【談義1】水野氏と戦国談義(第三十回)

国人小河水野氏の困惑①-苅谷赦免-
談義:江畑英郷

 この「水野氏と戦国談義」も回を重ねて、とうとう三十回目となった。切がよいのと、「水野氏と‥」というタイトルを掲げておいて、水野氏について語ることが甚だ少ないことに少々気が咎めるので、今回は天文年間から桶狭間合戦までの小河水野氏について思うところを述べることにする。ここでの小河水野氏とは、知多半島北部東岸の小河(現在は愛知県知多郡東浦町)を本拠とし、この時期に刈谷・常滑・大高などに勢力をもった藤原姓水野氏(『刈谷市史』による)のことである。この水野氏については、本談義第八回「三河武士は忠義に薄く」で、中興の祖といわれる水野貞守からの来歴について一度簡略に述べさせてもらっている。そしてこの小河水野氏の動向を、ここで天文年間から桶狭間合戦までに限って述べるというのは、その時代より他は私が不勉強でよくわかっていないからである。

 第八回「三河武士は忠義に薄く」では、天文年間の東三河の動向に注目して、水野忠政から信元の世代交代期にあった、親松平から親織田への外交転換に関する背景について言及した。そしてそこで意図したことは、織田・今川という2大陣営の軍事的対立という常套的な構図から離れて、もっと地域独自の自律的な事情にスポットを当ててこれを読み解くということであった。しかしながら、この戦国期における大名間の所領拡大競争という政治的軍事的構図を差しおいて、地域のあるいは小領主層の自律的事情を重視する観点がどのように根拠づけられるのか。この点が確かに示されないことには、常套的構図から離れて議論する足場が揺らぐことになりかねない。したがって、その後の組織論や土地所有に関する立ち入った考察は、一つにはそうした下からの根拠づけの意味合いがあったのである。
 天文年間から桶狭間合戦までの水野氏の動向は、どのようであったのか。これに答えようとすれば、まず水野氏が武家で国人と呼ばれる階層に属するという規定から出発するであろう。つまり小河水野氏は何者であったのかの認識があって、文献史料に現れる諸動向をそれに沿わせて理解しようとすることになる。そうであるなら、天文年間、それは戦国時代真っ只中であるが、その時代における「国人」とは基本的にどのような存在であり、そこからしてどのような活動をするものなのかを知っておく必要がある。そしてそのような一般論としての国人像を基礎にして歴史を探るのであるが、これが個々の国人、たとえば小河水野氏を語るとなると、戦国大名を頂点とした群雄割拠という政治的軍事的構図が押し出されてきて、地域に根を張って自律的に活動する国人の姿が遠く霞んでしまうのである。したがって当談義では、この群雄割拠型の構図から距離をおくために、最初「リゾーム」という概念を提示した。ただしこれは、群雄割拠型の構図から離れるためのキャッチフレーズに過ぎず、それ自体が戦国期の国人像を具体的に示すわけではない。したがってその後は、所領とは何かを問い、自衛自存する村に注目し、そこから当知行や戦国期の土地所有、貸借と売買、そして戦国大名組織とは何かなどに思いをめぐらせてきた。そうした考察結果からすると、現時点で国人小河水野氏を語るうえでの基本的な足場は、以下のように整理されるであろう。

①「村の成り立ち」を支え、自らもそれに依存する土豪層が、武士階級の基盤である。
②国人あるいは大名でさえも、自領においては「村の成り立ち」を支え、また自らもそれに依存している。
③上記①と②から、この時代は非常にボトムアップ志向の強い社会であったと考えられる。
④個人に還元した後に市場原理で結合するという社会原理が貫徹していない時代であり、人は個人に還元されていない。

 ①~③と④は、密接に関係すると思うのであるが、④については今後考察を深める事柄である。したがって、以降で述べる天文年間から桶狭間合戦に至る小河水野氏を中心とした動向については、ここで示した①~③を念頭において考察することにする。また考察を向ける水野氏およびそれに関連する諸動向を示す史料であるが、昨年公刊されたばかりの『愛知県史 資料編10』に収録された諸資料に基づくことにする。なぜならば、信憑性の定かでない資料に振り回されるのはつまらないし、自身で個々の資料の確からしさを考証する能力もないからである。したがって、少々窮屈ではあるが、関係者の多大で真摯な努力によって世に送られたばかりの『愛知県史 資料編10』を、この際利用させていただこうというわけである。

 さて、その『愛知県史 資料編10』を天文元年から読み進めていくと、小河水野氏に関わる格別に目をひく史料が天文20年に登場する。

今度、山口左馬助、別馳走之由祝着候、雖然織備懇望子細候之間、苅谷令赦免候、此上味方筋之無事、無異儀無山左申調候様、両人可令異見候、謹言
(今度、山口左馬助、別して馳走すべきの由祝着候、然りといへども織備懇望の子細に候の間、苅谷赦免せしめ候、此上味方筋の無事、異儀無く山左申調<モウシトトノエ>候様、両人異見せしむべく候、謹言)
                  十二月五日               義元(花押)
                    明眼寺
                    阿部与五左衛門殿

注:( )内は『新修名古屋市史 第二巻』より引用。

 ここに「苅谷赦免」という語句が記されているが、このことが何を意味するのかが実に問題なのである。ここで「織備」といっているのは、織田備後守信秀のことであるが、この書状によればその信秀が「苅谷赦免」を今川義元に懇願したというのである。そしてこの書状を理解するうえで、セットでみておかねばならないのが次の今川氏真の感状(一部分)である。

苅屋入城之砌、尾州衆出張、雖覆通路取切之処、直馳入、其以後度々及一戦、同心・親類・被官随分之者、数多討死粉骨之事
(苅屋入城の砌<ミギリ>、尾州衆出張、通路を覆い取切の処といえども、直<タダチ>に馳<ハセ>入り、其れ以後度々一戦に及ぶ、同心・親類・被官随分の者、数多く討死粉骨の事)
(『豊明市史 資料編補二』、( )内は筆者)

 これは桶狭間合戦で討ち死にした松井宗信の遺族にたいして、永禄三年に生前の宗信の忠孝を賞するために出された書状の一部である。『愛知県史 資料編10』は、文明2年(1470)から永禄2年(1559)までの資料を収録したものなので、この巻には掲載されていないが、ここに「苅屋入城の砌」とあることで、先の義元書状との直接の関連付けが必須となるのである。この松井宗信の粉骨の一件がいつのことであるか定かではないのであるが、この氏真感状によれば、今川方の松井宗信が刈谷城への通路を扼する「尾州衆」を撃退し、その刈谷城に入場している。また、同感状には「苅屋在城」とも書かれていることから、この時期刈谷城は今川方の城であったことになる。そしてこの義元と氏真の二つの書状を合わせると、次に示すような解釈が成立することになる。

 これらを考え合わせると「織備」すなわち織田備後守信秀と義元との間に一時的和議が成立し、義元が苅谷赦免すなわち占領した刈谷城を刈谷水野家の信近に返還したのは、十八年十一月以後二十年春頃までの間となる。おそらく刈谷陥落は安城落城の直後の頃であったのだろう。「赦免」の条件は当然のことながら、水野一族とくに信元・信近の織田氏との断交と今川氏への服属であっただろう。これが水野氏関係史料に記録されなかったのは、敗戦は外へは極力知らせないという当時の一般的慣行のほかに、永禄三年の刈谷水野家滅亡によって、それ以前の今川氏への屈服などは小事となってしまったからではなかろうか。
(『刈谷市史』)

 『刈谷市史』は、通説どおり水野信元の代になって織田・水野同盟が成立したとしており、「苅屋入城の砌」の時点で、水野の刈谷城が今川方の城となっていることから、今川によって刈谷城は「陥落」し「占領」されていたと理解している。そしてそれは天文18年(1549)の「安城落城の直後の頃」であり、その後天文20年の義元の書状に、信秀の懇望によって「苅谷赦免」となったあるのだから、この間に今川と織田に和睦が成立していたと『刈谷市史』は考えているのである。同様な見解は『岡崎市史』や『新修名古屋市史』などにもみられ、一般的な理解となっていると言えよう。またこの解釈について、橋場日月氏は『新説 桶狭間合戦』で次のように述べている。

 実はこれを『新修名古屋市史』や『豊明市史』は、
 ①山口左馬助教継の斡旋で織田・今川が和睦し、刈谷城が織田側に返還された。
 ②その件について調停するよう山口を説得せよと岡崎の明眼寺(のち妙源寺)と阿部某に指示した。
 と、説明している。
 これに対し、筆者はどう考えても次のようにしか解釈できない。
 まず第一に、これは
「山口教継が奔走すると言って来たことはめでたい」
 と読むべきだろう。「馳走すべきの由」は未来形であり、「これから馳走します」という事なのだ。山口はこの時点で刈谷城開放以前の事柄について何も関与していない。
 次に、「しかりといえども」は「しかし」「けれども」と同じ意味の接続詞だから、以降は、
「しかしながら刈谷城は開放する事に決まった。この上は講和について山口が異議なく調停に奔走するよう説得せよ」
 という意味になる。
 つまり、義元は「このたび山口左馬助教継が味方するとの事、めでたい。しかし、織田備後守信秀がなにかと懇願してくるので、刈谷城については占領を解くことにした。そういったわけだから当方の味方関係の和平について異議を主張する事なく調整に奔走するよう、両人から説得せよ」と言っているのだ。
 教継は両者の間に立って和平斡旋に奔走したのではなく、義元に味方すると言って来たのだが、それに反してトップダウンで今川・織田の講和が成立したために刈谷城攻撃も中止されて解放が決定した。
 そして、それに対して今川につくと申し出ていた教継は、ハシゴをはずされた格好になり、不服を申し立てるかもしれないが、不満を持つ事の無いよう、素直に従って講和に協力するよう、よく言い聞かせてくれ、と言っているとしか理解できないのだ。


 山口教継が和平斡旋に奔走したという解釈はおかしい、というのが橋場氏の主張であるが、交戦状態にあった織田と今川が和睦へ動いている中での義元の書状という理解であり、その点では大した違いはないと言えるだろう。『刈谷市史』にしろ『新修名古屋市史』にしろ、そして橋場氏にしても、いずれもが織田信秀と今川義元が天文20年以前から交戦状態にあって、それが和平へと動こうとしているという解釈には違いがないのであるが、果たしてそうなのだろうか。

 ここで、この義元の書状を4つの部分に分けて詳細に検討してみよう。

①今度、山口左馬助、別して馳走すべきの由祝着候
 ここに「馳走すべき」とあり、これは橋場氏が言うように未来形だとしても、「別して」をどう解釈すべきか。「あらためて」という意味にもとれるが、そうなると今度の馳走の以前から、山口教継は今川に対して協力的であったように受けとれる。そして「馳走」の解釈であるが、「和平調停に奔走」という理解と、「織田方から今川方に寝返る」という理解の二つが提示されている。しかし今の段階では、どちらとも言いがたいし、それ以外の解釈が排除されるわけでもない。
②然りといへども織備懇望の子細に候の間、苅谷赦免せしめ候
 「苅谷赦免」という言葉に目を奪われる。この箇所については通常、刈谷城の占領を解く、あるいは刈谷城に対する攻撃を中止するという軍事的な意味合いで解釈されている。しかし「苅谷」が刈谷城の意味に限定できるわけではないし、また「赦免」が今川の軍事的な意味にだけ使われるわけでもないだろう。そして、織田信秀が「懇望」したのを義元が承諾したことが、すぐさま和睦を意味するとも限らないのである。
③此上味方筋の無事、異儀無く山左申調候様
 この箇所について橋場氏は、「当方の味方関係の和平について異議を主張する事なく調整に奔走するよう」という理解を示している。「馳走」すると言ってきている山口教継であるが、味方関係の和平に異議を主張したり、「講和に協力」しなかったりすることを義元が懸念しているというのである。その理由について橋場氏は、「トップダウンで今川・織田の講和が成立したために」、「今川につくと申し出ていた教継は、ハシゴをはずされた格好に」なるからだと説明している。しかし山口教継は、今川と織田の交戦が続くなかで「義元に味方する」という去就を選択したわけで、彼が主体的に織田信秀と交戦していたわけではあるまい。むしろ橋場氏の理解では、織田方から今川へ寝返ったととらえているのであるから、信秀は直前まで教継の味方であったことになる。そうであるのに、和平に反対したり非協力的な態度をとるというのは、まるで山口教継が織田信秀との戦いを望んでいるかのようである。山口が寝返ったことは、信秀にとっての恨みとはなっても、山口側に信秀との戦いを望む理由にはならないのではなかろうか。「ハシゴをはずされた格好」になったからといって、剥きになって信秀との交戦を続けるべきだと教継が不満を持つというよりも、恨みをもたれた信秀との緊張が軽減すると、むしろ教継は喜ぶのでははなかろうか。
④両人異見せしむべく候
 「両人」とは、明眼寺と阿部与五左衛門のことであるが、ここに彼らの役割が示されている。それは、「山左申調候様」に「異見せしむ」のである。橋場氏はこれを「両人から説得せよ」とするが、ここで気になるのは、なぜ義元はこの両人に説得させようとしているかである。普通に考えれば、義元が山口に命じればよいことであるが、それをせずに両人の説得に期待しているのか、あるいは命令とは別に念を入れようというのか。いずれにしても、山口教継に対して、この両人の説得が効果があると義元がみなしていたことになる。

 実際のところこのように解釈の幅は広いのであるが、ここで全体を眺めてみると、この書状の趣旨は、明眼寺と阿部与左衛門が義元の意向を山口教継に伝え、「味方筋の無事」を「異見せしむ」ことにある。そしてこの趣旨からすると、「苅谷赦免せしめ候」はどうにも唐突な感じがしてならない。橋場氏をはじめ通常の理解では、この箇所に水野氏の刈谷が登場しているのに、水野氏そのものはそっちのけで織田と今川の和睦ばかりに注目する。つまり彼らの理解では、「苅谷赦免せしめ候」は和睦の代名詞に過ぎないのである。しかしそれならば代名詞など使わずに、「信秀が懇願するので和睦することにした」とすればよいことだろう。さらにいえば、「苅谷赦免せしめ候」がなぜ織田・今川における和睦の代名詞になるのかがよくわからない。これまで織田と今川は、刈谷あるいは刈谷城をめぐって争っていたわけではないだろうに、なぜここで「苅谷赦免」が登場するのか。そのことにもっと注意を払うべきである。
 義元は、「山口教継が馳走するとのことでそれは結構なことだ」としたすぐ後で、「然りといへども」として信秀の「懇望」と「苅谷赦免」のことを述べている。つまりここでは、山口教継の馳走と「苅谷赦免」は直接に、相反することとしてつながっているのである。山口の馳走が具体的に何を意味するのか定かではないが、その馳走が刈谷の赦免と相反するということは、少なくとも山口にとって刈谷は赦免すべきではないのである。つまり、「苅谷赦免」を織田・今川の和睦の代名詞として扱うのではなく、その具体性のままに受けとれば、山口教継と水野氏は敵対していたのであり、したがって窮していた水野氏を救うことになる「苅谷赦免」に教継は反対するのである。このように、この書状の趣旨が「味方筋の無事」に協力するように山口を説得することにあるのならば、そのことと「苅谷赦免」には直接の関係が存在するはずであり、そうと受けとらなければ何といってもこの「苅谷赦免」は唐突なのである。
 織田と今川という大名級の対立の構図を無理にもちこまなければ、義元に懇望した信秀とその懇望を聞き届けた義元の間柄には、深刻な敵対は存在していないことが自然と理解できる。織田と今川が激突した小豆坂合戦は天文17年、そしてその翌年には織田方が占拠していた安城城が今川軍によって開城させられた。この義元の書状が天文20年であれば、両者の戦闘から2年が経過している。そして安城開城においては、織田信広と竹千代の人質交換が成立しており、織田勢の三河からの撤退という形勢が決まったのであった。敵味方の間には、越えることのできない敵対の溝があるのではなく、時に争い時に結ぶという流動性があったことであろう。そうであるならば、織田と今川という2大陣営の抗争の構図が、この義元の書状を理解する際の当然の前提というわけにはいかないのである。義元が、山口教継の不服を懸念して明眼寺と阿部与五左衛門に説得を命じた書状に、「苅谷赦免」が差し込まれたのならば、教継の不服の対象は「苅谷赦免」にあったと理解すべきなのである。しかしそうとなると、「此上味方筋の無事、異儀無く山左申調候様」の解釈がガラリと変わってくる。
つづく
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by mizuno_clan | 2010-12-19 14:54 | ☆談義(自由討論)

【談義1】水野氏と戦国談義(第三十回)

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 義元の書状では、固有名が記載されていない者もいるので見落としがちとなるが、この書状の登場勢力は意外と多彩である。

A.以前は織田方であったが今川方へ馳走を申し出ている山口教継。
B.「苅谷赦免」を懇望する織田信秀。
C.「苅谷赦免」となった小河水野氏。
D.無事が懸念される「味方筋」。
E.山口教継が申し調える相手。
F.山口教継の説得を命じられた明眼寺と阿部与五左衛門。
G.書状の送り手である今川義元。

 この書状の背景を、織田信秀と今川義元の交戦から和睦への流れとしないで、山口教継と小河水野氏の対立とするならば、この両者と他の登場人物あるいは勢力との関係についてあらためて問い直す必要が出てくる。「此上味方筋の無事、異儀無く山左申調候様」の箇所を、橋場氏は「当方の味方関係の和平について異議を主張する事なく調整に奔走するよう」と訳しているが、義元へ馳走を申し出た山口教継が「味方筋の無事」に異議をはさむというのは、やはり違和感がぬぐえない。このDの「味方筋」とは、単純に今川方あるいはもっと踏み込んで、今川の被官だと考えてよいのだろうか。そして橋場氏は、「山左申調」を「調整に奔走する」とするが、誰に対するどのような調整なのであろうか。橋場氏の訳は「当方の味方関係の和平について」で始まるのであるから、義元と信秀の和睦に従おうとしない者たちに対する調整というように受けとれる。だがその点では、山口教継も「異議を主張する」だろうというのだから、彼に調整させようとする者たちと同類のはずなのである。
 上記のAからGの登場者たちの間の関係を、ここで整理した図1を掲げよう。
e0144936_14481516.jpg 織田・今川の交戦という図式から離れてみると、義元の書状のなかで一番問題になるのは、味方筋の無事を脅かしているのは誰かという点である。この点について考えてみると、書状のなかに「山左申調候様」とあるが、この申し調えることが味方筋の無事のことであるならば、その無事を脅かしているのは山口教継に説得させようとしている者たちということになる。このような理解でみると、この書状には二つの対立軸が現れていることになる。

①A山口教継とC刈谷水野氏の対立。
②D「味方筋」とE「申調」相手の対立。

 さらに山口教継の説得が有効であるとするならば、教継と説得相手は親密か味方同士ということになるはずである。そうなると山口教継と「味方筋」も、教継の「馳走」以前は敵対していた可能性が高くなる。そしてそれと同時に、山口教継と刈谷水野氏が対立しているのであれば、教継の「申調」相手もまた刈谷水野氏と敵対関係にあった可能性が高いだろう。これに加えて、義元が「苅谷赦免」としたことからすれば、刈谷水野氏と義元の「味方筋」の間にも敵対的な関係があったことが、推測として浮上してくるのである。
 <図1>の構図は、このようなA・C・D・Eのような国人・土豪勢力間の紛争が中心にあり、織田信秀や今川義元はその外側にいて、むしろこの騒動を鎮静化させようと協力している図式を表そうとしたものである。さて、織田・今川という2大陣営対立の構図を前提としないで義元の書状を読み解けば、山口教継や刈谷水野氏と、「味方筋」や「申調」相手が紛争の当事者であることが知られるのであるが、この「味方筋」や「申調」相手とは具体的にどのような者たちなのであろうか。
 この「味方筋」が何者であるかを解き明かす糸口は、義元が説得を依頼した明眼寺と阿部与五左衛門にあるように思われる。『愛知県史 資料編10』の巻末解説に、当会委員である水野智之氏の次のような説明が掲載されている。

 妙源寺文書 岡崎市大和町所在の真宗高田派妙源寺の文書。約七〇点の中世文書があり、多くは戦国期のもので、同寺にあてた碧海郡、額田郡の土地の寄進状や売券である。発給者にはのちに松平家臣団に組み込まれた在地小領主が多く、桑子御太子とも呼ばれていたが、江戸時代に妙源寺と改めた。

 明眼寺(妙源寺)は、当時の碧海郡、矢作川の西岸にあって岡崎城にはほど近い。「発給者にはのちに松平家臣団に組み込まれた在地小領主が多く」とあるように、松平色が強いがこの当時は独立性のある在地領主層を檀家として多く抱えていた。このことからすれば、義元書状の「味方筋」とは、彼ら矢作川西岸一帯、碧海郡中の安城や桜井、そして知立などに根を張る国人あるいは土豪層であったのではないかと思われる。このように、義元書状の「味方筋」を碧海郡の松平およびそれと結ぶ国人・土豪層であるとすると、彼らの多くは天文18年の安城城の開城以降に義元に従うようになったと考えられ、「味方筋」という表現はそれを示しているように思われる。
 次にこの碧海郡の勢力と敵対していた「申調」相手であるが、彼らが山口教継と関係の深い勢力だとすると、それは教継の本拠である鳴海周辺の国人や土豪たちということになるだろう。そしてこの鳴海周辺と碧海郡であるが、地域としては尾張と三河国境の境川を挟んで隣接していたのである。このように、義元の書状に現れた明眼寺の檀家である碧海郡の国人・土豪と、その明眼寺が説得しようという山口教継の地盤が隣接していたことからすれば、両者の間に紛争が持ちあがっており、それが激化していたと考えることは十分可能である。そしてそのことを示す史料が、実は『愛知県史』に収録されている。

同廿六 ならわニ着、道九里、
             宿ハならわ十郎兵へ
 山中よりおかさきへこし、まへハふし島へとおり候へ共、三河・尾張取相にて、おかさきよりあふらさきへ行き、舟ニ乗候て大はまへ行、又船ニのり候、五十丁計乗、ならわニ着候、
(4月26日、成岩に到着、道は9里。
             宿は成岩十郎兵衛。

 山中[岡崎市]より岡崎へ越し、前には藤島[日進市]へ通り候へども、三河・尾張取り合いにて、岡崎より油崎[?]へ行き、舟に乗り候て大浜[碧南市]へ行き、また舟に乗り候、50町ばかり乗り、成岩に着き候)
( )内は筆者。

 これは大村家盛の「参詣道中日記」の一部であり、天文22年に参詣のために美濃から尾張・三河を通り、その復路として三河から尾張へぬけたことがここに記されている。この道中日記によれば、往路には守山から岩崎・藤島そして岡崎へと進んだのであるが、復路は岡崎から南のルートを選択している。そこには、岡崎から「あふらさき」へ向かったとあるが、これは現在の油ヶ淵(碧南市平和町)のことなのであろうか。そしてそこから舟でとあるが、当時はこの辺りまで入り江で海が入り込んでいた(愛知県所蔵絵図より推定)ようだ。その後、大村家盛は大浜へ船で向かって、そこからさらに船を乗り継いで成岩に到着したと書いてある。このように往路は岩崎から岡崎へ向かう街道を使ったが、復路は船を乗り継ぐ南のルートを選んでいるのだが、その理由として家盛は、「三河・尾張取相にて」と日記に記している。家盛が岡崎から南へ下ったのであるから、岡崎から岩崎方面へ向かう、おそらくは鎌倉街道沿いで三河勢と尾張勢が騒動を起こしていたということになるだろう。
 岡崎から鎌倉街道を西に進めば、知立を抜け境川を渡り、二村山を越えて鳴海に至ることになる。天文22年にこの辺りで、尾張の勢力と三河の勢力が紛争状態にあったのであるが、この紛争は天文20年の義元の書状から読み出した地域紛争と同じ場所で起こっていたことになる。したがって、この「参詣道中日記」に記された「三河・尾張取相」は、三河碧海郡から尾張知多郡北部および山田郡南部にわたる地域に、この時期紛争の火種が燻っていたことを示していると考えてよいと思う。
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 義元の書状が出された天文20年と大村家盛の道中日記が書かれた天文22年の間には、織田信秀が天文21年に病で死去(『新修名古屋市史』)している。おそらくは、この尾張勢の求心力となっていた人物の死去と、その後継者となった信長の行動が、この地域の均衡を揺さぶり、信秀と義元の協力によって鎮静化していた情勢が一転し、再び紛争が始まったといったところなのではなかろうか。この天文22年の「三河・尾張取相」に、刈谷そして小河の水野氏がどのように関わっていたのかはわからない。しかし2年前においては、義元の書状に「苅谷赦免」が記されたのであるから、この碧海郡から鳴海にいたる一帯の地域紛争に深く関わっていたのは間違いない。
 
 さて、義元の書状に現れていた「味方筋」と「申調」相手がみえてきたところで、ふり出しに戻って「苅谷赦免」について再度考えてみる必要がある。これまで確認したように、義元の書状の趣旨は、鳴海周辺の国人・土豪と、その東南方向にある碧海郡の勢力との紛争を沈静化させることにあったと考えられる。そしてその紛争沈静化の具体的対応として、今川義元は、天文18年の安城合戦の勝者として、自身の公権力をもって西三河を押さえるのであるが、鳴海周辺の尾張衆については、山口教継の調停力に期待を寄せていた。本来この地域であれば、織田信秀がその役割を果たすところであるが、2年前の安城における敗戦による威信低下と「苅谷赦免」を義元に願い出たことで、鳴海周辺勢力の反発を買いその任を果たせずにいたのではなかろうか。その意味では、信秀もまた教継の調停を望んでいたと思われる。
 それでは、この山口教継をはじめとする鳴海周辺勢力と、明眼寺の檀家である碧海郡の勢力の紛争に、「苅谷赦免」はいかなる関わりがあるのだろうか。山口教継が「苅谷赦免」に反対であることは先に述べたが、そうであるならば、教継が申し調える相手である鳴海周辺勢力も彼と同じ立場であろう。一方で碧海郡の国人・土豪たちは、この「苅谷赦免」をどう受けとめたであろうか。
 先にあったように、松井宗信が「在城」していたことを思うと、刈谷城は義元の影響力下にあったと考えられ、刈谷水野氏は義元の公儀に従う立場にあったように思われる。このことからすれば、この「赦免」という言葉は懲罰の解除という意味に受けとめるべきかも知れない。そうであるとするならば、刈谷水野氏は義元に懲罰を科される何かをしでかしたことになる。山口教継が「苅谷赦免」に反対であることからすれば、彼ら鳴海周辺勢力にたいする罪過とも考えられるが、義元の「味方筋」である碧海郡勢力と紛争を抱えているのだから、彼らのために刈谷を懲罰したとは考えにくい。それよりは、刈谷水野氏と地盤が隣接する碧海郡勢力に悶着があったと考えたほうがよいだろう。そうであるならば、先に示した義元の書状に表れた対立軸に、次の③を追加する必要がでてくる。

①A山口教継とC刈谷水野氏の対立。
②D「味方筋」とE「申調」相手の対立。
③C刈谷水野氏とD「味方筋」の対立。

 こうして整理してみると、互いに勢力圏が隣接するA・C・Dの三者は、三つ巴の争いを、少なくとも天文18年から22年にかけて続けていたことになる。信秀と義元の公権意識による仲裁があったため、おそらく天文20年に紛争は一度沈静化したと思われるが、それによって彼ら三者を駆り立てる根本要因が取り除かれたわけではなく、再び天文22年になるとそれは再燃した。このように、山口教継ら鳴海周辺勢力、刈谷に拠点をもつ小河水野氏、そして碧海郡の国人・土豪が三つ巴の争いをしていたとするならば、織田・今川の2大陣営による戦いの構図は、ひとまず横によけておく必要が出てくるだろう。
 また、先に掲載した松井宗信の功績を賞した書状のなかに、水野氏の刈谷城が「尾州衆」によって「通路を覆い取切」られたとあった。普通はこれを、今川方となった刈谷城を織田勢が攻めたと理解するのであるが、「尾州衆」の標的は今川方なのではなく、刈谷水野氏そのものであったのではなかろうか。「通路を覆い取切」られたというのも、刈谷城を封じ込めたというような意味であり、松井宗信はそれを突破して「直に馳入」ったのである。これは義元が宗信に命じて、刈谷城を救援させたということであろう。そして「尾州衆」とあるからといって、それは直ちに織田信秀を指すわけではなく、おそらくは鳴海周辺の国人・土豪勢力をそのように呼んでいるのではないかと思われる。なぜならば、刈谷城からみれば最も近い「尾州衆」は、同族を除けば彼らなのである。
 天分20年に出されたとみられる義元の書状と、桶狭間で戦死した松井宗信を賞した氏真の感状に含まれる共通点は、知多半島の水野氏と鳴海周辺勢力の間に拭うことができない確執があったということである。頭から織田と今川という2大陣営の対立を前提にしてこれら史料を読めば、「苅谷赦免」が織田と今川の和睦になるし、「尾州衆」が織田信秀で、「苅屋入城」が刈谷城を今川軍が攻略したという、冷静に考えれば少々飛躍した解釈がまかり通ることになる。しかしながら、山口教継も刈谷水野氏も、織田方・今川方であったという前に、自領とそこで暮らす人々とともに生き、そして自分たち独自の問題を抱える領主なのである。さらにそれら領主の主であるとされる織田信秀や今川義元も、自身の都合で彼らに戦いを求めるというよりは、公権力として争いをコントロールしようと努める存在なのである。

 「苅屋入城」と「苅谷赦免」が、本当のところ何を意味するのか。それは2つの史料からだけでは、確かな結論を導き出すことはできない。しかしながら、刈谷水野氏および小河系の水野一族は、織田方・今川方を離れて、自身が拠って立つ地域で自律的に行動し、そこに固有の問題を抱えながらも前へ進もうとしていたことだろう。「苅屋入城」と「苅谷赦免」という文言に示されている事情には、西三河の当時の激しい動揺に晒され、それに翻弄されそうになりながらも、途を切り開こうとした水野氏の姿が反映されているようにも思える。そしてのそのときの水野の人々の面には、懸命さと困惑が入り混じったような表情が浮かんでいたように、なぜか想像してしまうのである。
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by mizuno_clan | 2010-12-19 14:50 | ☆談義(自由討論)

アクセス解析 No.11

●2010年9月から2010年11月まで、3ヶ月間の「水野氏史研究会ブログの第11回アクセス解析」を発表いたします。
 一般の研究会では、月に一度程度の例会、および年数回「会誌」を発行しておりますが、本会では委員会の外は、当面大会・例会および会誌等の発行を予定していないことから、集会参加人数・会誌の発行部数を公表する事は出来ません。従って本ブログへのアクセス状況(ユニーク・ユーザー数)を、四半期毎にご報告する事により、変則的な方法ですが「集会状況と会誌の発行部数に代替」させていただきます。
 みな様には日々お仕事などで、ご多用中にも関わりませず、本会にご理解ご尽力いただいておりますことに、ここに改めまして深謝し心から御礼を申し上げます。今後とも引き続き本会活動にご参加ご支援いただきたくお願い申し上げます。

※本ブログに設置している「カウンターの数値」は、実数とかなり離隔してきたため、2010年11月末を以て取り外しました。
                                               研究会事務局


▼【エキサイトブログ・レポートの集計データ】 更新2010.12.01
2010.09.01~2010.11.31 までの〝ユニーク・ユーザー数〟
合計 2,315 ip (前回比 102.6 %)

前計 16,491 ip
累計 18,806 ip
 ※ユニーク・ユーザー【 unique user 】数とは、ブログにアクセスされた接続ホスト数をユニーク(同じ物が他に無いの意)な訪問者の数として日毎に集計している。つまり同一人物が1日に何回アクセスしても、最初の1回のみがカウントされる。この集計基準は、ページ・ビューなどの基準に比べ判定方法が難しいが、実質訪問者数を示している事からサイトの人気度をより正確に反映できる。


▼2010.09.01~2010.11.31 までの〝ページ・ビュー数〟
合計 6,031 pv (前回比 104.6 %)

前計 44,818 pv
累計 50,849 pv
※ページ・ビュー数【 page view 】(=表示画面閲覧数)の月別日計グラフを以下に掲載する。
通常、訪問者はサイト内の複数のページを閲覧するため、訪問者数(ビジット)よりもページビューのほうが数倍多くなる。


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2010.11 合計 1,662 pv



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2010.10合計 2,314 pv



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2010.09 合計 2,055 pv
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by mizuno_clan | 2010-12-01 04:11 | アクセス解析