【談議1】水野氏と戦国談議(第三回1/2)

リゾーム」型権力モデルで竹千代強奪事件を紐解 
                                                談議:江畑英郷
 『水野氏と戦国談議』の第一回と第二回は、水野氏そっちのけで戦国期の社会・権力モデルについて述べさせてもらった。水野氏史研究は、水野氏という一氏族に関わる研究であるからその内容はかなり個別で詳細な史料の検討となるであろうが、それでもやはりその時代の社会・権力モデルに依存せざるをえない。
 私が桶狭間合戦の謎を解こうとして水野氏に注目した時、一番よくわからなかったのが、強大な戦国大名である今川氏に囲まれるようにして隣接していたのに、なぜ信長との同盟を維持したのかという点である。最近の傾向をみると、桶狭間合戦における信長と義元の戦力差を少なく見積もって信長の勝利を説明しようとするケースが多いように思うが、そこにも当時の軍編成に対する群雄割拠型権力モデルが介在している。詳細は別に論じたいと思うが、安易に『信長公記』が記録した今川軍四万五千をしりぞけるべきではない。そうして今川絶対優位を牛一の記述のままに受け入れると、水野氏は本当に信長との同盟を維持していたのだろうかという疑問が生じてくる。水野青鷺さんは「ある中世日本史専攻の教授」が、「“この戦いで、水野氏がどう動いたかが重要な問題である”旨のお考えを持って居られることを知り、まさに判物をいただいた如くに意を強くしました」とこの談議第一回のコメントに記載されているが、今や水野氏の動向を無視して桶狭間合戦を語ることは研究に値しないものにまでなっているように思う。
 橋場日月(はしばあきら)氏が今年9月に学研新書から出した『新説 桶狭間合戦』でも、水野氏の扱いは大きく、そこで橋場氏は水野氏が合戦当時今川方であったと述べている。これは橋場氏が、私同様に当時の信長と義元の勢力差を考えれば、水野氏が信長との同盟に留まったとするのは考えにくいと見るからであろう。そして桶狭間合戦の直前に今川義元から協力を依頼された水野十郎左衛門を水野信近とし、それを根拠として水野氏は今川傘下にあったのだとしている。
 橋場氏の見解は、以前私が当ブログに投稿させてもらった『水野氏と桶狭間合戦』と重なる部分が少なくない。橋場氏が「駿河から尾張・伊勢を結ぶ“海の道”」に注目し、織田方の「伊勢湾海上交通社会」を今川義元が圧迫・切り崩そうとする動きの最中に水野氏の興廃を捉えようとする点でも見解が似ている。しかし橋場氏がそうした桶狭間合戦解釈の下地としているものは、やはり群雄割拠型の権力モデルであるように思える。
 私が当ブログへの投稿『水野氏における桶狭間参戦の背景』において目指したものは、今川・織田・水野という領主権力の軍事バランスだけで織田・水野同盟を捉えないということであった。そして、その思いで投稿文の最後に次のように記したのである。

 水野氏は、今川の軍事的脅威は嫌と言うほど感じながら、自身を経済的・軍事的に支える領内の沿岸交易都市に根を張る商人勢力の選択を、受け入れざるを得なかったのである。そして駿府の商業統制ではなく、信長の自由交易を支持し、これに馳せ参じることを決断した下からの動きに乗せられたまま、信元や信近たち水野氏は桶狭間合戦に臨むことになったのである。

 私は桶狭間合戦に至る水野氏の動向というものは、上層権力の動きを論じるだけでは解明できないと思い、「伊勢湾・三河湾交易圏」というものを想定してみた。この交易圏の主体は地域で活動する商工業者であり、そうした武士でなく所領を持つ者でもない勢力をひとつの有力な権力と捉えることで、この権力の意志が国人権力である水野氏の動向に強い影響を与えていたと考えたのである。桶狭間合戦に至る水野氏の動向には、群雄割拠型の権力モデルではその根本問題である、なぜ強大な今川を敵に回したのかを解くことができない。
 橋場氏は、「桶狭間の決戦というミクロの事象、“バトル”だけを見るのではなく、織田と今川の対決を広く大名家同士の戦争、“ウォー”としてマクロで捉えて考える必要がありそうだ」と述べている。「バトル」だけではダメで「ウォー」として捉える必要があるという点では全く同感なのであるが、この「ウォー」を「大名家同士の戦争」に限定するのは群雄割拠型権力モデルを下地としていることに他ならない。リゾーム型権力モデルであれば、より広く地域諸権力の衝突として捉えなければならない。私はリゾーム型の権力モデルを適用することで、信長陣営に水野氏が留まったのは、水野氏の領地があった知多郡においてその経済基盤を支えていた商工業者たちの意向がそこに働いたからだと推測した。そして水野氏という領主階級はそれを受け容れざるをえなかったとすることで、織田・水野同盟の継続とその本質を規定しようとしたのである。
 桶狭間合戦に至る水野氏の動向にリゾーム型権力モデルを適用したものの、私の知識や理解が浅いために、十分に妥当性のある推論をそこに導き出せたとは思っていない。しかし池上氏や久留島氏など歴史学の専門家が、このリゾーム型権力モデルこそ戦国期の実情だと言っているのであるから、水野氏の動向解明のアプローチは間違っていないはずである。

 前置きが長くなってしまったが、今回は群雄割拠型権力モデルで理解されているが故にどうにも解せないことになっている事例を取り上げ、それをリゾーム型権力モデルで解くとどうなるかを、別の事例で確かめたいと思う。
 その事例とは、あの竹千代強奪事件である。
 この竹千代強奪事件、『岡崎市史』の述べるところに従ってまずは整理をしておこう。

 天文一六(一五四七)年八月二日、数え年六歳の竹千代(家康)は駿府へ赴くために岡崎を出発した。竹千代に付き随う者は二八人という。この駿府行は人質の旅であった。『三河物語』によれば、竹千代一行は西郡から船で三河湾を航行し、田原へ上睦して陸路駿府へ向かったが、途中で田原城主で継母真喜姫の父戸田宗光と兄尭光(具説に弟政直)に竹千代の身は奪い取られた。
 奪い取られた竹千代は船で尾張へ送られ、繊田信秀に渡された。信秀は一〇〇貫文とも一〇〇〇貫文ともいう賞金を与えたという。竹千代は熱田の加藤図書順盛に預けられ、そこで二年余を過すことになる。


(松平広忠は、水野家の於大を離別した後に戸田宗光の娘真喜姫と再婚し、竹千代にとって真喜姫は継母となっていた。松平家と戸田家に婚姻関係があったことから、松平方は戸田領を通過することに危険はないと判断していたという)
 事件のあらましは以上である。この竹千代強奪事件の背景には、三河をめぐる織田信秀と竹千代の父松平広忠の争いがあった。そして織田信秀の攻勢によって窮地に立たされた広忠が今川義元に救援を依頼し、その見返りとして竹千代を駿府に人質に送ろうとしていたのである。つまり竹千代は、松平氏が義元へ服属することの証だったのである。
 これはまさに群雄割拠の権力モデルで理解された事件のストーリーで、三河の松平広忠、尾張の織田信秀、駿河の今川義元という戦国大名(織田信秀や松平広忠が戦国大名であったかどうかという議論はあるが)間の外交政策が展開している。そして松平氏と今川氏の外交政策を担うのが、わずか6歳の竹千代というわけで、その竹千代が奪われるという大事件が起こり、松平の対今川の外交政策は危機に瀕したといったところであろうか。
 群雄割拠型の権力モデルでは、この竹千代強奪事件は外交上の大問題である。そこには戦国大名である松平広忠の嫡男というかけがえの無い存在が、敵方に奪われたという認識がある。このモデルでは、三河の群雄松平氏惣領家の嫡男における価値は、当主の広忠に次ぐものである。今川との外交においても重要なカードで、これを失った損失は計り知れないということになる。この権力モデルに基づく『松平記』などは、信秀は広忠に使者を送って今川から離反して信秀に味方するように説いたが、広忠は竹千代の命を奪われても決して今川を裏切りはしないと返答し、信秀がこれに感心したと述べている。
 さてその後この事件は、次に続く今川の田原戸田氏への攻撃と戸田氏の滅亡、そして三河東端の今橋に拠点を確保していた今川氏がさらに田原城まで手に入れて、東三河に睨みを利かせる事態へと展開していく。『岡崎市史』は、竹千代を強奪された今川方の動きを次のように記載している。

 義元からみれば田原戸田氏の行動は叛逆にあたる。早速に天野安芸守景秦、同小四郎景貫らに命じて田原城を攻撃させた。八月下旬のことである。田原攻めの総指揮は大原崇孚であったが、九月五日に田原城は落城し、田原戸田氏は滅亡した。

 『岡崎市史』は諸説あるとしながらも、竹千代強奪事件の発生は八月二日としている。そして八月下旬には田原城は包囲・攻撃され、九月五日には落城している。事件発生からおよそ一ヶ月で、強奪を実行した田原戸田氏は滅亡したのである。私はこの事件の推移を見て、田原の戸田親子はなんと馬鹿なのだろうかと思ったものである。田原城は渥美半島の付け根にあって、遠江の国境は目と鼻の先である。今川氏は駿河と遠江を領国とし、東三河には服属を誓う国人領主も多数いた。そんな今川氏から人質を横取りすればどういうことになるか、戸田親子は分からなかったのだろうか。
 さらにこの事件のわずか九ヶ月前、同族の戸田宣成(のぶなり)の居城であった今橋城が今川軍の攻撃を受けて落城している。田原の目と鼻の先で同族が滅ぼされたのを見ていながら、なぜ義元の報復必須と分かっている竹千代強奪などをおこなったのだろうか。実に奇妙な事件である。
 この事件がなぜ起こったかについて、『岡崎市史』において新行紀一氏は次のように述べている。

 竹千代奪取事件の最大の謎は、戸田氏が長年の今川氏への服属関係を破棄して、なにゆえ信秀と結んだかである。前年の今橋城の戸田宣成滅亡とからめて、戸田氏が台頭しつつある信秀の勢いをみて、二連木城の宣光は今川方、今橋・田原は織田方という一族二分策で家の存続をはかったとの説もある。しかしそれは二大勢力に直接境界を接する場合にとられる方策である。この時点では松平が西三河にあって、戸田は織田とは境を接していない。しかも信秀はたしかに強くはあっても新興勢力であって、いまだ尾張一国を統一するまでにもいたっておらず、駿遠二国を抑えた今川とは大きな格差がある。想像するところ、信秀の遠交近攻策による働きかけがあって、西三河分割案などが提示され、それに田原戸田氏が乗せられたということではなかろうか。それが広忠の抵抗や二連木戸田氏の田原離反と今川義元の敏速な行動によって、計算がはずれたということではなかろうか。

 この新行氏の発言を受けて、平野明夫氏はその著書『三河松平一族』で次のように述べる。

 新行紀一氏は、織田氏と戸田氏が境界を接していないとする。しかし、戸田氏の勢力は、渥美半島のみならず、知多半島にも伸びていた。河和(愛知県美浜町)が知多半島における戸田氏の拠点であった。したがって、織田氏の勢力伸長に、直接的脅威を受けていたと考えられるのである。しかも水野氏が織田方となったことによって、すぐ北の常滑までが織田方になっていた。田原・吉田の戸田氏が、知多半島での圧迫を感じ、政策を転換したと想像される。すでに一族一揆が解体し、各家ごとに行動していた戸田氏の場合、一族二分策と捉えなくてもよいかと思われる。

 両氏とも、戦国大名に届かない戸田氏が、今川・織田の二強の前でその生き残りに腐心して思い切った手段に打って出たが、裏目に出て滅亡したという理解には変わりがないようである。戸田氏のとった奇妙な行動を理解するためにその外交施策をあれこれ論じているが、やはりそこでは地域権力の頂点にある者だけしか視野に入っていない。一族二分策だの西三河分割案などと、机上演習のような策謀を論じており、私にはそれが地に足の着いた議論には思えないのである。
 新行氏も平野氏も戸田氏が織田信秀の領地あるいは勢力圏と境界を接しているか否やを問題としているが、それは信秀が障害なく戸田領へ軍事侵攻できるかどうかという議論なのであろうか。そうだとするならば、信秀はひたすら自領を拡大するために軍事侵攻を目論む野望に満ちた群雄、そして義元も同様で、その二強に挟まれて生き残りを模索する弱小戸田氏という、まさに群雄割拠型権力モデルにどっぷりと浸かった議論ということになる。
 そしてもし単なる軍事面だけでないとしたならば、戸田氏が知多半島に進出していることを持ち出すまでもなく、海というものを視野に入れれば境界が接していないなどとは言えないはずである。海路を通じて伊勢湾と三河湾の間には頻繁な行き来があり、直接的あるいは間接的に両者は経済的関係を構築していたはずである。そこにおける「直接的脅威」とは何を意味するのであろうか。またこれも後に論じたいと思っているが、当時の所領(耕作地)というものが零細でその権利が重層的に折り重なっていたことを思えば、そもそも境界などは非常に曖昧なものなのである。
 結局のところ、新行氏にしても平野氏にしても、戸田氏と織田氏、戸田氏と今川氏という地域頂点権力だけを視野に入れて、この奇妙な事件が起こった背景を考えようとしているところに無理が生じているのではないだろうか。これをリゾーム型権力モデルで考えるならば、事件を起しえるのは地域領主だけではない。彼ら戦国大名あるいは国人領主だけに権力が集中し、その権力に敵対できるのは同じ権力だけというモデルから離れれば別の視野が開けてくる。
 この事件のあらましの中に、戦国大名あるいは国人領主以外で登場している人物が一人いる。それは強奪された竹千代が預けられたという、熱田の加藤図書順盛(のぶもり)である。群雄割拠型権力モデルにおける竹千代の身柄は極めて重要なものであるが、その竹千代はなぜか熱田の商人加藤順盛に預けられた。
 西三河の松平惣領家の嫡男である竹千代が、どうして熱田商人に預けられることになったかについては、一般に信秀と加藤順盛との間の信頼関係と「羽城」(はじょ)という加藤家の特異な屋敷が理由としてあげられている。この「羽城」について、『熱田歴史散歩』(日下英之著)は次のように説明している。

 羽城とはいったい何だろう。『尾州志路』は「葉上」と記し、『尾張地名考』は「羽城又は端所とも書き、或は端瀬と呼」といっているが、意味はあまりよくわからない。『尾張徇行記』は「コレハ以前カキアケ城ノアトナル故、前々ヨリ羽城トイヒ伝ヘルト也」と記している。(中略)ここはもと熱田社の修理職の屋敷であったものを、東加藤家が順盛の代に求めてその控地とし、周囲を精進川や堀で取り囲み、館を構えたものと思われる。

 そして『熱田歴史散歩』は、「羽城は川・堀・海に囲まれた曲輪であり、幽閉には格好の場所であったのであろう」と竹千代が預けられた理由を述べている。「羽城」の特異な立地条件が、信秀が加藤家に竹千代を預けた真意であるとするのは、およそ一般の見解と変わらないであろう。しかし商人の屋敷としては特異で幽閉に適していたとしても、尾張最大の有力者である織田信秀の居城であった古渡城よりも外敵から守りやすかったわけではないだろう。『三河物語』によれば1千貫文も払って掌中のものとした竹千代を、なぜ信秀は古渡城中で幽閉しなかったのであろうか。
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2/2へ続く
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by mizuno_clan | 2008-12-28 15:57 | ☆談義(自由討論)

【談議1】水野氏と戦国談議(第三回2/2)

1/2からの続き

 群雄割拠型の権力モデルでは、西三河をめぐる外交上のかけ引きに竹千代は重要な役割を果たすはずである。たとえ一時的に広忠は信秀の脅迫を跳ね除けたにしろ、今川への服属の証を強奪されたのである。これを奪え返そうと躍起になるのは当然のことで、信秀はそれに備えて最も厳重な警戒をしける古渡城中に竹千代を幽閉すべきだったろう。そうであるならば、それが熱田加藤家の「羽城」に幽閉されたことに、もっと注目すべきではなかろうか。
 群雄割拠型の権力モデルは、『三河物語』や『松平記』の作者が頑強に保持している下地である。彼らは武士階級であり天下を取った徳川の家臣なのであるから、武士中心史観であり、徳川を中心とする大名・国人層の視点からしか物事を見ないのである。竹千代は御身大事な松平家の嫡男であり、戦国群雄間の政略・外交にとって重要な価値ある存在という前提は決して揺らぐことは無い。だからその身柄を争うのは群雄たち、すなはち織田信秀であり、今川義元しかあり得ないのである。
 そうした群雄割拠型権力モデルから距離を置いて考えると、竹千代が熱田加藤家に幽閉されたならば、熱田加藤家がこの三河惣領家嫡男の強奪事件に直接関与していたと考えるのが自然である。加藤家は戦国期の商人であるから、商人という身分があってその枠内で活動していたわけでない。商工業を主な収入源として商人役(領主に対する商人としての税負担)を果たしていたのであって、商に専従するよう身分として固定されていたのではない。すはわち武力もあったし、権力の場に直接介入することもありえたのである。
 熱田加藤家の単独行為かどうかはわからないが、竹千代の強奪は加藤家が首謀したからこそ、その加藤家の「羽城」に人質を幽閉したのではなかろうか。それは事前に信秀の承認を取り付けてのものだったかも知れないが、地域権力の頂点にある者以外が他領の頂点権力の外交カードを奪い取るという想定をありえないとするのは、群雄割拠型権力モデルの考え方である。そもそも織田信秀も松平広忠も、リゾーム型権力モデルでは同一地域内に並存する権力頂点の一つであり、飛び抜けて強力なものとは言い難い存在である。「主人側の階層と従属する者の階層が、辛うじてぼんやりと分別できる形状をとる」のであるから、頂点そのものが「ぼんやり」としているのである。
 群雄割拠型の権力モデルでは、信秀がどうして竹千代を強奪したかは自明のことである。信秀が群雄として西三河に領地を拡大するにあたって、今川の松平への支援が障害となる。そこで松平が今川へ服属することの証たる竹千代を強奪して、それを前提とした今川の軍事支援実現を阻んだのである。これをリゾーム型権力モデルで見直すならば、竹千代強奪の首謀者は熱田の加藤家とも考えられるが、そこで問題となるのは強奪の動機である。
 竹千代が幽閉された「羽城」の持ち主ということで、これまで熱田の加藤家を首謀者としてきたが、それは加藤家に限る話ではないだろう。加藤家は西と東があって熱田では最有力の商人であるが、加藤家以外にも橋本家や浅井家など多くの豪商がいた。したがって加藤家単独の犯行というよりは、この熱田の有力者が「一揆」を取り結び、竹千代強奪を主導したと考えるのが妥当であろう。さらに強奪が起こった田原の地にも、「一揆」は拡がっていたとみるべきかも知れない。田原戸田氏の支配する渥美半島は農業に適さず交易と漁業が盛んであったと思われるが、その交易を通じて田原商人と熱田商人は結びついており、互いに連携して竹千代強奪を実行したと考えてはどうだろうか。私が『水野氏における桶狭間参戦の背景』で述べた「伊勢湾・三河湾交易圏」あるいは橋場氏の「伊勢湾海上交通社会」を想定するならば、熱田商人と田原商人は同一の経済圏にあり、織田・松平の抗争の下でも互いの交易・経済的な結びつきは強固であったとすることができる。大名クラスの軍事衝突とは別次元で、商業・交易は尾張と三河を結びつけていたと考えるのも、リゾーム型の権力モデルなのである。また、安祥城の攻防や小豆坂合戦などがあったことで、尾張織田と西三河松平という二極の対立を描くのも群雄割拠型権力モデルによるものだと言える。西三河をめぐる抗争は、松平内の対立も含めてもっと多極であり錯綜したものであったと考えるべきである。こうした西三河の動向にも機会があれば後に触れてみたいと思うが、多極・多層、そして錯綜がリゾーム型権力モデルが描く戦国社会なのである。
 さて、竹千代強奪事件の首謀者が熱田と田原の商人一揆だと仮定すると、あの愚かしいと感じた戸田宗光と尭光(たかみつ)親子はどういうことになるのだろうか。彼らは田原に居城を持って渥美半島に勢力を保っていたのだから、田原の商人たちも支配下においていたと普通考えるであろう。しかしこの「支配」という言葉が適切とは思えない。はたして戸田氏は、田原の商人たちを強制力をもって強固に制御していたのであろうか。田原商人は戸田氏の領主権を認め、彼らに対する商人役を果たしてはいただろうが、それ以上に戸田氏によって活動を拘束されたりすることはなかったのではなかろうか。あるいは田原商人の中には戸田氏の被官になった者もいたかも知れないが、その主従関係がどれだけ従属的かはよく考えてみる必要があるだろう。リゾーム型権力モデルでは、田原商人が結束する一揆も一つの頂点を持つ権力とみるのであり、それと戸田氏の領主権力とはゆるやかに結びついていると考えるのである。
 そうなると、戸田氏が呆気なく滅亡したことを考えれば、戸田氏の外交政策とは切り離れたところで、田原商人一揆が熱田商人一揆と連携して竹千代強奪事件を引き起こしたという可能性が浮上する。そして松平氏が今川氏に服属することで、熱田や田原の商人たちが共通基盤とする「伊勢湾・三河湾交易圏」が何らかの脅威にさらされると考えて行動を起したと推測されるのである。これは「水野氏における桶狭間参戦の背景」で、次のように述べたことと同じ理由によるのかも知れない。

 今川氏が友野氏や松木氏など駿府の豪商を優遇し、商人頭に任じて領国内の商業を統制下に置こうとしたことは良く知られている。今川氏の商業政策では、一部の特権商人が力を拡大する一方で、その統制下に入る商人たちには強い制約が課されることになる。自由闊達な商業活動が制限され、他国商人に対する排他性も伺えるようである。このことは水野氏の領内で商業活動を営む商人たちにとって、今川領国の経済圏に組み込まれたくない強い動機になるであろう。

 大名権力によって統制されず自由・自治が保たれている「伊勢湾・三河湾交易圏」が、強大な戦国大名今川氏によって統制経済に組み込まれるという脅威、それが熱田と田原の商人一揆を突き動かしたと見ることはできないだろうか。そして田原商人の危機意識の前では、対今川氏に有効な対応が打てない戸田氏の外交的思惑などをかまってはおられず、商人一揆独断で竹千代を強奪した。そして自領内での大事件に、戸田親子は仰天して今川に使者を走らせたが義元は取り合わず、九ヶ月前の今橋城と同様に田原城を攻め落とし、東三河にさらなる足場を拡げたという想定は十分成り立つだろう。
 新行氏や平野氏の議論にしても格別な根拠があるわけでもなく、彼らの群雄割拠型の権力モデルに沿って事件の背景を推測しているのである。依拠する権力モデルを変えてみれば、そこには新たな視野が開け、より事態を包括的整合的に推理することが可能となる。田原戸田氏はわずか一ヶ月で滅亡した。この短期間での首謀者の滅亡は、一族二分策とか西三河分割案などを持ち出して説明しても、戸田氏が竹千代強奪事件を引き起こした背景説明としてはどうしてもしっくりこない。そこでは、どのような武家権力の策謀を持ち出しても、やはり戸田親子は愚かにしか見えないのである。

 戸田氏が滅んだ後、竹千代強奪の首謀者である田原商人はどうなったであろうか。その後、竹千代奪還に松平と今川が躍起になったというわけでもなさそうで、竹千代が人質として送還されようがされまいが困窮する松平は今川を頼るしかないのであり、今川は実質的な松平の服属へ歩みを進めたことであろう。つまり竹千代強奪はさしたる影響も与えず、田原商人たちは駿府の商人司である友野氏の膝下に収まったということではなかったろうか。事件を起した商人は統制化に組み込まれながらも無事で、その上にいた国人領主戸田氏は無罪ながら滅ぼされたという、まことにリゾーム型権力モデルを象徴するような事件であったのかも知れない。
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by mizuno_clan | 2008-12-28 15:57 | ☆談義(自由討論)

【談議1】水野氏と戦国談議(第二回)

戦国期社会・権力モデルの転換
                                                談議:江畑英郷
 前回は戦国時代における二つの権力モデルを提示し、一般に広く知られる戦国理解は群雄割拠型権力モデルであることを示した。これはおよそ国単位に戦国大名が権力の頂点を形成し、その一国支配の下に国同士が領土を奪い合う図式である。これに対してリアルな史実は、より広範に権力が分散しその頂点が獏としている「リゾーム」型権力モデルを指向するものであることを指摘した。
 こうした戦国期権力の姿は歴史学の中にあっては常識なのであろう。集英社が出版している日本の歴史シリーズ10巻のタイトルは、『戦国の群像』である。このタイトルに「群像」という言葉を持ってきた理由について、著者の池上裕子氏は次のように述べている。

 私はこの本で、この時代を真の意味で動乱の時代たらしめた人々、下から戦国大名を成立せしめ、支えて、大名領国を形成せしめていった村落・都市の住人、在地領主らに視点をすえて、時代を描いていきたいと思った。その思いをこめて、この本の題名を「群像」としたのである。時代を見る目は、「群」の上にではなく、「群」の上にこそおかれなくてはならない。

 また講談社版の日本の歴史シリーズ13巻には、『一揆と戦国大名』というタイトルがつけられている。著者の久留島典子氏は、この巻の冒頭でやはり池上氏と同様の視点を強調している。

 このような変化の時代を本書では、「戦国大名」と「一揆」とをキーワードとして描いていきたい。では、「一揆」とは何なのか。一揆と聞くと、農民の権力者に対する反乱をイメージしがちだが、実はそれは近世になってから一揆の一つの側面が強調された結果であって、中世における一揆はもっと広範な概念であった。一揆とはある目的をもって組織や集団をつくること、そして作られた集団自体をいうのである。だから農民や都市民だけでなく、武士たちも、僧侶や神官も、あらゆる階層で一揆が結ばれた。その目的も支配者に対立するものだけではなく、支配をするための一揆、支配者同士対抗し合うための一揆もあった。もちろん、各地の武家領主たちも領域を支配していくための相互対等の同盟=一揆を結んでいる。

 池上氏は「群雄」という幾人かに限られた分国の最高権力者ではなく、「群像」という無数の多様な階層の人々が社会を動かしていたことに注目し、久留島氏は「一揆は大名に対立するものではなく、戦国大名自体が一揆を自らのなかに抱え込んでいる」として、時代の根底に多様な階層に広がる「一揆」があったことを重視するのである。
 水野青鷺さんが「同盟」という言葉に注意を喚起したように、私達には大名が支配する確固とした分国があって、その分国の最高権力者間で「条約によって,軍事活動を中核とした一定の政治的共同行為を約束した」(百科事典「マイペディア」)ものとして「同盟」を捉えてしまう。だが久留島氏は、それを「一揆」として捉えるべきだと言う。しかも一揆を結ぶ戦国大名や国人領主も、その権力内部に多様な一揆を抱えているとするのである。
 こうした戦国社会に対する理解は、世の中にどれだけ浸透しているのだろうか。池上氏は、「戦国大名を語るこれまでの本や研究の中には、戦国大名が国を統一し、領土を拡張し、新しい政策を実行する過程を、大名の立場に立って、苦難の道のりとして描く姿勢が多くみられた」と述べている。池上氏の著した『戦国の群雄』が出版されたのが1992年、そして「一揆」をタイトルにした講談社版日本の歴史が2001年である。群雄から群像へとこの時代を見る目を転換させようとした池上氏、そして頂点権力としての戦国大名が内包する一揆の重視を強調する久留島氏、その間およそ十年経っても武田信玄や上杉謙信が活躍した群雄割拠の時代というイメージは拭い去れなかったのであろうか。そして『戦国大名と一揆』からまた十年が経とうとしている。しかし我々は知らず知らずに、戦国大名を頂点とするツリー構造で社会を捉え、群雄割拠型権力モデルに引き戻されてはいないだろうか。
 より確かな史実を求めて我々は、判物や日記などの同時代に書かれ活用された記録に注目し、慎重にこと細かくその内容を検討したりする。そしてそこからすくい上げられた個別事象を解釈する時、それに関わる人物や社会的な背景に考察を拡げるであろう。何か個別でミクロな事象を理解しようとするとき、必ずその地となる全体像・マクロ構造というものが必要となる。そしてその個別解釈が妥当であるかどうかは、この全体像・マクロ構造にその解釈を適用してみて、そこに整合的な一貫性が保たれるかどうかで検証されるのである。その一方で検証の前提となる全体像・マクロ構造は、個別解釈から立ち上がる個別事象の総体によって支えられ、時に個別事象群によってこの全体像・マクロ構造自体が書き換えられるのである。
 池上氏や久留島氏が為さんとしたことも、従来の戦国大名中心史観から脱却しより広範に社会を構成する人々の相互作用として戦国社会を捉え直している、歴史学界の成果を広めようとしたことではなかっただろうか。つまり、全体像・マクロ構造の転換を一般に促そうとしたのである。しかしそれでも、我々は身近でリアルな現代社会を投影して過去を振り返る。その現代のリアル感は、400年の時を超えるとどうも陳腐な固定観念となってしまうようだ。したがって、近年の歴史学の成果をきちんと踏まえないと、個別事象はどれだけ確かでも、そこから立ち上がる史実は単純化した表層的なものになってしまうのである。
 歴史を扱うプロの著述の中にも、そうした群雄割拠型権力モデルで戦国史を語っている記述に出会うことがあって、これはどうしたことかと戸惑ってしまうことがしばしばある。特に戦国合戦などを語ったものにそれが多く、社会構造の研究と合戦などの軍事史研究が実は一体とはなっていないのでないかと思うほどである。そう言えば、藤本正行氏が著した『信長の戦争軍事学』(1993年JCC出版が)が文庫化され、『信長の戦争』(2003年講談社学術文庫)として再販された時、その「学術文庫版あとがき」で次のように述べていた。

 かつての学界では、軍事史という言葉を近代の戦争を対象として用いており、戦国合戦については合戦史と読んで区別していた。その心底には、合戦を講談のようなフィクション世界の話と考え、研究対象とすることを低く見る傾向があったように思う。また、軍事という言葉の持つ“きな臭さ”を敬遠する傾向があったようだ。だが、合戦は、その時代の社会事情の投影であり、その理解には、文献史料、絵画史料、武器武具に関する知識、フィールドワークの成果など多方面の広範な知識と、異常な事態(現代人にとって、合戦の現場はまさに異常事態であろう)に対する想像力を必要とする。

 藤本氏の主張は的を射たものであろうと思うが、その藤本氏の『信長の戦争軍事学』が前提とするものは、池上氏の「群像」や久留島氏の「一揆」に支えられた社会・権力モデルには見えない。いかに文献史料、絵画史料、武器武具に関する知識、フィールドワークの成果を駆使しようとも、その理解の母胎となる社会・権力モデルに妥当性がなければ、よりリアル感のある群雄割拠の戦国史となるだけであろう。
 それと、藤本氏は「現代人にとって、合戦の現場はまさに異常事態であろう」と言うが、果たして現代と比べて異常なのは合戦の現場だけであろうか。その社会やそこに生きた人々も、現代から見れば全て異常なのではないだろうか。合戦は「その時代の社会事情の投影」といい、その合戦の現場が異常なのであれば、それを生み出している社会や人々も異常だということにならないか。
 私は、屁理屈をこねようとしているのではない。400年も前の社会や人々を理解するのに、現在社会やそこに生きる我々の生活・常識・信条などを投影せずに、どうやってそれを理解するのであろうか。我々の常識を完全に逸脱する異質なものがそこにあったとして、それを現代的に、我々の常識の枠内にはめ込んで理解していないと、どうして言い切ることができるのであろうか。これは歴史理解の根本問題なのではないかと思うが、後にこのことにも言及したいと思う。
 ともかく、「群像」や「一揆」を社会や権力の基礎に据える社会・権力モデル、リゾーム型権力モデルで戦国期社会の諸問題を考えていこうと思う。
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by mizuno_clan | 2008-12-21 12:53 | ☆談義(自由討論)

『水野氏と戦国談議』資料編(1)

 江畑委員が座長となって進めて下さっている『水野氏と戦国談議』1、の「『リゾーム』構造で戦国時代というものを多角的に論じていきたいと思う」とのご主旨に関連して、コメント欄ではうまく表記できないことから、記事として参考資料を書き込みます。

 本年度、大学で「国際関係史」の講義を受けており、春学期の冒頭で教わった内容を一部ご披露します。

                               事務局世話人 水野青鷺

==================================================
国際関係史概説
序 「国際関係」とは
 従前は、国家間関係を国際関係といった
 現在は、独立した諸国家の織りなす関係の総称
 ・国家が基本単位
   ヨーロッパ国際関係が現代国際関係の母体
1 伝統的地域秩序の特徴~東アジアほか
(1)中世的ヨーロッパ秩序
 1)無数の領主の間に権力が分散
    ∵領主が一日で往復できる範囲を領土としていた。
  領主間の争い → 城を築き堀を廻らす
    ∵城が領主権力の基盤
    領主が領民を守る → (支配体制) → 租税を徴収
    領主同士も相互に同盟を結び安全保障の道具とする
      A → 上級領主(主君)
      B → 下級領主(家臣)
         BはAに領土を寄進し、Aは一旦受納した後Bに下げ渡す
          AはBの内政干渉をしない
         BはAに戦争の荷担をする
          BはA以外にも複数の同盟を結ぶ → 5~20数カ国との同盟があった
        保護と忠誠の主君関係の形態を取る → 信頼関係の上に成り立つ
    中世国王――上級領主――下級領主の上下関係とともに
      上級領主は複数の下級領主と、又下級領主は複数の上級領主と同盟関係締結
   国王(有力領主の一人)=封建的主従関係の頂点
     → しかしながら国王(国家)の権力は微弱
    国境線は曖昧 → 複数の国王と従属関係を結ぶ
==================================================

※会員およびゲストの方のコメントで、文字数が多くなったり、またコメント欄ではうまく表記できない場合などは、左に設けていますMail Form の「事務局へのメール」にその旨お書き込み下さい。追って対処法を返信いたします。
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by mizuno_clan | 2008-12-20 04:23 | ☆談義(自由討論)

水野氏史研究会 委員就任のご挨拶

 会員の皆さん、この度水野氏史研究会委員となりました江畑英郷です。

 ペンネーム foxblade でこれまで二度ほど投稿させていただいていましたが、あまり積極的に活動することはできませんでした。本会の活動の中心はこのブログでの発表や交流にあるかと思いますが、このブログは世話人の水野青鷺さんがお一人で運営されており何かと大変であったと思います。この度私が委員となりましたのも、ひとえに世話人さんのご負担を軽減しようとする意図から出ております。水野青鷺さんは、ブログ運営以外にも会員の勧誘や対面による会員の交流などに努めておられますので、ブログ運営に少しでもお役に立てればと思いお引き受けした次第です。
 今後はブログ運営のお手伝いと、ブログ上における活動の促進のために、『水野氏と戦国談議』と題した連続投稿を実施したいと思っております。私の研究が戦国時代、そして今のところ桶狭間合戦周辺にありますので、その辺りから幅広く戦国時代や水野氏について会員の皆さんと意見交換できればと思っております。
 微力ではありますが、会の発展のために努力いたしたいと思っておりますので、会員皆さんのご支援・ご鞭撻いだだけますよう、よろしくお願い致します。
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by mizuno_clan | 2008-12-14 18:17 | Information

【談議1】水野氏と戦国談議(第一回)

水野氏と戦国談議

                                                談議:江畑英郷

リアルに戦国を談議しよう
 三年ほど前から桶狭間合戦に関していろいろと調べるようになったが、そうしてみると戦国時代の実像というものが、それまで抱いていた理解とはだいぶ違ったものであることに折に触れて思い当たるようになった。それまでは大河ドラマとかこの時代を扱った歴史小説などから漠然と戦国時代というものをイメージしていた、あるいは知ったつもりになっていたのだが、踏み込んで調べてみるとそれは表面的で脚色されたフィクションが少なからず混入しているものであった。そうした表層的な受け止めやフィクションを取り払って史実というものに迫ってみると、妙な言い方であるが、史実は実に「リアル」なのである。
 この「リアル」感は、現実というものが錯綜し物事の境界線が曖昧なように、掴み取った史実が同様の性格を帯びていたことから生まれてきたものかも知れない。そんなリアルな戦国史は、以前の割り切られていて明瞭な武士の領土争奪戦の時代という認識を覆し、それよりも魅力的で奥の深い広範な人々の生き様を垣間見させてくれる。
 そんなわけで、この戦国時代の「リアル」な史実に迫っていろいろと考えてみたいというのが、今回表題とさせてもらった「戦国談議」の意味である。「談議」なのでいろいろとご意見を寄せてもらいたいと思っている。そして表題に「水野氏」とあるのは、この談議の場が「水野氏史研究会」のブログだからであるが、決してそれだけではない。
 
 かの桶狭間合戦で奇跡的な勝利を得た織田信長の同盟相手に、知多半島の水野氏がいた。この水野氏は現在の東浦町の緒川に城を構えていた水野信元が惣領であったとされるが、衣ヶ浦の対岸の刈谷、伊勢湾に臨む常滑、そして桶狭間西端の大高に庶家を分立させ、桶狭間合戦の頃には有力国人領主としてこの戦いを迎えていた。桶狭間合戦における水野氏の動向については、さきに『水野氏と桶狭間合戦』に私の考えを述べさせてもらった。 織田信長は永禄十一年(1568)に足利義秋を奉じて上洛を果たし、以降天下の行方をリードする時代の中心人物となったが、その出発点は那古野城で独立し孤軍奮闘の後に尾張最大の勢力となり、桶狭間合戦に勝利したことにある。その間、知多の水野氏とは同盟関係を続け、お互いを必要として支え合いながら飛躍への足場を固めていったのである。この信長の原点というべきものが那古野・清洲時代であり、そこにおいて後の覇道に現出した彼の権力の源泉というべきものを養ったのであろう。そしてその関わり合いの中に水野氏がいて、信元の甥である徳川家康がいたのである。
 那古野、緒川、岡崎は極めて狭い範囲に含まれており、今の愛知県中南部という陸地と伊勢湾、衣ヶ浦、三河湾という公海が寄せ合い引き合っている海岸線の長い土地である。ここでは幾つかの陸のドラマと海のドラマがあって、それがやがて戦国の終局面に向かって動き出す序章のように、若い主人公達を歴史の舞台に送り出していった。彼らは戦国期後半を席巻し天下を掌中に収めたが、それがこの狭い地域に育まれた者達であったことは果たしてただの偶然だったのであろうか。
 那古野の西南西四キロメートルほどに中村村があったがここが豊臣秀吉の出身地、また那古屋の南東三十五キロメートルに徳川家康の岡崎城があった。そしてその那古野と岡崎の中間に、水野氏の領地が横たわっていたのである。このように天下人輩出の地の真ん中に水野氏の支配領域があったのであるが、これらの地域には戦国を終焉に導き新たな統一国家そして近世を出現させる何かがあったのではないだろうか。その何かを考える時、少なからず水野氏に言及することになるであろう。もしこの愛知県中南部という地域に次代の胎動があったならば、あるいは水野氏の天下、水野幕府の開設などが史実として現出していたのかも知れない。

図1
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戦国時代の権力モデル
 世間では、日本史というと戦国時代と幕末が突出した人気があるという。どちらも時代の大きな転換期であり、名の知れた英雄を多数輩出した。だがこの二つの激動期には大きな相違がある。それは幕末で有名な人物のほとんどが下級藩士とか郷士といった権力の下層にいた人物であったのに対して、戦国時代といえば武田信玄とか上杉謙信など皆戦国大名という当時の権力の頂点にいた者に焦点が当っている。
 この時代は下克上の時代であったというが、その代表である北条早雲や斉藤道三などは戦国大名となったことで注目されているのであって、下級御家人や油売りが出自であっても結局のところ権力者となったことが評価されているのである。もっとも最近の研究では、早雲こと伊勢新九郎は下級の御家人ではなかったとされ、道三も油売りの商人だったのは彼の父親であったとされている。織田信長にしても尾張半国の守護代家の奉行に過ぎなければ、歴史に埋もれてほとんど名を聞くこともなかったことだろう。
 この時代、統一権力であった室町幕府が衰退し、全国各地に戦国大名が割拠して鎬を削る戦いを続けた。京に集権的に存在していた権力が、応仁・文明の大乱を通じて地域分散したが、その権力は戦国大名によって掌握され、その権力同士が統一に向ってぶつかり合う構図として一般に広く理解されていることだろう。権力は一点集中から地域分散集中へと転化し、それが「群雄割拠」としてモデル化されているのである。それだから、戦国時代といえば戦国大名、ここで戦国とは大名同士が国単位で争ったことを意味する言葉なのである。
 一方で戦国とは、国中が争っていた時代として捉える見方もある。ここでは権力がより広範囲に分散されて理解され、民衆や下層領主達も日常的に争っていたとされる。そして戦国大名は、そうした下層権力の相克に強くその動向を左右された存在として捉えられる。そこでは権力がより一層広範に分散化されて、戦いは同一層間でも異層間でも絶え間なく続いているとされるのである。
 私はずっと素朴に権力の地域分散集中モデル、言わば「群雄割拠モデル」でこの時代を捉えていた。しかし先に述べた「リアル」な史実は、どうやらより広範な権力分散モデルを指向しているようである。
 つい先日、本郷和人氏が著した『武士から王へ』(ちくま新書)を読んだ。その中で二つの権力の型について言及しており、それを「ツリー」と「リゾーム」と呼んでいる。「ツリー」は一つの頂点から従属分岐しながら裾野を広げていくピラミッド構造であり、「リゾーム」は主従が錯綜して「主人側の階層と従属する者の階層が、辛うじてぼんやりと分別できる形状をとる」と述べれている(図2)。これはちょうど「ツリー」が戦国の群雄割拠モデル、そして「リゾーム」が広範な権力分散モデルに対応しているのである。
図2
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 戦国時代というと、何かと戦国大名の動向が注目されるのは、群雄割拠型の権力モデルが多くの人々の認識の根底に強く働いているためである。だが地道に積み重ねられてきている歴史学の成果は、そのシンプルであるが魅力的な群雄割拠モデルは架空の表層モデルに過ぎないことを明らかにしているのだと思う。つまり武田信玄や上杉謙信など戦国大名は過大評価され過ぎているのであり、彼ら個人あるいは個性が史実に占める割合はもっと小さいだろうということである。織田信長もその限りでは同様であるが、天下の覇業をすすめ、彼自身と彼の臣下や同盟者から戦国大名を超える存在が出現したことは、織田信長という代名詞で語られる権力母胎に格別な何かがあったことを思わせる。そしてその中に水野氏が存在し、その原初形態においては信長と水野氏に大きな優劣があったとも思われない。
 以降の戦国論議は、今ここに述べた広範な分散型権力モデル、「リゾーム」構造で戦国時代というものを多角的に論じていきたいと思う。水野氏研究において多くの知見をお持ちの会員の皆さんに、多くのご意見・ご指摘をいただき今後の論議が深まることを期待したい。
 
 
 
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by mizuno_clan | 2008-12-14 17:48 | ☆談義(自由討論)

会員情報5 「水野氏史研究会の概要」の一部変更

 今般、本会会員で本会発足当初より数多くの投稿をして下さっております、foxblade(江畑英郷)氏に、新しく本会委員の就任を依頼致しましたところ、早速ご快諾をいただきましたので、会員各位にご報告いたします。
 これに伴い、「水野氏史研究会の概要」の一部を、下記のように書き改めましたのでご案内いたします。

                                              研究会事務局



                                        ●最新更新日2008/12/15
■事務局
 事務局は、本サイト上に置き、組織は当面委員三名体制とします。


  委        員 : 水野智之 博士(歴史学) 高千穂大学商学部准教授、織豊期研究会委員

  委員(運営推進) : 江畑英郷(ハンドルfoxblade)   織豊期研究会々員

  委員(世 話 人) : 水野克彦(青鷺しょうろ 号) 愛知学院大学開放講座聴講生 織豊期研究会々員
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by mizuno_clan | 2008-12-14 11:24 | Information

【寄稿11】水野忠分と心月斎 »»Web会員««

水野忠分と心月斎
                                           著者 mori-chan


 去る11月2日(日)、愛知県知多郡美浜町布土にある梨渓山心月斎という、曹洞宗の寺院の晋山式に行ってきた。

<晋山式が執り行われた心月斎>
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 それは、岩滑城主、中山勝時ご子孫のSさんから誘われたからであるが、この心月斎の先代、当代住職はSさんのご親戚である。晋山式とは、新しい住職にかわるお披露目の式のようなものであるが、新しい住職とは、先代住職の息子さんで、副住職をつとめてこられた人である。小生の家も曹洞宗であるが、菩提寺は現住所と遠く離れ、今まであまりこういう行事にでることもなかった。  

 当方、こういう式に参加するのも初めてなら、心月斎のお堂の中に入るのも今回が初めてである。もちろん、心月斎という寺については、知多に来てから知っているし、何度か来たことがある。この心月斎は、「花の寺」というだけに、季節の草花がいろいろ咲いている。お堂の前の鐘楼の東側に階段があって、裏山のような場所に上ることができる。そこは、公園のようになっていて、階段を上がったところに、蓮池があって、ぐるりとまわってあるくときに、いろいろな石造物や草花を見ることが出来る。以前来たときは、その裏山の植物がいろいろ植えられている公園のような場所を散策したりしたが、蓮池でハグロトンボを見かけて写真を撮った。

<ハグロトンボ>
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 この心月斎は、天文15年(1546)に、緒川水野氏一族の水野忠分が開基となって創建された。開山は、緒川から招かれたという大良喜歓大和尚。戦国時代、緒川水野氏は知多半島を制圧すべく、一族を知多半島の要所に配置したが、河和の戸田氏に対する備えとして、この布土に水野忠分を領主として配置したようである。 水野忠分は、水野忠政の六男、あるいは七男という。名前は「ただちか」と読むが、「ただわけ」と書いている本もある。水野忠分は、水野忠政の第何子か不明なのは、水野近守を忠政の子とするかどうか、説が分かれるためである。

 水野近守が拠ったとされる、刈谷古城は、文明8年(1476)頃には築かれたらしい。通説では、緒川水野氏の祖である水野貞守が刈谷に進出したことになっており、その貞守は長享元年(1487)になくなっている。万里集九が書いた『梅花無尽蔵』という詩文集にも、文明17年(1485)9月の記事として「出二刈谷城一三里余」とあり、水野貞守存命中に水野氏が刈谷に城を構えていたことが知られる。その刈谷古城の築城が文明8年(1476)頃という訳は、三河守護細川氏と前守護一色氏の戦いが、その当時あり、そのころ水野氏は一色氏について知多半島から刈谷に進出したというのである。


 その水野近守は、連歌を嗜んだ風流人であったようで、連歌師の柴屋軒宗長と親交があり、永正17年(1520)、宗長の師宗祇の句集「老葉」に注釈を加えた「老葉註」を与えられている。さらに、「宗長手記」から水野近守は「藤九郎」という通称であることや、大永2年(1522)の時点で和泉守の官途名を名乗っていたことが分かっている。

 一方、その当時、水野忠政自身は、緒川にいたはずで、天文2年(1533)に今の亀城公園のところに刈谷城を築いた後、刈谷に移ったという。水野近守が拠った刈谷古城の南400mほど行った場所に、楞厳寺(りょうごんじ)という曹洞宗の寺がある。これは水野忠政が刈谷城を築き、刈谷に移住した際、この寺に帰信し、水野家の菩提寺になった。その楞厳寺に、水野忠政が残した享禄元年(1528)の年月の入った文書があるが、署名は妙茂となっている。

水野右衛門大夫妙茂寄進状

為月江道光毎日霊供□・・・□ 江末代
 渡申田之事
 合弐貫六百文目此内
  壱貫文目坪上松御会下之前次郎四郎散田之内
  壱貫六百文目坪江口御会下之前治郎五郎散田之内
  此田石米弐石六斗ニ延米在之
右於下地者子々孫々違乱煩不可
申上候、為其居印判所末代渡
進上如件
  享禄元年戊子拾二月廿六日 右衛門大夫 妙茂(花押・朱印)
楞厳寺 
   永諗東堂様




<楞厳寺本堂>
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 水野近守は忠政の文書が発給される前に、大永5年(1525)に楞厳寺に土地の寄進状を出しているが、その文書の体裁と、3年後忠政が出した文書の体裁が同じであり、花押の上に朱印を押し、その印判が瓜二つである。ということは、水野近守は水野氏一族ではあるが、水野忠政の子ではなく、刈谷における水野氏統治の前任者というような人物であった。大永5年(1525)から享禄元年(1528)の間で、刈谷の統治権力が、水野近守から水野妙茂(忠政)に移ったとみることができる。さらに、水野忠政は、築城後は本拠地を緒川から刈谷に移しており、徳川家康生母於大は刈谷城から岡崎の松平広忠に嫁している。

 その水野忠政は、天文12年(1543)に刈谷でなくなっている。跡を継いだ水野信元は、今川との関係を断ち、織田方の旗幟を鮮明として、織田の勢力をバックにして知多半島を南進していった。それは、天文12年(1543)で、早くも阿久比町宮津の宮津城にいた新海淳尚を下し、その出城で榊原主殿が守る岩滑城を落とすと、中山勝時を城主としたのに始まり、時宗の僧といわれる榎本了圓がまもる成岩城を落とし、そのあとに梶川五左衛門を入れて城将とした。

 また、さらに南の現在の武豊町にあった長尾城を攻め、城主岩田安弘をくだしている。岩田氏は、『知多郡史』によれば、室町時代初期、枳豆志庄は醍醐三宝院領となり、岩田氏がその管理者となったといい、醍醐三宝院に関連した武士であって、その三宝院領の管理のために京から下り、やがて土着して三宝院領を押領したとも考えられる。また室町時代になると、大野庄に入った一色氏が勢力をふるうと、対抗上岩田氏も武雄神社の南、金下(かなげ)の地に城を築いた。さらに、富貴にある富貴城も戸田法雲が築城したようにいわれているが、もともと岩田氏が長尾城の支城として活用していた。戸田法雲は、その岩田氏が衰退したために、富貴に進出、城を改修したものである。

 もともと水野氏は、知多半島の要衝をおさえるべく、常滑、大高に一族を配していた。常滑水野氏しかり、大高水野氏しかりである。たとえば、常滑水野氏は緒川水野氏出身の水野忠綱を初代として、歴代当主が監物を名乗る家であったが、もともとは、大野や内海に勢力を張った佐治氏との対抗上配されたのであるが、伊勢との交易のために常滑に港を開き、経済力をつけていった。また、和歌などの風流をたしなみ、織田信長や徳川家康とも書状のやり取りを行う立場にあった。

 知多半島の要衝に一族を配していった水野氏であるが、水野忠分もまたその一人といえるであろう。この水野忠分については、天文6年(1537年)生まれで、天正6年12月8日(1579年1月14日)に織田信長の有岡城攻めに従軍して討死にしたこと以外、明確な事績が伝わっていない。しかし、さまざまな歴史的文書や『信長公記』の記述から、以下のことが分かっている。また、於大の方の弟であるから、徳川家康にとっては叔父にあたる。

(1)名前 :

通称は、藤二郎(藤次郎、藤治郎ともかく)、あるいは藤十郎。 忠分は「ただちか」と読む。法名は、盛龍院殿心得全了大居士。

(2)本貫地 :

 終生、緒川であった(刈谷を本貫とした信元とは違う)。

(3)家族関係 :

 忠政の子、信元の弟(六男、七男、八男の諸説あり)。妻は大野の佐治為貞の娘。子としては後に緒川高藪城主となった分長や心月斎第三世寛秀和尚がいる。

(4)居城: 

 布土城(愛知県知多郡美浜町大字布土字明山)

  参考:「∞ヘロン『水野氏ルーツ採訪記』」ここをクリックしてください 縄張図等あり

(5)武功:

 天文23年(1554年)の村木砦攻めを織田信長とともに行ったらしい。天正6年12月(1579年1月)有岡城攻めで先鋒。討死。



<心月斎本堂>
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 また、水野氏の勢力下には、曹洞宗の水野氏系の寺院を建立していったのであるが、この心月斎もその一つといえるだろう。たとえば、水野氏の本拠、緒川には水野忠政の墓のある乾坤院がある。その緒川の北の村木にも曹洞宗の寺院が、なくなった臨江寺も含めて五つもあった。常滑には常滑水野氏が創建した天澤院、大高には大高水野氏が開いた春江院があった。そういう寺院は、民衆の信仰の場であるとともに、同じ曹洞宗を信じる水野氏と、精神的に結合し、その統治を隅々までいきわたらせるためのものでもあった。

 河和の戸田氏が水野氏の勢いに屈して、水野信元との和議によって河和を残すことを図って、水野氏の姻戚、一族に収まると、布土の戦略的な価値はなくなったといえよう。布土に城を構えた水野忠分がなくなったあと、跡継ぎの分長は水野忠重に従ったが、小牧長久手の合戦など数々の武功をあげ、慶長6年(1601)緒川一万石、高藪城の城主となった。




 しかし、心月斎は徳川家康のいとこにあたる寛秀全廓和尚の代以降も、連綿として存続し、地域の大寺として今日に至っている。




<心月斎の山門>
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参考文献:

『戦国歴史年表』 木原克之編 美浜町教育委員会 (2002)

『刈谷市史』 刈谷市 (1989)
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by mizuno_clan | 2008-12-14 10:15 | ★研究ノート

アクセス解析 No.3

●水野氏史研究会の2008年9月から11月までの「本ブログへの第3回アクセス解析」を発表いたします。
 一般の研究会では「会誌」を発行しておりますが、本会では当面その発行の予定はないことから、会誌の発行部数を公表する事は出来ません。従って本ブログへのアクセス状況(ユニーク・ユーザー数)をご報告する事で、会誌の発行部数に代替させていただきます。
 ※本ブログに設置している「カウンターの数値」は、途中で開設したものであり下記の数値とは異なります。

本会開設以来11月末で9ヶ月経ちましたが、会員各位始め多くの皆さんのご支援により、本アクセス数は順調に伸張してきております。ここに改めまして御礼申しあげますと共に今後とも引き続き御愛顧賜りますようお願い申し上げます。 
                                                 研究会事務局


【エキサイトブログ・レポートの集計データ】 更新2008.12.01

▼2008.9.1~2008.11.30 までの“ユニーク・ユーザー数”
合計 1,184 ip (前回比106.6%)

前計   1,885 ip
累計  3,069 ip
 ※ユニーク・ユーザー【unique user】数とは、ブログにアクセスされた接続ホスト数をユニーク(同じ物が他にないの意)な訪問者の数として日毎に集計している。つまり同一人物が1日に数回アクセスしても、最初の1回のみがカウントされる。この集計基準は、ページ・ビューなどの基準に比べ判定方法が難しいが、実質訪問者数を示している事から、サイトの人気度をより正確に反映できる。


▼2008.9.1~2008.11.30 までの“ページ・ビュー数”
合計 3,627 pv (前回比99.6%)

前計   3,640 pv
累計  7,267 pv
  ※ページ・ビュー数【page view】(=表示画面閲覧数)の月別日計グラフを以下に掲載する。
通常、訪問者はサイト内の複数のページを閲覧するため、訪問者数(ビジット)よりもページビューのほうが数倍多くなる。


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2008.11 合計 832 pv




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2008.10 合計 955 pv




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2008.9 合計 1,197 pv

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by mizuno_clan | 2008-12-02 14:00 | アクセス解析