【講談1】水野氏と戦国談議(第十三回)

当知行・当事案(4)
-共生としての「当」-

                                                          談議:江畑英郷

 前回、荘園制における「職の体系」について触れたが、そこでは本所職-領家職-預所職-下司職という土地分有の連なりがあった。そしてこの職は知行と同じ意味で、土地の用益権のことであった。これまで職そして知行は土地の所有権ではなく、土地の用益権であると何度も述べてきたのであるが、「所有」と「用益」の関係については曖昧であったように思う。職が所有権から分離した用益権であるにしても、重層的な連鎖がどうして可能なのか、またなぜこうした連鎖として現れるのかがよくわからない。そこで『中世・近世土地所有史の再構築』で、「職の分化」について述べられている次の箇所に注目したい。

 分化の過程については、所有権からの分化ではなく請負人の権利から分化したことが指摘された。(中略)その結果、現在では中世における「職」とは、請負関係の重層化にともなって生み出された処分可能な権利であり、それが中世を通じて売買されていたととらえられるようになってきている。
(同書-「中世・近世土地所有史の現在」長谷川裕子著)

 職の分化が従来は所有権から起こったと考えられていたようであるが、「所有」という概念には独占するという意味が強く含まれているので、この所有権が複雑に分化するというのはおよそ考えにくいことである。例えば、「自然を所有する」という表現が奇妙なのは、自然は独占することができないからであり、そこにあって誰に対しても開かれているもの、それが自然だからである。また独占の概念には、対象物をどのように利用し処分してもよいという意味が含まれるが、そこで所有から用益権と処分(売却など)権が派生することになる。したがって所有から用益権が分離することで、職の体系に流れていくことになるのであるが、土地の用益権を体系の各層がどのように使用したというのであろうか。用益権とてそのように分化しうるものであろうか、という疑問が起こる。
 最近の研究が明らかにしたことは、職の体系は「所有権からの分化ではなく請負人の権利から分化」し成立していったということである。請負関係であれば、本所から領家が請負い、領家から預所が請負い、預所から下司が請負いといった具合でそこに連鎖が生まれる。したがって、職の体系では用益権が重層化していたのではなく、土地を預かり年貢を納入する請負契約が重層化していたのである。
 このように中世荘園制では、実際に土地を用益していたのは耕作者であり、領家から下司までは本所と耕作者の間に入って請負仲介をしていたということになろう。それでは、このような年貢請負の連鎖が成立していった背景には何があるのだろうか。井原今朝男氏は、『中世の借金事情』の中で次のように述べている。

 諸国本所領や禁裏御料・将軍家御料所の年貢は、一定額に固定化され代官請負制にされた。そこでは、秋に納入される年貢予定額を担保にして、本所が春に借米や借銭として年貢米を先取りしてしまう方法が一般化した。これを「来納(らいのう)」といった。現地に不作や未進がどのくらいあろうと、一定額の年貢だけは、代官との請負契約が結ばれた春の時点で本所に前納させる。秋の収穫や百姓からの収納状態はすべて請負人である代官の責任に転嫁してしまう。

 この井原氏の指摘からすれば、天候不順による不作であろうと安定した年貢収納が確保できることをメリットとして、本所が代官請負制を採用していたことになる。そして本所から委託された領家も同様に、本所から転嫁された責任を下位職に請け負わせれば、本所への年貢と下位職からの収納差額を安定的に収めることができる。こうした委託に出すことのメリットと、社会上層の身分ある者の家政上の都合から代官請負制がとられたと井上氏は述べているのである。

 室町期荘園制では、年貢前納によって代官請負契約に貸借契約が組み込まれていることが時代的特徴になっている。それを北野社領の荘園についてみよう。
 延徳三年(一四九一)三月、北野社領の本所社家・松梅院禅予は、丹波国舟井(ふない)の年貢を質物にして七二貫五〇〇文(現価約七二〇万円余)を太田蔵人保定から借用する契約を結ぶことにした。(中略)太田保定を丹波国舟井の代官職に任命する旨の補任状を発行した。これに対して、代官の太田保定は借銭の利子取り決めのための副状をつくり「利平(りびょう)を加えざるの儀は、来る十一月中に御請取の旨にまかせて算用いたし申すべく候」と、年末の決算時点に利子も清算することにして本所に渡した。さらに、代官職を請け負った舟井荘内八カ村での盗み・犯罪人は社家の上使とともに裁判し科料(罰金)の半分は代官のものとするという条々を記載した請文を三月十七日付で作成して本所の社家に提示した(『北野社家日記』延徳三年三月二十三日条)。
 こうして北野神社の荘園領主は、ひとつの荘園からの年貢を担保にして七二〇万円余の借金を春先に行ない、借金の銭主を荘園の代官に任命した。室町期荘園制はこうした債務契約の上になりたっていた。

(『中世の借金事情』)

 ここで井原氏は、室町時代になると代官請負契約が荘園年貢を担保にした借金に変質していったことを指摘している。そしてこの借金の債権者を、担保とした荘園の代官に任命していたのだが、このことは領主が荘園領地を質に入れたようなものである。この契約が通常の質入と違う点は、代官に任命された銭主が自身で質物受け出しの代金(年貢)を徴収する点である。
 井原氏は同書で、「現代社会は商品を基本として売買を中心とする社会であるが、中世社会はむしろ借金に依存して、ものを質にいれて貸し借りでものを動かしていた質経済中心の社会であった」と述べている。通常の代官請負契約であれば、領主の側に誰に請け負わせるかのイニシアチブがあるが、荘園年貢を借金の担保にしていたとなると、領主側から請負契約の主導権が失われてしまったことであろう。そうなると、荘園領主にとっての荘園は自身の統治的な関与とは離れてしまい、単なる年貢徴収先に過ぎなくなり、領地との関係が形式的なものに落ち込んでしまう。
 
 前回、土地+住人+耕作の三位一体を保全することが領主=所有者の勤めであったと述べたが、そこでは土地所有とその用益(価値の活用)が分離してはいない。荘園における土地の直接的な用益者は耕作者であるが、荘園領主はこの耕作者を含めた包括的な荘園経営をおこなっていたのであり、経営=統治を通して土地の用益者でもあったわけである。
 所有という概念には、そのものが誰に帰属するかが社会的に認定されているという側面と、そのものを手許で活用しているという側面があると考えられる。自然的な所有においては、この所有認定とものの活用が一体のものであるが、所有物が資本として扱われると、所有認定とそのものの活用が分離される。例えば、工場という設備と原材料は資本家の所有物であるが、それを使って実際に生産するのは工場労働者である。資本家の所有物である工場と原材料が彼の手から離れて、生産関係に投げ込まれるとそれは資本となり生産物となって返ってくる。このような資本所有においては、所有認定とそのものの活用が分離しているのであるが、所有認定が優勢の社会にあってはそのものの帰属は明白で、間違いなくそれは資本家の所有物なのである。
 荘園の統治者としてその所有者がふるまっていた時点では、認定された所有権とそのものの用益権はほぼ一体であったと考えられる。しかし代官請負制、さらには貸借に変質した代官請負制にあっては、土地の所有認定とその用益(耕作)は大きく乖離していった。そしてその結果として出現したのは、以下のような事態であったのである。

 これまで、時代の発展度を計る尺度として土地所有形態の分析がさかんに行われてきた。それは、個人の所有が確立する近代的な所有を前提に、そこへと至る過程を前近代社会で考えようとした作業であったともいえる。しかし、前近代社会では個人による排他的所有は確立せず、村共同体としての当知行が基本的な所有のあり方であった。そして、村の当知行のなかにあるのは、個人の土地占有であり、それは村の間接的共同所持といわれる村の管理下にある占有であった。したがって、その占有は最終的には村が差配するものである以上、所有権に高まるものではなく、その意味で前近代においては個人の所有は成立していなかったといえよう。従来の土地所有史は、こうした個人の占有を所有ととらえ、その歴史的変遷を発展段階的な視角から追及してきたところに問題があったといわざるをえない。
(『中世・近世土地所有史の再構築』-「中世・近世土地所有史の現在」長谷川裕子著)
 
 荘園の代官請負制は、最終的に村請をその到着点としたのである。本所から下司へと続く請負の連鎖は、結局その耕作の現場を終点とした。そしてその村請に、長谷川氏は「村の当知行」という言葉を当てている。年貢請負の連鎖が村請で終着したのは、村が年貢発生の原点だからである。実際に対象の土地があって、そこに人が住み、その住人が耕作をして収穫を得ている現場が村である。知行とは用益権のことであったが、村はまさに用益行使の現場なのである。ここに当知行=用益行使の現場が登場し、それ以上は連鎖しようもない終着点であったことが重要な点である。
 村においては、土地の用益としての耕作を耕作者個人が担っているが、それを長谷川氏は「個人の土地占有」という言い方で示している。しかしこの耕作者個人の土地占有=耕作は、「村の間接的共同所持といわれる村の管理下にある占有」だったのであり、集団によってその個々人の耕作が支えられていた。これは、かつての荘園領主の役割を村が引き受けて、主体的に土地+住人+耕作の三位一体を維持していたということである。
 土地に対する本来の用益とは、それを耕地として活用することである。そして「耕地」が成り立つためには単なる耕作行為だけでは不十分であり、「豊作・安穏を祈る祭祀、災の発生を防ぐための検断、再生産費用の農民への貸与、用水の管理など」が必要であると、村請の説明で勝俣鎮夫氏が述べていた。つまり、知行するとは単なる年貢収奪ではない。実際のところは、知行者が支援する勧農行為によって、耕作者だけではまっとうできない「耕地」の維持が実現されていたのであり、それこそが年貢収納の根拠であったわけである。
 このように、知行するとは年貢を収納することと、それを下支えする勧農行為という二面的で、両義的なものであったことに留意する必要がある。そして知行者の勧農を含めた耕作現場への関わりが、年貢貢納とともに勧農も請け負われる代官請負制によって希薄になったのである。井原氏はこの代官請負制を、「すべて請負人である代官の責任に転嫁してしまう」システムであると述べていたが、この勧農=土地+住人+耕作の三位一体への責任放棄こそが、知行者たちから知行を遠ざけた原因であったわけである。不知行は武家の実力占拠によって発生したのではなく、知行への主体的関わりを自ら停止して実態として不知行=責任放棄がすでに存在しており、そこに他者が割り込んだことでそれが顕在化したものである。知行者が耕地の守護者であったならば、どのような実力も勝手な占拠など実現させることは不可能なのである。
 知行者の責任転嫁でもあった代官請負制は、こうして耕作の現場である村に達した。そして土地の用益は耕作することであるが、その直接耕作と耕作を支える勧農を一手に村が引き受けることになったということは、用益のすべてを村が独占することになったということである。「村の当知行」は、耕作と勧農とが一体化しているという点において、知行の自己完結ということである。これによって用益は自立的な存在となり、より強い権利、力として社会に押し出されるようになる。前回、中世の土地において上級所有権と下級所有権が認められるようになっていったことをみたが、所有権は本来領主が独占しているはずのものである。それであるのに下級所有権というものが発生するのは、完結性を得た用益の事実が所有認定を引き寄せるようになったからだと考えられるのである。もともと領主的知行下において所有権と用益権はほぼ一体であったが、それが代官請負制によって分離していった。それが室町期に貸借へと変質することでこの分離が決定的なものとなり、やがて村において用益権は用益事実へと統合されたのである。そしてこの統合への運動は、村の用益権が所有権を引き寄せることで、所有権と用益へのさらなる一体化への流れとなり、下級所有権なるものを現出させたと考えられるのである。
 現代社会においては、所有の中核は所有権=所有認定であり、用益権はこの所有権から派生する。したがって所有権さえ確かであれば、用益権が遠く分離していようと何の問題も起こらない。このため現代社会では常に所有権が注目され、それが明確になっていることが社会の前提であるともいえる。このことからすると、中世社会の所有は、用益の側が所有権を引き寄せるなどの優越性を示しており、この倒置的な状況をみて所有の観念が未熟であったように評される場合がでてくるのである。長谷川氏は「前近代社会では個人の所有は成立していなかった」と述べているが、私はそれはむしろ所有権の希薄性ではないかと思っている。
 考えてみれば、所有権とは体制・制度・権力によって、人に対して土地の帰属関係がマッピングされたものである。したがって、そのマッピングを支えていた体制・制度・権力が崩壊すれば、この帰属関係のマッピング=所有認定=所有権が停止され、新たなマッピングが再構築されることになる。所領の没収と宛ておこないが武家政権の交代によって大々的に実施される場合がそれに当るが、その場合でも用益=耕作の現場は従来と大きく変わるものではない。所有認定=所有権は単なるマッピングであるために接続を引き換えればよいのであるが、用益の現場においては、現在の耕作者と土地との関係を切断して、どこかで待機している耕作者を連れてくるなどということがあろうはずもない。このことは、用益=耕作の現場が生産関係であるのに対して、所有認定=所有権が分配関係であることに由来するのであろう。所有権が社会の分配構造を表したものであるならば、それは体制・制度・権力に連動して変化する流動的なものであることになる。そして体制・制度・権力の転換がなくとも、それらによるマッピングの維持力がどれほど強固であったのかによっても、時の所有権は流動性を帯びることであろう。そうした社会おいては、必ずしも所有権が諸権利の源ではなく、それが明確であることが社会秩序の前提ともなっていない。中世の所有観念が曖昧で流動的という場合に、我々は現代社会における所有権の優越性を前提にしその尺度で中世のそれを捉えている。しかしながら当の中世社会では、所有権というものが今日のようには強固な観念ではなく、より希薄なものでしかなかったのではないだろうか。現代を尺度とした視点から離れてみれば、所有権がなぜそれほどの優越性を与えられるのか、そのことは決して自明なことではないのである。次回はその点を踏まえて、所有権というものを掘り下げて考えてみたいと思う。

 『日本史辞典』(角川書店)の「知行」という項目には、「平安中期ごろには土地の用益権が分離して、これらを領掌・領知するといい、平安末期に用益権を意味する職(しき)が成立すると、この職の行使事実を知行というようになった」と記載されていた。この「知行」という独特の用語は、所有権から分離していながら独自の社会的な重さをもった用益権であり、職という重層化した権利として表現されるものである。そうした意味では「知行」は権利なのであるが、一方で「職の行使事実」であるとも書かれている。権利の行使事実という意味では、「当」という用語がそれにあたるのであるが、それからすると「知行」という用語は初めから「当」を含んでおり、「当」+「知行」ではなく、「(当)知行」だったということになる。
 こうしてみると、権利があれば行使するのが普通であるが、中世の権利行使はまっとうすることへの妨げが常に意識されていたのだろうか。荘園制における所有=統治や「村の当知行」などからみて取れたことは、権利(獲得に対する社会的な認定)だけでは実際成り立たないのが中世社会であるということである。土地に対する権利であるならば、それが益をもたらすのは土地が「耕地」として働いた場合であり、その働きを維持した上でその益を獲得することができるということになる。何もしない権利の保持だけで利益をえることはできないのであり、権利の行使とは単に認定を振り回すことではないのである。そうなると知行=職の行使事実とは用益の現場に主体的に関わることになり、「当」の内包とはこのことを意味するように思えるのである。
 このように、権利対象への主体的かかわり抜きでは権利が維持できないのが中世社会であり、「当」とはこのことを表明・強調するための用語なのではないだろうか。したがって「当知行」とは、「これは実力で占拠しているのだからおれのものだ」という所有表明ではなく、「これの成り立ちを支えているのはこの私だ」という共生表明なのである。そして中世の所有観念には、権利であることの前に、その対象との共生、「もの」との本源的なつながりが内包されており、「当」という用語はまたその本源性への回帰を表す言葉でもあったということではないだろうか。
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by mizuno_clan | 2009-04-26 12:43 | ☆談義(自由討論)

【Event】 於大まつり(おだいまつり)参加報告

「於大まつりに参加」 
   平成21年4月18日(土曜日) 愛知県東浦町主催

 予告していた「於大まつり」に本日参加してきましたので会員各位にご報告します。
早朝出発し、小河水野家菩提寺の乾坤院に7時30分頃到着。鬱蒼とした新緑の木々を背景に、静まりかえった境内に入り本堂で参拝した後、緋毛氈の敷かれた縁台に腰掛けて伽藍を眺めると心が落ちつく。
8時を廻ると和服姿の婦人達がお茶席の用意を始めた。三々五々人が集まり始め、「東浦ふるさとガイド協会」のボランティアの案内役さん達も、背に抱き沢瀉 の寺紋を染めた揃いの法被姿でスタンバイ。「郷土資料館うのはな館」の学芸員さん達も町指定文化財である「堅雄堂」の拝観準備を始めた。この堂は水野忠政の墓である六角宝塔の東にあり、忠政の曾孫で岡崎城主となった水野忠善が、忠政の戒名「大渓堅雄大禅定門」に因んで「堅雄堂」と名付け、忠政と忠善の座像を安置した。この堂の棟札には「吾に功徳なく、一に先祖に任す」と書いており、その後水野家の位牌堂として歴代の水野一族の位牌が祀られている。掲載写真はご開帳された座像を、許可を得て撮影したものである。
この六角宝塔南一段下には、忠守、忠元、忠善の三基の五輪塔があり、いずれも忠善の追善と逆修(生前に自らの仏事をする)とで建立したものである。
 乾坤院の東の丘陵に「小川(緒川)城主三代之墓所」と陰刻された案内石碑があり、その奥には、中央が初代貞守、向かって左が二代賢正(かたまさ)、向かって右は三代清忠の墓が祀られている。この墓所は初めて参拝した。
 丘陵を南に下り、八重桜が満開の明徳寺川左岸を練り歩く「於大行列・水野家行列」を見学する。行列に着いて歩き、やがて於大公園ステージに到着。記念撮影があり、その後主催者と来賓の挨拶がステージ上で行われた。
撮影前後に、東浦町の役員さん、東浦町議会議長、そして東京から26、7名の多勢で参加された於大の方の菩提寺である「傳通院(でんづういん)」のご住職を始めとした関係者、さらには、阿久比町町長、東浦町長に、名刺をお渡しし、じっくりと「水野氏史研究会」のご案内とPRをしてきたので、ここはしっかりとご報告しておきたいところである。  (^o^)


 掲載写真は、全て水野青鷺が撮影したものである。

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by mizuno_clan | 2009-04-18 17:06 | Event-2(諸事)

【Event】 於大まつり(おだいまつり)

「於大まつり(おだいまつり)」 
平成21年4月18日(土曜日) 予備日19日(日曜日) 愛知県東浦町

愛知県東浦町ウェブページ

 水野忠政の娘で徳川家康の生母「於大の方」を顕彰する、恒例のおまつりが本年も
下記の要領で開催されますので、お知らせいたします。


  愛知県東浦町の中央部を東西に流れる明徳寺川沿いに、この地で生まれた徳川家康
の母「於大の方(おだいのかた)」をモチーフに 彼女の生涯を象徴する広場や於大の方の
夜着をイメージした模様をほどこした散策道があります。
両岸には約400本の八重桜が植えられ、この八重桜の咲く4月下旬に、於大行列(おだい
ぎょうれつ)などを行う「於大まつり(おだいまつり)」が開催されます。 

【主な催し】
●於大行列(おだいぎょうれつ)・水野家行列   午前10時~  
 中央図書館から明徳寺川の左岸を歩いて、於大公園(おだいこうえん)ステージまで。
 健康づくりのグループ、小学生のバトン・鼓笛隊も参加します。

●於大公園(おだいこうえん)ステージ   午前10時20分~午後3時15分
 各種イベントショー等

●花の無料配布

●物産展・食べ物コーナー

●新城市の物産、東浦町の特産などを販売。

●乾坤院(けんこんいん)
 お茶席  午前10時~午後3時
 町指定文化財特別公開  午前9時~午後2時 (説明あり)

●於大のみち桜のライトアップ
 場所  図書館~坊主橋(明徳寺川左岸)
 期間  4月11日~4月19日
 時間  午後6時30分~午後9時


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by mizuno_clan | 2009-04-17 07:37 | Event-2(諸事)