【推薦図書5】 『桶狭間-神軍・信長の戦略と実像』»»Web会員««

 水野氏史研究会委員の 江畑 英郷氏が、今般、初刊『桶狭間-神軍(かみいくさ)・信長の戦略と実像』を上梓されましたので、会員諸氏に御案内いたします。

 江畑氏は、三十年も前から信長が大好きで「桶狭間合戦」に強い関心を持っておられました。近年は、桶狭間古戦場跡を度々採訪し取材を進めてこられました。こうした取材に基づき、多くの史料の裏付けにより、現在は通説となりつつある信長の正面攻撃説を見事に覆し、また『信長公記』を慎重に読み解き、その謎の数々を解明し、何度も推敲を重ね、今般ようやく刊行する運びとなりました。

 ご存じの通り、来年は「桶狭間の戦い」から450年の、歴史的節目の年となりますので、誠に時機を得た出版であり、その反響を大いに期待したいところでございます。

 私も草稿の段階から試読しており、本著における史料の多用さにも感心しますが、『信長公記』の緻密な解読による思いもかけない展開には、著者の高才の一端がうかがわれ感服する次第です。このような素晴らしい研究成果を、会員諸氏にご高覧いただきたく推薦させていただきました。

 本会の主旨に関しては、特に「第五章 信長の必勝プラン 二、桶狭間の戦いと水野氏」 に、信長の同盟者と言われる「水野氏と桶狭間合戦との関連」について、40ページにも渡り詳しく言及しておられます。「桶狭間の戦い」以前の「村木砦の戦い」から、その背景を探り、水野信元、水野金吾、水野信近に対する驚愕の考察は、水野氏史研究会の重要研究課題の一つである「小河水野氏研究」を、この著書により大いに進展させたものと評価いたします。江畑氏が長年暖めてきた水野氏史研究の成果が、今ここにようやく花開いたといっても決して過言ではないと思います。
従いまして本会は、本書を「本会の推薦図書」に指定いたします。 
 ただいま全国書店およびネット通販で販売が開始されましたので、水野氏史研究会々員およびゲストのみな様には、ぜひともご購読下さいますようお願い申し上げます。

                                             研究会事務局 世話人 水野青鷺




【著者のブログ】本書のための特別サイト「桶狭間」も開設されましたので、ぜひご覧ください。
*読書感想やご意見・コメントなどは、この特別サイトにお書き込みください。

◆2009.12.25 から読了後コメント・質問などが寄せられています。
http://blog.zaq.ne.jp/hazama/

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出版社: カナリア書房
ISBN-10: 4778201248
ISBN-13: 978-4778201241
¥ 1,680

『桶狭間-神軍・信長の戦略と実像』単行本

【目次】
はじめに
序 章 大うつけと桶狭間合戦の謎――それは奇跡の大逆転であったのか――
<戦術編>
第1章 かつての定説と今日の定説――「迂回説」と「正面攻撃説」――
第2章 迂回の真偽を探る――信長の不可解な行動、その真相――
第3章 今川軍敗北の真相――どこを奇襲すれば勝てるのか――
<戦略編>
第4章 信長の勝算と合戦の起因――戦いを仕掛けたのはどちらだったのか――
第5章 信長の必勝プラン――それは偽装・裏切りの合従戦略だった――
第6章 桶狭間の勝者、信長の実像――虚にして武、それが信長である――
あとがき
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【紹介文】
歴史に燦然と輝く奇襲劇 『桶狭間の戦い』
その舞台裏を紐解く、衝撃の作品!
新進気鋭の著者が歴史の常識を覆す。

織田信長が戦国時代の桧舞台に躍り出たキッカケとなる劇的な奇襲劇「桶狭間の戦い」。
その鮮やかさこそが、信長の鬼才・天才ぶりを世に知らしめることになった。
ところが、そんな「桶狭間の戦い」にカラクリがあったとしたら?
後世の歴史書が伝える「桶狭間」の隠された真相とは?
常識を覆す「桶狭間」論を展開する歴史ファン必見の1冊です。 (カナリヤ書房)


●最新学説による精緻な解釈!「迂回奇襲」の新定説、誕生。●第一級史料といわれる『信長公記』。しかし「桶狭間合戦」の核心部分には大きな欠落があり、それが今日まで大きな謎を生み出してきた。本書ではこのテキストを精緻に読み解き、最新学説とあいまって、驚くべき真実を明らかにした●今川軍が絶対有利の兵力を展開しながらも「奇跡の大逆転」が生起した。大兵力に潜む唯一最大の弱点とは何だったのか!?●桶狭間合戦は「大うつけ」信長の合戦であった。数々のエピソードから信長の実像を探り、大合戦に勝利し後の飛躍につながる信長の「原点」に熱く肉薄する。(ジュンク堂書店)
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by mizuno_clan | 2009-12-17 05:09 | 推薦図書

【談議1】水野氏と戦国談議(第二十一回)

闘う者たち(1)-地侍知行制の限界-
                                                         談議:江畑英郷

 「戦国時代」と後世の我々が呼ぶ十六世紀の戦乱の時期に、その時代を生きていた人々は、その状況をどのようにみていたのであろうか。これについて小和田哲男氏は、『戦国の合戦』(学研新書)で次のように述べている。

 平和な時代にくらべて異常ともいえる時代相については、当時のひとびとも意識していて、たとえば、甲斐の戦国大名武田信玄は自分が制定した戦国家法「甲州法度之次第」の中で「天下戦国之上」という言葉を使って武具の用意に力を入れるよう強調している。
 それは、戦国を実際に戦っている武将たちばかりでなく、公家たちの日記にも散見する。その一つ、関白太政大臣をつとめた近衛尚通の日記「近衛尚通公記」には「世上の儀、いわゆる戦国の如し、何れの日にか安堵の思いを成さんや」とあり、中国の春秋戦国と、わが国のそのころの戦乱状況を重ねあわせていたことがわかる。


 武田信玄や近衛尚通が、「戦国」という言葉を使って、今は戦乱の時代だという認識を表明していたというのであるが、この二人、一方は戦う者であり、他方は戦いに日常を脅かされる者である。この時代には、「戦国」に対して様々な距離をとる人々があった。そして、身分制度が未だ確立していない時代にあっては、武装する者は武士階級だけに限ったことではない。また戦いには、直接に暴力をぶつけ合うものばかりでなく、策略・知略を尽くして、威嚇や利益誘導で敵を取り込み、あるいは農業・商業の産業基盤に打撃を与えて力を弱体化させるなど、多様な争い方が存在する。その意味で「戦い」は、闘う者以外を多く関与させ巻き込んでいるものなのである。
 「戦い」つまり戦争は、広範な関与者を取り込んだ社会現象であるが、それでも「合戦」は武力衝突を中核としており、その担い手は個々の戦闘者である。ここしばらくこの談議においては、この闘う者たちについて掘り下げて考えてみようと思っている。といっても戦闘そのものについてではなく、この闘う者たちとはどのうような存在であったのかというものであり、社会的存在として、そして合戦を構成する存在としての特質について考えてみようとするものである。

 合戦は相対する戦闘集団間で発生するが、この戦闘集団を構成する闘う者は、まずどういった視点で分類されるべきであろうか。この時代の闘う者たちの特質の第一は、知行制を背景として戦闘への動機づけがなされている点にある。ただし村落間の相論合戦や、宗教を背景とした一揆闘争などは別である。まずここでは、武家権力間の闘いに焦点をしぼって考えていきたい。
 知行とは「土地の用益権」のことであった。この時代、「権利」は自身の手によって守り維持する必要があったが、その手段のひとつとして上位武家権力と主従関係を結んで、その武家権力の庇護によって直接的間接的に土地に対する権利を守ることができた。そして武家権力がそうした庇護力を有するのは、彼らの力によるもので、その中心は闘争力である。闘争力によって庇護される用益権者は、必然的に上位武家の闘争力の担い手ともなる。したがってここで言う知行制とは、主による土地用益権の付与あるいは庇護と引き換えに、その被官が主の闘争力の一翼を担うことである。
 この知行制の事情を少し詳しくみるために、『戦国の群像』(池上裕子著、集英社版日本の歴史シリーズ10)より該当箇所を引用することにする。

 北条氏が一五五九(永禄二年)に作成した『小田原衆所領役帳』によって試算すると、寺社領を除いた約七万貫文の家臣所領から北条氏が動員できる兵士の数は、全部で約九〇〇〇人になる。このうち北条氏から直接所領を宛行なわれた給人は約五〇〇人で、六パーセントにも満たない。その残りは、かれらが自分の所領などから被官として編成し軍役として召し連れる従者なのである。しかも五百余人の給人の半数は、さきの八林(やつばやし)郷の給人のように五〇貫文未満の階層であり、かれらは村落に居住する農業経営者である。もちろん、五〇〇貫文以上の所領を持つ給人の被官には、大身で農業経営から離れた専業の武士もいたであろうが、それを除いてもなお、参陣する軍勢の九五パーセントほどは村落に屋敷をもち経済基盤をすえた人々であったといえる。

 北条氏は、広範な検地を長年に渡って実施した成果として『小田原衆所領役帳』を作成した。これは「所領役帳」とあるように、北条氏の知行制に取り込んだ被官に対して、役を果たすべき所領を貫高表記で記載したものである。北条氏は田畠に等級を設けず、一律に田であれば5〇〇文、畠であれば165文と見積り、それを被官(給人)が徴収できる額として定めた。そして、北条氏の知行制度の中で認定され保障されることになった所領は、北条氏に対して果たすべき「役」の基準となるものである。
 北条氏はこの『所領役帳』に基づいて、給人各人へ『着到定書』を与えている。この『着到定書』には、所領貫高に応じて、どのような装備の者を何人引き連れて参陣すべきかが規定されている。それによれば、「各家臣は七~八貫文に一人の割合で着到役を負担しなければならなかった」(『戦国の群像』)ことになる。このように北条氏は、自身が構築する知行制における給人の所領の大きさ(=徴収分)を一括して把握して文書に記録し、それに基づいて果たすべき軍役を規定し、各給人に対して文書によって通達していた。これは非常にシステマチックな軍事編成であり、この時期、どこの大名でも軍事編成はこうであったというものではない。例えば『所領役帳』が作成された翌年、織田信長と今川義元の間であの桶狭間合戦が勃発したのであるが、今川は別として当時の信長が同様の軍事動員システムを持っていたと考えるのは行き過ぎであろう。この時期では、戦国大名の先進的な一つの到達点として、こうした軍事動員システムが構築されつつあったということなのである。

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 さて、北条氏が構築しつつあった所領役システムであるが、このシステム下の人員構成はどうなっていたかが、先の引用文には簡単に示されていた。左の表は、この所領役システム下の人数構成を、池上氏が『戦国時代社会構造の研究』で掲載したものを少し加工したものである。
 これによれば50貫未満の給人が288人で、全体に占める割合は52%である。そして、50貫以上100貫未満の人数が106人で全体の19%であり、100貫未満の給人は全体の71%を占めている。ところで、この人数比はあくまで北条氏からみた所領階層別のものであり、北条氏の直接被官の7割は100貫未満であったというものである。それぞれの給人は、その役高が大きくなるほど給人自身が自前の被官を持つようになり、池上氏は「参陣する軍勢の九五パーセントほどは村落に屋敷をもち経済基盤をすえた人々であった」と述べているのである。つまり大身の階層も、やはり50貫未満の被官を従えており、それの総体として大身に見合った人数を着到させているのである。これからすれば、北条氏の軍事構成の末端には50貫未満の給人がおり、村落に基盤をもつ「地侍」が北条軍を支えていたことになるのである。



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 池上氏は八林郷の給人を例に挙げているが、それは右図(出典:『戦国の群像』)のようなものである。そしてこの図にある道祖土図書助(さいどずしょのすけ)について、「自身が馬で出陣するほか、指物持と鑓持の二人の歩兵をつれて参陣する軍役義務があった」と述べ、彼の認定所領を「田畠合わせて七・五町歩ほどに相当する」としている。そして、「下人などの従属農民を使った手作(てづくり)経営と小作地をもつ村落の上層」であるとする。池上氏はこうした村落の上層民を「地侍」と呼んでいるが、ときに彼らを単に農民と呼ぶ場合がある。あるいは、地侍が引き連れる従者を指してそう呼んでいるのかもしれない。しかしこの大名軍を構成する末端にある「地侍」は、村落上層民を中核とした戦闘小集団である。この中核の馬上の侍を抜きにしては、この小集団が動くことはありえず、馬上の主のためにその従者は闘うのである。たとえそれが姓をもたない村落民であったとしても、彼が一人の農民として闘っているのではない。戦闘における「地侍」は、数人から十人程度の分かつことのできない小集団を意味する。この小集団としての「地侍」こそ、合戦における闘う者なのである。



 北条氏にみられるように、その主従関係は知行制に基づいており、上位権力による知行の給付・保障と、その反対給付としての軍役が大名の軍事力を生み出している。つまり知行というリソースが軍事力の源泉であり、そこから生み出される戦闘力の素性、それが侍であるとか下人、農民であるとかいったことにはあまり意味がない。それはリソースに対応した戦闘力であり、実態としてのリソースの大きさは50貫未満である。この50貫未満のリソースが、7人未満の戦闘者を一体のものとして戦場へ供給しているのである。したがって戦国期における知行制とは、地侍知行制とも呼ぶべきもので、村落に基盤をもつ闘う者たちによって支えられているのである。
 しかしこの地侍知行制に支えられた戦闘力は、地侍を基盤とするがゆえにある限界を必然的に内在させている。地侍が上位権力の戦闘を担うのは、知行の給付・保障があるからであるが、もともと彼らは保障されるべき知行、すなはち自立基盤を有した者たちである。したがって被官・給人となったにしても、それで彼らが上位権力に従属しきったと言えるわけではない。つまり地侍は自立的基盤に拠った従属者なのであり、軍役負担と知行保障を常に天秤にかける存在でもある。地侍の本分はどこまでも知行地経営にあるのであり、その経営を運役負担の犠牲とすることには強く抵抗する。彼らは知行地経営の安定と拡大のために上位権力に従属したが、それがために知行地に根を張り在地の論理で事を処す。そして戦国大名が、領域を拡大させ公権として大規模合戦に臨もうとするとき、そこに在地の論理が結びつくことはない。したがって、ここに「兵農分離」の問題が浮上し、地侍の自立性と従属性という両義性を乗り越えることなしには、大名はより過酷な戦場へと兵士を率いていくことはできないことになる。
 さて次回は、戦国大名はどのようにしてこの地侍の両義性を乗り越えていったのか。そしてそこに現れる闘う者たちとは、いったいどのような者たちであったのかを考えることにしよう。
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by mizuno_clan | 2009-12-05 18:34 | ☆談義(自由討論)

アクセス解析 No.7

●2009年9月から2009年11月まで、3ヶ月間の「水野氏史研究会ブログへの第7回アクセス解析」を発表いたします。
 一般の研究会では、月に一度程度の会合、および年数回「会誌」を発行しておりますが、本会では委員会の外は、当面集会や会誌等の発行を予定していないことから、集会参加人数・会誌の発行部数を公表する事は出来ません。従って本ブログへのアクセス状況(ユニーク・ユーザー数)をご報告する事により、変則的な方法ですが「集会状況と会誌の発行部数に代替」させていただきます。
 また、前月は、実質訪問者数であるユニーク・ユーザー数が、10,000 ip の大台を超えましたので、併せてご報告いたします。
 みな様には日々お仕事などでご多用中にも関わりませず、本会にご理解ご尽力いただいておりますことに、ここに改めまして深謝し御礼を申し上げますとともに、今後とも引き続き本会活動にご参加ご支援いただきたくお願い申し上げます。

※本ブログに設置している「カウンターの数値」は、途中で開設したものであり下記の数値とは異なりますが、大凡の目安として設置しております。


                                               研究会事務局


【エキサイトブログ・レポートの集計データ】 更新2009.12.01
▼2009.9.1~2009.11.30 までの“ユニーク・ユーザー数”
合計  2,076 ip (前回比 128.4 %)

前計  8,058 ip
累計 10,134 ip
 ※ユニーク・ユーザー【 unique user 】数とは、ブログにアクセスされた接続ホスト数をユニーク(同じ物が他に無いの意)な訪問者の数として日毎に集計している。つまり同一人物が1日に何回アクセスしても、最初の1回のみがカウントされる。この集計基準は、ページ・ビューなどの基準に比べ判定方法が難しいが、実質訪問者数を示している事からサイトの人気度をより正確に反映できる。


▼2009.9.1~2009.11.30 までの“ページ・ビュー数”
合計  6,594 pv (前回比 141.3 %)

前計 21,216 pv
累計 27,810 pv
※ページ・ビュー数【 page view 】(=表示画面閲覧数)の月別日計グラフを以下に掲載する。
通常、訪問者はサイト内の複数のページを閲覧するため、訪問者数(ビジット)よりもページビューのほうが数倍多くなる。



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2009.11 合計 1,920 pv



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2009.10 合計 2,159 pv



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2009.09 合計 2,515 pv
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by mizuno_clan | 2009-12-01 02:58 | アクセス解析