【Event】 第2回 水野氏史研究会 委員会

  昨日、霞ヶ関ビル1Fの銀座トリコロールで、
第二回委員会を開催いたしました。
参加者は、委員の三名です。
これまでの活動報告などが話し合われた後、
今後の活動方針について、引き続き現在と同様に
活動していくことが確認されました。
その後、水野忠俊氏、水野勝之氏にお会いして、
お話をうかがうこができました。
そのあたりのことは、簡略ながら、あらためて
ご報告がなされると思います。

         事務局 委員 水野智之
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by mizuno_clan | 2009-10-30 22:16 | Event-3(諸事)

【寄稿13】「会津本郷焼と水野家」»»Web会員««

【会津本郷焼と水野家】
                                           著者:水野秀輝

 会津本郷焼とは福島県大沼郡旧会津本郷町(現会津美里町本郷)を中心として産し、本郷焼ともいわれ、 陶器から起こって磁器に進んだもの。開祖以来、約360年もの長い時代を伝えられ、平成5年にはこの実績と伝承が認められ、伝統的工芸品産地として当時の通商産業省(現経済産業省)より指定を受ける。

 その開祖(陶祖)が当家初代、源左衛門成治とされ大正末期まで代々窯業を営む。以下、当家系図を基に初代から記載するもの。

 伝1604年/美濃国(尾張国)瀬戸生まれの水野源左衛門成治が奥州岩代国長沼(福島県岩瀬郡長沼町)に来て窯業を営んでいたところ、1647年(正保4年)2月、当時の会津藩主、保科正之(3代将軍徳川家光の異母弟)より三人扶持を給せられて、当時の本郷村にて焼物御用を命ぜられた。 これが本郷村における陶器製造の始まりであり、また会津焼の端緒となる。製品は茶器を主としてわずかに実用品を交じえている。源左衛門の出自、奥州長沼へ流れてきた経緯は不明だが、瀬戸は尾張国に属し、水野氏が住んだ窯は現在の瀬戸市穴田窯で、後に赤津窯へ移ったと言い伝えられている。一方、美濃国とすれば水野姓の多いのは、現在の土岐市駄知となる。是非この機会に情報が得られればと願う。

 同年11月29日源左衛門没。 翌年(慶安元年)その実弟長兵衛成長が長沼にいたのを招いて兄の跡を相続させた。
 長兵衛は石灰焼成・耐寒赤瓦焼成などの功によって扶持を加増され、藩の石灰役を本職とし瀬戸方を兼ね、 代々瀬戸右衛門を称する恩命を蒙った。作品のうち最も有名なものは、青茶に薄墨少々を引いた色の釉を施した丸形の濃茶碗に巴紋を染付けたもので、 巴茶碗の称を得て珍賞され藩主から他家への贈進物となった。1660年(万治3年)3月3日没。
※参考資料:http://www.hongoyaki.or.jp/hongouyaki/index.htm

 三代目瀬戸右衛門成紀は1679年(延宝7年)江戸の高原平兵衛の工場、すなわち将軍家御用の高原焼で技術を伝習し、元禄2年には濃茶碗も焼けるまでになり、石州流の師範へも納めるようになる。1692年(元禄5)7月20日没。

 四代目瀬戸右衛門は1745年(延享2年)に8将軍吉宗より茶碗を作るよう命じられるまでになる。1747年(延享4年)4月18日没、78歳。五代目瀬戸岩衛門成房は1770年(明和7)2月16日没。五代目までの作は世間に古本郷の名で知られている。六代目瀬戸右衛門成正は1826年(文政9)8月20日没、77歳。会津焼磁器の端緒はこの代に当たる。

 七代目瀬戸右衛門成栄は1870年(明治3)帰農して隠居し名を瀬戸一と改めた。1877年(同10)旧7月12日没、76歳。

 八代目成時は、廃藩と共に瀬戸右衛門の通称を一旦中絶されて瀬戸次と改めたが、1878年(同11)若松県庁に請い改めて瀬戸右衛門の旧称に復した。1893年(同26)旧3月10日没、72歳。九代目はその子多門。以上を陶器の本系とする。八代目成時~九代目多門の頃に、会津藩が命運をかけて戦った戊辰戦争が起こり本郷村も戦火に巻き込まれる。尚、九代目多門は当時、白虎隊寄合二番組隊員として越後口の戦いに出陣、廃藩後は斗南藩には帰属せず、本郷村に残る。後に大沼郡郡議会議員。


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◆2010.01.13 update「陶家先祖覚書(水野家記録)」表紙
 本書は昭和46年に原本より写本したものですが、その主な内容としては「会津焼物出初作者先祖の覚」と題し、初代水野源左衛門(陶祖)から数え、歴代の瀬戸右衛門~10代目水野多門までの「陶租水野家に関する記録」が収められており、小寄稿の内容も本書に基づいて記載したものです。
毎年9月16日には当家菩提寺であり、源左衛門を祀った陶祖廟が境内にある常勝寺(福島県大沼郡会津美里町本郷上)にて陶祖祭が執り行われます。
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by mizuno_clan | 2009-10-27 20:11 | ★史料紹介

【寄稿12】「金切裂指物使番」にみえる「水野久右衛門尉」»»Web会員««

●「金切裂指物使番」にみえる「水野久右衛門尉」
※基礎データ:山鹿素行『武家事紀』上巻 原書房――巻第十四 續集 1982.12
 高柳光壽・松平年一『戦国人名辞典』増訂版 吉川弘文館 1962.12

                                                   (文責:水野青鷺)


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安土桃山通販様から転載許可済(2009.10.30)
豊臣秀吉 総金切裂(本陣旗) 




















★「金切裂指物使番(きんの きりさき さしもの つかいばん)」
 「使番」とは、戦国時代、戦場において伝令や監察、敵軍への使者などを務めた役職であり、「指物(旗指物)」は、
武士が戦場で目印のため、鎧(よろい)の背などにさしたり、従者に持たせたりした小旗や飾り物、背旗のことで、使番
の指物は「金色の切り裂き」、つまり、縁(へり)を適当に切り裂いて、なびきやすくしたものである。

 豊臣家臣「金切裂指物使番」については、『武家事紀』上巻「豊臣家臣」項目の最後部名簿に記載されていることか
ら、豐臣秀吉朱印状に記載された「熊谷半次と水野久右衛門尉」を中心に調べてみる。

『武家事紀』巻十四 續集 山鹿素行著
豊臣秀吉家臣「金切裂指物使番」――
<金切裂指物使番>(計32名)……[ ]内は筆者補閲
蒔田主水正[政勝]、石川兵藏[貞淸]、三上與四郎[季直]、山城宮内[忠久]、左田三六、水原石見守[吉一]、水野又右衛
門尉、熊谷内蔵允[直盛]、屋松治右衛門尉、佐久間河内守[政実]、瀧川豊前守[忠征]、 杉山源兵衛尉、奥村半平、佐
藤駿河守[堅忠]、松平藤助、小田喜四郎、森重蔵[十蔵]、新庄越前守[直定]、大屋彌八、河原長門守、渡邊與一郎、大
田半二、竹中貞右衛門尉、毛利兵吉、西川彌右衛門尉[方盛]、山田久三郎、小川清右衛門尉[長政]、美部四郎三郎[美
濃部四郎三郎]、石田備前守、佐尾左衛門尉、垣見和泉守、伏屋飛騨守。
※「水野又右衛門尉」と翻刻されているが、これは「又」は「久」の見間違いであると推定でき、『戦国人名辞典』でも、
「水野久右衛門 秀吉に仕え金切裂指物使番」とあることから、本稿では「水野又右衛門尉」を「水野久右衛門尉」に
比定する。また、「熊谷内蔵允」は、『戦国人名辞典』から「熊谷直盛」に比定する。

[人物考察]――『戦国人名辞典』増訂版 吉川弘文館
♦蒔田主水正[正勝]=秀吉に仕え金切裂指物使番。聚楽第行幸のとき供奉。
♦石川兵藏[貞淸]=秀吉の金切裂指物使番。小田原評定の後、秀吉から尾張犬山城一万二千石を与えられ、同時に豊臣
直領信濃木曽の代官。
♦三上與四郎[季直]=事典には「与三郎」で、秀吉に仕え金切裂指物使番。また船奉行。文禄元年(1592)九月肥後名護
屋駐屯中に病死。
♦山城宮内少輔[忠久]=秀吉馬廻、金切裂指物使番。文禄四年(1595)正月朝鮮に出張して、毛利元康に在陣の労を犒った。
♦左田三六=秀吉に仕え金切裂指物使番。
♦水原石見守[吉一]=妙楽寺村百石。金切裂指物使番。
♦水野久右衛門=秀吉に仕え金切裂指物使番。
また、『戦国人名事典』阿部猛・西村圭子編 新人物往来社 では「みずのきゅうえもん(のじょう)水野久右衛門(尉
)生没年不詳 豊臣秀吉に仕え、金切裂指物使番の一人。文禄元年(1592)朝鮮派兵に際して肥前名護屋に駐留、同城の
警衛にあたる。」とある。
♦熊谷直盛(くまがや なおもり)=(?~1600) (半次、内蔵允)名は直陳ともしてある。秀吉に仕え金切裂指物使番。文
禄元年(1592)、朝鮮の役に慰問使となって十一月渡鮮(武家事紀)。文禄二年(1593)閏九月、豊臣直領豊後直入郡(なお
りのこおり)三万二千九百八十九石余を支配(駒井日記)、大友吉統の欠所(*1)で其代官を命ぜられたので、被個人の所
領はこの内にあっても僅少だったろう(貝原益軒の朝野雑載に八万石とあるのは誤り)。文禄三年(1594)春、豊後安岐城
一万五千石に就領(豊後旧記・桃山末分限帳)。慶長二年(1597)、二次外征先手目付(*2)となって渡鮮、同十二月、蔚山
城救助に活躍(浅野家文書)。慶長三年(1598)、秀吉の遺物長光の刀を受領。慶長四年(1599)五月、外地目付時代のこと
で、太田一吉等と共に蟄居。慶長五年(1600)、関ヶ原の戦乱時西軍に投じ、兵四百五十人で近江瀬田橋を警固、ついで
諸將と美濃大垣城を守ったが、九月十八日、熊谷直盛は、同志相良長毎と秋月種長等が共謀し寝返ったことから彼等に
斬り殺された。相良等は最初から東軍に志を寄せていたという(真田文書・相良氏歴代参考・水野勝成覚書・譜牒餘録)。
彼は利休門下の茶人(茶人系譜)。 尚太田一吉は、文禄元年朝鮮の役に出動。六万五千石豊後臼杵城主。二次外征先手
目付。
また、『戦国人名事典』阿部猛・西村圭子編 新人物往来社 では、このほか、武勇をもって知られた。文禄二年帰国
して豊後国内の秀吉直領の代官となり三千石を与えられた。
慶長三年帰国し、功により豊後安岐城主となり一万五千石を領した。とある。
♦屋松治右衛門尉=無記載。
♦佐久間河内守[政実]=秀吉に仕え金切裂指物使番。文禄三年(1594)春、伏見城普請奉行の一人。慶長二年(1597)従五
位下河内守に叙任、豊臣の姓を授けられた。
♦瀧川豊前守[忠征]=金切裂指物使番で普請奉行。慶長二年(1597)七百石を加増され二千石。同九月、従五位下豊前守
に叙任。
♦杉山源兵衛尉=秀吉の馬廻か使番。
♦奥村半平=秀吉馬廻、後金切裂指物使番。慶長三年(1597)正月朝鮮蔚山に在陣の浅野行長に書を贈って慰問した。
♦佐藤駿河守[堅忠]=秀吉に仕え金切裂指物使番。従五位下駿河守に叙任。
♦松平藤助=無記載。
♦小田喜四郎=秀吉に仕え金切裂指物使番。
♦森重蔵[十蔵]=事典では[十蔵]。秀吉に仕え金切裂指物使番。
♦新庄越前守[直定]=秀吉に仕え金切裂指物使番。朝鮮の役から帰朝後、伏見城工事分担。当時一万二千石。
   ――[後略]

[文禄・慶長の役に参戦した水野氏]――『戦国人名辞典』増訂版 吉川弘文館
♦水野源左衛門=秀吉馬廻、文禄元年朝鮮の役に肥後名護屋城に駐屯。出自未詳。
♦水野忠重=(1542~1600)文禄元年肥後名護屋城に駐屯。結城水野家遠祖。
♦水野作右衛門=(?~?) 福島家臣、志段味城主。とある。この役に参戦したという記録はないが参考までに記す。


[註]
*1=本字は「闕所」。行方知れずになった者や犯罪者の領地財産を、支配者が没収することで、闕所処分が決まった
領地は、代官などを派遣し管理した。
*2=先手目付(さきてめつけ)は、先陣を受け持ち、主君の意を受けて同僚の非違(違法)を探索・報告する監察官(調
査監督役)。




★水野久右衛門尉 ≪考証≫
1.水野久右衛門尉に関する史料
 『戦国人名辞典』増訂版 高柳光壽・松平年一著 吉川弘文館 には、「水野久右衛門(みずのきゅうえもん) 秀吉に
仕え金切裂指物使番(武家事紀)。」と、短いながらも項目が設けられているが、生没年は未詳。
『戦国人名事典』阿部猛・西村圭子編 新人物往来社では、「みずのきゅうえもん(のじょう)水野久右衛門(尉)生没年
不詳 豊臣秀吉に仕え、金切裂指物使番の一人。文禄元年(1592)朝鮮派兵に際して肥前名護屋に駐留、同城の警衛にあ
たる。」とある。
また、『今治郷土史 資料編 古代・中世 (第二巻)』「久留島家文書」には、「水野久右衛門は、福島正則の養女となり、
後に久留島康親の妻となった玄興院の実父。水野久右衛門は、天正・文禄期は秀吉に仕えているが、慶長六年(1601)に
は福島正則の家臣となった。」と記されている。
しかし、山鹿素行『武家事紀』上巻 武家事紀巻十八 續集「福島正則」項には、家臣として水野久右衛門尉の名は見え
ない。


2.来島長親の経歴
 玄興院の夫・来島長親(のち康親)は、来島通総の次男。天正十年(1582)~ 慶長十七年(1612)。瀬戸内海で村上水軍
の一軍として活躍した来島水軍の後裔であり、伊予国来島(愛媛県今治市)に一万四千石を領した。慶長二年(1597)、父
通総が慶長の役で戦死、家督を継ぐ。慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いでは、西軍に属したことから所領を没収された。
しかし妻が養父福島正則に取り成しを頼み、正則から本多正信を通じて幕府に働きかけたことで、慶長六年(1601)、豊
後森に旧領と同高で森藩成立。二代通春は元和二年(1616)姓を久留島と改めた。


3.玄興院について
 現在も元城下にある「玄興院」(大分県玖珠郡玖珠町大字森580)という寺は、玄興院の国許菩提寺である。当寺に電
話取材したところ、御住持から寺の口伝では「小野忠正」であると聞かれたが、「水野」と「小野」は文字的に間違っ
て伝えられる可能性は高いと考えられる。また玄興院は、森藩の正室として江戸屋敷に居住したことから、没後は青松
寺(東京都港区愛宕2丁目4番7号)に葬られた。
尚、一説(Wikipedia)では、玄興院は「福島正則の弟・高晴の娘」とも、また「正則の姪で水野忠正の娘」とも記
載されているが、その典拠は記載されず不明。
しかし「正則の姪で水野忠正の娘」に注目すると、水野久右衛門尉と福島正則は、共に母が姉妹であった可能性もあ
る。正則の母は、豊臣秀吉の叔母であったことから、水野久右衛門尉の母も豊臣秀吉の伯母または叔母であった可能性
も考えられる。であるならば、玄興院は秀吉の姪ということになる。玄興院についても、今後更なる研究の必要がある。


4.「金切裂指物使番(きんの きりさき さしもの つかいばん)」の「熊半と水久」
 熊谷半次と水野久右衛門尉については、史料の各「家御内書」では、名前の序列が全て「熊谷半次、水野久右衛門尉」
と記されているが、「金切裂指物使番」名簿順では、熊谷内蔵允の前に水野久右衛門尉の名が記されている。
「金切裂指物使番」名簿順の一部の人名については前記の通り概括したが、名簿の二番目の石川兵藏[貞淸]は、尾張犬
山城一万二千石を与えられ、同時に豊臣直領信濃木曽の代官。六番目の水原石見守[吉一]は、妙楽寺村百石。八番目の
熊谷直盛は、一旦は三万二千九百八十九石余を支配するも、後に一万五千石。十一番目の瀧川豊前守[忠征]は二千石。
十八番目の新庄越前守[直定]は、当時一万二千石であり、以降の人物は省略したものの、詳細は記されていない。この
名簿順序は、必ずしも身分に応じて配列されたものではないと推察されることから、熊谷内蔵允の前に水野久右衛門尉
の名が記されていても、水野久右衛門尉が熊谷内蔵允よりも身分が高かったとはいえない。むしろ各家文書の秀吉発給
文書の書札礼や知行から見て、熊谷内蔵允が上役、あるいは同格であったと見るべきであろう。
両人の知行についての記述を、次の二書から抽出すると――
『戦国人名辞典』では、「熊谷直盛は、文禄二年(1593)閏九月、豊臣直領豊後直入郡(なおりのこおり)三万二千九百八
十九石余を支配(駒井日記)、大友吉統の欠所で其代官を命ぜられたので、被個人の所領はこの内にあっても僅少だった
ろう(貝原益軒の朝野雑載に八万石とあるのは誤り)。文禄三年(1594)春、豊後安岐城一万五千石に就領(豊後旧記・桃
山末分限帳)。」とある。
『久留島家文書』では、「水野久右衛門尉は、文禄三年(1594)三月廿一日に秀吉から、兵庫県南部に百石二斗を与えら
れており、僅か七ヶ月後の十月十六日には、兵庫県芦屋市打出で二百五十二石三斗七升の加増を受けており、これを合
わせると、三百五十四石三斗七升となり、さらに十ヶ月後の翌年八月三日は、二百石の加増があり、締めて五百五十四
石三斗七升となった。」
と、あり、文禄三年時点での二人の給知を比較すると、熊谷直盛は一万五千石、水野久右衛門尉は三百五十四石余で、
圧倒的に熊谷直盛の方が上回っており、翌四年の時点でも、五百五十四石余と、格差を縮める程の大きな変動は見られ
ない。しかし、これらの使番の職務を通して二人は懇意になっていったと推察される。

 天下を統一した豊臣秀吉が、32名の使番を2名ずつに組ませ、肥前名護屋から海を隔てた朝鮮にまで、何度も使番
を遣わしていたことに、その時代のコミュニケーションの一部が垣間見えて興味深い。
使番と聞けば、現代では使い走り的な意味合いが強いと思うが、古くは使役(つかいやく)とも称した役職で、「天下人
からの使者」であった訳である。近世の旗本は一万石未満であり、一万石を少しでも上回れば最下級でも大名の列に入
った。このことから、宛所に応じて、熊谷直盛のような万石クラスの使番を遣わしていたことが判る。また、これらの
金切裂指物使番は、奥村半平のように金切裂指物使番として慶長三年(1597)正月、朝鮮蔚山に在陣の浅野行長に書を贈
って慰問(浅野家文書)したり、また朝鮮に渡り、在陣の武将に秀吉の御内書と自らの副状を手渡し、上意を詳しく口上
していた事がわかる。

水野久右衛門尉は、管見では前述のように、文禄二年以前にしか使番として文書に登場しておらず、また同三年、四
年には、両名共に秀吉から領地を安堵されていることから、二人は金切裂指物使番として、文禄二年まで配されていた
と考えられる。慶長四年(1599)五月には、熊谷直盛が太田一吉等と外地目付として渡鮮していることから、この頃には
久右衛門は別の役目を担っていたと思われる。 なぜならば、豊臣秀吉家臣「金切裂指物使番」がいつ頃記されたもの
かは不明であるが、名簿に書かれた「三上與四郎[季直]が、文禄元年(1592)九月肥後名護屋駐屯中に病死。」と『戦国
人名辞典』に記載されていることから、少なくともそれ以前の名簿であろうと推測される。


5.「慶長の役」後の水野久右衛門尉と、熊谷半次との関係
 「熊谷直盛が外地目付時代のことで、太田一吉等と共に蟄居。さらに慶長五年(1600)、関ヶ原の戦乱時西軍に投じ、
兵四百五十人で近江瀬田橋を警固、ついで諸將と美濃大垣城を守ったが、九月十八日、熊谷直盛は、同志相良長毎と秋
月種長等が共謀し寝返ったことから彼等に斬り殺された」との記述が諸家の文書にある。
 一方、『ウィキペディア(Wikipedia)』「熊谷直盛」の項には――
「直盛は慶長2年(1597年)の慶長の役で朝鮮半島に在陣中、秀吉の訃報を知り、兵を撤収する直後、加藤清正や黒
田長政に私極を訴えられ、同4年(1599年)10月に国を除かれる。直盛は石田三成の妹婿にあたるため、その後は密
かに佐和山城に居過ごす。」
とあるが、秀吉は慶長三年八月に死去していることから、この記事に対する信憑性は低く、
また典拠は示されていないものの、他に散見されない資料として、「直盛は石田三成の妹婿」の語句に注目してみたい。
水野久右衛門尉は、加藤清正と親交のある福島正則と密接な関係にあり(後に家臣)、清正・正則が、共に三成と諍いを
起こしたことから、水野久右衛門尉と石田三成の妹婿である熊谷直盛との間に、不慮の亀裂が生じたと推察されること
から、慶長三年以降は行動を共にしなかった可能性は高い。


6.「秀吉没後」の水野久右衛門尉と福島正則
熊谷直盛については、『戦国人名辞典』に詳しいが、度々同道していた水野久右衛門尉については、同辞典等に詳細が
書かれておらず、また現時点では、上述の『久留島家文書』以外には、残念ながら確実な史料は散見されない。
 前述の「水野久右衛門は、福島正則の養女となり、後に久留島康親の妻となった玄興院の実父。水野久右衛門は、天
正・文禄期は秀吉に仕えているが、慶長六年(1601)には福島正則の家臣となった『今治郷土史』。」からは、慶長元(1596)
年から、慶長五年(1600)頃までの約五年間の消息が曖昧であり、さらには「慶長六年(1601)“には”福島正則の家臣と
なった」とあり、これは「遅くとも慶長六年(1601)“には”」と読めることから、慶長五年(1600)以前の可能性もあると
いうことになる。この間、慶長三(1598)年八月に秀吉が没していることから、おそらくは、この時点までは秀吉の家臣
であったろうと考えられる。されば、その後約二、三年間に福島正則の配下に組み入れられたことになる。久右衛門と
正則の関係は、自分の娘を養女に出していることから、何らかの縁戚関係があるか、または以前から親しい間柄にあっ
たとみるべきであろう。両名の主従関係に至る背景を、正則の経歴からたどり仮想してみよう。

 福島正則は、文禄四年(1595)、秀吉から尾張国清洲二十四万石の所領を与えられていたが、武断派である加藤清正、
福島正則などを中心とした武将達は、文禄・慶長の役においても、大きな戦功を立てたが、その功績に見合う重要ポス
トを占めていなかった。それに対し、戦功は少ないが文治派で五奉行の一人として政権中枢で権力を振るっていた石田
三成らとの関係が、急速に険悪となり、慶長四年(1599)、前田利家が死去したことから睨みが利かず、正則は朋友加藤
清正と共に三成を襲撃するなどの事件を起こしたが、徳川家康に慰留され襲撃を翻意した。それを契機に家康の大名と
なる。慶長五年(1600)、会津上杉討伐には六千人を率いて従軍。関ヶ原の戦いでは、宇喜多勢を打ち破り東軍の勝利に
大いに貢献し、安芸広島と備後鞆四十九万八千二百石を得た。
 

 ここで、文禄・慶長の役後の、水野久右衛門尉をめぐる正則、三成、直盛との相関関係について―― 
福島正則と水野久右衛門尉――◎
福島正則と石田三成―――――×
福島正則と熊谷直盛―――――×
石田三成と熊谷直盛―――――◎
石田三成と水野久右衛門尉――-
熊谷直盛と水野久右衛門尉――?
 この関係から見て、水野久右衛門尉は、やはり福島正則を頼り、家臣となったと考えて良さそうである。


7.水野久右衛門尉の出自を究明
 水野氏の中で「水野久右衛門尉」に比定できそうな候補者は複数居る。
拙ブログ、∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」に既投稿の「「愛知県姓氏歴史人物」にみえる水野氏 2/2」に、
次のように書いているので少し長いが引用する――
(7-1)
『大口町史』第3章 近世
 「二ツ屋新田」の項には、「この地は往古は、木曽川の支流であった所で、木曽川の築堤後、沼地となり原野であっ
た所を、元和元年(1615)、今から約三百六十五年前(現392年前)、春日井郡水野村の権右衛門、久右衛門の兄弟が移住
し開拓したところから、二家(二ツ屋)とよんだという。[中略]同所は現在の愛知県丹羽郡大口町二ツ屋にあたり兄弟
を租とする家がある。

(7-2)
『瀬戸市史 通史編 上』の「水野家系譜下書」によると、権右衛門は、水野致勝の三男で初代御林方奉行水野権平正
勝の叔父にあたるが、久右衛門については致勝の子としては系圖にはなく、権右衛門の弟は文右衛門雅勝があり、水野
文右衛門の租である。但し致勝は二男でありながら家督を継いでおり、嫡男が「某 実名相分不申候 久右ヱ門」と記
載されており、権右衛門の伯父に当たる人が久右ヱ門となっている。これらのことから勘案してみると、権右衛門の父
致勝が家督相続し宗家となり、その三男であることから年若ではあるが、権右衛門を兄とし、伯父の久右衛門を弟とし
たものか、または久右衛門は精神遅滞であったことで家督が継げず、更には移住者の長をも甥の権右衛門としたとも仮
想されるが真相は不詳である。大口町史担当部署に問い合わせてみたが、二十数年前の発行で各記事の出典は残念なが
ら不明とのことであった。
 また第1節村の支配の表に、「御供所村 水野与兵衛 二九石五斗」「余野村 水野彦四郎 五〇石」とあるが、両者
ともに権右衛門、久右衛門の兄弟の末裔であろうか。

ここに登場する水野久右衛門は、年代と「春日井郡水野村」の出身であるということから、水野致正の長男ではない
かと考えられる。(7-1)の人物については、元和五年(1619)時点で、水野久右衛門尉の主君福島正則が、広島城の領主
であったことから、元和元年(1615)に、二ツ屋新田となる原野に移住した可能性は極めて低い。
次の(7-2)の人物は、これを投稿当時は、(7-1)と同一人物ではないかとみたが、今年(2009)になり、新たな史料から
「水野三郎左衛門家」の祖である、水野久右衛門と判り、後裔の系譜も入手できたことから、別人と判明した。
だが、(7-2)の人物は、家督を弟の致勝に譲っており、その経緯も不明であることから、年少から福島正則と共に秀吉
に仕えていた可能性は否定できない。
(7-3)
 上述「3.玄興院について」の、「玄興院は「福島正則の弟・高晴の娘」とも、また「正則の姪で水野忠正の娘」(典
拠は記載されず不明)である事と、また玄興院の寺に口伝された「小野忠正」から、水野久右衛門尉の諱は「忠正」で
あった可能性も否定できない。つまり「水野久右衛門尉忠正」となるのかも知れない。
 水野氏史研究会ブログに投稿の「水野氏史研究 分類表」の「A-3>景家系水野氏」の景家の子、右京の進清忠は、川
村南城主で、織田信長に仕えており、その子清忠の子として「右衛門佐忠正」が居る。
詳しくは、「平氏系 桓武平氏水野譜」の「影家」以降に記している。
 この系図との照合から、現時点では「右衛門佐忠正」なる人物が、「水野久右衛門尉」と同一人物では無かろうかと
推定されるが、残念ながら比定される段階までには至っていない。
 尚 末筆になったが、この「水野忠正」については、水野氏史研究会々員で、水野久右衛門尉の共同研究をしている
研究員から、この人物が、水野久右衛門尉に比定されるのではないかと、以前からご提言をいただいており、研究をこ
こまで進めることが出来た。経緯を記して謝意を表したい。
 水野久右衛門尉研究については、不十分な内容ながらも、現状において知り得た史料を編集し、先ずは「叩き台」と
して中間報告するものである。今後は、大方、会員各位のご教示、ご批判をいただき補訂を重ね、更なる研究に努めた
いと考えている。見読いただいている各位からの、様々な情報をお寄せ下さるようお願いする次第である。
                                                      《了》


【寄稿15】「金切裂指物使番」にみえる「水野久右衛門尉」(補遺1)»»Web会員««
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by mizuno_clan | 2009-10-24 15:34 | ★研究ノート

【談議1】水野氏と戦国談議(第二十回)補足

 今回多数のコメントをいただいたが、コメント欄の字数に制約があるので、本編の補足も含めてこちらで述べることにする。まず、比良の城主についてであるが、横山住雄氏(本会会員)の『斉藤道三』に、道三から佐々隼人正に出した手紙について述べられている箇所がある。ここで横山氏は、佐々氏と比良について次のように述べている。

平成三年角川版『愛知県姓氏歴史人物大辞典』では、
「佐々氏は代々、春日井郡比良(名古屋市西区)に居住し、同郡井関(師勝町)にも一族の城があった(尾張志)。井関の城主は佐々成宗(天文二十三年没)といい(師勝町史)、永禄三年に城が比良に移されて、成政(蔵内介)が入るという。成宗には長子隼人成吉、次子に孫助成経、三子成政があった。」
と述べている。つまり一般には、永禄三年・四年頃までには他の佐々氏が比良に居り、以降ようやく佐々隼人正・孫助らが比良に入城したように思われているらしい。
 余談になるが、永禄年間よりはるか四十年前の大永五年(一五二五)にすでに比良に佐々氏が居た史料が岐阜県内にある。それは、笠寺町無動寺の光得寺にある梵鐘の銘文である。(中略)
 よって、比良にはかなり古くから佐々氏が居て、しかも近隣の高田寺にも勢力を広げる力を持っていたことを知ることが出来る。従って、先に紹介した道三の書状から率直に受ける印象としては、佐々隼人正は天文年間の末には信長に随身し、しかも佐々氏を代表する立場にある比良城主であったと思われる。


 『愛知県姓氏歴史人物大辞典』が伝える佐々成宗の記述は、“ごくう”さんが『尾張群書系図部集』に依った内容と同様のものである。しかし同辞典では、「永禄三年に城が比良に移されて、成政(蔵内介)が入る」としているが、横山氏は「光得寺にある梵鐘の銘文」から大永五年には「比良に佐々氏が居た」として、これを否定している。横山氏と同様の見解は『新修名古屋市史』にも述べられており、こうした点を踏まえると、このころの佐々氏については、結局はっきりしたことはわかっていないのだと思う。本編で佐々隼人正を「成吉」と書いたのは、上の辞典の内容に従ったが、そうしたことで信憑性のほどは定かでないと思っている。また佐々氏についてはいろいろ書いてもらったが、少なくとも“ごくう”さんのように典拠を示してもらわないとコメントを返しようがない。
 次に、旧暦の正月下旬から「季節は厳寒の最中である」と書いたことに対して、水野青鷺さんより、「永禄二年1月30日ですと、新暦に直すと3月8日となり、桃の咲くころの季節です」との指摘をいただいた。これはご指摘の通りである。実は、永禄のころ西洋で使われていたのはユリウス暦である。現在はグレゴリオ暦で、それでいえば旧暦正月下旬は二月下旬から三月上旬となる。今回はユリウス暦で変換してしまったので、二月中旬だと勘違いしてしまった。したがってこの点は、本編の文章を訂正させていただく。また「釣瓶」については、「竹の竿を斜めに地面に埋め、竹の先に綱をかけその先に瓶を繋いだもので、水を汲むときは、綱を引っ張り竹をしならせて桶を水に入れ、汲んだら竹の戻る反動でつり上げるというようなもの」と書かれているが、確かに当時としてはそうしたものだったかも知れない。

 今回の『信長公記』首巻の中の奇談-「蛇がへの事」に対して、いろいろご指摘をもらったのであるが、本稿は「蛇がへ」の年時を明らかにしようというものでもないし、また佐々氏の考証をしようとしたものでもない。『信長公記』のこの段は、「蛇がへ」と信長暗殺未遂の一件が接合されているのであるが、そのウェイトは後段にあるように思われる。それは牛一が結びに、「惣別、大将は万事に御心を付けられ、御油断あるまじき御事にて候なり」と語っていることで明らかであろう。しかしこの結びの言葉が示したものは、信長が「蛇がへ」を言い出した本心を、牛一が見誤っていたというものであった。さらに、現代語訳を紹介した中川太古氏も、同様の勘違いをしていると思われる。
 例えば中川氏は、「数百挺の釣瓶を立てならべ」という原文を「当日、数百の桶を立て並べ」と訳しているが、これは「釣瓶」を「桶」とすることで、「蛇がへ」の規模感を小さく表現しようとしたものだろう。それというのも、「蛇がへ」は信長の酔狂でおこなわれたもので、しかも突然であったために村人に何の準備もなく、またやる気もないのであるから、大規模な「蛇がへ」などになろうはずがないと考えたのである。それで「数百挺の釣瓶」が、「数百の桶」に変ってしまったということだろう。
 本編で「釣瓶」を「単なる桶ではなく、桶を吊るした滑車のついた水汲み出しの装置である」としたのは、釣瓶の考証をしたかったからではなく、この中川氏のような解釈を打破したかったからである。信長が「蛇がへ」と言ったのは、好奇心や酔狂からではないし、ましてや佐々の逆心に対して先手を打って詰め腹を切らせようなどと考えていたからでもない。信長にとっては、村人の杞憂を取り除くことができさえすればよかったのであり、大蛇にも比良城にも関心などなかった。したがって、やるべきことを終えたならば、さっさと清洲に帰るに決まっていたのである。そうであるならば、佐々と井口がいかに策謀をめぐらそうと、比良城に立ち寄らないのであるから、「身のひゑたる危き事」などあろうはずもなかったのである。したがって、牛一の「大将は…」の教訓は、ここでは完全に的をはずしているのである。
 それでは、なぜ牛一は、そして佐々と井口、あるいは現代語訳をした中川氏も含めて、揃いも揃って信長の意図を読み間違えたのだろうか。今回の談議の主題はここにある。本編では、なぜ読み違えたのかの答えを導き出してはいないが、この疑問点に到達することが狙いだったのである。そしてその疑問の入り口に、信長の「蛇がへ」がある。本編の最後に、「しかし大将がその関心を払うべきは、領民の暮らしぶりであり、村々に煩いや迷惑が及ばぬように気を引き締めることこそ大事と、当の信長はその行動で示していたのである」と書いた。また、「それは統治者そして公権力としての自覚に基づいた行動であった」とも述べた。戦国大名には、合戦あるいは地域紛争、さらには権力闘争という力の対決をする顔と、平時の統治、社会の基底にいる人々の暮らしを支える顔の二つがある。そして「蛇がへの事」は、後段が力の対決、前段が暮らしの支えに対応している。しかしながら、前段の「蛇がへ」の信長を見誤ったために、後段で佐々らが暗殺の策謀を練りながらそれが不発・未遂に終ったように、そして牛一が的外れの教訓を結びとしたように、この二つの顔の間には断絶が存在するのである。
 『信長公記』はこの後、もう一つの奇談である「火起請御取り候事」を記すが、その後は浮野合戦、もりべ合戦、十四条合戦と合戦ばかりが続いている。牛一の目線、関心は信長の力としての権力に注がれており、村々を支える権力、あるいは村々の権力と競合し共存する権力のもう一面は、その視野の外にあるのである。こうした彼の目線・関心が「蛇がへ」の信長を見誤らせたのであるが、それは同時に読み手の我々の理解を制約するものでもある。この「水野氏と戦国談義」は、こうした制約のままに水野氏を、あるいは戦国を談義しようというのではない。むしろ、この制約を乗り越える談義でありたいと考えている次第である。
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by mizuno_clan | 2009-10-22 22:14 | ☆談義(自由討論)

【Event】 本会々員による「講座」の結果報告

 先般、ご案内しました名古屋市博物館 特別展――開山無相大師650年遠諱記念 「妙心寺 禅の心と美」に伴う「妙心寺展講座」は、昨日盛況のうちに終了致しました。
今般は、本会々員でもある横山住雄氏が講師となり「戦国武将と妙心寺派」と題し、以下のように講演なさいました。参加者は100余名で会場は、ほぼ満席の盛況でした。
 残念ながら、本会からは皆さんご多忙でご都合が付かず参加が叶いませんでしたが、水野青鷺が本会を代表して参加しましたので、会員各位にご報告いたします。

講座後、名古屋市博物館学芸員の方に案内され、横山住雄先生と聴講者2名と共に応接室に通されました。聴講者の方のお話しが済んで、「お初にお目にかかります」と名刺交換をさせていただきました。先生とは、本会発足以前から、電話でお話ししたり、何度も手紙の遣り取りをしておりましたので、「えっ、初めてお会いしました?」と、嬉しい勘違いをなさっておられました。(笑)
 本会の現況をお話しし、水野太郎左衛門を初めとした鋳物師達の梵鐘や鰐口について、色々とご教示をいただきました。帰路を同道させていただき、地下鉄の中でも金石文字についての意見交換や、これからの会の方針などをご説明し、今後も本会にご支援いだけるとのありがたいコメントを頂戴しました。

                                            研究会事務局
   
                     記

名古屋市博物館 特別展――開山無相大師650年遠諱記念
 「妙心寺 禅の心と美」  http://www.museum.city.nagoya.jp/tenji091010.html

●「妙心寺展講座」――抜粋
   名古屋市博物館 地下1階講堂にて 午後2時開演(1時30分開場)
     愛知県名古屋市瑞穂区瑞穂通1-27-1

・第3回:平成21年10月18日(日) 午後2時~3時30分【無事終了】
   演題「戦国武将と妙心寺派」
   講師:横山住雄氏(郷土史家)――★
       著書『織田信長の系譜』『斎藤道三』等多数


講座資料から一部抜粋――
「妙心寺派法系図」
南浦紹明 大応国師-宗峰妙超 大灯国師-関山彗玄 妙心寺開山-授翁宗弼 二世……

と法系が始まり、雪江惣深 妙心寺再興(細川氏外援)-悟渓惣頓 東海派 瑞龍寺……
など、妙心寺派の繁衍ぶりが系図からも読み取れる。
 系図を元に、当派僧侶と戦国武将とのかかわりを興味深く講演され、たとえば信長に関して、岐阜の命名と鳴海助右衛門とか、天正元年十二月二十五日に雪渓宗梅が逝去しているが、この人物は濃姫ではないか。なぜならば天正二年正月、信長が女性の画像を二幅、狩野永徳に描かせており、信長が女性の姿を描かせた例は希であり、この女性こそ濃姫では無かろうか……。
 とこのように大変興味深いお話しが次々と続き、あっという間の90分間でした。
                                          以上

 
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by mizuno_clan | 2009-10-19 01:20 | Event-3(諸事)

【談議1】水野氏と戦国談議(第二十回)

『信長公記』首巻の中の奇談
「蛇がへの事」

                                                         談議:江畑英郷

 太田牛一が著した『信長公記』であるが、その首巻の信憑性については疑義を挟む向きも少なくない。一方でこの首巻には、若き信長が大うつけと周囲に言われながらも縦横奔放に振る舞う様が描かれており、我々読み手を魅了してくれている。父信秀の葬儀において、仏前に抹香を投げつけた事件。聖徳寺で会見した斉藤道三に「山城が子供、たわけが門外に馬を繋べき事」と言わしめた一件。信長の大うつけの行状を悔やみ、守役平手政秀が割腹した事件。などなど、信長という人物のイメージの根幹は、この首巻で形成されてきたとも言えるだろう。首巻以降の信長については、好き嫌いが大きく分かれるところで、そこに英雄像を見る人、あるいは残虐性に嫌悪する人々、そして信長は天才的戦術家だと言われたかと思うと、戦術家であるよりむしろ政略家であるなどと、実に様々に評されているのである。しかしながら、こと首巻における信長については、世間一般において好意的に受けとめられているようだ。
 この首巻はまた、あの桶狭間合戦が語られている巻でもある。そして水野氏が登場する奇妙な戦いである、「村木取手攻めらるるの事」が置かれてもいる。この首巻は、弾けるような信長と、どこか半端な記述に思われる戦いやエピソードが特徴のように思われるが、その中に明らかに奇談だと思わせる挿話が幾つか盛り込まれている。そこで今回は、その一つである「蛇がへの事」を捻くり回してみたいと思う。

 この「蛇がへの事」は、新人物往来社の『新訂信長公記』(桑田忠親校注)において、桶狭間合戦を描いた「今川義元討死の事」よりも後に置かれている。年の記載がないのでいつの事か定かではないが、桶狭間合戦よりは前のことだと思われる。少々長いので、中川太古氏の訳(『現代語訳 信長公記』)をそのまま引用することにしよう。

 ところで、不思議なことがあった。
 尾張の中央清洲から五十里東、佐々成政の居城である比良(ひら)の城の東に、南北に長い大きな堤がある。その西側に、あまが池という、恐ろしい大蛇がいると言い伝えられている池がある。堤の外、東側は、三十町も平坦な芦原が続いている。
 ある年の一月中旬、安食(あじき)村福徳の郷の又左衛門という者が、雨の降る夕方、堤を通りがかったところ、太さ一抱えほどもありそうな黒い物を見た。胴体は堤の上にあって、首は堤から伸びて来て、もう少しであまが池に達するところであった。人の足音を聞いて、首を上げた。顔は鹿のようであった。眼は星のように光り輝く。舌を出したのを見ると真っ赤で、人間の手のひらを開いたようだった。眼と舌とが光っている。これを見て又左衛門は身の毛がよだち、恐ろしさの余り、もと来た方へ逃げ出した。
 比良から大野木へ来て、宿に帰りつき、このことを人々に話したので、噂は広まった。いつしか信長の耳にも達した。
 一月下旬、信長は例の又左衛門を召し出して事情を直接聞き出し、「明日、蛇替(じゃが)えをする」と触れを出した。比良の郷・大野木村・高田五郷・安食村・味鏡(あじま)村の農民たちに、水替え桶・鋤・鍬を持って集まれ、と命じた。
 当日、数百の桶を立て並べ、あまが池の四方から取りかかり、二時(ふたとき)ほど水替えをさせたところ、池の水は七割がたに減った。しかしそれ以降は、いくら掻い出しても同じことであった。
 そこで信長は、「水中に入って大蛇を探そう」と言い出した。脇差を口にくわえ、しばらく池に入っていたが、やがて上がってきた。大蛇らしいものはいなかった。鵜左衛門(うざえもん)という水によく慣れた者に「もう一度入ってみよ」と命じ、自分のあとへ入れて探させたが、どうにも大蛇は見つからなかった。それで結局、信長はそこから清洲へ帰ったのであった。
 実は身の冷えるような危険なことがあったのである。
 というのは、その頃、佐々成政が信長に逆心を抱いているとの風説があった。それでこの時は、成政は起き上がれないほどの重病と偽って、出て行かなかったのだが、「きっと信長は、小城にしてはこの城ほどよい城はないと聞き知っているだろうから、蛇替えのついでに成政の城を見ようなどと言って、この城へ来て、私に詰め腹を切らせるのではないか」と心配した。
 成政の一族で、家臣の長老に井口太郎左衛門という者がいた。「そのことについてなら、私にお任せください。信長公を討ち果たしましょう。というのは、城を見たいというのであれば、この井口に申しつけられるでしょう。そうしたら私は、ここに舟がこざいますから、お乗りになって、まず城のかけりを御覧になるのが良いでしょう。と言いましょう。信長公ももっともだと言って舟に乗られたら、私は衣服を腰高にはしょり、脇差を投げ出して小者に渡し、船を漕ぎ出します。多分、信長公のお供にはお小姓衆だけが来るでしょうが、たとえ五人なり三人なりのお年寄衆が乗ったとしても、私は懐中に小脇差を隠しおき、好機を見て信長公に飛びかかり、何度も突き刺して突き殺し、組み付いたまま川へ飛び込みますから、御安心ください」と申し合わせたのだそうである。
 信長は運の強い人で、あまが池からどこにも立ち寄らずに帰ったのであった。総じて一城の主ともある人は、万事に注意して、油断をしてはならないということなのである。


 何とも妙な話である。この節は話しが大きく二つから構成されているが、最初がタイトル通り「蛇がへ」のことで、後段が佐々成政と家臣による信長暗殺の陰謀に関する話しである。どちらも怪しげな話しではあるが、この節の奇妙さの根源は、この内容のまったく異なる話がくつけられて一つになっていることにある。
 奇怪な大蛇捕獲の話と比良城における信長暗殺の陰謀談は、どちらも不発に終った点で共通しているが、内容はまったく違うものである。その異なる二つの話がどう接合されているのかと言えば、「此の次でに御一覧候はんと仰せられ候て」と、大蛇捕獲にあまが池まで来たので、ついでに比良城を見物しようと信長が言い出すだろうと、佐々成政とその家臣である井口太郎左衛門が思いをめぐらしたことに始まる。
 後段の信長暗殺未遂談はやや込み入っているので、箇条書きにしてこれを整理してみよう。

①この当時、佐々成政に信長に対して逆心の風説があった。
②このため、信長が佐々の居城間近にきたのに、正体を失うほどに煩っているという口実で、成政は比良城から出てくることがなかった。
③信長は、この佐々の行動に逆心ありを確信して、城見物を口実にして城に乗り込み、腹を切らせようと考えた。
④信長の成敗を阻止するために、佐々家臣の井口太郎左衛門が、小船にて川に誘い出し信長を仕留めようと、佐々と密談を凝らした。
⑤信長は城見物を言い出すこともなく、そのまま清洲に戻ったことで事なきをえた。

 ここで①と②は、こういったことがあったという作者牛一の史実認識である。そして③は実際に起こったことではなく、佐々と井口主従が信長の意図を詮索したものである。つづく④は、③の詮索を前提として、佐々と井口がその対策として決めたものである。最後の⑤は、③と④を踏まえて、信長が清洲に戻ったという史実を捉え直しているものである。
 信長が大蛇捕獲のためにあまが池にやってきたことで、佐々側は戦々恐々としてあれこれ思惑をめぐらしたというのであるが、信長の意図は実際のところどうだったのであろうか。考えられる答えは、信長が佐々と井口の策謀を察知して危険を避けたからか、あるいは最初から佐々の腹を切らせるつもりなどなく、比良城などに用はなかったかのいずれかである。このどちらが正解かというと、この節の結びに牛一が、「惣別、大将は万事に御心を付けられ、御油断あるまじき御事にて候なり」と書いていることでそれがわかる。もし信長が佐々側の策謀を察知していたことで、「あまが池より直ちに御帰りなり」であったならば、万事に気を配り油断していなかったことになる。そうして危険を避けられたのならば、牛一の結びの言葉は、「信長は万事に御心を付けられ、御油断なきにて候なり」となっていたはずであろう。したがって信長には、比良城に出向いて、佐々の腹を切らせようなどという意図はなかったのである。
 さてそうなると、信長がなぜあまが池にやって来たかであるが、単純には「蛇がへ」にきたということになる。そして信長が、「蛇がへ」などという酔狂なことに首を突っ込んでいるのは、持ち前の好奇心、あるいは気まぐれからというのが、この男のイメージに合うようである。しかしそうであるならば、なぜ佐々と井口主従は、信長のそうした心持ちを誤って読み違えたのであろうか。
 井口は、「如何となれば、城を御覧じなされたしと、井口に御尋ねあるべく候」、「先(まず)かけりを御覧じ候て然るべしと申すべく候。尤もと御諚候て」などと言っており、信長の心持ちをつかんで川に誘い出そうとしている。こうした点をみると、佐々や井口は信長の気質を承知した上で、あれこれ算段を練っているように思える。このように佐々側は信長を注視し、その意図や心持ちを斟酌しているのであるが、それでいて完全に誤解しているのである。こうしてみると、信長の酔狂や気まぐれが読めなかったというような、佐々側の単なる迂闊さでかたづけるのは少々単純かもしれない。佐々らの観測からすれば、信長の酔狂や気まぐれといっても、大々的に「蛇がへ」をやるほどではないということなのだろう。
 
 この挿話のポイントは、「蛇がへ」を言い出した信長の意図にある。佐々側は、「此の次でに御一覧候はんと仰せられ候て、腹を御きらせ候はん」と受け取ったのであるが、当人の意図はそこにはなかった。佐々は、「此の時は正体なく相煩ひ候由にて、罷り出でず」だったので、この「蛇がへ」そのものは見ていない。おそらくこの現場にいたのならば、彼らは信長の意図を邪推することもなかったであろう。それは、次の下りをよく読めばわかることである。

然るところ、信長水中へ入り、蛇を御覧あるべきの由にて、御脇指を御口にくわへられ、池へ御入り候て、暫(しばらく)が程候て、あがり給ふ。中~、蛇と覚しき物は候はず。鵜左衛門と申し候て、よく水に鍛錬したる者、是れ又、入り候て見よとて、御跡(あと)へ入り見申し候。中~御座なく候。然る間、是れより信長、清洲へ帰り給ふなり。

 この「蛇がへ」が実施されたのは、「正月下旬」ということなので、季節は冬の終わりから早春である。未だ水もぬるまぬこの季節に(注1)、信長は真っ先に池に飛び込んで大蛇を探している。それで見つからないと、さらに水練に長じた鵜左衛門に探させているのであるが、自分で水に入って探したのに、さらに別人に確認させるとは、気まぐれ男にしては妙に念が入っている。この光景を佐々らが見たならば、信長が蛇がへを口実にして、佐々の腹を切らせようなどと思っていなかったことは十分に伝わったはずである。それは、口実にしてはあまりにも真剣そのもの、気まぐれにしては慎重で念が入っているからである。このように信長は、大真面目で「蛇がへ」に取り組んでいたのである。
 さてこの「蛇がへ」は、どのようにして行われたのであったかを文中にみてみると、

比良の郷、大野木村、高田五郷、安食村、味鏡(あじま)村百姓ども、水かへつるべ・鋤・鍬持ちより候へと仰せ出だされ、数百挺の釣瓶(つるべ)を立てならべ、あまが池四方より立ち渡り、二時計りかへさせられ候

というものであった。太古氏の現代語訳では「数百の桶を立て並べ」とされていたが、原文は「数百挺の釣瓶を立てならべ」というのであるから、単なる桶ではなく、桶を吊るした滑車のついた水汲み出しの装置である。(注2)「数百挺」と「立てならべ」にそれが表現されているのであるが、これは実に壮観な光景であっただろうと思われる。また、「比良の郷大野木村、高田五郷、安食村、味鏡村百姓ども」と参集した村々が記載されているが、これからするとかなりの人数が集まったに違いない。口実ではとてもここまでやるまいと思うのだが、それにしても、どうしてここまで大掛かりな取り組みとなったのであろうか。
 この事件は正月中旬に発生し、「此の由、人に語る程に、隠れなく」ということで、ずいぶんの騒動になったようである。事件はあっという間に広まって、人々があれこれ噂をし合い、おそらく、あまが池の脇を通る堤道は誰も使うことができなくなっていたことだろう。そして、「上総介殿聞こし召し及ばれ、正月下旬、彼(か)の又左衛門をめしよせられ」ということで、「直に御尋ねたされ、翌日、蛇がへと仰せ出さる」となったというのである。これからすると、事件発生が正月中旬で、その後信長がその噂を耳にし、それから下旬になって又左衛門から事情を聴取したことになる。事件が発生してから、どれくらいで信長がそれを知ったかは定かでないが、騒動を耳にしてすぐ行動を起こしたのではない。騒動を知ってからしばらく経って、大蛇に遭遇した本人から事情を直に聞き取って、その上で「翌日、蛇がへと仰せ出され」と即座に動いたということなのである。

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 愛知県図書館は所蔵する絵図をインターネットで公開しているが、この絵図を元にあまが池周辺の地図を作成してみた。『信長公記』では、「比良の城の東、北南ヘ長き大堤これある内、西にあまが池」があったと記載している。そして又左衛門が「堤を罷り通り候」とあるので、この南へ伸びる堤の上に街道があったということだろう。この地図の元になった絵図は尾張藩時代のものであるから、この大蛇事件のころとまったく同じではなかろうが、線で引かれているのが村域である。これでみると、比良・大野木・味鏡・高田があまが池周辺の村々であったことがわかる。この怪しげな事件で、堤の上を走る街道の通行ができなくなり、また周辺の村々でも身の危険を感じて、彼らの生活にも大きな支障が出ていたものと思われる。そして、そのような騒然とした状況が、中旬から下旬まで放置されていたのである。
 さて、この事態に本来対処すべきは、いったい誰であったろうか。このあまが池の目と鼻の先に比良城があったのであれば、当然ながら佐々成政がこの一件に当たるべきであったろう。しかし実際に行動を起こしたのは、下旬になってではあるが信長であった。このことから考えれば、事件発生から一週間から十日ほど経っても、佐々らは何の手も打たず、動くようすもなかったことで、信長が乗り出したということなのだろう。噂を耳にしてから下旬まで、信長は佐々らの対応をじっと見守っていたのである。そして、佐々らが領主の責務を果たしそうもないので、代って事態に対処することにしたということなのであろう。
 この「蛇がへ」は、信長の公権者としての行動を示す一件であり、寒中に真っ先に池に飛び込むなど、デモンストレーションにも抜かりがなかった。そしてさらに念を入れて水練の達者にも確認させ、村人たちの納得がえられえるように努めたのである。信長の目的は、奇怪な大蛇出現の騒動を収拾することにあり、それは統治者そして公権力としての自覚に基づいた行動であったのである。信長自身と水練達者の鵜左衛門による二度の確認によって、「どうだ。何もおらんぞ、安心するがよい」という言葉を残して、「あまが池より直ちに御帰りなり」となったのだろう。

 この公権力を自覚した信長と対照的だったのが、佐々成政と井口太郎左衛門である。ここで、佐々による「信長へ逆心の由風説これあり」という背景を推測してみることにしよう。
 『信長公記』首巻には、佐々一族として、蔵人佐(内蔵佐)の成政と隼人正の成吉の二人の名前が挙がっている。隼人正は、小豆坂合戦に名が記され、桶狭間合戦で義元軍に三百ほどの兵力で突撃して討死している。一方の蔵人佐は、この「蛇がへ」の他に十四条合戦にも登場している。蔵人佐は、「蛇がへ」の時点で信長に敵対していたのであるが、永禄四年の十四条合戦では、信長の下で池田恒興などと共に奮闘している。このことからすれば、この「蛇がへ」と佐々らの信長暗殺未遂事件があった年は、信長が清洲城を奪取した天文二十三年(1554)よりは後のことで、永禄四年(1561)よりは前のこととなる。また永禄三年の桶狭間合戦において、佐々が信長に敵対していたとも考えにくく、普通に考えるならば永禄二年の岩倉城陥落よりは前であろう。
 『新修名古屋市史』は、「清洲・勝幡城などの有力領主の拠点に対して、佐々氏の比良城が“小城”と呼ばれているのは興味深い」と述べているが、その「小城」の城主である佐々が、単独で信長に対抗しようとしていたとは思えない。可能性として一番高いのは、弘治二年(1556)に斉藤道三が死去した後、信長の反対勢力が一挙に活気づいたというが、この時期のことだったのではないだろうか。同年に弟信勝は、林秀貞らと組んで稲生で信長と合戦に及んでいるが、地図で見ると稲生のすぐ北が大野木・比良である。こうしたことから、佐々の「信長への逆心」は、この信勝に与してのことだったのではないだろうか。
 上記のような推測であると、この「蛇がへ」の事件が起こった正月とは弘治二年の一月で、道三はまだ存命中ではあるが、すでに義龍は翻意を顕わにして道三の勢力を圧倒している状態にある。佐々もそうした時勢を背景に、尾張国内の権力闘争に目を奪われていたのであろうが、当の信長は村々に目を配り、彼らの迷惑を取り除くために即座の行動を起こす分別があった。この一件を記録した牛一も、「惣別、大将は万事に御心を付けられ、御油断あるまじき御事にて候なり」と結んでいることから、佐々らと変らない目線であったように思う。しかし、牛一が再三にわたって「大うつけ」と呼ばれていたと書いた信長は、武家の権力闘争に領主としての本分を忘れることなく、庶民の煩い迷惑に即座に対応する統治者の器量を示していたのである。

 『新修名古屋市史』は、第二巻「萱野の開発」の中で、この「蛇がへ」を連想させる「牛巻の淵伝説」という話を取り上げている。それは『熱田旧記追加』を引用したものであるが、以下のように書かれている。

 往古、熱田大社の東には芦山(あしやま)があり原野が続いていた。農夫らは牛馬を放ち草を喰(は)ませていた。ところが傍らに池があり、巨大な大蛇(おろち)が度々牛馬を喰ってしまうので、牛巻淵(うしまきふち)と呼んで人は近づくことがなかった。熱田の社職の一人大原真人武継(おおはらまひとたけつぐ)は射芸をよくし、大蛇を射殺さんとしたが、見付けることができないでいた。ある夜、大蛇が芦山に出て微睡(まどろ)んでいるのを見付けた武継は、喜びこれを射たところ、確かな手応えがあった。翌日見ると、大蛇の胸を射殺しており、牛巻の淵は紅に染まっておった。大蛇を芦山に埋めたが、今高田村に蛇塚と称しているのは、この場所である。牛巻の淵というのは二名橋(ふたなばし)の近所である。牛巻の田畑は武継の子孫が今に至るも領している。大蛇を射殺したのは弘治三年のことという。

 このような伝説話しであるが、『新修名古屋市史』はこれの解説に次のように述べている。

 人間による大地の開拓が未開の原野と接する最前線においては、未開の自然自体の有する人力を超えた巨大な生命力が大蛇として人びとに表象されることは、日本の歴史上しばしば見られる。農耕地としての開拓は、必ずや水を統制することによって成り立つものであったから、とりわけヤチと称される湿地の開発においては、大地を這いヤチに棲息する蛇は、大地そのものの表象となる資格を備えていた。人々に恐怖や煩いを与えた大蛇が、開墾を領導する一人の英雄(もしくは彼に招来された異能の人士)によって封じ込まれ、あるは屠られ、その跡にしばしば塚が築かれることによって自然との調和が回復したとする話は、古くは『常陸風土記』などにも見えて、蛇が鬼に変化したりしながら繰り返し時や場所を変えて語られてきた物語である。

 太田牛一が『信長公記』で語った「蛇がへ」は、伝説ではなく実話のはずであるが、この牛巻淵の伝説によく似た内容をもっている。もっとも武継は大蛇を射殺したが、信長は大蛇を発見できず、それがあまが池にいないことを人々に納得させたに過ぎない。しかし大蛇の存在を打ち消すことで、人々の不安と怖れを取り除き、村々の生活は元に復帰したことであろう。牛一が「堤より外、東は三十町計り、へい~としたる葭原(よしはら)なり」と書いているように、この辺りには広大な湿原が拡がっていた。人力を受け付けない自然が眼前にあって、村々の生活とはこうした自然に常に対峙することの中にあったのである。そしてそこには、「開墾を領導する一人の英雄」の姿もあった。自ら村人を先導して「蛇がへ」をおこない、真っ先に寒中の池に飛び込んだ信長もまた、村々の安寧を守る英雄だったのである。
 この「蛇がへ」の挿話は、結びに「惣別、大将は万事に御心を付けられ、御油断あるまじき御事にて候なり」とあるからには、佐々らの陰謀を逃れたことに何がしかの教訓めいたことを、牛一は示したかったのだろう。しかし大将がその関心を払うべきは、領民の暮らしぶりであり、村々に煩いや迷惑が及ばぬように気を引き締めることこそ大事と、当の信長はその行動で示していたのである。信長の周辺が騒がしくなるこの弘治二年という年の正月に、牛一の視点とは離れたところで、「蛇がへ」の奇談は信長の真の姿を映し出したのである。そして、牛巻淵の伝説が弘治三年のことであったというのは、また何か奇遇めいていて面白く、こうした奇談には似合ってもいる。

(注1)元は「季節は厳寒の最中である」と記していたが、暦換算に誤りがあったため、現在のように訂正した。
(注2)この頃の釣瓶は滑車がついたものではなく、竹の竿を斜めに地面に埋め、竹の先に綱をかけその先に瓶を繋いだもので、水を汲むときは、綱を引っ張り竹をしならせて桶を水に入れ、汲んだら竹の戻る反動でつり上げるというようなもの。との指摘があった。


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by mizuno_clan | 2009-10-18 21:25 | ☆談義(自由討論)