【談義1】水野氏と戦国談義(第二十六回)

戦国組織論(4)-家とは何か①-
                                               談義:江畑英郷


 久留島典子氏が著した『一揆と戦国大名』(講談社日本の歴史シリーズ13)には、「当主と家臣という戦国期に広くみられる武家の家の構造とその生成」について述べられている箇所がある。そしてこの箇所のタイトルは「家中の形成と毛利氏」とされており、久留島氏は「戦国期に広くみられる武家の家の構造」に「家中」という用語を当てている。この「家中」については、当談義の第九回「竿と錘の戦国力学」で久留島氏の定義を一度引用しているが、再度ここに掲載してその定義をより詳しく確認することにしよう。

 「家中」とは、一族の庶子家、惣領家の被官、さらには本拠地周辺の小在地領主らまでを含む領主層が、毛利氏家臣団として、主君たる元就の上意を仰ぐ形で結合する組織と考えられている。この「家中」が戦国期から近世初頭の時期にさらに拡大し、毛利氏から独立した存在であった他の領主たちも含み込んで、やがて近世大名の「家中」になるとされる。その過程で、主君の一元的支配権の強化とともに、一揆的結合としての性格は弱まっているが、変化しながらも、基本的に主君-家臣団という縦の関係と、家臣団相互の横の関係を併せ持つ点が特徴といえよう。
(『一揆と戦国大名』)

 久留島氏は、「家中」を「主君たる元就の上意を仰ぐ形で結合する組織」だと述べている。この時代に「組織」という用語はなかったが、戦国大名を組織体としての側面から考察するためには、この「家中」というものについて検討する必要がありそうだ。そして家中について、「基本的に主君-家臣団という縦の関係と、家臣団相互の横の関係を併せ持つ点が特徴」だと述べられているが、縦の関係は主従関係、横の関係は領主一揆のことを指していると考えられる。すると家中とは、主従関係と領主一揆が結合したものということになるが、それがなぜ「家中」と呼ばれることになるのだろうか。この主従関係と領主一揆の結合と「家」には、どのような関わりがあるというのだろうか。
 一揆と家の関わりについて久留島氏は、十六世紀後半の島津氏を取り上げて次のように述べている。

 ところで、先の契状で注意したい点がもう一つある。それは最後の箇条で、契状を結んだ衆中に対して「屋形」つまり武久が無理を言ってくるようなことがあれば、衆中として「詫言(わびごと)」をすると規定している点である。ここで「詫言」とは抗議することを意味しており、そこから、この契状が当主を絶対視するものではなく、当主と一家親類との契約的性質を持っていることがわかる。衆中は当主に服することを選んだのである。ではなぜこのような契状締結=一揆が選択されたのかといえば、相互に所領が入り組んでいる中で、境相論や百姓の逃散(ちょうさん)、山賊など治安を乱す者たちに共同で対処する必要のあったことが第五条にみられる。
 こうしてみると、このような必要は一族でなくても、領主相互間で当然生じる問題であったといえよう。前章でみた大和宇智郡や近江甲賀郡、伊勢小倭郷の侍たちの一揆も、対処しようとしていた問題という点ではそれほど変わらないのである。だから、一族一揆の結集という形をとっていても、領主の一揆本質は地域における領主の結集にあるといえよう。ただし、何を一揆の核とするかという時、家を単位に形成されていた武家領主の世界では、「家」の形がもっとも自然で生成しやすい形であったことは無視できない。当主の夭逝が続けば、求心力は弱まり家は安泰ではなくなる。当主を中心とした求心力をいかにつくり、維持し続けるか、そこに個々の武家領主の工夫があった。

(前掲書)

 個々に独立した在地領主たちが一揆締結に踏み切る動機として、「相互に所領が入り組んでいる中で、境相論や百姓の逃散(ちょうさん)、山賊など治安を乱す者たちに共同で対処する必要」があったことが述べられている。短い一文であるが、ここには相互の利害調整面と共同対処面が示されている。彼ら在地領主たちは空間的に近接し、その近接がさまざまな対立を生むとともに協同する契機ともなり、一揆を発足させるのであるが、そこに「一揆の核」として「屋形」を戴かなければならなかった。
 島津氏は、分裂していた一族を武久の代において一揆結合させ、「“家”の形」をその一揆の中核としたのだと久留島氏は述べる。それは、「分裂と敵対を互いに克服するには、ある時点で過去を無にしてゼロから出発」する必要があり、「そこに超越した権威・価値」が求められたからである。当主として武久を戴いた「一族一揆」は、一族を結集したという点では一揆であろうが、当主の存在は横並びを原則とする一揆を超え出ている。したがって、「“家”の形」を中核としたことで、島津氏はやはり「家中」へと移行したと、ここは捉えておくべきだろう。 武家領主層が、自らの課題克服のために結集して「家中」を形成するが、それは「“家”の形」を核にしているという。そうとなれば、家中とは何かを理解するために、まず「家」とは何かに向かうべきこととなる。

 武家社会では惣領制と呼ぶ族的結合を作り、惣領が統括し一つの家としての観念を有したが、それを構成する血族的小単位もまた家と呼ばれ、家長が存在した。家は家族のほか家人(けにん)などの従者や所領をも包含し、家産でもあった。
(『日本史辞典』角川書店)

 この辞典が示す「家」の規定に番号を振って、以下のように整理する。
①惣領あるいは家長という上位者がいる。
②族的に結合した集団である。
③家人などの従者も下位者として存在する。
④所領も包含した資産の単位でもあった。

 家が領主結合の形となったというのは、②の族的結合が拡大され、地縁的領主たちを取り込むようになったということであろう。そして惣領あるいは家長が当主に転じて、地縁の領主層が一族や家族と同じ下位層となれば、(惣領-一族)(家長-家族)に対する(当主-領主たち)という、上下一対多という構造になり形式が一致する。一揆の構造が平等な多対多を基本形式としていると考えれば、この家中への移行は形式的な大転換であるといえる。
 さて、「家」の上記4つの特徴を見比べれば、「家」の母体が②「族的に結合した集団」にあることは明らかである。なぜならば族的結合は血縁関係による結びつきであり、それは「家」以前から存在するはずのものだからである。したがって血縁関係という母体に、①③④の特徴が付加されて「家」という概念が構成されていることになる。そして、この4つの特徴の相互関係をみたときに、まず気づくのは②と③が矛盾していることである。③は、「家」のメンバーは家族だけではなく「家人などの従者」、つまり他人も含んでいたとするのであるが、そうなると血族集団に何を契機として他人が含まれるようになったのかが問題となる。『日本史辞典』が示す「家」の規定は、単にその特徴を列挙しているだけで、その特徴の相互関係が不明である。したがって以降においては、なぜ惣領や家長といった上位者が存在するのか。族的結合と他人である家人および所領にはどのような関係があるのかについて考察し、「家」とは何かをその本質的な側面から規定してみたいと思う。
 上記の①から③は、「家」における構成員の属性(血縁か他人か)やその上下関係などについての規定であり、集団構成の特徴を表したものである。しかしながら④は、集団に関わる規定ではなく、集団を一括りにした全体に対して、つまり「家」に関して直接言及したものである。この違いをパソコンを例にとって説明すれば、パソコンはキーボードやディスプレイ、そしてCPUや記憶装置からできているという言及と、パソコンは情報を加工・蓄積し、その情報を引き出すものであるという言及の違いに等しい。Aは家長である、Bは家族である、Cは家人であるといった場合、これらの主語は構成メンバーであり、どれをとっても構成メンバーの部分を示している。つまり、「家」は家長やその家族、さらに他人である家人を構成メンバーとしているという言及である。これに対して、家産は「家」全体に帰属しており、それは「家」の働きに関係した言及である。この家産が「家」の働きであるとはどういうことなのか、以降で詳しく説明することにしよう。

 資産というものは幅広い概念であるが、基本は使用価値であり、将来の費えが蓄積されている形態ということができよう。その資産の中に所領が含まれるのであるが、所領は単なる蓄財・財貨とは大きく異なる。財貨は費えによっていつかは無くなるものであるが、所領は使い尽くすということはない。つまり所領自体は財貨なのではなく、産物(財貨)を生み出す生産手段なのである。したがって、この生産手段は働きかけられて産物を生み出し、その産物は消費されるか別の財貨に交換されているのである。こうしたことから、「所領」は家産の中核であったと思われるのであるが、この所領と血族集団とはどのような関係にあったのだろうか。
 勝俣鎮夫氏は、その著書『戦国法成立史論』の中で「地発(ぢおこし)」というものについて言及している。勝俣氏はこの地発について、「少なくとも売却地・質入地などの返還要求と結びついた慣行を表現する語の一つとして存在していたことは確実である」と述べ、その観念の本質を次のように読み取っている。

 地発の地は先述の如く土地を指すのであるから、問題は、発・起・興であろう。この地発の発・起・興は同音・同義の語として使用されているが、当時においても極めて多義を有する。この多くの意味をもつ「ヲコス」のうち、ここで最も適当と思われる意味をえらぶならば「コロウダイエヲヲコス」・「コロウダイダヒト・キヲヲコス」(『日葡辞典』)とある「横になっているものを立てる」、「傾いたものをもとに直す」の意であろう。この「オコス」を「右田地者、雖為当寺御領、及数十箇年不作間、名主職捨之、仍私近年悉令興行条」とある本の状態にもどす・復活させるの意に解するならば、笠松氏の明らかにされた徳政の本質は「復活」であるという説に結びつくであろう。そして、前節でみた中世的土地所有観を媒介として、本主から切り離された土地は「仮りの姿」で、それを本主のもとにもどす、すなわち本来のあるべき姿に戻す行為が地発ということになるであろう。

 土地売買における取戻しについては、当談義の十六回で一度論じているが、この本主への戻し行為の根拠を、勝俣氏は次のような点にあると述べている。

 この「地おこし」の意味は、土地を新たに活動させるの意味で、開墾を意味する「オコシ」も同じ意味であろう。そしてこの意味と関連して注目されることは、この「ヲコシ」の語源であって、「オコはイキ(息)の母音交替形で、生命の根源である息をすること、オコシは息づくようにさせるのが原義」とされていることである。この「オコシ」の語源説を媒介とするならば、地発も開墾(発・オコシ)もともに「土地に新しく生命を付与する行為」という意味となる。(中略)さて以上の如く、地発の論理を構成するならば、地発は前節でみた本主とその所有地は一体的であるという中世の土地所有観と不可分のものであるというより、逆にこのように土地は単なる物件ではなく、自分が生命を与えた、または与えているものという意識こそ一体化を支える観念であったといえる。
(前掲書)

 地発は開墾と同じ意味をもち、「この土地は、自分が生命を付与した土地であるから、自分と切りはなすことは出来ないという主張」、あるいは「この土地は自分が耕作して初めて生命があるのであって、自分から切りはなされて仮死状態にある土地を生きかえらせるのであるという主張」なのである。こうして、土地の生命付与と本主の所有が同一視されていたのであり、そこから本主のもとに土地を戻すという行為が当為となるというのである。

 そこで、地発が行なわれる契機が問題となる。恐らく、この地発の契機には、政治的・社会的・自然的などの諸条件、さらには地域的な対応の諸条件などによるもろもろの契機が存在したと考えられるが、そのなかで、最も普遍的で、最も重要な契機に「代替り」があったことが想定される。すでに笠松氏は、先述の如く、寄進者の代替りに新寄進という既往の寄進を確認する行為が行なわれていることを指摘しているが、この事実は、「代替り」が復活・再生=一新としての地発の可能性と関連していることを示すといえるであろう。そして、そこに「子孫と号して」取戻す行為の禁止を売券・寄進状などの追奪担保文書に記さなければならない理由があったのであり、また寄進地が子孫の代替りごとに取返されている先述の事実があったといえるのである。
(前掲書)

 地発の契機としての「代替り」が指摘されているが、地発=売却地・質入地などの返還要求と「代替り」にどのような必然的な関係があるというのであろうか。勝俣氏は、子孫の代替りごとに取り返されている「事実があった」というのだが、本人が取り返せなかったものを、なぜ子や孫が取り返すことができるのか。このことについて、氏は上記引用以上のことは述べていないが、ここは注意深くこの意味を探るべきである。
 土地を戻す行為の根拠は、土地を「オコシ」たことでそれに生命を吹き込んだからということであったが、Aが土地を開墾したとして、本主Aと土地にそうしたつながりがあるとしても、Aの子であるBやその孫であるCはその土地の開墾者ではない。したがって、土地の取戻しの根拠を地発に求める限り、それは開墾者であるAに限定されるはずである。そうであるのに、なぜ「子孫と号して」の返還要求が成立するのであろうか。
 BやCが「子孫と号して」返還を求めたのであれば、彼らにとって「子孫」であることがその根拠なのであろうが、そうなると「本主」とは個人としてのAではなく、Aの血縁者たちということになる。しかし、これはAだけでなく血縁者も開墾に加わっていたからというものではく、血縁による主体というものが存在し、それこそが「本主」だということを示しているのである。しかもこの主体は「子孫」を含むものであることから、時間的な継続性が折り込まれたものということになる。こうして、土地に生命を付与したのはAという個人ではなく、血縁を中核とした集団である「家」が、この土地の返還要求を為す主体であるということになるのである。
 地発は土地の取戻し慣行であり、その根拠はその土地に生命を付与したことに求められるが、その生命付与の主体は「家」と考えねばならないだろう。また、「土地は単なる物件ではなく、自分が生命を与えた、または与えているもの」という観念をつぶさにみれば、「単なる物件」でない土地は単なる土地ではなく、生きた土地であり、生き続けている土地でもある。これは当初の開墾で生命を付与された土地であるが、その後も継続的に「オコシ」続けなければ、ただの土地=荒地に戻ってしまうのだということを含意しているものと考えられよう。そうであれば、「子孫」たちにとって、当初の開墾者である父祖と血縁でつながっていることが頼りなのではなく、今も彼らが「オコシ」続けていることが、その不即不離の関係を要求するのだといえるのである。このことを確認するために、ここで「オコス」の意味を語源からだけではなく、「オコス」=「耕作」としてその構造を考察してみることにしよう。

 単なる土地はそれ自体で存在しているだろうが、耕地は人が手を加え続けなければ荒地に戻ってしまう。そして耕地が存在し続けるためには、耕作労働力や種籾の確保、そして耕作環境(水利・害虫駆除など)の整備が不可欠である。「耕す」とは、まず土に向けた作業なのであるが、土に向かって鍬や鋤をふるう作業が「耕作」なのではない。また、産物を獲得する目的をもって土に労力を向けるから、それが「耕作」となるのでもない。土に向けた労力から産物がえられて、つまり土に向けた労力と産物が結びついて、始めて「耕作」だと言えるのである。例えばサルが鍬や鋤を持って、人間のようにそれを土に打ち込んでいたとしよう。その姿が「耕作」を定義するであろうか。また頭の中に重たく垂れ下がった稲穂を思い描いて、何十日間も朝から晩まで鍬を入れていた男がいたとして、しかし苗床をつくらず水を引かず、後は耕された土地をながめてじっと待っていたとする。この場合、彼の精魂込めた努力は耕作だったのであろうか。少なくとも、ある作業動作や目的意識が備わっていることで、「耕作」というものが規定できるわけではないのである。
 人が土に向けて労力を投入する、あるいは苗を植える、そして水を引くなどの一連のインプットが土地に対して為されたとき、それを「生産」が受けとめて、稲の収穫というアウトプットをもたらす。ここにはインプット→生産→アウトプットという一連のつながりがあり、この全体で「耕作」というものが規定されている。そしてこれは、前回論じたバーナードやサイモンの組織の定義に一致する。つまり「耕作」とは、「諸活動、諸力の体系」=組織なのだということになる。しかし耕作という語は、耕す・作るという人の作業を示すものであり、それが組織だといわれると違和感がかなりあろう。それでも前述のとおり、作業だけを切り取っても「耕作」というものは定義できない。土に向かう作業は、一連の生産体系の中でそれが何であるのかが決まるのであり、この生産体系をバーナードらは組織とみなすのである。
 ここでまた、具体的なイメージを膨らませて、サルがたまたま土に向かってある作業をしたとする。そうしたらそこに実りがあって、その実りを作業したサルが獲得したとしよう。これはインプット→生産→アウトプットの形式を踏まえているが、それで「耕作」あるいは生産体系と呼べるのであろうか。サルは、この形式を理解していないのだからそうは呼べないと、理解・意識のレベルでそういってもよいが、それではより本質的なことを見逃してしまう。サルが為した、このたまたまの「耕作」との形式の一致がそれと呼べないのは、これが繰り返されないからである。サルは実りをえたことで大喜びであろうが、なぜそのようになったかが理解できていないために、これを繰り返して再び喜びをつかもうとしない。しかしここで重要なのはそうした意識レベルの問題ではなく、アウトプットをインプットに振り向ける繰り返しである。
 実際の耕作というものは、たった一度きりのものではなく、繰り返し為されることが暗黙の前提となっている。それはインプットはどこからくるのかを考えれば、必然的にそうでなければならないのである。生産へのインプットは、人の土に向けた労働ばかりではなく、種籾や用具の投入、水利や害虫駆除などさまざまな諸力で成り立っている。そしてこれらがどこからくるのかと問えば、否応なくアウトプットからと考えざるをえない。インプットはどこからか降って沸いてくるわけではなく、確かな出所がなければならない。それはアウトプットをえるがためのインプットであるが、そのアウトプットがインプットの根拠でもあるというものなのである。結局この堂々巡りが「耕作」を実現しているのであり、この堂々巡りを離れて「耕作」が存在しているわけではないのである。これをサルの例でいうならば、アウトプットを僥倖として単に喜ぶのではなく、それによってえられた活力、そして獲得物そのものを、次の実りのためにインプットとして振り向けるのでなければならない。そしてそのアウトプットは次のインプットへと、永遠に繰り返されるこの循環に、サルは自ら身を投じることができないのである。

 インプット→生産→アウトプットの形式をみると、インプットがアウトプットになるために「生産」を介しているが、これはインプットをアウトプットに変換している工程だと考えられる。すると、アウトプットをインプットとする循環が形成されるためには、アウトプットをインプットに変換する過程が必要となる。このアウトプットをインプットに変換する過程を、今後「分配」と呼ぶことにしよう。そしてサルがこの循環を回せないのは、「生産」を学習しないからではなく、この「分配」を果たせないからだと思うのである。
 「生産」という変換は、Xを投入するとYが出力されるという動かしがたい決まりであり、体系においてはその決まりに従ってインプットされている。この点で「生産」は自然的・因果的な変換であるといえるが、一方の「分配」は産物を提供して用具や労力を入手する働きであり、それは社会的な交換であると規定できる。そして社会的な交換というものは、XとYが常に交換できると決まったものではないし、その交換比率も一定ではない。こちらにも相手にも事情があり、その事情が交換を実現させもするが交換を妨げもする。社会的な交換は、自然的な変換に比べるとまことに厄介で、またそこに変動の余地が限りなく存在している代物でもある。
 自然的変換は、自然の諸条件に左右されるが、それが自然条件である限りそれ自体ではどうしようもない。日照りが続いて雨が降らないのは収穫に大きな影響があるが、人が何かをして雨を降らせるわけにもいかない。しかし別の自然条件に働きかけて、日照りに備えて溜池を用意しておくなどの手段を講じておくことはできる。そして土を掘って水を引き込むというのは、これまたXの投入によってYが出されるという因果関係であるが、実際にこの溜池が用意されるかどうかは社会条件によって決まるのである。こうして、この「耕作」の体系が作動し続けるのか、またどのように作動するのかは「分配」によって決まっているのである。
(つづく)
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by mizuno_clan | 2010-06-20 19:20 | ☆談義(自由討論)

【談義1】水野氏と戦国談義(第二十六回)

(つづき)

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 こうした土地における生産と分配の体系を、図で示すと左の図1のようになる。インプット→生産→アウトプット→分配→インプット・・・という循環は、実際のところ生産の連続であり、その生産の連続に対して並行的に分配が進行していくことになる。つまり分配は体系の一過程として、ある時点で発動するというものではなく、恒常的に発動し進行しているものである。そして生産という変換プロセスを名づければ、それは「耕作」ということになろうが、分配プロセスは何と呼ぶべきであろうか。現代であれば「マネジメント」と呼ばれるのだろうが、過去においてはこれが「家」と呼ばれていたように思うのである。

 「地発」の考察を通して勝俣氏は、「オコス」ことが土地返還要求の根拠であるとみなした。しかし、こうした要請は「代替り」を契機になされることが多く、「オコス」=開墾であるならば、開墾した本人が受け戻せなかった土地を、どうして子孫が果たせるのかという疑問が残る。そしてこの疑問は、「オコス」は一度きりのものではなく、「オコシ」続けるものではくてはならないのであり、それは開墾した本人から代々子孫へと受け継がれていると考えることで解くことができる。そしてこの「オコス」とは、土地に対して諸力をインプットし、「生産」によってそれが変換されてアウトプットとしての産物を獲得することである。そして産物が再び土地に対するインプットに変換されるところで、この「オコス」は際限なく循環し、循環作動することで存在する諸力の体系=組織となるのである。そしてこの組織こそが「家」と呼ばれるものであり、組織化によって母体を乗り越え他人である家人を包摂するのである。
 ここまで、「家中」とは何であるかを明らかにしようとして、それが「“家”の形」を核にしているということから、その「“家”の形」について考察してきた。その結果として、「家」は土地に生命を付与し続ける循環体系の中に出現するもので、この循環作動を支える「分配」とほぼ同義であろうと考えてみた。つまり「家」とは、「領地」を維持する働きをもつものなのである。そして「領地」も「家」も、実体的に独自に存在するものではなく、社会の根幹にある土地に対する循環体系の作動の中に立ち現れるようなものなのである。
 今回のサブタイトルは「家とは何か①」であるから、これには続きがある。ここまでのところ、家長というものがなぜ存在するのかについて答えていないし、「オコス」に関する循環体系についても舌足らずである。これを十分に示すには、「体系」とは何であるかについての考察が必要となるだろう。バーナードは、「組織」とは諸力の体系であるといったが、この「体系」という概念は懐が深すぎてつかみどころがない。しかし、今回の考察においては、この体系とは何かを論じるシステム論が私の念頭にあった。そしてこれについて言及していないことで、今回述べたことが舌足らずに終わってしまったのであるから、次回以降でこれについて述べなくてはならないと思う。
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by mizuno_clan | 2010-06-20 15:32 | ☆談義(自由討論)

アクセス解析 No.9

●2010年3月から2010年5月まで、3ヶ月間の「水野氏史研究会ブログの第9回アクセス解析」を発表いたします。
 一般の研究会では、月に一度程度の例会、および年数回「会誌」を発行しておりますが、本会では委員会の外は、当面大会・例会および会誌等の発行を予定していないことから、集会参加人数・会誌の発行部数を公表する事は出来ません。従って本ブログへのアクセス状況(ユニーク・ユーザー数)をご報告する事により、変則的な方法ですが「集会状況と会誌の発行部数に代替」させていただきます。
 みな様には日々お仕事などでご多用中にも関わりませず、本会にご理解ご尽力いただいておりますことに、ここに改めまして深謝し御礼を申し上げますとともに、今後とも引き続き本会活動にご参加ご支援いただきたくお願い申し上げます。

※本ブログに設置している「カウンターの数値」は、途中で開設したものであり下記の数値とは異なりますが、大凡の目安として設置しております。


                                               研究会事務局


【エキサイトブログ・レポートの集計データ】 更新2010.06.01
2010.03.01~2010.05.31 までの“ユニーク・ユーザー数”
合計 2,137 ip (前回比 108.7 %)

前計 12,099 ip
累計 14,236 ip
 ※ユニーク・ユーザー【 unique user 】数とは、ブログにアクセスされた接続ホスト数をユニーク(同じ物が他に無いの意)な訪問者の数として日毎に集計している。つまり同一人物が1日に何回アクセスしても、最初の1回のみがカウントされる。この集計基準は、ページ・ビューなどの基準に比べ判定方法が難しいが、実質訪問者数を示している事からサイトの人気度をより正確に反映できる。


▼2010.03.01~2010.05.31 までの“ページ・ビュー数”
合計 5,710 pv (前回比 103.1 %)

前計 33,344 pv
累計 39,054 pv
※ページ・ビュー数【 page view 】(=表示画面閲覧数)の月別日計グラフを以下に掲載する。
通常、訪問者はサイト内の複数のページを閲覧するため、訪問者数(ビジット)よりもページビューのほうが数倍多くなる。





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2010.05 合計 2,072 pv


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2010.04 合計 1,951 pv

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2010.03 合計 1,687 pv
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by mizuno_clan | 2010-06-01 03:44 | アクセス解析