「河和水野系・彦四郎家系譜」 »»Web会員««

 この度、会員の水野博章さんからの史料ご提供により「河和水野系・彦四郎家系譜」が判明
しましたので、史料紹介致します。
※下記系譜は画像形式でアップロードしていますので、クリックしていただくと大きく表示されます。



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◆update 2013.08.22
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by mizuno_clan | 2008-07-30 08:14 | R-1>水野氏系圖・名簿

2008 暑中見舞

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by mizuno_clan | 2008-07-19 12:08 | Information

【寄稿9】 桶狭間合戦についての一考察 »»Web会員««

桶狭間合戦についての一考察
                                               筆者:助八郎

 桶狭間合戦の信長の乾坤一擲の挑戦に関して、表面的には「血湧き肉躍る男気のガチンコ対決」と高校生時代までは思っていましたが、大人になるにつれて大人の世界、特に政治の世界は、恐ろしいほど綿密に組み合わされた駆け引きがパズルのように組み合わされ、それがケースバイケースによって姿形を変化修正しながら、己が利益に結びついていく綱引きであった事が分かってくると、初めて戦国史を描いた歴史小説は「薄いのだ」という事に気が付きました。
 個人的には、我が美濃加茂市の戦国武将佐藤紀伊守忠能にも謎を感じているのですが、同様に水野信元にも謎を感じていました。横山光輝の『徳川家康』には、生来酷薄に描かれていましたが、実はしたたかな政治家であったと考えていました。これについては、ブログ「∞ヘロン『水野氏ルーツ採訪記』」のサイトに辿り着いてから確信しています。

 織田・今川の経済戦争は、現代のアメリカを見ていれば人間は何も変わっていないと思ってしまいます。――政治は経済を生み出し、生み出した経済に縛られ、時には経済を守るために他国を踏みにじるものである。――
 尾張流通経済が日本全国で商売が出来るように、「尾張経団連」(熱田商工会連合会主管)の推薦を受けた若き織田三郎(信長)が、「今川社会主義的統制経済」の拡大を阻止するという経済戦争のシナリオが「遠州と尾州の商人」によって描かれていたのは言うまでもありません。
この経済戦争のシナリオは現代史からみても古いものではないと思います。だから信長の軍事
的作戦が、サミット開催国である水野信元領近隣で行われたのだと思います。水野は元々自国経済保護のために織田の力を利用して今川社会主義勢力を駆逐したかったが故に、今川軍団を「はめた」のだと思います。
そして義元側近は水野経済と織田経済の乾坤一擲の牙に偶然倒れてしまった。――ゴルバチョフが西側経済に丸め込まれてしまったように。――
 実際の戦いの現場では二万数千の軍兵を各陣地に駐屯させ、手勢を分散していた義元は、千数百の旗本とその雑兵だけに守られていたのではないでしょうか。
しかも「信長は戦わずして降参するかもしれない」などというデマが、様々なルートから入っていたかもしれません。そこで義元自身は油断はしないだろうが、取り巻きの近臣が油断していたのかもしれません。

 目の前で水野信元が氷上陣地を退き、その監視役であり熱田神宮の手先でもあった千秋四郎が、責任をとって信長の目の前で白兵戦を「演じ」自決した訳は、水野の裏切り行為への加担はしていない事を証明したつもりであった。しかし信長は水野が二重スパイである事を理解していたことから、千秋は「無駄死にだ」と感じていた事と思います。
今川も、信長が家臣の手前「今川に屈するところを見せられない」と打診されていたことから、義元は千秋の突撃を切っ掛けとした「全軍を信長本陣に突入する采配」をしていない。そして信長本陣はおけはざま山の至近距離までスルスルと近づいていきます。なにも知らされていない近臣は諫めるが、信長は関係なくおけはざま山の麓までたどり着くと軍を止めた。敵陣にむき出しの状態でいることは近臣達を恐怖させていた事だと推測するが、当の信長自身は「義元はやはり油断している」と確認した故の行為であった。また村人が義元本陣に貢物を持ち込んで歓待していることも「制圧に時間をかけなくても済んだ」と義元を油断させる要因となった。
 氷上陣地を離脱した水野は「義元に対して敵対しないという意思表示」をしたと同時に、対する
信長には「背後から義元本陣を襲う準備を開始しました」という合図になっていたのだろうと思います。
水野が義元の退路を断つ陣立てを完了するであろう時刻に、信長はおけはざま山を駆け上がり義元本陣に突入した。
水野は「義元が逃れてきたところを襲って手柄にするパターン」と同時に、「義元を救い各陣地に散らばる今川勢を糾合して織田と敵対する」という離れ業を準備していただろう事は想像に難くない。
結果的に信長自身が義元を討ち取ってしまったので、水野は効果的な結果を出す事無く帰城したが、完全に織田方のスパイであったと判断された水野信元の弟信近は、鳴海城から撤退途上の岡部元信に「お前スパイをやったのか、道理でさまざまな情報が入ると思ってた、武士として腹を切らすことまかりならぬ」と攻め立てられたが、信元は松平と織田の仲介策を弄して四苦八苦している最中なので、松平元康の去就が定まっていない状態で、実弟信近に援軍を送るわけにはいかなかった。

 以上が私の推測です。何の史料も持たず皆様の研究の成果に妄想を展開してしまいました。

                                                     《了》
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by mizuno_clan | 2008-07-18 07:16 | ★研究ノート

【寄稿8】大脇曹源寺と周辺の水野氏勢力  »»Web会員««

大脇曹源寺と周辺の水野氏勢力 
                                              著者 mori-chan
 

 用事で土曜日に関東に帰り、翌日曜日に愛知に戻ってくると、武豊線の車窓から見える光景は相変わらずであるが、よくみると田んぼのなかに、小さな白いものが動いている。
白鷺である。

白鷺といえば、高田浩吉の白鷺三味線を思い出し、最近の流行についていけない小生は、いささか年取ったのであろうか。それはともかくとして、田んぼのなかには、白鷺以外にも雉もいる。雉のほうは、体が黒いのであまり目立たないが、白鷺は緑のなかに白なので、よく目だつ。しかし、目立とうが目立つまいが、白鷺は田の虫かタニシか何かを捕食しているだけだ。

<半田市内を流れる川にも白鷺が>
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白鷺を食べるような動物がいれば、目立つのは困るだろう。幸いそういう食物連鎖はないので、目立っても問題ない。

桶狭間合戦前の緒川・刈谷水野氏は、おそらく目立つまいとして必死だったのかもしれない。目立つ行動をとれば、今川氏の大軍の前に風前の灯になっていたであろう。そうならないために、水野氏は織田方でありながら今川氏にも密かに通じ、今川義元から書状まで貰っているのは前回述べた通りである。

その水野氏は、もともと愛知県瀬戸市あたりにいて、貞守といわれる人物の頃に、小川(緒川)の古城を拠点に、一円を支配するに至った。それは南朝について守護土岐氏に攻められて滅んだ小河氏の末裔で、故地に戻ったというが、実際は小河氏滅亡後に、その領地であった緒川の地に入り込んだもので、元々いた小河氏とは別系統であると思われる。当然、小河氏と同じ系統とすれば、中世の権威の考え方からは支配に都合がよかったので、そう名乗りはしたが、源氏である小河氏と別系統であることは、江戸時代の尾張藩などの識者の知るところで、彼らは水野氏の藤原姓の系図の存在を知っていた。実際、水野氏では、通称藤四郎、藤九郎などを名乗っている者が目立つ。源氏であれば、源四郎とかを名乗ったであろう。

<緒川城跡>
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水野氏が知多半島に来たころの事跡は、以下の通りである。

延文5年 (1360) 小河正房、土岐氏に滅ぼされる
室町前期 (1350頃) 緒川の高薮城を竹内直道が築城し、以降竹内氏が治めるも、5代直玄は水野氏の臣下となる。
文明7年 (1475) 初代緒川城主水野貞守、乾坤院を創建する。
延徳3年(1491)水野為妙、万里集九より「養月斎」の号を贈られる。
明応8年(1499)歌人飛鳥井雅康、緒川城主水野為則(貞守の嫡男という)を訪ね、祝い歌「緒川」を詠む。
永正6年(1509)緒川城主水野為則没する。法名は前野州太守一初全妙禅定門。
大永2年(1522)連歌師柴屋軒宗長、刈谷水野和泉守(近守、大高城主水野大膳の父か)宿所で連歌を興行

<水野氏ゆかりの乾坤院>
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 『寛政重修諸家譜』の水野貞守の説明では、「正房七代の蔵人貞守の代になって、旧臣牛田某と再興を図り、永見某、中山某、久松某等と君臣の義を結び、小河の旧塁修復し、三河国の刈谷、熊村、大日、大高、常滑の諸士を配下に治め、やがて刈谷に城を築いて移る」とある。

しかし、実際は瀬戸から来た水野氏が在地諸豪族を配下に取り込み、知多半島緒川周辺から刈谷へ勢力を伸ばしていったわけである。

桶狭間には、後に岩滑城主となった中山氏がいたが、中山重時が重原城で戦死し、その子の勝時は桶狭間合戦の頃には岩滑に入っていた。また今の大府市横根の横根城にいた梶川五左衛門も成岩城に移ったというから、桶狭間合戦のころは、桶狭間近辺の水野氏配下の武将たちはどこかに行っていた。

<刈谷古城>
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桶狭間合戦の当時、既に水野氏も緒川から刈谷へ拠点を移していた。周辺の武将たちも岩滑、成岩など拠点をかえていた。その間隙をついて、今川義元は西三河から知多半島緒川の北の村木(尾張森岡)にまで進出し、さらには寺本(知多市)の花井氏を傘下におさめるなど、織田方であった地域もドミノ倒しのように今川方にかえていった。それで、本来水野氏という織田方の勢力圏であった筈の桶狭間に今川義元の休憩のための陣地も作ることができたわけである。
水野氏が、桶狭間合戦で前面に出てこない所以もまた、そのあたりにあり、知多半島の制圧に熱心なあまり有力な配下の武将を分散させてしまい、その隙を今川に取られ、緒川・刈谷の本拠地を守るのに汲々としてとても織田方として参戦することはできなかったのであろう。

<曹源寺の山門(拡大)>
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しかし、桶狭間に近い地域にいた水野氏の勢力が、完全に拠点をかえていたかといえば、大脇城にいた梶川氏については別であろう。大脇は戦国時代には存在した集落であり、曹洞宗の古刹、曹源寺がある。この梶川氏は、水野氏の重臣であるが、別格のような待遇をされていたようである。公に平氏の出を名乗り、一般的には梶川五左衛門という戦国期の武将が有名である。

その梶川五左衛門は、天文12年(1543)に榎本了圓が守る成岩城を水野信元が落とした後、その城代として横根城から移されたというが、実名は文勝とされていた。年代的には同一人と思われるが、梶川五左衛門秀盛という人物がいる。「尾張志」「張州府志」によれば水野下野守信元の家人であり、「張州府志」ではさらに大脇、横根両城の城主であるとしている。

この人の文献での登場で、同時代のものといえば、天正11年(1583)に大府の延命寺に寺領を寄進したというのがあり、その際の実名が秀盛である。

梶川秀盛の父は梶川平九郎といい、実名は分からないが、法名は宗玄という。桶狭間合戦の際に、中島砦を守った梶川一秀と梶川秀盛は同姓であるが、小生別系と思っていた。以前、「中島砦をまもった梶川一秀は平氏の出で、織田信長の家臣である。出身も尾張国丹羽郡楽田といわれ、今の大府市横根に城を構え、水野信元の成岩城攻略後に成岩城主となった梶川五左衛門秀盛など、水野氏重臣の梶川氏とは関係ないかもしれない」と書いていた通りである。

しかし、二人は兄弟のようで、梶川平九郎の長男が梶川高秀、次男が一秀、三男が秀盛だそうだ。兄二人は織田信長に仕え、高秀の子高盛も含め数々の功名をあげていったが、三男五左衛門秀盛は地元の家を守る立場であったのかもしれない。

また梶川平九郎の法名「宗玄」から曹源寺の名前がついた(あるいは改名した)という可能性もあることから、戦国時代には大脇にいたのではないだろうか。長男高秀の名乗りは平左衛門尉で、やはり「平」の字がつく。この人は、永禄11年(1568)に70歳でなくなったとされているので、明応7年(1498)頃の生まれになる。その父となれば、25歳のときに長男誕生とすれば、文明5年(1473)頃の生まれになる。もし、梶川平九郎が曹源寺の開創の前年になくなっていたならば、31歳のときとなり、一応矛盾はない。

<曹源寺>
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梶川氏が平氏かどうかは不明で、紀姓の梶川氏というのもあるようだ。その出身は「知多郡梶村」とあるが、甚目寺町今宿梶村らしいので、「知多郡」ではないだろう。その一族は、水野氏の重臣でありながら、一部は織田信長の家臣にもなったのかもしれない。

そのルーツや系譜はさだかではないが、梶川氏は水野氏の重臣であったことは間違いない。その拠点は戦国時代から大脇に元々あり、やがて水野氏の知多半島制圧の動きに応じて、横根へ、さらに成岩へと移っていった。しかし、大脇には長く一族が住んでいたらしく、桶狭間合戦時も含めて拠点としていたらしい。

実際大脇には、地元の住民から「梶川五左衛門の屋敷跡」と呼ばれてきた大脇城跡があり、伊勢湾岸道路の建設に伴う発掘調査では、約60m四方の方形居館跡が検出され、「天正四年」(1576年)と年がかかれた大御堂寺の護摩札などの遺物が出土している。

その大脇城跡と大脇に永正2年(1505)西明寺三世実田以転和尚によって創建されたという曹源寺の旧在地は比較的近く、曹源寺は城の西北250mほどにあった。以下の図で赤く丸で囲ったのが曹源寺の現在地で、地図の2が江戸時代前期承応3年(1654)の火事で移る前の曹源寺の旧在地である。この位置関係をみても、曹源寺の開創に、梶川氏が関わっているか、梶
川氏のために建てられたのではないかと考えるのは別段おかしくない。そうなると、曹源寺という寺の名前も、梶川平九郎の法名「宗玄」の字を変えたものとも思えるのである。

<大脇城跡と曹源寺の旧在地>
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(『大脇城遺跡』 1999  愛知県埋蔵文化財センター より)

ちなみに、曹源寺には、享保2年(1717)に桶狭間の梶野清右衛門が寄進した立派な山門があるが、曹源寺は桶狭間の梶野氏一族の菩提寺である。宗派の関係もあるが、桶狭間にある長福寺が創建されたのが天文7年(1539)であるため、戦国期以前から当所にいた古い住民は曹源寺の檀家になっていたのであろう。

<曹源寺の山門>
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曹源寺の二世住職は快翁龍喜禅師である。快翁龍喜禅師は、後に岩滑城主となった中山氏の出身で、水野忠政の家臣中山又助の次男であったという。また、曹源寺は曹洞宗であり、二世の快翁龍喜和尚は水野氏の菩提寺である乾坤院で芝岡和尚について得度している。

つまり、曹源寺は水野氏の影響を多分に受けた寺であり、元来その地域はそういう土地であったわけである。

ところが、今川義元の発給文書で、丹羽隼人正に宛てたものであるが、以下のようなものが残っている。

「沓掛 高大根 部田村之事

右 去六月福谷外在城以来 別令馳走之間 令還付之畢 前々売地等之事 今度一変之上者 只今不及其沙汰 可令所務之 并近藤右京亮相拘名職 自然彼者雖属味方 為本地之条 令散田一円可収務之 横根大脇之事 是又数年令知行之上者 領掌不可有相違 弥可抽奉公者也 

仍如件

天文十九

 十二月朔日        治部大輔(花押)

                              丹羽隼人佐殿」


 西三河を制圧した今川義元は、天文19年(1550)頃になると、尾張にも勢力を及ぼし、このような安堵状を発給するようになった。この丹羽氏は一色氏系で、尾張国丹羽庄から起こる在地領主であり、本郷城主であったものが移動して、4代続けて岩崎城主として戦国時代を生きた一族である。この丹羽氏は、同姓の丹羽長秀とは別系統である。その岩崎丹羽氏の丹羽氏勝は、最初、織田信長の叔父守山城主信次に仕え、守山籠城の後は織田信長にも仕えるが、後に佐久間信盛らとともに追放され、徳川家康に仕えている。織田氏に近い在地領主も、一時は今川義元についていたわけで、有為転変は世の習いといわんばかりである。

なお、文中で味方に属するといわれている近藤右京亮とは、沓掛城主近藤景春のことである。近藤氏もまた、松平広忠に従っていたが、織田方が勢力を伸ばすとこれに組していたが、また鳴海城の山口教継によって今川方に転じた、戦国時代にはありがちであった二股膏薬的な生き方をしていた。

丹羽氏が横根、大脇の知行を安堵されていた頃、梶川氏はどうしていたのだろうか。大脇城をでて、ひたすら知多半島に水野氏勢力を拡大するために、戦っていたのだろうか。そんなことはあるまい。大脇城は、その後も梶川氏が継続して維持したようである。前述のように、大脇城跡からは、「天正四年」(1576年)と書かれた大御堂寺の護摩札が出土している。天正4年といえば、水野信元が織田信長に誅された翌年であり、その当時梶川五左衛門は水野氏を離れ佐久間氏に従った。さらに織田信雄に仕え、小牧長久手合戦後は岐阜城主であった池田輝政に仕えたらしい。

<野間の大御堂寺>
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天正11年(1583)には梶川五左衛門は大府の延命寺に寺領を寄進したが、その発給文書が残っている。

「延命寺領為 寄進合田畠拾九貫四百七十八文目此内田方拾四貫五百七十文目畠方四貫九百八文目 並山壱ヶ所寺之後 不可有相違者也 田畠坪付之儀別紙在之候

仍如件

      梶川五左衛門尉

天正十一癸未九月七日  秀盛(花押)

延命寺

 御坊中」


 この文書が出された頃、梶川氏は大府の延命寺周辺を統治していたことがわかる。つまり、天文19年(1550)頃から10年くらいはその領地を今川氏に蹂躙されたかもしれないが、このころには梶川氏は延命寺に寺領を寄進するまでになっていた。

少し、話が回り道をしたが、桶狭間合戦当時、水野信元らがおとなしくしていた背景には上述したような大脇など水野氏勢力圏の情勢があった。

(参考文献)

『豊明市史 資料編補2 桶狭間の戦い』  2002 豊明市

『大脇城遺跡』 1999  愛知県埋蔵文化財センター 

                                                   《了》
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by mizuno_clan | 2008-07-05 10:48 | ★研究ノート