【談議1】水野氏と戦国談議(第七回)

怨は忠義に勝れり
                                                 談議:江畑英郷
 前回「名も無き戦国の牙城」では、戦国期に強固な自治をもって自らの存立のためには合戦も厭わない小領主国家における牙城のような惣村について触れてみたが、大枠でその有り様を見たに過ぎない。しかしその惣村は、地下請から村請へとより集団的自己完結性を高めて、戦国期社会の地下茎たるリゾームの温床をなしていたように思われる。
 前回談議に対するコメントで巴々佐奈さんは「表層的には支配領域が確定しているようですが、地下茎はより多くの領域に繋がっている」と、リゾームたる惣村を念頭に置いた戦国大名の支配についてそのイメージを膨らませ、「領域にある根っこを支配しようとすれば、地下茎の及ぶ範囲に影響を及ぼさねばならず、結果として竹林に張った縄張り領域を広げざるをえなくなる。それが戦国大名が戦いを仕掛ける」根本構造かと疑問を投げかけてきた。今回はその一端について、解答をせねばならないだろう。

 『日本近世の起源』における渡辺京二氏は、歯切れのいい物言いで戦国のリゾームを多角的に語ってくれているが、その中で勝俣氏の一節を引用して次のように述べている。

 勝俣鎮夫は日本の中世が「私的復讐が支配した時代」であり、「個人的死闘は、集団的私戦にすぐ転化する要因があった」ことを指摘する。中世の人々は「自己に加えられた侮辱に対する過敏さ、爆発的憤怒の感情、激しい闘争本能、死に対する絶望的なまでの感覚」において際立っており、喧嘩はどんなに些細な原因によるものであっても、ただちに血で血を洗う私戦に転化する。「喧嘩は、私の怒・私の怨より行動するのであって、忠と義により参加する合戦より、はるかに内からの勇気がわきおこる(『翁草』)といわれる如く、生命を賭して戦われたのである」。そして惣村はまさしく、このような流血沙汰にいたる喧嘩の担い手のひとつだったのだ。

 ここで勝俣氏や渡辺氏が言わんとするところは、この時代の人々は血の気が多かったなどということではもちろんない。彼らの解釈では、「私」とは村集団のことなのである。「個人とその個人の属する集団は不可分であるという強い社会通念・社会構造」が存在していたと勝俣氏は語り、その背景に自力救済社会の厳然たる実態があると言う。

 山林や用水の確保は村の生命にかかわる。したがって山林・用水をめぐる隣村との紛争は、提訴によって合理的解決を期待できる上級権力が不在である以上、村落の生存を賭けた深刻な武力抗争に帰着せざるをえない。いわゆる山論・水論はそういう自力救済の過酷な様相を示すものにほかならなかった。(『日本近世の起源』)


 戦国乱世は、村の視点から見れば、自らの権益は自力で守るより他ない時代であり、その自力の多くは武力をもって相手を圧倒することであった。そうした時代に生きる人々の赤裸々な実態は、戦いを厭うというよりは、闘争本能によって支えられた野生の自立とでもいうような力による生存であったようだ。前回冒頭で紹介した近江国梅津西浜村から菅浦村に出された援軍うかがいの書状が、妙に戦慣れした感じを受けるのは、彼ら村の者が武力闘争を日常的に繰り返していたからなのであろう。村と村の争いの中にはかなり大規模な戦いもあったようで、『日本近代の起源』には次のような事例が記されている。

 天正六(一五七八)年に始まる紀伊国荒川荘と田中庄間の「山公事」を見よう。このときの合戦では荒川方は橋口甚太郎を大将として二千五百、対する田中方は二千八百で、団九郎というつわものが甚太郎の首をとり、田中方優勢のうちに暮に及んで双方兵を引いた。翌日、荒川方は稲葉左内を大将として雪辱を期し、団九郎以下六名の頭取、十八名の雑兵を討ちとり、「凱歌を揚て」引上げた。田中方は壊走したのであろう。二十四名の死体は野中にうち棄てられ、哀れ至極のありさまだったと記録は伝える。荒川方の死者は三名、手負いは三百余名だった。大将がおり雑兵がいるといった具合で、まさに本格的な合戦だったことがわかる。

 戦国大名顔負けの合戦でさえ為す村々の実力には思わず瞠目させられるが、黒田基樹氏はこうした惣村のあり様を見て、「まさに村というのは、他の集団との戦いのために創り出された、といっていい」(『百姓から見た戦国大名』)と述べるに至る。頼るべきもののない世界での自力とは、多分に武力の行使を含むものである。身近な生活空間における連携・結合としての一揆が村であると規定できるのであれば、その一揆は共同して生産し、生産に必要なものと生産の成果を共同して守ろうとする。戦国のライフライン、それが村であり、自力救済社会に生きる者たちの砦であったのである。
 そうした自力救済社会に終止符を打つために登場したのが戦国大名であったというのは、前回引用した久留島氏の「解決不能となった問題を裁定することで、公権としての力を一層強めていった」という言葉に顕れていた。「提訴によって合理的解決を期待できる上級権力が不在である」ことが武力行使につながったのであるから、紛争調停者としての戦国大名が登場すれば、村々の戦いは抑止できることになる。藤木氏も「分国内のあらゆるモメゴトは大名が公に解決する。私の解決はいっさい認めない、と大名が宣言したのは、実力行使や戦争の惨禍をなくしたいという、中世の人々の切実な願いに答えるためだった」(『戦国史を見る目』)と述べている。先にみた『翁草』の言葉や近江国梅津西浜村からの助太刀うかがいの書状をみる限り、実力行使をなくしたいと中世の人々が切実に思っていたかどうかは疑問であるが、紛争に対して公正で妥当な解決をする調停者の出現を望んではいたと思われる。
 勝俣鎮夫氏の『戦国時代論』によれば、村の人々は「“地下を安堵”させることが領主の義務であり、責任であると考えていた」のであり、「百姓がこのような領主の領民保護義務と地下の忠節・奉公を、あたかも主従制における“御恩”と“奉公”の関係のように相互交換的関係ととらえている」のである。そして、「その中心をなすものは、年貫・公事など課役の納入にあった」が、「領主が領主たりえないときは、これらを納入する義務はないという考え方が強くうちだされている」と言うのである。さらに進んで勝俣氏は、「戦国時代という戦乱の時代に強くあらわれた、このような観念にもとづく村の主張・行動が、荘園制の公的秩序を破壊し、このような村を基盤とする新しい体制、公の秩序を生みだす原動力となった」と主張する。まるで惣村が荘園制を内側から打ち破り、その欲するところの公の秩序の担い手としての戦国大名を生み出したと言わんがばかりである。
 このように自力救済社会での私的闘争を抑止して地下を安堵する公権力に対する社会的な要求があり、それに答えることで戦国大名は自らの権力基盤を強化していったということであるが、その戦国大名が他の戦国大名と領土拡張戦をするというのはどういうことであろうか。大名領国に住まう人々の私戦を調停し、その弊害を社会から取り除く公権を自認するところに村々の上に立つ戦国大名の存在意義が見出されているというのに、その戦国大名がより大規模な大名戦争を引き起こすというのは、村々に対する裏切り行為なのではなかろうか。
 勝俣氏の考えでは、戦国大名が大名としての責務を果たしている限りにおいて、領民は年貢を納め上位権力として認めるのである。領内には様々な確執もあり、訴訟や紛争が絶えなかったであろうし、時に起こる災害により疲弊した領民の救済、新たな耕地開拓の支援、商工業発展のための道路普請や港湾整備などのインフラ事業、そしてそれらを円滑に進めるための法制度の整備とその施工、さらに公平な徴税制度の確立とその基礎となる検地の実施など統治者としてやるべきことは山ほどある。このような公権としてやるべきことを果たさなければ大名権力は足下から揺らぐはずであるのに、そして領内における私戦を禁じる立場にある戦国大名が、私で他国の戦国大名と合戦を続けていたというのはどう考えてもおかしいと思うのである。
 しかしながら、戦国大名どうしは間違いなく戦っていた。そうであるならば、戦国大名が戦っていたのは私戦ではなく、公戦であったことになるのではなかろうか。私戦でなかったということは、私利私欲や大名の都合による戦いではなかったということであり、公戦であったということは、大名の領国統治の中に合戦へと赴かせるメカニズムが組み込まれていたということになる。
 そのメカニズムの一つとして注目されるのが、黒田基樹氏が述べている地下戦から領主戦へという争いの波及展開である。

 村同士の戦争は、村々のレベルだけにとどまらなかった。村は、そうした戦争に、しばしば自らの領主にも加勢を要請していた。領主も、支配下の村の「成り立ち」が遂げられないと、年貢などの収入がなくなるから、これに加勢した。そうすると、村同士の用益をめぐる紛争が、ひいては領主同士の戦争にまで発展することになる。(中略)
 中世を通じて、在地における合戦は、絶え間なく発生している。それはたいてい、領主同士の合戦とみられている。しかしこれまでみてきた事例をもとに考えれば、領主同士の合戦とみえるものの根底には、こうした村々同士の用益をめぐる紛争があった可能性が限りなく高い。中世という時代は、いたるところでこのような戦争が繰り広げられていた時代であった。中世が、戦争の時代であったゆえんである。
(『百姓から見た戦国大名』)

 戦国大名領国というが、その領国に明確な国境線があったわけではない。そもそも自力救済社会に生きる人々の安全保障を一つの原点として戦国大名権力が登場しているのであれば、公権を求める側が大名領国域を規定しているのである。村々がどの大名を頼りとするのかそれは村々に委ねられており、その安堵を求める村々の集合体が大名領国ということになるだろう。村々の安全保障先がまったく村の自由裁量であったとは言えないだろうが、大名と村の様々なつながりそのものが「相互交換的関係」であったわけで、大名権力がそれを強制したわけではないだろう。したがって、戦国大名領国は大名の拠点を中心として同心円状に広がり、その周縁部は他の大名の安全保障下と重なることになる。そこは大名領国の交差域であり、双方の安堵が錯綜していたであろうし、戦国の両属の世界が広がっていたのである。
 こうした大名領国の交差域は決して狭いものではなく、時々の情勢によって常に流動的に揺れ動いていたものと思われる。そうした交差域で勃発する相論は、村から村へ波及し、戦国の熱い血と怨念によって武力闘争となり、戦いの当事者が次々に加勢を頼むことで、その地域全体の安全が危機的に脅かされることになる。そうなればこれを黙視できないのが、公権としての戦国大名の立場である。戦国大名は紛争の調停に努めるであろうが、同時に他国の大名も公権を掲げて乗り出してくる。地下は「内からの勇気」をわきおこして戦いにのめり込んで、収まりがつかなければ大名間の戦争に発展するのである。
 自身の安全保障下にある村々の危機を救うのは戦国大名の義務であり、そのための戦争は公戦に他ならない。そうして始まった戦いは、やがて戦国大名どうしの全面戦争に発展する場合もあったことだろうが、大名の私利私欲や都合によって戦っているのではない。もちろん、純然たる公戦であるため、そこに大名やその家臣の私欲を差し挟む余地がまったく無いなどと言っているのではない。ここでは、公権として領内の安全と秩序の維持に責任をもつ戦国大名が、その安全や秩序を危機にさらしかねない他国との戦争に突き進むメカニズムを明らかにしようとしているのである。

 前回「名も無き戦国の牙城」では、戦国期の底辺にあった自己完結的な惣村権力をリゾームの視点で考えてみたが、その惣村権力を抱える戦国大名がこのリゾーム構造の中でどうして他国との戦いに進むのかを今回考えてみた。その結論として、リゾーム型権力モデルの骨格となる考えをここで以下に示しておこうと思う。

 戦国大名に私戦なし

 戦国大名は公権として、持ち込まれた戦いを引き受けているのであり、自ら進んで戦争を起こし、領国を危険にさらしているわけではない。そして戦国大名の私戦を、リゾーム構造をなす社会が許しておかないものなのだという基本認識を、この言葉は示しているのである。
 惣村は地域の安全保障を戦国大名に求める一方で、他国との相論、そして合戦には領主の加勢を要請するというまことにエゴイストな底辺権力である。先に引用した中に『翁草』の一節、「喧嘩は、私の怒・私の怨より行動するのであって、忠と義により参加する合戦より、はるかに内からの勇気がわきおこる」というのがあったが、この「忠」とは村にいた地侍の大名への軍役を指しているだろうか。また「義」とは、村どうしで一味同心した一揆への義理と受け取ればいいのだろうか。そしてこの「忠」「義」よりも、私=村の「怨」が勝るというのでは、戦国大名も知行を与えたり村のために戦ったりする甲斐がないというものである。上に立つものは、傍から思うほど楽ではないということであろうか。
 藤木氏は、「村からみた戦国大名」という論文で戦国大名が村のために何をしたかを語った後で、戦国の村のようすを詳しく伝えることで有名な『政基公旅引付』を引用して次のように結んでいる。

 そういえば、戦国の初めの和泉日根野庄(大阪府泉佐野市)近くの村でも、粉河寺軍の「猛勢」に襲われたとき、わたくしたちは、「草のなびく様なる御百姓」だから、けっして敵対する気はありませんと強調し、
 ①何れの御方なりといえども、ただ強き方へ随い申すべきなり、
             (永正元年=一五〇四「政基公旅引付」)
といっていたのを思いだします。百姓というのは、風になびく草のようなもので、領主などだれだってかまわない。ただ強くて頼りになる方につくだけさ、というのです。
(『戦国を見る目』収録)

 求められて公権を掲げた戦国大名であったが、草のなびくような百姓は、頼りにならないと見れば大名でさえ捨ててしまいそうな勢いである。誰のために戦っていると思っているのだ、と怒りをあらわにする戦国大名の顔が浮かんできそうであるが、戦いはただ村の加勢のためにだけあったのではない。次回は、天文年間における西三河に焦点を当てて、村とは別のリゾーム権力について考えてみたいと思う。
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by mizuno_clan | 2009-01-24 23:19 | ☆談義(自由討論)

【談議1】水野氏と戦国談議(第六回)

名も無き戦国の牙城
                                                 談議:江畑英郷
急度申せしめ候、其元境目御相論の由、千万御心元無く存じ候、自然人数等御用に付いては、御さう次第若輩遣わすべく候、様体具に承り度候、
〔一筆申します、そちら(菅浦)で境目の争いだそうで、いろいろ御心配に思っています。万一軍勢が必要なときには、御連絡次第に若衆を派遣するつもりです。状況を詳しくお知らせください〕
(『百姓から見た戦国大名』黒田基樹著)
(上記は原文のままであるが、訳としては「急ぎ申します。そちら(菅浦)で境目の争いだそうで、いろいろ御心配の事と存じます」が適当だと思う)

 これは戦国期に、近江国梅津西浜村(滋賀県マキノ町)から菅浦村(同県西浅井町)に出された書状である。これを『百姓から見た戦国大名』で取り上げた黒田基樹氏は、「本文をみただけでは、戦国大名同士でやりとりされた書状と思っても不思議ではない、それらと区別つかない文面である。こうした大名同士で交わされるような内容の書状を、村同士で交し合っていたこと自体、驚きである」と述べている。この梅津西浜村から出された書状は、確かに戦国期の村に対する一つの強烈な印象を我々に与えるものである。
 戦国期の村については、1980年代からその研究が活発となり、藤木久志氏や勝俣鎮夫氏などによって次々と新たな視点からの解明がおこなわれたと言われている。戦国史を最も一般的な視点から捉えられると思って参考にしている『戦国の群像』や『一揆と戦国大名』においても、「自立を強める村」、「百姓の内と外」という章を設けてきっちりと説明している。現代の我々からみれば、人が住んで生活しているといえば町か村以外には考えられないが、久留島氏が「つい最近に至るまでの生活の枠組みが、室町時代から戦国時代にかけてのこの時期にできあがってきた」と述べていることをみると、人が住み生活するための当たり前の場としての村が、その以前はそうでなかったのかと返って不思議に思う人もいることだろう。
 久留島氏は、「この時代の最も特徴的な存在は、群雄割拠する英雄たちではなく、村や町に住む庶民たちなのである」とも言っているが、戦国期の村のどこが時代を顕わすように特徴的なのだろうか。黒田基樹氏は『戦国大名の危機管理』において、戦国期の村の特性を次のように要約している。
 
①村は法人格を有する政治団体であり、構成員の私権を制約する公権力として存在し、構成員や村領域に対して独自の徴税権、立法権、検断権(警察権)などを有した。
②村は独自の武力を持ち、しばしば村の権益などをめぐって他の村と相論し、そうした諸問題の解決のために、その武力を発動し「合戦」(戦争)を行った。その際、周辺の村々と同盟関係を形成し、「合力」(加勢)を獲得していた。
③その一方で、合戦の際限のない展開を抑制するために、「相当」(同量報復)の論理、中人(仲裁者)制や神裁、解死人(犯人ないしその身代わり)制など、紛争解決のためのさまざまな慣行を形成していた。
④村の存続のためには、合戦での犠牲や解死人など、過酷な犠牲をともなった。そのため、その補償の慣行や、乞食をはじめとする構成員ではない人々を常に扶養していた。
⑤こうした村は、およそ十三世紀後半頃から、隣接村落との激しい相論を通じて形成された。対領主の階級闘争を通じて形成されたのではなかった。
⑥村は、戦国時代までには領主との間に村請のシステムを結んだ。それ以降、江戸時代を通じて、村は国制上の基礎をなした。上記のような村の有り様は、江戸時代になっても本質的に継続していた。


 この要約は、勝俣氏や藤木氏などによって指摘されてきたことを総括したもので、『戦国の群像』や『一揆と戦国大名』に描かれている戦国の村の姿とも一致している。一つの村が①に示されたように、独自に徴税権、立法権、司法・警察権を持つということは、あたかも一国家の体裁を備えていたかのようである。『日本近世の起源』において渡辺京二氏は、「惣村が構成員に裁判権をもち、村員全体が武装してその指揮権を村内上層部が握っていたというのは、惣村が国家にまがう主権団体だったことを意味する」と述べている。村が武装し他の村と戦争におよんでいたことは上記要約の②に示されているが、これからすると渡辺氏が「地域的小国家」(『日本近世の起源』)と呼ぶのも大げさ過ぎると片づけるわけにはいかなくなる。
 だが、「村が一個の生命体のごとく扱われており村内の矛盾が軽視されている」という批判もあるようだ。③や④に語られる解死人など、村の存続のためには「過酷な犠牲をともなった」としているが、村内には有力百姓の被官(隷属民)もいたし、被差別民も含まれており、彼らが払う犠牲が大きかった。藤木久志氏は、「戦国期の“穢多”は自ら武装し、竹木濫伐の監視、乱入狼藉の排除など、近隣の村の武力行使を支える重要な要員として、期待されていたことになる」(『飢餓と戦争の戦国を行く』)と述べている。
 ⑥の村請では村内の百姓が村という「法人格を有する政治団体」に包摂され、領主などの外部勢力が直接百姓に干渉することができないシステムでもあった。そのため村民と外部との折衝は一種の団体折衝のようなものとなり、村の代表たる有力百姓の権力が増大して村内に階級秩序が形成される。そしてそこに矛盾が生じると、村からの逃亡移住としての「走り」が頻発するようになる。

 戦国期の武蔵国では、年貢・加地子の重圧により、百姓の欠落が頻発していた。彼らは主に、諸役免除と「自由」を享受しうる町や開発地に流入し、旧来の従属関係を断ち切ろうとした。(中略)移住者は、旧居住村で年貢を未進したり、有力百姓への従属関係から逃れる目的で離村する場合が多かったからである。そこで、離村者を呼び戻そうとする旧居住村と、返すまいとする移住先の村との間で軋業が生じる。開発(再開発)は矛盾の連鎖であった(稲業一九九八、池上一九九九)。このことは、村請を行なう惣村は一応成立しているものの、土地と安定的な関係を結んだ小百姓の「家」はいまだ一般的には確立しておらず、惣村の社会構造が流動的かつ不安定であったことを示している。(『日本史講座』渡辺尚志「村の世界」)

 村請の元で「走り」が起これば、逃走した百姓の年貢は残った者が負担しなければならない。これは村を代表する名主層にとって、村請の諸刃の剣といったところだろうか。そして「走り」の原因が「有力百姓への従属関係から逃れ」ようとすることにあったということは、村内に深刻な格差・対立が発生していたということであり、閉じた世界である村においては救済を求める相手とてもなく、他所へ逃亡移住するしかなったということであろう。外から見る村は年貢は村一括の請負納入で、村内の問題は村内で解決するという非常に自己完結的な集団組織であるが、一歩中に入ればそこにはやはり対立と矛盾が存在していたのである。
 黒田氏がまとめた戦国期の村の要約は、この時代の一つの権力ともなった村の自立と自治を示すものであり、無数にある村々が時代の権力としてぼやけた頂点として一つ一つをかたどるのであるが、その一方で村の内部にもリゾームが見え隠れしている。そもそも形の整った権力のツリー構造などというものは、単純化された架空のモデルの所産に過ぎないのであろう。いつの時代も権力構造はリゾームであるといえばそうなのであり、リアルな現実社会がそう単純なわけもない。しかしそれにしてもこの戦国期の村というものを知りえると、戦国時代というものは、混沌とし権力が全国にそして社会の下方に向ってばらまくように拡散した時代なのだなと、あらためて思うのである。

 さて、こうした戦国期社会の根幹をなす村の実態を踏まえた上で、第四回で問うた戦国大名はなぜ戦い続けたのかについて考えを進めてみよう。戦い、戦争は多くの兵と物資を消耗し、戦場となった地域は荒廃する。しかもそれが戦国大名の戦いともなれば大規模化し、それだけ戦国大名の求心力と統制力が必要とされ、それがなければ人も物も動かないはずである。しかしながら、村の自立性や自治性をこれだけ強調されると、大名の意志だけであるいは欲望だけで、戦国大名間の戦争が遂行できたとはなかなか思えなくなってくるのである。
 第四回の「所領とは何か」で、戦国大名軍の中核を担っていた(兵員の大多数を占めていた)地侍をその所領という観点で考えてみたが、そこで彼らの所領拡大はリスクの高い軍役以外にも開かれていたことを確認した。また知行宛行いといっても様々なタイプがあり、戦国大名が自らの権力基盤拡充のために意欲的にすすめた検地でさえも、地侍の内得分を暴いて、それを軍役と交換に知行として再配分していたのである。それからすれば、知行に対する軍役義務といっても、どれだけ身を挺して戦ったかは大いに疑問となるところである。
 こうしてみると、戦争という負荷のかかる事業が遂行できた根拠はいったいどこにあったのだろうか、そこが大きな問題となってくる。自らのうちに村の構成員から年貢を徴収し、年貢未進にはそれを補填・保障し、様々な掟をもうけて村人を拘束し、それを可能とするかなりの規模の惣有財産を保有する戦国の村々を、戦国大名は何を持って統制できたのであろうか。また、その村の指導的立場にある地侍は、一方で戦国大名の被官という側面も持つが、依然としてその基盤は村にあり、村の維持と発展のために戦いはするが、それに直接の関わりを持たない他国との戦いには冷淡だったようにも思える。そうした村の地侍層を、戦国大名はどのようにして他国との戦いに参加させたのであろうか。

 まず、戦国大名が自立性と自己完結性を高める惣村に対して、どのようにして自らの存在を認めさせていったかであるが、池上氏が『戦国の群像』で述べるところを確認してみよう。

 領主階級は、農民に対する新儀の課役・非法を自らいましめ、先例による支配・課役を原則として掲げた。そのもとに、突出する農民の要求(領主側からみて)を抑えこみ、損免や未進を認めず、譴責を加える手順や方法を、領主階級共通の法として定めた。こうして、領主階級の起請・一揆によってはじめて諸口を塞ぎ、門戸を閉ざして抵抗する一荘・一郷の一揆や名主・百姓等に対し、個々の領主の所領の枠を超えて「堅く御成敗を加え」ようという大名権力の強権発動が、権限を付与され、正当化されたのである。大名権力を成立せしめる戦国の状況があざやかに示されている。

 池上氏によれば、領主階級が結束して大名権力を支持し、大名は法をもって自らも含めた領域全体を拘束することで「公」(おおやけ)を実現し、これをもって領国における立場を築いたということである。池上氏はこの引用文の前に、「六角氏式目」を示してそれが「領主階級が結集して農民の一揆に対抗しようとした、領主階級の一揆契約状という性格を強く持っている」と述べ、「起草者と六角承禎・義治親子とがそれぞれに連署の起請文を交換して、たがいに法の遵守と道理・正義の沙汰を誓い」あっていると言う。このことからすると、領主階級同士がその利害を守るために結束し、その中での「法の遵守と道理・正義」を実現することを第一とした。そしてそれが一般化されて、村と村民に対しても同様に適用されて領域全体として道理と正義が守られるということのようである。
 戦国大名による「公」の実現が大名権力存立の根拠ということらしいが、池上氏は「個別の領主権を規制しつつ領主階級全体の共同利益を追求する権力としてたちあらわれた」としているので、村に対する領主の利益擁護者としての側面を重視しているようである。
 一方で池上氏の見解とは別に、久留島氏がどのように述べているか『一揆と戦国大名』を見てみよう。

 戦国大名が家臣や百姓たちからその権力を承認される一つの重要な要因として、紛争調停者としての側面が指摘されている。室町幕府は鎌倉幕府の訴訟制度を受け継ぐとともに、遵行(じゅんぎょう)、つまり裁定内容を執行するシステムを持ち、同時により広い人々の訴訟を受理する権力であったことが知られている。公武統一政権として、武家・公家・さらに都市の商人・職人の訴訟まで裁定しているのである。(中略)
 戦国大名の裁判は、これら様々な形で紛争解決の手段を吸収し引き継ぐと同時に、それらと並存し、そこで解決不能となった問題を裁定することで、公権としての力を一層強めていったといわれる。


 「公権」としての戦国大名が社会から要請されたという点では、久留島氏と池上氏の見解は同じであるが、池上氏が領主階級からの要請に答えたことを第一義としたのに対して、久留島氏は領域内のすべての階層の紛争調停を契機としているとする点が異なる。だが、これは見解の不一致というよりも、戦国大名の登場には「公権」の樹立が根本契機となっており、それには池上氏がいうような領主階級の利益擁護という側面と、領域全体の紛争調停という側面の両面があったということだろう。そして戦国大名自身が領主階級であることを思えば、その利益を守る代表権力として成り立ちの第一歩があったというのは、十分に理解できることではないかと思う。
 領域全体の紛争調停者の立場を説く久留島氏も、戦国大名の裁定が奏者・取次者との結びつきの強弱によって左右され、必ずしも公正であったかどうかに疑問を呈し、「訴訟制度を整え法を整備しても、現実の訴訟がこのような実態であったとすれば、訴訟が本当に公権としての大名を存立させていた基盤であるとは、まだいえない」と述べている。この点からしても、純粋な「公権」というものが初めから達成されたというのは無理があるだろうし、最初から戦国大名がそれをめざしていたというのも、きれいごと過ぎるであろう。
 結局、戦国大名が領域支配者として位置づけられるならば、それは領域統治者の道を歩む他なく、領域の維持と発展が自身の存立と分かち難くなるのは当然のことである。したがってどのような意味でも、戦国大名は「公権」を体現するようになるのは事の道理のように思われる。しかし問題なのは、強い完結性をもった村を基盤とせざるをえない戦国大名が、「公権」を標榜しながらどうして他の戦国大名と戦い続けたのかという点が、ますます分からなくなっているということである。
 戦国大名が「公権」であるのならば、私に戦争を起すことは、その存立に対する自己矛盾となる。領土拡張というような私欲で他国に戦をしかければ、その負担を背負い込む領主権力たる国人や強い自立性をもった村からの反発は必至である。仮に戦国大名とその家臣(領主)が共通の欲望をもったとしても、羊のように従順な民衆を強固に隷属させているならばそれも可能かも知れないが、上記にみたような惣村がそれを許すはずもない。村請を実現し、排他的ではないにせよ自己の中に徴税・立法・司法・警察の権力を有する惣村が、どうして村の存立と関係がない遠方の合戦に協力するだろうか。

 第四回のテーマとして掲げた「戦国大名はなぜ戦い続けるのか」、これは素朴で単純な問いのようで実際は非常に難しい問題だと私は思うのである。あるいは戦いはいつの時代にもあったことを思えば、「戦争はなぜ起こるのか」という問いに、結局は通じているのかも知れない。それが「戦国」という戦いに象徴されるほど全国各地で争いが起こった時代であるからこそ、戦争の本質が顕わになっており、その問いを避けてはこの時代を語れなくなっているということなのだろう。
 しかしながら、『戦国の群像』も『一揆と戦国大名』にも、「戦国大名はなぜ戦い続けるのか」という問いに対する答えが欠けている。否それ以前に、この問いそのものが発せられていないと思うのである。池上氏は『戦国の群像』の締め括りの章、「社会的“正義”の実現」と題した一節で次のように述べている。

 大名は戦乱をテコとして、所領の没収・宛行・安堵と家臣団編成を並行して進めた。戦争に勝つことが大名の使命であり、領主階級共同の利益であるという大義名分のもとに、大名は強権を掌握し行使していった。軍役を賦課して領主階級を結集し、大名を頂点とするヒエラルヒーを形成し、領国全体の土地に対する上級の領主権を掌握していった。

 勃発してしまった戦争であるならば、「戦争に勝つことが大名の使命」であるとは言えようが、自ら戦争を始めてそれに勝つことが大名の使命であるとは、どこから出てくるものなのだろうか。もしかすると、「軍役を賦課して領主階級を結集」する狙いが大名にあって、戦争をその方便として利用したということなのだろうか。そして「領主階級共同の利益であるという大義名分」を掲げれば、大名以外の領主階級はそれに乗せられて大名の術中にはまり、結果として「大名は強権を掌握し行使していった」という筋書きなのであろうか。果たして、日本全国でこうした戦国大名の詐術があって、そのために戦争が絶え間なかったなどということが本当に考えられるであろうか。
 そしてこうした考えをめぐらす内に、またもや群雄割拠型権力モデルに引き寄せられていることに気がつく。戦国期のリゾームの原点に、領主階級とは別に自立的に存在した村々の存在があったはずである。池上氏は、「だが、戦国大名は領主階級にのみ権力基盤をおいたのではなかった」として、「大名は、在地領主・地侍層の編成と表裏の関係で、村落の百姓身分や土地保有体系の保障者として地歩を獲得」していたのだと述べている。このようにしっかりと社会の基盤たる村落の百姓を見据えているはずであるのに、リゾーム型から逸脱してしまう瞬間があるのである。
 この点では、『一揆と戦国大名』の久留島氏も基本的に同じであると思う。『一揆と戦国大名』の最終章である「戦国の収束」、その3節「戦国時代 --- 十六世紀が残したもの」の中で、久留島氏は次のように述べている。

 永禄年間(一五五八~七〇)を中心とする各地の状況をみたが、戦国時代の中でも、この時期が最も“戦国”的様相を示すといえるのではないだろうか。各地域で覇権獲得のための最終的な戦闘が行われ、覇者をめざす戦国大名たち --- 群雄が出そろった。彼らを中心とする戦いと和睦、合従連衡が繰り返され、そのなかで国衆と呼ばれた自立的領主たちも、領国を形成・拡大しつつある何らかの勢力に服属し、次第に色分けされていく。戦線は彼ら群雄たちが接触するいくつかの方面ごとに激しさを加え、いまだ領国化されない地域への侵攻、中小領主たちの激しい取り込みが展開する。まさに「家中」から「国家」へという軌跡を描いた大名たちを中心に、急速に統合の運動が進められていくのである。
 しかし、それはけっして武家領主たちだけの運動ではなく、その根底には、村や町への帰属を強める人々の動きがあった。(中略)上からの公(おおやけ)「国家」と、下からの公「惣村」、両者の「公」は従来異質なものとして対比的に捉えられてきたが、大小の違いはあれ、両者は基本的に同質であるとする見方は肯けよう。


 ここで述べている久留島氏の見解も、池上氏と同様な構造を持っている。上段は、戦国大名間の覇権争いの中で、自立的領主であった国衆が「家中」として結束し、次いで中小領主たちが取り込まれることで「国家」、つまり公権が確立するということである。そして下段になると、「But」が入り、この公権としての「国家」には社会基盤をなす村や町の「公」が組み込まれていると言うのである。上段はまるで群雄割拠型権力モデルのようであり、それが下段になると、「But]を挟んでリゾーム型権力モデルのようになる。私が思うには、この「But]の接合がうまくいっていないのであって、池上氏も久留島氏も依然として群雄割拠型権力モデルに引きづられているのではないだろうか。
 その理由は、久留島氏の文章の展開を見るとわかるように思う。「永禄年間(一五五八~七〇)を中心とする」から始まって「中小領主たちの激しい取り込みが展開する」は、その前節「各地の覇権確立の戦い」を受けたものである。この前節ではそのタイトルの通り、天文から永禄年間にかけて全国各地で戦国大名が戦い、そして領国を拡大していったその事跡を追っている。池上氏の『戦国の群像』でも、第3章「激変する西国」、そして第4章「東国の群雄たち」では、信長の上洛直前までの全国各地における戦国大名の戦いを描いているのである。これは日本の歴史シリーズとしては当然な構成であり、天文・永禄年間の戦国大名の動向を記載しないほうがおかしい。しかしこの時期の戦国大名の動向、それも年表に現れるような事跡となると、合戦、合戦と大名間のぶつかり合いばかりが記載されることになる。戦国時代なのであるから当然そういうことになるのであるが、そうなると戦争と戦国期社会のつながりがしっかりと押さえられていないと、それぞれ別個の事柄を扱ったようになってしまうのである。
 先にも述べたが、『戦国の群像』も『一揆と戦国大名』にも、「戦国大名はなぜ戦い続けるのか」という問いに対する答えが欠けており、それ以前にこの問いそのものが発せられていないと思うのである。したがって当時の土地支配や社会基盤としての村や町をいかに適切に扱っていても、それがこの時期の戦争とどう関わるのかが曖昧であるため、大名間の合戦を描いた勢いで群雄割拠型の権力モデルが顔を出すのではないかと思うのである。
 私は数年前に桶狭間合戦について調べ始めたのだが、この合戦の謎を解くためには当時の尾張・三河、そして駿河・遠江の社会全体を見渡す必要があるのではないかと思った。そしてリゾームの視点で合戦を追おうとしたのであるが、幾つもの通説がそれを阻むように存在しており、それを打破するために『戦国の群像』や『一揆と戦国大名』など新しい研究動向を踏まえた書籍を読んでみた。そしてそこには確かにリゾームが説かれてはいたものの、逆に戦国の合戦は遠い存在となるか、あるいはややぎこちない接合が試みられるかの何れかであるように感じられたのである。
 水野氏史研究会の場でこのような戦国談議をするのは、桶狭間合戦を調べるうちに水野氏の当時の存在意義に気づいて、当会の世話人である水野青鷺さんのブログ“∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」”にたどり着いたからであった。この談議もやがて信長とその周辺に向っていくことにしたいと思っているが、その探求を確実にするためには、「戦国大名はなぜ戦い続けるのか」の答えを確かなものにする必要がある。そうでなければ、池上氏や久留島氏、そして私が目にした多くの書籍の著者でさえ陥ってしまう不本意な両軸、すはわち群雄割拠型権力モデルとリゾーム型権力モデルの混在に翻弄されてしまうだろう。

 前回は「所領とは何か」を書き、今回は戦国期の村と戦国大名について思うところを述べさせてもらった。やや堅苦しい話になるのは想定していたので、第五回と六回で切り上げようと思っていたのであるが、書き残してしまったことがある。考えてみれば、戦国期の村と戦国大名の関係を、「戦国大名はなぜ戦い続けるのか」という視点で語ろうとするのであるから、それがたかだか一回で終るはずもない。そこで次回の第七回は、藤木久志氏に始まる飢饉と戦国大名の関係や、村の境相論などに焦点を当てて「戦国大名はなぜ戦い続けるのか」を追ってみたいと思う。
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by mizuno_clan | 2009-01-18 15:03 | ☆談義(自由討論)

近況報告

 江畑委員に『水野氏と戦国談議』を精力的に投稿いただいていることで、会員各位やゲストの方々からの、すばらしいコメントも戴けるようになり、お陰様でこのところ本会は見違える程に活況を呈してまいりました。
 また、最近立て続けに二名の入会申し込みがあるなど、会員数も徐々に増えてきています。  
日々ご尽力、ご支援いただいております、皆々様に改めて深く感謝申し上げます。

 他の各研究会では、年一回程度会報を発行していますが、そこに書かれた論考や研究ノートなどに対しては、会員や読者から感想を寄せられることは極めて少ないものと思われます。本会は「研究会」の今後のあり方の一つとして、ペーパーレスで双方向通信していくことで、どれだけ情報交換や研究が進むのかという試みを始めましたが、発足一年を待たずして、その方向性がほのかに見えてきたように思われます。
 今後とも、みな様のご支援を何卒よろしくお願いいたします。

                              研究会事務局 世話人 水野青鷺
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by mizuno_clan | 2009-01-15 02:51 | Information

【談議1】水野氏と戦国談議(第五回1/2)

所領とは何か
                                               談議:江畑英郷
 群雄割拠型権力モデルにおける群雄とは、分国ごとに割拠し互いに隣接する他領を隙あらば奪い取ろうとする存在としてモデル化されている。こうした群雄の行動は、所領拡大の欲望によって突き動かされており、他領を奪い取る中心手段は武力の行使である。そうして戦国大名は、最後には天下でただ一人の存在となるまで戦いを続け、自らの領土拡張欲を満たそうとするのである。
 このモデルは、実際に戦国期に大名が分国を支配し、大名同士で激しく戦い、そして最後には豊臣・徳川の統一政権が樹立された史実と確かに重なることで、それと自覚することなく受け入れられて、我々のこの時代を見るバックボーンとなっている。しかし先に見たように、この時代史の教科書と言っても良い『戦国の群像』や『一揆と戦国大名』では、戦国大名も含めてこの時代の権力が相対化され、頂点が複数存在し、また頂点そのものが漠としてぼやけているリゾーム構造であったことが示されている。
 このリゾームという言葉、原語ではRhizome であり、根茎, 地下茎という意味の名詞である。「無数の網の目状態で広がる植物の根のイメージを借りて、現代の思想と文化の状態を特徴づけるドゥルーズとガタリの用語」と辞書には書いてある。ここでリゾーム型権力モデルと言うときは、哲学とは何の関係もなく、多軸・多層の権力構造を指している。これまでこの言葉自体の解説をしなかったので、遅ればせながらつけ加えておく。
 さて、群雄割拠型権力モデルが戦国期の動乱の原動力とする所領拡大の欲望であるが、そこでは頂点の戦国大名とそれに従う家臣達が、この所領を媒介にして結合していると捉えられている。この戦国大名の家臣達について、兵農分離をモチーフにして勝俣鎮夫氏は次のように述べている。

 一般に兵農分離という場合、地頭、国人領主などの在地領主の領主権や、農業経営者としての在地性を否定することに重点をおいて考えられているが、この段階ではこれら領主の在地性は失われつつあったのであり、戦国大名は彼らを城下町へ集住させはじめていた。その意味では、兵農分離は戦国大名のもとで進行していたといえるであろう。これに対し、軍役体制のもとで軍役を負担する兵と位置づけられ侍身分を獲得しながらなお地頭に年貫・公事を納入する百姓であるという地侍たちの兵農分離は、戦国大名のもとではほとんど進展しなかった。彼らは荘園公領制下の名主の系譜をひく地主で、郷村の指導者であり、領主の支配を下からきりくずしていたのであり、彼らこそ戦国時代の社会構造の転換、戦国の争乱をもたらした主体的階層であった。戦国大名の軍事力は彼らをいかに多く組織化するかにかかっていたのであり、また国の支配の成否は彼らをとおしていかに郷村を把握していくかにかかっていたのである。しかし彼らのなかには、積極的に大名と主従関係を結び軍役をつとめ侍への上昇を志すものも多かったが、百姓としてその地上経営をつづけていこうとするものも少なくはなかった。また彼らは軍役衆となっても、自己の地主としてのありかたを放棄して大名の給人となることは望んでいなかった。(『戦国時代論』1996年岩波書店)

 ここで勝俣氏は、国人と地侍の戦国期の実情を端的に語っている。
 国人については、もともと在地領主であったのだが、戦国期が進むにつれて「領主の在地性は失われつつあった」としている。このことは、勝俣氏によって次のように説明されている。

 この時代、在地領主は、領主権の中心をなす広義の勧農権を、新しく成立してきた惣村に吸収されつつあり、その在地性の根拠を失いつつあった。領内の豊作・安穏を祈る祭祀、災の発生を防ぐための検断、再生産費用の農民への貸与、用水の管理など本来領主が行なってきた仕事を、実質的には村落共同体がみずからの手で行ないつつあった。年貫・課役も、領主と村落がその額を一括して契約で定め、村落がこれを詰け負う村請が多くなった。在地においては、領主のいらない体制へ移行しつつあったのである。

 室町時代になって勃興してきた惣村が、国人領主から領主権を吸収したと述べているが、ここで領主権は勧農権と徴税権として捉えられている。前回「なぜ戦国大名は戦い続けたのか」で、「また“支配”するとは収奪することと同義に過ぎないのか」という疑問を投げかけたが、勝俣氏によれば答えは勧農と徴税の両面をもって支配とするである。「支配」と言うと何か一方的に押さえ付けられ収奪されるだけというイメージがあるが、祭祀、検断、貸与、用水管理などの勧農を抜きにしては成り立たないものなのである。今後も「支配」という言葉は使うことになるであろうが、勧農と徴税合わせた意味なので、お間違えのないように。
 勝俣氏はここで述べた村請制の提唱者であるが、領主に対する貢納を村が一括して請け負うことで、領主は村と関係を結ぶだけで個々の百姓たる村の構成員との関わりが失われる。そうして国人領主は、在地から切り離されてしまったということなのである。

 戦国大名の被官を構成する国人領主は村から離れてしまったが、もう一方の構成層である地侍については、「自己の地主としてのありかたを放棄して大名の給人となることは望んでいなかった」と述べている。つまり地侍はあくまで村に留まり、村の指導層として戦国大名と関係を取り結んだということであろうか。「軍役をつとめ侍への上昇を志す」地侍もいたが、そうした者達も給人であるよりも前に村の地主であり構成員であろうとしたと言うのである。
 こうした地侍の志向は、「戦国大名の軍事力は彼らをいかに多く組織化するかにかかっていた」ことと相反するように思われる。戦国大名がより多くの兵員を求めれば、領内に多数ある村々の有力者を彼らの軍に加えなければならない。名主層に相当する地侍は名字を持ち、村の軍事力の中核を担っていた武力を持った百姓である。したがって、戦には彼らの力が必要であるのは紛れもないことであろうが、当の地侍は戦国大名の戦いよりも村の維持と発展に目が向いているのである。
 このように見てくると、戦国大名軍の中には、単に他領を蚕食し領土を拡張するというスローガンでは、思うように動かない軍役衆(地侍)が多数いたように思える。この辺り、彼ら地侍の所領という観点から、もう少し詳しく確認してみたい。

 池上氏は『戦国の群雄』の中で、武田氏の庇護を受けた恵林寺の検地に触れて、地侍を戦国大名の家臣に編入していく事例を示している。

 一五六三年の検地帳には、御家人衆、勤軍役衆(勤軍役御家人衆とも)、惣百姓の三種類に大別される人々が登場する。図284を見ながら話を進めよう。まず御家人衆は、この検地よりずっと以前に武田の家臣となり、そのときから、寺領のなかにもっていた耕地の本年貢に相当する分を給恩(本御恩)として武田から宛行われていた。網野新五左衛門尉の場合は、それが一貫文であった。そして今回の検地によって一〇〇パーセント近い検地増分が踏出されたが、それも新しい給恩、すなわち加恩として宛行われることになった。かれらのなかには二倍以上の検地増分が踏出されたものもいるが、それもすべて加恩として宛行われている。かれらは吉田、甘利、跡部等々武田の有力家臣の同心として編成されている。

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 つぎに、軍役衆は御家人衆とちがって、これまでは寺に本年貢分を納めてきた。荻原豊前守の場合、本年貢は一貫文である。しかし武田の家臣として軍役衆となったために、今回の検地増分一貫六〇〇文は免除され、給恩となった。ただし、今まで百姓として納めてきた本年貢については、従来どおり寺に年貢を納める義務がある。
 これに対し、惣百姓には給恩がなく、本年貢と検地増分との合計高が年貢となるたてまえであった。しかし、それでは検地増分がきわめて大きいため、一挙に年貢負担が数倍にも増える百姓の抵抗が懸念された。そのために、信玄は本年貢と検地増分の合計高の四〇パーセントを免除することとした。網野新九郎の場合には、それまで七五〇文であった本年貢に検地増分一貫六四〇文をたした二貫三九〇文の六〇パーセントにあたる一貫四三四文を今後年貢として寺に納めることになった。結局、もとの本年貢の約二倍の負担となったのである。


 ここで池上氏は、恵林寺の検地帳にあらわれた三つのタイプの所領持ちについて言及している。ここの御家人衆、軍役衆、惣百姓は、いずれも有姓で村の名主層を形成した人々ではないかと思われる。惣百姓として登場する網野新九郎は、御家人の網野新五左衛門尉とは同姓であるから親族か同名衆ということになり、単なる耕作人ではない。したがってここに名を記された三名は、ともに村の指導層を形成する地侍でありながら、戦国大名に対して三者三様の対応をしている事例と考えられる。網野新五左衛門尉は武田の被官としてその軍事力を下から支えるが、同じ網野を名乗る網野新九郎は武田とは被官関係は存在しない。そしてその中間が、軍役衆とされる荻原豊前守である。
 この荻原豊前守に注目してみると、彼はもともと恵林寺に一貫文の本年貢を納めていたので、今回検地の対象となった耕地は恵林寺が領主となる。ちなみに、この「領主」という言葉がなかなか曲者で、荘園公領制下では荘園の持ち主である貴族や寺社が「領主」と呼ばれるが、時代が下ると在地にあってその地を知行する者が「領主」として認識されるようになる。
 ここで「知行」という言葉を『日本史辞典』(角川書店)で調べてみると、次のように記載されている。

 平安時代から鎌倉・室町時代にかけて行われた土地・財産の直接支配をいう。古代では土地の所有権とその権利の行使事実(用益)とが分化せず、土地の直接支配を占とか領とか呼んだが、平安中期ごろには土地の用益権が分離して、これらを領掌・領知するといい、平安末期に用益権を意味する職(しき)が成立すると、この職の行使事実を知行というようになった。職が分化してひとつの土地のうえに重層して設定されると、知行もまた重層して成立した。

 つまり「知行」とは土地の用益権の行使事実をいうのであり、戦国期にもなると「荘園制の崩壊・職の消滅により、土地の権利関係は、百姓の用益権・耕作権を軸とした占有権、大名の領主的支配権の二つに還元され」(同書)るようになったのである。恵林寺の検地の例でいえば、荻原豊前守は百姓で用益権と耕作権を得ており、戦国大名の武田氏は領主的支配権を有していたことになる。荻原は恵林寺に長年年貢を納めてきたのだから、本来領主は恵林寺である。だが用益権と耕作権の実態が荻原に占有されるようになると、自身の力では領主として年貢を正当に荻原に課すことが困難になった。そこで恵林寺は武田氏の領主的支配権を認めて検地の実現にこぎつけたが、武田氏はその領主的支配権をもって、地侍に自身の軍役を負担することと引き替えに検地増分を免除することとなったのである。
 ここでは実際に土地を耕す耕作者の余剰分は、荻原豊前守と恵林寺に分配され、その分配の差配をするのが戦国大名武田氏という図式である。武田氏の「領主的支配権」とは、地主とその地に用益や耕作権を有する者との間に立ち、その余剰収益を公正に分配することにあったと考えられる。
 さてここで、この恵林寺検地に関する池上氏の見解を次に見てみよう。

 かれらは領主(この場合は恵林寺)の支配に抵抗して年貢・公事等の負担を減らし、人身的な従属関係から脱し、さらに村落共同体、郷、地域社会のなかで主導権を掌握し、小作や従属的な農民の支配を強めたいと望んでいた。その二つを同時に実現する道が領主化の道、すはわち家臣となることであった。戦国大名の検地は、領主の年貢増徴の要求に合致したばかりでなく、こうした地侍層の志向するところにも合致するものであったのだ。

 池上氏は恵林寺の検地が、「地侍層の志向するところにも合致するものであった」と述べているが、それには些か疑問を感じる。御家人衆、軍役衆、惣百姓のいずれにおいても結構な検地増分があったが、これは検地によって収穫があがったわけでは当然なく、新たに余剰収穫分が把握されたということである。だが、この余剰分を新たに把握したのは地侍層ではなく、武田氏と恵林寺だったはずである。荻原豊前守と網野新九郎は恵林寺に年貢を納めていたのだから、耕作者の収穫を直接把握し、その中から領主たる恵林寺の「支配に抵抗して年貢・公事等の負担を減らし」て残った現在の年貢を納めていたのである。したがって、今回の検地で内徳を暴かれ、その分に対する新たな負担を背負い込んだのは地侍層なのである。
 惣百姓の網野新九郎は、戦国大名の武田氏の身分規定では百姓であったが、その実態は、御家人の網野新五左衛門尉や軍役衆の荻原豊前守と変らない名主層である。彼は「もとの本年貢の約二倍の負担となった」のであり、この点でみるかぎりその志向するところに合致しているとは思えないのである。荻原豊前守も年貢こそ増えなかったものの、これまで果たしていなかった軍役を新たに課せられ、武田の被官になれたと喜んだわけではないだろう。
 この恵林寺検地は、もとは勝俣氏が取り上げたものだが、勝俣氏の見解は次のようなものである。

 検地以前は軍役衆も非軍役衆もともに荘園制下の名主として存在していたものが、大名などと主従関係を結び軍役をつとめていたものはその名主得分を思給として与えられ、軍役衆=兵として制度的に位置づけられた。そして、主人をもたず軍役奉仕をしていない名主は、その得分を原則として否定され、そのうえでその何割かを再給付されるかたちで、百姓と位置づけられた。このような大名検地が施行されたところでは、軍役衆、またはその職能をつうじて大名に奉仕することにより軍役衆に準ずる特権を与えられた職人・商人などが給恩として与えられた名田を除いて、荘園制の基礎構造をささえた名主、名田は、制度的に消減した。名主であった兵は大名家の家中に包摂され、名主であった百姓は国の構成員となった。(『戦国時代論』)

 勝俣氏の見るところでは、恵林寺の検地によって「名主、名田は、制度的に消減し」、「軍役奉仕をしていない名主は、その得分を原則として否定」されたのである。つまり名主層であった地侍は、この検地によって大名権力によって取り込まれるか、あるいはその名主得分を奪われたのであり、彼らの所領に制約をかけられたのである。さらに勝俣氏は、一五七四(天正三)年豊前宇佐郡の地侍元重鎮頼(もとしげしげより)が作成した家訓を例にあげて、鎮頼が「郷村の指導者としての百姓の立場からは、領主の検見(検地)に対しては横山浦全体の百姓の意思として反対すること」を家人に説いていたとしている。ここで領主と言われているのは、戦国大名大友氏の被官である安心院(あじむ)氏である。地侍の元重氏もまた大友氏の被官であり、検地もまた錯綜した主従・利権関係の中で実施されていたことがうかがわれる。

 恵林寺検地の例では、御家人衆の網野新五左衛門尉と新たに軍役衆となった荻原豊前守が新知行を得ることになった。しかしこの知行は、もともと彼らが内得として懐に入れていたものであり、それが今回公式に認められたのだが、それがどれほどのご恩になったのかは不明である。久留島氏は、検地が地侍にとってもメリットとなる点について、次のように指摘している。

 各領地での紛争解決の裁定として行われる検地(公事検地)のあったことが注目される。この紛争とは、領主同士の境界争いや収取権をめぐる争いだけでなく、百姓と領主、百姓同士の年貢・公事納入額をめぐる争いなども含まれていた。(『一揆と戦国大名』)

 この公事検地ではなくとも、常に領地間の争いの火種が絶えない錯綜した利権関係に置かれる地侍層であるならば、たとえ大名の軍役衆として位置づけられるとしても、在地で消耗戦を続けるよりもメリットがあると考えるだろう。しかしながら、そうして課せられた軍役に対して、彼ら地侍衆がどれほど積極的であったかは大いに疑問の残るところである。
 さて今回は、所領とは何かをテーマとしているはずであるが、なかなかそこに行き着けないで話が長くなってしまった。しかし戦国大名との関係では知行地、すはわち給恩地が大名軍の中核を占める地侍層にとってどういうものであるかは、およそ理解していただけたのではないかと思う。
 だが、地侍層の所領は戦国大名から与えられた給御地ばかりではなく、むしろその中心は本領地であったことを思い出したい。荻原豊前守の田地年貢は、従来の一貫文と今回免除になった分を合わせて二貫六百文である。これを北条氏の一反五百文という貫高で計算すると、荻原の田地はおよそ五反ほどであったことになる。しかしながら、荻原という姓を名乗り、豊前守という自称をしているのであるから、たかだか五反の土地だけを所領としていたというのはいかにも少な過ぎる。すると恵林寺の検地帳に現れなかった彼の所領は、恵林寺領とは別の領地内にあったか、あるいは本領地であったかのいずれかであろう。
 本領地は先祖伝来の自前の領地であり、主従関係を結んだ主より給恩として与えられたものではない。この本領地は戦国大名によって安堵されることはあっても、もともと地侍が長年に渡って所有してきた土地であり、その限りでは戦国大名に返さねばならぬ恩があるわけではない。この本領地と給恩地は、全国大名の被官となった地侍層にとってどのような違いがあったのであろうか。この答えを得るために、主従関係における本領地と知行地の違いについて『戦国の群像』から池上氏の述べるところを引用しよう。

 室町期から戦国期にかけて、土地の売買・質入れがはげしい勢いで増大した。沢氏でも、一五三七年(天文六)に道寿は一反、二反、一所などの零細な二八筆の買得した田畠を春藤に譲っている。いかなる権力をもっても、売買を禁じたり、押しとどめることは不可能であった。沢氏や戦国大名の法は、かれらが宛行った給恩地の売買を自己の管理下に、寺庵領等は旦那の、百姓の名田は地頭の管理下に、それぞれおこうというもので、売買そのものを禁ずるものではない。しかも、沢氏も戦国大名も共通して本領を規制の対象からはずしている。主従関係によっても、従者の本領は干渉できないのが、戦国期の一般的状況であった。

 ここに登場する沢氏は大和国宇陀郡の国人領主であり、伊勢の北畠氏の被官となっていた。沢氏は山間の宇陀郡中においては戦国大名と同等の権力を持つほどの有力国人であり、「同名被官中、給恩の田畠山林等、私に売買すべからず」という法度を定めている。この沢氏の被官のみならず戦国期には田畠の売買が盛んに行われたが、その中には戦国大名や国人が給恩として与えた知行地が含まれていた。荻原豊前守が一貫六百文の給恩地を得る代わりに軍役衆を努めていたように、給恩地あっての主従関係である。したがって、その給恩地が売買されてしまえば主従関係は維持できなくなるため、沢氏も戦国大名も給恩地の売買に制限をかけることとなるのである。

2/2へ続く
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by mizuno_clan | 2009-01-11 09:04 | ☆談義(自由討論)

【談議1】水野氏と戦国談議(第五回2/2)

1/2からの続き

 給恩地は沢氏や戦国大名が知行として与えたものであるから、それを売ることを厳しく制限するのは当然であるが、地侍が先祖伝来所有していた本領地は規制の対象とすることはできなかった。これもまた当然と言えば当然であるが、このことは本領安堵などと言っても、それで主が従者に大きなご恩を与えたことにはならないことを示しているのではないだろうか。そうなると、荻原豊前守のようにご恩の代りに軍役義務を負っていたのは、給恩地に限られていたことではないかと思えてくる。あるいは給恩地は頂戴していても、本領は取り立てて安堵してもらっていないなどというケースも考えられる。本領が係争地になっているなどの事情がない限り、上位権力から本領を必ずしも安堵してもらう必要は無いように思うからである。
 沢氏や戦国大名が給御地の売買を法度をもって禁じねばならぬほど、戦国期には土地の売買が盛んであった。『戦国の群像』の中に、この土地買得に熱中した中氏の事例が掲載されている。

 和泉国日根野荘の北隣の熊取荘の地には、泉南地方きっての有力な百姓中氏がいた。約一〇〇〇点に及ぶ膨大な「中家文書」は、ほとんどが中氏と、その子息の入寺した根来寺成真院とが買い集めた土地の売券(売渡証文)である。惣村の歴史にくわしい故三浦圭一氏の分析によれば、室町期、一五世紀中の買得はわずかで、ほとんどが一六世紀、戦国期にかけてのもので、ことに一五三〇年代から五〇年代、すなわち天文年間から永禄の初めにかけての時期に集中している。
 売券に記された田畠の面積には三〇歩(三〇坪)、五〇歩など非常に零細なものも多く、微力な農民との間の売買が多かったことを示す。実はこれらの買得によって、中氏は土地そのものを集積したのではない。その土地の耕作者が負担する、加地子得分という余剰分を取る権利を主に集積したのである。


 この中氏、文中では百姓と言っているが、名字もあり実態は百姓役を果たす富裕な土豪といったところであろう。中氏が集中的に集積したのは加地子得分であるというが、この加地子得分について、池上氏は次のように説明している。

 本年貢額は在地領主あるいは名主百姓らの運動によって室町時代からほぼ固定され、あるいは減少する傾向にすらあった。他方、農民たちの努力によって生産力は上昇していったから、本年貢を納めた後に、かなりの余剰が残ることになる。また、室町から戦国時代にかけて新しく開発された耕地には本年貢はなく、それだけ大幅な余剰が成立した。これらの余剰は加地子といわれる得分となった。

 この加地子について池上氏は、「本年貢の一〇倍近い額になっているのはそうめずらしいことではない」と言い、「畿内近国では、本年貢にくらべて、加地子の額が圧倒的に高く、ほとんど二~三倍かそれ以上となっている」と述べている。そして「本年貢収取権をもつ在地領主層、寺社なども含め、身分を超えて、銭をもつものは誰でもこの集積に走った」とも述べており、地侍や国人など戦国大名の被官も加地子の集積に奔走していたのである。
 加地子自体は土地ではないが、耕地の余剰を取得する権利であり、それもまた所領ということができるであろう。この加地子は買得以外に、東寺上久世荘(京都市南区)では、「年貢などを納められない百姓の未進(未納)分をたてかえ、担保にした土地の加地子得分を集積するなどして、保有地を拡大し、一五世紀末の戦国初期には、荘内耕地の半分に及ぶ三〇町歩ほどを支配下に入れるようになった」(『戦国の群像』)在地領主の例がある。また領主に対する減免運動などによって勝ち取った余剰分などもあり、在地領主の所領拡大の機会は随所に存在していたのである。
 このように見てくると、領地というものは次の四つに分類することができるであろう。

①先祖伝来、固有に維持してきた本領地。
②荘園領主と百姓の仲介の中から獲得していった加地子得分。
③戦国大名や有力国人から給された給恩地。
④加地子を中心とした買得地。

 地侍などの在地領主は、戦国大名の被官となり所領拡大を求めて合戦に身を投じていったとの理解は、こうして見ると些か疑わしいように思われてくる。所領が上記のように四つに分類できるならば、所領拡大の方法は給恩地を獲得する以外にも幾つもあったことになる。そして合戦に参加しても戦功があげられねば恩賞は得られず、味方が敗北すればどれほど奮闘しても恩賞は少ない。ましてや合戦で命を落としたり後遺症の残る負傷を負えば、その後の領地拡大は望めず、維持さえも難しくなるかも知れない。このように考えると、恩賞を求めて合戦に出るのはリスクの高い賭けのようなもので、それに比べれば②と④は所領拡大の方法としてある意味安全で確実なのではないだろうか。
 戦国大名、そしてそれに従う重臣から地侍までが、所領を拡大したいがために戦いに明け暮れたということは、彼らが他人の所領を暴力的に武力で奪い取ることをもっぱらにしていたということになる。戦いに勝利することで確かに所領を増やすことはあっただろうが、そのためにのみ戦があったとするのは、所領を拡大する方法が他にも開けていることを思えば、やはり誤った見方であると言えるだろう。また戦国大名の戦力の重要な部分を占めていたとされる地侍は、在地性を喪失しつつあった国人と異なり、いっそう村に基盤を置いてその中での自身の発展を志向していたように思える。そうした地侍にとって、軍役で獲得する恩賞としての知行地はリスクが高過ぎるようであるし、軍役衆になることで免除される加地子はもともと彼らが内得として懐に入れていたものであった。こうした地侍層が、戦国大名と一体となって果たしてどこまで他国での争いにその身を投じていったのか、甚だ疑問に思うところである。

 今回は「所領」にこだわって戦国期の土地支配について触れたが、まだまだ考えて見なければならないことが残っている。前回のコメントで、水野青鷺さんが「これらの戦いの勝敗については、現代における一つの考え方として、“win-win”も考慮の対象としてみるのはどうであろうか」と述べていた。池上氏や久留島氏など多くの研究者は、戦国期の「win-win」は、村と戦国大名との間にあったとするだろう。リゾームの観点で言えば、「win-lose」や「win-win」が入り乱れて、同階層あるいは異階層間で揉み合うように前進したのが戦国時代ということになる。その意味では戦国大名対戦国大名の「win-lose」は、その表層に過ぎないと思うのである。
 そこで次回は、戦国期の村と地侍、そしてその両者と時に「win-win」、そして「win-lose」の関係を持った戦国大名に焦点を当てて、その中からどうして戦いの時代が出現したのかを考えてみることにしたい。
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by mizuno_clan | 2009-01-11 09:01 | ☆談義(自由討論)

【談議1】水野氏と戦国談議(第四回)

戦国大名はなぜ戦い続けたのか
                                                談議:江畑英郷
 戦国時代、日本中で戦乱が打ち続いたことは確かである。単純に考えれば、室町幕府という日本全国を束ねる統一権力が力を失ったことで、狡知に長けた梟雄が己の立身を計って旧弊に弱体化した守護勢力などを駆逐していった戦いとして受け取れる。例えば北条早雲とか斉藤道三とかの下剋上として、それは我々の中にイメージされているのである。そんなことから、この時代は戦乱が絶え間なく続いたことが当たり前のこととなっているが、ふと考えてみると、なぜ戦国大名は飽くことなく戦ったのであろうかという素朴な疑問がわいてくる。なぜこの時代は戦国時代だったのだろうか。戦いはどうして止むことなく続いたのであろうか。
 この問いに、最新執筆した『戦国の合戦』(2008年学研新書)で、小和田哲男氏は次のように答えている。

 江戸時代の武士道でいわれる「武士は二君に仕えず」とか「二君にまみえず」といった儒教的武士道徳がまだ一般化されていない戦国時代は、むしろ、自分の能力に応じた待遇を与えられるのを当然としていたので、働きに応じた待遇をしてくれていないと思えば、仕えていた家を飛び出し、他家に仕えるのがあたりまえであった。そのため、主君は、家臣たちをつなぎとめておくため、常に恩賞を与え続けなければならなかたのである。このことが、戦国時代、合戦が続くことになった最大の要因であった。

 この小和田氏の答えは一見もっとものようであるが、少し考えてみると論理が堂々巡りをしていることに気が付く。それは、主君がなぜ家臣をつなぎとめておこうとしたかを考えてみれば分かることで、その理由として思いつくのが合戦に勝つためという答えだからである。小和田氏自身も、「合戦→所領拡大→家臣への加恩→家臣の立身という輪廻がくりかえされる結果、いつまでも合戦が続くことになる」と述べている。合戦のために家臣をできるだけ多く必要とし、その家臣を抱え続けるために合戦に勝って恩賞を与えねばならないという循環であり、結局この循環がどうして始まるのかは分からないままなのである。
 小和田氏の示した循環に「所領拡大」という項があったが、人によってはこの所領拡大が戦国大名の本質を形成しており、それがために戦乱は止むことが無かったと主張するのかも知れない。しかしながら、どうして所領を拡大させようとしたのかを問えば、それは戦国大名とそれに従う者たちの欲望、誰もがより多くの富を得たいと願っているという答えにしかならないのではないだろうか。
 戦いには勝敗があり、負けて命を落とすこともある。そうしたリスクがあるから、人は欲だけに走ることは無い。そうしてみると、戦乱に明け暮れた戦国の武士たちは、命知らずの強欲な者たちであったということなのだろうか。あるいは小和田氏が言うように、「儒教的武士道徳がまだ一般化されていない」時代であったから、武士たちは自身の欲望を抑制できなかったのだろうか。

 さらに別の答えに当ってみよう。第一回の談議で「リゾーム」という概念を借用させてもらった『武士から王へ』で、本郷氏は次のように述べている。

 最近の研究によると、戦国時代は気温が低く、作物が育ちにくかった時代であるらしい。人々は生きるために食物を奪い合った。それゆえに争いが必然的に惹起され、全国各地で小競り合いが連続した。そのような社会状況の下、戦国大名は生き残りを賭けて、領国と領民から様々な物資を集めた。大事なのはこの点である。「泣く子と地頭には勝てぬ」「百姓と胡麻の油は、しぼればしぼるほど取れる」などのイメージからすると、多額の徴収に成功すればするほど、彼は肥え太って繁栄することができるように思える。けれども過剰な収奪はかえって領国を疲弊させ、次なる税収の激減を招き、それは大名権力の揺動をもたらすのだ。かかる事態が繰り返され大名権力が不安定になれば、隣接する権力による侵食、大名権力の弱体化、ひいては滅亡へ、という道すじが容易に見えてくる。

 この本郷氏の指摘からすると、戦国時代に戦乱が続いたのは、恒常的な気温低下で食料事情が悪化し、その食料をめぐって人々が争い続けたということになるようだ。こうした視点は、『飢饉と戦争の戦国を行く』や『雑兵たちの戦場』で藤木久志氏が主張したものであった。藤木氏は、過去の記録から災害・飢饉データベースを作成し、それを分析して次のように指摘する。

 中世の四五〇年間を、仮に前半(源平合戦~応仁の乱)と、後半(応仁の乱~関が原合戦)に分けて、飢饉と疫病の分布をごくおおまかにみます。すると、前半(鎌倉・室町時代)には、三~五年に一回のわりで、やや間欠的・集中的に、後半(戦国時代)には二年に一回(一年おき)のわりで、かなり慢性的に、飢饉と疫病が起きていることがわかります。

 藤木氏はこのように分析した後に、「荒々しい自然環境のなかで、日本の各地で俗に戦国争乱といわれる戦争が繰り返されていた事実は、否定できない」と結論付ける。また藤木氏は、永禄三年から始まった上杉謙信の関東出兵にある決まったパターンがあることを指摘し、「晩秋に出かけて年末に帰る冬型(短期年内型)の戦争と、晩秋に出かけて戦場で年を越し春に帰る(長期越冬型)の戦争で、関東の出兵には長期越冬型が多い」(『雑兵たちの戦場』)と述べている。そしてこの関東出兵が長期越冬型になる背景として、「二毛作のできない越後では、年が明けて春になると、畠の作物が穫れる夏までは、端境期といって、村は深刻な食糧不足に直面」することをあげている。この端境期を乗り切るために、「農閑期になると、謙信は豪雪を天然のバリケードにし、転がり込んだ関東管領の大看板を掲げて戦争を正当化し、越後の人々を率いて雪の国境を越えた」のであり、関東で乱取りをおこない「越後の雪が消えるまで関東で食いつなぎ、なにがしかの乱取りの稼ぎを手に国へ帰る」のであると指摘する。こうした謙信の戦いを評して藤木氏は、「ただの純朴な正義漢や無鉄砲な暴れ大名どころか、雪国の冬を生き抜こうと、他国に戦争というベンチャー・ビジネスを企画・実行した救い主、ということなるだろう」と言うのである。
 戦国乱世が続いた背景には、この時代の寒冷化が深く関係していたというのは興味深い指摘であるが、鎌倉時代もまた気候が安定せず「間欠的・集中的」ではあるが災害、そして飢饉は発生していたのである。しかし鎌倉時代は戦国乱世とはならなかった。正長の土一揆(1428年)は、前年からの天候不順から凶作となりそれが元で畿内一帯が騒乱となったが、この騒乱の主体は馬借や農民であった。そして酒屋や土倉、そして金貸しで儲けていた寺院などが襲撃の対象となったのである。食糧事情の悪化は社会の底辺にある庶民を直撃するのであるから、彼らが社会の上層、特に富を蓄積している者たちを襲撃するのは頷ける。災害そして飢饉は、こうした社会騒乱となって現れるのが普通ではないだろうか。それがどうして戦国大名同士の争いを引き起こすのか。
 藤木氏は上杉謙信の例を引いて、統治者としての謙信が領国内の窮乏を打開するために、他の大名あるいは国人の支配領域から食料及び金品を強奪する戦いを繰り広げたと指摘する。すると、強奪された関東は越後より豊かであったのだろうか。あるいは越後は飢饉であったが、関東は飢饉とは無縁であったのだろうか、それとも、関東でも食糧事情は悪かったが、さらに越後勢に略奪を受けて関東の人々の多くが死に絶えたのであろうか。そうした疑問がわいてくるが、このことに目を向けてみると、飢饉と戦争との間の関係は、藤木氏が言うよりもっと複雑であるようにも思えてくる。

 小和田氏の言う家臣を恩賞でつなぎとめておくための合戦と、本郷氏や藤木氏が言う災害・飢饉に根ざすサバイバル戦争とは、戦いという事態に包摂される対象が異なっている。小和田氏が言及するのは大名とその家臣でしかないが、本郷氏や藤木氏は大名と家臣団に加えて、統治の対象となる領民が戦国乱世に深くかかわっていたことを視野に入れている。
 戦国大名とその家臣の都合で合戦が継続したとする小和田氏の主張は、まさに群雄割拠型権力モデルに依存したものである。また藤木氏の見解は、飢饉という非常事態を戦国大名とその領民が一体となって乗り切るための戦争という視点がとられており、これはリゾーム型権力モデルに近いと言える。そして本郷氏は戦国期の寒冷化を指摘しながらも、「戦国大名は生き残りを賭けて、領国と領民から様々な物資を集めた」と述べることで、大名権力と領民を敵対的に捉え、「過剰な収奪はかえって領国を疲弊させ、次なる税収の激減を招き、それは大名権力の揺動をもたらす」と言うのである。統治者としての戦国大名は権力ツリーの最上位にあって、そこから下位の領民を見下ろして収奪のさじ加減をうまくやらねばならないと言うのであるならば、それは群雄割拠型権力モデルそのものではないか。リゾーム型で戦国期を捉えているはずの本郷氏も、この瞬間、群雄割拠型モデルに引き戻されているのである。

 戦国大名はなぜ戦い続けたのか。この素朴な問いに向き合った時、返ってくる答えの一つは大名と家臣団の所領拡大という欲望である。そしてもう一つの答えが、寒冷化によってもたらされる飢饉を生き抜くためのサバイバル戦争というものであった。飢饉と戦争のつながりを指摘する藤木氏は、戦国大名間の争いをすべてこれで片付けるつもりはないと思うが、戦国合戦のどこまでがサバイバル戦争であるのかは明らかではない。そしてサバイバル戦争でない戦いがなぜ起こるのかを問えば、やはり大名と家臣団の所領拡大の欲望という答えに行き着くのではないだろうか。
 しかしながら、大名やその家臣団が欲望の対象とした「所領」は単なる土地ではないだろう。「所領」からは産物が得られるが、そこにはその産物を生み出す領民がいる。そしてその領民は、領主の支配のままに年貢や課役を納めるだけの存在であったのだろうか。また「支配」するとは収奪することと同義に過ぎないのか、それとも「統治」するということにつながるのか。さらに「所領」を持つとは、領地とそこにいる領民を独占的に所有することであるのか。こうした問いに目を向けることなく、「所領拡大」という言葉を安易に使っても、実際に戦国大名が何に突き動かされていたのかは曖昧なままとなってしまうのである。
 所領とは一体なんであるのか。
 そこには一筋縄ではいかない錯綜した実態がある。次回以降は、この所領の実態に多角的に迫って、戦国大名が戦いへと駆り立てられた真の背景を明らかにしたいと思う。
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by mizuno_clan | 2009-01-04 13:54 | ☆談義(自由討論)

新年のご挨拶

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by mizuno_clan | 2009-01-01 00:01 | Information