【談議1】水野氏と戦国談議(第二十四回)

戦国組織論(2)-度合と統一基準-
                                                          談議:江畑英郷

 北条氏が発給した、宮城四郎兵衛尉(ひょうえのじょう)や道祖土図書助(さいどずしょのすけ)への『着到定書』の末尾には、次のような文言が加えられている。

 右着到、分国中何も等申付候間、自今以後、此書出之処、聊も不可有相違候。於違背者、越度由、可為如法度者也、仍如件。
(右の着到は、分国中に何れも等しく申し付けたのだから、これ以降は、この書出の内容に些かも相違ないようにせよ。違背の者においては、命令違反として法令に照らして処分することになる。)

 このあてさきである宮城四郎兵衛尉は、東京都の豊島・石神井(しゃくじい)を本拠とする国人で、南北朝以来の文書を所蔵する程の家柄であるが、当時は後北条の麾下にはいって、二八四貫の知行をうけていた。後北条家臣団のなかでも、相当な地位をもっていたわけである。ところが、この壬申(みずのえさる)の年(元亀三年=一五七二と推定)、小田原から、「分国中何も等」しくとあるように、統一基準で、このような軍役割当があったのである。自身をふくめ、騎馬八、徒士二八という数字である。装備までが厳格に規定されており、鉄砲は二挺という定めであった。
(『日本の歴史14-戦国の動乱』永原慶二著)
*( )内の現代語訳は当筆者が付加。

 ここで永原氏は、「“分国中何も等”しくとあるように、統一基準で、このような軍役割当があった」と述べているが、前回「北条氏の貫高と軍役の関係」で確認したように、北条氏の給人に対する着到割当には3倍近いバラツキが存在していた。さらに『所領役帳』に登場する他国衆においては、北条氏が給付した知行地しか記載されておらず、もし北条氏が示したものが「統一基準」であったのならば、彼らの軍役は給付された知行貫高の分しか負担されなかったことになる。有力国人の成田下総守は、北条氏から80貫程度の知行地を与えられていたが、「七~八貫文に一人の割合で着到役を負担」(『戦国の群像』)という基準からすれば、彼は10人ほどの人数を出せばよかったことになる。しかし、藤原北家の流れを汲み武蔵忍城主であった成田下総守が、出陣に当ってそれだけの人数しか出さなかったということはおよそ考えられない。おそらく「分国中何も等申付候間」というのは、着到役を具体的に書面によってどの給人にも伝えたということであって、「統一基準」を設定してこれに沿うように命令したということではないと思う。しかしながら、こうした統一基準が存在したことについては、永原氏に限ったことではなく、他の多くの専門家も指摘していることである。

 ともかく、このように貫高に対応して、家臣全体に統一的な軍役をかけていくという方式は、戦国期にはじめて達成されたのである。
(『戦国の群像』池上裕子著)

 北条氏のみならず力のある戦国大名が、給人の知行地を掌握し、それを梃子に軍役の「統一基準」を設定して軍事力を強化していったことが、「戦国期にはじめて達成された」ことであるならば、これこそは戦国大名の特質に他ならない。そして永原氏は、このことを総括的に次のように述べている。

 大名の家臣団編成のおもなねらいは、一門・譜代・国衆・外様など、かれらを軍事的信頼度=親疎の度合にしたがって編成し、譜代家臣を中核とする大名の直属軍事力を強め、それによって、国衆・外様への統制を強めてゆくことにあった。しかし、同時に、対外戦力を大きくするために、家臣団に対して統一基準による軍役をかけ、給地に住む有力名主などをその被官郎従に編成し、いざというときにはいつでも必要規模の軍事発動ができる態勢をととのえておかねばならない。
(『日本の歴史14-戦国の動乱』)

 そして永原氏も、「その人数・装備の武器などについて統一的な基準がなかった状態とくらべれば、はるかに統一性を高めてきていることは、戦国大名のばあい共通にみとめられる」(同書)と述べているのである。このように戦国期には、知行高に基づく統一的な軍役基準を大名軍が備えるに至ったという、歴史的到達があったかのように言われているのであるが、先にも記したようにそう単純に規定するには問題がある。
 永原氏の上の主張では、「軍事的信頼度=親疎の度合にしたがって編成」するという側面と、「統一基準による軍役をかけ」るという側面が指摘されているが、この二つの側面は果たしてどのように両立するのであろうか。「軍事的信頼度=親疎の度合にしたがって編成」するということは、大名軍の内部が一様ではなく、「一門・譜代・国衆・外様など」複数の類型に分けられる多様性をもっていたことを意味する。次いでこの多様な被官たちに、「統一基準による軍役をかけ」たというのであるが、統一基準が適用できるのであれば、「親疎の度合にしたがって編成」などする必要があったのだろうか。「統一基準」であるからには、その集団の誰に対しても等しく適用されるのであり、そこには「親疎の度合」など差し挟む余地はないはずである。そしてそうした統一的な基準が現に受け入れられたというのであれば、その基準を等しく受け入れるほどに、その集団は同じ立場を共有していたことになる。その一方で集団が「度合」による多様性をもつというのであれば、その対象集団は統一的に扱えないはずであり、それだからこそ「度合」が適用されるのである。
 永原氏が指摘した「大名の家臣団編成のおもなねらい」には、「度合」と「統一基準」という相互に矛盾する指向が存在しているのであるが、そうだからと言って、このどちらかが存在しなかったというわけではない。そうではなくて、戦国期「大名の家臣団」には、「度合」と「統一基準」という相対する二つの要素が内在していたのであり、この点に注目することが非常に重要なのである。

 前回、葡萄の房に例えられる大名組織は、実のところその例えに相応しない「不揃い」なものであることを指摘した。それは大名と給人を結びつける給人の知行地の大きさがかけ離れていたからであるが、そればかりではなく、大名組織は「軍事的信頼度」においても「不揃い」なのである。この不揃いな被官たちを、永原氏は「度合にしたがって編成」したと書いているが、北条氏においてこのことは支城別衆編成によって実現されている。

 北条領国では松田氏の離反が二度伝えられるだけで、概して家臣団の統制に成功しているようにみえる。その理由の一つは、第一節に指摘した新征服地の衆編成にあると思われる。すなわち、有力国人の拠点であった江戸城や松山城をそのまま存続させながら、その城に属す衆編成には、必ず有力旧臣が筆頭となってその中核を形成し、周辺の在地領主層を掌握していく。外様や国衆が自立的な領域支配を継続することを許さず領国への同化を推進するのである。そして楽市政策その他の諸政策がそれを補充していく。
(『戦国時代社会構造の研究』池上裕子著)

 池上氏によれば、北条氏において「親疎の度合にしたがって編成」するとは、「親」=「有力旧臣」を有力国人の拠点に配属し支城主として中核を形成させ、そこに「疎」=「周辺の在地領主層」を付属させることである。それと連動して知行貫高の大きさの不揃いは、寄親寄子制によって集団編成されているのである。

 今川氏などで地域的軍団の大きな割合を占めていたのは、「同心」「寄子」と呼ばれる当主の直臣たちであった。これは寄子寄親制と呼ばれ、名称は変っても多くの戦国大名に共通してみられる軍事編成とされる。当主の直臣である者が城主・城代である一族・重臣層に附属させられたり、逆に一族・重臣層の被官が当主から知行地を安堵されて直臣になった場合に、寄子寄親制が成立する。知行の安堵・給付とそれに対する奉公という主従関係自体は当主との間で持つが、軍事指揮権では附属する一族・重臣層に従うという関係ができあがるのである。つまり、知行関係と軍事指揮関係との分離である。この軍事的指揮を行う一族・重臣層の方を寄親、従う当主直臣層を寄子あるいは同心などと呼んでいる。寄子寄親関係は、寄親に当る一族・重臣層が独自に自己の被官層を軍事編成し強大化するのを抑止するものであったともいえる。
(『一揆と戦国大名』久留島典子著)

 北条氏で言えば、52%が知行貫高50貫文以下の地侍であるが、彼らはそれぞれ独自に北条氏に従って軍役を勤めていたのではなく、北条氏の有力被官に寄子として附属していたとされる。つまり粒の小さい被官は、粒のより大きい被官に「附属」させることで、大名軍に階層構造をもたせていたということである。このようにして「度合」を編成することで、大名の給人集団は組織化されていったことで、統一基準を受け入れるまでに組織的になったということなのだろうが、これで「度合」は組織に吸収されたと考えてよいのだろうか。
 久留島氏は、「附属」を軍事指揮権に対して認めており、知行関係と軍事指揮関係は分離していたと述べている。つまり寄子となった給人の主はあくまでも北条氏であるが、軍事に関しては寄子は寄親に「附属」するというわけである。久留島氏はどのような意図でこの「附属」という言葉を使ったのか定かではないが、別物がくっついているというニュアンスをそこに込めたようにも思える。「分離」しているのであれば寄親の指揮下にスッポリと入ったということで、「所属」あるいは「従属」でもよかったように思うが、そうとも割り切れないものを感じていたのだろうか。「寄親」「寄子」、そして「同心」という言葉もそうであるが、大名の家臣団組織としての編成であれば、衆という単位をつくってそこに構成員を配置するだけのことであるはずで、「親」「子」「心」といった意識レベルの少々大仰な語を用いなくともよさそうなものである。現代人であればそのような語使用がなくても、昔の人びとのことだからそうなのかとも思うが、現代でも人間関係の中に「親」「子」「心」という語を持ち込む集団は存在する。

 「親分子分」の位階制度による上意下達式な超ピラミッド型の組織形態は「盃ごと」による擬似血縁関係に担保された半ば封建的な組織のありかたとして、一件きわめて非合理な様相を呈している。しかし、ヤクザ組織の強靭さはこうした非合理性の合理化、いうならば「超合理」としか表現できない結束の仕方により維持されているのが実状である。
(『ヤクザに学ぶ組織論』山平重樹著)

 武力をその組織の重要な特性とする点で、戦国の武家集団とヤクザは似通っているが、その組織構造の根幹に「親」「子」「心」という語を使用するのには何か理由があるのだろうか。山平氏は、ヤクザ組織を「位階制度による上意下達式な超ピラミッド型の組織」と述べているが、これはこの組織の根幹が上下関係にあるということであり、その点では武家の主従関係と同一である。「親」「子」という語は、親子関係のもつ上下性を示しており、この立場としての上下関係は、人為的な関係(社会的関係)ではないために崩れることがない。このことから、縦関係に特別な意味を込める場合に、その確固たる上下を強調するための比喩として意図的に使われるのであろう。つまり崩れることのない上下関係、あるいは上下を揺るがせにしないという意味で、「親」「子」の語が人間関係に使われるのである。
 ヤクザ組織の場合は、上下の縦関係が強固であることがその組織存続の根幹なので「親分子分」ということになるのだろうが、寄親寄子制においては「寄」という語が付加していることでそのニュアンスがだいぶ違う。「寄」という語には、「人に任せて世話してもらう。あずける」(『漢字源』)という意味があるが、この語を付加することで、「主が有力被官に小身の被官をあずける」ということを表しているのだろう。そして主からすれば同じ被官ではあるが、あずける者を「寄子」、あずけ先を「寄親」としたのは、本来上下関係のないところに上下関係を設定するがためである。しかし一方で「あずける」ということは、本籍はあくまで大名である北条氏にあるということでもある。そしてヤクザ組織においてもそうであるが、組織のある部署に配属する、あるいは組織の一員とするという意味だけであれば、「親」「子」という語は使われることはないのである。なぜならば、それが個人間の上下関係であるからこそ「親」-「子」なのであり、組織上の上下関係に使われるにあたっては、実に似つかわしくない語だからである。

 かつて、この世界の事情通と目される男から、こんな話を聞いたこともある。
「たとえば、親分に運転手兼ガードマンとして仕えているヤツがいたとする。親分が夜の街で飲み歩いている間、表で五時間も六時間も待たなければならないこともある。理不尽この上ないことだから、カタギの若者にはとても耐えられるものじゃない。何でこんな馬鹿馬鹿しいことしなきゃならないんだ、ということになる。それを耐えるのがヤクザだ。掟がどうのこうのというより、親分に惚れこみ、忠誠を誓っていればこそできることです。この世界でも、人を動かすのはやはり心。情も思いやりもなく、若い衆をコキ使って虫ケラ同然に扱うような親分には、絶対に若い衆はついていかないものです」。(中略)
 組織力の差というのは、リーダーがどれだけ人を動かせるか否かにかかっている。とりわけ「心」を動かせるかどうかが、その鍵を握っているといっても言いすぎではなかろう。

(前掲書)

 山平氏によれば、ヤクザ組織という超縦関係においては、親分という一人の男がどれだけ「人を動かせるか否かにかかっている」のであり、「組織」と言いながらその屋台骨は親分という個人の器量に依存しているというわけである。そしてだからこそ、その個人を「親分」と呼称するのであろう。さて、現代のヤクザ組織にも、「“心”を動かせるかどうかが、その鍵を握っている」ということで「心」が登場したが、池上氏は戦国期の「同心」という用語について次のように述べている。

 寄子はまた一般に同心ともいわれる。同心とは文字通り、心を同じくする、心をあわせるという意から出て、その人を表す言葉である。毛利領では寄子を一所衆とよんでいる。「給人の義、勿論前々のごとく其方一所たるべく候」とあるように、寄親の下で一所に行動するという意からきているのであろう。
(『戦国の群像』)

 久留島氏が言うように、「知行関係と軍事指揮関係との分離」が前提としてあって、有力給人の軍事指揮権に小身の給人が服するのであれば、なぜ「心を同じくする、心をあわせる」という意味の「同心」という用語が使われるのであろうか。この「同心」という用語からすれば、主である北条氏は小身の給人Aに対して、「○○衆のBに仕えその命に服せ」とは言わずに、「AはBと心を同じくして北条のために働いてくれ」と言ったことになる。それとも「同心」は、池上氏の言うように「文字通り」ではないのであろうか。

 伊豆衆や江戸衆をとってみれば『役帳』段階でも同様な衆構成が想定されるのである。清水が高橋を同心とし、さらに他の同心をもっていること、しかも同氏は衆筆頭の笠原とともに三島支配に当たり、また最も知行高が多く、笠原に従属する関係はないこと等から考えて、伊豆衆が笠原とその同心衆、清水とその同心衆、秋父とその同心衆等々からなっていると想定して誤りないし、江戸衆では太田の例ですでに明らかであろう。
 『役帳』の衆とは、このような同心関係をもつグループの集合体であると考えられるのである。衆は常に衆筆頭者を指揮者として一所に軍事行動を行うとは限らず、現実の軍事行動単位は、同心グループと考えられるし、筆頭者以外の構成員が全く平等の地位にあるとはいえないことはすでに明らかである。

(『戦国時代社会構造の研究』)
*清水とは清水康英のことで、「後北条氏の家臣。伊豆衆の一人で、伊豆加納など八百二十九貫七百文の衆中最高の貫高を領した。また、評定衆として天文二十四年(一五五五)三月二十一日付の裁許印判状に笠原美作守とともに署判を加えている」(新事物往来社『戦国人名辞典』)。
*笠原とは笠原美作守のことで、「後北条氏の家臣。伊豆衆の筆頭で伊豆郡代を勤めた。相模西郡多古などで四百四十七貫百五十文を領した」(同書)。
*秩父とは秩父次郎左衛門のことで、「後北条氏の家臣。伊豆衆の一人で相模中郡津古久(つこく)などで五百七十八貫二十三文を領していた」(同書)。

 家臣団編成の要といえる衆について、池上氏は「同心関係をもつグループの集合体である」と述べている。そして実際の軍事行動単位は、この寄親-同心衆が形成するグループによって果たされていたのであり、また「筆頭者以外の構成員が全く平等の地位にあるとはいえない」など、衆というものが支城主を中心に整然と組織化されていたわけでもなさそうだ。また池上氏は、寄親寄子関係の発生について次のように述べている。

 寄親寄子関係は実際に戦争がおきたとき、地侍が軍事指揮者のもとに従軍し、同心して行動するなかで、指南-同心関係が形成されるという形ではじまることが多い。それが本来の形でもある。すなわち、下から形成されてくるものが出発点であり、大名として編成するのはその後の段階である。
(『戦国の群像』)

 北条氏においては寄子と同心はほぼ同義語であるが、同心が『役帳』に記載される知行主であるのに対して、寄子は「寄親を介して大名から扶持を与えられている」者である。池上氏はこの狭義の寄子を括弧つきの「寄子」と記載するが、同心・「寄子」どちらも「最初から大名によって編成されるものではなく、有力給人との間に自発的に形成された」点では同じだと述べている。すると「同心」という用語には、「AはBと心を同じくして北条のために働いてくれ」ではなく、「AはBと心を同じくして働いてきた」という意味が込められていることになる。先にあった毛利氏においても、「勿論前々のごとく」となっており、下から自発的に寄親寄子が形成されるという側面は、北条氏特有のものでもないのである。

 我々がイメージする組織編制は、組織の機能性を最大に発揮するよう成員を適宜配置するといったものであるが、これまでみた戦国大名の家臣団編成は、自発的に下から形成されるのであり、そしてそれらが同心グループとして独自の単位を構成しており、衆というものはその同心グループの集合体であった。このように規定される衆というものは、どこまで組織化されたものであっただろうか。池上氏は「大名として編成するのはその後の段階である」というが、それは下からの編成を踏まえたものであり、既成のあり方はそれなりに大名の編成に制約を与えたのではないだろうか。紛争や相論という緊張の現場から立ち上がってくる寄親寄子の関係は、大名からみて一様のものではなく、先にみた「度合」を多く含んだものであったに違いない。それは基準を適用する前に、結びつくことを求める当人たちによって形成され、大名はそれを受け入れそれに突き動かされながら、全体の編成に着手しなければならなかったことだろう。ここにおいては、「度合」は組織に吸収されたのではなく、「度合」が組織化の方向を促したように思える。
 この戦国という時代に、知行高を掌握しそれに基づいて給人に軍役負担を課そうとした大名は、このことによって従来にない「達成」を成し遂げたという。しかし実際の戦国大名は、「度合」と「統一基準」という相対立する指向を抱え込んだのであり、そのことが彼らのあり方を一層複雑にしていたように思われる。乗り越えたものと思っていたものが、実は乗り越えの中で時代を色濃く覆っていたのであり、その矛盾が「組織」というものの本質を鋭く映し出しているようでもある。戦国時代論は、戦国時代の組織を論じようとして、組織とは実際何であるのかを本格的に問わねば先に進めない段階に達したようだ。したがって次回は、主従制の根本構造を探ることで、この問いに答えていこうと思う。
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by mizuno_clan | 2010-03-21 01:34 | ☆談義(自由討論)

◆W杯4強「岡田ジャパン」と桶狭間

1.日刊スポーツ(2010.3.11)スポーツ欄に、本会委員で、『桶狭間-神軍・信長の戦略と実像』の作者 江畑英郷氏のインタビュー記事が掲載されました。

 日刊スポーツは、火曜日から土曜日の紙面で「世界4強 岡田ジャパン 奇跡への条件」を連載中であり、「奇跡への条件」をキーワードに、いくつかのテーマに分けて、日本代表がW杯4強を達成するのに必要なもの、乗り越えるべき壁などを探っていきます。
 第3回で、織田信長が今川義元を破った「桶狭間の戦い」を取り上げ、日本の歴史に残る「番狂わせ」は、岡田ジャパンにどんな教訓を残しているだろうかを探っています。
タイトルは:信長「桶狭間」新定説の研究家が提言――教訓③うつけジャパンになれ!!      です。
みなさんも是非お読みください。


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※紙面の転載については、事前に江畑さんから日刊スポーツの記者に承諾をいただいております。尚 この紙面は中部版のものであり、関東など他地区との紙面とは異なりますのでご了承ください。



1.また、ニッカンコム(日刊スポーツweb)では、各回の「取材後記」を掲載しています。紙面とあわせてお読みください。

「サッカー記者が歴史の専門家に聞いたら…」
<江畑英郷さん・取材後記>



                      事務局世話人 水野青鷺
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by mizuno_clan | 2010-03-11 10:40 | News

◆本会開設二周年ご挨拶

 水野氏史研究会(以降本会)は、「水野氏史研究」に関心を持っておられる多くの人々が、その研究成果の発表および意見交換を行い集える場として、2008年3月、web上(当面はブログ形式)に設立しました。
本日3月3日は、桃の節句と同時に、水野氏史研究会の「開設二周年記念日」となります。

 本ブログでは、会員諸氏の研究成果を投稿し、会員やゲストの方々からのコメントを付していただき、「水野氏史研究」に資するよう日々努めております。
 今日「水野氏」を取り上げた、歴史教科書を始め大学の講義や諸著述・編纂などは、決して多いとはいえず、未知であったり、また手付かずの文献資料は全国に多数散見されます。このことから本会では、今後長い年月を掛けてこれら史料を解読し、「水野氏」が歴史上に果たした大きな役割を顕彰し、未だマイナーな存在である「水野氏」を、ネットを通して全世界に広報していきたいと考えております。
 本会の発足により「総合水野氏史研究」情報を、同好のみな様と気楽に話し合える「共用の場」が設営されたことで、更なる研究が進展する事を期待しております。現在の新テーマは「水野氏と戦国談議」を行っています。

 本会運営は、主としてインターネット上で行い、紙媒体の会報や年報の発行は行わず、投稿および活動報告などは、電子媒体の「Web刊」(ブログ記事)で代替します。

本会組織は、当面は事務局に委員3名を置き、会の進展に伴い委員を増員し、会長、事務局長、会計などの役職を決めていく予定でおります。

 本会会員には、歴史・宗教学者諸氏、歴史研究家諸氏、小河水野氏(福山結城水野家第二十代ご当主、山川山形水野家第十六代ご当主、及び各嫡流庶流家諸氏)、桓武平氏水野氏(嫡流庶流家諸氏)、並びに全国の大学院生・学部生諸氏等に入会いただき、昨年は海外在住の方からも入会いただきました。

 また、本会は、全国大学の元学長・名誉教授・教授・准教授諸氏、および学芸員諸氏、作家諸氏など、多くの著名な方々から深いご理解とご支援をいただいております。

 本会は、一般の方に広く開かれた非営利の研究会であり、水野氏に関心のある方なら、どなたでも参加できます。只今引続き会員募集中(入会金・年会費不要)ですので、本趣旨にご賛同いただける方は、入会専用メール 【水野氏史研究会入会申込書】からご入会いただきたくご案内申しあげます。



 尚 一昨日発表した前3ヶ月間の「水野氏史研究会ブログへの第8回アクセス解析」でも触れましたが、この二年間で本ブログにアクセスされた、ユニーク・ユーザー数は 12,099 ip 、ページ・ビュー数は 33,344 pv と順調に伸張してきております。これも偏に会員各位、協力支援者各位、ゲスト諸賢からの温かいご支援があってこそと、ここに改めて感謝申し上げます。

 昨年度は、水野忠重および嫡子勝成などの水野氏が登場する、安部龍太郎著『下天を謀る』と、小河水野氏が桶狭間の戦いで果たした役割を解析した、江畑英郷著『桶狭間-神軍・信長の戦略と実像』が刊行され、誠に充実した一年となりました。

 本年度は、これまで出来なかった「水野氏史研究の集会」も時時予定していきたいと考えておりますので、これからも、本会をどうかよろしくお願いいたします。


                                          研究会事務局

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by mizuno_clan | 2010-03-03 01:39 | Information

【談議1】水野氏と戦国談議(第二十三回)

戦国組織論(1)
                                                          談議:江畑英郷

 前回持ち出した「将」-「兵(「将」)」-「兵」という関係について、この「図式は誤解を起させるものだ」という指摘があった。確かに言葉足らずで誤解もあったかもしれないと思うので、再度説明をしておきたい。近代的な軍隊であれば、「将」-「将」-「兵」というピラミッド構造をしており、指揮系統というものが存在する。そして指揮系統が存在するということは、系統的に指揮できる組織体であるということである。したがって、「将」-「将」という表記には戦闘力ではなく、指揮系統が表現されているのである。これに対して戦国期の軍というものは、軍のトップである大名からみれば、その下はすべて「兵」である。知行制によって支えられる軍は、主が知行の付与あるいは保障を与え、従者はそれと引き換えに軍役を差し出す。そしてその軍役の中心が、「武器を持って戦う」こと=「兵」なのである。こうした戦国大名軍の根幹にあるのは、一組織体としての指揮系統ではなく、主従関係であることを忘れてはならない。
 「兵(「将」)」という表記をしたのは、主従関係としてみれば「主」-「従」=「将」-「兵」という繋がりしかないが、実際の「従」のほとんどがその内部に主従関係をもっていることから、「将」-「兵」が連鎖しており、「将」-「兵:将」-「兵」という図式になることを示したかったからである。そして「兵(「将」)」、あるいは「兵:将」という奇妙な表記を必要とする戦国期の軍というものには、通念としての「将」-「将」-「兵」という構造を持つ軍隊とは異なる特性があるのではないかと思うのである。したがって今回と次回に渡って、このことに少し踏み込んで考えてみようと思う。

e0144936_22101492.jpg 第二十一回で掲載した「“役帳”給人の知行高よりみた階層表」には、50貫文未満から1000貫文以上と、5階層に分けられて北条氏給人の人数が集計されていた。その認定知行高にはかなりの開きがあるが、北条氏からみればどの給人も同じ従者・被官である。それにしても『所領役帳』に現れた北条氏の主従関係は、実に何とも不揃いである。これを大まかに表現すれば、図1のようになるだろう。前回の読者コメントに、「封建時代の軍事組織は葡萄の房に例えるべき」とあったが、このように不揃いな葡萄があるだろうか。
 封建時代の軍というものを「葡萄の房」に例えるのは、茎からそれぞれ独立に実が連結している状態を、「茎」=「主」、「実」=「従」として捉えているからなのだろう。その意味では軍の基盤が主従関係にあることを示す例えであり、縦の繋がりだけで横関係が存在していないことを示すものなのだと考えられる。ただし、葡萄に限らず植物において実はほぼ均等に成るものであるが、主従関係は極めて不揃いであるという特徴を備えている。したがって、「封建時代の軍事組織は葡萄の房に例えるべき」というコメントにもかかわらず、戦国期の軍は二重の意味において「軍事組織」としてははなはだ疑問な存在なのである。
 広辞苑を引くと、「組織」とは「社会を構成する各要素が結合して有機的な働きを有する統一体。また、その構成の仕方」だと書いてある。生物学的には、「ほぼ同形・同大で、働きも似通った細胞の集団。集まって器官を構成する」とある。近代の軍であれば、個々の兵士、これは「ほぼ同形・同大で、働きも似通った」人であるが、これが集まって小隊を構成する。そして、小隊どうしが有機的な働きをするような集団を中隊と呼ぶ。さらには、中隊どうしが連携して活動する単位を大隊と呼称している。このように、近代の軍には「隊」という横の関係が基盤をなして、それが集合してより大きな横の関係を構成するのである。そして指揮命令は、この隊の縦の階層である大・中・小を下って全体に行き渡る。近代の軍事組織は、横関係である「隊」を基盤としてそれを階層化し、上層から下層へと指揮命令が下ることで、全体の有機的な働きを可能にしている統一体なのである。
 さらに「組織」という言葉に注目してみると、「組」は「組む」、「織」は「織る」であり、組織の単位が組み合わされ織り合わされていることを示している。「織る」は、縦糸と横糸を組み合わせることで布を生み出すが、組織もまた縦関係と横関係が組み合わされて機能を果たす。これに対して主従関係から生まれる繋がりは、「織る」であるよりも「縒(よ)る」に近いもので、主の引き締めによって縒り合わされるといった結合であり、引き締めが緩めばほどけてしまうようなものと言えるだろう。近代の軍が「組織」であるのは、「隊」という横関係が基盤として構成され、それを有機集合体として機能させる縦関係が通っているからである。そして戦国時代の軍には、この「隊」という言葉が使われることはなかった。軍事集団は、勢、備、衆、手などと呼称されるが、軍事組織の純然たる横関係を示す「隊」とは異なり、ほぼ「集団」という意味で使われているように思われる。

 葡萄の茎と実は植物組織の縦関係であり、実と実の間に関係は成立していない。それでも植物組織としては、茎から均等に栄養分が行き渡ることで、「実」として統一され、必要な同等の機能を果たしている。しかしながら、この葡萄の房に例えられた戦国期の軍というものは、自立基盤をもった知行主を特定の有力な知行主に接続させたものであり、横関係が存在しないことに加えて不揃いで機能の大きさも異なるという代物である。広辞苑にあった字義だけで「組織とは何か」の答えとするつもりはないが、戦国期の軍を「軍事組織」であったと一口に規定するには、これだけでも重大な問題があるだろう。
 第二十一回の冒頭で、当時の法令や人々の日記に「戦国」という言葉が登場し、戦いに明け暮れているという時代認識が存在していたことをみた。そして「戦国大名」という歴史学用語が通用し、大掛かりな大名組織が大規模戦争を遂行していたという理解に立てば、そこに「軍事組織」が存在していたとみるのは自然なことである。しかしこの時代の大名軍は、主従関係に支えられて兵を糾合していたのであり、この「主従関係」とは分かったようで、実のところ理解しがたい概念であるように思われる。なぜならば、現代における我々には、「主従関係」とは経験したことのない未知の人間関係だからである。

e0144936_22114012.jpg 主従関係は、言うまでもなく縦関係である。そしてこの主従関係からは、どうやっても給人どうしの横関係は出てはこない。北条氏は「所領役帳」を作成して給人の知行を把握し、それに基づいて「着到定書」を示して給人の軍事負担を規定していた。このシステムによれば、「各家臣は七~八貫文に一人の割合で着到役を負担しなければならなかった」(『戦国の群像』)のであるが、「七~八貫文に一人の割合」は基準ではなく「平均」に過ぎない。表1は、小和田哲男氏の『戦国の合戦』に記載されたものである。この表をみると、「知行貫高/着等人数」が一番小さい鈴木雅楽助が4.1、一番多い香下源左衛門尉が11.5である。その差は2.8倍もあるが、このことは知行貫高だけをもって軍事負担が決められたのではなく、その他の個別事情が反映していたことを示している。つまり主従関係とは、知行貫高だけに還元できない個別事情を含んだもので成り立っていたのである。数値化可能な知行貫高だけで軍事負担が割り切れるのであれば、給人どうしの横関係はなくとも、軍事負担を同じ基準で適用された対象と規定できるが、実際はそうもいかないらしい。
 主従関係を、知行の保障および付与の「ご恩」に対する「奉公」と規定すると、この関係はそれぞれが閉じていたと考えた方がよさそうである。軍役について池上氏は、「着到役・出銭・知行役の三種類」があると述べているので、着到役だけで「奉公」を語ることはできないが、そうかと言って、それら三種類総合であれば同一基準で負担させられていたとも思えない。主従関係は、主と従者集団の関係ではなく、主と従者の個人間関係である。A-B、A-Cそれぞれ独立した関係であり、AはBやCとの関係に共通したルールを持ち込む必要はない。従者は横並びで主に対するのではなく、一対一で関係を構築するのであり、それが主従関係というものなのである。

 ただそれにしても、軍役が、たとえば鎌倉時代の御家人のそれのように、惣領にひきいられる同族的軍隊として、その人数・装備の武器などについて統一的な基準がなかった状態とくらべれば、はるかに統一性を高めてきていることは、戦国大名のばあい共通に認められるところである。
(『日本の歴史14-戦国の動乱』永原慶二著)

 『所領役帳』と『着到定書』が規定する北条氏の動員システムは、永原氏が言うように鎌倉時代のそれとは同じではない。しかし鎌倉殿と御家人の間に結ばれた主従関係と、戦国期の北条氏と給人との間に構築された主従関係が別物だというわけではないだろう。鎌倉時代の「惣領にひきいられる同族的軍隊」には、「統一的な基準がなかった」というよりは、横並びに設けられた基準によって動くのではなく、その同族単位で自主的な行動をとったのである。「ご恩」に報いるための「奉公」という言い方は、恩を受けた側の主体的な働きを示すのであって、数値で規定できるような機械的な線引きではなかったはずである。
 そもそも、ある集団の構成員に均等に適用される基準というものが成立するためには、その集団がそれに先立って組織として存立していなければならない。つまり単なる雑多な集まりではなく、自分たちに同じ基準が適用されてもおかしくないという共通基盤がそこにあるからこそ、統一的な基準というものが受け入れられるのである。そして12世紀における東国の地にそれがなく、源頼朝が単なる貴種の幽閉者であったがために、主従関係という上下だけの閉じた関係構築が選択されたのである。この主従関係であれば、頼朝と知行主が一対一で何物にも制約されることなく相互関係を結ぶことができた。このように主従関係とは、アナーキーな社会における最も便宜的な関係構築手段であったと考えられるのである。
 そしてこのことは、戦国大名組織における他国衆という存在に如実に現れていると思う。

 北条氏は、伊豆から東へ勢力を拡大し続け、ついで江戸から河越・松山・上野平井へと進出していった。大永四年に江戸城を奪ってから三十五年が経過している時点で、ようやく江戸廻りの在地領主層の編成が軌道にのりだしたという状況であり、松山の掌握にはさらに数段の遅れがある。では、この他の武蔵各地の状況はどうであったか「役帳」では他国衆がそれに関わってくる。(中略)
 以上をまとめれば、『役帳』では、岩付・忍領の領土・地侍や土地の掌握がほとんど進んでおらず、したがって大田美濃守や成田下総守を筆頭とする衆編成はもちろん、松山衆のような支配も行われていないということができる。ただ、この有力国人が全く独立で北条氏と対等な関係にあるのではなく、北条氏から給地を宛行われ、「誓句血判」の交換を通して服属関係に入っている。『役帳』の他国衆とはこのような有力国人からなっていると考えられる。三田弾正少弼も他国衆であり、のち松山城主となる上田案独斎もまた他国衆である。『役帳』はまさに永禄二年における武蔵国人の、対北条氏関係を如実に示しているといわなければならない。

(『戦国時代社会構造の研究』池上裕子著)

e0144936_2213347.jpg 北条氏の軍事動員システムの根幹を支える『所領役帳』が描き出す軍事組織は、その輪郭線が実のところ曖昧なのである。図2は北条氏の勢力範囲の変遷を示したものであるが、氏康時代の平井・忍はその圏域の外に置かれ、かろうじて松山と岩付が境界線に被るように描かれている。この図ではこのようであるが、池上氏の説明によればこれら領域には他国衆がいたのであり、「掌握にはさらに数段の遅れがある」、あるいは「掌握がほとんど進んでおらず」といった状況にあった。しかし彼ら他国衆は、北条氏と「“誓句血判”の交換を通して服属関係に入っている」のであり、そこには紛れもなく主従関係は存在していたのである。そうであっても、この服属関係は、「河越をとりまく東・北・西部の有力国人が一斉に北条攻撃に結集し、滝山に接する三田・師岡さえも未掌握という深刻な状況が永禄四年までの現実であった」(同書)というように、彼らを北条氏の軍事組織の一翼に迎え入れるには大きな問題があった。しかし服属関係に入り主従となっている以上は、この他国衆も北条軍の一員には違いないのである。空間的に北条領国を描こうとするとき、その周縁に他国衆の勢力地が存在するが、それがために輪郭線を強く引くことができず、滲んだように薄ぼんやりとした境界となってしまうのである。
 池上氏は、他国衆の「領土・地侍や土地の掌握がほとんど進んでおらず」と述べているが、このことは「領土・地侍や土地」が他国衆の知行である以上、北条氏は他国衆の一部分をもって主従関係を結んでいることになる。

 『役帳』で太田美濃守、その子源五郎、成田下総守は他国衆に入り、その所領は次のようである。
  一 太田美濃守
   七百七拾六貫四百文          一人束  古尾谷
  一 同 源五郎
   弐百貫文              (中郡) 小稲葉
  一 成田下総守
   八捨三貫八百文            中郡  大島郷
 古尾谷郷は岩付に近いところではあるが、荒川を越えており、岩付城周囲の土地が『役帳』に全く掌握されていない。小稲葉郷と大島郷は、高城氏や酒井氏等の他国衆と同様に、北条氏が服属のしるしとして給付したものであって、本領や旧来からの知行地とは全く関係のないところである。成田氏の場合は、その領内の在地領主層が全く『役帳』に掌握されていないし、太田領では、春日兵庫助・細谷新八・養竹院がそれぞれ相模東郡に三十~五十貫文の給地を与えられて他国衆となっているのみである。

(前掲書)

 ここに示された太田美濃守や成田下総守などは、北条氏から給付された知行地のみが『所領役帳』に記載されているだけであるが、それが「誓句血判」の主従関係の実態である。これまで「認定の知行地」という言い方をしてきているが、北条氏が認知していた給人の知行地を介して主従関係が結ばれていたのであり、それは給人の全貌を捉えたものでは決してない。そんな部分的で不確かな相手とも、主従関係というものは成立するのである。関係の無いところに関係を構築するには、主従関係とはまったくもって融通のきく便宜性の良い手段ということなのだろう。これと比較すれば、構成員に一律の基準を例外なく適用するなどという整合的な関係構築は、それを可能にするほどに組織化されたものでなくてはならない。ここで再度、「組織」の定義というものを、遠田雄志氏の『組織を変える<常識>』から引用しておこう。

 要するに、われわれはそれぞれ固有の意味世界を有しているのだ。そのため、同じ出来事や情報に接しても、ある人の感じ方や行動と別の人のそれとは本来異なるのがふつうである。しかし先ほど組織の特徴でふれたように、組織はまとまって行動する。なぜ同じ組織に所属する人びとはちぐはぐに行動しないで協同できるのか?これが組織についての根本問題である。
 意味世界を共有すること、これがその答えである。人びとは組織において同じ意味世界を築くからこそ協同行動が取れるのである。言い換えれば、組織メンバーが世界について同じ意味や解釈を有することが、組織の必要条件である。


 組織の定義については、一般にバーナードの「組織とは、一定の目的を達成するために意識的に統括された複数の人間の行動ないし諸力の体系である」が有名である。しかし遠田氏の組織定義は、バーナードのそれよりもずっと本質的で踏み込んだ見解である。この遠田氏の組織定義からすれば、戦国の世とは言っても、人それぞれ受け止めや認識は異なるのであり、その中で「同じ意味世界」を共有できる関係が組織を構成するということになる。主従関係は、両者の立ち位置を決め、なにがしかの互恵を期待する一対一の関係ではあるが、「ご恩」と「奉公」の間に等式は成立せず、それを同一線上で比較する「同じ意味世界」の共有も存在していないことだろう。
 北条氏など強力な戦国大名の登場によって、主従の「ご恩」と「奉公」が、数値的に把握された知行地の大きさと、それに対応する軍役として規定されるようになった。それ以前はこのような対応関係は存在せず、漠然と知行の保障と給付が「ご恩」、それに自主的に答える形で人数を出すのが「奉公」であった。そしてこの漠然性と曖昧性は、主従関係が契約関係ではないことを示している。主従となるのに、「わしが主となる条件はこれこれであるが、その方はこのようにしてそれに答えねばならない」などと、条件確認を経て初めて関係が成立するなど、およそ想像もつかないことである。また、鎌倉殿のビジョンや施策に共鳴して、つまり意味世界を共有して主従関係は結ばれたのではなく、とにかく鎌倉殿に付き従うのであり、それが「いざ、鎌倉へ」なのである。

 主従関係とは何であるかを、ここで整理しておこう。主従という一対一の縦関係からは、組織にとって根幹となる「意識的に統括された複数の人間の行動」も、「組織メンバーが世界について同じ意味や解釈を有する」ことも出てくることはない。そうしたことは、成員・メンバーという横関係のあり方なのであり、主従関係にあるのは「主」と「従」という対立項だけである。この上下二項関係が、同じ「上」=「主」を基点としてどれだけ集まっても、それで組織が成立するものではない。なぜならば、「下」=「従」の間に関係が構築されていないからであり、主の力でどれだけ縒り合されても、それで一体的な組織に変貌するわけではないからである。このように主従関係は一対の閉じた関係であるがゆえに、「従」の大きさはバラバラであっても差し支えないし、半属以下であっても成立するのである。
 戦国時代にあっても、大名など武士階級の組織は、こうした主従関係を基盤として成り立っていた。そしてもし、この主従関係だけを拠り所としていたのならば、それは「組織」とは呼べなかったであろう。しかし北条氏は、『所領役帳』の策定と『着到定書』の交付によって、「ご恩」と「奉公」=知行貫高と軍役に、数量的な統一基準を持ち込もうとしていた。また不揃いの給人を、支城を基点とした衆編成に再構築することで、ある種の軍事組織を成立せしめていた。このことは当然北条氏に限ったことではなく、この戦国の世を生き抜こうとする多くの武家集団が歩もうとした道でもある。こうして、鎌倉時代から連綿と続いてきた武家社会の関係構築法が、戦国時代になってある変貌を遂げようとしていたのであるが、次回はこの変貌の持つ意味についてさらに踏み込んで考察してみようと思う。
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by mizuno_clan | 2010-03-02 22:41 | ☆談義(自由討論)

アクセス解析 No.8

●2009年12月から2010年2月まで、3ヶ月間の「水野氏史研究会ブログへの第8回アクセス解析」を発表いたします。
 一般の研究会では、月に一度程度の例会、および年数回「会誌」を発行しておりますが、本会では委員会の外は、当面大会・例会および会誌等の発行を予定していないことから、集会参加人数・会誌の発行部数を公表する事は出来ません。従って本ブログへのアクセス状況(ユニーク・ユーザー数)をご報告する事により、変則的な方法ですが「集会状況と会誌の発行部数に代替」させていただきます。
 みな様には日々お仕事などでご多用中にも関わりませず、本会にご理解ご尽力いただいておりますことに、ここに改めまして深謝し御礼を申し上げますとともに、今後とも引き続き本会活動にご参加ご支援いただきたくお願い申し上げます。

※本ブログに設置している「カウンターの数値」は、途中で開設したものであり下記の数値とは異なりますが、大凡の目安として設置しております。


                                               研究会事務局


【エキサイトブログ・レポートの集計データ】 更新2010.03.01
▼2009.12.01~2010.02.28 までの“ユニーク・ユーザー数”

合計 1,965 ip (前回比 94.6 %)

前計 10,134 ip
累計 12,099 ip
 ※ユニーク・ユーザー【 unique user 】数とは、ブログにアクセスされた接続ホスト数をユニーク(同じ物が他に無いの意)な訪問者の数として日毎に集計している。つまり同一人物が1日に何回アクセスしても、最初の1回のみがカウントされる。この集計基準は、ページ・ビューなどの基準に比べ判定方法が難しいが、実質訪問者数を示している事からサイトの人気度をより正確に反映できる。


▼2009.12.01~2010.02.28 までの“ページ・ビュー数”
合計  5,534 pv (前回比 83.9 %)

前計 27,810 pv
累計 33,344 pv
※ページ・ビュー数【 page view 】(=表示画面閲覧数)の月別日計グラフを以下に掲載する。
通常、訪問者はサイト内の複数のページを閲覧するため、訪問者数(ビジット)よりもページビューのほうが数倍多くなる。



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2010.02 合計 1,394 pv


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2010.01 合計 2,282 pv



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2009.12 合計 1,394 pv
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by mizuno_clan | 2010-03-01 06:41 | アクセス解析