【談義1】水野氏と戦国談義(第二十九回)

所有の意味を探る②-融通と土地売買-
談義:江畑英郷

 中世における土地売買については、これまでにも幾度となくこの談義で論じてきた。そして中世の土地売買は、今日の売買のように対価支払によっても土地の所有権が完全に移動することがなかった。このような中世の土地売買の特異性について、長谷川裕子氏は次のように総括している。

 さらに売券や借用状は、法制史研究における徳政令研究や、階級闘争の視角から分析されてきた徳政一揆研究のなかで土地所有観念の問題として分析されてきた。具体的にそこでは、土地の本主権の問題、すなわち土地の戻り現象についての研究が進められ、耕作者と土地との本源的なつながりや、永代売りと質契約との同質性について明らかにされている。さらに近年では、名主職や作職といった職の分化過程についての再検討のなかで、売券や借用状についての検討がなされている。従来では、職の分化やそれにともなう土地売却は、耕作者の土地保有が耕作の継続によって土地所有権にまで高められた結果可能になる現象ととらえられてきた。それに対し、職の分化は、土地所有者が土地を請作させることによって現れてくること、またそれにともなって発生した得分は、処分可能な得分として売買されたことが明らかにされた。またそこでは、請作者の脆弱な耕作権を補完する組織として村が存在し、村内耕地に対して「集団的耕営権」を成立されていたことが指摘されている。
(『中世・近世土地所有史の再構築』-「売買・貸借にみる土豪の融通と土地所有」長谷川裕子著)

 ここに述べられているように、今日的な意味合いで「土地売買」というものを捉えられないのが中世というものであるが、その中世であっても、対価支払よって売買対象の所有権が完全に移動する取引は存在したことであろう。「売買」という用語は、一方で「耕作者と土地との本源的なつながりや、永代売りと質契約との同質性」が認められ、その一方で所有権の完全な移動という意味でも用いられたのである。そしてそれはやはり土地の売買というものが特異であるからだろうと思うのであるが、それならばなぜ土地取引におけるこの言葉の意味が今日と中世とではズレているのだろうか。あるいは「売買」という言葉が、中世ではなぜそのように多義的であるのか。そしてこのことが意味することは、売買や所有という概念であるだけに、社会の根幹の違いにそれが根ざしていると考えられるのである。

 先のように、長谷川氏は土地売買における現時点の成果を総括したうえで、土地売買としてとらえてきた事象を「融通」という観点でおきかえようとする。

 このような研究では、売買と質との関係や、土地所有者(作職所持者)と請作者との関係、また村内耕地に対する村としてのかかわり方、さらには中世と近世との連続面など、興味深い論点が提示され、大きな成果を上げているといえよう。しかし、これらの研究は、売買システムおよび土地所有構造の解明を主眼としているため、売買を行う目的や理由について、売却する側から追及されてはいない。また売買契約への村の関与についても、村の自力による領域確保=「村の当知行」とのかかわりで論じる必要性が指摘されつつも、現在まで具体的な分析はまだ不十分な状況である。
 それは、依然として売買契約は個人と個人の問題として取り扱われ、そこに「村の成り立ち」維持にとっての意味を当該期の社会状況に照らして論じるという視角がなく、村を中核とする当該期の在地状況や、それを取り巻く当時の自然的・人為的環境に対する配慮が欠けていたことに由来する。そのため、今後は売買契約を売却する側の視点から追及し、特に「村の成り立ち」維持にとっての意味を明らかにしていくことが課題となろう。

(前掲書)

 長谷川氏は、土地売買のこれまでの研究は、「売買を行う目的や理由について、売却する側から追及されてはいない」と述べて、この視角からの解明に取り組んでいる。そしてこの売却する側の売却の目的や理由には、①土地投機的な目的、②借用返済のため、③他のなんらかの購入代金に当てるため、といったものが考えられる。長谷川氏は、「“村の成り立ち”維持にとっての意味」と述べているので、①は考察から除外しているようにも思われるが、村に居住する土豪という存在においては、この点も視野に入っていることが以下の文書に表れている。

 こうした村内百姓への貸借は、従来の研究では土豪の高利貸ととらえられていた。しかし、その元手が他村の土豪から借りてきた米であったことや、史料⑥のように村としての借米に自身のほぼ全財産を抵当に入れていた状況から考えると、このような貸借関係を単純に土豪の高利貸活動ととらえることはできない。むしろ、これらの事例は、土豪同士の個人的なつながりをつうじて村内百姓調達の便宜をはかっていたものととらえられよう。それにより、富田氏のような土豪は、村内における自らの地位を維持しえたと考えられるのである。
(前掲書)

 売主・買主を誰とするかによって売買の目的は変わるのであるが、村内に根を張る土豪層は①投機的な目的で土地の売り買いをしていたのではないと、長谷川氏はここで述べている。

 したがって、ここの百姓による土豪への売買契約としてみえるものも、じつは村内部で対処できない場合に行われた年貢未進補填方法であったと考えられよう。このような土豪の融通機能=年貢未進補填のシステムは、村の収納のシステムと、村としての立て替えのシステムの外縁部に存在していた。そして、村の機能と土豪の機能が一体となって、「村の成り立ち」が維持されていたのである。
(前掲書)

 ここでは、年貢未進が契機となって、土地の売買が発生していることが指摘されている。上記の売買目的のパターンで言えば②「借用返済のため」ということになる。そして、この②は③「他のなんらかの購入代金に当てる」を包摂していた。

 以上のことから、蔵に納められる収穫物は、各年貢請負人のほうから直接各貸し主に支払う借銭・借米や小作料と、自己の生活必要分を指し引いた分であったこと、さらに蔵に納入された収穫分は、まず借銭・借米や種貸分、そして村をつうじて払われる小作料の返済にあてられ、そこから残った分が領主の年貢分として算用されたことがわかる。つまり領主への年貢は各年貢請負人からの蔵入分から一番最後に支払われたことがうかがわれるのである。
(前掲書)

 ここに述べられていることからすれば、個々の百姓(請負人)による耕作の不出来などによる収益の減少は、すべて年貢未進として現れることになる。つまり、個々の百姓の経済的問題がすべて年貢未進に転嫁されているのであり、その転嫁された年貢未進を、村や土豪が補填するというシステムが存在したというのである。したがって、売買が「村の成り立ち」を前提として成立していたという主張は、この年貢未進補填システムの中に売買が出現していたのであり、土豪の高利貸し行為や土地投機の中で売買が成立していたのではないということである。また、百姓が耕作を継続していくことを阻害する要因が、そべて年貢未進に転嫁され、それが売買という形態で補填されるということは、耕作の継続に売買の目的があったということになる。そして耕作の継続こそが、そこで暮らす人々の生存と生活を維持するのであり、それが「村の成り立ち」に他ならないというわけなのである。
 長谷川氏が言うところの「年貢未進補填システム」は、つまるところ百姓の経済問題をまる抱えで村や土豪が支えることである。したがってこの場合の土地売買は、市場における所有権の移動としてのそれではなく、売買が問題を抱える百姓の経済を救済するのである。したがって「融通」とか「補填」という用語の選択は、そうした意味を込めているのであろう。長谷川氏は、土地売買の多義性の根底に、財の交換行為ではなく、「村の成り立ち」=地域における共生をとらえる視角を取り出した。そしてそれを「融通」と呼ぶのであるが、次の箇所を読むと、どうしたわけか以前の売買の次元に引き戻されているように思える。

 室町・戦国期以来、土豪が村や地域に対して担っていた機能は、①領主権力との人的関係、②武力の保持と地域防衛への参加、③銭などの立て替え払い、④地域の治安や信仰施設の維持などであった。そのなかでもとりわけ戦乱の絶えない社会状況では、地域の防衛や領主からの軍役を果たすことが、武力を持つ土豪の役割として大きかった。たが、江戸時代になり、あらゆる戦争が停止されるとともに、村による公儀への訴訟が一般化するようになると、領主への取次や武力発動の機能は次第に低下していく。
 このような状況に、江戸初期における土豪の役割の変化を読みとることができるが、それでもなお前代と変わらず担い続けた機能が資金の融通であったといえる。資金の融通が変わらず必要とされたのは、江戸時代になってもいまだ百姓の経営が不安定であったことを示していよう。そのため、江戸時代以降彼らはそれによって自らの地位を確保していくようになる。その機能は、まさに地域の「銀行」というべきものであった。そして、実際に機能する限り、彼らはその立場を確保できたであろうし、また自らの経営や収入を維持しえたであろう。

(前掲書)

 この箇所で気になるのは、「銀行」という言葉が登場したことで、「融通」が「融資」であってもまったく文意が変わらないという点である。むしろ、「自らの経営や収入を維持しえた」という表現からすれば、それが生計であってそこから利益を得ていたと受取るべきであり、そうであれば営利的融資といったほうが適切なようにも思える。つまり「③銭などの立て替え払い」行為は、利他的なものではなく私利に基づくもので、まさに地域の銀行として、地域振興に貢献するとともに自らの営利目的を果たすのである。こうした理解のもとでは、融通と融資は同意語であるということになる。
 長谷川氏は、「土豪の高利貸活動ととらえることはできない」と述べているが、それは高利ではなく低利であったと言いたかったのであろうか。どうもそういうわけでもないように思われるが、江戸時代になってより鮮明になった土豪の「③銭などの立て替え払い」をして、「地域の“銀行”」と呼ぶのであるから、地域振興と自らの営利を両立している姿を想定しているのであろう。しかしそうであるなら、現代の地域密着型の信託銀行などは、その点において戦国時代の土豪とあまり変わりがないことになる。長谷川氏は、「百姓の経営が不安定であった」という点を強調し、そこから弱者を護り育てるというイメージを作り出し、そこに「融通」という言葉をあてているように思うのであるが、彼らが補填を受けたり銭を借りたりすることが、必ずしも経営が弱体であったことを示すものでもないと思う。その限りでは、土豪の活動を地域振興と両立する融資であったと規定しても問題はないだろう。しかし融通が融資と同義であるならば、高利貸しではなくともそれと同じ金融活動であり、つまるところ営利を目的とした金貸し行為ということになる。

 中世の土豪の活動を、現代の地域の銀行活動と同質であると長谷川氏が考えていたならば、なぜ融資ではなく融通という用語を使うのだろうか。融資というものは経済内取引であり、その行為はどこまでも経済有効性の範囲内にある。それに対して融通という言葉のもつ語感は、この経済性を踏み出している部分があり、ことに貸主の側に貸し手への好意という経済外要素が組み込まれているように思う。そして長谷川氏は、経済性に反する土豪の対応を次のように記している。

 だがその富田氏が、自身の田畠・山・家・諸道具といったほぼ全財産を質物に入れて、六〇俵もの米を福永氏から借用しているのは、おそらく常喜村からの依頼を受けてのことであろう。

 だが、こうした経営において問題となっていたことは、福永氏が「御年貢書出之面」を富田氏に渡さないことにより、富田氏がなんらかの損失をうけていたことや、福永氏が年貢米として「悪敷」き米を年貢として納めたことによって、富田氏が「なおしかへ過分」という状況になっていたことである。

 このような借米が何によって生じたものかは明らかでないが、おそらくは土豪の収入と融通のバランスが崩れ、融通分のほうが多くなってしまったために困窮するようになってしまったものと考えられる。

(前掲書)

 富田氏と福永氏は、隣村どうしの間柄にある土豪であるが、相互に貸し借りをしている中で損失を抱える事態も発生していた。そしてその借用は、ときに土豪の全財産を質物に入れねばならないほどであったのであり、そうしたことで借入れと返済がうまく回らなくなり没落する場合も少なからずあったという。こうした土豪の活動を、融資の失敗とみることもできる。しかし、長谷川氏が土豪の補填を融通とするのは、経済の枠組みを超えた働きをそこにみたからなのではないだろうか。だがこの「融通」という言葉を押し出す長谷川氏にしても、「地域への融通と自らの経営・収取を、うまくバランスをとりながら維持していける土豪ばかりではなかった」と述べており、ほとんど融通と融資の用法に区別がない。このように「融通」という用語を使いながら、その意味合いを融資から十分に区別できていないのであるが、そこには思いのほか重要な意味が隠されているのではないだろうか。
 以前、本談義の第十四回で、融通には「とどこおりなく通ずること」という意味があることを示し、こうした土豪の活動はこの意味で理解すべきだと述べた。この「とどこおりなく通ずること」を取引する人間関係に適用すれば、それは親密な間柄ということになる。貸借に融通という言葉をあてる場合、この貸手と借手が互いに親密であることが想起されるが、だからといって中世の土豪がすべての村人や隣村の百姓と親密であったというのには無理がある。そうであるなら、融通を介した貸手と借手の間にはどのような関係があったというのであろうか。このことを確認するために、ここからは売買対象(貸借の担保)についてより深く考察することにしよう。

 土豪の百姓にたいする融通は、土地を介してのものであった。しかし、中世的売買のなかに現れているのは単なる土地ではなく、「田地」「名地」「畠地」「茶園」あるいは「屋敷」である。するとそれを「土地売買」と言うとき、これらの売買の総称としてその言葉を使っているのであろうか。「田地」「名地」「畠地」「茶園」の総称は「耕地」であるが、それならば「耕地売買」という言い方があってもよさそうであるが、なぜかそのような言葉は使われることがない。中世にその特異な売買形態において取引されたのは、「田地」「名地」「畠地」「茶園」であるが、これを「土地売買」と表現するとき、それら耕地ではなく、文字通り「土地」が売買されたという認識が働いているのではないだろうか。
 「土地売買」とは、実のところ、現代資本主義社会における特異な用語であるとされている。

 資本主義的生産は、まず工業の部面で支配的な生産様式となったが、農業の部面では、前近代的な土地所有諸形態、具体的には封建的土地所有と小農民的土地所有とに直面した。資本は土地所有そのものを破棄することはできず、旧来の土地所有を資本主義的生産に適合した形態に変形させることによって、はじめて農業を自己のもとに従属させることができた。新たにつくりだされた土地所有は、商品生産の所有法則に合致する土地所有であり、近代的土地所有と呼ばれる。ここでは、土地の私的所有者である土地所有者は、農業資本家である借地農業者と土地の貸借契約を結び、一定期間の土地の利用にたいして、借地農業者からその代償として地代を受け取る。借地農業者は、農業労働者を雇用して、この土地の上で資本主義的農業経営を行なうのである
(『社会経済学』大谷禎之介著)

 資本主義社会には、それに固有の原理がある。したがって、資本主義社会以前に登場した所有にはこれに合致しないものがあり、その代表が「前近代的な土地所有」であるという。そして資本主義社会には、「商品生産の所有法則に合致する土地所有」という原理がある。しかし「前近代的な土地所有」もまた「所有」であることから、これを破棄することができず、「旧来の土地所有を資本主義的生産に適合した形態に変形」させてこれを取り込んだのである。

 土地は、資本および労働とともに、生産において付加価値を生む生産要素であって、土地のもたらす付加価値は、土地サービスという商品の対価として企業が地主に支払うものと考えられている。つまり、土地はそれ自体として価値を生むのであって、それが地代となる、というのである。
 しかし、われわれのこれまでの研究からは、価値は抽象的労働の物質化であって、土地そのものが価値を生むなどということはありえないことは明らかである。それではいったい、地代となる価値額は、どこからどのようにして生じるのであろうか。どこで物質化した労働なのであろうか。

(前掲書)

 マルクス主義において価値とは、「抽象的労働の物質化」したものであり、この考え方はアダム・スミスら古典派経済学の労働価値説に由来する。物の価値とは、人間にとって有用なあり方で現れているものである。廃棄物に価値がないのは、それを有用と認めることができないからであるが、その廃棄物が価値ある物に生まれ変わる場合もある。そしてこの生まれ変わりには必ず人の手が加わっているのであり、それが労働であり、労働が物質に向けて発揮されることを、マルクス主義では「労働の物質化」と堅苦しく表現しているのである。そしてその労働の量的側面を持って抽象的労働と呼ぶのであるが、そうなると労働の投入量が物の価値に比例することになる。この点などはいささか違和感があるが、そのあたりが労働価値説のジレンマなのだと思う。
 さて、このように物の価値をとらえると、労働が投入されていない物には価値がないことになる。したがって、ただの「土地」には価値がない。耕地であろうが原野であろうが、それはどちらも土地であることに変わりがなく、その意味で土地は地表の一部であるに過ぎない。そして地表は天然のものであり、人の手が加わる以前の存在であるのだからそこには「抽象的労働の物質化」は認められず、したがって無価値となるのである。そして資本主義的生産は、この無価値なものを所有物と認めている「前近代的な土地所有諸形態」に直面したのであるが、そこで「土地はそれ自体として価値を生むのであって、それが地代となる」という価値の「変形」を加えることで、これに「近代的土地所有」という装いを与えて、資本主義的生産の枠組みにくみ込んだというわけである。
 資本主義の原理には「商品生産の所有法則」があると大谷氏は述べていたが、これは労働を投入して価値を付与した者がこの生産物の所有者であるということを示している。そしてその生産活動は、「商品生産」の枠組み内の活動であり、市場において交換取引するがための生産である。このことは、「商品生産」と「所有」が別々にあってそれが結びついているのではなく、商品生産の中に所有が出現していることを示している。つまり物の有用性をその物の生産者が消費する場合は、ことさら所有が意識されることはないが、それが他者との交換物(商品)であるという次元では、不可避的に誰の所有物であるかが問われることになる。このことからすれば、「商品生産の所有法則に合致する土地所有」とは、土地を市場における売買対象として登場させることであり、そのために本来無価値であったものを、市場システムにおいて変形させたことになる。そして資本主義は、このように地表の一部に価値を付与して、それを「土地」として社会に登場させたのである。

 マルクス主義の労働価値説や「商品生産の所有法則」が無条件に正しいとは思わないが、「土地」「売買」「所有」という概念がいつの時代でも同じ意味であったわけではないことは、これまでに示したように現在の中世歴史学も認めていることである。しかしこれら概念の違いにたいする理解は、史料文献の分析の中から発見されたことであって、それがどうして異なっているのか、そうした概念形成は何によって生じたのであるかについては、それを問い進める術をもっているようにはみえない。したがって現代とは異なる概念形成について、呪術的観念であるとか、時代特有のというただそれだけの意味で中世的観念だと言ってきたのである。そうした状況であるため、意識内の事象として語るにとどまるか、現代に至る発展途上に出現する事象であるかのようにしか説明されてこなかったのである。そしてその点において、マルクス主義のここに述べた見解はきわめて示唆的であると思うのである。
 大谷氏は、「前近代的な土地所有諸形態、具体的には封建的土地所有と小農民的土地所有とに直面した」と述べていたが、そこには近代的土地所有とは異質で連続性が認められないような土地所有が存在した、という認識が示されている。しかしそうであってもその異質なものに、同じ「土地所有」という言葉を使っている点は、この断絶の本当の意味に対しては無自覚であったことを思わせる。「土地所有」は、資本主義的生産に適合させるために、市場システムにおいて所有を変形させた結果登場したものである。そうであるならば、それ以前には単なる土地の所有も売買もなかったはずであり、そうでありながら「前近代的な土地所有」という言い方は矛盾しているのである。しかしながら、なぜこのような矛盾を起こしてしまうのかがこの場合重要である。なぜならば、大谷氏は近代的な土地所有でないものを思い描くことができなかったのであり、それほどにまでにこの断絶は深いということを示しているからである。

 ここで話を戻すことにしよう。融通と融資は何が違うのかである。融資は土地を担保にして資金を貸し出す行為であるが、この場合の「土地」は近代的な地代を発生させるような資本としての地表である。そしてこの地表という資本には、確固とした所有者がいる。これにたいして、中世の土豪と百姓の間には、「田地」「名地」「畠地」「茶園」などの耕地が存在していた。そしてこの「耕地」とはたんなる地表ではなく、耕作者が継続的に労働を投下している対象であり、そこには生産と消費の連続的なサイクルがある。そしてこの生産と消費のサイクルは、直接耕作者だけを成員として成り立っているのではなく、直接耕作にたずさわらない多くの人びとも関与させているのである。この関与というのは経済関係だけを意味するのではない。むしろ経済関係以上に重要な原理によって支えられているのであり、その中から支えあいとしての融通が出現しているのである。
 生産と消費のサイクルとしての「耕地」は、売買の対象とすることができないし、同様に担保物件になることもできない。「土地」であれば売買も可能であるし、融資の担保にもなるが、作動するシステムである「耕地」は物件化することはできないのである。世界の中心に市場システムが存在する現代は、耕地を土地に変形させるが、そうでない時代には耕地は耕地のままでの成り立ちがあったのである。
 市場原理においては「土地所有」として現れるが、前近代と我々が呼ぶ過去の時間軸においては、耕地とそこで生きる人々を支える現代と異なる原理が強く働いていた。その原理を見極めるためには、これまで予告していたようにシステム論の見識を活用する必要があるように思う。それはオートポイエーシスと呼ばれるシステム論なのであるが、ここに至ってようやくそこへ論を持っていく段階がきたのである。
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by mizuno_clan | 2010-11-23 20:09 | ☆談義(自由討論)

「禅と武家水野」

禅と武家水野                             筆者:水野青鷺

 水野氏史を研究するようになって、水野諸氏の菩提寺に墓参する機会が多くなった。
取材した既得の資料により、採訪した菩提寺や未採訪の寺院を、大まかに列挙してみると、下表の通り大半が禅宗のお寺によって占められていることがわかった。水野氏諸家の大方が武家であったことから、なぜ禅宗と武士とがこのように密接に関係しているのかと、長年疑問に思いつつも、中々資料が得られず判らずじまいであった。
 そのような状況下、先日、偶然に大学の宗教学講義で、教授が「鈴木大拙」氏と板書されたので、著作を調べていく内、鈴木大拙『(対訳)禅と日本文化』に、これまでの謎を解く明解な指針が記されていたので、該当部分を引用し、その関係を考察してみる。

 なにかの関係でもよいが、禅が、日本の武士階級と交渉があったといえば、不思議に考えられるかもしれぬ。各国において仏教はいかなる形態をとって栄えたにせよ、それは慈悲の宗教であり、その歴史に変化はあったが、けっして好戦的な活動に従ったことはなかった。それでは、どうして禅が日本武士の戦闘精神をはげますことになったのだろうか。
 日本文化においては、禅は当初から武士の生活と密接な関係があった。もっともそれはけっして彼らの血なまぐさい職業を実行するように示唆したものではない。武士がなにかの理由で一たび禅に入った時は、禅は受動的に彼らを支持したのであった。禅は道徳的および哲学的二つの方面から彼らを支援した。道徳的というのは、禅は、一たびその進路を決定した以上は、振返らぬことを教える宗教だからで、哲学というのは生と死とを無差別的に取扱うからである。この振返らぬということは、結局、哲学的確信からくるのであるが、元来、禅は意志の宗教であるから、哲学的より道徳的に武士精神に訴えるのである。哲学的見地からは、禅は知性主義に対立して直覚を重んじる。直覚の方が真理に到達する直接的な道であるからだ。それゆえ、道徳的にも哲学的にも、禅は武門階級にとって非常に魅力がある。武門階級の精神は比較的に単純で哲学的思索に耽るというようなことは全然ないから――これが武人の根本的資質の一つであるが――当然、禅において似あいの精神を見いだすのである。おそらくこれが禅と武士との間に密接的な関係が生じた主なる理由の一つであろう。
 つぎに、禅の修行は単純・直裁・自恃・克己的であり、この戒律的な傾向が戦闘精神とよく一致する。戦闘者はつねに戦うべき目前の対象にひたすら心を向けていればよいので、振返ったり傍見してはならぬ。敵を粉砕するためにまっすぐに進むということが彼ららとって必要な一切である。ゆえに彼は物質的・情愛的・知的いずれの方面からも、邪魔があってはならぬ。もし戦闘者の心に知的な疑惑が少しでも浮かんだならば、それは彼らの進行に大きな妨げとなる。もろもろの情愛と物質的な所有物は、彼が最も有効的に進退せんと欲する場合には、この上ない邪魔者になる。立派な武人は総じて禁欲的戒行者(アセティクス)か自粛的修道者(ストイクス)である。という意味は鉄の意志を持っているということである。そうして必要あるとき、禅は彼にこれを授ける。  

(鈴木大拙『(対訳)禅と日本文化』2005.12 講談社インターナショナル 第三章 禅と武士)


 本著は、誠に明確に記述されているが、水野氏史研究に資するため、内容を箇条書とし考察してみる――

1.どうして禅が日本武士の〝戦闘精神を励ます〟ことになったのだろうか
 武士がなにかの理由で一たび禅に入った時
   → 〝禅は受動的に彼らを支持〟
 禅は道徳的および哲学的に、二つの方面から彼らを支援
  禅は〝意志の宗教〟 → 哲学的で、より道徳的に武士精神に訴える
  道徳的―― 一たびその進路を決定 → 〝振返らぬことを教える宗教〟
  哲学的――〝生と死とを無差別的に取扱う〟
       〝直覚[直観]を重んじる〟(知性主義に対立)
        ∵直覚 → 〝真理に到達する直接的な道〟
   ∴道徳的にも哲学的にも、禅は〝武門階級にとって非常に魅力的〟
 武門階級の精神は比較的に単純 (武人の根本的資質の一つ)
   → 禅において似あいの精神を見いだす
∴おそらくこれが禅と武士との間に密接的な関係が生じた主なる理由の一つ

2.禅の修行 → 単純・直裁・自恃[自負]・克己的
   → 〝戒律的な傾向が戦闘精神とよく一致〟
   ∵戦闘者はつねに戦うべき目前の対象にひたすら心を向けていればよい
 振返ったり傍見[脇から見て]してはならぬ
    敵を粉砕するために〝まっすぐに進む〟ということが彼ららとって必要な一切
∴戦闘者は、知的・情愛的・物質的のいずれからも、邪魔があってはならぬ
    a. 知的な疑惑 → 彼らの進行に大きな妨げ
b.もろもろの情愛と物質的な所有物
     → 最も有効的に進退せんと欲する場合 → この上ない邪魔者になる
 立派な武人は総じて禁欲的戒行者(アセティクス)か、自粛的修道者(ストイクス)である
   禁欲的戒行者=欲望、特に性欲を抑え戒律を守って修行に励む人
   自粛的修道者=自分から進んで、行いや態度を慎み仏道を修行する人
  ∴〝鉄の意志〟を持っている
     → そうして必要あるとき、禅は彼にこれを授ける

 つまり、武士であった水野諸氏もまた、禅において似あいの精神を見いだし、禅と密接的な関係が生じたことから、帰依し心の拠り所として禅宗の寺を菩提寺としていったものと推察される。つぎに、具体的に諸氏の菩提寺について記述してみる。

 桓武平氏水野については、始祖水野影貞以降、子孫は代々愛知県瀬戸市水野の地に住み、暦応三年(1340)、六代目の致国は、鎌倉建長寺の高僧覚源禅師に帰依し定光寺を開山している。また、致国の甥で致顕の子致高は、応永十九年(1412)、備中守に任ぜられたが、同年十二月二十八日入尾城中で病死し、感應寺に葬られたことから水野家菩提寺のはじまりとなった。感應寺の縁起については、天平六年(734)、行基菩薩が諸国遍歴の途、水野の地を訪れ、小金(おがね)神社を鎮守として小金山感應寺を開基したもので、この地方では最も古い寺の一つといわれている。当初は天台宗であったが、その後臨済宗妙心寺派に属し、定光寺の末寺となった。致高の後裔致勝は、水野権平衛家の始祖となり、孫の正勝は尾張藩の御林方役所の初代奉行に任じられ、代々世襲で明治維新まで九代続く。その間水野代官所の代官を三名排出する。
また、永享九年(1437)生まれで、小河水野の祖ともいえる水野貞守は、水野郷において仏道に帰依し、感應寺に香華堂(こうげどう)を建立したと記録にある。
同系統の水野又太郎良春は、康安元年(1361)、志談村(名古屋市守山区上~下志段味)から荒居(新居)に移り、山林を切開いて一邑となし居住の地とした。新居と称した新田や新宅などの名が後に村の名となった。應安元年(1368)、新居領主となった水野又太郎良春が、聖観音の像を本尊とし、弟報恩和尚(定光寺を開山した覚源禅師の弟子)に安生山退養寺を開山させ当寺を開基した。應安七年(1374)六月十二(六)日、良春は逝去し当寺に葬られた。

 小河水野一族と曹洞宗の関係においては、宇宙山乾坤院(愛知県知多郡東浦町)の建立に始まり、天澤院(愛知県常滑市)、春江院(名古屋市緑区)、傳宗院(愛知県知多郡東浦町)、心月齊(愛知県知多郡美浜町)などを相次いで開創した。これは、統治の必要性から分家を要衝に配し、他の政治勢力を従属させていく課程で、祖先祭祀のために分家がそれぞれの菩提寺を建立したことを示していると云われている。宇宙山乾坤院の縁起については、室町時代中期の文明七年(1475)、緒川城の守護を目的に初代城主水野貞守の寄進によって、川僧慧済が開山した。以来、代々水野家の菩提寺として、尾張徳川家より禄を下されるなど、厚い庇護を受けてきた。
小河水野諸系は、江戸時代に入ると、大名・旗本などの武家として全国各地に封じられたが、平時の封地においても、なお禅宗の菩提寺が大半を占めることとなった。幕末動乱期においては、二百数十年ぶりに戊辰戦争などが起こり戦いを余儀なくされたが、その時もまた、武家水野諸氏の戦闘精神を大いに励ますことが出来たものと推察される。


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by mizuno_clan | 2010-11-22 23:19 | R-4>水野氏諸他参考資料

水野忠徳が時事ネタの記事

20010年11月11日付、下記の記事に、水野忠徳が時事ネタとして、採り上げられていますので、ご紹介します。

MSN.産経ニュース<文化>
【幕末から学ぶ現在(いま)】(87)東大教授・山内昌之 水野忠徳
2010.11.11 08:05

■「屏風外相」の見識と胆力
外国奉行などを歴任し、幕臣として国事に奔走した水野忠徳


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筆者略歴: 山内 昌之(やまうち まさゆき、1947年8月30日 - ) は、日本の歴史学者。専攻は近代イスラム・中央アジア史と国際関係史。東京大学大学院総合文化研究科教授。
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by mizuno_clan | 2010-11-12 15:13 | News