【Event】「各務原歴史研究会 講演会」終了しました

 本日、各務原歴史研究会 講演会へ出講し、
題目「鋳物師 水野太郎左衛門 ――その氏族と作品――」を講演させていただきました。
各務原歴史研究会様は、例会として会員多数がご出席下さり、また本会からは、全委員、
会員2名のほか協力支援者4名のご参加がありました。
本日は酷暑の中、大勢ご静聴下さいましたので、お陰様で「水野氏」の研究活動を広める
ことが出来ました。皆々様、誠にありがとうございました。
 先ずは、取り急ぎ御報告いたします。

                              研究会事務局
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by mizuno_clan | 2011-07-16 20:42 | Event-1(講演会・講座)

2011暑中見舞

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by mizuno_clan | 2011-07-08 14:10 | Information

【談義1】水野氏と戦国談義(第三十三回)

アナーキーと主従関係①-欠所の意味を探る-
談義:江畑英郷

 前回は、山口左馬助教継の殺害の真相について詳しく考察を加えてみたが、そこでは教継に同心して織田から今川に転向した、星崎・根上の領主たちの帰参に関する解釈が重要なポイントとなっていた。この考察は、弘治元年に信長によって発給された命令書に基づくものであったが、そこに現れていた「欠所」という用語の意味は、「領地没収」のことであるとした。これは『新修名古屋市史』の理解をそのまま踏襲したものであったが、実のところこの用語理解ではこの信長命令書を適切に解釈することができない。前回の談義では、この文書から星崎・根上の領主たちが、今川から離れて信長に帰参したことが確認できれば議論の本筋に支障はなかったことから、この「欠所」という用語に踏み込むことを避けていた。しかしながら、この「欠所」という用語の理解には、この時代の社会に対する暗黙的な視点が介在しており、それがためにこの用語を本来の意味から遠ざけてしまっているように思うのである。したがって今回は、信長文書に現れる「欠所」という用語の意味について考えを巡らせ、この用語の本来の意味を摘出してみようと思う。

 奥野高広著『織田信長文書の研究』(吉川弘文館)は上下巻に分かれ、その上巻には序説につづき「尾張在国時代編」が収録されている。これは天文18年~永禄9年の間、すなはち信長家督相続の3年前から岐阜に本拠を移すまでの期間に、信長が発給した残存する全文書を年代順に収録したものである。そしてここには、13点の「欠所(闕所)」に関わる文書が収録されているが、その箇所の読み下し文を抽出して表に整理してみた。
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(注)読み下し文は『織田信長文書の研究』の通り。引用は同書『増訂版』(ご指摘により追記)

 『織田信長文書の研究』の「尾張在国時代」に収録されている文書には、売主が欠所処分を受けたことに引きずられて、買主の権利が脅かされることがないように、信長が買主(宛人)を保護する内容のものが多数含まれる。上にあげたA・B・E・G・I・J・Mがそれに該当するが、このことは信長の保護指定が無い場合は、売主の欠所が買主にも波及するということを示すものである。これについて、『新修名古屋市史』に次のような記載がある。

 買得地安堵を受ける目的は、売主が没落して闕所となったとき、その闕所分に含めて買得地が没収されない保証を求めることにあった。それは逆に、買得地は売主の闕所分に含めて没収される傾向が強かったことを意味する。在地性の強い中世社会では、土地売買によって土地の権利が買主に完全に移転することは稀であり、売主は売却後も土地に対して本主<ホンシュ>(本来の持主)の権限を維持していた。中世の土地売買には、年紀売など期限付売却や元金を返せば取り戻せる本銭返<ホンセンガエ>しなど条件付売却の場合が多いように、売主には本主として優先的に受け戻す権利があった。また名主得分(加地子<カジシ>)などの中間得分の売却では、買主には得分のみを負担して、売主がそのまま下地を支配する事例も多かった。売主が闕所となった場合には、そうした本主権も没収の対象とされたのである。
(『新修名古屋市史第二巻』)

 売主が欠所(財産没収)処分を受けた場合、その欠所対象者の財産だけでなく、彼が売却した財産(買主の所有物)にもその没収が及ぶというのは、現代の我々からすれば理不尽で異様なことに思える。そこで『新修名古屋市史』は、この理不尽さと異様さがどのような背景に基づくのかを、ここで説明しているわけである。同書によれば、売却地の本主権が売主のもとに残っており、この「本主権も没収の対象とされた」ため、「買得地は売主の闕所分に含めて没収される」ことになるのだとされる。この構図を図示すれば、図1のようになるであろう。

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 Cが買得した財産の本主権が、欠所処分決定者であるAによって没収されるのであるが、図1に示したようにこの本主権に対してCが保有しているのは「知行権」であると規定できる。そしてこの知行権買得に際しては、「年紀売など期限付売却や元金を返せば取り戻せる本銭返しなど条件付売却」であったとされている。つまりこの「条件付」というところに本主権の残存を認めているのであり、そこでは条件が満たされれば本主の元に財産が戻されるという、今日でも理解可能な解釈が示されているのである。しかしながら、この条件付売却を本主権残存の根拠のように説明しておきながら、その本主権が没収されると「買得地は売主の闕所分に含めて没収される」と述べているところで、また理解不能となる。没収されたのはBの本主権であるが、この本主権をもって知行権を取り戻すためには、設定された期限が満了したとか、元金を本主権所有者が買主に返したとかの条件が満たされる必要があったはずである。しかし、Bの本主権がAによって没収されたこと自体では、何らこの返還条件を満たしたことにはならない。つまり『新修名古屋市史』は、当時の本主権優先をもちだしはしたが、それによって売却した知行権が没収される根拠を示せてはいないのである。
 このように、購入した財産が「売主の闕所分に含めて没収される」という不条理は、本主権の優先をもちだしても現代の我々を納得させるに至らない。だからといって、所有観念が未成熟だとか時代の特異性だとかでかたづけるのは、この時代を知ることを放棄するに等しいことである。おそらくは、この時代をとらえる無自覚な諸前提が、この欠所の実態から我々を遠ざけてしまっているのであり、それがために理解が及ばなくなっているのであろう。したがって、この欠所の不条理を解消するためには、そこに設定されてしまっている無自覚な前提を眼前に引き出す必要がある。そこでここからは図1に表されていない前提を探り、それを図中に加えた新たな構図でこの欠所というものを考えてみることにしよう。

 図1の構図をA文書に当てはめてみると、「永代買得の田畠・屋敷・野浜」が財産で、「売主」が[B]、そしてこの文書の宛人が[C]ということになる。そして残る欠所処分決定者としての[A]であるが、これが誰であるかには二通りの解釈が成り立つ。一つはA文書には全く登場しない誰かであるという解釈で、もう一つは文書を発給した信長本人であるというものである。表1中のC・E・H・Mの文書は、欠所処分決定者が信長であることが明らかであるが、それ以外は信長であるとも、あるいは信長以外の誰かであるとも受取れる内容となっている。そこでまずは、欠所処分決定者が信長以外の人物であると仮定して、この構図について考えてみることにしよう。
 当然のことであるが、欠所処分にはその処分の決定者と処分対象者が存在する。そして欠所が財産没収であるならば、処分対象者にとってそれは大きな不利益であり、従いたくはない決定である。しかし表1に示した文書では、どれもが欠所として貫徹されるべき処分であることが前提とされている。つまり欠所処分は強制力をともなっているのであるが、処分対象者に対して処分決定者がそのような不利益を強いることが可能なのはなぜなのだろうか。今日であれば国家権力が法的根拠に基づいて強制力を発動するが、天文・永禄の尾張において同様の権力は存在しない。だからといって暴力が強制力だというのでもない。処分対象者は暴力によって財産を「奪取」されるのではなく、秩序の中で「没収」されるのである。この場合の強制力とは、共に秩序を形成している者どうしの相互了解であり、その了解が通らない不測の事態に暴力が使われるのである。
 この時代において社会に秩序をもたらしているもの、それは主従関係である。したがって処分決定者と処分対象者の間には、主従関係が存在していることが前提されなければならない。[B]が[A]の処分に従うのは、[A]が[B]の主だからである。このところの事情を、表1のC文書で確認してみようと思うが、これは前回の山口左馬助殺害の謎を解くのに重要なポイントとなった文書であった。

星崎根上の内今度鳴海え同心の者共跡職、悉く闕所たるの上は、堅く糾明を遂ぐべきもの也

 この「星崎根上の内今度鳴海え同心の者共」とは、鳴海の山口左馬助に同調して織田弾正忠家との主従関係を解消して、今川家との主従関係に鞍替えした者たちのことである。そしてそのことによって示されているのは、従うべき権力(強制力)を当事者が自身の意思によって選び取っていたということである。そこでの強制力は、その強制力を従う側が認めることで成立しており、それが認めがたければ主従関係を他に移すことが可能であった。このことは、選択の余地なくその元に組み込まれている国家権力が厳然と存在している現代社会とは、まったく異質の社会の成り立ちと考えねばならないだろう。このような社会の有り様を、第十四回では「アナーキー」と規定した。
 さてこのC文書には、「悉く闕所たるの上は、堅く糾明を遂ぐべきもの也」と、織田弾正忠家を離れて今川被官となった星崎・根上の領主たちに対する処断が示されている。しかしながら、これを信長が今川被官を処断したと受取ることはできない。なぜならば、「悉く闕所」とするとか「堅く糾明」するといった処断は、自己の強制力の及ぶ範囲でのみ意味をもつ行為だからである。したがってこうした信長の命令書が出された以上は、この弘治元年の時点で星崎・根上の領主たちが今川被官であるはずがなく、彼らは再び信長の被官として帰参していたと考えねばならない。このことは、星崎・根上にほど近い笠寺砦に籠っていた駿河衆に、「その方らの領地は没収処分とする」と信長が命令することなどありえないことを思えば明らかであろう。
 弘治元年の時点で、星崎・根上の領主たちが信長に帰参していたというのは前回の談義の骨子であったが、このC文書をもって彼らの領地が信長に没収されたと述べた点は、ここで一度撤回しなければならない。「悉く闕所」を悉く没収と解釈したのは『新修名古屋市史』であったが、信長への帰参とその領地没収とは両立しがたいものである。前回の談義で述べたように、今川被官である立場を信長被官に転向するには、大きなペナルティを覚悟しなければならない。それは当然に今川方からも科されるし、再転向・帰参であるがために信長側からも「悉く闕所」という処分が示されていた。前回談義では、そうしたペナルティと鳴海・笠寺の駿河衆駐留経費負担が天秤にかけられて、星崎・根上の領主たちはペナルティ覚悟で今川と縁を切って信長を頼ったと考えたのであった。しかしながら、「悉く闕所」が悉く領地没収という意味であったならば、彼らは領主として立ち行くことができない。それは単なるペナルティを越えており、星崎・根上の領主たちの存在が否定されるも同然の厳罰である。したがって彼らが今川を離れて信長に帰参したことと、その彼らの領地が悉く没収されることは、実際には両立しないはずなのである。
 信長と今川は、これより5年後に桶狭間にて浮沈をかけた激突をする。そのことから信長と今川は終始敵対して、互いに敵方の領地を奪ったり奪われたりを繰り返していたと思われがちである。その思い込みからすれば、星崎・根上の今川方が戦いに敗れて一掃されたところで、「悉く闕所たるの上は、堅く糾明を遂ぐ」となったと結論するかもしれない。しかし史実を丹念にみれば、そうした記録があるわけでなく、信長と今川の双方に戦いの必然性があったわけでもない。むしろ信長には尾張国内の守護代や同族、そして道三失墜の後は美濃との間で激しい抗争が繰り広げられていたし、今川もまた西三河の統治に手こずっていたのである。したがって星崎・根上の領主たちは、両者の冷戦的均衡の中で、今川か信長かを選ぶことができたのであろうと考えられる。
 信長が領地没収処分を決定したのであれば、星崎・根上の領主たちは信長の被官でなければならない。しかし領地が没収されるのに、彼らが今川から信長へ鞍替えしたとは到底思えない。ここに解釈のジレンマが現れているのであるが、星崎・根上の領主たちが信長から処分を受けることになったというのは確実である。そしてこのジレンマは、彼らが処分を受けることによってではなく、その処分の内容を領地没収と解釈することによって生じているのである。「欠所」が没収を意味するというのは妥当な理解であるのかどうか、ここで踏み込んで考えてみることにしよう。
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 欠所処分を科すことが可能となる前提として、そこに主従関係が存在しなければならないのであるが、先の図1にこの主従関係を組み入れたものが図2である。[A]が[B]を欠所処分としていることで、この両者は主従の間柄と認められるが、信長が[C]を保護しようとする間にも主従関係が存在する。そして、[A]が[C]の買得地を没収することを信長が制限しているが、この制限という強制力発動の背景にも主従関係が存在しているはずである。このことからすれば、信長と[A]もまた主従の間柄であることになる。そしてこの文書の発給者である信長の関心は、[A]が[B]を欠所処分としたことや、信長が[C]に免許を与えていることではなく、[A]が[C]の買得地を没収することを防止することにある。そしてそれが可能であるためには、[信長]-[A]が主従関係でなければならない。しかしながら、[C]からの買得地没収をやめさせたい[A]が、いつでも信長の被官であるとは限らないのである。
 表1における買得地保護に関わる文書では、[A]について直接記すことはなく、「異儀ある」「異見ある」「別儀ある」「相違ある」者、あるいは「違乱の族」として示されるのみである。したがって、その[A]が信長の被官であると前提されているわけではなく、それが誰であっても[C]からの没収を禁止していることになる。そうなると誰であっても、その人物が望むあるいは当然の権利と信じている没収を、信長が禁止する強制力がどこから生じているのかが問題となる。そしてここでも現れてくるジレンマは、「欠所」という用語の意味を没収と受け取ることに始まっているのである。

 さてここまでは、欠所処分決定者が信長以外の別人であることを前提として考察してきた。この前提であると、欠所処分決定者は必ず信長の被官でなければならないことになるが、各文書がそれを前提としているわけではない。したがって、ここでもまた「欠所」を没収の意味で受け取ることの問題がみてとれるわけである。一方で、欠所処分決定者を信長であるとした場合、自身の没収行為の適用除外を表明していることになり、信長以外の別人としたような問題は発生しない。しかしながら今度は、信長以外の別人による売主欠所に連座する買得地没収に対して、宛人は何も保護されないことになり、信長による宛人保護の範囲が著しく狭く限定されてしまうことになる。宛人の財産を主として保護するという目的からすれば、信長自身であろうと誰か別人であろうと、宛人買得地は没収されてはならないはずであり、そのことからすればこれら文書における欠所決定者は、信長以外の別人も含むと考えるべきであろう。
 ここまで考察してきた、売主欠所に連座する買得地没収からの保護以外に、信長が欠所を申し付けた際の宛人保護に関する文書がいくつか存在する。H文書は、信長が欠所処分決定者である際立った事例であるが、ここには欠所という用語の意味を探るうえで注目したい内容が含まれている。そこでこのH文書を詳しく検討してみようと思うが、まずは『織田信長文書の研究』から読み下し全文を以下に示しておこう。

今度国中欠所の儀申付くといえども、代々の免許あるの上は、別儀あるべからず、向後<キョウゴ>に於て、買徳[得]の田地等、たとい何たる下地たりと雖も、異儀[議]あるべからず、然らば前々売買の儀につきて出し置く判形の儀、末代に於て聊<イササ>かも相違あるべからず、次にその方門外え出入の俵物質の儀、国中の札を召し上げ候と雖も、質物の事に候間、往反あるべし、并に新儀の諸役あるべからず候、自然此の如き免許の類を破棄せしめ申しつくと雖も、数通の判形を出し置く上は、何様の儀に於ても、此の旨を以って罷り上り、理<コトワ>り申すべきもの也、仍って状件の如し

 この文書には5つの命令が含まれているが、それを箇条書きに整理すると以下のようになる。

① 今度国中欠所の儀申付くといえども、代々の免許あるの上は、別儀あるべからず
② 向後に於て、買得の田地等、たとい何たる下地たりと雖も、異議あるべからず、然らば前々売買の儀につきて出し置く判形の儀、末代に於て聊かも相違あるべからず
③ その方門外え出入の俵物質の儀、国中の札を召し上げ候と雖も、質物の事に候間、往反あるべし
④ 新儀の諸役あるべからず
⑤ 此の如き免許の類を破棄せしめ申しつくと雖も、数通の判形を出し置く上は、何様の儀に於ても、此の旨を以って罷り上り、理り申すべきもの也

 まず最初の①の解釈であるが、これについて『新修名古屋市史』は次のように述べている。

 尾張をほぼ統一し美濃進出のため小牧に本拠を移した永禄六年、信長は「国中欠所」を申し付けている。それまでの闕所地の宛行を総点検して、改めて尾張の統一者信長との知行関係の再確認を図ったものといえよう。

 同書はH文書における意図を、「尾張の統一者信長との知行関係の再確認を図った」ものとしているのだから、「国中」の文言を尾張国全体という意味で理解していることになる。そして同書は「欠所」を領地没収のことだとするのであるから、「国中欠所の儀申付く」は、尾張国中の知行地を没収するという意味になるはずである。しかしながら同書はそうは言わず、「それまでの闕所地の宛行を総点検」し、「知行関係の再確認を図った」のだと説明する。このようにH文書の「欠所の儀申付く」が、他の文書同様に領地没収を命じるではなく、ここではなぜ「総点検」や「再構築」になるのだろうか。それは尾張の領地をすべて没収するなど、誰がみても成り立たないような解釈だからである。そこで、もっとそれらしい「総点検」や「再確認」をもちだし、「欠所」は過去の欠所処分地という意味にすりかえてしまっている。しかし「欠所の儀申付」けるのは、「今度」であり過去ではない。普通に素直に受けとめれば、「尾張の領地すべてを没収することを命じた」以外にないはずであるが、それは実際にはありえないことなので、同書は解釈を偏向してしまっているのである。
 次に②は、買得地の保護を表明したものであり、先に検討した文書と同様の性格の内容であると考えられる。しかし①で「国中欠所」を命じ、宛人をそこから除外する言明があるにもかかわらず、②のような買得地に限定した保護を言い添える必要があるのだろうか。そして③に再び「国中」が登場し、「札を召し上げ」たと書いてある。これについて『織田信長文書の研究』は、「その方の家に出入する俵物(米穀)質は、国中に於てその許可証を取りあげても(米穀の移出入を停止する。米留-こめどめ)質物であるから出し入れしてよい」と、その文意の解釈を示している。ここで同書はこれを「米留」だとしているが、「札」つまり免許を召し上げたのだから、一時的な俵留めであるよりは「国中」の免許が無効になったと考えるべきではないだろうか。また⑤において、「此の如き免許の類を破棄せしめ申しつく」とある「此の如き」とは、③を指しているのだろうから、この点からしても部分的一時的な免許無効ではないと考えられる。
 H文書に登場する①は欠所除外、②は買得地保護、③は俵物扱いの免許、そして④は新儀諸役の免除と、いずれも宛人保護の具体的内容が示されている。しかしながらこの文書最後の⑤は、信長の判形(免許)の優越性を示しているだけであり、①~④のような具体的保護内容を記したものとはなっていない。このことからすれば、このH文書の構成は①~④で宛人権益の保護内容を示し、それらの締め括りとして⑤で①~④に共通する原則を示して終わらせているものであると考えられる。この⑤は「自然此の如き免許の類を」で始まるが、これが①~④にかかるものであるとすると、①の「今度国中欠所の儀申付くといえども」は、「免許の類を破棄せしめ申しつくと雖も」と等価であることになる。そうなると知行が免許に相当し、「欠所の儀」が「破棄せしめ」に対応していることになる。こうしてこの①と⑤の文章変換が妥当であるならば、「欠所」は「破棄」を意味することになる。さてそうなると、これまで「欠所」が意味するところとされてきた「没収」と、ここで新たにその意味として取り出された「破棄」とは、何が違うのかということになる。

つづく
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by mizuno_clan | 2011-07-03 17:23 | ☆談義(自由討論)

【談義1】水野氏と戦国談義(第三十三回)

つづき

 信長の尾張在国時代の最後の年に発給されたM文書は、信長が命じた欠所処分によって宛人の知行を保護しようという、他とは違った構造をもったものである。この文書については、『新修名古屋市史』が次のような解説を加えている。

 永禄九年(一五六六)葉栗郡島村(一宮市)の兼松又四郎正吉<マサヨシ>には、「兼松弥四郎名田并<ミョウデンナラビ>びに諸買徳」が「誰々如何様<イカヨウ>の判形を帯<タイ>すといへども欠所として申し付く」として宛行われている。兼松弥四郎は天文二〇年に熱田社へ太刀を奉納しており、その銘文によれば実名を秀吉<ヒデヨシ>といい「葉栗郡島住人」としている。兼松正吉への宛行は、前年に犬山織田氏を滅ぼした直後であり、犬山方に属した同族の秀吉の闕(欠)所地が与えられたものであろう。また元亀元年(一五七〇)祖父江秀重には、「闕所方」として祖父江豊後分四〇貫文・櫛田<クシダ>分五〇貫文が宛行われているが、「先判免状有るといへども破棄せしむ」とされている。以上の二例は、同族の所領を闕所として引き継いだため、その後の血縁間の争いを断つために敢えてこうした注記を必要としたと考えられるが、このように闕所とは、その所領について過去に出された判形(先判)による保証など、旧来の権利関係を一切破棄して没収することを意味している。
(『新修名古屋市史第二巻』)

 ここで同書は、「闕所とは、その所領について過去に出された判形(先判)による保証など、旧来の権利関係を一切破棄して没収することを意味している」と、改めて「欠所」あるいは「闕所」の意味を規定している。そしてこの一文の構造は、①「旧来の権利関係を一切破棄」することと、②「没収すること」の2項が「~して」という言葉で結合されており、②の前提として①が存在するという表され方をしている。しかしながら「没収」という言葉の概念は、対象物の所有権と人との関係を切断し、その後に切断主体にその権利を帰属させるという内容をもつ。したがって没収という概念には、「旧来の権利関係を一切破棄」することが包含されているのである。
 ここでの「欠所」定義は、②「没収すること」を示しながら、その②に包含されている①「旧来の権利関係を一切破棄」をわざわざもちだし、しかもその前に配置されている「その所領について過去に出された判形(先判)による保証など」という箇所は、まるまる①の補足事項である。こうしたことからすれば、同書の「欠所」定義は、その意味合いを②「没収すること」とする以上に、①「旧来の権利関係を一切破棄」するに重点を置いているように思える。本来であれば、「所領を没収することを意味している」で十分であるはずなのであるが、この定義で「旧来の権利関係を一切破棄」することを強調しなければならなかった理由は何なのであろうか。
 『新修名古屋市史』のM文書解釈では、弥四郎の名田と買得地を信長が没収した後に、それを叉四郎に宛行ったものとしている。そしてこの一連の処置の手順は、以下の3ステップに分解することができる。

a:既存の所有権の破棄
b:信長の所有
c:信長から又四郎への所有権移動

 そして信長のこれら処置に対して、「誰々如何様の判形を帯す」といって抗議する者が出現するのであるが、このことは第一段階の既存の所有権の破棄が不十分であるということを示している。つまり抗議する者は、弥四郎名田と買得地に関する一切の権利が破棄されたとは考えず、「誰々如何様の判形」が有効だと思っているのである。しかしここで奇妙に思えるのは、上記の「b:信長の所有」という過程が存在するのに、その前提となる既存の所有権破棄がまっとうできていないことである。信長の所有物となった弥四郎名田と買得地であるのに、信長以外の誰かの判形を持ち出して不服を言うなどということが、本当にありえるのだろうか。そしてそれはまだしも、このM文書ではそのことを当の信長自身が想定しているというのは、何ともおかしな話である。例えば、ある者が織田伊勢守の判形を持ち出して、「その名田は私の所有物にございます」と没収に抗議したとしよう。織田伊勢守は永禄2年に信長が滅ぼした守護代であるが、その敵対者の判形をもって信長の裁定に抗議するなどということは、まず考えられない。しかも信長がそんなこともあるだろうと想定するということは、巷では織田伊勢守の権威が信長を上回っていると思われているということを、信長自身が認めていることになるのである。
 M文書の解釈を受けて、『新修名古屋市史』が「欠所」の意味のポイントとして、「旧来の権利関係を一切破棄」するという点を取り出したことは、実のところ重要である。これはH文書で信長が、「免許の類を破棄せしめ申しつく」と述べていたことにも現れていたが、要は「a:既存の所有権の破棄」を「b:信長の所有」とするための単なる前提、手段、あるいは経過点だとして済ませないことである。M文書発給の意義は、まさにこの「旧来の権利関係を一切破棄」することが不完全であることの補完にこそある。なぜならば、弥四郎名田や買得地に対する既存の権益の切断が十分であれば、弥四郎知行に「相違」など起こらないはずだからである。

 ここまでの考察で、「欠所」という用語のもつ意味合いは、領地没収というよりはその領地に関わる既存の権益すべてを破棄させることに、重点があるようだということがわかってきた。それでは「欠所として申し」つけたにもかかわらず、なぜ既存の権益がきちんと切断できないのであろうか。この問題を探るために、あらためてM文書の構造を整理すると以下のようになる。

① 信長が弥四郎名田と買得地に欠所処分を命じた。
② 欠所処分を命じても、第三者の判形をもちだして抗議する者が現れることが予想される。
③ ②のような抗議は、欠所処分なのだから又四郎知行に相違はない。

 ①で命じた欠所処分であるが、②においてはその効力が不十分であろうことが想定されている。しかしながら③では、その欠所処分を根拠として又四郎知行が保護されるとしているのである。これは念を押したに過ぎないとも思われるが、問題は「欠所として申し付くるの上は、相違なく知行すべきもの也」という文言である。本来であれば、「信長が宛行ったのだから間違いなく知行せよ」と、ここはなるべきではないだろうか。つまり又四郎に関わっているのは、「c:信長から又四郎への所有権移動」であって、その前段の既存の権益破棄と信長の所有、つまり没収それ自体が彼に結びついているのではない。それなのに、なぜ「欠所として申し付くるの上は」なのであろうか。
 ここで「欠所」の意味を、「a:既存の所有権の破棄」に限定してみよう。そうすると信長の所有はなく、したがって宛行いもなくなる。あるのは該当名田と買得地の権利が、弥四郎から分離されたという事態だけである。しかしこれであると、これら所有権が宙に浮いた状態で止まってしまうことになり、弥四郎知行が実現しない。そこで信長が「a:既存の所有権の破棄」を命じたのではなく、彼がそれまで弥四郎知行を認めていたこと、それ自体をやめたと考えてみよう。つまり所有権といったものを一旦脇において、弥四郎知行の根拠はその知行地にたいする所有権ではなく、信長の知行認定であったと考えるのである。そしてこの信長の知行認定によって、弥四郎は周囲の介入を気にすることなく、安心して彼の名田と買得地を知行できていたとするのである。
 この前提でM文書を見直せば、信長の知行認定が停止したのだから、「誰々如何様の判形を滞す」といって介入してくる者が現れてくることに不思議はなくなる。そして又四郎の知行についても、信長が行ったのは又四郎当知行という既成事実を認定しただけということになるが、それでは又四郎はどのように弥四郎名田と買得地を当知行することになったのであろうか。
 『新修名古屋市史』はこの文書の解説に、「同族の所領を闕所として引き継いだため、その後の血縁間の争いを断つために敢えてこうした注記を必要とした」と述べていた。ここに「闕所として引き継いだため」とあるが、これではまるで財産相続のようであり、それだから「その後の血縁間の争い」が懸念されねばならなかったと言っているかのようである。同書が「同族の所領を」「引き継いだ」とか、「その後の血縁間の争い」とかを何によって導き出したのかは分からないが、まさにM文書の核心はそこにこそある。信長によって弥四郎の知行認定が解除されたことで、兼松一族内部で相続の話し合いが持たれ、一族は又四郎に知行させることを決定したのではないだろうか。そして信長がそれを受けて又四郎知行を認定したことで、この一件は落着となったように思われる。
 このような理解においては、「欠所」の意味は「旧来の権利関係を一切破棄」することでもなく、信長の私的認定をとりやめることに他ならない。したがって、このM文書の解釈は、「弥四郎の名田と買得地については、信長の認定は解除されたのだから、これらについて様々な言い分もでてくるであろうが、その方ら一族で決めたように相違なく知行せよ」ということになる。ただし冒頭に「扶持として」とあるので、又四郎の知行認定を信長は事後承認ながら、「扶持」であると認識していたと考えられる。信長が「認める」ということは、他所からの介入が一切なくなるわけで、そのことは恩顧だということなのだろう。

 H文書およびM文書の考察で、「欠所」とは領地没収のことではなく、主従関係にある者どうしの間における、知行認定の解除であることが判明した。この理解で買得地に関わる欠所の意味を見直すと、それは売主欠所による連座的な買得地没収ではなく、売った側の売地に対する認定消滅が、売買そのものの消滅に波及するものであるとして理解できるようになる。先にあげた解釈のジレンマでは、財産没収という強権的な所有権獲得の発動が、買主の権益を脅かす唯一の存在として、その発動者を映し出してしまうことによって起こってくる。そしてその発動者の行為を抑止する存在として信長が位置づけられ、それならば発動者は信長の被官でなければならないという結論に導かれてしまうのである。しかしながら、欠所が知行認定の解除であるならば、そのことによって売主の知行売却そのものが支えを失い、売却物に対して諸人からの諸々の主張や行動が発生する。つまり欠所処分が、潜在的に抑止されていた異見や相違を再浮上させてしまうのであり、それを主張するのは欠所処分者ではない。そして信長の文書に示されていたのも、信長による新たな売買の認定によって、諸人の異見から宛人買得地を保護しようというものであったわけである。
 そこに間違いなく売買があったという事実は、何かによって支えらなくてはならない。そしてそれを支えるのが売買証文であるとするならば、その証文を証文として成り立たせる権力が必要である。信長は「誰々如何様の判形を帯すといへども」その効力は認めないと明言していたが、このことは証文や判形そのものが事実の証とはならないことを示している。したがって信長の認定こそが、宛人の買得事実を成り立たせる根拠となっているのである。また「今度国中欠所の儀申付く」とは、尾張国中の所領を没収するという意味ではなく、信長に従っている国中の知行地に関する従来の認定は、全て無効であることを宣言したものである。この従来の認定とは、「誰々如何様の判形」や売買証文などを指しており、結局のところ、信長の免許や判形による認定だけが知行における唯一の根拠であることを示したものだったのである。


 弘治元年、星崎・根上の領主たちは、鳴海の山口左馬助が引き込んだ駿河衆の駐屯費用負担から逃れるため、今川義元との主従関係を断ち切った。そしてこのことによって彼らは、所領知行を認定し保護する後ろ盾を失ったのであるが、C文書はこの状態のことを「跡職」と呼ぶ。そして星崎・根上の領主たちは、所領知行の認定と保護を求めて信長の元へ帰参することになったのである。
 信長は彼らの帰参を受け入れたが、彼らの所領については「悉く欠所」、つまり一旦彼らの知行認定を棚上げして、「堅く糾明を遂ぐべき」ことを命じたのであった。つまり離反と帰参の実態を詳しく調べた上で、帰参者への知行認定を行う方針を明らかにしたのである。そしてこの糾明の間、星崎・根上の領主たちは、信長の認定がないままにこれまで通り所領を知行していたのである。そしておそらくは、この糾明の後には、彼らの所領は当知行に任せて「相違なく知行申しつくべきもの也」となったことであろう。
 今回の談義では、信長文書に度々現れる「欠所」という用語の意味について詳しく考察してみた。その結果、「欠所」は没収という意味ではなく、主による被官知行認定の解除であるとみるべきことがわかった。しかしこのことは、「欠所」という当時の用語の意味が正しくはどうであるかが判明した、ということに終わるものではない。そこには、現代の我々が捉え損なってしまうような何かがあるのであり、その何かの探求は、当時と現代における社会システムの差異に迫るものとなるであろう。次回以降は、「欠所」を没収と取り違えてしまう何かについて、そしてそれを梃子にして戦国の社会システムについて考察していこうと思う。
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by mizuno_clan | 2011-07-03 17:22 | ☆談義(自由討論)