【談議1】水野氏と戦国談議(第十六回)補足

                                                          談議:江畑英郷
 「貸借と売買(インセスト・タブーと永代売)」に対して、高村氏より「後北条氏は10~20本の竹徴発を村に対して行なっております」とのご指摘をいただいた。これについては、戦国期に軍需物資調達のために、そうした本数の竹割当などがあったのかと理解を深めた次第であるが、この礼状の要点について本文中で言葉が足りなかったと思うのでここで補足しておきたい。
 まず『織田信長文書の研究』における奥野氏の解説に、「竹は軍需資材にもなる。八月十六日に坂井大膳と甚助らを攻撃した軍事行動に関係があるとも考えられよう」とあり、この礼状は軍事物資調達に関わることを示唆している。高村氏のご指摘も「竹徴発」とあるので同様の観点のようであるが、よく考えてみるとその理解には問題があると思われる。
 信長が何百本、あるいは何千本の竹を軍需として必要としたかわからないが、浅井源五郎の二十本はその割当の一部だったとすると、その割当該当者に信長がいちいち所望し、そして礼状を一枚ずつ出すのであろうか。そうであるよりも、そうした軍需物資の具体的調達は、領主のもとに置かれた奉行なりの役目というのが理解しやすい。高村氏は「竹徴発」と書いていたが、軍事的な調達であれば確かに領主の所望ではなく、領地に対する組織的な徴発行為であろう。だが、「竹の事を申し候の処・・・祝着の至りに候」は、やはり信長個人が所望し贈呈されたことへの礼の言葉と受け取るのが妥当だと思うのである。つまりこの書状は、大量の軍需物資調達に絡むものとしてみるには無理があるということである。
 そうなると信長が個人的な頼みを浅井源五郎にしたことになり、望んだのは二十本程度の竹であったことになる。しかし「10~20本の竹徴発を村に対して」命じることが可能ならば、信長の直轄領からいくらでも手に入るはずで、わざわざ浅井源五郎に頼む必要はないのである。したがって、不足しているのでもないわずかの竹をなぜ望んだのか、このところが奇妙だと言いたいのである。そしてこの奇妙さを表現するならば、竹二十本が欲しかったのではなく、何でもよいから浅井源五郎から贈り物が欲しかった、ということになるのではないだろうか。
 たぶん世の中はそろそろ、お中元の時期なのではないだろうか。この慣習は、ルーチンワークのように欲しくもないものを贈呈する行為(言い過ぎだろうか)であり、贈呈の中身はある意味どうでもよく、贈ること自体に意味があるようだ。ずっと不思議で無意味な因習かと思っていたが、レヴィ・ストロースを読んで考えが変わった(だが行為としてはついていけていない)。ことによると年賀状もそうしたものかもしれないが、行為としてついていけていないのは同様である。日本以外の国でも、このような贈答行為が広くみられるのだろうか。どなたかご存知でしたら、教えてください。
 ところで、信長が浅井源五郎に贈り物を無心したというのは、誰でもプレゼントを欲しがるといった心理から出たものであろうか。しかし世の中には、「タダほど高いものはない」という言葉もある。この言葉の含蓄は、「タダというものは実のところ反対給付の心理に訴える狡猾な手法である」ということかもしれない。贈与によって反対給付が生まれることで、つまり贈与が返されることで、それは交換と同じようなものだと思うかもしれない。確かに物の次元では、交換が時間的にズレているに過ぎないともいえる。しかし多くの場合、贈与には反対給付の期待があるのではなく、「親愛」とか「好意」とか「挨拶」などの思いが込められているものである。すでにこのことによって、贈与は相手との関係構築を始発から志向しているもので、「交換」にはない心的・精神的次元が存在するのである。

 信長は「何でもよいから浅井源五郎から贈り物が欲しかった」という理解を別に表現すれば、「信長は浅井源五郎に借りをつくりたかった」ということになるだろう。それをさらに換言すれば、「信長は浅井源五郎の好意が欲しかった」ということになる。したがって贈り物の質や量が問題であったのではなく、浅井源五郎とのより強固な関係構築が望みだったということになるだろう。それは「大名権力として弱体だったため」誰であろうと味方にしたかったというものではなく、浅井源五郎を指定しての関係強化の要請だったように思う。なぜならば、地であったのか意図的であったかは別にして、「大うつけ」と評され周囲から白眼視されていた信長が、自らの権力の弱さを理由に周囲に擦り寄ったとは考えにくいからである。
 「信長は浅井源五郎に借りをつくりたかった」という「借り」であるが、これは貸借の「借り」とどのような関係にあるのだろうか。この礼状は貸借ではなく贈与に対する礼状と受け取っているのであるから、物の「借り」のことではない。竹を贈与してもらうことで心理的・意識的、そして人間関係において「借り」をつくるということである。それは債務意識などと考えるべきではなく、「借り」は相手との紐帯の表象なのである。信長はこの贈与の一件で浅井源五郎に負い目を感じたのではなく、相手から好意と繋がりを獲得したのである。こうした「借り」の視点で貸借を考えてみると、物の所有権の次元では贈与と貸借は明らかに異なるが、その行為の当事者の心理・意識、実感においてはこの両者は同質のものと考えることができる。そして中世・戦国期の「貸借」とは、市場経済における貸借・債権債務ではなく、「借り」の世界に属する事柄だったのではないだろうかと、本編で言いたかったのである。
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by mizuno_clan | 2009-06-24 23:15 | ☆談義(自由討論)

【談議1】水野氏と戦国談議(第十六回)

貸借と売買(インセスト・タブーと永代売)
                                                          談議:江畑英郷

 勝俣鎮夫氏はその著書『戦国時代論』の中で、「現在残されている中世の厖大な量の土地売券の主たるものは、名主職などの農民の所有する土地の用益・耕作の事実と不可分の関係にある職の売券であって、これらの売券からは直接土地そのものを売ったのか、職にもとづくその土地からの一定の収益のみを売ったのか弁別しがたい面がある」と述べている。一口に土地の売買といっても、現代の不動産売買を念頭において考えていたのでは、この時代の実態を見誤ると勝俣氏は言いたいのではないだろうか。この時代、あるいはその後現代までも含めて、土地は社会の最重要基盤であった。特に農業は土地と不可分の関係にあり、食糧のみならず第一次産品の多くは農業が生み出していたのである。その基盤である土地が売買という経済行為の中に投げ込まれ、社会を支える生産活動とは別の次元で時代を動かしていた。
 戦国時代は武士たちが所領の争奪を全国的に激しく展開した時代であるという認識があるが、所領すなはち土地・耕地は経済的な売買活動によってこれまた激しく揺れ動いていたのである。食糧や各種の原材料を生み出す土地は、農民による耕作の対象であり、武士たちの争奪の対象であり、売買の対象でもありと多様であるが、土地売買自体もさらに多義的であると勝俣氏は主張するのである。

 通常、作人の改替権を合む土地所有権の売買と、売主が作人として土地の耕作を継続し、その職からの収益権を買主が買う売買との二形態があり、中世後期農民的職の成立にともなって後者が一般的な形態となったとされている。当時の土地売却主体である農民にとって、その作成した売券の記載から、両者はともに同じく土地の売買と考えられていたことは間違いないが、にもかかわらず、現代的観点からいえば、厳密にその売却対象は、職の売買・土地の売買と区分する必要があるであろう。
 近江の戦国大名浅井氏が一五五一(天文二十)年に出した徳政令(菅浦文書)は、永代売田畠を徳政令の対象としていないが、その第七条に「一職は永代売券たりといえども、五年以来は棄破有るべし」と、五年以内に売った永代売却地の売主への返還を定めている。この例外事例の承認は、この売却対象が「一職田畠」であることにもとづくものであり、この「一職田畠」とは、この条文のなかで売買にともなう耕作の交替の問題を定めているから、現実に占有し耕作する所持田畠と規定できる。このように「一職田畠」を解するならば、この徳政令で一般的に対象とされている売買田畠は、職にもとづく収益権であって、その永代売は徳政令の対象とならなかったことが判明する。そして、耕作・用益の事実にもとづく所持田畠のみが、五年以内の売却という時間的限定をつけられながらも、本主に返還されたのであり、ここでは、職の売買と所持田畠の売買の相違を明確に区分していることが知られる。(中略)この徳政令で永代売田畠が戻らないことを原則としているのは、同じくこれらの売買対象が収益権として動産的性格をもつと考えられたためといえよう。これに対し、「一職田畠」が永代売でも徳政令の対象になった理由は、それが土地そのものの売買であったためであることは確実であり、さきに見た売却地にはなおその元の所有者の本主権が残るという土地所有観にもとづくものであろう。

(『戦国時代論』)

 ここで勝俣氏は「農民」という言葉を使っているが、これは田畠の直接耕作者を指しているというよりも、作職保有者という意味で使われていると思われる。この作職については、一般的に次のように説明される。

 百姓の土地に対する権利が下級所有権、つまり「私領」として成立した。下級所有権は「作手・作職」と称されることが多いが、その名前が示すとおり、耕作権としての属性を本義としつつも、初発段階から地主制的な構造を内包する-つまり、別に直接耕作者を抱える-ことが少なくなかった。
(『中世・近世土地所有史の再構築』-中世後期における下級土地所有の特質と変遷 西谷正浩著)
 
 ここで勝俣氏は、「職の売買と所持田畠の売買の相違」が中世には明確に区別されていたと指摘している。そしてこの年貢収納権と土地そのものの売買の区別は、単に取引対象の質が異なるというだけではなく、徳政令の対象になるかならないかの違いでもあったという。「耕作・用益の事実にもとづく所持田畠」の売買は徳政の対象となり、「五年以来は棄破有るべし」であったが、職の売買については売買事実が認定され、売主に戻されることはなかったである。このことを言い換えると、永代売りとされた売買であっても「当知行」地は取り戻しが可能であるが、「当」に当らない知行権の売買は復帰されないということである。
 この職=知行権の売買と、現実に占有し耕作する所持田畠=当知行の売買との扱いの違いは、前者が動産的性格の売買と捉えられたのに対して、後者には不動産固有の所有観が背景にあり、それがために徳政において措置が分かれたというのである。この土地所有観について、勝俣氏は同書で次のように説明している。

 屋敷や田畠には、それを開発した人の血の汗が浸みて、死後もそこに魂がのこるという、開発したものこそ、その土地の本来の持主(本主)であり、その土地の所有が他家に移転してもそこに魂ののこる潜在的所有権があるという土地所有観念は、わが国のひとつの土地所有観念として、前近代をとおして一貫して流れるものであった。

 この談議の十三回では、「中世の所有観念には、権利であることの前に、その対象との共生、“もの”との本源的なつながりが内包されており、“当”という用語はまたその本源性への回帰を表す言葉でもあった」としたが、勝俣氏は土地と所有者の魂の通い合いという精神的次元をその観念の中に読み込んでいる。これはこれで売買によっても断ち切れない本主権の存在理由なのであろうが、やや呪術的色合いが強く、人によってはこれをもって中世所有観の後進性と受け取るかも知れない。そこで中世所有観念に対する、もう少し合理的な形成背景の説明を試みたいと思う。その第一歩は貸借と売買に関して考察することである。

 その売却は、質地にする売却、すなわち一定期間の占有権の譲渡であり、真の所有権は本主にあるという考え方にたつものであった。おそらく、この敷銭による土地売買こそ、わが国固有の本来的売買であったといえよう。そして、このような観念は、現実に土地を占有し土地を耕作・経営する人々に強く流れ、それが動産における所有権の移転をともなう売買観念が浸透し定着しても、なお土地においては売買と質入れとの区分をあいまいにし、また本銭返売・年季売などの特殊な土地売買形態を生みだしたといえる。
(『戦国時代論』)

 勝俣氏は、たとえ永代売買と明記してあっても所有権は本主から移転することはなく、質入と同義の実質をもつ取引であったと述べている。そして質地の質流れは、「質置人があらためて放状を出さないかぎり質は質でありつづけるのは定法」だったとしており、「質である以上、契約の約月にかかわりなく、質置人がこれを質であると認定して取戻そうとしたときは、いつでも請戻すことができ」たと述べている。質に質流れがないならば、それは永遠の貸借ということになる。第十四回「中世アナーキーのパラドックス」では、土豪と村人の間の「融通」について考察してみたが、こうしてみると土地そのものは貸借の対象とはなっても売買の対象とはならないという原則が中世を貫いていたように思える。土地という中世における最大の社会基盤は、貸借されることで社会の潤滑を促していたということであろうが、どうして貸借が売買に優越したのであろうか。

 ところで、信長の日常を伝える次のような史料があるが、少し寄り道をしてこの礼状について考察してみたい。

 竹の事を申し候の処、弐十本給い候、祝着の至りに候、猶浄□申すべく候間、省略候、恐々謹言、
                                 三郎
   七月廿八日                         信長(花押)
   浅井源五郎殿


 この史料は、所望された竹を浅井源五郎が快く譲ってくれたことに対する信長の礼状である。この何の変哲もない礼状を見たとき、実はふと違和感を覚えたのであるが、それは所望の対象が竹二十本であったことにある。この礼状に年の記載はないが、『織田信長文書の研究』(奥野高広著)では年次を天文二十一年としている。この年は信長の父信秀が死去したと一般に考えられ、信長は弾正忠家の家督を継いで那古野城にいた。
 この礼状に対する『織田信長文書の研究』における奥野氏の解説は次の通りである。

 信長が三郎と称したことを確証できる古文書である。この花押の形状は七号文書と同じである。浅井氏は、いまの名古屋市熱田の豪族であろう。源五郎は浅井氏七代の充秀である。竹を求めたところ二十本を提供されたについての礼状である。竹は軍需資材にもなる。八月十六日に坂井大膳と甚助らを攻撃した軍事行動に関係があるとも考えられよう(『信長公記』)。信長の父備後守信秀も浅井藤次に対して大竹十本を贈られた礼状を与えている(『浅井文書』)。

 ここで奥野氏は、信長が「三郎」であったことがこの礼状から確認できることを重視しているが、それ以外にこの礼状は特に言及することはないとみている。「竹」については軍需物資であったということで、信長が軍需の必要から調達したと受け取っているようだ。この礼状の文面からすると、どうやら相手の好意によるもので何か売買があったようには思われない。贈呈ということであれば二十本というのは別におかしくもないのであるが、それが清洲の守護代との緊迫した情勢下の軍需調達に絡むとするならば、あまりにささやかな贈り物ではないだろうか。
 大名や領主はこの時代、相手から頼まれて制札を与えることが度々あったが、その中に「竹木を切ってはならぬ」という文言が意外に多く含まれている。これからすれば竹木は、確かに現地での軍需に諸々役立っていたようであるが、信長は別にどこかへ出陣して急に竹が入用になったというのでもなさそうである。「竹の事を申し候の処」という表現は、何かのついでに話題になったというニュアンスである。信長が「竹が少々不足してな」などと口にしたということであろうか。それを聞いた浅井源五郎が気を利かせて竹を都合したのであろうが、それが二十本とはいかにも少なすぎると思うのである。二十本の竹の不足に信長が頭を痛めていたとは到底考えられないことで、なぜ「竹の事を申し候」だったのかが妙にひっかかるのである。
 また奥野氏の解説によれば、信秀のときは十本という贈呈もあったというが、これはさらに数が少なく、そういうものかと思えば素通りしてしまうのであるが、尾張随一の実力者に対する贈呈品としては奇妙なほど過少である。そこで信長や信秀への贈り物がただの竹十本二十本であったことに少しこだわって、以下でその理由について考えてみたい。

 文化人類学者のクロード・レヴィ・ストロースは構造主義のエース的存在であるが、彼の最初の業績は親族の基本構造を分析することで始まった。

 親族の基本単位は資源的でありかつこれ以上分割しえない。それはこの基本単位こそ、世界中すべての場所に観察される、近親相姦の禁止の直接的な結果だからである。
(『構造人類学』クロード・レヴィ・ストロース著)

 インセスト・タブー(近親婚の禁止)は、人類社会に普遍的に存在する唯一の規則であるとされるが、それが何のために存在するのかについてのレヴイ・ストロースの考えは次のようなものである。

 レヴィ・ストロースは、インセスト・タブーとは、自集団の女性を他集団へ贈与せよという「交換の命令」なのだという。姉妹や娘といった自分たちの集団のなかの女性との生殖行為を禁止するこの規則は、それら近親の女性たちとの性行為による自集団の再生産を放棄する規則である。つまり、それは、わざわざ自集団に、生殖行為をする相手の女性の「欠如」を作り出して、自集団の再生産を他集団からの女性の贈与に依存せざるをえなくする規則なのである。しかし、自集団の女性たちを他集団に譲渡することを命令するこの規則は、同時に、他集団が譲渡せざるをえない女性たちを自分たちが獲得できるようにしてくれる。つまり、この規則は互酬性を生成する規則なのだ。
(『レヴィ=ストロース入門』小田亮著)

 今日、インセスト・タブーが存在する理由に対する通俗的な理解では、血族結婚のもたらす優生学的・遺伝学的な弊害にあるとする。しかしそうした遺伝的な弊害を意識した古代の記録は存在せず、また現代においてもこの弊害は証明されていないという。古代から存在しているがために、この社会ルールの存在は現代科学では説明できず、また現代においても遺伝的弊害説は推測に過ぎないのである。人類社会の普遍的なルールとなっているインセスト・タブーは、社会集団によって近親の定義が様々であるが、レヴィ・ストロースは構造主義の手法を使ってそこに一貫した構造を取り出してみせた。それは女性は近親者ではない他人から与えられるものであるという自戒であり、その自戒によって集団間で女性の相互贈与(交換)が繰り返されるというものである。

 重要なのは、この社会にとって原初的な互酬的交換は、自律した主体に欠如があって、それを補うために主体が合理的に計算しながら他の主体と交換を行なうといった経済的な交換ではないということである。そのような経済的な交換では、同じものを交換しあうことなどありえない。それは何の経済的利益ももたらさない。しかし、インセスト・タブーによって生成されるこの互酬的贈与交換は、女性を譲渡し女性を獲得する、「同種のものの交換」である。そして、社会を生成する互酬的な交換は、このような同種のものの交換であり、「交換のための交換」(関係をつくるためだけの交換)なのである。そのことを理解しないために、他の人類学者たちは、それを女性と婚資(妻の貰い手から妻の与えてに支払う財)との交換、つまり牛などの財で女性を「購買」する交換と捉えてしまっているが、そのような交換では社会的連帯を作ることができないのである。
(『レヴィ=ストロース入門』)

 「関係をつくるためだけの交換」がインセスト・タブーが志向するものであり、それによって「社会的連帯」が作り出されているという。ここで「交換」という言葉が使われているが、集団が女性を同時に交換しているのではない。インセスト・タブーが生み出す交換は実際には時間的にズレた交換であり、それは「贈与の応酬」に他ならない。そして同種の交換なのだから交換自体には意味がなく、それによって集団間の関係が構築され、その関係が維持されることにこそ意味があるのである。

 贈与というものは、それを受けたことで生じる不均衡を回復させようとする力を引き出す。しかも反対給付として贈与が返されることで均衡が回復されるのではなく、それが再び反対給付を生み出すといった循環となる。インセスト・タブーが単なる交換ではなく、「贈与」である理由がここにある。贈与をするのも受けるのも、互いに紐帯が継続することを承知の上のことなのである。そしてこの紐帯は形が曖昧で、ある種の際限のなさの中にあるものである。
 信長や信秀に贈呈されたただの竹十本ないし二十本は、軍需的効果も経済的効果もそこにあったとは考えがたい。それは贈呈側と信長や信秀の間に継続していた紐帯の断片なのである。贈呈側の浅井源五郎は熱田の須賀浅井家の当主であるが、『新修名古屋市史』では充秀ではなく玄秀だと書いている。いずれにしても浅井源五郎は熱田の有力者である。織田弾正忠家と熱田との関わりは、織田信秀が天文七年に今川那古野氏から那古野城を奪い、ここに本拠を移してきたことに始まる。そしてその翌年、信秀は加藤延隆に諸役の免除・徳政や関所適用の免除を保障する書状を与えている。これをもって『新修名古屋市史』は、「天文七年の那古野城攻略後、信秀の勢力が熱田にまで及んできたことを示す史料」であると述べている。それ以来、信秀そして信長は熱田の有力者と深く結びつくのであるが、武家領主とその支配下の町という規定には収まり切らない関係がこの贈与に顕れているように思える。あまりに少ないただの竹の贈呈と、それを「祝着の至りに候」と受け取るやり取りに、漠として際限がなく、それでいて止みがたい関係が示されているのではないだろうか。

 さて、ここで戦国時代も含めた中世社会において、貸借が売買に優先したというのはなぜなのだろうかという問題に戻ろう。貸借と売買の違いの一つは何かと考えてみれば、それはその当事者間の関係がごく一時的なものであるか、それとも一定度継続的なものかの違いであろう。貸借においては、借り物が不要になるまで借主と貸主の関係が継続することになる。それに対して売買は、その取引の間だけの関係であり、売買が成立すれば両者を結びつけるものは何もない。
 貸借にせよ売買にせよ、必要な物の余剰と欠乏があるからそこに取引が成立するのであるが、その余剰と欠乏を結びつけるメカニズムは後になって出来上がってきた。そのメカニズムとしての商品市場が出現する前は、見知った者どうしの間で余剰と欠乏が出会い取引が為されていたはずである。そして既に関係が形成された者どうしの間に余剰と欠乏が生じた場合、先のレヴィ・ストロースの知見に習えば、持てる者から持たざる者への贈与がそこに現れるのではないだろうか。レヴィ・ストロースの知見を拡大すれば、社会には関係を築き継続させようとする無意識のメカニズムが常に働いているということになる。そして関係とは静的に結ばれた線といったものではなく、絶えず互いの間を循環させるようなものということである。すなはち、余剰と欠乏の間を循環させることが社会の関係の根本でもあるが、循環そのものに意味があるとするならばそれは贈与となるはずなのである。
 関係が形成された者どうしの間で余剰と欠乏が生じた場合、反対給付を強く促し関係を継続強化させる贈与が為されるのはごく自然なことのように思われる。最も関係が深い親子兄弟の間などでは特にそうであろう。無償の貸借はこれに次ぐもので、貸借期間中は貸主と借主に貸借物を介した特別の関係が形成されるし、返却後も贈与のような不均衡回復の力が働くことであろう。そして有償貸借は、一種の反対給付を含んだものとして理解することが可能である。このように贈与と貸借は既知の人間関係において、その関係継続と強化の流れに沿うものであるが、一方の売買は事情がまったく異なる。
 売買の本質は、取引当事者の関係を継続させないことにある。売買関係はその場限りに成立し、後くされがないのである。売買のおいては一切の取引以外の関係が捨象されるため、双方が自身の意志で純粋に交換をおこない、売る側・買う側ともイーブンの結果を得ることができる。贈与や貸借は反対給付を強く促すという不均衡関係を前提とするが、売買が売買であるのは双方が取引の前後において対等関係であることにある。レヴィ・ストロースの知見の核心は、人間関係は不均衡であればこそ循環して継続するが、対等・均衡であれば関係は継続しないという点にある。これは互いを引き合わせる力の所在の有無をいうのであって、原理的に対等・均衡にはそれがないと言っているのである。友人関係や恋愛関係は対等じゃないかと思うかもしれないが、相手に魅力を感じているというのはそこに不均衡があるということである。したがって売買は、対等取引であるがために関係継続の契機が存在せず、その場限りの関係に終るのである。
 こうして考えると、生存を共有する集団内部での贈与や貸借に対して、そうした既知の関係が成立していない離れた取引相手との余剰・欠乏を均衡させるための手段として、売買が登場したのではないかと思われる。あるいは既知の関係者どうしの間で、意図的に関係を切断した中で取引をおこなうために、売買という余剰・欠乏の均衡手段が成立していたように考えられるのである。濃密な関係においては贈与と貸借が余剰・欠乏の均衡手段として中核となるが、未知の関係、あるいは意図的に関係を遮断した場においては売買が中心となる。現代の市場貸借は「貸借」という言葉を使うが、無名の場である「市場」における貸借である限り売買と同質である。贈与と売買は所有権と使用権が同時に移転し、貸借は使用権のみが移転する。しかしその取引を為す主体関係に着目すると、贈与と貸借は既知の関係内取引であり、売買は関係不問の取引として規定できるのである。今日的な理解で言えば、取引とは所有権や使用権の移転交換と規定されるばかりで、その取引の当事者どうしの関係は捨象される。それは「取引」という言葉が、「市場取引」に限定された経済用語になってしまったからである。この談議の第十三回でも「融通」という概念を通して、村社会の中の紐帯とその継続への志向力を確認したが、市場経済が社会の中心に据えられていない時代、「取引」は誰が誰との間で行なうのかが重要だったのである。
 中世・戦国社会においてなぜ貸借が売買に優越するのか。その答えは、一切を捨象した権利の移転としてではなく、主体関係を軸にして取引が観念されていたからということになるだろう。そしてその主体関係は、生存の場を共有することに源泉があることによって、曖昧で多義的な性格を帯びている。したがって区切りを付けることには本来向いておらず、売買には適さないのである。取引主体の関係が曖昧で多義的なままということは、その取引以外の関係が混入するということであり、その取引だけを切り取って扱うことが難しいということである。例えば親子や兄弟関係であれば、「水くさい」などと言い出す場合があり、それで条件を明確して後くされがないようにするなどはまず無理なことだろう。そこで売買を成立させようと思えば、親子であるとか兄弟であるといった関係を捨て去る以外にない。しかしそれも難しいのが親子・兄弟の縁というものであるから、仮に「売買」だと称しても実態は貸借であったりするのである。「永代売」の文字があっても、実態は貸借であった中世・戦国期の取引は、それと類似したものであったと考えても無理はないようである。

補足記載へ
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by mizuno_clan | 2009-06-21 14:56 | ☆談義(自由討論)

【談議1】水野氏と戦国談議(第十五回)

人と地、そして質

                                                        談議:江畑英郷

 水野青鷺氏が投稿された『東粂原村と水野十郎左衛門成之』では、本談議の第十回で触れた所領の分散性と零細性に相応すると思われる「相給」の具体例が、水野十郎左衛門成之の知行地に示されていた。今回は、水野青鷺氏が追加で掲載した「遠江国佐野郡高御所村相給図」を出発点として、所領の根底にあって時代を既定していた力について考えてみたいと思う。
 この図には旗本城氏領、横須賀藩西尾氏領、旗本近藤氏領が描き込まれており、この高御所村ではこの三氏が「相給」状態にあったことが実にビジュアルに見てとれる。そして同一村で三氏、それも旗本と横須賀藩主とがそれぞれ知行を得ているのであるが、村全体がきれいに三分割されているわけではない。かといってまったくの混交状態といったわけでもなく、三氏の所領はあるまとまりのある分布となっている。
 図は南北が逆になっているが、南から北に二筋の河川が描かれている。またその両河川からは黒の細線がくねって延びているが、これは用水であろうか。さらに河川の東に二つの溜池らしきものがあり、所領の印は基本的にこの河川・用水・溜池に沿ったかたちで分布している。そして右の二つの河川に沿った一帯は横須賀藩西尾氏の所領となっており、あと二つの溜池の間が西尾氏所領の印となっている。一方で旗本城氏の所領は、西側の河川から延びる用水に沿って広がるものと、その隣河川の用水に沿って分布するもの、さらに西尾氏の所領を越えた先のやはり用水沿いに所領の印がある。そして旗本近藤氏のものは、東側の幅の広い河川から真東方向に延びる支流に沿って分布している。
 こうしてみると、この一帯でおそらく最初に開拓されたのが引水の便が良い二河川と二池の間の田畠であろう。真東に延びる支流沿いの田畠はやや分散的で東に長く分布する格好となっているため、二河川・二池近辺が開かれた後に耕地化したと考えられる。そして最後は用水をめぐらせて開拓した地域となったのではなかろうか。この三氏の所領は、こうして想定される耕地の開拓順と重ね合う分布を示しており、それからすると一村という枠組みの中にある三つの異なる経緯をもつ領域を分割知行しているのである。
 「遠江国佐野郡高御所村相給図」は横須賀藩主と二人の旗本の相給地を描いているが、相給が一村でありながら異なった結合を持つ三つの地縁から成り立っていることをこの図は教えるのである。知行地は地元における地縁に規定され、その布置をなぞるようにして宛て行なわれる。地縁というもの事態は自らその輪郭を顕わさないが、その地縁に吸引されたように成立する知行によって地縁が透けてみえているのである。

 水野十郎左衛門成之の知行地は、「久米原村領主変遷図」からすると、天領から水野家、そして不行状によって十郎左衛門成之が切腹させられた後は再び天領へ移り、その後三つに分かれることになった。知行地はこのように転々と変わるのであるが、田畠とそこに生きる百姓は変ることがない。

 やがて江戸時代になると、魚沼地方の人々は、
  ①御地頭は当分の儀、私共の儀は所末代の儀、  (南魚沼郡、寛永十八年=一六四一、県史近世)
  ②御地頭は当分の儀、百姓は永代の者、     (津南町、寛文十年=一六七〇、県史近世)
と冷やかにいい切っていました。①も②もじつによく似ていて、領主はすぐいなくなる転勤族(よそ者)だが、われわれ百姓はゆるぎない土着者だ、というのです。

(藤木久志著『戦国史をみる目』)

 「御地頭は当分の儀」であることと、「百姓は永代の者」という二項対立には、地頭と百姓では土地・耕地に対する関わりが根本的に違うのだという主張が込められている。この認識は、土地・耕地とそれをめぐる編成の主導権は永代の者にあるのであって、知行者は編成に口を出すべきではないという主張を秘めているように思われる。こうしたことが、「遠江国佐野郡高御所村相給図」に現れた相給の背後にあり、それは知行を宛て行う側の意図や都合によるものではないと考えるのである。一方で、「久米原村領主変遷図」では、十郎左衛門成之改易によって天領となっていたものが、その後三つに分割されている。このことは地元の編成によったというよりは、幕府側の意図が働いたように思え、近世が進むにつれて地元主導の編成にも領主の操作が入ることとなったのだろう。

 水野青鷺氏は、「本談議の給知の時代からは、かなり時代が降っており、本談議とは大きく離れ、殆ど関係ない」と気遣っておられるが、近年の動向は戦国期と近世初頭の連続性に対する指摘が拡がりをみせているように思う。特に戦国期と近世の転換点として太閤検地を位置づけるのが従来であったが、「概して近世初頭においては太閤検地なるものは、画期性を帯びて行われなかったことが明示された」(『中世・近世土地所有史の再構築』)といった見解が多く出されるようになってきている。
 ところで、『東粂原村と水野十郎左衛門成之』で取上げられた水野十郎左衛門成之は、江戸初期に旗本奴として名を馳せたのであるが、尾張知多郡小河の水野惣領家の系譜を引く人物である。成之の父勝成は刈谷城主であった水野忠重の長男であり、そしてこの忠重は小河の水野信元の弟で父は忠政ということである。そして旗本奴、かぶき者の十郎左衛門誕生のおよそ八十年前、当時「大うつけ」と呼ばれていた男が、知多の水野領における商人たちの保護措置を周囲に命じていた。天文二十一(1552)年三月に執り行われた父信秀の葬儀から半年ほど経った時点で、織田信長は次のような印判状を記している。

智多郡并に篠嶋の諸商人の当所守山往反の事は、国質・郷質・所質并に前々或は喧嘩、或は如何様の宿意の儀ありと雖も違乱あるべからず候、然らば敵味方を致すべからざるもの也、仍って状件の如し、
  天文廿壱
   十月十二日                         信長(花押)
    大森平右衛門尉殿


 (知多郡と篠嶋の諸商人が守山を往来するに当たっては、国質・郷質・所質や前々からの喧嘩、あるいはどのような宿意があるからといって、これを妨げ騒動を起こすことがあってはならない。これに従うならば、敵味方分かれて争うようなことにはならない)

 この史料については、『織田信長文書の研究』(奥野高広著)に次のような解説がある。

 「知多郡」と篠嶋(知多湾上の島。面積七平方粁。漁業の島)の商人が守山(名古屋市守山区)に往来するについての自由を保証した判物である。国質・郷質・所質(くにじち・ごうじち・ところじち)についてはまだ明確な解釈がついていないけれども、貸借関係で債権者が債務の弁済をもとめることができない場合には質物を取上げるとの契約のことのようである。それらの違乱を禁じ、もちろん敵味方の戦いをしてはならないとした。大森平右衛門尉は、今の守山区大森の出身で、信長の「知多郡」の郡代であったろう。

 判物中に「当所守山往反の事」とあるが、この「当所」は大森平右衛門が守山に在住していることを前提に挿入されたと理解させるので、大森が知多の郡代であるというのは頷けない。また知多郡には水野氏の勢力が大きく伸びており、弾正忠家がこの地に郡代を置くような立場にもなかったように思う。当時の状況からすれば、知多郡内における商人の通行保証は水野氏が行なうべき領分であり、知多郡を抜けて北に向かい当時市域として発展していた守山への通行に関する保護措置として受け取るのが妥当ではないだろうか。この判物が出された二年後、この守山の地を領する信長の伯父信光と信長は、小河城の北二キロメートルほどの村木に構築された今川方の砦を攻略することになる。この判物にそれと名前は出ていないが、信長、信光、信元の三者を結びつける兆候を帯びているようで興味深い。

 さて、この判物で注目したいのは、奥野氏が「まだ明確な解釈がついていない」とした「国質・郷質・所質」についてである。実はその後、この「国質・郷質・所質」については明確な解釈が与えられている。

 勝俣鎮夫は、従来の研究史で諸説紛々として定まらなかった「国質・郷質」なる中世用語について、初めて明快な理解を示した。それによると「国質とは、債権・債務関係において、債務者が債権者の負債返還要求に応じなかった際、債権者がその損害賠償を求めて、債務者の同国人又は同国人の動産を差押さえる行為で、郷質とは同じく、債務者と同郷の者又は同郷の者の動産を私的に差押える行為」にほかならない。
 この場合の同国・同郷とは律令制以来の国・郷の概念にもとづく。しかしそのような国・郷の概念がよみがえってくる背景には、惣村の成立とそれを基盤とする大名権力による領国制の展開がなければならない。そのような新たに出現した「社会的結合の相互関係における強い一体観」を前提にしてこそ、債務の当事者ではなく、その当事者と同国同郷の者の人身あるいは動産を差押えるという無茶な行為が意味をもってくる。

(渡辺京二著『日本近世の起源』)

 奥野氏が「国質・郷質・所質」の「質」を貸借関係と理解している点は、勝俣氏の指摘と同じものであるが、「質」の語の前に国・郷・所と一定の土地空間が結びついていることにまったく言及できていない。一方の勝俣氏は、債務対象を債務者個人からこの土地空間内に含まれるすべての人々に拡大させるという斬新な解釈を持ちだした。債権者は「債務者の同国人」「同郷の者」を債務者の縁者として捉え、その縁者を債務者と一蓮托生の間柄と規定して、その「者の動産を私的に差押える行為」の根拠としたのである。この勝俣氏の「国質・郷質・所質」に関する解釈は、奥野氏のそれより国・郷・所の関わりが説明できている点で優れたものであるが、この国・郷・所は具体的に何を指すのであろうか。
 渡辺氏は、「この場合の同国・同郷とは律令制以来の国・郷の概念にもとづく」と述べているが、「所」も「律令制以来」の概念だと言うのだろうか。勝俣氏は「所という言葉は、当時、村の領域区分のヤマ・ノラ・ムラのムラにあたる聚落をさす言葉として一般的に使用されている」と述べている。村の聚落であれば、債務者の縁者、一蓮托生の間柄としてみることも可能であっただろう。しかし「律令制以来の国・郷」となると、縁関係を想定するには広域過ぎる。おそらく「郷」は「所」が複数結合した単位であり、「国」は国衆・国人といった用語が示す領域をあらわすものと思われる。
 
 山城国における国一揆といえば、普通、一四八五(文明十七)年に起こった、南山城(相楽郡など)でのそれを思い起こす。しかし西岡でも十五世紀末以降、住人の自治的な結集がみられ、彼らはみずからのことを「国」と名乗った。

(『戦国時代、村と町のかたち』仁木宏著)

 ここでは「西岡」という地域が、その住人によって「国」と称されていたことが示されている。この西岡は山城国にあって、「向日市・長岡京市の全域と、京都市南区・西京区、大山崎町の一部からなる」地域である。およそ一辺が六キロメートル四方の大きさと思っていいだろう。そして仁木氏は、「西岡とは、村々の集まりであり、それが街道・用水など、住人の生活に密接に関連した要素によって結びついている地域社会」であり、単なる行政上の区画とは本質的に異なると述べている。このように国・郷・所というのは、実態的で有機的に人々が結びついている地域を指す言葉として理解すべきだろう。
 さてここで、この「国質・郷質・所質」が発生している構図について考えてみよう。「質」は貸借と理解され、ここでは守山の住民が債権者とみなされる。そして債務者は知多郡と篠嶋の住人と理解できるだろう。するとまず知多郡や篠嶋の住人と守山の住人の間に貸借関係が発生しており、「債務者が債権者の負債返還要求に応じなかった」という事態が次に起こっていたことになる。そしてその債務不履行が深刻なものであったがために、債務者と同国か同郷か同所の商人が守山を訪れた際に、債権者がその身柄か商品を差し押さえたということになる。
 勝俣氏によって示されたこの構図は、特定個人の債務不履行という問題が無差別的に該当地域住民に向って拡がっている点で特異なものとなっている。債務不履行は、あくまで債権者と債務者という個人間の問題である。それが債務者と同地域に居住しているというだけで他人に転嫁されているのであり、それはまったくの不条理というものだろう。しかし勝俣氏はこの不条理に対して、それが可能であったのは「社会的結合の相互関係における強い一体観」があったからだと説明する。この「一体観」という言葉は、地域社会の一体性に対するこの時代共通の観念という意味であり、「国質・郷質・所質」においては債権者側の見方を指していることになる。しかし勝俣氏が指摘したこの構図は、信長の命令書に現れた「国質・郷質・所質」を的確に説明しきれていないように思う。以下では信長の命令書に従って、「国質・郷質・所質」の意味するところの構図を掘り下げてみよう。

 信長はこの命令書において、債務者本人でない者の身柄・動産を差押えることを禁止したようにみえるが、そうした強硬措置の原因となった債務不履行については何も言及していない。債権者の無差別的な強制補償措置はかなり乱暴な対応ではあるが、事の発端は債務者側の債務不履行にある。返すべきものを返さなかったがために強制補償措置がとられたのであり、その債権者側の対応を禁止するだけで、債務者側の不履行を棚上げしているとしたならば、信長の命令書も片手落ちなものだったことになるだろう。
 この命令書は、「国質・郷質・所質」に続けて「或は喧嘩、或は如何様の宿意の儀」と騒動の元となるものを並べあげ、「違乱あるべからず」としている。そして「然らば敵味方を致すべからざるもの也」と結んでいるのであるが、この箇所はどのように解釈すべきであろうか。たびたびこの談議に対してコメントを書いてくれている高村氏は、「それを受諾するなら、政治的な理由で敵味方分けることはしない」(『歴探』)としている。(補記1参照)この解釈であると信長が「敵味方分ける」ことになるが、貸借の紛争や喧嘩の当事者に対して信長が敵としたり味方としたりするというのは意味が通っているとは言えないのではなかろうか。また奥野氏は「もちろん敵味方の戦いをしてはならない」と受けとめるが、ここでの「然らば」には「もちろん」という意味はない。この「然らば」は「それならば」あるいは「それでは」といった意味で、「先行の事柄を受けて、後続の事柄が起こることを示す」(小学館『国語大辞典』)語である。高村氏は「それを受諾するなら」と約すが、こちらの方が正解だろう。先に原文(読み下し文)を掲載したところでは、「これに従うならば、敵味方分かれて争うようなことにはならない」と約しておいた。この解釈では、敵味方分かれるのは貸借紛争や喧嘩の当事者どうしであり、それを信長は諌めているという構図になるのである。
 この命令書を「国質・郷質・所質」に絞ってみると、「国質・郷質・所質」「ありと雖も違乱あるべからず候、然らば敵味方を致すべからざるもの也」となる。「国質・郷質・所質」があっても「違乱」があってはならないという言い方は、「国質・郷質・所質」自体は「違乱」ではないというように読める。同様に「喧嘩」や「宿意」自体も「違乱」ではなく、それらは皆「違乱」が起こるきっかけとして扱われているのである。そしてこの「違乱」は、領主である信長からみて、定めに違反し秩序を乱すことなのである。そして「違乱」がなければ「敵味方を致す」ことがないというのであるが、「喧嘩」や「宿意」の当事者は初めから敵味方である。そうすると「違乱」を介して敵と味方に分かれるのは、その周囲の者たちということになる。ここに個人間の争いが、地域間の紛争に発展することが示されているのであり、信長はそれがために「違乱」を禁止しているのである。
 信長がこの命令書によって問題としたのは、単なる個人間の「喧嘩」や「宿意」による争いではない。それがエスカレートして地域間紛争に発展し、それによって商人の往来に支障が出て商業発展が妨げられることを危惧しているのである。「国質・郷質・所質」もこの理解で考えてみると、知多郡の債務者が債務不履行を起こし、いくら要求しても返済しようとしないので強硬措置に出た。たまたま守山を訪れた知多郡の商人の身柄か商品を差押えたのである。この「違乱」がきっかけとなって、守山住人集団と知多郡住人集団が激しく争った。そんなことが頻発していたのであろう。そこで信長が「喧嘩」や「宿意」に加え、「国質・郷質・所質」を「違乱」の原因に指名したのである。
 勝俣氏の解釈であると、「国質・郷質・所質」の「質」を質取りと受け取ってそれ自体が違乱のようにいうが、信長の命令書では「国質・郷質・所質」は違乱の原因である。しかし「国質・郷質・所質」が違乱でないのであれば、ここの「質」とは無茶な質取りのことではないことになる。ここで「質」という語に注目してみると、担保という意味の他にこの語には「質す(ただす)」という意味がある。この意味に沿ってこの事態を考えてみると、債務者を抱える地域に対して、「借りたものを返さない者がそちらにいるが、これをどう思うか」と詰め寄る行為となる。地域の者が起した不祥事を、その個人ではなく地域に対して質すのである。なぜならば個人が自分で起した不祥事を解決できないからであり、より大きな解決力をもった地域にその代行を迫ることのほうが有益だからである。
 これとは別に「国質・郷質・所質」自体を違乱とした場合、債権者側だけが地域に一体性を観ているという奇妙さが生まれる。守山の債権者が同地域というだけで無差別的な質取りをしたのは、債務者と同じ地域に居住している者は一蓮托生であると認識していたからである。そしてこの認識が正しいものであり、知多郡の居住者が同様の認識をもっていたとするならば、このことで激しい地域間紛争が起こりえるであろうか。この点で守山側と知多郡側の認識が同じであれば、知多郡側では守山の対応を暴挙とはみなさないはずである。そして争うことよりも、地域住民が起こした債務不履行という不祥事を解決することに精力を傾けるのではないだろうか。したがって、「国質・郷質・所質」が無茶な質取りであるならば、それの根拠となった「一体観」は守山住民だけのものであり、知多郡住民にはそのような観方はなかったことになるのだが、これはどう考えてもおかしなことである。
 ところで、「国質・郷質・所質」には国・郷・所という地域呼称が含まれるが、これは貸主と借主の居住地域が異なることを意味し、この貸借が遠隔地間のものであることを示すものである。信長の命令書における守山と知多郡や篠嶋も、実際にそれなりに離れている。そうした遠隔地間の貸借は信用が成り立ちにくいものであろうと思われるが、この命令書が示すように実際のところ貸借が成立しているのである。ここに個の問題を集団で解決するという構造をもってくれば、この遠隔地間の信用の裏づけに、地域がそれを保証するという前提が組み込まれていた可能性は大いにあるだろう。しかし保証ということで、現代の連帯保障のようなものを考えるのは正しくないと思われる。なぜならば、この地域信用保証は連帯保障のような制度ではなく、人々が自ら生み出し支え続けている慣習であると考えられるからである。
 このようにしてみると、「国質・郷質・所質」は、個人が起した問題であってもその住民を抱える地域が自ら解決に動かねばならないという観念が、この時代に広く行き渡っていたことを示すものなのである。守山の貸主はその観念によって知多郡の借主を信用し、そこに遠隔地間の貸借が成立した。しかし知多郡の借主は返済に行き詰ってしまい債務不履行が発生したが、これに対して知多郡の人々が解決に動こうとはしなかった。そこで守山の貸主は、たまたま同地にやってきた商人の身柄か商品を差押えたが、それは知多郡住民の債務不履行解消への動きを促すためであった。しかしそれでも知多郡側は従来の慣習から離れてしまっており、事態がもつれて守山と知多郡の間における紛争に発展してしまった。こうした事態の頻発をみて、信長は大森平右衛門に先の命令書を出したということなのだろう。

 江戸初期の「相給」は、幕府や藩がその家臣に知行を給付したものでありながら、地元事情における地域編成に重ね合わせるような給付地分布をしていた。このことは幕府や藩が基盤としたのが、それぞれの経緯と事情をもった地域社会であったということを示すものだろう。また久米原村が天領、水野十郎左衛門知行、天領、そして天領と久喜藩への三分割と翩々とするのであるが、このことは領主が地域社会に対して恣意的な存在であることを示している。「御地頭は当分の儀」という言葉はその恣意性の表出であり、そのことは百姓の共通理解であったにちがいない。そうであるならば、地元地域は永代の視点に立って自律的にまとまる必要もあったであろう。また「国質・郷質・所質」という歴史用語は、地域に「社会的結合の相互関係における強い一体観」が存在していたことを示すものであるが、さらにこの用語の分析によって、地域どうしがある種の共通認識で結ばれていたことも見てとることができた。その一方で、「国質・郷質・所質」という従来からの慣習が違乱となるに及んで、その地域連帯に異変が生じつつあることが示されていたのである。
 生産と消費と居住という生存のすべてを一点に抱え込んでいた地域、それは現代では遠い存在であるように思える。「国質・郷質・所質」に現れている「一体観」にしろ、結びつきにしろ、わかるようでいてやはり現代人には理解しきれないものがある。同じ地域の住民だからというだけで、突然身柄や動産が差し押さえられるようなことは現代では起こりえない。現代においてそれは紛れもない不条理である。それが地域の一体性に吸収され、むしろ地域の主体的対応の欠如が問われているなどとする観念は、現代からみれば実に特異なものであり、個と集団が曖昧なカオスであると受け止められるであろう。しかしそれがどこかで、それは戦国期、この「国質・郷質・所質」という用語が違乱とともに語られるようになった時期だと思うが、変質をして現代に至っているのである。
 現代の我々には無差別的な差押えをした守山の債権者の行為が特異にうつり、債務者を抱える知多郡側は単なる被害者のようにみえてしまうが、当時においては事情は反対で、個の不祥事を進んで解決するよう動かない地域が特異なのである。戦国大名や江戸時代の幕府や藩の統治のもとで自律的な存在であった地域住民集団は、中世後期にある重大な変質を遂げているようであるが、現代の我々にはそのことが理解できない。それは勝俣氏がいう「一体観」というものが、現代ではほぼ完全に喪失しているからなのかもしれない。かつての「一体観」がわからなければ、その変質も理解できないのであり、その一体性の外側にあって住民を見ていた領主の視線でしか、我々はこの時代を捉えられていないのではないかと思うのである。

(補記1)
 高村氏のサイト「歴探」には、戦国期の関東・東海の史料が多数(400点を超える)掲載されている。現代語訳がついているので大変参考になるが、今回も利用させていただいた。アドレスは、 http://rek.jp/ 。
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by mizuno_clan | 2009-06-07 11:10 | ☆談義(自由討論)

アクセス解析 No.5

●2009年3月から2009年5月まで、3ヶ月間の「水野氏史研究会ブログへの第5回アクセス解析」を発表いたします。
 一般の研究会では、月に一度程度の会合、および年数回「会誌」を発行しておりますが、本会では当面集会や会誌等の発行を予定していないことから、集会参加人数・会誌の発行部数を公表する事は出来ません。従って本ブログへのアクセス状況(ユニーク・ユーザー数)をご報告する事により、変則的な方法ですが「集会状況と会誌の発行部数に代替」させていただきます。
 前第4回から、江畑委員が座長となり精力的に投稿を続けていただいております「水野氏と戦国談議」では、会員及びゲストのみな様から数多くのコメントをいただいておりますので、お陰様で本会の活動状況を示すアクセス数も順調に伸長してきております。
 みな様には日々お仕事などでご多用中にも関わりませず、本会にご理解ご尽力いただいておりますことに、ここに改めまして深謝し御礼を申し上げます。今後とも引き続き本会活動にご参加ご支援いただきたくお願い申し上げます。

※本ブログに設置している「カウンターの数値」は、途中で開設したものであり下記の数値とは異なりますが、大凡の目安として設置しております。


                                               研究会事務局


【エキサイトブログ・レポートの集計データ】 更新2009.06.01
▼2009.3.1~2009.5.31 までの“ユニーク・ユーザー数”
合計1,702 ip (前回比 101.8%)

前計4,740 ip
累計6,442 ip
 ※ユニーク・ユーザー【 unique user 】数とは、ブログにアクセスされた接続ホスト数をユニーク(同じ物が他にないの意)な訪問者の数として日毎に集計している。つまり同一人物が1日に数回アクセスしても、最初の1回のみがカウントされる。この集計基準は、ページ・ビューなどの基準に比べ判定方法が難しいが、実質訪問者数を示している事からサイトの人気度をより正確に反映できる。


▼2009.3.1~2009.5.31 までの“ページ・ビュー数”
合計 5,741 pv (前回比79.70%)

前計 7,183pv
累計16,551pv
※ページ・ビュー数【 page view 】(=表示画面閲覧数)の月別日計グラフを以下に掲載する。
通常、訪問者はサイト内の複数のページを閲覧するため、訪問者数(ビジット)よりもページビューのほうが数倍多くなる。



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2009.05 合計 1,660 pv



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2009.04 合計 1,588 pv



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2009.03 合計 2,493 pv
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by mizuno_clan | 2009-06-01 02:14 | アクセス解析