【講談1】水野氏と戦国談議(第十二回)

当知行・当事案(3)
-中世荘園制における所有の観念-
                                                          談議:江畑英郷

 中世の土地制度といえば荘園制である。だが、この荘園制度、戦国時代においてはどうなっていただろうか。

 中世は荘園制度(荘園公領制)の社会であり、それを最終的に否定したのは豊臣政権である、というのが学界の常識である。それにより、戦国時代を荘園制の時代とみる荘園制説が存在する。しかし他方では、荘園制はもはや社会を規定する土地制度ではないとみる説がそれに対置されている。(中略)
 荘園制説は、一部で荘園領主に年貢を納めている荘園があること、荘園制のもとで決められた本年貢や公事が、村人の負担の中に残っていることを重視する。だからこの説は、戦国の達成をほとんど無視し、戦国を否定して成立する(と考える)織豊政権の達成を逆に「革命的」と評価することになる。
 このように異なる時代観は、地域によって荘園の残存度や、荘園制の影響が異なるという、地域差の問題と関係している。畿内近国・北陸では、本巻が引きつぐ、一五世紀の時点で、山城国を頂点として、なおかなりの数の荘園が残っていたし、荘園領主も最後の牙城としてその確保に必至になっていた。それと、この地域に戦国大名が典型的には成立せず、また成立が困難であったこととは決して無関係ではない。地域差の問題は戦国史に大きな影響を与えた。


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 これは『戦国の群像』で、池上氏が「はじめに」を締め括る「戦国時代と荘園制」で述べたものである。ここで池上氏は「九条家領の変遷図」を掲載して、「しかし上図の九条家領の変遷をみれば、戦国時代が荘園制の時代であったとはとうていいえないことがわかるであろう」として、荘園制説を否定している。池上氏の立場は、「戦国時代を荘園制社会と考えることはできない」なのである。
 ところでこの図の脚注には、「○○の資料にみえる当知行の所領」と書かれている。このことからすれば、所領には当知行の所領と不知行の所領があったことになる。同箇所で池上氏は、「美濃以下三か国全部と摂津・河内の一部の所領は、すでに八〇年も前から年貢をまったく納入していない」と書いているので、当知行と不知行との区別は年貢の納入があるかないかであるということになる。前々回、「当知行とは、現実に領地を排他的に占拠している、支配していることを意味する」という本郷氏の定義を引用したが、それとは少しニュアンスが異なるようである。
 このニュアンスの違いは、「知行」というものに対する捉え方の違いからきているようである。第五回「所領とは何か」において、『日本史辞典』(角川書店)に記載される「知行」を掲載したが、それは次のようなものであった。

 平安時代から鎌倉・室町時代にかけて行われた土地・財産の直接支配をいう。古代では土地の所有権とその権利の行使事実(用益)とが分化せず、土地の直接支配を占とか領とか呼んだが、平安中期ごろには土地の用益権が分離して、これらを領掌・領知するといい、平安末期に用益権を意味する職(しき)が成立すると、この職の行使事実を知行というようになった。職が分化してひとつの土地のうえに重層して設定されると、知行もまた重層して成立した。

 これまでも何度となく言及してきたが、中世では土地そのもの以上にその土地の用益権が問題になっている。『日本史辞典』によれば、平安末期以降「知行」は用益権の行使事実のことである。そして土地の直接支配から「土地の用益権が分離して」、職との関わりの中で「知行」が規定されるようになったのである。ここでいう用益権は、土地そのものから分離したものであるから、年貢や公事の徴収権を指すことになる。そうであるならば、「当知行」とは「現実に領地を排他的に占拠している」ことでなくとも、年貢や公事を徴収できていれば立派に成り立っていることになる。知行=用益権という認識であれば、本郷氏のいう「占拠」事実がなくとも、年貢・公事の徴収事実さえあれば当知行は成立しているのである。また「知行もまた重層して成立した」とされるが、「排他的に占拠」ではそれも成り立たない。本郷氏の言う「当知行」と、池上氏が図の脚注に示した「○○の資料にみえる当知行の所領」は、同じようで実は大きく異なった知行理解が背景にあると思うのである。
 こうしたことを言うのも、実のところ本郷氏のような「当知行」理解が一般に多いように思うからである。本郷氏は『武士から王へ』の一節、「当知行ということ」で先のように述べた後、「実力主義」と題して次のように書いている。

 なぜ中世において当知行が重んじられたか。二つの応答をあげることができる。まず、時が武士の世であったこと。武士は支配者としては新興の存在である。古代以来の領主である貴族や大寺院、それに朝廷が各国の国衙(いまの県庁)を介して管轄している土地(国衙領と呼ぶ)に足場を築き、そこから勢力を周囲に拡大していく。武士が実力を以て占拠していく土地は、由緒を厳密に尋ねれば、ほとんどは旧勢力の所有するところであった。これをいちいち重んじていては、武士社会は成り立たない。それゆえに武士の政権である幕府は、過去の来歴よりも現在の当知行に重きを置いたのである。
 権力の大きさにも配慮しなくてならない。国民一人一人を捕捉する国民国家の権力に比べ、中世の権力はまことに微力というほかはない。織豊政権による全国統一と比較しても、その差異は歴然としている。(中略)中世の武家の権力は、江戸のそれには太刀打ちできない。土地の所有を定めるための厳密な調査能力がまず未熟である。さらに重大なことには、強制力が不足している。仮に適(たま)さか証拠が出揃って現状が不法な占拠であることが判明したとしても、状況を改変する実行力が十分ではない。


 このことからすれば、武士の世を築いた武家政権は、自分たち武家に都合の良いように由緒を軽んじ、「世は実力主義の時代である」とうそぶいたということになる。そして不法占拠を取り締まるにしても、中世の武家政権はその実行力が心許ないというが、そうすると実力主義を標榜する武家政権自身が実力不足という皮肉なこととなる。それにしても、ここで言う「実力」とは何のことを指すのであろうか。「古代以来の領主」を排除して「実力を以て占拠」するのが「武士」であるならば、そしてその非法を十分に取り締まる実力に欠けるというのであれば、やはりこの「実力」は武力を指すのであろう。したがって、当知行の根底には実力主義ならぬ武力主義があったということになる。そしてこの武力主義としての当知行は、まさに群雄割拠の戦国時代という捉え方、その出現の背景説明にそのまま当てはまるものとなる。
 実力占拠が優先し承認される社会であれば実力競争が過熱するのは必然であり、行き過ぎを抑制する権力が脆弱であれば実力の内実は武力となり、武力どうしの果てしのない激突となるだろう。本郷氏が述べた「実力主義」は鎌倉時代を念頭においたものであるが、その論理はそのまま戦国時代にも当てはまる。池上氏が示した九条家の当知行の減少も、そうした実力主義によって武力のない旧権力が圧倒されていく過程として理解できるし、その結果登場するのは各地に割拠する戦国大名たちなのである。このようにしてみれば、武家が所領の拡大を第一義として武力発動をしていたのは、そこに「当知行」という社会原理があったからということになる。

 先に池上氏が脚注で示した「○○の資料にみえる当知行の所領」と、本郷氏の排他的占拠地とでは「知行」に対する理解が大きく異なっていると述べた。『日本史辞典』が示す「知行」は土地の用益権であるし、重層しうるものである。したがって、池上氏は年貢が徴収できていることだけで当知行だとする。その一方で、本郷氏は「現実に領地を排他的に占拠している、支配していること」が当知行だとするが、本郷氏とて歴史用語として「知行」が土地の用益権を意味することを知らないわけではない。

 江戸時代において下野国足利村を領するといえば、その地に生きる人々も、そこにある自然も、その地が生み出す生産物も、すべてを所有することに他ならなかった。まさに排他的に当知行できたのだ。ところが中世は全く事情が異なる。在地領主が足利荘を領するとは、多くは足利荘の下司(げし)という職務〔これを下司職(げししき)という〕に任じられているに過ぎない。(中略)
 下司職には上級の職務があって、それが皇族・摂関家・大寺院が手中にする本家職、貴族や寺院が任じられる領家職であった。また京都周辺に居住する本家や領家は、荘園経営の責任者として現地に代官を派遣することがあった。この代官、預所(あずかりどころ)職が下司職直接の上司となった。下司職の下級の職としては公文(くもん)職などがあり、他にも荘園の個別の事情を反映して設置された。在地の種々雑多な下級の職を得たのは、下司の縁者や配下であることが多かった。
 本家を頂点として、本家の規模を小さくした領家、代官たる預所、現地をおさえる下司、下司の配下の公文など、このような一連の職務の連なりを職(しき)の体系と呼ぶ。このうち土地の安全を守る使命を帯びた下司が武装して武士となり、武力を用いて当知行を推進していく。さらには在地に生きる個々の領主の利益を代弁するものとして将軍権力を形成し、下司職は地頭職へと転換していくのである。

(『武士から王へ』)

 『日本史辞典』が圧縮して書いていたことを平易に説明している内容となっているが、「土地の安全を守る使命を帯びた下司が武装して武士となり、武力を用いて当知行を推進していく」という箇所が、ここで本郷氏が述べたかったことである。つまり、土地の用益権が職として重層的に分有されていたが、その中で武力をもった特定層(本郷氏は下司とする)がこの重層的分有を否定し、独占的所有を確立していったということなのである。
 本郷氏は中世荘園制の職の体系、つまり重層的に用益権を行使するということをネガティブに捉えているようであり、それは次の一文に「所有概念の未熟さ」として語られている。

 職の体系が用いられるということは、本家となる天皇家ですら他者の容喙(ようかい)を否定する所有が実現できないのだから、それだけ「所有」の概念自体が成長していないことを示している。権利が侵害されたときに過不足のない対応を期待できるからこそ所有権が安定するのだとすれば、所有概念の未熟さは、たとえば古代の「公地公民」政策の影響などを考慮するより、より即物的に、所有を保証する主体たる公権力の未熟さゆえと捉えるべきだろう。
(『武士から王へ』)

 先の引用で本郷氏は、江戸時代はすべてを所有できた、「まさに排他的に当知行できたのだ」と述べていた。その一方で中世は「“所有”の概念自体が成長していない」とするのだから、中世から近世江戸時代へ向けて、重層的分有から一元的独占へと所有権が成長していったと考えているのだろう。本郷氏は中世の所有が未熟であるとネガティブに捉えるから、歴史の発展によって今日的所有権がやがて確立していくのであり、それは重層的分有層の中で武力を身につけた階層によって強制的に成し遂げられたのだと考える。また、所有概念の未熟さは、その所有権を保証する公権力がそれに足る力を持っていなかったことが原因だと述べている。つまり本郷氏は、中世の土地所有には欠陥があったのだと言っているのであり、それは歴史の進展によって乗り越えられるべきものだとしているのである。そしてそのような中世社会が背景にあって、武家による権利なき占拠が出現し、それを正当化する土壌となったというのだろう。

 本郷氏はこうして「当知行」を、中世・戦国社会をより強力な武家権力へと導く原動力としてみているように思われる。当知行の「当」に武力を中心とした実力をみれば、九条家の知行地が急速に失われ、それを吸収した武家が結集して家中をなし、その家中を足がかりとして戦国大名が登場する。そして戦国大名はさらなる実力の発露として、大名間戦争に勝ち抜こうとするという図式がみえるようである。
 どうもこうした理解の根底には、今日的な所有概念を歴史の到達点とする自覚があって、それを尺度として中世社会、そして荘園制を捉えているように思えてならない。今日に生きる我々とすれば、現代社会が規定する所有概念が当たり前のものであるが、それと同一線上にあるものとして中世の所有を捉え、未熟であるとすることが果たして妥当なのであろうか。職の体系は中世荘園制度から生まれたが、そのしくみに所有の未熟があったのかどうかを知るために、荘園制についてもう一度その実態を確認してみる必要があるだろう。
 中世の荘園制については次のように定義される。

 荘園は古代・中世を通じて存在した私的土地所有の一形態である。この荘園が、私的土地所有という性格を持ちつつ、同時に公的な人民支配、つまり統治の枠組みとして機能する政治社会体制が荘園制である。
(佐藤泰弘著「荘園制と都鄙交通」-日本史講座3収録)

 この佐藤氏の定義によれば、荘園は「私的土地所有の一形態」であるが、それ以上に「統治の枠組みとして機能する政治社会体制」だったのである。この「統治の枠組みとして機能する」という点がポイントであるが、どうして私的土地所有が統治の枠組みになるのだろうか。

 律令体制は土地の所有と人の支配を切り離し、寺社・貴族から百姓にいたるまで並列的に田主権を認めた。しかし律令体制(公民制と国家的土地所有)の変容とともに、土地所有は支配身分と被支配身分に分離し、重層化する。支配身分(後の侍層・諸大夫層以上)は国郡に認められた領主として、人の支配を含みこんだ土地所有(領主的所有)を展開するようになる。人の支配には特殊な支配(主従制や家支配など)と一般的支配(一般住人への支配)がある。特殊な支配の有無にかかわらず、一般的支配つまり住人支配を伴う領主的所有を領主制と呼ぶことにする。
(佐藤氏同書)

 ここで重要なのは、荘園が「住人支配を伴う領主的所有」の形態をとり、それがために「統治の枠組みとして機能する」ようになったことである。現代の土地所有は当然ながら、土地の所有とそこの住人支配は分離している。それ以前に現代においては、住人を「支配する」などとは決して言わない。だが中世においては、土地の所有とともにそこに住む人々を支配する「領主的所有」として、荘園制が社会の基盤となっていたのである。
 中世の土地の所有は、その土地に住む人々の支配と切り離されてはいないのであり、その点が今日の土地所有と根本的に違うところである。前回「買得地拡がりの背景」におけるコメントのやり取りで、所有権などを現代に置き換えて説明するのは誤解を生むと書いたが、それはこのことがあったからである。高村さんはそこで、『徳政令―中世の法と慣習 笠松 宏至 (著)』 を紹介してくれたが、おそらく土地の「もどり」について指摘されたかったのではないだろうか。この件についてはこの後で少し触れるが、後々徳政を扱うことになると思うので、その時に再度考えてみることにしたい。
 さて、荘園というものが「領主的所有」を本質として、土地の所有とその土地の住人支配が分かちがたく結びついたものだと言うが、ここでの「支配」とは何を意味するのであろうか。佐藤氏は同書において、荘園領主と荘園住人との関係について次のように述べている。

 中世荘園は領域内の住人を排他的に支配することを志向する。荘内に国領・他領が散在していても、住人編成は荘園側が行なった。(中略)住人の側も、寄人・供御人などを除けば、帰属意識は荘園にあり、某荘住人と名乗った。
 住人に対する支配は荘園領主に公的機能を果たすことを求め、荘園支配は住人への統治行為となる。それは国郡の支配と競合するため、国郡の行政権を排除しうる不入権が重要であった。郡郷司の行政権は荘司に継承された。しかし国の行政権は荘園領主に譲られたのではなく、荘内から排除されて潜在しているだけである。荘園領主が果たすべき公的機能は国からの委譲ではなく、荘園領主が住人と結んだ統治契約である。


 「住人支配」と言われていたものの実態は、「荘園領主が住人と結んだ統治契約」に基づいた統治行為であったわけである。これは荘内の土地を所有してはいるが、そこの住人を所有しているわけではないこと、そして土地がただそこにあるだけでは所有者へ何ももたらさないのであり、そこに所有者と住人=耕作者の共存があるとする立場である。土地はただ所有しているだけでは何も実利をもたらさない。そこに人が住んで耕作に精を出すことで実りがあり、その耕作を援助することで土地所有者も実りの一部を手にすることができる。土地の所有と住人がセットになっている理由がここにある。そして土地所有者が公的機能を果たして「領主」となるのも、土地+住人+耕作が年貢を生み出すのであり、この三位一体の保全と向上が所有者を富ませるものだからである。
 昔マルクスという哲学・経済学者が、富は資本から生まれるのではなく労働から生まれるものだと言ったが、彼の意図も資本+労働=富なのだという点にあったと思う。現代資本主義では資本と労働はきっちりと分離されているが、それはそういう社会制度なのであって、ことの実態では資本と労働とは初めから分離しているわけではない。両者がなければ富は生み出されないのであるから、制度による切り分けがなければもともと癒着した構造だといえよう。そうであるから、中世の土地所有権は、今日からすると理解しがたい次のような説明になるのである。

 中世の領主的土地所有は、古代の公的な領域支配権と土地所有権(墾田、治田)が融合して形成された。つまり、所有権と公的支配権が癒着した構造が中世的な土地支配権の特質であって、所有論的にみれば、領主の権利は上級所有権と位置づけてよい。一方、一〇世紀以降、百姓治田の立券が抑止され、土地所有権が身分制的に再編されるなかで、百姓の土地に対する権利が下級所有権、つまり「私領」として成立した。下級所有権は「作手・作職」と称されることが多いが、その名前が示すとおり、耕作権としての属性を本義としつつも、初発段階から地主制的な構造を内包する-つまり、別に直接耕作者を抱える-ことが少なくなかった。
(『中世・近世土地所有史の再構築』-「中世後期における下級土地所有の特質と変遷」西谷正浩著)

 中世の土地所有権には、上級と下級があったというのである。今日の所有権には排他的独占という概念が含まれるが、それからすると、所有権に上級と下級があったというのはどうにも飲み込みが悪い。先の佐藤氏は、「百姓の田主権は事実的な耕作権として社会的に承認され継続し」て成立したものであると述べている。この「事実的な耕作権として」という表現に注目すると、あの当知行の「当」が思い起こされる。実際に土地に向き合って、その土地に働きかけ、その実りに生活を賭けている者には、その対象である土地に権利があって当然だということなのであろうか。
 もともと自然であった土地は誰のものでもなく、それがある時から特定者に所有権が発生するというが、自力で原野を切り開いて耕地とした者だけが所有者となったわけでもない。

 一〇世紀中頃になると立券は貴族層の土地所有権を認定する手続きを意味するようになる。貴族層は郡司・刀禰に所領の立券を命じ、開発や租税免除を伴う場合は国司に働きかけた。立券は百姓を排除し貴族層のものとして継続した(立券の貴族化)。
(佐藤泰弘著「荘園制と都鄙交通」-日本史講座3収録)

 このように「手続き」が所有権を生み出すのであるが、そこに「当」という本来性を呼び覚ます無名の声が沸きあがる。そのものと最も緊密な関係を取り結んでいるのは誰であるか。そのものに魂を浸透させた者、そのものに痕跡を最も強く刻んだ者こそが正統な所有者ではないのか。制度を離れてみれば、そうした声が自然の感覚というものなのかも知れない。中世社会では制度がそれほど強固ではない、制度が未熟とかではなく制度が人をどれだけ支配しているかの尺度において、人は制度からもっと自由であったのだろう。そこに制度を離れた自然の感覚が、制度を超えて力を発揮する場面があったのではないかと思うのである。
 高村さんから紹介があった、笠松宏至氏が書いた『徳政令―中世の法と慣習』などに基づく徳政研究の到達点が、『日本史講座3』に整理されている。そこの一つに次のように書かれている。

 古きことを良きこと、新しきことを悪しきことと考える社会において、「徳政」すはわち徳のある政治とは、世の乱れにより本来あるべき姿から逸脱したものを元に戻すことであった。質入・売買により本来の持ち主から離れた土地を元に戻すのは「徳政」の理念の発現である。
(近藤成一著「中世前期の政治秩序」-日本史講座3収録)

 「本来あるべき姿から逸脱したものを元に戻す」という理念が徳政に込められていたというが、先の荘園制における下級所有権の発生をみれば、この「本来」とはものを活かしものと供にある者こそが所有者であるという観念に基づくように思われる。しかしこの本来性は、認定された者を所有者とする社会制度によって疎外されているがゆえに、その本来性への回帰が「理念」だと言われるのである。先に本郷氏は
公的権力の支えがなければ所有権は安定しないと述べていたが、それは所有権というものが制度の所産だからではないのだろうか。つまり所有権は、多分に手続き的な制度によって規定され、人為的に人とものの間を線引きしていると考えられるのである。
 このようにしてみると、未熟だとされる中世所有観念は、今日の我々に所有とは何かをあらためて考えさせるような内容を含んでいる。そして当知行を権利のない者が武力的な実力によって土地を占拠することと理解する場合、制度を破っているという点で、制度を超えて本来をめざす徳政と共通するものがあるようにも思える。しかしながら、徳政がはらむ「理念」が、実力主義ならぬ武力主義と同一であるわけがない。本郷氏が言うような当知行の「当」が「実力」を示すのに対して、徳政理念が示すのは「本来」である。それでは実力を持って現在を是認させる当知行と、現状を追認することなく本来を追及する徳政理念とは相反するものなのであろうか。どちらも土地を中心とする所有にかかわる社会の底辺からの動きでありながら、この両者は鋭く対立するものなのであろうか。その如何は、当知行の「当」の解釈にある。次回はこの「当」の真相を探り、中世所有観念のポジティブな側面に光をあてたいと思う。
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by mizuno_clan | 2009-03-31 22:48 | ☆談義(自由討論)

外國奉行「水野筑後守忠徳」

TV「日立世界ふしぎ発見!」
第1093回「小笠原 絶海の孤島 幕末秘話」
 http://www.tbs.co.jp/f-hakken/index-j.html
放送2009/03/21(土)21:00~
 本州から1000キロ離れた小笠原諸島は、周辺に大きな大陸がないため
独自に進化した固有の動植物が多く‘東洋のガラパゴス’と呼ばれている。
ミステリーハンター・坂本三佳が美しく豊かな小笠原の大自然と知られざ
る歴史秘話に迫る! ――

噂では、このTV番組に再現ドラマで、外國奉行「水野筑後守忠徳」が登場
するようですので、みな様にはぜひご覧頂きたくご案内いたします。私は旅に
出ていて、しかもその時間は人と会ってる時間なので、残念ながら見られそう
もありません。
この内容については、――
中公新書『幕末の小笠原』田中弘之著 に詳しく書かれていますので、ご
一読下さい。


∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」の「水野筑後守忠徳」関連記事集


                              事務局世話人 水野青鷺



●追記 (2009.03.30)
 TV「世界ふしぎ発見!」に採用された「水野筑後守忠徳の肖像写真」の出典ですが、
今朝電話で問い合わせをしていました、TBSの当番組テレビプロダクション「テレビマンユニオン」社の
方から、先程ご親切に回答を頂きましたので追記いたします。



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1/1件
【和暦年月日】
【タイトル(表題1)】水野筑後守忠徳(ママ)
【タイトル(表題2)】維新前後名士其外写真帳(上)
【写真技法】鶏卵紙
【寸法】9.3cm×5.5cm
【形態】
【被写体区分】人物
【被写体】武士某
【撮影者】
【撮影地】
【所蔵】東京大学史料編纂所
【備考】
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by mizuno_clan | 2009-03-20 10:40 | News

【談議1】水野氏と戦国談議(第十一回)

当知行・当事案(2) -買得地拡がりの背景-
                                                          談議:江畑英郷
 今回は、前回に引き続き「当知行・当事案」の二回目である。
 この「水野氏と戦国談議」では、これまで様々なことを述べてきたが、実のところ様々のようであっても問題にしていることは「戦国大名はなぜ戦い続けたのか」であるし、それを戦国期の権力モデルから解き明かそうという点では変わらない。私がここで追求してきたものは、戦国大名が群雄として各地に割拠し、その群雄どうしが所領の拡大をめざして激突することによって、絶え間ない戦いの時代となったとする戦国権力モデルを克服することにあった。そしてこの群雄割拠型の権力モデルに対してリゾーム型権力モデルを対峙させ、戦国期の権力が単純なツリー構造ではなく、散りががりと言われる多軸・多層構造であったことを示してきた。そこでは戦国期における社会集団の相互関係がリゾーム構造をなしており、そのリゾーム構造の中からどのように恒常的な戦いが発生するのかを見極めようとしている。またこれら集団行動の根幹に「所領の拡大」と言われるものがあるとされるが、その「所領」とはそもそも何であるのかを問題にしてきた。第五回の「所領とは何か」はまさにそれがテーマであったが、そこでは買得によって所持する所領というものに注目してみた。今回はこれに続いて、戦国期所領の根幹に迫るまで、何であるかを追求してみたいと思う。

 まずは、『新修名古屋市史』に水野氏と買得所領に関して述べられている箇所があるので、それを以下に引用してそこから所領について考えていきたい。

永代寄進申す下地の事
合せて壱貫弐百文、てへり
右件の田は、加藤図書助持分為(た)りといへども、笠寺の観音のふつく(仏供)田に寄進申す所実正(じっしょう)なり、此の如く永代寄進申し候上は、後々に於いて子孫親類為りといへども、とかく違乱煩(わずらい)の儀有るべからず候、仍て後の為め、永代の寄進状件(くだん)の如し、
  延徳元年 酉己 十二月廿九日
 寄進主              加藤宗繁(花押)
彼の田の在所は、とべ(戸部)の下弐反、但し公方年貢六百文、水野彦右衛門方へ御さたあるへく候、
此外(このほか)諸やくあるまじく候、
  延徳元年 酉己 十二月廿九日
(笠覆寺文書)

 延徳元年(一四八九)に、加藤図書助宗繁が、笠寺観音(笠覆寺)に仏供田として在所戸部(南区)の下の田二反を寄進した際の寄進状で、熱田加藤氏発給の初見文書として知られているものである。注目したいのは、寄進後に笠覆寺が負担すべきものとして、公方年貢六〇〇文を水野彦右衛門方へ沙汰すべしと記している点である。仏供田として寄進された田は、文明一一年(一四七九)に、加藤宗繁が「あつたの宮宿之又四郎」から代銭四貫文で永代売得したものである(笠覆寺文書)。(中略)
 同売券によると、購入後に加藤宗繁が負担すべきものとして、同田の公方役代五〇〇文と礼分一〇〇文、合計六〇〇文の年貢・礼を「作良北尾之行慶之方(さくらきたおのぎょうけいのかた)」へ沙汰すべしとなっている。したがって、文明一一年から延徳元年の期間に、同田の公方年貢の納入先が作良北尾(桜村字北尾)の行慶から、水野彦右衛門に代ったことが理解できる。戸部は、笠覆寺の北にあり、井戸田とは山崎川を隔てて比較的近い、延徳元年までに、水野氏が戸部の田地から公方年貢を徴収する領主として姿を現していることは注目される。


 『新修名古屋市史』が注目しているのは、延徳元年という早い時期に小河の水野氏が戸部にまで進出していることにある。この寄進状の日付が、実質的な初代である水野貞守が没した文明十九年(一四八七)の二年後に当ることから考えて、おそらく貞守の頃から戸部に所領を持っていたのだろう。同書は、井戸田(瑞穂区井戸田町)や市部(瑞穂区市丘町?)を領していた今川那古野氏の年貢未進に際して、「当時井戸田・市部周辺を領有していた水野氏に働きかけて、冥加上分を納めさせようとした」ことを取り上げている。そして、「水野氏は、一五世紀末に知多郡小川・三河刈谷城主となっていたが、この時期にその勢力は北上して、愛知郡井戸田・市部周辺にまで進出していた」と述べるのである。
 同書は「加藤宗繁が“あつたの宮宿之又四郎”から代銭四貫文で永代売得したもの」と述べ、この戸部の田二反が宗繁の購入地であったことが示されている。また、宗繁への売主が「あつたの宮宿之又四郎」とあり、田二反が戸部にあることから、この又四郎自身もこれを売買によって入手していたものと思われる。そして公方年貢を別に納めることが定められていることで、この売買の対象は加地子得分であったことが分かる。このようすからすると、この田二反は部分的に切り出されて次々と転売された加地子ということになり、当時の加地子売買の実態を垣間見るようである。
 水野彦右衛門という人物が小河の貞守とどのような関係にあるのかはわからないが、井戸田に一定の領地を持っていたということである。この井戸田の水野家が小河水野家から派生したものなのか、それともそれ以前に井戸田に根を張っていたものかはわからない。『新修名古屋市史』はこれに関連して、御器所(ごきそ:昭和区)の佐久間氏に触れた箇所に、小河乾坤院(知多郡東浦町)所蔵の「血脈集」に佐久間氏の名が挙がっており、「乾坤院は小川城主水野貞守が建立したと伝えられており、同史料に水野一族とともに名を列ねていることは、小川城主水野一族と佐久間氏が親しい関係にあったことをうかがわせる」と述べている。これからすると、御器所の佐久間氏と小河の水野氏が良好な関係を構築していたのであれば、御器所のすぐ南にある井戸田の水野氏は、当然小河水野家に深い繋がりがあると同書が判断したものと思われる。

 前回「当知行・当事案(1)」で述べたことに対して、「ではなぜ彼らは国境を越えて土地を買得するのかという疑問が生じます」という指摘をいただいた。国境は越えてはいないのであるが、水野氏の本拠である小河から井戸田までは、北北西に十六キロメートルほど離れている。松平忠倫の上和田城から尾張までがおよそ十五キロメートル、そして丹羽氏岩崎城から横根までが十五キロメートルと、たまたまかも知れないが十五キロメートルという数字が目につく。離れていると言えばかなり離れているのであるが、そのような地に買得所領が拡がるのはなぜなのだろうか。
 加藤図書助宗繁の寄進状では、水野彦右衛門は公方年貢の収納者であるが、この収納権は北尾の行慶から移ったものである。これがどのようにして移ったのかは『新修名古屋市史』では言及されていないのであるが、元の収納者が行慶という寺社関連らしき人物であることからすると、彦右衛門への所領宛行ないなどではないであろう。そうとなればこの公方年貢収納権の移動は、やはり行慶と彦右衛門の間における売買取引によって生じたと理解するのがよさそうである。加地子ばかりでなく公方年貢までもが売り買いされていたことになるが、そこに行慶なる寺社関連の人物が介在していることに注目したい。
 第五回「所領とは何か」で和泉国で買得地を集積した中氏について触れたが、その集積は「中氏と、その子息の入寺した根来寺成真院とが買い集めた土地の売券(売渡証文)」によってなされていた。中氏は土地(加地子)の買得にあたって、根来寺成真院に子息を入寺させ、その寺院を介して加地子を買い漁っていたのである。しかしなぜ、寺院を介して加地子を買取るのであろうか。それは中世の寺院が広範に金融業を営んでいたからである。
 井原今朝男(いはらけさお)氏の著した『中世の借金事情』を読んでいると、やたらと貸し手に僧侶の名前が出てくる。そして貸し手には意外と尼僧が多いのであるが、それについて井原氏は次のように述べている。

 御家人・延暦寺の僧侶や山徒・祇園社の社僧らが、妻女や女房・白拍子・遊女・仲人らを宿所・浜蔵・屋地・土倉などに配置して、日吉上分物や神物などを借用して倉納物の貸借・管理や輸送・販売・流通などに従事させていたものといえよう。土倉も借金により運営されており、貸借取引によってこそ商業活動は展開されたのである。

 ここで井原氏は「土倉も借金により運営されており」といっているが、金融業を営むにも当然ながら元手資本金がなくてはならない。寺社が金融業に進出するのは、「日吉上分物や神物などを借用して」とあるように、信仰によって人々から広範に集めた供物や講銭が寺社の金融資本となっていたのである。

 鎌倉末期には中世寺社の堂塔の修理費や寺内衆徒の相互扶助のために頼母子講や無尽講の組織が発達して、貸借取引の供出や勧進によって資金を調達する方法が発達したことが分かる。南北朝から室町期には、禅宗の祀堂銭をつかった貸借取引での資金調達が発達する。
(『中世の借金事情』)

 このように寺社は潤沢な資金を所持していたが、それを運用するために金融業を営んでいたのである。そしてその資金の対象は加地子を中心とする土地売買にも向かい、借金のかたに土地の質券や売券を数多く所持することになる。中氏はこうした寺社の金融的な側面に目をつけて、子息を送り込んで自らの加地子集積の手先としたのである。そして金融や売買にはネットワークが必要であるが、寺社には本寺・末寺など独自のネットワークがあり、これが有効に作用していたに違いない。そうすると、加藤宗繁寄進状の件で現れた行慶なる人物も、こうした寺社金融ネットワークの一員であり、水野彦右衛門はそのネットワークと何らかの繋がりを持っていたとも考えられる。小河水野氏が建立した乾坤院は曹洞宗寺院であるが、中氏の例を念頭に置くならば、この曹洞宗寺院ネットワークを介して井戸田の地に領地を持ったとはいえないであろうか。水野氏は寺院関係の貸借に何らかの関与をして、その結果として井戸田・市部などに所領を持った。水野氏の進出時期が今川那古野氏の後退期と重なるのであれば、今川那古野氏が借金等から手放した土地を寺院を介して入手したのかも知れない。

 前回は松平忠倫や松平清定の領地が尾張にあったことを梃子にして、「当事案」というものを引き出したのであったが、思い返してみれば松平氏とは松平郷の有徳人から身を起した一族であった。初代とされる松平親氏は、三河松平郷(豊田市松平町)の松平太郎左衛門尉に人物を見込まれて婿入りしたのであるが、その前歴は一般に諸国を遍歴する時宗の僧侶であったとされる。平野明夫氏は『三河松平一族』で、「親氏は“渡り”的技術伝播者・遍歴する職人であった」と述べて、時宗僧侶という前歴は後世の作為であるとする。また親氏が入り婿した松平太郎左衛門尉については、『三河物語』が「国中一の有徳なる人」と表現しているが、平野氏は太郎左衛門尉の伝承をいろいろ勘案して、「松平太郎左衛門尉は有徳人であった」としている。有徳人とは富裕な人を指して言う言葉であるが、彼らが一定の社会的貢献も果たすことから「有徳」と表される。そして親氏が婿入りした松平家は、「地主よりも流通業者のイメージのほうが強く感じられる」ような存在であり、親氏の代においては「買得や請地の形で支配領域を拡大した」と述べられているのである。
 その後の松平氏は本拠となる岩津に進出するのであるが、これについて平野氏は、『三河物語』では岩津城の奪取となっているが、「松平氏の有徳活動の一環と捉えられ」、「岩津進出の真相は、岩津に買得地を得たということだろう」と述べている。また岡崎についても、「泰親の代に有徳人として岡崎へ進出し、信光の代には領主として進出した」とするのである。こうしてみると、松平氏の所領拡大は有徳人的性格を基本として、その基盤とする流通機構に乗った買得によって土地を集積していったことになる。そして初代親氏は時宗の僧ではなかったが、太郎左衛門尉は「念仏の行者」であったとされ、寺院ネットワークとも繋がりがあったかも知れない。しかしそれ以上に、「技術伝播者」である親氏を見込んだあたりは、商工業・流通に基盤を持って財力を蓄積し、それを背景に一家を拡大せんとする事業家であったようにも思われる。
 このような松平氏の出自からすれば、松平忠倫や松平清定が買得によって尾張にまで領地を拡げていたことは十分に考えられることだろう。このように武家領主という看板を背負っていても、その活動は商工業・金融にまで及んでおり、一家の繁栄は領主的な拡張に限られていたわけでもない。そうした領主外活動が、やがて足場になって領地の取得や新たな領域への進出を可能にしているのでもあり、戦などの暴力的な手段だけが所領拡大を実現するのではない。

 水野彦右衛門が公方年貢を収納する戸部の二反の田地は、加藤宗繁から笠覆寺に寄進された。ところで宗繁は、笠覆寺に対する厚い帰依の気持ちからこの田地を寄進することにしたのだろうか。この寄進状には、「永代寄進申し候上は、後々に於いて子孫親類為りといへども、とかく違乱煩(わずらい)の儀有るべからず候」と述べられている。寄進という篤実なる行為に、子孫や親類が違乱や煩いを持ちかけることなどを気にしているようであるが、今日の我々からみると何か違和感を感じないであろうか。また「永代寄進」、「永代の寄進」と妙に「永代」を強調しているようにも思えるが、このことには何か背景があると考えるべきなのかも知れない。
 
 永享五年(一四三三)の大原持綱による観音寺寺領分の「段銭」の寄進は、二〇貫文の銭を観音寺から借用した代償であった。この実態は寺領分の天役諸公事の免除であるが、これを観音寺側がどう認識していたかを示す記事が「仏田目安」にある。そこには「此三丁二反天役者、廿貫文ニ買申、委旨ハ本文ニ有、加法輪院田ヲ」とある。これを観音寺は領主から買得したと認識しているのである。惣村が「公文職」など領主権を買い得して「自治」を獲得することは菅浦で見られるが、この場合もそれに等しい行為である。観音寺はいわば銭の力で領主権を形骸化させていると言える。この事態は、領内の諸集団と新たな関係を構築しつつある一円領主にとり必然的なものであると同時に、抱え込んだ新たな矛盾の種であるとも言えよう。

 上記は、湯浅治久氏の『中世後期の地域と在地領主』で述べられていることである。ここに言われていることは、戦国期権力の本質を垣間見るようで非常に興味深い内容である。
 大原持綱は近江源氏佐々木氏の一流であり、六角・京極・高島らと並ぶ名族の惣領である。大原庄は滋賀県山東町に、「立庄時期は不明だが、平安期から鎌倉期にかけては仁和寺御室領として見える」荘園であり、大原氏は鎌倉期に地頭としてこの地に在任していたとされている。この大原庄夫馬郷に大原観音寺が所在しており、上記の引用はそこに残された『大原観音寺文書』の研究から指摘されているものである。
 ここでは領主大原氏の観音寺に対する「段銭」寄進とみえることが、実際は観音寺から大原氏が借用した二〇貫文の弁済であったことが示されている。先に中世寺社が金融業を営んでいることを指摘したが、その金融先は時に土地の領主でもあったわけである。このように表面上「寄進」とみえる行為が、実際のところ借金の弁済であったといったケースも少なくないように思える。加藤宗繁の笠覆寺への寄進が借金弁済のためのものかどうかはわからないが、「永代」を強調しているようにも思えるので、そうであった可能性は少なくないに違いない。
 このように寺社への寄進が債務返済と近しい関係にあったことは意外であるが、それにもまして「銭の力で領主権を形骸化させている」という指摘には驚かされる。そして領主権を購入することで、自らの「自治」を実現するということに及んでは、領主とは何かの定義が大きく揺らぐ思いである。ここに至って、そもそも「領主」とは何であるのか、それをあらためて問い直す必要性が生まれてきた。「所領」「領主」「支配」は基礎的な概念ではあるが、それだけに戦国期の社会・権力構造をダイレクトに反映する用語であり、この概念が適切に捉えられているかで時代認識は大きく変わることだろう。そして「当知行」を探求することで、この基礎概念を正しく定義することができるだろうというのが私の展望である。今回はこの「当知行」に肉薄するつもりであったが、ここまでに思いの外字数を費やしてしまった。そこで次回「当知行・当事案(3)」として、当知行に焦点を当てて「所領」「領主」「支配」の概念を押さえていきたいと思う。
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by mizuno_clan | 2009-03-15 21:36 | ☆談義(自由討論)

【談議1】水野氏と戦国談議(第十回2/2)

1/2より続く

 当知行とは、現実に領地を排他的に占拠している、支配していることを意味する。そしてこの点が重要なのだが、中世においては当知行していることの根拠や由緒の正当性は、実はさほど重んじられなかった。さほど、と書いたのは「御成敗式目」などには、いまだ「二十年」という年紀が明記されているからである。ところが時代が下がるにつれて、年紀すらも問題にされなくなり、単に「いま」当知行であるかどうかが決め手になるようになっていく。他人から不法に奪取しようが、詐術を駆使して契約を踏みにじろうが、いま「たしかに」その地を抑えているのかどうか。その事実と能力こそが高く評価され、所有権の帰趨が現状を後追いするかたちで認証されるのである。現在でも一定期間ある特定の土地を占有していると「取得時効」が成立するが、それはあくまでも稀有な事例である。ところが中世にあっては、驚くべきことに、それこそが状態であったのだ。
(本郷和人著『武士から王へ』)

 鎌倉時代には、二十年間以上に渡って土地の実効支配の実績があれば、その土地はその支配者に帰属するという幕府法が存在していた。そしてその後、二十年という形式的な基準がはずれて、実際に今現在誰がその土地を支配しているのかで、その地の帰属が決まるようになっていく。まさに実力主義の戦国時代にふさわしい基準のように思えるが、非在地領主に対する在地領主の優位ということであればあらためて言うまでのこともない。当知行には、もっとラディカルな時代を動かす原理としての力が宿っている。
 本郷氏が当知行の説明として、「現実に領地を排他的に占拠している、支配していることを意味する」と述べているが、これまでみたように「領地」は多相であり、買得地などは「排他的に占拠している」と言えるものではない。それでは買得地は当知行ではないから、領主に帰属しないものかといえば、当然そんなことはないのである。また「いま“たしかに”その地を抑えているのかどうか。その事実と能力こそが高く評価され」と言うが、「抑えて」とは具体的に何を指しているのだろうか。土地を囲い込んで、そこに居住し生産に従事する人々を隷属させることを指しているのであろうか。だが、これまでみてきた村の権力は、「この時代、在地領主は、領主権の中心をなす広義の勧農権を、新しく成立してきた惣村に吸収されつつあり、その在地性の根拠を失いつつあった」(勝俣鎮夫著『戦国時代論』)と言われるほどに成長しており、単純に抑えられるような存在ではない。したがって、戦国期の当知行というものを、これまでリゾーム型権力モデルで捉えてきた所領とか村権力に整合するように、その定義を捉え直す必要があるだろう。この点については、次回のテーマとして掘り下げていこうと思う。

 今回のテーマは、領域内の権力という秤の平衡作業に専念している戦国大名が、どうしたわけで隣国の紛争に軍事介入までするのか、そのメカニズムを解き明かすことであった。そしてメカニズムは、分散性と零細性を特質とする所領主が、散在する所領の安全保障を戦国大名に託すことにあり、その所領の散在は託された戦国大名の公権領域を超えていることにあると考えた。天文十三年の松平信孝排斥に始まった西三河動乱が、隣国の織田信秀と今川義元の軍事介入を招いたのもこのメカニズムにあると推測したが、読者の皆さんはこれをどうみるであろうか。
 そしてこのメカニズムを、当知行という言い方に倣って「当事案」と呼ぶことにする。西三河に軍事介入した尾張東部の武家領主は、信秀の下知に従ったというよりも、松平氏の内部抗争により危機にさらされた買得所領を防衛するという「事案」に向き合っていた。そして彼らはこの「事案」の当事者として、自らの利害と意志において参戦していたのである。リゾーム型権力モデルにおいては、合戦や軍事介入に武家領主が従軍するのを、ツリー型の大名権力による主従原理に従った強制的動員とは捉えずに、その当の事案に対する当事者が主体となっていると捉える。そしてそのことを表す言葉として「当事案」を使うのである。
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by mizuno_clan | 2009-03-08 14:54 | ☆談義(自由討論)

【談議1】水野氏と戦国談議(第十回1/2)

当知行・当事案(1)
――「現在の領地」と「現在の問題となっている事柄」―― 
                                                          談議:江畑英郷
 前回「竿と錘の戦国力学」では、二つの疑問を提示した。一つは、松平氏の一族一揆から家中への構造転換に必然性はあったのかというものであった。これに答えを得るためにヴェーバーや安能氏の語るところの権力の定義に目を向け、そこから竿に吊り下がった貫徹せんとする意志どおしの均衡をとるために錘を動かす秤を権力に見立てて、松平氏の権力構造の転換を考えてみた。ここで松平氏の被官たちは、台頭する村権力に対峙するためにより強固に結束する必要に迫られていた。しかし一族一揆に基づく権力では主従関係が一門で分有されており、一門間の対立で問題対処が常に立ち往生しかねない。そこに縦関係を一本化し、主君を中心点として家臣間の均衡を維持する家中への転換が必然的な要求となるのであった。
 そしてもう一つの疑問は、天文十二年の松平信孝排斥に端を発して勃発した松平家の内部抗争に、西の織田信秀と東の今川義元がそろって介入したのはなぜであったのかというものであった。しかもその介入は、結局織田と今川の大規模な軍事衝突を引き起こすこととなり、両者にとってこの西三河の動乱がのっぴきならないものであったことを示している。領域内の権力という秤の平衡作業に専念している戦国大名が、どうしたわけで隣国の紛争に軍事介入までするのであろうか。そのメカニズムを解き明かすのが今回のテーマである。

 『新修名古屋市史』は、小豆坂合戦を扱った箇所で太田牛一が著した『信長公記』の記述に触れて、「織田信秀の軍勢構成を考える上では貴重な資料といえる」として、次のように述べている。

 下方左近、佐々隼人正、孫介兄弟、中野又兵衛、山口左馬助は、尾張東部出身の武士で、天文七年の那古野城攻略後に信秀に付属した者と考えられる。東隣三河進攻には、尾張東部在住の武士が主力とならざるを得ないのであるが、信秀が彼らを三河進攻に動員可能としたことは、やはり注目される。

 さらに同書は、天文十三年に起こった信秀の美濃侵攻に触れて、これと同様の感想を述べている。

 信秀は守護斯波義統の支持を受け、かつての同輩であった織田因幡守や、岩倉方織田伊勢守の一族も指揮下に入れて、美濃に進攻したのであった。西三河小豆坂の戦い参加者と比較すると、岩倉方織田伊勢守の一族をはじめ、中島郡に所領を持っていた青山与三右衛門尉、同じく中島郡居住の武士と思われる毛利氏一族など、美濃に近い尾張北西部の関係者が多いのに注目される。

 『新修名古屋市史』は、上記二つの引用どちらも「注目される」と述べているが、どう注目しているのかは書かれていないので定かではない。しかし東と西での軍事進攻に、居住地が近い武士たちが中心となって動員されたというだけであったならば、「注目される」と繰り返すほどの内容ではないと思われる。どうして『新修名古屋市史』が、注目されると二度も言っておきながらその内容を語らないのかは分からないが、ここに潜んでいる注目点をここで探り出してみよう。

 織田信秀について『信長公記』は、「備後殿は国中憑(たの)み勢をなされ、一ヶ月は美濃国へ御働き、又翌月は三川(三河)の国へ御出勢」とその精力的な働きぶりを描いている。しかし「国中憑(たの)み勢」での軍事侵攻であったわけで、信秀の対外侵攻は「守護斯波氏や守護代織田達勝の支援に支えられたものであった」(『新修名古屋市史』)のである。つまり信秀は尾張随一の実力者ではあっても、旧権力である守護や守護代との協調関係を維持しなくては立ち行かない存在であったということである。その信秀が東の三河と西の美濃へと積極的に進攻したのであるが、『信長公記』の言うところにしたがえば、それも同時二正面作戦であったことになる。横山住雄氏の『織田信長の系譜』などをみれば、必ずしも同時に三河と美濃への進攻を企てていたわけでもないが、国人一揆の盟主的存在であった織田信秀が東西でこのように攻勢に出ていたのには、何か切迫した事情があったに違いないと思うのである。
 この点に関して、横山住雄氏は『織田信長の系譜』で次のように述べている。

 信秀は、国内においてはあくまでも斯波氏三奉行の一員としての家格を遵守して行動しなければならず、かつまた国人層(同僚たち)の所領を奪って自領の拡張をするわけにはいかない。信秀にはそうした制約があるから、自領の拡張は斯波・織田の支配圏以外の敵性的な土豪の所領を奪取するか、あるいは他国へ進出する他にないと考えたのである。

 ここで信秀が「三奉行の一員としての家格を遵守」しなければならなかったのは、信秀の権力・勢力が守護や守護代を駆逐するほどは大きくなかったからである。しかしそれにもかかわらず、その信秀に他国へ軍事侵攻する道が開けていたというのは、果たしていかがなものであろうか。信秀は単独では国外に兵を出せず、「国中憑(たの)み勢」をしなければならなかったが、その信秀の「自領の拡張」のために守護や守護代、そして尾張の国人領主が手助けをしたとは到底考えられない。「国中憑(たの)み勢」というのは、信秀個人の事情でなされたのではなく、頼まれた守護や守護代、そして国人領主たちにも深い関係があってのことであり、そうであるからこそ信秀の頼みに応じたと考えるべきであろう。果たしてそうであるならば、尾張の領主たちがこぞって関心を持ち、催促があれば兵を出すまで切迫した事情とはなんであったのだろうか。
 織田信秀と守護の斯波氏、そして守護代の織田大和守とは、常に協調し合っていたわけではない。守護代の織田達勝と織田信秀は天文二年に争ったことがあるが、その後再び両者は戦火を交えることとなった。

 守護斯波氏や守護代織田達勝の支援を得て国外での戦いを進めていた信秀にとって、守護代家との戦いは大きな打撃であったと考えられる。この戦いが天文十六、十七年にかけてのものとすれば、先に紹介した天文十七年三月の小豆坂の戦い(第二次小豆坂の戦い)は、その最中の出来事となり、信秀は独力で今川勢を引き受けねばならなかったと思われる。『信長公記』首巻における小豆坂の戦いの記事が、新説の提起するように天文十七年の戦いを述べたものとすれば、小豆坂の戦いの参加者の名を挙げる中で、戦死した那古野弥五郎一人が「清洲衆」とあるのは、大部分の清洲衆が、信秀とは敵対中であったためとも推測される。
(『新修名古屋市史』)

 第八回で小豆坂合戦は天文十七年の一回だけであったとしたが、その合戦と同時期に信秀と守護代が戦っていたというのは、「国中憑(たの)み勢」とは異なった状況を示している。同書は「信秀は独力で」としているが、先に尾張東部在住の武士を主力として信秀が彼らを三河進攻に動員していた。彼ら尾張東部の武士たちは、信秀が守護や守護代の権威を背景に「国中憑(たの)み勢」をする対象であり、信秀直属の家臣であるわけではない。そうした彼らが信秀と守護代の対立の最中、三河小豆坂合戦に出動していたことになる。また、那古野弥五郎は「清洲衆」とされているが、「大部分の清洲衆が、信秀とは敵対中であった」中で、なぜ彼は信秀とともに戦いに加わっていたのかが謎である。
 この小豆坂合戦の時期に信秀と守護代が対立していたならば、上位権力の支援を得るどころか、守護代の妨害などで満足に兵が集められなかったはずである。そうであるのに信秀は三河に兵を送り、尾張東部の武士はこの戦いに加わった。さらに守護代方であるはずの那古野弥五郎までもが、信秀に従軍していたというのをどう理解したらよいのだろうか。これに直接の答えは持ち合わせていないが、次の一文がこの謎を解く手がかりになると思うのである。これは『新修名古屋市史』が、織田信秀による安城城攻略後の西三河の動向を語ったところに記載されている。

 佐々木の松平三左衛門忠倫、桜井の松平清定(信定の子)らが、信秀に通じて、矢作川以西の大部分が織田方になったという。忠倫・清定ともに尾張国内に所領を持っており、織田方の優勢という状況の中で、その所領を保全したい思いもあってのことであろう。
(『新修名古屋市史』)

 松平忠倫(ただもと)と松平清定が信秀に味方したというのだが、その理由の一つに両者ともに尾張国内に所領を持っていたことが挙げられている。これは尾張、三河などとはいっても、所詮あまり実質のない国の線引きであり、領主たちの所領はそうした国にとらわれることなく拡大していたということなのである。
 この談議の第五回で「所領とは何か」を考えた際に、所領を四つに分類したのをご記憶であろうか。今一度述べると、

①先祖伝来、固有に維持してきた本領地。
②荘園領主と百姓の仲介の中から獲得していった加地子得分。
③戦国大名や有力国人から給された給恩地。
④加地子を中心とした買得地。

の四種類である。信秀に味方した忠倫は上和田城(岡崎市上和田町)、清定は桜井城(安城市桜井町)の城主であったが、どちらも尾張にごく近いというわけではない。忠倫の本拠地から尾張までは最短距離で十六キロメートルほど、清定の桜井からでも最短距離で十キロメートルは離れているのである。したがって、『新修名古屋市史』が言うところの「所領」は①や②ではないであろうし、③の給恩地というのも考えにくい。そうなると残るのは、④の加地子買得地ではなかったかということになる。
 買得地であったというのであれば、その所領が三河であるとか尾張であるとかは全く関係のないことで、彼らの財力と購入の機会さえあればどこであろうと取得することになるわけである。その意味では、本拠地から十キロないし十五キロというのは、とんでもなく離れているということでもないので、買得して所領としたというのは十分考えられることである。
 こうした買得による所領拡大は、城主クラスの武士によっても頻繁におこなわれていたようである。尾張岩崎(日進市岩崎町)城主である丹羽氏清は、天文十九年(一五五〇)に今川義元から安堵状を得ているが、そこには「前々売地等の事、今度一変の上は、只今その沙汰に及ばず、これを所務せしむべし」と書かれている。ここで安堵の対象となっているのは、沓掛・大高根・部田村、そして横根・大脇の地である。丹羽氏の本拠である岩崎から大脇(豊明市栄町)そして横根(大府市横根町)までは十五キロメートルほどの距離である。丹羽氏はこの安堵状を得るために、今川方のために福谷(うきがい)城で在番を勤めており、遠方の買得地に対する権利を確かなものにしたかったに違いない。またこの安堵状文で、義元は「近藤右京亮名職にあい拘り、自然彼は味方に属すといえども、本地を為すの条、散田一円これを収務せしむべし」と述べており、沓掛・大高根・部田村が沓掛城主である近藤景春の領域に属することを承知で丹羽氏に安堵を与えている。義元が丹羽氏への安堵状に「近藤右京亮名職にあい拘り」とわざわざ述べたことは、こうした丹羽氏の買得地が近藤氏との間でトラブルを起しやすいことを念頭においていることを示している。
 第五回「所領とは何か」では、和泉国の中氏の買得による土地集積について触れたが、「中氏は土地そのものを集積したのではない。その土地の耕作者が負担する、加地子得分という余剰分を取る権利を主に集積したのである」と池上氏が述べていたことを思い出して欲しい。所領を抱えるとは、必ずしも土地そのものの所有に限定されるものではない。「余剰分を取る権利」である加地子が「本年貢にくらべて、加地子の額が圧倒的に高く、ほとんど二~三倍かそれ以上となっている」ことを思えば、売券一枚で取り扱われる加地子の集積が、所領拡大には何よりも手っ取り早いことになるだろう。そう考えると、松平忠倫や清定が尾張に持っていた所領も、この加地子を買得したものであった可能性が高い。そして同様なことは尾張東部の武士たちにも該当することで、信秀に従って小豆坂で戦った面々は、西三河の各地に買得によって入手した所領を持っていたのではないだろうか。
 所領の拡大は、領主が防衛しなければならない空間を押し広げることになる。しかし買得地の場合は「余剰分を取る権利」であるから、防衛というよりも権利を守る、権利が喪失することを防止することになる。そして買得地の権利は、他の手段で入手した所領よりも不安定である。その理由についてはこの先の回で詳しく述べるが、権利であるがために他と異なる特性を持つことによる。
 池上氏は『戦国の群像』の中で、この時代の所領を特徴づける特性について次のように述べている。

 買地安堵状や「晴宗公采地下賜録」などによれば、家臣の所領のなかには、在家一宇や半在家、田一反などのきわめて零細な所領が含まれている。一人の所領が数郷・数郡に散在するのが普通で、逆に一郷村に一〇人も十数人もの領主がいるというのも決して例外的なことではない。そうした所領をすべて個人の力で支配することは困難であり、在地領主の独立性・自立性は急速にゆらぎ出してくるのである。

 「晴宗公采地下賜録」(はるむねこうさいちかしろく)は、伊達晴宗が天文二十二年(一五五三)に家臣全員に対して所領宛行いと安堵をいっせいにやり直したときの控え記録である。ここでは、「在地領主間の土地売買がこの時代の構造的な問題であった」とされるほど、多くの買得地安堵がなされていた。買得地は売り手の事情によって手放されたものであり、また多くは加地子であるため、実際の土地と違って簡単に分割される。買い手も土地そのものではなく「余剰分を取る権利」であるため、それがどれだけ分割されていようと特にそれを気にかけることもない。また買得地がどれだけ遠方にあっても、権利としての余剰分が懐に入る限り何も問題はない。こうして池上氏は、「一つの郷に何人もの家臣の所領があるような所領の零細性と、一人の家臣が数郡・数か国に分散した所領をもつという分散性が、戦国期の知行制の特徴であった」(『戦国の群像』)と述べるに至るのである。
 
 天文年間に松平氏が権力構造の転換期を向かえ、その中で一族の有力者であった松平信孝が惣領である広忠の家臣団によって排斥された。この事件は、前回「竿と錘の戦国力学」で考察したように、単なる内輪揉めではなく、松平氏が一族一揆から家中へと構造転換をはかるといった重大な背景を負っていたわけで、それだけに多くの一族・家臣を巻き込んだ熾烈な内部抗争となった。それによって西三河の秩序が大きく揺らぎ、その中でこの地に零細で分散した所領をもつ尾張の武家領主たちもまた激しく動揺したのである。松平氏の抗争は敗れた側の所領没収となり、ただでさえ権利が錯綜する零細で分散している買得地がその巻き添えになることに、尾張の買得者が大きな危機感をもったのも当然であろう。それは武家領主だけではなく、富裕な商人や寺庵そして名主なども同様で、尾張国内で大きなうねりとなって西三河への介入が求められたに違いない。
 信秀の軍事行動について、「国中憑(たの)み勢」をして「三川(三河)の国へ御出勢」と『信長公記』は言うが、それはこうした東尾張の領主たちの強い要請に答えたもので、そうだからこそ守護や守護代の支援が得られたのであり、尾張国内に頼みが受け入れられたのである。しかしそれでも、西三河に買得地をもつ東尾張の領主たちこそ事の当事者であるため、彼らがこの軍事介入の中心となるのは本人たちの望みでもあった。『新修名古屋市史』は、安城合戦の時点で信秀と清洲守護代家が敵対関係にあったとしているが、それでも守護代方であるはずの那古野弥五郎が参戦していたのは、彼もまた西三河に買得地を所有していたからではなかっただろうか。
 池上氏がいう所領の分散性と零細性は、戦国期の武士たちの動向を根底から規定していたと考えられる。そして所領がなぜそのように分散し零細になるのかの答えは、その多くが買得地であったからというのが私の考えである。こうした所領の分散性と零細性が何をもたらすかについて、池上氏は次のように述べている。

 所領が零細で各地に分散していれば、家臣がすべての所領に住んで直接支配を行い、年貢等を収納することはできない。百姓は一人の領主の支配下に入るとは限らず、幾人もの領主の所領に耕地を所持する場合が多くなる。そうすれば、百姓を人格的に従属させたり、村全体を支配下におくことはできなくなる。各家臣にとって各地の自分の所領の実態を把握することも、所領支配を個人の力で全うすることもほとんど不可能になる。とすれば、家臣共通の課題を領国規模で解決する政策が大名によって打ち出されなければならない。
(『戦国の群像』)

 池上氏は「所領に住んで直接支配を行い、年貢等を収納することはできない」とか、「百姓を人格的に従属させたり、村全体を支配下におくことはできなくなる」という言い方をしているが、これからするとここで池上氏は買得地よりは給恩地を念頭においているように思える。例えば伊勢の北畠氏が大和国宇陀郡の国人沢氏に与えた給恩地である神戸(かんべ)六郷(三重県松坂市)は、「北畠氏の一族坂内(さかない)氏や大北氏、下村氏などの所領があり、寺庵領も多く点在して、それぞれが年貢を徴収する権限をもっていた」という。このように給恩地にも所領の分散性や零細性は見られたであろうが、やはりそれがより顕著にあらわれるのは、土地そのものとは分離していくらでも細分化され転売される買得地になるであろう。この買得地については、徳政との関係等について今後焦点を当てていかねばならないが、ひとまずそれが領地の分散性と零細性に深く関連し、領主そして戦国大名の戦いが引き起こる根本原因となっていたことを押さえておきたいと思う。
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 上の図1は、買得地を念頭におかない場合の所領空間を表現したものである。先に触れた上和田城の松平忠倫、桜井城の松平清定、岩崎城の丹羽氏清、そして沓掛城の近藤景春の所領をイメージしたもので、実際の彼らの所領を跡付けたものではない。図2は、買得地の分散性と零細性をイメージしたもので、松平忠倫や清定が尾張に所領をもっていたとなると、こんな分布をしていたのではないとの想像である。また丹羽氏清が横根や大府に買得地を所持していた等の距離感については、正しく表現してある。
 
 先に丹羽氏が今川義元から知行安堵を受けた書状に、「前々売地等の事、今度一変の上は、只今その沙汰に及ばず、これを所務せしむべし」と書かれてると述べた。義元がここで言わんとしていることは、次のようなことになるだろう。
 前々からの売地の問題であるが、この度安堵見直しをかける以上は、今に至って過去の取り決めは無効となるので、あなたがこれを知行しなさい。
 義元が「今度一変の上は」と言っているのは、前年の天文十八年に西三河の安城城が陥落し、西三河から織田方の勢力が一掃されたことを受けているように思う。この信秀の安城における敗戦は尾張東部の勢力図にも大きな影響を与え、この地域に義元の安堵が知行保障となる契機が生まれていたのである。鳴海城、大高城、沓掛城が織田方から今川方となったのは、一般に織田信秀が死去した天文二十二年ごろだと考えられているが、沓掛城の近藤景春について「彼は味方に属す」と書かれていることから、この天文十九年には既に今川に属していたのかも知れない。
 また「只今その沙汰に及ばず」という箇所は、信秀が与えていた安堵の無効を宣言したものと考えられ、あらたにこの地域の安全保障をしている義元が、その判断で安堵の見直しをしていることを示す。そしてこの背景には、知行地の帰属をめぐる領主間の対立・争論があることが窺える。ここで義元が示したことは、今川に対する貢献度を基準として安堵を認めたように受け取れるのである。このようにその所領が誰に帰属するのかが、中世を通じて争われてきたわけで、横領・譲渡・質取り・売買など帰属が錯綜・混乱する動きが激しく展開していた。そして恒常的に発生する所領の帰属問題が集中的に現れるのが、上記所領分類の②荘園領主と百姓の仲介の中から獲得していった加地子得分と、④加地子を中心とした買得地なのである。そして一般に②と④の帰属紛争を解決する基準が、「当知行」と言われるものである。

2/2へ続く
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by mizuno_clan | 2009-03-08 14:54 | ☆談義(自由討論)

本会開設一周年

  昨日辺りから寒の戻りで、また寒くなってきましたが、年度末でもあり、みな様は諸事ご多忙のことと存じます。
本日3月3日は、桃の節句と同時に、水野氏史研究会の「開設一周年記念日」となります。
一昨日発表した前3ヶ月間の「水野氏史研究会ブログへの第4回アクセス解析」でも触れましたが、この一年間で
本ブログにアクセスされた、ユニーク・ユーザー数は4,791 ip 、ページ・ビュー数は10,819 pv と順調に伸張し
てきております。これも偏に会員各位、協力支援者各位、ゲスト諸賢からの温かいご支援があってこそと、ここに
改めて感謝申し上げます。これからも、本会をどうかよろしくお願いいたします。

                                              研究会事務局

● この度、一周年を期に、スキン(画面表示のデザイン)を、従来のものより幅広のものに変更してみました。
 これに伴い、コメント欄も大きく見やすくなったと思いますがいかがでしょうか。ご意見ご感想などをお寄せ下さい。

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by mizuno_clan | 2009-03-03 11:08 | Information

アクセス解析 No.4

●2008年12月から2009年2月まで、3ヶ月間の「水野氏史研究会ブログへの第4回アクセス解析」を発表いたします。
一般の研究会では年に数回「会誌」を発行しておりますが、本会では当面その発行の予定はないことから、会誌の発行部数を公表する事は出来ません。従って本ブログへのアクセス状況(ユニーク・ユーザー数)をご報告する事により、変則的な方法ですが会誌の発行部数に代替させていただきます。
※本ブログに設置している「カウンターの数値」は、途中で開設したものであり下記の数値とは異なります。


                                               研究会事務局


【エキサイトブログ・レポートの集計データ】 更新2009.03.01

▼2008.12.1~2009.2.28 までの“ユニーク・ユーザー数”
合計   1,671 ip (前回比 141.1%)

前計   3,069 ip
累計  4,740 ip
 ※ユニーク・ユーザー【unique user】数とは、ブログにアクセスされた接続ホスト数をユニーク(同じ物が他にないの意)な訪問者の数として日毎に集計している。つまり同一人物が1日に数回アクセスしても、最初の1回のみがカウントされる。この集計基準は、ページ・ビューなどの基準に比べ判定方法が難しいが、実質訪問者数を示している事からサイトの人気度をより正確に反映できる。


▼2008.12.1~2009.2.28 までの“ページ・ビュー数”
合計  7,183 pv (前回比198.0%)

前計   3,627 pv
累計 10,810 pv
※ページ・ビュー数【page view】(=表示画面閲覧数)の月別日計グラフを以下に掲載する。
通常、訪問者はサイト内の複数のページを閲覧するため、訪問者数(ビジット)よりもページビューのほうが数倍多くなる。



e0144936_15254100.gif2009.02 合計 2,601 pv



e0144936_1535896.gif2009.01 合計 2,732 pv



e0144936_1595828.gif2008.12 合計 1,850 pv


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by mizuno_clan | 2009-03-01 02:10 | アクセス解析