時代 第3節 織豊大名水野氏 忠重の所領支配(pp.138-139)」に、「福谷定乗書状」の解説が記されており、同書(p.269)のⅡ土地・年貢「四二 今岡村物成免究に付書状 文禄四年十月」に翻刻文が記載されていた。

以下に「刈谷市公式サイト」からの抜書を記す――
●福谷定乗書状(ふくたにさだのりしょじょう)
種別:有形文化財・古文書
所有者:刈谷市 刈谷市東陽町1丁目1番地
内容:
 文禄四年(1595)10月のもので、福谷藤介(ふくたにとうすけ)の代わりとして福谷伝左衛門定乗(ふくたにでんざえもんさだのり)が、同年の今岡村の年貢率を3割7分と決めたことを五郎右衛門以下今岡村の農民らに知らせたものです。福谷定乗は水野忠重の家臣と思われます。前年に水野忠重が刈谷に復帰していることを示す史料です。刈谷市に残る中世文書として希少なだけでなく、村の成立を示す史料として、また検地による年貢率の分かる史料です。


以下に『刈谷市史』からの抜書を記す――
[  ]内および「註」は、筆者による追補説明である。

忠重の所領支配
忠重が五〇〇〇石の加増をうけた直後、今岡村の文禄四年[1595]の免相(*4)が三割七分と定められ、村方に伝達された(今岡村文書、『近世資料編』268-269頁、図1-49)。
 先出のように今岡は天正拾八年[1590]以来吉田好寛(*5)の給地であった。しかし好寛は秀次事件のあとは豊臣秀康(徳川家康の次男お義伊、のちの結城秀康)に付けられているので、所領は他国に移されたとみられる。今岡が忠重領地になった確証はないが、返付された「本知」の内である可能性も考えられるので、福谷定乗は忠重家臣とみて、検見(*6)によってこの年の免相を定めたいのと[ママ]みておく。
今岡は新しい東海道筋の村であるが、荷物継送りといった宿駅的機能の遂行に関して、池鯉鮒[ちりふ → 知立(ちりゅう)]と対立したようである。詳しい事情はわからないが、上様(秀吉であろう)の鷹や荷物の運送について、今岡は絶対に渡さないとする慶長二年[1597]の池鯉鮒村役人の文書が今岡に残されている(『近世資料編』2669頁、図1-50)[知立村年寄証状]。近世的宿駅制成立の前段階であり、池鯉鮒村は宿駅として発展をはかるため、領主側と対立してもでも権益を確保しようとしたのであろう。
 なお野田村の元禄十五年(1702)の明細帳に、「百六年以前慶長二酉年、水野和泉守様御検知水帳(*7)所持仕候」とあって(『近世資料編』379頁)、この年に忠重が領地検地を行い、その検地帳を所持していると書き留められている。これが残されていれば大変面白いが、それらしきものが野田村文書中に見当たらないので、真偽未定として今後の調査に期待したい。 
(『刈谷市史』第六巻 資料(近世)pp.138-139)


[古文書の翻刻文]
 四二 今岡村物成(*8)免究(*9)に付書状 文禄四年[1595]十月

   以上

 今岡村当物
 成之義、三ツ七分ニ
 相究申候、
 少も如意仕候て者
 くせ事可為候、
 為其ニ 一筆如此候、
 恐々謹言
  
    文禄四年
     拾月廿八日
                   福谷藤介代      
                        同伝左衛門
                            定 乗(花押)

    五郎右衛門尉
    弥一郎
    百姓中ヱ
                      (「今岡村文書」今岡明神社所蔵)


[釈文]
 今岡村の本年貢率の件は、年貢率3割7分と定める、
少なくも身勝手なことをすれば、誠にけしからぬことである、
そのため、この様に文章に記す、 恐れながら謹んで申し上る、
   端書きは無い(参考資料Ⅲ)、

    文禄四年[1595年]
     拾月廿八日
                   福谷藤介の代理人      
                        福谷伝左衛門
                            定 乗(花押)

    五郎右衛門尉
    弥一郎
    百姓連中へ




】その後、残りの「津田宣久判物」の翻刻に取り組み始めたが、浅学のため文字が読み取れず、無為徒食して四月余りを過ごす。しかし8月には、刈谷城築城480年記念事業の一環として、水野氏に関連したイベントが開催される予定であることから、それ以前にはなんとか翻刻したいと意を決し、古文書に明るい会員の方に相談したところ、『愛知県史』資料編12 織豊2 「天正18年(159)」に、七七 津田宣久判物 刈谷市教育委員会所蔵文書 が収録されているとご教示いただいた。これにより、二点共に、翻刻された文書の収録先が判明するに至った。ここに記して謝意を表します。

以下に「刈谷市公式サイト」からの抜書を記す――
●津田宣久判物(つだのぶひさはんもつ)
種別:有形文化財・古文書
所有者:刈谷市(愛知県刈谷市東陽町1丁目1番地)
内容:
 天正十八年(1590)のもので、同年8月頃に水野忠重(みずのただしげ)が伊勢国神戸(かんべ)に移されたあと豊臣秀次の家臣である津田四郎兵衛尉宣久(つだしろうべえのじょうのぶひさ)が泉田村百姓に対して出したものです。したがって水野忠重の転封(てんぽう)後、豊臣秀次の支配を受けていたことを示しています。刈谷市に残る中世文書として希少なだけでなく、現在のところ史料に泉田(いずみだ)という地名が現れる最初のものであり、村の成立を示す史料として、また豊臣家臣の検地奉行名や検地による年貢率の分かる史料です。


以下に『愛知県史』資料編12 織豊2 (pp.89-90)からの抜書を記す――
[ ]内および「註」は、筆者による追補説明である。

[古文書の翻刻文]
十月十三日 豊臣秀次の臣津田宣久、三河国和泉田村の年貢率を定める。

 七七 津田宣久判物 刈谷市教育委員会所蔵文書

   以上
 (碧海郡)和泉田村之
 免あい(相)之事、
 田畠おしこめて
 三つ七分ニ定置
 うへ相替義有
 之間敷者也、
                     津田四郎兵衛尉
   天正拾八年               
            十月十三日     宣久(花押)

      いつミ田村
            惣百姓中



[釈文]
 和泉田村の免相のこと、田や畠の成物を全て入れて、
年貢率3割7分と定めるので、これを替えることは、あってはならない、
   端書きは無い(参考資料Ⅲ)、

天正拾八年(1590年)     津田四郎兵衛尉
      十月十三日            宣久(花押)

    和泉田村
    統べての百姓連中へ


[地図]
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[註]
*1=古文書(こもんじょ)=特定の相手に意志を伝えるために作成された書類のうち、江戸時代以前のもの。
*2=判物(はんもつ)=室町時代以降、将軍・大名などが所領安堵(あんど)などを行う際に花押を署して下達した文書。
*3=翻刻文(ほんこくぶん)=和紙に毛筆で記載された文字を「活字」に直したもの。
*4=免相(めんあい)=元は石高から貢租としての納付分を差し引いて、残りの農民による自由な処分を免(ゆる)した分を指したが、江戸時代前期以後には貢租の占める割合を指すようになった。たとえば、免四つ(四公六民)、免五つ(五公五民)などと呼ばれている。免合とも。
*5=吉田好寛(よしだよしひろ ?-1615 修理、亮)=美濃の出身、家康の臣であったが、去って秀吉に仕え、尋(つ)いで、秀次に転任。大坂夏の陣の元和元年五月七日、軍律違反の責任で、天満川に投身自殺とも、敗敵を追撃して天満川に陥り溺死したともいう。
(『戦国人名辞典』)
*6=検見/毛見(けみ)=中世・近世の徴税法の一。米の収穫前に、幕府または領主が役人を派遣して稲のできを調べ、その年の年貢高を決めること。けんみ。
*7=<「水帳(みずちょう)」は「御図帳」の当て字> 1 検地帳のこと。 2 人別帳のこと。
*8=物成(もりなり)=1 田畑からの収穫。 2 江戸時代の年貢。本途物成(ほんとものなり=年貢米)と小物成(こものなり=山野・湖沼の用益などに課した雑税)があったが、特に本途物成をさす。 3 禄高の基礎となる年貢米の収入高。
*9=免究(めんぎめ)=江戸時代の年貢の賦課率。免定(めんさだめ)。


[参考資料]
Ⅰ.刈谷市トップページ>観光・文化・スポーツ>歴史・文化>歴史・文化のお知らせ
    >新たに2件の文化財が指定されました
Ⅱ.C-1 >刈谷城跡
Ⅲ.【寄稿19】古文書の文法「已上」について 

update:2013.06.20
 本文中の二カ所が、免相が三割七分であるのに対し、釈文では、三公七民(納税30%、農民70%)と誤記しました。 正しくは、「年貢率3割7分」です。訂正してお詫びします。


[余滴]
 刈谷市公式サイトには、 福谷藤介(ふくたにとうすけ)および、福谷伝左衛門定乗(ふくたにでんざえもんさだのり)と、ルビが打たれているが、刈谷市の北東部にみよし市があり、同市地名に「福谷(うきがい)」という地名が存在する。現在も福谷町(うきがいちょう)、福谷城(うきがいじょう)などと称されており、地名や旧跡では、「うきがい」と呼ばれている。
 一方、愛知県出身者では、最近有名になった、中日ドラゴンズの投手「24福谷 浩司(ふくたに こうじ)」君がいるなど、人名においては、やはり「ふくたに」である。
しかしながら、水野氏の場合などの家名に見るように、出身地の地名から家名を採ったものが多いと思われる。
このことから元々は「福谷」も、熊谷「Kumagai」などのように「Fukugai」と発音されていたものが、頭の「F」が無声化し、ごく小さく発声されたり、またほとんど発声されなくなり、「Ukugai」と発声されるようになった。また「u」が、訛音化して「i」となり 「Ukigai」と なっていったのではないか、とも考えられる。
しかしながら、地元の人以外は、この「うきがい」は難読漢字であるため、何時しか一般の人たちが読める「ふくたに」と称されるようになったのであろうか。
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by mizuno_clan | 2013-06-19 20:19 | ★史料紹介

【寄稿19】水野忠央公奉納の十一面観音 »»Web会員««

◆本会々員・後藤芳央様所蔵「第十一代新宮城主水野忠央公奉納十一面観音」
 第十一代新宮城主水野忠央公から、初代新宮城主水野重仲公に奉納されたと推定される「十一面観音」の記事と写真が、本会々員・後藤芳央様から寄稿されましたので投稿します。
                          研究会事務局



第十一代新宮城主水野忠央公奉納十一面観音

 今回は入会をさせていただきまして有難うございます。
小生の家に総高80cmの十一面観音様が居られます。光背にかすかに読み取れますが、「紀伊国新宮城主水野忠央公」「全龍院殿ニ奉納ス」とあります。かねてより気になっていましたが、貴会に判る方が居られるかもしれないと思い入会させていただきました。
 光背の裏側に痛みがありますが、像自体は指等の欠損も無くいたって良好です。「紀伊国新宮城主水野忠央公」は写真でも確認できますが、「全龍院殿ニ奉納ス」の部分は修理跡があるため写真では確認できません。しかし、よく見ると間違いなく書かれていることが確認できます。この仏像の由緒が少しでも解かりましたらと思っています。
 「全龍院(*1)」とは初代新宮城主水野重仲(*2)のことと思われます。といいますのも、重仲の法名は「全龍院殿日山常春大居士」となっています。ただ、ネットで調べてみました範囲では、荼毘にふされたお寺と、菩提寺とお墓が別々で、この仏像が何処にあったものかと悩んでおります。この仏様の由緒がわかりますように、お手伝いいただけましたら幸いです。
 以前別の仏像をレントゲンを撮りましたところいろいろなものが出てまいりました。もし由緒が光背に書かれている通りでしたら、レントゲンを撮ってみたいと思います。

                           後藤芳央


[註]
*1=『寛政重修諸家譜』「重央」の最後部に、「元和七年十一月十二日和歌山にをいて卒す。年五十二。月山常春[今の呈譜、日山常春全龍院]と號す。同國直川の全正寺に葬る。」とある。元和七年(1621)。
*2=『寛政重修諸家譜』の「重央」には、「藤四郎 藤次郎 對馬守 出雲守 従五位下 今の呈譜はじめ重信、重央、のち重仲にあらたむといふ。水野藤次郎忠分が三男、母は某氏」とある。

[参考資料]
【新宮水野家譜】
重仲━重良━重上=重期=忠昭━忠興=忠實=忠寄━範明=重啓━忠央━忠幹━


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by mizuno_clan | 2012-01-20 22:23 | ★史料紹介

【寄稿16】白銀師 水野源六 »»Web会員««

白銀師 水野源六

                                        筆者:水野青鷺

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 高百三十万石加賀藩は、藩政前期の豊富な資金力を背景に、文武の府を目指した歴代藩主が、金属工芸・漆芸・陶芸職人などを招聘した。この一環として中世末期の京都の名金工後藤家も金沢に招かれた。金沢における金工とは、鋳物・彫金・鍛金・象眼等をさす。
尚、本稿では加賀藩祖(初代藩主)は前田利長、開祖は前田利家としている。


●源次家
▶元祖源次好栄――豊臣秀吉家臣であったが、天下趨勢が徳川に代わる頃、武士を捨て白銀師(*1)を志し京都に移る。信長および秀吉から大判・分銅の二役を拝命する御用彫金家(*2)、後藤宗家四代後藤光乗に入門。光乗の次男長乗にも師事。後藤家が加賀藩前田家から高禄で召し抱えられるに伴い、加賀藩初代前田利長の御用を勤めるようになり、慶長十四年(1609)頃、後藤家の有能な実働先遣部隊として、家族共々金沢に送り込まれ、五人扶持を得る。幼少の子供達を厳しく仕込んで源七・源六の二人ともに御用職人に育て上げる。慶安二年(1649)没。好栄の通称「源次」は長男源七が継ぎ、次男「源六好房」は別に家を興す。

▶二代源次源七――父の没後源次継承、白銀師裁許(許可)を命じられる。寛文七年(1667)死去。

▶三代源次――元禄六年(1693)没。

▶四代源次――享保四年(1719)没。

▶五代源次――宝暦元年(1751)没。

▶六代源次――宝暦三年(1753)没。

▶七代源次――六代源次の弟を養嗣子。安永七年(1778)没。嗣子無く嫡統絶家。

▶八代源次――安永九年(1780)、源六光政の斡旋により、鞘師(*3)九蔵次男元房(源六光政
に師事)が、後藤東乘に学び、源次家を再興。天保三年(1832)没。

▶九代源次克弘――細工者に列す。嘉永五年(1852)没。

▶十代源次克正――克弘次男克正が家督相続。元治元年(1864)没。

▶十一代源次克則――廃藩(明治四年[1871])の際源次家廃業。明治十五年(1882)頃、金工職工は雇主から容易に馘首され、賃銀をカット・停止されることが多かったことから「銅器職工同盟」をつくって地位の保全にあたった。「銅器職工同盟規定名扣(控)」の加盟者名筆頭に「第壱号 枝町四拾四番地 水野克則」の名が見えることから、廃業後も金沢で銅器職工として生計を立てていたことがわかる。


●源六家
▶初代源六好房――源次好栄の二男。寛永元年(1624)、十八歳で分家独立。寛永年中、二代藩主前田利常より五人扶持を下され白銀職御用を任じられる。御差料(腰に差す刀)や御好み(趣味の注文品)の重要な仕事を多数受注。軍の武器などの定式(一定の形式)のものも毎年多数仰せつかる。正保三年(1646)、高岡町の武土地の一角に邸地を賜り別家を構える。後藤宗家の悦乗が加賀を去る際、水野本家筋である源次家三代源次にではなく業界最長老で元締め的存在の源六家初代に「白銀職頭取の職務代行」を命じられる。後、三代前田光高、四代綱紀と加賀藩三代の御用を六十四年間に渡り勤め上げ、利常隠居先の小松にも度々出向き御用を賜る。貞享四年(1687)、八十二歳で病死。

▶二代源六照喜――初代存命中に藩御用を仰せつかり、初代没後家督相続し、初代同様に町地諸役御免となり奥納戸御用など多数拝命。寛永元年(1704)、初代同様御細工所において兜の前立てなどの御用を勤め褒美を賜る。五代藩主前田吉徳の嫡子勝丸の弓初めに当たり、お弓土蔵役所の御用を勤め、この後幾度も拝命。この御用は「矢筒」の細工などであったろうか。また武器や軍の定式の仕事を数多く勤める。四代藩主綱紀、五代吉徳の御用を五十五年間勤めた。元文二年(1737)九月、七十四歳没。

▶三代源六多光(まさみつ)――通称源六郎、享保九年(1724)四月、先代同様、父存命中に御用を仰せつかる。元文二年(1737)、家名相続。先代同様各種御用を勤める。宝暦元年(1751)、表納戸の御用で、京都北野天満宮へ奉納の宝剣(*4)の金具制作に当たり、首尾良くできて金子拝領。同年、京都神護寺へ寄進された太刀の制作にも携わる。当御用に携わった内の一人、桑村源左衛門克久については、伝来の家風に自己の意匠を加えた斬新な形式と、鏨痕(ざんこん)の鮮麗は、当代に比肩するものなしと称せられたことから、多光らは大いに刺激を受けたものと考えられている。また多光は、良工(優れた技術を持つ彫刻家)と称せられる。五代藩主吉徳から九代重教までの五代にわたり三十七年間御用を勤める。宝暦十年(1760)二月、五十九歳没。

▶四代源六光政――旧姓「大川端」で多光門下、その技精妙(優れて巧み)で、あらゆる技術に精通。この代から十代まで養子となる。父没年三月に家名相続。明和三年(1766)、将軍家拝領の家宝御長巻(柄の部分の長い太刀)の焼損に伴い、願い出て長巻を再製。この金具師の仕事は、元締として七代源次に委託した模様。寛政元年(1789)、九代藩主重教(しげみち)霊堂の唐戸の金具仕事で、鉄地に御定紋(加賀梅鉢)、葉唐草の銀象眼に仕上げているが、白銀師といえども鉄地を扱い、建築建具の金具までをも扱った事が判る。さらには印章も依頼され制作した。また、絶家していた源次家再興を図り鞘師九蔵の次男を斡旋。寛政十二年(1800)六十一歳没。

▶五代源六光益(みつえき)――光政門人・鈴木光弘の次子を養嗣子。文化四年(1807)、長巻(*5)の受注に当たり、研師(*6)、鞘師、柄巻師(*7)など八名の名が記され、その内、四名は三代源六の時にも組んでおり、上述の鞘師九蔵も含まれている。このほか刀工(*8)、塗師(*9)などが居る。このように御用職人集団は結束が堅く、仕事の請負に当たっても共同受注を行っていたを窺わせる。十代藩主治脩(はるなが)、十一代斉廣(なりなが)の二代にわたり二十一年間の御用を勤め、文化十三年(1816)五十一歳で没。

▶六代源六光則――柄巻師北川長蔵の弟源蔵を養嗣子。歴代同様に奥納戸御用などを勤め、
十一代藩主斉廣が嫡子勝千代に持たせる衛府(京都護衛役)の金(こがね)作りの太刀(刀身は則光)の御用を賜り、褒美を頂戴。これまでは、こうした衛府の太刀制作は京都へ仰せつけられていたが、この度は各職それぞれが京都に入門し技術取得したことで、初めて当地で全て出来た。天保七年(1836)、再び豪華な衛府の太刀を制作し、褒美を頂戴した。
十一代斉廣、十二代斉泰(なりやす)の二代に仕え、天保九年(1838)十一月、五十二歳没。

▶七代源六光和――旧姓高尾源吾、初名光忠を養嗣子。歴代御用の三所物(みところもの)(*10)ほか、天保十二年(1841)四月、三池伝太光世(平安時代末期、筑後国の刀工)の刀身で野太刀の仕事を賜る。金作の定紋を彫り上げ、魚々子地(*11)、七宝流し螺鈿入りという豪華なものであった。嘉永元年(1848)八月、十二代斉泰の二男喬松丸(後の十一代鳥取藩主池田慶栄[よしたか])の入婿に伴い、奥納戸において御差料大小の仕事を急ぎ勤めた。また同年、御細工所に召し出され、具足金物を三ツ葵の御紋に、また甲州流真の鞭の金具を、銀無垢に牡丹唐草を彫り、見込には三ツ葵の御紋を彫り上げた。このほかにも武器の御用を多数勤めている。安政三年(1856)正月、軍御用増加に伴いご用聞き職人も増員したことで、白銀御用棟取役を仰せつかる。同役名は当家由緒書で初見。安政二年(1855)白銀職棟取。慶応二年(1866)七月、六十六歳没。

▶八代源六光春――旧姓谷源三を養嗣子。文久三年(1863)、十二代藩主斉泰が初めて上洛するにあたり、水野家ではこれまで代々こうした時の御差料や太刀などの御用を勤めてきていることから、現地で急用が発生した際の予備として先に上洛し待機していた。予測通り太刀の修繕の仕事があり、これを急ぎ仕上げたので、「厚き志之旨結構」の書立(書き付け)を以て金子を拝領。元治元年(1864)、藩主斉泰が金作りの太刀などの新調に際し、御用を承り金子拝領。家督相続の慶応二年(1866)、十三代慶寧(よしやす)の代替わりに際し、御差料、銀(しろがね)作りの野太刀用金具の御用、官服の金具修復まで仰せつかり、金子拝領。このほか歴代が勤めてきた御用の数々を承る。 当家由緒書は、明治三年(1870)五月で終わっている。明治五年(1872)、大蔵省から三千円の加賀象眼花瓶を受注。翌年ウィーンで開催された万国博覧会(1873.05.01-1873.10.31)では、光春は加賀象眼を出品して優勝牌を受けた模様。その後も宮内省から常にご用命を受ける。明治十年(1877)、金沢に銅器会社が創設されると、光春は頭取の一人として参画する。初代から定住してきた高岡町邸宅売却。明治二十八年(1895)五十八歳没。

▶九代源六光美――本名石王次三郎。石王家から一旦士族中村家へ養子に入り、同家を廃絶し水野家の養嗣子となる。明治十五年(1882)、金沢区費留学生に推挙され京都府の画学校(現京都市立芸術大学)に留学。同十九年(1886)卒業後、石川県専門学校等の教師を勤める。同二十一年(1888)、教職を辞して金属象眼に従事。同二十四年(1891)、海外に通用する新しいデザイン創作を目論み販路拡張を謀る。明治二十八年(1895)の家督相続後は、加賀象眼が最盛期を迎えたが、他地方の模造品に悩まされ、また戦乱により打撃を受けるなどし、やがて長期低落期に入っていった。同三十三年(1900)、皇太子(後大正天皇)成婚にあたり、金沢市は源六光美に制作を依頼し貴金属製鴛鴦(オシドリ)置物を献上した。この後宮内省に十数点の製品を納入。同三十六年(1903)、合金に関する研究を試み、朧銅(おぼろどう)を製し、また九谷陶器と銅器とを継ぎ合わせた花瓶を制作し好評を博した。同年嗣子朗のために銅像制作工場を築造し、同業の発展に尽力した。昭和十三年(1938)三月七十一歳没。

▶十代源六(光晶)朗――埼玉県出身、旧姓堀内、初名虎次郎、光朗。金沢工業学校に通うことを条件に養子嗣子となる。朗は平面図案より立体造形に優れていた模様で、工業学校では窯業科製陶部で陶磁塑像を学ぶ。明治三十八年(1905)、ベルギー万国博に出品し名誉賞を受ける。彫刻家を目指し、養父の反対を押し切って東京美術大学(現東京芸術大学)の彫刻科に進学。在学中の明治四十二年(1909)、文部省美術展覧会に彫刻作品を出品し入選。抜群の腕を持っていたが、諸事情により中退。その後も海外で数度受賞を果たし、大正四年(1915)八月、農商務省より二カ年間米国各地の金属工芸視察を命じられる。大正七年(1918)九月、金沢卯辰山日蓮宗善妙寺の日蓮上人銅像を建立。十代朗の絶頂期であった。その後大正末期から昭和の初めにかけて金沢市金属工芸協同組合長を勤め、職人集団の
一方の旗頭として、衰退する業界の指導に当たるとともに、町方職人系と御用職人・御細工職人系との内紛に巻き込まれ、以降不出品となる。嫡男旺に次第に望みを託すようになるが、長男は五十を過ぎてからの子であったことから焦りもあった模様。晩年は加賀象眼の資料を体系付けることや展覧会で世間を啓蒙することに熱心であった。昭和四十年(1965)全てを息子に託して七十九歳没。

▶十一代 旺(ひかる。現当主・水野源六は踏襲していない)
 =石川県工業試験場情報指導部勤務 漆器の高品質化に関する研究員


[註]
*1=白銀師(しろがねし)=ハバキは刀身の手元の部分に嵌める金具。刀身が鞘から容易に抜け落ちることを防ぎ、かつ、刀身を鞘に固定する機能がある。刀身は鞘の中で棟(むね)とハバキによって支えられ、他の部分は宙に浮いている状態で保持される。もし刀身が鞘に触れるとその部分が錆びやすくなる。古くは、刀匠が鉄で作っていたが、のちに専門の白銀師(しろがねし・ハバキ師)によって、素銅、赤銅、銀、金などで製作される。

*2=彫金師(ちょうきんし)=鍔や縁頭の彫刻や象嵌の専門家。金属を主に鏨(タガネ)で彫って作り上げる。刀身彫刻の目的は、大きく分けて三つあり、1.樋(ひ=日本刀の側面につけた細長いみぞ。血流し)などで刀身の強度をほとんど落とさずに軽量化を図る。2.神仏の名前や象徴を彫り込み、戦勝祈願や繁栄を祈願する信仰的なもの。3.装飾として彫られたもの。がある。非常に時間と手間が掛かるため、納期は半年から一年程度を必要とする。

*3=鞘師(さやし)=日本刀の鞘を制作する。拵(こしらえ)の鞘は、日本刀が本来の切れ味を出す為に刀身に着いた油を打ち粉で拭き取って鞘に収めることから、そのままにして置くと錆てくる。従って刀を使わない時は日本刀全体に丁字油を塗り、拵の鞘とは別の白鞘に入れて休ませる。元来、拵はよそ行きの着物で、白鞘は普段着であることから、昔は白鞘を「休め鞘」や「油鞘」といった。平素は普段着を着せておくことが理想であり、また白鞘は錆が出た場合は、直ちに割って中を掃除することが出来るよう、続飯(そくい=飯粒をへら状のもので押しつぶし練って作った糊)で付け、割れやすくしてある。

*4=北野天満宮には、当宮を崇敬した加賀藩主前田家から、御祭神菅原道真公薨去後五十年目毎の大萬燈祭に奉納された刀剣が宝物殿に伝存。元禄十五年(1702)二月二十五日(前大萬燈祭)の八百年大萬燈祭には、加賀四代藩主前田綱紀より、重要文化財太刀(銘 恒次、 附 糸巻太刀拵 刀身2尺4寸5分5厘(74.4cm)鎌倉時代)が当宮に奉納。作者恒次は、鎌倉時代中期に活躍した、備中国青江派の刀工。

*5=大太刀から発展した武具であり、大太刀を振るい易くすることを目的に発展した刀である。長大な刀身をもつことから、これらは「大太刀」「野太刀」と称されるようになったが、非常に重く扱い辛いため、それまでの太刀の拵えと同じ形状の柄では扱いにくいことから柄は次第に長くなった。

*6=研師(とぎし)=刀身の研ぎを行う。刀の切れ味は勿論のこと、刀本来の美しさ、および刀匠が鍛錬した刀の持ち味を引き出す為に時間を掛けて丁寧に磨き上げる伝統工芸。

*7=柄巻師(つかまきし)=柄部分に紐を巻く専門家。 柄下は柄に幾度も研磨した鮫革を張るまでをいい、柄前は絹糸や綿糸または革紐を柄に巻いて行く専門家。

*8=刀工(とうこう)=玉鋼を鍛えて刀身を作る。「刀匠」、「刀鍛冶」とも呼ばれる。

*9=塗師(ぬりし)=鞘に漆を塗る。蒔絵師(まきえし)は、漆で文様を描き、金・銀・スズ・色粉などを付着させる。漆を何度も塗り重ねていくことから納期は1~2ヶ月かかる。

*10=みところもの。刀剣外装金具のうち、小柄(こづか)、笄(こうがい)、目貫(めぬき)の三種を言い、小刀の柄であった小柄と、烏帽子からはみ出した髪を整える理髪用具の一種であった笄と、刀身を柄に留める目釘から発達した目貫との装飾性が増し、三所物を担っている。三所物は、同一の文様で揃えるのを常としたとされており、水野家が御用を命じられた物の多くの用途は、献上品及び諸公への進物だったといわれる。

*11=ななこじ。彫金技法の一つ。先端が小円になった鏨を打ちこみ、金属の表面に細かい粒が密に置かれたようにみせるもの。魚卵の粒がつながっている形に似ていることから名が付いた。


●参考文献
黒田威人「水野源六家と加賀金工(1)」(「金沢美術工芸大学紀要 第35号」P.23-36, 1991-03-01)

黒田威人「水野源六家と加賀金工(2)」(「金沢美術工芸大学紀要 第37号」P.51-60, 1993-03-01)

日置謙/編集『改訂増補 加能郷土辞彙』北国新聞社

石川県/編集『石川縣史』石川県図書館協会

田中喜男「金沢金工の系譜と変容」シリーズ名: 国際連合大学人間と社会の開発プログラム研究報告 1980年 ――日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア経済研究所 デジタルアーカイブス 「日本の経験を伝える」―技術の移転・変容・開発 技術と都市社会 

update 2010/05/18
 金城大学短期大学部美術学科 教授 黒川威人先生から、新たに次の参考文献を御教示いただきましたので追補します。
1.『金沢金工師 水野源六家史料――江戸期金沢ご用職人の創造の原点』 黒川威人著 橋本清文堂(1996.4)(文部省の科学研究費、出版助成による出版)
2.『ホワットイズ・金沢――職人・作家・商人のルーツを探る』金沢学 黒川威人編 前田印刷株式会社出版部(1992.2) 「幻のデザイン都市」黒川威人著
3.『パースペクティブ・金沢――「金沢デザイン」のパースペクティブ』金沢学5 前田印刷株式会社出版部(1993)


●参考WEB
金沢美術工芸大学(藩政時代より加賀金工の中心的な存在であった水野源六家に伝わる鐔・目貫等の刀装具、図案や文書類などの収録品) ■ 水野家資料



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by mizuno_clan | 2010-05-15 13:34 | ★史料紹介

【寄稿14】将軍足利義昭の御内書 »»Web会員««

◆足利義昭より水野信元に遺れる書状 
                              
                                         筆者:水野青鷺
  

update 2010/04/21

就(二)近般信長恣儀相積(一)、不慮城都取退候、然此節甲州令(二)一味(一)、天下静謐馳走頼入候、(為脱カ)其差(二)越一色中務太輔(一)、猶藤長可(レ)申候也、
    (天正二年[1574] ) 三月廿日         (足利義昭)(判)
               水野下野守(信元)とのへ  


                            [榊原家所蔵文書]坤 [古證文]六 [別本士林證文]

                   出典:中村孝也『新訂 徳川家康文書の研究』上巻 日本学術振興会


[意訳]
 「武田勝頼と協力して信長を討伐せよ」

[訓み下し文]
 こんぱん のぶながの ほしきままのぎ あいつもるにつき、ふりょ じょうとを とりのきそうろう、すなわち このせつ こうしゅうを いちみに さしめ、てんかせいひつに ちそうたのみいり そうろう、そのため いっしきなかつかさのだいぶを さしこす、なお ふじなが もうすべく そうろうなり、

[釈文]
 足利義昭より水野信元につかわされた書状 [御内書]――
 この度、信長のほしいままの振る舞いがひどくなり、思いがけなく都を退いた。そこで最近甲州の武田勝頼を仲間にして、天下静謐(*1)のために奔走するよう頼み込んだ。そのため一色中務大輔(*2)を差し遣わした。尚 委細は(室町幕府御供衆)一色藤長が申します。

[註]
*1=天下静謐(てんかせいひつ)=天皇の命を受けて将軍が逆賊を退治し、全国にわたる平穏な社会状況をいう。しかし南北朝以降、天皇のためではなく「室町将軍のための天下静謐」に矮小化していた。
*2=『新訂 徳川家康文書の研究』掲載の「ほぼ同文の徳川家康宛内書」の注記には、(藤長)[一色藤長]とあるが、藤長の官位は式部少輔であり、『後北条氏家臣団人名辞典』の「中務大輔(なかつかさのだいぶ)」には、「古河公方(こがくぼう=室町時代後期から戦国時代にかけて下総国古河[茨城県古河市]を本拠とした関東足利氏)足利義氏の家臣。」とあり、「なお、年未詳九月二十五日足利義氏官途状(滋賀県立安土考古博物館所蔵下乃坊文書・戦古一一八四)で義氏から「中務大輔」の官途を受けた。」とあることから、本史料紹介では、「中務大輔」を古河公方足利義氏家臣に比定する。
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by mizuno_clan | 2010-04-11 09:14 | ★史料紹介

【寄稿13】「会津本郷焼と水野家」»»Web会員««

【会津本郷焼と水野家】
                                           著者:水野秀輝

 会津本郷焼とは福島県大沼郡旧会津本郷町(現会津美里町本郷)を中心として産し、本郷焼ともいわれ、 陶器から起こって磁器に進んだもの。開祖以来、約360年もの長い時代を伝えられ、平成5年にはこの実績と伝承が認められ、伝統的工芸品産地として当時の通商産業省(現経済産業省)より指定を受ける。

 その開祖(陶祖)が当家初代、源左衛門成治とされ大正末期まで代々窯業を営む。以下、当家系図を基に初代から記載するもの。

 伝1604年/美濃国(尾張国)瀬戸生まれの水野源左衛門成治が奥州岩代国長沼(福島県岩瀬郡長沼町)に来て窯業を営んでいたところ、1647年(正保4年)2月、当時の会津藩主、保科正之(3代将軍徳川家光の異母弟)より三人扶持を給せられて、当時の本郷村にて焼物御用を命ぜられた。 これが本郷村における陶器製造の始まりであり、また会津焼の端緒となる。製品は茶器を主としてわずかに実用品を交じえている。源左衛門の出自、奥州長沼へ流れてきた経緯は不明だが、瀬戸は尾張国に属し、水野氏が住んだ窯は現在の瀬戸市穴田窯で、後に赤津窯へ移ったと言い伝えられている。一方、美濃国とすれば水野姓の多いのは、現在の土岐市駄知となる。是非この機会に情報が得られればと願う。

 同年11月29日源左衛門没。 翌年(慶安元年)その実弟長兵衛成長が長沼にいたのを招いて兄の跡を相続させた。
 長兵衛は石灰焼成・耐寒赤瓦焼成などの功によって扶持を加増され、藩の石灰役を本職とし瀬戸方を兼ね、 代々瀬戸右衛門を称する恩命を蒙った。作品のうち最も有名なものは、青茶に薄墨少々を引いた色の釉を施した丸形の濃茶碗に巴紋を染付けたもので、 巴茶碗の称を得て珍賞され藩主から他家への贈進物となった。1660年(万治3年)3月3日没。
※参考資料:http://www.hongoyaki.or.jp/hongouyaki/index.htm

 三代目瀬戸右衛門成紀は1679年(延宝7年)江戸の高原平兵衛の工場、すなわち将軍家御用の高原焼で技術を伝習し、元禄2年には濃茶碗も焼けるまでになり、石州流の師範へも納めるようになる。1692年(元禄5)7月20日没。

 四代目瀬戸右衛門は1745年(延享2年)に8将軍吉宗より茶碗を作るよう命じられるまでになる。1747年(延享4年)4月18日没、78歳。五代目瀬戸岩衛門成房は1770年(明和7)2月16日没。五代目までの作は世間に古本郷の名で知られている。六代目瀬戸右衛門成正は1826年(文政9)8月20日没、77歳。会津焼磁器の端緒はこの代に当たる。

 七代目瀬戸右衛門成栄は1870年(明治3)帰農して隠居し名を瀬戸一と改めた。1877年(同10)旧7月12日没、76歳。

 八代目成時は、廃藩と共に瀬戸右衛門の通称を一旦中絶されて瀬戸次と改めたが、1878年(同11)若松県庁に請い改めて瀬戸右衛門の旧称に復した。1893年(同26)旧3月10日没、72歳。九代目はその子多門。以上を陶器の本系とする。八代目成時~九代目多門の頃に、会津藩が命運をかけて戦った戊辰戦争が起こり本郷村も戦火に巻き込まれる。尚、九代目多門は当時、白虎隊寄合二番組隊員として越後口の戦いに出陣、廃藩後は斗南藩には帰属せず、本郷村に残る。後に大沼郡郡議会議員。


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◆2010.01.13 update「陶家先祖覚書(水野家記録)」表紙
 本書は昭和46年に原本より写本したものですが、その主な内容としては「会津焼物出初作者先祖の覚」と題し、初代水野源左衛門(陶祖)から数え、歴代の瀬戸右衛門~10代目水野多門までの「陶租水野家に関する記録」が収められており、小寄稿の内容も本書に基づいて記載したものです。
毎年9月16日には当家菩提寺であり、源左衛門を祀った陶祖廟が境内にある常勝寺(福島県大沼郡会津美里町本郷上)にて陶祖祭が執り行われます。
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by mizuno_clan | 2009-10-27 20:11 | ★史料紹介

【寄稿10】『松山藩役録』にみえる伊予松山藩士水野氏»»Web会員««

『松山藩役録』にみえる伊予松山藩士水野氏
                                                筆者:水野青鷺
                                             

▼「松山歴奉略記」弘化年間(1844-1848)――«編年体に編集»
【初代】甚左衛門:於伏見[山城伏見藩]出[仕]、二百石者頭
 後[伊予松山藩初代藩主]定行公付、七百石家老職
【二代目】:七百石家老職
 後於桑名三百石加増
 後於松山二百石加増、
【九代目】:二千石 水野甚左衛門
※初代水野甚左衛門は、租水野定勝四男で初代定行の弟に当たる定眞二男定之の六男一信であろうかと推察される。
※D-2>菅原氏松平更稱源氏――『系圖纂要』新版 第7冊上【甚左衛門系図付】

【初代】与左兵衛:於伏見[山城伏見藩]出[仕]、四百石小姓頭
 後於松山無役組頭
【二代目】:三百石馬廻
 後番改
 後町奉行、
【七代目】:七十石俵 水野与三郎


【初代】次郎左衛門:慶長七年(1602)[祖 定勝の時]於伏見[山城伏見藩]出[仕]、切米小姓
 後貞綱公付[松平定勝の三男で山城国淀城主]
 寛永二年(1625)[祖 定勝の時]戻リ、二百石馬廻
 後松山百石加増大小姓頭、
【八代目】:二百石 水野七左衛門


【初代】勘之丞:水野但馬二男
 慶長元年(1596)[祖 定勝の時]被召出、九石大小姓
 後五石加増細工奉行
 天和三年(1683 ママ)[元和三年(1617)の誤植であろう][祖 定勝の時]病死
 [嫡子が]幼少ニ付跡式[相続]断絶
 後成長ニ付元禄十年(1697)[初代定行の時]三人扶持
 同十三年(1700)[二代定頼の時]九石大小姓番入
 後大納戸四石加増
 後番目付、後東野囲預、
【五代目】:七十俵 水野勘之丞


【初代】孫右衛門:寛文四年(1664)歩行抱
 同七年(1667)[三代定長の時]九石祐筆
 後二石加増紙納戸役
 後四組中間頭、
【四代目】:百石 水野弥大夫


【初代】弥平太:水野弥市右衛門倅[で]、初[は]水野弥左衛門[の]養子ト成[る]
 延享三年(1746)[六代定喬の時]大小姓ニ被召出
 後進物番切米十石
 養父弥左衛門[の]存意[意向]ニ不恨[に]明和四年(1767)[七代定功の時]依願永暇離縁 浪人ト成[る]
 其後[、]手跡指南[寺子屋]、年来[長年]諸礼半弓[小笠原流短弓]相心掛ニ付
 天明二年(1782)[九代定国の時]三人扶持
 寛政四年(1792)[九代定国の時]被召出大小姓番入
【二代目】:十石 水野乙次郎


【初代】与五兵衛:水野利右衛門三男
 天和二年(1682)[四代定直の時]歩行ニ抱[雇]
【二代目】:歩行
 元文四年(1739)[六代定喬の時]大小姓格
【三代目】:目次小姓
 寛保三年(1743)[六代定喬の時]九石大小姓番入
 跡式[相続]二十石進物番
 寶暦三年(1753)[六代定喬の時]常府[江戸詰]奥目付、
【六代目】:八十俵 水野多三郎



●伊予松山藩主松平(久松)家累代の生没年・在任表
   十五万石 譜代 溜間 城主。
[代][藩主]    [誕生]      [卒去]       [藩主就任]        [藩主隠居]
祖 定勝 永禄3(1560)年  寛永元(1624)年
1 定行 天正12(1584)年 寛文8(1668)年  寛永12(1635)年  万治元(1658)年
2 定頼  慶長12(1607)年  寛文2(1662)年  万治元(1658)年 ―
3 定長  寛永17(1640)年  延宝2(1674)年  寛文2(1662)年 ―
4 定直  万治3(1660)年  享保5(1720)年  延宝2(1674)年 ―
5 定英  元禄9(1696)年  享保18(1733)年  享保5(1720)年 ―
6 定喬  享保元(1716)年  宝暦13(1763)年  享保18(1733)年 ―
7 定功  享保18(1733)年  明和2(1765)年  宝暦13(1763)年 ―
8 定静  享保14(1729)年   安永8(1779)年  明和2(1765)年 ―
9 定国  宝暦7(1757)年  文化元(1804)年  安永8(1779)年 ―
10 定則  寛政5(1793)年  文化6(1809)年  文化元(1804)年 ―
11 定通  文化元(1804)年  天保6(1835)年  文化6(1809)年 ―
12 勝善  文化14(1817)年  安政3(1856)年  天保6(1835)年 ―
13 勝成  天保3(1832)年  明治45(1912)年  安政3(1856)年  慶応3(1867)年
14 定昭  弘化2(1845)年  明治5(1872)年  慶応3(1867)年   明治元(1868)年
15 勝成  天保3(1832)年   明治45(1912)年  明治元(1868)年  明治4(1871)年
16 定昭  弘化2(1845)年   明治5(1872)年  明治4年(廃藩)
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by mizuno_clan | 2008-11-24 18:00 | ★史料紹介