【Event】 本会々員による「報告会」の結果報告

 先般、御案内しました「織豊期研究会 第58回報告会」は、昨日盛況のうちに終了致しました。今回は、本会々員でもある水野伍貴氏が報告者となり「秀吉死後の権力闘争と会津陣」と題し以下のように報告されました。参加者20余名の内、本会からは会員3名が参加しましたのでお知らせいたします。お忙しいところご参加下さった皆さん、どうもありがとうございました。
報告の内容が、偶々NHK大河ドラマ「天地人」で13日 (日)に放映された内容の「会津陣」「直江状」などが主たるテーマであったことから、非常にタイムリーな報告として参加者の関心も高かったようで質疑応答も活発に行われました。

 報告会後の懇親会で、本会々員4名や織豊期研究会会員による「水野氏についての懇談」についても話が弾み、とても楽しい一時が過ごせました。

                                            研究会事務局
   

                      記

Ⅰ.織豊期研究会 第58回報告会 
  水野伍貴氏「秀吉死後の権力闘争と会津陣」
日 時:2009年9月15日(火)18時30分~20時50分
会 場:名古屋大学文学部会議室(名古屋市千種区不老町)
講 師:水野伍貴氏
題 目:「秀吉死後の権力闘争と会津陣」

主要参考文献
宮本義己「徳川家康の豊臣政権運営--「秀吉遺言覚書」体制の分析を通して」(『大日光』74号、2004年)
同氏「内府(家康)の公儀掌握と関ヶ原合戦」(『大日光』76号、2006年)
同氏「内府(家康)東征の真相と直江状」(『大日光』78号、2008年)
光成準治「関ヶ原前夜における権力闘争‐毛利輝元の行動と思惑‐」(『日本歴史』第707号、2007年)

報告会レジュメから一部抜粋――
[はじめに]
 会津陣(会津征伐):慶長5年(1600)8月、徳川家康が陸奥国会津若松城主上杉景勝の勢威を牽制するために起こした戦い。
[1.秀吉死後の権力闘争]
[2.家康暗殺計画と「内府一元体制」]
[3.会津陣前夜の歴史的経緯①会津へ帰国した後の上杉氏と徳川氏の遣り取り]
[4.会津陣前夜の歴史的経緯②慶長5年における上杉氏の動向]
[5.会津陣と「直江状」]
[6.会津陣における徳川氏の意図および会津陣の歴史的位置]
[課題と展望]
                                             以上



●Update 2009-09-17
当日参加された、小説家尾山晴紀先生のブログ「勁草録」に、報告会の様子や感想文が詳しく投稿されておりますので、
皆様にもぜひお読みいただきたいと思い、リンクいたしました。

織豊期研究会第58回報告会
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by mizuno_clan | 2009-09-16 15:56 | Event-2(諸事)

【談議1】水野氏と戦国談議(第十九回1/2)

袖触れ合うも“多少”の縁

                                                          談議:江畑英郷

栂尾の上人、道を過ぎ給ひけるに、河にて馬洗ふ男、「あしあし」と言ひければ、上人立ち止りて、「あな尊や。宿執開発の人かな。阿字阿字と唱ふるぞや。如何なる人の御馬ぞ。余りに尊く覚ゆるは」と尋ね給ひければ、「府生殿の御馬に候ふ」と答へけり。「こはめでたき事かな。阿字本不生にこそあンなれ。うれしき結縁をもしつるかな」とて、感涙を拭はれけるとぞ。

 これは、吉田兼好の『徒然草』第百四十四段に掲載されている一文であるが、現代語訳は以下のようなものであろう。

 栂尾(とがのお)の明恵(みょうえ)上人が道を歩んでいると、小川で男が「あし、あし」と言いながら馬の脚を洗っていた。上人は立ち止まり、「なんと尊いことか。前世での善根功徳が現世に現れたる人であろうか。阿字阿字(「阿」は梵語の第一字であることから、万物の根源を意味する文字)と唱えているぞよ。どのような方の御馬であろうか、このように尊く思えるのは」と言って男に尋ねてみると、「府生(ふしょう:六衛府および検非違使の下級幹部)殿の馬ですよ」と答えを返した。「これは実にめでたき事である。阿字本不生(あじほんぷしょう:万物の根源は本来不生不滅である)であるようだ。うれしき結縁(けちえん)を成し遂げたのであろうか」と言って、感涙を袖で拭われたそうだ。

 岩波文庫版の注釈には、「栂尾の上人」について次のように書かれている。

 京都市右京区梅ヶ畑高尾町にある栂尾山に高山寺を興した。華厳宗の高僧、明恵上人。後鳥羽上皇・建礼門院に受戒し奉り、また、北条泰時に尊崇された。一二三二年寂、六十歳。『華厳唯心義』『摧邪輪』『阿留辺幾夜宇和』『明恵上人歌集』等の著作がある。

 吉田兼好からみると、明恵はおよそ百年前の人物である。その明恵が、男が「あし、あし」と言っていたのを、「阿字、阿字」と言ったものと聞き間違えた。そして、男が洗っていた馬の持ち主が「府生殿」であると聞いて「不生」を連想し、「阿字」と「不生」から「阿字本不生」を引き出し、それと「結縁」したと受けとめて感涙したという話である。
 この段に描かれた明恵の話は、どう受け取るべきなのであろうか。私は初め、二度も勘違いをして一人合点して感激する高僧のユーモラスな姿を描いたものだと思った。しかしよく考えてみると、小川で馬の脚を洗っている男が、「阿字、阿字」などと場違い、そして不相応な言葉を発するはずもないことは、明恵とてわかっていたはずのことである。しかしそれは意図することなく、「阿字、阿字」と明恵には聞こえたのである。そしてその馬の持ち主が「府生殿」であると聞かされたとき、そこでもごく自然に「フショウ」という音から「不生」が連想されたのであった。そこで明恵は「阿字本不生」との邂逅を果たしたと思い、それを「結縁」として受けとめたのである。
 まったく意図することもなく「阿字本不生」に遭遇したことを、明恵は「うれしき結縁をもしつるかな」と言っているが、この「結縁」とは仏教語であり、「仏道に入る縁を結ぶこと。成仏・得度の因縁を結ぶこと」と『広辞苑』には書かれている。この時点で明恵は上人なのであるから、ここでは「仏道に入る縁を結ぶこと」ではなく、「成仏・得度の因縁を結ぶこと」という意味で使われていることになる。つまり「結縁」は仏道にある者にとって、何にもまして望ましい達成であり、それが最終目標であるということになるだろう。そして明恵は、それを道端で成し遂げた。「阿字、阿字」と言っているはずもないのに、「阿字、阿字」と聞こえてしまったこと、そしてそれに絡めて「フショウ」から「不生」が突然連想されたこと、これを単なる偶然、思い違い、あるいは熱心さが故に何でも仏教に関係づけると理解したならば、おそらくこの挿話は成り立たない。明恵の「阿字本不生」との遭遇は偶然や思いではなく、そこに「縁」が現れたことで達成されたのである。
 明恵は親鸞と同時代の人であるが、真言密教や華厳を学んだことから所謂鎌倉仏教徒とは違うわけで、明恵のような立場にある高僧は、自己の精進とか修行によって成仏・得度を成し遂げるのではなかっただろうか。要するに、自力によって本願を達成するスタイルである。ところが道端の思いも寄らぬ「結縁」ということになると、これは明恵の自力とは離れた「縁」の力、すなはち他力によるものと受けとめられるのである。自力と他力については、仏教理論的に難しい話もあるのだろうが、素朴に考えて真言密教や華厳経を修めた明恵上人のような人物が、果たして道端で出会った他力としか思えない縁によって得度できたなどと本当に思ったのだろうか。この点は、当会に仏教学専攻の先生がおられるので、是非教えを請いたいところである。
 「縁」という語を辞書で引くと、仏語として「広義には結果を引き起こす因。狭義には直接の内的な原因である因に対し、それを外から助ける間接の原因をいう」とある。そして一般的には、「二つ以上のものが寄りついてかかわりを持つ作用」とされる。しかし縁に関するそうした辞書的な意味とは別に、兼好はこの明恵の挿話によって世俗が受け入れている「縁」というのもを鮮やかに示した。兼好はこの段において明恵上人を登場させながらも、道端で偶然出会えるような縁を、聞き違えと連想というごく普通の出来事の中に出現させているのである。このような身近な縁は、今日でも諺として我々の生活の中に生きている。

・躓く石も縁の端(ふと躓いた石にも、何かのつながりがあって、躓きはその現れである)
・縁は異なもの味なもの(男と女のめぐりあい、結びつきというものは、予測のつかないほんとうに不思議なもの、おもしろいものである)
・合縁奇縁(人と人の気が合うのも、合わないのも全て不思議な縁によるものだ)

 現代でもよく使われるこうした諺は、縁とは説明のつかない不可思議なつながりであるというニュアンスを強く持つ。上記の諺以外に、「袖振り合うも多生の縁」というものがあるが、多くは「袖触れ合うも多少の縁」として理解しているのではないだろうか。「多生の縁」というのは、輪廻転生思想を背景として多くの前世でのかかわり合いを示しているのだが、そうした仏教観が除けたところでは、「多かれ少なかれつながっている」という意味で受け取られていることの現れなのであろう。正しくは「多少」ではなく「多生」なのであるが、むしろ「多少」という間違いに世俗の縁に対する理解が透けてみえているのである。世俗的には「つながっている」が縁なのであるが、つながっているということは、Aの存在がBに影響を与えるということである。そしてこの影響の与え方が因果として捉えられず、それゆえに何故そうなるのか理解できず、「不思議な」という表現・感覚になるのだろう。「あし、あし」が「阿字、阿字」に聞こえてしまい、「府生」の同音異義語の「不生」を連想して「阿字本不生」に至ったのが、上人だからとか、日頃から信仰が厚かったからと理解するなら、それは因果的な出会いであり遭遇にはならない。ここではそうした因果によるものではなく、不可知の中から突然紡がれた言葉であったことこそが明恵を感涙させたのである。

 さて、前回において中世の売買が成立するためには、そこに無縁が実現されなくてはならなかったことを確認した。この無縁とは、売買の場である市に売買以外のつながりを持ち込まないこと、そして売買の当事者どうしの間では、つながりが遮断されていることで対等・平等が実現できていることを示すものであった。そしてこの「市」実現のためには、神仏の媒介によって日常性が切断されていたのである。現代の我々は売買を非日常的行為だとは思っていないが、中世においては日常性そのものが売買を妨げるのである。この点から「無縁」ではなく日常的な「有縁」こそが現代からは遠い存在、しかしながら中世世界はそれによって強く規定されていたのだから、その有縁場というものの解明がぜひとも必要となるわけである。そこで今回はこの有縁場というものについて考えてみようということで、まずは「縁」という言葉についてここまで述べてきた。
 中世そして戦国期に人々が生きていた現場は、一部の都市を除けば庄・村であった。そうした村については、本談議の第六回と七回でも触れたが、ここでは村の自検断における我々の想像を超える過酷さについて考えてみることにしよう。

 永正元(一五〇四)年の冬は前年の旱魃のために「村人は深刻な飢饉に直面していた。村人たちは山野に入って蕨を掘り、それを粉にしてかろうじて飢えを凌いでいたが、灰汁(あく)の強い蕨(わらび)粉は一晩河流につけて晒さなければならない。それを連夜盗みにくる者があるので、村人は見張番を立てたところ、盗人は鎮守滝宮の一ノ巫女の子供であった。村人は逃げる子供を追いかけて巫女の家に逃げ込んだ子供とその弟、母親の巫女の三人を殺した。……四十日ばかりたってまた蕨盗人が見付かったが、このときにも、家内に追い込んで家族ともに殺害した。寡婦二人と十七、八の男子と年少の子供たちで、計六、七人にも及んだという」。
 笠松宏至は、「わが国の中世社会には『ぬすみ』に対して対極的な法思想が長期にわたって二つながら存在し続けた」と言う。ひとつは些少の盗みでも死刑、咎は「親類妻子所従に及ぶ」という「在地の村落社会において現に通用していた極めて過酷なルール」であり、この「窃盗重罪観」は荘園本所法にもとりいれられた。もうひとつは「撫民」(ぶみん)の見地から窃盗を「根本軽罪」「指たる重科にあらず」とする公家法、幕府法の「窃盗軽罪観」で、笠松によれば後者は前者すなわち在地の過酷な法実態を何とかして抑制しようとするものであった。支配者に悪と非理を見、被支配者に善と理を認めようとする民衆史観とは逆に、この場合、幕府・朝廷が在地の因習を改めようとする開明的な立場に立っていることは明らかである。

(『日本近世の起源』渡辺京二著)

 村の自検断は、なぜこのように過酷であったのだろうか。幕府法や公家法が開明的であるのに、村の裁きが異様に過酷であった理由について渡辺氏は、「惣村はいわば地域的小国家として乱世を生き抜くために、内部の統制はおのずときびしいものたらざるを得なかったのである」と述べている。しかし乱世に直面しているのは幕府や公家も同じであり、その法の力点が民を慰撫する点にあり、村の裁きだけが内部の引き締めのために過酷であったというのは、何かもっと本質的な違いがそこにあったからなのではないだろうか。
 法というものは、一般に社会の構成員に対する強制力をもった規範であるとされる。惣村においても強制力をもった規範が存在したのだが、それについては「法」とは言わず「掟」と呼ぶのが普通であろう。そして中世においては、この掟が法以上に過酷な罰則を科していたというのであるが、この法と掟とは何が違うのであろうか。
 両者の違いに注目してみるならば、「法」がもつ普遍性に対して「掟」がもつ閉鎖性があげられるだろう。ここで普遍といっているのは、法が誰に対してもどこまでも適用されるという意味である。もちろん法が及ぶ範囲というものはあろうが、法というものには原理的にすべてを覆いつくそうとする普遍志向が内在しているように思われる。これに対して掟が閉鎖的に感じられるのは、法には絶対にないある特性のせいなのではなかろうか。それは「掟破り」に対して科される、追放という処分である。
 法が普遍志向をもつのであるなら、違反者に対しても法の枠内で刑罰を科すことになる。法は自らに対して違反行為があったからといって、その違反者を法の外に放逐することはない。一方の掟においては、掟を裏切った者は掟の枠外へと弾き出される。しかし掟に必ず追放処分があるものだろうかと考えれば、それは必ずそうであると言い切れる自信はない。しかしここで重要なのは、法には原理的に追放処分はないのであるが、掟は往々にして追放処分を備えているという点である。
 規範、決まり、ルール、いずれも「こうすべし」あるいは「これはしてはならない」という行為の秩序づけである。その秩序を形成しようとする作用自身は、その形成の貫徹に邁進する。つまり規範で世を覆い尽くそうとするのである。そして「これはダメだ」と禁止を指定したならば、それに対する違反者を見過ごさない。つまり違反を暴き、違反の重さを測り、違反に相応する罰則を科し、その秩序の遵守者へと仕立て上げる。どうにもならない者でも決して手放さず、いざとなれば永遠に監禁するのである。純粋に秩序を形成する規範とは、無秩序を秩序に変える働きであるのだから、自ら規範の外という無秩序を認めることはないのである。
 そうなると、追放処分をもっている掟は規範ではないのだろうか。ここで掟の他に、規範の外を認めている決まりについて考えてみよう。世の中には法人団体と任意団体というものがあって、そこでの決まりは規則とか規約とか呼ばれている。大多数の人が属している会社は法人団体であり、従業員規則というものを備えている。この「規則」の枠内で行動しない場合は、訓告・譴責(けんせき)・減給・諭旨退職・懲戒解雇などの処分が科される。このうち諭旨退職と懲戒解雇が、規則からの放逐となる。例えば重大犯罪などを犯した場合は、即刻懲戒解雇となり会社はクビになるが、これは退場すればよいということでもある。しかし刑法には退場はない。
 訓告・譴責・減給が罰則だとうのはその団体内の扱いとしてそうなのだろうが、諭旨退職・懲戒解雇は違反者に退場してもらうというものだけに、それが罰則なのかどうか疑問に感じる。退職・解雇は、団体成員不適格者を排除するという意図に基づいているもので、その規範内罰則とはおそらく性質が異なる。つまり「規則」は、成員の行動規範を規定したものであると同時に、成員条件を規定したものなのである。追放処分があるということは、それが全体の中での有限の集団であり、そこに任意性をもって人が集合していることが前提とされているのである。したがって有限集団の輪郭が当然存在するが、その輪郭線を規定として含むのが「規則」なのである。これと同様に「掟」もまた追放処分を含む以上、そこには成員条件が規定されている。しかしこの「規則」と「掟」には、それが描く輪郭が全体の中で相意的に形成されているかどうかに、本質的な違いがあるように思われる。
 「規則」は全体の規範である「法」を超えることはない。あくまで法の枠内に規則があり、国家の施政の中に団体が存在している。しかしながら、開明的な幕府法や公家法と対立的に存在していたのが「掟」である。しかしこのことで、法と掟が敵対して相争っていたというのではない。この中世における法と慣習法の関係について、本談議の十四回で引用したものを再度掲載しておこう。

 一般的にいえば、領主は自らの公共性を意識し、裁判において自身の荘園法や上位の幕府法のみならず在地の慣習法にも依拠しつつ、「合理的」な決定を下すべく努めていたとみてよい。ただし中世の裁判全般に該当することだが、この領主の裁判はいわゆる職権主義とは正反対の性格を有し、自身以外の各種裁判と共存的であった点には留意したい。つまり、領主は在地の問題に介入的ではなく、下位権力で解決できる問題は基本的にその自律性に委ねられ、このことが中世後期に在地裁判の発展を促す重要な契機となった。
(『中世・近世土地所有史の再構築』-中世後期における下級土地所有の特質と変遷 西谷正浩著)

 上位の法に対して、ある閉じられた独自性を有していた村掟は、その点で規則とは本質的に異なる。そして実のところ村掟にとって、幕府法や公家法は上位にある決まりではない。村掟はそれ自身で完結的で、自身の輪郭線の内側にしか世界を認めていないのである。強く輪郭線を引くものの、それは内側を描き出すためだけのものであり、外側は黒く塗りつぶされている。村掟は村人の行動の規範でもあるが、それ以上に村人とは何であるかを規定したものなのである。そして村人でないについては、ただ「でない」という排他がそこにあるのみである。
 規則はそれを取り巻く全体、法との間に関係を形成しそこに従属的な整合性をつくりだしている。一方の掟は、掟の外がどうであろうと内に向ってのみ存在しており、それは極めて独善的な存在であるといえる。西谷氏は、「在地の問題に介入的ではなく、下位権力で解決できる問題は基本的にその自律性に委ねられ」と上位法の開明性、あるいは寛容性を指摘しているようであるが、実際は村掟の頑迷な内向き志向、その独善性に手を焼いており、それと争わずに上位法を安定させる道を選んだようにもみえる。このことは法が村の内部の個人を認定して、その普遍志向からその個人を法の枠内で扱うことが、村掟によって阻まれてしまったとみることもできる。法からみると、村はその掟の中であたかも一体の生物のようであり、その内部に独立した単位などはないのだと主張している存在なのである。
 有限なる集団の輪郭線は、その集団の内と外を区切り、そのことによって内部の成員が何であるかを定義する。それはおよそ一律に内部を定義し、輪郭線が太く濃ければ濃いほど内の一体性が明瞭に浮きあがる。中世の惣村は、村人の居住・生産・消費を一手に担っており、それは村人のかけがえのない生存基盤である。その太く濃く引かれた輪郭線の内側が生存空間であるならば、そこからの放逐はまさに生存の危機である。そうであるならば、村人は掟に示された村人の定義を生きるしかなくなる。しかしそれはどこか外からの強制なのではなく、また内側に村人を拘束する専制君主がいるのでもない。生存空間として強く引かれた輪郭線なればこそ、強制でも抑圧でもなく人はその輪郭線の内側を生きるのである。
 法社会の成員もその法の下を生きるより他ないのであるが、規範を遵守するかこれを破るかは成員に帰属した自由意志である。そこに外側がないのであるから、法は社会の構成員の定義ではない。行動の規範であって定義ではないのだから、人にはこれを守る犯すの選択肢が存在する。この社会の根源において、自由意志による選択肢があることが「個人」の証であるならば、掟社会において「個人」は存在しないことになる。掟社会には掟を破った者はいない。これから破る者はあるかも知れないが、その瞬間に掟社会の成員定義からはずれてしまい、輪郭線の外に出てしまうからである。
 わらび盗人はおそらく村掟を犯したのであり、それによって村からの放逐が逃れられない裁きとなった。そして、わらび盗人もまた村社会にその生存を依存していたのであり、放逐が決まった時点ですでに死人も同然だったのではなかろうか。自検断衆による殺害は、生きれるはずの者を殺したのではなく、死んだも同然の者に引導を渡したに過ぎないのかもしれない。

(2/2へ続く)
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by mizuno_clan | 2009-09-12 17:28 | ☆談義(自由討論)

【談議1】水野氏と戦国談議(第十九回2/2)

(1/2より続き)

 これまで、中世・戦国期の村社会における刑事罰に対する過酷さの原因を掟社会にみてきたのであるが、ここでこの時代を特徴づけるもうひとつの集団である「一揆」について考えてみることにしよう。本談議第二回において、久留島典子氏が「一揆とはある目的をもって組織や集団をつくること、そして作られた集団自体をいうのである」と一揆を規定するのを確認したが、ここでは勝俣鎮夫氏の『一揆』(岩波新書)からより踏み込んだ考察を拾い上げてみよう。

 すでにみたように、会議のメンバー全員が主体的に公平な意見をのべることを神に誓約して、そこでなされた議決が一味同心の議決であった。一三〇〇(正安二)年の高野山の評定集会の規則には、「一同の評議とは、メンバー各自が公平を心がけ、縁によって左右されず、一方に味方せず、あくまでも真相を究明し、理非をあきらかにすることである」とのべられている。幕府の評定衆起請文の「一味の義」と同じである。
 このような性格をもつ一味同心の評議の議決方式は多数決を必然的にとらざるをえない。そして、このような一味同心のもとにおける多数の意見の一致は、道理すなわち正義であると考えられたために、その決定が一味同心の決定とされたのである。一味同心の決議は多数の意見の一致によってはじめてつくられるが、その決定は、文字どおり一味同心の結果としてうまれるものであって、そこでは少数意見と多数意見の区別は存在しないと考えられた。このような一味同心のありかたは、のちにみるさまざまな形態の一揆に共通してみられ、一揆を特徴づける性格であったといえる。


 一揆における評議は多数決を旨としたが、そこにおける多数の意見は一味同心の決定とみなされた。それは「同心」であり、多数・少数の意見対立は雲散霧消してしまっている。評議における決定のプロセスは公平公正であるが、決定後は多数意見が唯一の異見を含まない決定となっているのである。この多数意見の唯一意見への転化・飛躍について勝俣氏は、「われわれ近代人の目からみると、きわめて奇異にうつらざるをえない」と述べている。そしてこの転化・飛躍の背景に、「一揆の決定は“神慮”すなわち神の意志にもとづくという観念が大きく作用していた」と言うのである。

 ところで、このような「一味」「一味同心」の状態は、どのようにしてつくられたのかというならば、それは「一味神水」という儀式を必要とした。この一味神水という行為は、それに参加する全員が神社の境内に集合し、一味同心すること、その誓約にそむいた場合いかなる神罰や仏罰をこうむってもかまわない旨を書きしるし、全員が署名したのち、その起請文を焼いて神水にまぜ、それを一同がまわし飲みするというものがこの時代のオーソドックスな方法であった。
(同書)

 多数意見と少数意見、場合によってはその差が小さいこともあったろうが、「一味神水」という儀式を経ることによって、異見を含まない唯一意見に転化・飛躍するというのである。しかしここで述べられていることは、一味の必要から誓いによって無理やり「同心」を引き出したもののようにも思える。神水を回し飲みしたところで、少数の異見が頭から消え去るわけではなく、誓いの強制によって異見を隠し、それによって多数意見への「同心」を演出したとも言えそうだ。そしてこのような「同心」を根拠にして、興福寺の一揆は次のように申し立てるのである。

 寺社にはそれぞれの寺にきわめて多数の僧侶がいる。そして、これら僧侶は、それぞれ顔がちがっているように一人一人その考え方も異なっている。このような多数の考えかたのちがう人びとが全員同心して、満寺三千衆徒一味同心という状態がつくられたっということは、なによりもわれわれの主張が「至極の道理」であることをしめしている。老僧も若い僧も、賢者、愚者とわず、同心してこの事件を愁い憤っているということは、この主張が「理の窮(りのきわみ)」であるからで、おそらく春日神社の神が、われわれ衆徒にその意志を託したものといえよう。
(同書)

 勝俣氏は一揆のことを、「非日常的目的集団としての、特殊な非構造的集団である」と規定している。目的集団であるならば、目的を同じくする人びとが集まったものであるが、それだけに「それぞれ顔がちがっているように一人一人その考え方も異なっている」ことになる。そのために公平・公正に衆議をおこない、多数決を持って議決とするのである。そしてここまでは、現代の目的集団と何ら変るところがない。ところが、それを全体の決定とするために「一味神水」という儀式を執り行い、それによって「一味同心」という状態が生まれる段になると、現代とは大きくかけ離れることになる。この「一味同心」によって、集団の多数意見が異見を含まない唯一意見に転じてしまうからである。
 興福寺の僧侶は、「それぞれ顔がちがっているように一人一人その考え方も異なっている」と、今と変らない個人観を述べているようでもある。だが一人一人の考え方がなぜ異なっているかについては、今日とは意見を異にしているように思われる。それはこの一味同心が、「春日神社の神が、われわれ衆徒にその意志を託したもの」だと述べている点にある。現代の個人観からすれば、個人とは独立して自由意志をもった存在である。したがって、独立した個人が自由にものを考えれば、実に多様な意見が出るのは当然だということになる。それからすれば、春日神社の神が意思を託したというのは、この自立的に思考する個人をまったく無視した考えと言えよう。一人一人の考え方が異なると言っておきながら、その一人一人を無視して神の意思を持ち出すのは矛盾しているのである。したがって、興福寺の僧侶が一人一人考え方が違っていると言っているときは、一つの理(神の意思)が人という存在を通して発現するとき、一定程度バラついて出てくるものだと述べているのである。つまり興福寺の僧侶の頭の中には、独立して自由に思考する個人という観念は存在していないのであり、そのことこそが、「一味同心」が可能であることの前提となっているのである。
 もともと理というものが存在しており、それが人を通して顕れるときにバラつきが生まれてしまう。しかしそれはバラつきであるのだから、最も多い意見を採れば理を再現することでき、そこから多数意見を唯一意見とすることで「理の窮」と言うことが可能となってくるのである。そもそも個々に考えが違うといっても、それぞれの考えがまったく独立してあるわけではなく、過去に聞いた他人の意見への同調あるいは擦り込みなど、それは互いに錯綜したものである。それは相互に干渉し合っていて、もはやそこに独立した個の意見を括り出すことなど不可能なはずで、その総体が多数意見として現れるだけなのである。そのように考えてみると、独立し自由に思考する個人という観念と、分かち難い相互干渉の中から総体的に生まれ出る理という観念と、どちらが呪術的なのか俄かには判断しがたくなるものである。

 『徒然草』に描かれた明恵上人の結縁にみられた「縁」では、明恵の意図とか精進とかによってではなく、その場に与えられたようにして「阿字本不生」に遭遇していた。精進・修行を自力とするならば、道端の遭遇は他力によるものである。また諺に示される縁とは不思議なつながりであるという理解も、その「不思議な」という点に他力が宿っているとも言えよう。自力のつながりであれば不思議はないはずで、自身の所業や知識が届かない「他」であることが不思議の源泉となっているからである。
 掟社会としての惣村、そして一揆における一味同心、そして縁という観念においても、なぜか自立的で自由意志をもった個人という観念が排除されている。この談議の第十五回「人と地、そして質」において、国質・郷質・所質を扱った際に、勝俣氏が「社会的結合の相互関係における強い一体観」を前提にしてはじめてそれが理解できると述べていたが、その一体観は掟社会、一味同心、そして縁の観念が豊かに実ったものなのかも知れない。それは「個人」が集まった結合とは異質な一体性であり、それはむしろ「個人」が埋没していることで一体性が実現されているかのようでもある。
 現代においては、個人という概念は特権的なもので、あたかも「はじめに個人ありき」といった様相を帯び、不可侵の絶対単位として社会のあらゆる領域にその価値が浸透している。その視点からすれば、個人が埋没している社会というのは、前近代的な欠陥社会であるとみなされる。しかしおよそ漠然とではあるが、「個人」とは市場売買の要請によって造りだされた一種の社会的な虚構のようなものではないかという気もする。それゆえに、市場売買が交換の優越手段に達していない社会では個人が埋没しているのである。この個人の埋没という言い方も、すでに個人を嗅ぎ分けようとする視点が働いた結果の表現であり、実際は個人が埋没しているのではなく、個人を必要とも前提ともしていない社会があるということなのである。そしてこの「個人」が存在しないことで、「はじめに分断ありき」が成立せず、「はじめに一体ありき」が働いていて、そこに国質・郷質・所質や無利子貸借、そして貸借にすり変わってしまう売買などが出現しているということなのではなかろうか。
 今回は、無縁の場に対する有縁の場を考えてみようとしてここまで述べてきた。そして結論といったほどのものは見出せなかったが、市場売買と個人観念には深い関係があること、そして中世社会はこれまで見てきたように市場売買が思った以上に不完全であり、それが今回の有縁場における個人の埋没に関係していることが、漠然と描けるようになったのではないかと思う。多分に思弁的で漠然とした談議となってしまったが、現時点ではこれ以上に話を展開することが覚束ない。それがそろそろ戦国の談議に戻る潮時であろうということで、次回からは再び「戦国大名はなぜ戦い続けたか」に話を戻したいと思っている。
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by mizuno_clan | 2009-09-12 17:28 | ☆談義(自由討論)

【Event】 「日英交流事始――幕末から明治まで――」

外務省外交史料館 特別展示
「日英交流事始――幕末から明治まで――」

日時:平成21 年6月2日(火)~9月30 日(水)
場所:外務省外交史料館別館展示室
    東京都港区麻布台1-5-3 電話:03-3585-4511

http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/j_uk/pdfs/kaisetsu.pdf

 ◎ブロガーの方から、水野氏も登場する特別展の情報をいただきましたので、残り僅かとはなりましたが、お近くの方はぜひ御覧下さい。

 上記PDFの内容には、以下のものが収録されていますので御案内いたします。


                    研究会事務局
 

===============================
3.日英修好通商条約 英国女王批准書 重要文化財
日英修好通商条約の英本国での批准裁可を証明する証書。関東大震災時の火災による損傷が激しく、熱で羊皮紙が固着してしまったため開くことはできないが、下方に辛うじてヴィクトリア女王(Queen Victoria)の署名が見える。

 ●この批准書には、「水野筑後守忠徳の自署花押」が記されています。



12.「改税約書」 重要文化財
1866 年6 月25 日(慶應2 年5 月13 日)、関税の引き下げを骨子として英・米・仏・蘭の4 か国との間に調印した協定。

●この協定書には、水野和泉守忠精(ただきよ。出羽山形藩主三万五千石)老中在職(文久2年(1862)~慶応2年(1866))の自署花押が記されています。
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by mizuno_clan | 2009-09-10 23:52 | Event-2(諸事)

会員情報6 「カテゴリと資料について」

会員各位

 残暑お見舞い申し上げます。いつも本会に御協力いただきありがとうございます。

 さて、今般、会員から、事務局世話人水野青鷺の個人ブログ“ ∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」 ”に投稿している、
下記の資料を本ブログに投稿してはどうか、とのコメントが寄せられました。
この主旨は、個人ブログの情報ではなく、団体である水野氏史研究会の情報として投稿されれば、水野氏の情報源に
信頼度が高くなり、ウィキペディアなど各種メデイアにおける記事にも引用されやすく、またリンク先としてもより適する
のではないか、とのお考えによるものです。
 大変建設的なご指摘を受けましたので、早速、全委員に諮り何度も協議を重ねた結果、投稿に対する承認が得られ
ましたので、先ずは会員各位にご報告いたします。

 なお、サイドバーに設置している「カテゴリ」には既に項目を追記しましたが、資料本文は、研究会資料としては、未だ
手を入れなければならない箇所も多いことから、投稿は出来次第逐次おこないますので、該当カテゴリをクリックされて
もしばらくの間、記事が出ない事がありますので、予めご了承下さいますようお願いいたします。
 また、先行し投稿した「水野氏史研究 分類表」につきましても、現在構成内容の見直しを行っている最中であり、
後日改訂を予定しておりますので、予めお断りいたします。


 資料記事には、コメントとトラックバックを受け取らないよう設定しておりますので、ご意見・ご指摘などのコメントは、
本掲示板に投稿下さるか、または事務局宛にメールを下さいますようお願いいたします。


★Update
2009 年8月26日 「水野氏史研究 分類表」の[第18版]を [第19版]に改版しました。
2009 年9月06日  サイドバーに設置している「カテゴリ」の全ての項目に記事を補填しました。
2009 年9月07日 「水野氏史研究 分類表」の[第19版]を [第20版]に改版しました。
2009 年9月07日  コンテンツの追補についてのお知らせ
 これまでは「カテゴリ」の内、「談議(自由討論)」につきましては、数多くの投稿がありましたので、目次として「コンテンツ」を
独自に設けておりました。これに伴い、今般会員から、そのほかの「カテゴリの中に収録された記事の一覧」があればブログ
記事の内容が、判りやすいのではないかとのご指摘をいただきました。
ごもっともなご意見ですので、以下のカテゴリの項目にそれぞれ独立した「コンテンツ」を設けました。
これは、カテゴリの項目をクリックすると、その最初に現れるようにしておりますので、どうぞご活用下さい。
 なお、この「コンテンツ」追補に伴い、「談議(自由討論)」を含む全てのコンテンツ・フォームを統一しました。
 これからも、色々とご意見・ご指摘などをいただけたら幸いです。
 
「カテゴリ」の項目に「コンテンツ」を追補した項目
  談議(自由討論)
  ★研究論文★
  ☆研究ノート☆
  ◇史料紹介◇
  ◆水野氏史研究 分類表
  R-1>水野氏系圖・名簿
  R-2>水野氏年表・年代表
  R-4>水野氏諸他参考資料



                                                          研究会事務局
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by mizuno_clan | 2009-09-07 12:50 | Information

平氏系 桓武平氏水野譜[第13叛]

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*2009年は、水野氏祖 平景貞(滝口景貞)が大治四年(1129)、水野村入尾(愛知県瀬戸市)に入郷し、姓を水野と改めて入尾城を築いてから、880年目に当たります。

                                                文責:水野青鷺
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by mizuno_clan | 2009-09-06 19:25 | R-1>水野氏系圖・名簿

源氏系 小河水野氏譜[第15叛]

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by mizuno_clan | 2009-09-06 19:24 | R-1>水野氏系圖・名簿

江戸幕府幕閣・幕臣水野氏在職表[第2版]3/3

●職制――――
――遠国(おんごく)奉行

[伏見奉行]
 大坂、京都町奉行に次ぐ要職にはあるが、三奉行所は距離的にいっても近接しており、伏見奉行は一人で勤めるに充分であった。また京都町奉行所と共に近江、丹波も支配したが、寛永二年(1625)伏見城を廃止してからは、単に奉行を置くに留まった。
 奉行は大番頭などから抜擢され、寺社奉行を除く他の奉行が旗本から選出されるのに対して、伏見奉行は小大名が任命されことから「大名役」として区別されている。従ってこれを勤めると大名役の奏者番か、万石級の大名格である留守居に昇進する。
 赴任に際しては時服三領、羽織を拝領し、引越借金千五百両が支給された。芙蓉の間席でも上席で役料は三千俵がつき、与力は十騎おり、八十石高譜代席、同心は五十人で十石三人扶持、牢番は一名、現米五石三人扶持であった。

[京都町奉行]
 京都町奉行所は老中支配であるが、役儀上では将軍直属である京都所司代の管轄に入る。職務は山城、大和、近江、丹波の勘定奉行を兼ね、五畿内の寺社・御朱印地・公家領および諸大名を掌握して寺社奉行も兼ね、京都の市政、訴訟を掌った。これは江戸の三奉行兼帯と御目付的職務であり、かつ京都所司代が江戸へ参府で不在の際には、これの代理を務めるという広範囲の職責であった。これにより遠国奉行の中では、最も重い職で、この職を勤めた者は大目付、町奉行、留守居、小性(*16)組番頭などに昇進することが出来る。
 およそ二三千石級の旗本から選ばれ、定員は東と西の両奉行の二名で、千五百石高であったが、慶応三年(1867)から場所高を廃して二千五百両支給となった。現米六百石の役料がついた。奉行の下にはそれぞれ与力二十騎、同心五十人宛が付いた。駿府奉行、目付、奈良奉行などを勤めた者から就任するものが多い。
 土地柄、何せ扱いの面倒な階級と、しきたりのやかましい所であるから、なかなか骨の折れる役儀であった。

[大坂町奉行]
 大坂に町奉行が置かれたのは元和五年(1619)九月で久貝因幡守正俊が東町奉行に、島田越前守直時が西町奉行に任ぜられたのに始まった。元禄年間(1688--1704)には三名となって堺までその管轄とし、その内の一名が江戸に在府したが、元禄十五年(1702)、堺奉行を復活し、二名定員の月番制となった堺奉行から大坂奉行に上がり、さらに京都奉行所と昇進するのが順序である。およそ二三千石級の旗本から選ばれ、千五百石で高で役料として現米六百石が支給される。慶応三年(1867)には場所高を廃して二千五百石が支給された。
 役権は大坂の民政だけではなく、大阪町方三郷の行政、司法権と摂津、河内、和泉、播磨の行政司法権も握っていた。両町奉行とも、与力三十騎、同心五十人が付いた。

[長崎奉行]
 長崎奉行は文禄二年(1593)寺沢志摩守が初めてであるといわれているが、『讀史備要』(*17)では慶長八年(1603)小笠原一庵が初めてとなっている。寛永十年(1633)二月以降、二人制となり、貞亨年間(1684--1688)には三人であったが、以降はおよそ二名制であった。
 目付、普請奉行などから抜擢され、大目付などに上がる。寛永三年(1626)から水野河内守守信(旗本三千五百石後五千石・常滑水野監物守隆の庶子)が、寛永6年(1629)まで長崎奉行を勤めた。これは諸説あり定かではないが、「長崎港草」(熊野正紹)(*18) によれば、長崎奉行水野守信が、寛永三年丙寅(1626)に踏み絵を始めたとされ、その実施された事例は、寛永八年(1631)、雲仙地獄におけるものを初見とするといわれている。また守信は、この後堺奉行に転じ、さらには大目付に就任している。
 千石高ではあるが役料として四千四百俵支給されるから奉行としては最高であるが、席次は大阪奉行の下である。長崎奉行はこのほか舶載品を原価で買える特権と、八朔銀といって貿易商人や地役人からの献納金があるので大変良い収入であった。
 責務は長崎の市政を掌り、外国貿易および海防の任があり、定員二名の内一名ずつ一年交替で江戸に戻り、八、九月頃交替した。
 特筆すべき事に、長崎奉行というのは、九州の目代(目付)であるから、御固め両家、
松平筑前守(筑前博多城主黒田家)と松平肥前守(肥前佐賀藩主鍋島家)を指揮し、外国に関することを掌るので、十万石の格があり、道中にも家老、医者という名目の者を従える事を許されていた。

[山田奉行]
 伊勢山田の大廟を守護し、遷宮祭祀を掌り、伊勢志摩両国の訴訟を聴断する役で、定員は一名である。千石高で役料千五百俵である。
 赴任の時に時服四領、羽織を拝領し、引越拝借金三百両を支給された。
 慶長五年(1600)に設けられ、後に二名となったが、享保十一年(1726)再び一名制となった。与力は定員六騎で八十石高、同心は定員七十名で三十俵二人扶持から、十五表壱人扶持で、譜代准席から抱筋まである。
弘化二年(1845)、山田奉行所はほぼ全焼したが、翌弘化三年(1846)改築された。当地に「山田奉行所記念館」が建てられている。

[日光奉行]
日光東照宮を守衛して、修繕、祭祀を掌り、併せて日光の土地の政事、訴訟を行う。定員は二名で一年交替で九月に参府する。二千石高で、役料は五百俵。
 配下では、支配組頭は定員六名で三百俵、二十人扶持、同心は三十俵二人扶持から十五表二人扶持まで、定員は三十六名。支配吟味役の定員は七名で百俵高、扶持持五人扶持、役料金五両で、赴任の折御暇金十五両が支給される。

[堺奉行]
 関ヶ原の戦いの後の慶長五年(1600)、堺政所を置いたが、貞亨頃(1684--1688)から堺奉行と改称した。
 大阪城代の指揮を受けて、大坂町奉行と協議して、堺市内の管理と訴訟の決裁を行い、港湾監査に当たった。大坂町奉行に合併されたこともあったが、再び再開され千石高で、役料として現米六百石が支給された。

[箱館奉行]
 享和二年(1802)二月、蝦夷奉行二人を置いたのを、三月に箱舘奉行所と改称した。場所初め亀田であったが、文化四年(1807)、松前に移した。文政五年(1822)、土地を松前氏に返却するとともに廃止したが、安政元年(1856)六月、再び奉行三名を置き、一名は箱舘在府、一名は蝦夷地巡回、一名は箱舘在勤とした。二千五高、役料千五百俵である。




[註]
*1=柳営(りゅうえい=将軍家)勤仕(きんし=つとめつかえること) 録(ろく=記したもの)。柳間席の大名である大関増業(おおぜきますなり、下野黒羽一万八千石)が、殿中での立ち居振る舞い等を記した書。
*2=ちょうあい。寵愛して特別に待遇すること。
*3=いぎ。礼式にかなった、重々しく威厳のある態度・動作。
*4=ほい。幕府には六位の叙任がなく、幕府で決めた布衣という格がある。朝廷の六位以下は無紋の狩衣を着用し、これを布衣(ほうえ)と呼んでいるのに相当し、布衣(ほい)と呼び習わし狩衣と同形で無紋の布衣を着用する。三千石以上の無役や、低い御役の頭はたいていこの布衣である。
*5=じょうし。幕府・藩などから上意を伝えるために派遣された使い。
*6=笏(しゃく)とは、日本において束帯の着用の際、右手に持つ細長い板である。
中国発祥のものであり、中国では官人が備忘として書きつけをするための板であったとされている。六世紀に中国から伝来し、日本では初めは、朝廷の公事を行うときに、備忘のため式次第を笏紙(しゃくがみ)という紙に書いて笏の裏に貼って用いていた。後に、重要な儀式や神事に際し、持つ人の威儀を正すために持つようになった。
*7=きもいり。
 (1)あれこれ世話や斡旋をすること。また、その人。取りもち。
 (2)江戸時代、名主・庄屋の異名。
 (3)江戸幕府の職制で高家(こうけ)や旗本の寄合の上席。高家肝煎・寄合肝煎など。
*8=『明良帯録』史籍集覧本 2巻 (東京 : 近藤瓶城 , [明治中]刊)
*9=こひつみ。古筆とは日本の古書、主に写経、歌文の写本、古文書をいうので、これを鑑定することを古筆見という。鑑定書は大高檀紙か、奉書の折紙に書かれている。
*10=ちょうだん。訴えを聞いてとりさばく。聴決。聴訟。聴獄。
*11=かんさつ・だんきゅう。調査し監督する役で、罪状や責任を問いただして、とがめることを職分とする。
*12=世話をして後見したり、また差配・指図したりすること。
*13=きしき。定まった作法。きまり。さだめ。
*14=しょだいぶ。 五位の大名・旗本。
*15= ようえき。律令制下の労役の総称。特に、雑徭(ぞうよう)つまり雑用と歳役(さいえき、都で土木事業に使役、又は代わりに庸として布や米で納付)。
*16= こしょう。本来は「扈従」と書いた。
「扈」は音で「コ」、訓は「したがう」で、君主の後に従う。おとも。従者。
「従」は漢音で「シュウ」。訓は「したがう」、前の人について行くの意。
このことから「扈従」は「こしょう」と読み、意味としては「貴人につき従うこと。また、その人。おとも。こじゅう」となる。本来の表意文字なら「扈従」であり、幕末までの系譜などには、この本来の文字が書かれているものも散見される。
近世は「小姓・小性」などと一般的に表記されているが、これは古代から漢字の“音(おん)”のみを借りて日本語の音を表記した万葉仮名に由来している。つまり万葉仮名は臨時的な文字で、本来の漢字の使い方ではない使い方、つまり意味を持たない漢字「仮名」で表記してきた歴史がある。従って「扈従」の表意文字を「小姓・小性……」の「仮名」で表記したのであり、書きやすく、また誰にでも読みやすい文字として定着していったものと推測される。(出典:『音聲學大辞典』、『世界の文字の図典』、愛知学院大学講義・文学Ⅱ・教養部河野敏宏教授)
*17=『讀史備要』東京大学史料編纂所/編 講談社or内外書籍会社
*18=『長崎叢書 』(下) 長崎市役所/編 原書房 1973.04
年表第一「寛永三年丙寅 奉行 水野河内守 〇此年大に天主教徒を駆逐す改宗する者は耶蘇の像をを踏ましめ且薄冊に捺印せしむ此輩を轉ひの族と云ふ其改めさる者は之を逐い其山中に隠れ暇屋を造りて住する者亦皆之を逐ふ踏繪の法實に此時に濫觴す」
この年(寛永三年(1626))大いにキリスト教徒を駆逐する。改宗する者は、キリストの像を踏ませ、さらに帳簿に捺印させる。この連中を「転びの族」という。それを改めない者はこの者を追放し、山中に隠れ仮小屋を造って住む者もまた追放する。踏み絵の法律は、まさにこの時を初めとした。(踏み絵の起源)

                                                                                《 了 》


                                              文責:水野青鷺




江戸幕府幕閣・幕臣水野氏在職表1/3
江戸幕府幕閣・幕臣水野氏在職表2/3
江戸幕府幕閣・幕臣水野氏在職年表
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by mizuno_clan | 2009-09-06 04:18 | R-4>水野氏諸他参考資料

江戸幕府幕閣・幕臣水野氏在職表[第2版]2/3

●職制――――
[老中(ろうじゅう)]
 大老の下に属するが、大老を置かない時は幕閣の首班(第一位の席次)であり、現在の国務大臣に相当する大政に預かり、庶務を総理しその職務は広い。徳川家では始めは年寄衆といい、一万石以上の譜代大名から補したが、後には二万五千石以上となった。定員は四人か五人で、月番制で毎月交替した。大名として最高の役職。
三代将軍家光の時に職制を改めて、皇室、公卿、門跡、大名の事を掌り、奉書に連判し、財務、寺社、大土木の事も掌った。老中となる資格は先祖以来徳川氏に忠勤した十万石前後の譜代大名からとなったが、九州に領地のある大名は国防上の見地から老中および若年寄にはなれなかった。このことこから、老中を目論んだ水野越前守忠邦のように、禄高は六万石ながらも、実高二十万石といわれた肥前唐津の裕福な土地から、表高六万石で内高と差して変わりない、どちらかといえば痩せ地である遠州浜松に敢えて移封して貰ってまで、老中になったという例もある。
 老中の権威は大老に次ぎ、御三家御三郷も会釈するほどであったから、行き会った諸大名は城中でも行列でも道を譲った。そして用向きに関しては国主大名に対してさえ、将軍や大老並みに「その方(ほう)……」と呼んで命令する位の権威があった。故に四、五万の大名でも、何十万石、百万石の国主大名の上に位する事ができるから、諸大名にとっては先述の越前守忠邦の例を挙げるまでもなく、藩士に不自由な思いをさせて官職を得るために手だてを尽くす獵官(りょうかん)運動をしてまでも、老中になりたがった。また老中になっても、羽振りを良くするためには持出し勤めを行ったから、沼津藩主水野出羽守忠成のように、うまく勤めれば加増となるが、そうでないと大名の名誉欲を満足させるだけで、家臣にとっては甚だ迷惑であり、なんとも難しい立場の役職ではあった。
 しかしながら、老中を務めた者は寛永九年(1632)に始まってから、慶応三年(1867)までの二百三十六年間に、百四十五人にも及んでいる。

[側用人]
 側用人とは、君側第一の立場で将軍を補佐する役柄であって、『柳営勤仕録』(*1)には
「御側向御用を掌り、老中伺い等を取次伝達する所の職分なるよし。上の寵遇(*2)の深浅によって、其威儀(*3)も品もあるべき事か」と記されている。
 通常は大名が任ぜられているが、直接将軍に接しているのでその勢力は大きく、老中支配下にはあるものの、時々老中、若年寄もその勢威に屈した。この顕著な例として、柳沢吉保は綱吉が五代将軍となるに随って保明も幕臣となり、綱吉の寵愛により頻繁に加増され、やがては側用人に就任し、老中の上にあって内外の政事に関係していた。待遇は老中並みで通常は御側衆から選ばれる。駿河沼津藩主水野出羽守忠友、出羽守忠成父子は、若年寄から側用人となり、さらには老中まで昇り詰めた。

[若年寄]
 大老の名称に対しての呼称として『藩翰譜』や『徳川実記』には、小老と書かれており、この若年寄という呼称は、老中を年寄衆と呼ぶこともあるのに対し、若い、つまり順序を示す数値が小さいということから、その次席という意味で用いられたものである。
また『松蔭日記』などには、執事および参政と書かれており、これは老中が執政ともいったのに対して、役職上参政といったのであろうとされる。
 管轄は、老中が公家大名を所管したのに対し、若年寄は旗本を所管したことから、古くは、「旗本支配」という別称も記録されており、『古老茶話』によれば布衣(*2)以下の旗本の御仕置の場合の申し渡しは、若年寄の邸宅で行うと記されている。
この職に就く資格は、老中と同じく、恩顧譜代の十万石以下の大名で、多くは一、二万石級の者が占めていた。願い譜代になって任命される事があるが、城持ちの城主ではなく、無城の大名である領主から選んだ。若年寄には最初から任命されるものもあったが、殆どは寺社奉行、御側衆、御奏者番、大御番頭などになっていたものから選ばれた。
水野監物忠之、水野壹岐守忠見、水野壹岐守忠韶、水野出羽守忠成、水野左近将監忠精は奏者番から選出されている。定員は四、五名で老中と同じく月番があり、勝手掛、馬掛、女中掛などの各職掌もあった。
 若年寄から老中に直接昇格した者には、水野和泉守忠之が居る。
若年寄は寛永十五年(1638)に設けられてから、明治元年(1868)に廃止されるまでの二百三十一年間に、百二十四人居り、再任者も数名いる。

[奏者番]
 武家の殿中における礼式に関する事を司り、年頭や御佳節(祝日)に、諸侯以下が将軍に拝謁する取次を行い、進物を披露し、上使(*5)に立つ重要な職である。奏者番はあくまで“武家の典礼”のみに限られてはいるが、その服務はなかなかうるさくやかましいもので、新任の者は古参の者に絶対服従であった。筆頭の二三名が寺社奉行を兼任し、筆頭上席の者を御職と言った。准国主が参府または、御暇(おいとま)のときには奏者番は上使として立ち、また諸侯の病気見舞いにも上使として立ち、さらには御三家御三郷以外の、諸侯の死去の折にも上使として立った。奏者番は種々のことを披露するので、その人の氏名官位を忘れないように小さな紙に書いて指の間に挟み、披露の時手をついた時に紙を見ながらいった。これを奏者番の手札といった。古代なら笏紙(*6)、現代ならさしずめカンペと言ったところであろうか。
 奏者番は譜代大名から選ばれ、この職を勤めた者のうち四名は寺社奉行となり、大阪城代、京都所司代を経て老中に昇るものもある。また、奏者番と寺社奉行を兼帯した水野出羽守忠成、水野左近将監忠精、水野出羽守忠忠誠、奏者番と寺社奉行・大阪城代を兼帯した水野右衛門太夫忠春、水野左近将監忠邦といくつかの職を兼帯した例もあり、特に寺社奉行の兼帯が多い。定員はないが、たいていは二十人前後で、その中に肝煎(*7)が置かれて万端を指図した。『明良帯録』(*8)には「言語怜悧英邁之仁にあらざれば絶へず」と記されているように、頭の働きや人格・才知が特別に優れている賢い者でなければ到底勤まらなかった。

[寺社奉行]
 全国の寺社ならびに神官僧侶の統制が主な任であるが、社寺領の人民、修験者、虚無僧や陰陽師らの民間宗教者、楽人、連歌師、古筆見(*9)、碁、将棋の類の芸能民、さらには徳川氏に縁故のある農工商を管轄して、その訴訟を裁判する役目である。寺社の門前地は寺社に付いているので寺社奉行の支配であったが、この門前地に町奉行の手の届かない岡場所という私娼窟が設けられ取締に甚だ支障をきたしたことから、貞亨二年(1745)、門前地に限り町奉行の支配と改め、以降は町奉行の手入れが出来るようになった。ただし犯人が寺社に逃げ込んだ場合は、町奉行から寺社奉行に連絡が入り、寺社奉行がこれを捕らえた。
 奏者番が兼帯し、定員は四名、月番を定めて勤務した。三奉行の筆頭格といわれ、およそ五万石から十万石の大名から選任されたことから、幕府直属の与力同心の配属がないので、家臣を用いてその機能を果たした。家臣から用いる職員は手溜役、寺社役各々四五名、取次十数名、大検使、小検使各々二三名、下に同心十数名で町奉行から比べると意外に少ない。またこれらの職員は主人が奉行を退くと一緒に辞職するので、交替した新任奉行および職員は全く物慣れないので大変なことであった。そこで天明八年(1788)、評定所の留役を寺社奉行所手代として勤めさせ、事務の中断されるのを防いだ。
この留役は、支配留役、さらには吟味物調方と改称された定員の四名は、四人の奉行の内それぞれ一人の奉行に付属し、寺社奉行が替わると、また新任の寺社奉行に付属した。
寺社役は神官僧侶の犯罪を捜査逮捕したり、素行調査を行い寺社領に対する幕府よりの貸付金の調べなどをした。寺社役同心は、寺社領の犯罪の捜査逮捕に当たり、寺社内の興行には絶えず見廻って監督した。取付役は用人などを用い、訴訟を受付け、事務を扱い吟味物調方の下調べに陪席して奉行に上申した。大検使は、寺社役が兼務し、事件における殺傷の場合は出役臨検した。小検使は、町奉行の捕物出役と廻方を兼ねたもので、たいていの寺社内の犯罪を扱った。
裁判については、寺社奉行単独で裁くものを「手限りもの」といったが、町奉行、勘定奉行と共に三奉行合議で裁くのを「三手掛」といい、さらに大目付、目付が加わるのを「五手掛」といった。

[京都所司代]
 朝廷に関する一切のことを掌り、公卿をも監督し、訴訟を聴断(*10)し寺社を支配した。
『明良帯録』に、「四国、中国、九州の要領(要所)なれば、尤[も]重[き]任[務]也、土地の事にも預るなり、非常の備第一」とあり、大名の任務としては西国大名の抑えの要として、幕府重職にあった。
慶長五年(1607)九月に始めて置かれ、奥平美作守信昌がこれにあたった。所司代はこの他にも西国筋の女旅行切手(通行手形・パスポート)の発行をも掌った。つまり江戸在住の大名の妻が密かに西方の領国へ帰国することを防止する役割を果たしていた。
当職は寺社奉行、奏者番から昇進して、先は大坂城代から、若年寄、老中に進む出世コースの道程である。

[大阪城代]
 大坂は軍事、政事経済上の要地であるので、元和元年(1615)六月十日、松平下総守清匡が任ぜられてより、明治元年(1868)に廃止されるまで、六十七人が歴任した。京都と同じく西国に対する抑えとして重要な地点であるところから、常時城内の警備を厳重にし、大阪およびその付近の訴訟を聴断(*10)する役であった。
一万石以上の大名から選ばれるが、これに任ぜられる大名は奏者番か寺社奉行であることから実質五万石以上の者が多く、これを勤めた者は老中に進む道が開ける。勤番中は御役知が一万石付く。赴任に際して従四位に任ぜられ、所司代格で将軍に拝謁した後、黒印を授けられ、刀(代金二十枚)、馬一疋、時服二十領を賜り、旅費として一万両借りることが許される。そして五、六年に一度は江戸へ参府して将軍に拝謁するのが例となっている。
城代の職は将軍に直属しており、将軍の代理的地位であるから、定盤以下諸役人と対する時も一段高い座についた。また大坂町奉行、堺町奉行を監督して訴訟を裁決し、関西三十余ヵ国におよぶ大名封内の事件の裁断を行った。さらには大坂町奉行の目安箱の鍵を預かり将軍代理としてその訴状に目を通した。

[大目付]
 古くは総目付といって寛永九年(1632)に三名が任じられたのが初めで、後には四人または五人となり、弘化三年(1846)には、道中御奉行、宗門御改加役人別帳御改、御日記帳改、服忌令分限帳改、御鉄砲指物帳御改を専任することに伴い、新たに五名増員して十名に及んだ。本務は監察糺弾(*11)で、『明良帯録』に、「動向は諸大名への御触事、御礼席、寄せ差引(*12)、老中方よりの御触事、御規式(*13)にかかりたる御書付は、此役場へ御渡しあり、殿中非常の取計、西丸御殿見廻り、評定所立合等、其外政務筋一なり」とあり、この職のほかに一名ずつが、道中御奉行、宗門御改加役人別帳御改、御日記帳改、服忌令分限帳改、御鉄砲指物帳御改の兼帯を持っていた。
この職に就く事が出来るのは、三千石以上の旗本で、古くは万石級の者からも選んだが、嘉永(1848--1854)頃から適任であれば五百石級からも選ばれた。万石級以上の者を監察する役であるから待遇は万石級で諸大夫(*14)である。
 将軍の代理として、役職に就いている大名及び旗本を監察する立場であるから、御目代ともいい将軍に直訴することができるから、老中の支配下にあっても老中も監察される立場にあった。また各藩の居城の修理拡張、国内の堤防に関する事、大名の関門(関所)の監督なども行った。

[町奉行]
 役職として町奉行が任命されたのは江戸幕府になってからで、徳川家が三河にいた頃もすでにこの職があり、任命された者の邸宅を奉行所として用いていた。
 三代将軍家光の嘉永八年(1631)十月に、加賀爪民部少輔忠澄を北町奉行、堀式部少輔直之を南町奉行とし、この時から役宅を造って月番で執務させたが、町奉行の始まりであるが、慶長年間(1596--1615)にすでに行われていたともいわれている。
 江戸以外の町奉行は地方官の一種であるから、京都、大坂、駿府など数カ所に置かれているが、江戸は中央政府のある首府であることから、単に「町奉行」と称して地名を冠しない。別称としては御番所、御役所ともいったが、江戸町奉行という呼称はあくまでも通称にすぎない。
町奉行に任ぜられる者は、始めは一万石以上の者であったが、後には禄高に関わりなく適任者を選んだが、およそ三千石以上の者が多かった。
 行政、司法、警察の事務を行い、武家寺社を除いた江戸市民を管掌した。定員は寛永十二年(1635)には二人であったが、元禄十四年(1701)には三人となり、享保四年(1719)には再び二人制に戻った。其の管轄地は、慶長年間(1596--1615)には三百町であったが、明暦三年(1657)の明暦の大火以降の都市改革に伴い五百余町を成し、通称大江戸八百八町と呼ばれるようになる。寛文二年(1662)には、南は高縄(高輪)、北は坂本、東は今戸まで拡がり、正徳三年(1713)には深川、本所、浅草、小石川、牛込、市ヶ谷、四谷、赤坂、麻布の二百五十九町が合併され併せて七百余町となり、また天保(1830--1844)頃には千六百七十九町まで拡張された。この合併前の旧江戸町内を、古町(こまち)といって免税されていたが、新合併の土地は代官が,年貢を取り立てていた。そこで、これを両支配の土地といっている。
 町奉行は一月交替で月番と非番があり、月番の町奉行所は門を開けて訴訟を受付け、非番の町奉行所は門を閉じて、前月受付けて未処理の訴訟を処理していた。そして奉行は月番奉行と事務連絡をしたり、江戸城へ登城して伺書を老中に提出したり、裁決された書類を受け取って戻り、罪を処理したりした。
 月番の奉行は朝四ッ(午前十時)の御太鼓前に登城して八ッ(午後二時)頃奉行所に戻り、それから民事、刑事の訴訟の処理吟味にかかるのである。

[勘定奉行]
 江戸幕府では慶長八年(1603)、大久保石見守長安を財政会計の職に就けたのが始まりであるが、その時は未だ勘定奉行という名称ではなかった。寛永十九年(1642)、幕府は勘定頭と名付け、伊丹喜之助康勝を任命しこの職に当たらせた。元禄になって初めて勘定奉行の名称が生まれた。享保七年(1722)八代将軍吉宗の時代に初めて職務を二分割し、勝手方は税収、徭役(*15)、金穀(金品)の出納、禄米(俸禄米)の支給、旗本采地(領地)の分割、貨幣の鋳造から、河川橋梁の普請、幕府の一切の“出入費”について取扱い、他方の公事方は天領(幕府直轄地)の訴訟を取り扱った。現在の用語では「経理部」および「会計課」といったもので、金銭の収支や物品・不動産の増減など財産の変動、または損益の発生を貨幣単位によって記録・計算・整理し、管理および報告する仕事である。
 また幕府の“財政”を掌る所は老中の所轄である「勘定所」というのがあり、老中勝手方とその下にある若年寄勝手方がある。こちらは「財務部」に相当し、幕府が、その存立を維持し活動するために必要な“財力”を取得し、これを管理・処分する一切の作用を行った。この勘定書を直接支配するのが勘定奉行勝手方であるから、勘定奉行勝手方は財務省・国土交通省を兼帯していたことになり、たいへんな重職であった。
勘定奉行の役に就ける者は、およそ二三千石級の旗本から任じられるが、経世理財に長けた者なら五百石級でも任命されることがある。定員は四名で二名が勝手方、二名が公事方を勤め、これらは一年で交替し合う。それぞれ二千五百石ずつが支給された。
 勘定奉行勝手方は、御殿勘定所と、大手門内の下勘定所に勘定吟味役をつれて出勤するのであるが、二箇所あるので、朝七ッ(午前五時)に下勘定所に出勤して書類に目を通し、五ツ半(午前九時頃)御殿勘定所に詰めるという忙しさで、二名が月番交替で行った。
 公事方二名は役宅で訴訟を扱ったが、評定所へも出勤して裁判をしたりして、こちらもなかなか忙しいので慶長二年(1866)から、執務場所を評定所に移した。内寄合は六日、十八日、二十七日で、寺社、町と共に三奉行が合して管轄違いの事件などを打ち合わせ交渉した。勘定奉行の支配下にあるものは、勘定所、評定所留役、金奉行、切米手形改、蔵奉行、林奉行、漆奉行、書換奉行、川船改役、京都入用取調役も金座、銀座、朱座、諸国代官、上方郡代、西国筋代、飛騨郡代、大津郡代、大阪蔵奉行、二条蔵奉行など多数広範囲に及んでいた。

[外国奉行]
 幕末には外国との交渉多端となり、安政五年(1858)、ロシア・オランダ・フランス・イギリス・アメリカと条約を結ぶようになったことから、同年七月八日にこの職を設けた。勘定奉行の水野筑前守忠徳、永井玄蕃頭尚志のほかに番頭格から三名補して五名定員として、同六年(1859)七月からは、水野忠徳と神奈川奉行村垣淡路守範忠(範正)をして月番執務をさせ、続いて神奈川奉行の兼帯とした。当時神奈川奉行は八人であったが、万延元年(1860)九月には神奈川奉行兼帯を止め十人が専任となった。
 初めは番頭級から選んだが、国事多端の折から有能な士であれば禄高に関わらず用いた。下に組頭、調役、調役並、用出役、翻訳方、定役元締、定訳などがあった。
 この役職は時局柄多忙を極め、僅か十年に七十四人の者が歴任し、重任する者九名、三回勤める者三名が居り、村垣淡路守の六年が最も長く、白石下総守の三日が最も短い。
 水野筑前守忠徳については、当記事に書いたように、外国奉行の外、長崎奉行を始め多くの奉行職を歴任しており大変魅力的な人物であり、数年前から多くの史料を収集し現在研究中であることから、その内投稿する予定をしている。乞うご期待。

[軍艦奉行]
 安政四年(1857)四月、軍艦操練所を築地に開所して、観光艦で操練を始めたときに、永井玄蕃頭尚志が軍艦教授所総督に任じられたが、教授所は軍艦所と改名されたので、安政六年(1859)二月二十四日に総督は軍艦奉行に変わった。軍艦奉行は戦隊司令官の立場である。
 万延元年(1860)、日米修好通商条約の批准書を交換するため、アメリカに渡航した有名な咸臨丸もこの奉行所の配下にあった。
 文久二年(1862)には、御船手も合併した。
 慶応三年(1867)には、場所高を止めて、年に八百両を月割りにして御役料として支給した。

[浦賀奉行]
 元和二年(1616)、初めて下田に下田奉行を設けたが、享保六年(1721)二月、これを浦賀に移して浦賀奉行所となった。当初は一人制であったが、文政二年(1819)二月、二人定員月番制と改め、天保十三年(1842)十二月、再び一人制となり、弘化元年(1844)、又二人制に戻り、さらには文久二年(1862)七月から明治に廃止されるまでは一人制と目まぐるしく体制が変更された。文久二年(1862)に一人制が確定したのは、安政六年(1859)、直線距離で北北西約24kmの場所に、貿易港として神奈川港が開港されたことに伴い、新たに神奈川奉行所が置かれたことで、浦賀には外国船は停泊しなくなったことによるものと推定される。このことから、浦賀奉行は、従来からの東京湾の出入り船舶の監督と、奥羽、江戸、大坂間の廻漕諸貨物の監査と、付近の幕府領の民政を掌ることに職務が縮小された。しかしながら外国船が渡来したときには隣接諸藩に応援警備を命ずる権限を持っていた。

[神奈川奉行]
安政六年(1859)に、長崎、箱舘、神奈川の三港が、ロシア・オランダ・フランス・イギリス・アメリカの五ヵ国の貿易港となったので、同年六月四日、外国奉行所酒井壹岐守忠行、水野筑前守忠徳、村垣淡路守範忠、堀織部正利熙、加藤壹岐守に兼帯を命じ、翌万延元年(1860)九月十五日、松平石見守康直、都築駿河守峰暉を専任とした。その職責は神奈川港の民政、刑事、運上所(税関)の事務と外交である。
 文久年間(1861--1864)後、各国の公使が江戸を退いて横浜に移ってからは、その折衝の任にに当たり、当時の幕府外交上大変重要な地位にあった。待遇は場所高二千石、御役料千俵で長崎奉行の上であった。慶応三年(1867)には場所高を止めて年給三千両とされた。支配下に支配組四名、調役等がおり、文久三年(1863)には新たに「神奈川奉行並」が設置された。
 奉行所の位置は現在の横浜である。初め神奈川に置く予定であったが、攘夷思想盛んな当時東海道の往還では葛藤の起こる虞があり、その上土地が狭く海も浅いので、対岸の横浜を開いて貿易港とし、奉行所と運上所をここに置いた。ハリスや英国公使のオールコックは条約違反であるとして反対したが、外国商人が横浜に移り住んだので各国公使も移らざるを得なった。日本でも横浜に奉行所を置いても神奈川奉行所といっていた。
尤も運上所の置かれていた位置は、皮肉にも現在の神奈川県庁に当たる。
                                       
                                                つづく


江戸幕府幕閣・幕臣水野氏在職表1/3
江戸幕府幕閣・幕臣水野氏在職表3/3
江戸幕府幕閣・幕臣水野氏在職年表
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by mizuno_clan | 2009-09-06 04:05 | R-4>水野氏諸他参考資料

江戸幕府幕閣・幕臣水野氏在職表[第2版]1/3

1.本表は、『江戸幕府役職集成』(増補版)笹間良彦著 雄山閣出版社 1981.05 、『幕府奏者番と情報管理』国文学研究資料著 名著出版 2003.03 、 『江戸幕府旗本人名辞典 第3巻』小川恭一/編 原書房 1989.10などをもとに、「水野氏」のみを抜粋し作成した。

2.今般、幕閣幕臣水野氏名を年代順に表に記したことにより、「水野氏」が如何に長期に渡り幕閣および幕臣の中核をなし、忠勤に励んでいたかが判る。

3.人名の下の年号は就任と退官年。

4.別掲載の「江戸幕府幕閣・幕臣水野氏年表」と併せて御覧下さい。



▼老中の一覧表
水野和泉守忠之(ただゆき)――三河岡崎藩主三万五千石後四万五千石
享保2年(1717)
享保15年(1730)
水野出羽守忠友(ただとも)――老中格 駿河沼津藩主二石後三万石 天明1年(1781)
天明5年(1785)
水野出羽守忠友(再任)
天明5年(1785)
天明8年(1788)
水野出羽守忠成(ただあきら) ――駿河沼津藩主三万石後五万石
文化14年(1817)
文政1年(1818)
水野出羽守忠成(再任)
文政1年(1818)
天保5年(1834)
水野越前守忠邦(ただくに)――遠州浜松藩主四万五千石後五万五千石
天保5(1834)
天保14(1843)
水野越前守忠邦(再任)
弘化1年(1844)
弘化1年(1844)
水野和泉守忠精(ただきよ)――出羽山形藩主三万五千石
文久2年(1862)
慶応2年(1866)
水野出羽守忠誠(ただのぶ)――駿河沼津藩主五万石
慶応2年(1866)
慶応2年(1866)


▼側用人の一覧表
水野出羽守忠友(ただとも)――駿河沼津藩主二万石
安永6年(1777)
天明1年(1781)
水野出雲守忠成(ただあきら)――駿河沼津藩主三万石
文化9年(1812)
文化14年(1817)

▼若年寄の一覧表
水野監物忠之(ただゆき)――三河岡崎藩主三万五千石後四万五千石
正徳1年(1711)
正徳4年(1714)
水野壱岐守忠定――信濃五千石後北条に転封一万二千石
延享2年(1717)
延享5年(1720)
水野壱岐守忠見(ただちか)――北条陣屋一万二千石後一万五千石
宝暦10年(1760)
安永4年(1775)
水野豊後守忠友(ただとも)――駿河沼津藩主二万石
明和4年(1767)
安永6年(1777)
水野出羽守忠成(ただあきら)――駿河沼津藩主三万石
文化3年(1806)
文化9年(1812)
水野壱岐守忠韶(ただてる)――北条陣屋一万五千石後鶴牧へ移封
文化5年(1808)
文政11年(1828)
水野左近将監忠精(ただきよ)――出羽山形藩主五万石
万延1年(1860)
文久2年(1862)

▼奏者番の一覧表
水野隼人正忠淸(ただきよ)――信州松本藩主七万石
慶長7年(1602)
元和1年(1615)
水野石見守長勝(ながかつ)――武蔵男衾の内八百石後大和國宇智・葛下・式下の内二千石加増(伏見常番兼帯)
慶長7年(1602)
慶長14年(1609)
水野備後守元綱(もとつな)――三河新城藩主一万三千石後上野安中二万石
寛永9年(1632)
万治2年(1659)
水野右衛門大夫忠春(ただはる)(寺社奉行兼帯)――三河岡崎藩主三万石
天和1年(1681)
貞亨2年(1685)
水野監物忠之(ただゆき)――三河岡崎藩主三万五千石後四万五千石
宝永2年(1705)
正徳1年(1711)
水野肥前守忠見(ただちか)(宝暦7年11月25日壹岐守)――北条陣屋一万五千石
宝暦7年(1757)
宝暦8年(1758)
水野壹岐守忠韶(ただてる)――上総鶴牧藩主一万五千石
天明7年(1787)
文化五年(1808)
水野出羽守忠成(ただあきら)(寺社奉行兼帯)――駿河沼津藩主三万石
享和二年(1802)
文化3年(1806)
水野左近将監忠邦(ただくに)(寺社奉行兼帯)――遠州浜松藩主四万五千石
文化12年(1815)
文政8年(1825)
水野壹岐守忠実(ただみつ)――上総鶴牧藩主一万五千石
文政12年(1829)
天保10年(1839)
水野壹岐守忠順(ただより)――上総鶴牧藩主一万五千石
嘉永1年(1848)
文久2年(1862)
水野大監物忠精(ただきよ)(寺社奉行兼務帯)――出羽山形藩主五万石
嘉永6年(1853)
万延1年(1860)
水野河内守忠寛(ただひろ)――駿河沼津藩主五万石
安政5年(1858)
安政6年(1859)
水野出羽守忠誠(ただのぶ)(寺社奉行兼帯)――駿河沼津藩主五万石
文久3年(1863)
元治1年(1864)
水野肥前守忠順(ただより)(再任)――上総鶴牧藩主一万五千石
文久3年(1863)
明治1年(1868)

▼寺社奉行の一覧表
水野右衛門大夫忠春(ただはる)――三河岡崎藩主三万石
天和1年(1681)
貞亨2年(1685)
水野出羽守忠成(ただあきら)――駿河沼津藩主三万石
享和3年(1803)
文化3年(1806)
水野左近将監忠邦(ただくに)――遠州浜松藩主四万五千石
文化14年(1817)
文政8年(1825)
水野左近将監忠精(ただきよ)――出羽山形藩主五万石
安政5年(1858)
万延1年(1860)
水野出羽守忠誠(ただのぶ)――駿河沼津藩主五万石
文久3年(1863)
元治1年(1864)

▼京都所司代の一覧表
水野和泉守忠之(ただゆき)――三河岡崎藩主三万五千石
正徳4年(1714)
享保2年(1717)
水野左近将監忠邦(ただくに)――遠州浜松藩主四万五千石
文政9年(1826)
文政11年(1828)

▼大阪城代の一覧表
水野出羽守忠職(ただとも)――松本藩主七万石
承応3年(1654)
明暦2年(1656)
水野出羽守忠職(再任)
万治2年(1659)
万治3年(1660)
水野右衛門太夫忠春(ただはる)――三河岡崎藩主三万石
貞享1年(1684)
貞享1年(1684)
水野左近将監忠邦(ただくに)――遠州浜松四万五千石
文政8年(1825)
文政9年(1826)

▼大目付の一覧表
水野河内守守信(もりのぶ)――旗本三千五百石後五千石(常滑水野監物守隆の子)
寛永9年(1632)
寛永13年(1636)
水野伊豆守守政(もりまさ)――旗本五千七百石(守信養子)
貞享2年(1685)
貞享4年(1687)
水野対馬守忠伸(ただのぶ) ――旗本(水野重矩の男因幡守忠順の養子)
延享1年(1744)
延享4年(1747)
水野若狭守忠通(ただゆき)――旗本千二百石(水野勝成四男勝忠の嫡男勝岑の曾孫)
文化7年(1810)
文政6年(1823)

▼町奉行の一覧表
[南町]
水野備前守勝彦(かつよし)――旗本(勝成四男勝忠の二男勝直の三男)
天文4年(1739)
天文5年(1740)

▼勘定奉行の一覧表
水野若狭守重格(しげのり・しげただ)――旗本近江佐野郡の内千六百石(後因幡守忠順)下総守定勝二男
正徳2年(1712)
享保4年(1719)
水野小左衛門信房(のぶふさ)――旗本平三郎信遙の孫
正徳3年(1713)
享保8年(1723)
水野対馬守忠伸(ただのぶ)――旗本因幡守忠順の養子
元文3年(1738)
延享元年(1744)
水野若狭守忠通(ただゆき)――旗本(勝成四男勝忠の嫡男勝岑の曾孫)
文化3年(1806)
文化7年(1810)
水野筑後守忠徳(ただのり)――旗本水野忠長の養嗣子
安政1年(1854)
安政2年(1855)

▼外国奉行の一覧表
水野筑後守忠徳(ただのり)――旗本水野忠長の養嗣子
安政5年(1858)
安政6年(1859)
水野筑後守忠徳(再任)
文久1年(1861)
文久2年(1862)

▼軍艦奉行の一覧表
水野筑後守忠徳(ただのり)――旗本水野忠長の養嗣子
安政6年(1859)
安政6年(1859)

▼神奈川奉行の一覧表
水野筑後守忠徳(ただのり)――旗本水野忠長の養嗣子
安政6年(1859)
安政6年(1859)

▼伏見奉行の一覧表
水野石見守忠貞(たださだ)――旗本(新宮水野重仲の二男定勝の嫡男忠矩の五代)
正保4年(1647)
寛文9年(1669)

▼京都町奉行の一覧表
[東町奉行]
水野伊勢守忠全(ただまさ)――旗本(生没年未詳。幕臣、安政六年(1859)九月京都東奉行に就任・同年十一月作事奉行に転任。
京都には着任せず。『京都市姓氏人物歴史大事典』)
安政6年(1859)
安政6年(1859)
[西町奉行]
水野備前守勝直(かつなお)――旗本(水野勝成の六男勝忠の二男)
元禄9年(1696)
元禄12年(1699)
水野下総守重明(しげあき)――旗本(貧窮者の救済など米価高騰対策を実施。在任中に没す。『京都市姓氏歴史人物大辞典』)
弘化3年(1846)
嘉永5年(1852)

▼大坂町奉行の一覧表
[東町奉行]
水野若狭守忠通(ただゆき)――旗本千二百石(水野勝成四男勝忠の嫡男勝岑の曾孫)
寛政10年(1798)
享和3年(1803)
水野若狭守道一(みちかず)――(未詳)
天保13年(1742)
弘化4年(1747)
[西町奉行]
水野因幡守正篤(まさひろ)――(未詳)
文化10年(1813)
文化12年(1815)

▼長崎奉行の一覧表
水野河内守守信(もりのぶ)――旗本三千五百石後五千石(常滑水野監物守隆の子)
寛永3年(1626)
寛永6年(1629)
水野要人忠通(ただゆき)――旗本(勝成四男勝忠の嫡男勝岑の曾孫)
天明6年(1788)
寛政4年(1792)
水野筑後守忠篤(ただあつ後の忠徳)――旗本水野忠長の養嗣子
嘉永6年(1853)
安政元年(1854)
水野筑後守忠篤(ただあつ後の忠徳) (再任)
安政4年(1857)
安政4年(1857)

▼山田奉行の一覧表
水野甲斐守忠福(ただよし)――旗本(忠近二男義忠の曾孫忠欽の男)
寛延4年(1751)
宝暦11年(1761)

▼日光奉行の一覧表
水野備前守勝彦(かつよし)――旗本(勝成四男勝忠の二男勝直の三男)
享保17年(1732)
享保20年(1735)
水野備前守勝羨(かつなが)――旗本千石(勝成四男勝忠の二男勝直の曾孫)
天明4年(1784)
寛政元年(1789)
水野忠道(ただみち)――(未詳)
寛政8年(1796)
寛政10年(1798)

▼堺奉行の一覧表
水野河内守守信(もりのぶ)――旗本三千五百石後五千石(常滑水野監物守隆の子)
寛永6年(1629)
寛永9年(1632)
水野籐右衛門信之(のぶゆき)――旗本(納戸頭から堺奉行へ 210石457合)
文政6年(1823)
文政12年(1829)

▼箱館奉行の一覧表
水野筑後守忠徳(ただのり)――旗本水野忠長の養嗣子
 文久2年(1862)
 文久2年(1862)

                                つづく
江戸幕府幕閣・幕臣水野氏年表[第4版]
江戸幕府幕閣・幕臣水野氏在職表[第2版]2/3
江戸幕府幕閣・幕臣水野氏在職表[第2版]3/3
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by mizuno_clan | 2009-09-06 03:51 | R-1>水野氏系圖・名簿