【推薦図書7】『続 加藤清正「妻子」の研究』 の書評

◆「熊本日々新聞」の書評に『続加藤清正 妻子の研究』の書評が掲載されました。

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by mizuno_clan | 2012-02-26 15:59 | News

本会独自のスキン(レイアウト)について

 先般、スキン(レイアウト)の新作が提供され変更しましたが、このスキンを委員の合作によりカスタマイズし、トップデザインを水野氏史研究会独自のデザインに改めました。

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 本会設立4周年(3月3日)を直前にして、ようやく念願でありました「独自デザインのブログ」となりました。このデザインの趣意は、背景の黒板が「個別ページ」をイメージし、そのページ上に、左から順に、図1は「談義」、折れ線グラフは「アクセス解析」、分限帳は「水野氏名簿」、梵鐘は「水野太郎左衛門家」および「講演会」、オモダカの群生写真およびオモダカ家紋は「源氏・平氏系水野氏系統」、永楽銭家紋は「新宮水野家系統」をイメージしています。
                                                                   研究会事務局
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by mizuno_clan | 2012-02-21 05:55 | Information

【Contents――談義(自由討論)】

【談義1】水野氏と戦国談義   Update 2013-01-01


第一回 戦国時代の権力モデル

第二回 戦国期社会・権力モデルの転換

第三回 「リゾーム」型権力モデルで竹千代強奪事件を紐解く

第四回 戦国大名はなぜ戦い続けたのか

第五回 所領とは何か

第六回 名も無き戦国の牙城

第七回 怨は忠義に勝れり

第八回 三河武士は忠義に薄く

第九回 竿と錘の戦国力学

番外編:尾張・三河戦国マップ作成プロジェクト

第十回 当知行・当事案(1)

第十一回 当知行・当事案(2)-買得地拡がりの背景-

第十二回 当知行・当事案(3)-中世荘園制における所有の観念-

第十三回 当知行・当事案(4)-共生としての「当」-

第十四回 中世アナーキーのパラドックス

第十五回 人と地、そして質

第十六回 貸借と売買(インセスト・タブーと永代売)

第十七回 中世貸借と資本主義

第十八回 神仏と物神が媒介する市観念

第十九回 袖触れ合うも“多少”の縁

第二十回 『信長公記』首巻の中の奇談 「蛇がへの事」

第二十一回 闘う者たち(1) -地侍知行制の限界-

第二十二回 闘う者たち(2) -戦士の登場-

第二十三回 戦国組織論(1)

第二十四回 戦国組織論(2) -度合と統一基準-

第二十五回 戦国組織論(3) -交換と代替わり-

第二十六回 戦国組織論(4) -家とは何か①-

第二十七回 占有と所有

第二十八回 所有の意味を探る① -年貢請負と進止権-

第二十九回 所有の意味を探る② -融通と土地売買-

第三十回 国人小河水野氏の困惑① -苅谷赦免-

第三十一回 国人小河水野氏の困惑② -水野金吾構へ-

第三十二回 国人小河水野氏の困惑③ -山口左馬助生害-

第三十三回 アナーキーと主従関係① -欠所の意味を探る-

第三十四回 アナーキーと主従関係② -没収の意味を探る-

第三十五回 歴史と過去① -歴史学は経験科学かⅠ-

第三十六回 歴史と過去② -歴史学は経験科学かⅡ-

第三十七回 歴史と過去③ -過去観察と歴史-

第三十八回 歴史と過去④ -出来事実在論-

第三十九回 過去と歴史⑤ -事実と解釈-

第四十回 過去と歴史⑥ -歴史と言語Ⅰ-

第四十一回 過去と歴史⑦ -歴史と言語Ⅱ:読解と批判-

第四十二回 温故知新

●談義とは、言うまでもなく「自由に考えを述べ合い議論すること」つまり「堅苦しくなくざっくばらんに
 複数の人達が談じること」ですから、本会員はもちろん、本ブログをご見読いただいております多く
 のゲストの皆さんにも談義に加わり、活発な論議を交わしていただきたく、よろしくお願い致します。
●談義をこのまま画面で見読したり、横書でプリントアウトするのが通例ですが、さらに熟読玩味する
 には、文書スタイルを「縦書、袋とじ、 1ページ 字数46、行数18行」などに設定し、縦書きでプリ
 ントアウトすれば、より理解しやすく、また読みやすくなるかと思われますので、皆様もぜひお試し
 下さい。
●談義および研究論文・研究ノートなどへの「コメント・トラックバック・寄稿による論評」などについて
 は、最新の投稿記事に対しては勿論のこと、本ブログに掲載されている全ての投稿記事に対して
 の時間的制限はありませんので、何時の時点でもお気軽にコメントなどお寄せ下さるようお願い
 いたします。
                                                研究会事務局


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by mizuno_clan | 2012-02-19 23:08 | ☆談義(自由討論)

【談議1】水野氏と戦国談議(第三十六回)

歴史と過去②-歴史学は経験科学かⅡ-

談議:江畑英郷

 歴史学を経験科学として位置づけようとする動機は、歴史学が客観的な学問であり、そこにおいて社会的有用性があると主張することに発しているように思う。この動機そのものは当然のものであり、自らが客観的な、ということは自分本位ではなく架空のものでもない、ということを自覚しそれを表明することは、学問として不可欠な行為ですらある。しかしながら、客観的な学問であることがそのまま経験科学である、ということに帰着するわけではない。数学や論理学、そして哲学などは経験科学ではないが、客観的な学問であることを疑われることはないだろう。哲学については世間の見方がちょっと心配にはなるが、立派な客観的学問である。そして物理学や生物学、そして経済学などの社会科学もまた経験科学なのであるが、歴史学はどうしてその仲間入りを果たしたいのであろうか。
 今回、歴史学は経験科学なのだという見解を考えるにあたって、「経験に基づいている」と「科学である」という二つに分割して論を進めることにしよう。歴史学の場合は、このことを分けて考えることがことに重要になるのだが、それはこの学問が過去の出来事を対象とするという特異性に基づく。つまりすぐに気がつくことだが、過去の出来事は経験できないものであるのに、それを対象とする学問が「経験に基づいている」とはまずは奇妙なことに感じられるからである。このことは、この歴史学においては、経験というものが特異な位置づけになるということを意味することになる。

 それではまず、歴史学は「経験に基づいている」を検討してみよう。遅塚氏が『史学概論』を執筆したのは、前回みたように「主観的解釈から独立した客観的事実の実在を認めること」にあるのだが、そのことはもちろん歴史学の客観性を基礎づける意図によって導かれている。そして『史学概論』を通覧して言えることは、この客観的という概念に関連して、「経験」、「事実」、「実在」という概念がその主張の核心において何度も語られるということである。これら概念は、歴史学は経験科学なのだという主張において必ず使用され強調されるのであるが、その意味が規定されるということはなく、自明の概念として使用するにとどまっている。それら概念が使用される、代表的な該当箇所を以下に示す。

 前項で私は、論理整合性と事実立脚性とが、歴史学の前提とする約束事だと言った。そのとき、私には、それに先立つ暗黙の大前提があったのだ。それは、歴史学が科学だということである。そのことは、第一の約束ごとを記すにあたって、「歴史学が学問であり科学であるからには」、と述べ始めたこと、および、第二の約束ごとを説明する際に、歴史学が「経験科学」に属すると述べたことからも、容易に察知されたであろう。つまり、私は、いわば大前提として、歴史学を、宗教(信仰)やイデオロギー(世界観)や芸術(文学など)から明確に区別された、客観的な科学の一つであると考えている。そして、歴史学が客観的な科学であるための必要条件として、さきの二つの約束ごとを挙げたのである。

 歴史学が、経験によって知られた事実(文書や記録を呼んだり、遺物を調べたり、関係者から聞き取りをしたりして得られた事実)に基づく学問だ、ということ、つまり「事実立脚性」ということである。

 われわれは、研究対象としての事実を、直接に見ているのではなく、過去の残した痕跡(遺物や文書)を通して間接的に見ているだけである。この痕跡は、ふつう史料と呼ばれている。したがって、われわれは、史料を通して事実を知るのである。

 まず、史料の解釈という作業は、媒体たる史料の背後に客体たる事実が実在することを前提にしている。この前提はいわばアプリオリな前提であるが、史料に「痕跡」が記されているのなら、その痕跡のもとになる何らかの「事実」が実在すると想定するのは、当然の前提であろう。(その前提が成り立たなければ、「痕跡」は虚偽または無根拠の幽霊になってしまう。史料の記述が虚偽または無根拠である場合には、そのことは史料批判によってほぼ確実に看破されるのであり、そういうウソの史料は史料解釈の対象から排除される)。史料の解釈は、この前提のもとで、諸史料の批判や読解や照合によって、痕跡の背後の事実を認識しようとする行為である。他方で、事実の解釈は、こういう事実の認識を前提として、諸事実の織りなす関連を想定し、そういう関連の中でその事実のもつ意味を検討しようとする行為である。

(『史学概論』遅塚忠躬著、東京大学出版会)

 遅塚氏は歴史学が「客観的な科学の一つである」といい、「歴史学が客観的な科学であるための必要条件として」、「論理整合性と事実立脚性」が保証されなければならないとする。そしてその事実立脚性は、「経験によって知られた事実に基づく」ことであると述べる。しかしながら、「研究対象としての事実を、直接に見ているのではなく、過去の残した痕跡(遺物や文書)を通して間接的に見ているだけである」ということで、この「事実に基づく」は問題を抱える。
 「経験によって知られた」というのは、直接の知覚によって認識されたということであり、「間接的に見ているだけ」というのは知覚していないということである。つまり知覚しているのは目の前にある史料なのであって、史料に書かれていることは「間接的に見ているだけ」なのである。そして問題なのは、この「間接的に見ているだけ」のことに、「事実に基づく」と言わしめてよいのかということである。そして遅塚氏はこの問題を、「媒体たる史料の背後に客体たる事実が実在することを前提にしている」ことで解消してしまうのである。
 遅塚氏は「事実が実在する」と言うのであるが、その実在は何によって確かめられるのであろうか。「史料に“痕跡”が記されているのなら、その痕跡のもとになる何らかの“事実”が実在すると想定するのは、当然の前提」なのであろうか。遅塚氏はこの痕跡-実在という図式で、あっさりと「間接的に見ているだけ」を乗り越えて、「事実に基づく」を前提としてしまう。しかしながら、「実在する」ということは、痕跡という残滓によって時間を越えてくるものなのだろうか。
 経験が科学の基点となりうるのは、そこにYes/Noがないからである。科学において「経験」という場合は、「人生経験」といった言い方で日常使われる用法よりも狭く限定される。科学における「経験」は直接知覚のことであり、この直接知覚には正しかったり間違ったりはない。もちろん人は錯覚をするのであるが、それが錯覚であることを知るのはやはりこの直接知覚においてである。間違いを正すのも、疑いを晴らすのもそれは「実際に見てみればわかる」ということであって、知覚こそは認識における究極の基盤なのである。そしてそうであるからこそ、この知覚を基点とする科学的経験は間違えようのないものであり、そこを源泉とすることで科学的客観性が保証されることになる。そしてこの知覚の対象を、「実在する」と言うのである。「実在する」の原義は、それが直接知覚の対象となっているということにあり、そのことから疑いようもなく厳然と存在するという意味を獲得しているのである。つまり「実在する」という言葉を定義しているのは、知覚体験に他ならないのである。
 知覚できない対象に対して「実在する」というのは、「実在する」という信念の表明に他ならない。「神は実在する」というのは、その意味で信仰心の現われなのであって、科学的な言明とはなりえない。それは「確かに存在するのだということを私は信じる」という意味を超えることはないが、ここで「実在する」は、「確かに存在する」という知覚抜きでの派生的意味として使われている。遅塚氏が言うところの「媒体たる史料の背後に客体たる事実が実在する」も、これと同様な「実在する」の用法である。それでは知覚による実在性の裏づけを欠いているのに、なぜそれは「確かに存在する」なのであろうか。
 遅塚氏は知覚している痕跡があるからには、「その痕跡のもとになる何らかの“事実”が実在する」はずだと主張する。これは例えば、犬の足跡が地面にあるのならば、その跡を残した犬が実在しているはずだ、という自明のことを根拠にしているわけだ。少なくとも遅塚氏はこれが自明のことで、これ以上検討をくわえる必要などないことだと思い込んで、それ以上踏み込むことなく「当然の前提」だと決めつける。しかしこうした点が、前回述べたように物語り論を展開する野家啓一氏に遠く及ばない原因となっている。ことはすでに歴史学のプラクティカルな次元の問題ではなく、哲学的認識論の次元にある。そこではこうした自明性にこそ、敏感にならなくてはならないのである。
 先の例えばの出だしは「犬の足跡が地面にあるのならば」であったが、そこで知覚しているのは「犬の足跡」ではなく、地面にある小さな窪みのはずである。ここでそれを見て「これは犬の足跡だ」と発言した者に、どうしてそれがわかるのだと質問すれば次のような答えが返ってくるだろう。「犬の足跡はこのようにして地面に残るものだ。かつて犬が歩いた跡に残った足跡を見たことがある」と。つまり過去の知覚が確実な知識となって、彼の発言を支えているというわけだ。するとこれまでに知覚体験を持ったことのない対象については、痕跡と認めることができないということになる。このことは指向する対象が認識されていないところには、痕跡は成立しないということを意味する。つまり、何のものだかわからないがこれは痕跡である、という言い方は成立しないのである。
 既知のものに対してしか、痕跡は認められないのである。そこに実在があっても、既知のものでなければ痕跡という通路は開けない。このことは、実在が実在らしく残していった痕跡があるにもかかわらず、その実在を先回りして知覚することなしには、それは痕跡にはならないということを意味する。犬を一度も見たことのない者は、犬の足跡を認識することができないのであり、犬を見るという知覚が、痕跡を残す実在に勝るということである。そして痕跡というものを真に支えているのは、背後にある実在などではなく、知覚体験による知識であるということを示しているのである。
 別の言い方をすれば、痕跡から実在に遡れるのは、目の前の知覚物が何の痕跡であるか知っているからであり、実在への通路を確保しているのは痕跡でも実在でもない。つまり、この通路の先の対象を客観的に認識する前提は既存の知識なのであって、「実在」と呼ばれるものはただ認識が到着するのを待っているだけなのである。したがって「史料の背後」などなく、既知の体系が史料に書かれた事柄に正当な場所を与えているのであって、神話的な「実在」がそれに確実性や客観性を付与するわけではない。
 目の前にある史料は知覚することができ、その紙質や筆使い、あるいは花押の形態などを、その知覚をもって吟味することが可能である。そしてここまでは、確かに経験に基づいた体系的な知識の集積だといえる。しかしこれより先、そこに書かれていることを吟味しようとするとき、知覚は登場の場面がない。したがってここに、「媒体たる史料の背後に客体たる事実が実在する」が必要となり、何ともこれを強引に実在に結びつけることによって、書かれている事柄に客観性を付与しようとするわけである。

 実在と認識の一致が事の真実であり客観性であるという前提から、史料に記載されている事柄に強引に実在をあてがおうとするあまり、「史料の背後」などという怪しげな言い回しをしてまで、歴史学を経験科学としたいという欲望をまずは捨てるべきである。なぜならこの欲望は、誤解と混乱によって扇動されたものだからである。先に述べたように知覚は客観性の源泉であり、その知覚の対象を「実在する」と称するのである。したがって、知覚できないものは実在しないのである。史料は実在するが、史料に書かれている内容は実在しない。しかしながら実在しないから虚構であるとか、誤りであるといったわけではない。数学や論理学の体系は実在しないが虚構であるわけはなく、また誤りであるわけでもない。虚構は確かなものがある前でこそ虚構になり、誤りは正しさの影なのである。それ自体で虚構もなければ、誤りとなるものも存在はしないのである。したがって知覚できず実在しないものにも、その存在の客観性は問うことができるのである。
 さて、ここまで「経験」と「実在」における客観性の問題を考察してきた。次にはこれまでの考察に踏まえて、「事実」という概念を点検してみる番である。実在は知覚体験が定義する概念であるために、知覚できないものは実在しないといった具合に知覚に従属する。しかし「事実」はそうではない。言語の柔軟性は、出来事を実在すると言ったり、知覚事実といった用語を組み立てたり、これこれが実在することは事実であるという言明を許容したりする。しかしながら、物と出来事、実在と事実はその性質が大きく異なるのであり、混同されてよいものではない。知覚に現れる対象は常に実在であって、夢や幻と区別されて間違うことがない。したがってそこには事実の居場所がないのである。事実というものは、これこれであるかないかの可能性が生じる場所に登場する。「雨が降っているのは事実だ」という言い方ができるのは、雨が降っていない可能性も等しく存在するからである。そしてそれを確かめるのは知覚であって、それは知覚が可能性というものをもたないからである。したがって知覚に現れたものは、事実であったりなかったりはしない。この知覚という意味での経験があつかうのは、こうした事情で事実ではないのである。経験科学は、それが事実かどうかなどは究明しないのであって、必ずそうなるという必然性を追求するものなのである。
 必然の中に事実は存在しない。ある必然の結果を事実であるというのであれば、そこにあるのは全てが事実であって、わざわざ事実だと言うまでもないことになる。したがって事実が究明されるのは、経験に現れる物の世界ではなく知覚されることのない出来事の世界ということになる。しかしながら、出来事が知覚されないというのはおかしいのではないか、と思うかもしれない。出来事を目撃する、あるいは出来事の当事者になるといったことが現にある、というのは誰もが認めることである。だがしかし、目撃したことや当事者となったことは本当に出来事なのだろうか。
 出来事とは何であるのか。この問いに向き合うためには、出来事は物語られるものであるという物語り論を検討しなければならない。しかしながらこれは次回以降に先送りして、今回は「歴史学は経験科学か」にひとまずの決着をつけておく必要がある。なぜならば、物語り論は経験科学という思いの縛りがあるところでは、その意味するところを掴みそこなうからである。それでいて物語り論は、「出来事」の本質を鋭く分析するのであるから、ここで援用したいところであるが、今は「事実」という概念の側から問題を解きほぐしておこう。
 世の中の出来事が必然的に引き起こっているとしたならば、事実を究明するということは意味をなさないであろう。どちらの可能性もあって、そのどちらか一方が出来事として成立してこそ、「これこれが事実だ」という表明に意味が出てくる。事実をめぐる審議という意味で、誰もが思い浮かべる刑事裁判の事例でここは事実について考えてみよう。
 被告Aが殺人事件で起訴されており、その裁判においてはその殺人を目撃したBの証言が、この審理の帰趨を決める鍵になっているとする。検察官がBに向かって「あなたは被害者Cの自宅で、被告人Aを見ましたか」と聞く。証人Bはうなずいて「はい」と答える。検察官をそれを確認して、「それでは、被告人はそこで何をしましたか」と問いを向ける。するとBは真剣な表情で、「AがCを殺すのを見ました」と発言した。さてここで、この殺人事件における決定的な証言が得られたということで、後は判決を下すだけという展開になるだろうか。答えはNOである。証人Bの証言内容には虚偽はないし、彼は良識ある人物でもある。そうであっても審議はここからが本番なのである。なぜならば、Bの目撃証言は彼自身はそう思っていても事実ではないからである。
 検察官は、証人Bが「AがCを殺すのを見ました」といった状況を、より具体的に詳細な証言として引き出すよう努める。そしてその具体的証言の裏づけとなるような物証を次々と提示し、事実に近づこうとするだろう。検察官は、証人の解釈ではなく事実を引き出そうとする。「AがCを殺すのを見ました」というのは、出来事の解釈であって事実ではない。それはあの、間違うことのない知覚ではないのである。こうして証人Bの解釈は無視され、彼の記憶の隅々までありのままに取り出す作業が進行するのである。その実直さは、歴史家の研究姿勢もさもあらんと思わせるのであるが、実はどこまでいっても起こった出来事そのものには届かない。具体化と詳細化は求めれば求めるだけその先があり、その中で裏づけが可能なのはごく一部である。しかしながら、刑事裁判には明確は目的がある。それは告訴された被告人が有罪か無罪か、その決断を下すことである。そしてそれは、起こった出来事の解明ではない。その点において刑事裁判は、事実の深みに足をとられることなく機能することができるのある。つまり事実追求を切り上げるためのルールが存在するのであり、それは検察側と弁護側双方の提示するネタが尽きれば審理は終わるというものである。したがって、その審理の進め方がどんなに「実証的」であっても、これをして経験科学であるとは言わないわけである。そして最後に下るのは真実の審判ではなく、人の判断なのだということが了解されているところにある。
 必然とみなされないということは、それが本当に間違いなく確かなことであるかと問われた場合、果てしない深みに落ち込むということを意味している。社会的な機能を果たしているものは、どれも事実をあつかい事実に即そうとするのであるが、一方でその深みからの切り上げ方を心得ている。そして歴史学とてこの点は同じであって、遅塚氏のような思いとは別にそれはどこかで切り上げられているのである。しかしそのことをもって、客観的ではないとか学問ではないとかといった評価をする理由にはならないのである。

 私はさきに我々の認識するすべてのものは過去の事物であるといい、過去の事物は直接我々の感官によっては認識でき得ないと述べたが、これは厳密には正しくないであろう。何となれば、たとい過去ではあっても近い過去(いわゆる現代)に対しては、我々自身の感官によってそれを把えるここが出来るからである。しかし実はこれは単なる論理上の立言にすぎない。具体的に考えればすぐわかるように、たとい現代に起こった事実であっても、我々が過去の直接の感官のみによって知り得ることは我々の身辺のごく僅かの事柄だけである。我々は現代の事物の多くを、他人の談話によりあるいは他人の記述によって認識する。それはやはり史料によって過去の事実を知るのと同じことであって、従って史料批判の方法は現代の事物の認識に対しても当然必要なのである。
(『史学概論(新版)』林健太郎著、有斐閣)

 ここで林氏は「直接の感官のみによって知り得ることは我々の身辺のごく僅かの事柄だけである」と述べ、「事物の多くを、他人の談話によりあるいは他人の記述によって認識する」と指摘している。林氏はここで述べたことをこれ以上掘り下げようとしないが、ここには決定的に重要なことが示されている。それは事実が「論理上の立言」とは別に、実際にはどのように形成されているか、その本質に迫っているのが「他人の談話によりあるいは他人の記述によって認識する」なのである。

 タイムマシンが使えない歴史家が行っているのは、手に入る限りの文書史料や発掘資料を「過去の痕跡」として読み解き、それらを整合的に組み合わせて合理的推論を重ねながら、受容可能な「物語り」をつむぎだすという作業にほかならないからです。
 この「合理的受容可能性」の概念をもう少し具体的に敷衍するならば、その内容は大森荘蔵さんの言葉を借りれば、「現在への接続と他者の証言との一致、そして物的証拠という僅かに許された三種類の手続き」(『時間と存在』)ということになるでしょう。これはもちろん、歴史記述において「物語り」が備えるべき必須の三要件にほかなりません。僕自身はこれを、過去と現在とを時間的連続性の中で矛盾なく接続する「通時的整合性」および過去の出来事がそれと同時代の人々の証言や物的証拠と矛盾しない「共時的整合性」という二本の座標軸として捉え直し、それを境界条件として「物語り」は規制されていると考えています。逆に言えば、この境界条件こそが歴史をフィクションから区別する境界線であり、歴史記述が遵守すべき最低限の「論理」だと言うことができます。

(『歴史を哲学する』野家啓一著 岩波書店)

 「他人の談話によりあるいは他人の記述によって認識」された知識を、野家氏は「歴史叙述のネットワーク」と呼んでいる。そして知覚不可能な過去の出来事が事実がどうかは、この歴史叙述のネットワークに対して整合的に組み入れられるかどうかで決まってくる。時間の向こう側に鎮座している実在に対応するからではなく、現在において歴史家が持ち合わせている歴史叙述のネットワーク、それは歴史学の業績そのものなのであるが、それとの論理的な整合性こそが事実を確定させるのである。そしてこのネットワークは、野家氏が言うように「過去と現在とを時間的連続性の中で矛盾なく接続する」ものでもある。つまり現在の知覚体験とも接続しているのである。
 この歴史叙述のネットワークは、どこが起点でどこが終点といったことが見定められるわけではない。それは現代のインターネットのようなもので、どこかで起こった出来事がキャッチされると、ネットワークに参加する多数の発言によって練磨され、消耗しつくして消滅することもあれば、かえってその練磨によって強化されることもある。それは情報のサバイバルであり、それが仮想空間であると言われながらも現実と接続して相互浸透する。事実はこのようにして、実験器具の中や書斎の中でじっと見据えられるものではなく、グローバルなダイナミズムの中で棲息するものなのである。そしてそこには、このダイナミズムが不断に否応なしの打ち切りを下す場でもある。
 科学における狭い意味の経験は、目の前にある事物を知覚するという点で、その学問の基点としての足場を固めることになる。これに対して歴史学は、過去の出来事を対象とする限り経験に依存することはできない。しかしそれでも、歴史学が経験との接続性がまったく断たれているというのではない。また歴史学の客観性は、知覚に直に依存するといったものではないが、歴史叙述のネットワークの中でしっかりと成立しているのである。

[つづく]
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by mizuno_clan | 2012-02-19 23:05 | ☆談義(自由討論)

【談議1】水野氏と戦国談議(第三十六回)

[つづき]

 歴史学は経験科学なのかという、ある意味挑発的な問いに答えるために、経験科学を「経験」と「科学」に分けて考えることにした。経験科学における観察や実験は、知覚体験の無謬性に依拠することでその客観性の足場を築くのであるが、過去の出来事を対象とする歴史学は、この知覚体験からはまったく切り離されている。この点でまずは、歴史学は経験(知覚)に基づく学問であるとは言えないと結論づけておこう。
 歴史学は経験科学ではないとして、それでは科学なのかどうかを問うということは、それが科学的と同様の探求方法をとっているかを問うことである。経験科学における事実とは、知覚体験が直接にもたらすものであるが、当然ながらその事実を並べただけで科学が形成されるわけではない。知覚体験が現前させた事実、すなわち現象がどういったわけでそのようになったかを説明できること、これがなくては科学にはならない。それは事実のとらえ方は違ったとしても、歴史学においても同様のことである。

 知られた歴史が単なる事実の凝集であり、従って歴史的知識の増大が何等歴史の認識でないことは既に何度も指摘されたところである。それら知られた歴史の本質を知りその意味を考えることが歴史学の究極の任務であることはいうまでもない。それらの間に法則を発見することも、又それらの事実を価値観点から個性的に理解することも、皆同一の要求から出たことであった。この法則性の認識と個別的認識とは歴史的に対する二つの、しばしば相反的な方法として別個に提出されてきた。しかしこの両者を関連せしめることなくしては、歴史学の問題は解かれることがない。
(林著『史学概論』)

 ここで林氏が触れている、「法則性の認識と個別的認識とは歴史的に対する二つの、しばしば相反的な方法として別個に提出されてきた」という経緯について、ここで簡単にみておこう。

 19世紀ヨーロッパには、R・v・ランケやJ・ミシュレ、A・de・トクヴィル、J・ブルクハルトなど、いわゆる「天才歴史家」が多く輩出し、学問的歴史学が誕生した「歴史の世紀」であった。とりわけランケは、「各時代は直接神に対している」と述べて、ヘーゲルの理性主義的進歩史観を激しく批判し、厳密な史料批判にもとづいて、「過去の事実があった、そのままに」記述する実証主義を歴史学の方法論とする。その結果、哲学者による体系的全体史への懐疑が支配的になるが、それと同時に、技術の影響が日常生活に顕著なった19世紀には、自然科学や数学を他の学問より優れた学問、ひいては学問そのものとみなすデカルト以来の傾向にますます拍車がかかり、さらに歴史学に関してその学問としての資格を問題とする「学問論」的傾向が哲学において浮上したのであった。ここで歴史学を、自然科学とは別な意味における学問とする立場と、自然科学と同種の学問であるとする立場と、二つの立場が生まれる。
 前者の立場をとったのは「新カント派」と「解釈学」だった。自然科学を範とする立場からすれば、法則を見出しえない歴史学は学問ではないが、それに対して新カント派のヴィンデルバントは、学問としての目的や手法が、歴史学と自然科学とでは異なると主張する。「歴史家の任務はなんらかの過去の形象にそのまったき個性的特性を付与して新たな生命によみがえらせ、それを観念的に現前せしめる点にある。・・・自然科学の認識目的は理論である。・・・無時間的不変性をそなえて一切の世紀を支配する法則的必然性を認識しようとする」(ヴィンデルバント)。ヴィンデルバントやその僚友リッケルトにとっては、自然科学が、時と場所を選ばずあてはまる普遍的自然法則を一般化によって見出して、それをもとに理論を構築する「法則定立的学」であるのに対して、歴史学は、過去の個別的な出来事・人物を活写する「個性記述学」であった。

(『歴史の哲学』貫成人著 勁草書房)

 林氏において、「法則性の認識と個別的認識とは歴史的に対する二つの、しばしば相反的な方法」とされていたことが、ここでは「歴史学を、自然科学とは別な意味における学問とする立場と、自然科学と同種の学問であるとする立場」の2分化として述べられている。19世紀になって史料考証を確立させた歴史学は、一見経験科学のような装いをまとったのであるが、その歴史的説明が方法論として自然科学と同種であるか、それとも別の特殊なるものであるかが問題になったということである。そして「この両者を関連せしめる」林氏の立場は、以下のように表明されている。

 かくして、私は以上の考察から、すべての歴史事象をただ一つの法則によって説明することは不可能であるという結論に導かざるを得ない。人間社会はさまざまの要素の複合体であって、そこにはさまざまの力が作用し合い、それらの力はそれぞれに何等かの自己の法則を持っている。[中略]
 しかしながらあくまで法則性を歴史学の要請としながらも、歴史の法則を自然法則と同一視することは何人にもなし得ることではない。ここにおいてはやはり歴史法則の特殊性というものが考えられなければならないのである。

(前掲書)

 ここで林氏は、「法則性を歴史学の要請」とする点でそれは自然科学と同じであるが、その法則は「自然法則と同一視する」ことはできず、「歴史法則の特殊性というものが考えられなければならない」と述べている。しかしそうだとすると、歴史学に固有の法則性とは何であるかが問題になるのであるが、その前に「自然科学と同種の学問であるとする立場」、すなわち歴史学は自然法則と同型の法則によって出来事を説明しなければならない、とする立場についてみてみることにする。

 歴史学を自然科学とは別種の学問としてとらえようとする新カント派や解釈学に対し、歴史学と自然科学とを同じモデルでとらえようとするのがウィーン学団(論理実証主義)のK・ヘンペルであった。ヘンペルによれば科学的説明とは、一定の普遍法則と初期条件から、説明されるべき現象を演繹するものである。かれが挙げる例によれば、早朝、車のエンジンがかからず、ラジエターが破裂していることに気づいたときなされるつぎのような推論がそれにあたる。「昨夜は冷え込んだのに、ラジエターの蓋を閉めたままだった。そのため、冷却液が凍結し、膨張してラジエターが破損した」。このとき、「前夜の気温低下」「ラジエター内の冷却液密閉」などという事実(K1、K2・・・)と、「液体は凍結すると膨張する」という一般法則(L)から、「凍結した冷却液が膨張しラジエターを破壊した」という事実(E)が「演繹」され、それによって問題の事実が説明されることになる。一般に、出来事Eが「なぜ起こったのか」という問いに対しては、他の出来事K1、K2・・・、ならびに一般法則L1、L2・・・を挙げることによって答えることができ、その両者からEが論理的に帰結すれば、出来事Eは説明されるが、このような考え方を「演繹的法則論理モデル」または、「被覆法則モデル」とよぶ。
 ヘンペルによれば、自然現象に関するこのモデルは歴史的出来事にもあてはまり、フランス革命や明治維新も「貯水池の決壊」や「地質学的異変」と同じように説明しうる(リクール『時間と物語り』)ため、歴史学と自然科学が学問としてもつ性格に相違はない。ヘンペルの主張は、かれが属したウィーン学団の「統一科学の理念」に沿ったものであり、この理念からすれば、歴史学も「学問(科学)」を標榜する以上、自然科学と同様、法則定立的でなければならない。

(貫著『歴史の哲学』)

 「歴史学は経験科学なのだ」と主張すれば、当然ながら「ならばそこに普遍法則と、そこからの演繹という厳密さを備えているのだな」と問い返される。それはまさに当の経験科学の側から、冷ややかな目をもって、あるいは自然科学に歴史学をも隷属させようという意図をもって発せられるのである。ここに登場するヘンペルは、ウィーン学団に属する論理実証主義者である。そして彼らの「統一科学の理念」とは「自然科学の方法、ひいては物理学の方法によって、あらゆる科学を方法的に統一しようと目論んだ」(野家『物語の哲学』)ものであった。ここに野家氏が「目論んだ」という表現をつかうのは、まさにそれは野望といってよいものだからである。この論理実証主義はその後衰退したが、その理念を推し進めれば、「革命や戦争と言った歴史的出来事を心理的・個人的行動に分解し、それを生理的現象に、さらには物理・化学的現象にまで還元することによって説明する」(野家)までに至るのである。「歴史学は経験科学なのだ」などというのは、思うにずいぶんと不用意で無用心な発言だと思うが、いかがであろうか。
 さて、このヘンペルの主張は、歴史学というよりも歴史哲学に大きな波紋を拡げることになったのであるが、それに対する根本的な批判も生まれた。その批判は、貫氏の要約によると以下のようになる。

 第一に、歴史的事実に関する因果的説明は実行できない。「ルイ十四世の不人気」を「外交政策の失敗」に求めたとしても、外交に失敗した君主がすべて人気を失うわけでないのだから、説明を完成するためにはルイ十四世に関する他の要因をあげなければならない。ところがいくら記述を増やしても、類似の状況で人気を保った統治者を見出すことはつねに可能であるため、「ルイ十四世の不人気」の説明には数限りない事実が含まれることとなり、結局、その説明は、ルイ十四世という個別事例の記述でしかなくなってしまう。
 第二に、そもそも自然現象について普遍的一般法則を定立しうるのは、自然現象が反覆可能で規則性がみられるためだが、多くの論者にとって、歴史的出来事は反覆不可能は「唯一の出来事」であり、それゆえ、規則性や反覆可能性を語る余地はない。しかも、かりに歴史的事象について、一般命題を定立しても経験的確証は不可能である。一般法則が不可能なのだから、歴史において「予言」は不可能であり、「歴史決定論」は成り立たない。

(前掲書)

 非常に的確な要約であり、ヘンペルにくわえられた批判がよくわかる。そしてある意味このような批判によって歴史学は、「統一科学の理念」という野望に蹂躙されることから救われたと言えるだろう。しかしそうなると、歴史学はやはり固有の歴史説明の方法論をもっていることになる。林氏もまた、「歴史法則の特殊性というものが考えられなければならない」と述べていたが、その特殊性とはどのようなものかについては、詳細を欠いている。

 かくして、私は以上の考察から、すべての歴史事象をただ一つの法則によって説明することは不可能であるという結論に導かざるを得ない。人間社会はさまざまの要素の複合体であって、そこにはさまざまの力が作用し合い、それらの力はそれぞれに何等かの自己の法則を持っている。[中略]しかし実は条件が与えられたからといって、必ずしもその事柄が起こるとは限らない。それは可能性を与えることであってその実現を保証することではない。[中略]私はすべて歴史上の法則はこのような限定された意味における「制約性」の意味を持つものと解するのである。即ち主要な法則とは最も有力な条件を与える要因という意味であり、副次的な法則とはそれよりも小さな条件を与える要因という意味である。
(林著『史学概論』)

 歴史上の法則には「制約性」が付随するというのであるが、それは歴史法則は確からしさが限定されるということに帰結する。

 法則の妥当性は歴史の世界では自然の世界に比してはるかにより多く近似的であり、それ故に歴史の必然性は自然の必然性に比してはるかにより多く蓋然性の性質を持っているといえるのである。
(前掲書)

 この林氏の見解を継承する遅塚氏もまた、「柔らかな実在論」とか「柔らかな客観性」といった奇妙な用語を繰り出すが、結局のところこの域を出ていない。そしてその主張は、遅塚氏が言うところの「構造史的事実」が拠りどころとなるのだが、その客観的な装いをして科学であると言えるのかどうか、ブローデルと物語り論の関わりについてこの先考察をくわえようと思う。いずれにしても、自然科学とは異なる歴史学固有の方法論とは、いったいどういったものであるか。そのことに対する明確な回答はどこにあるのだろうか。貫氏はこれに、「因果法則を用いないとするならば、歴史記述は過去をどのように説明できるのだろうか。この問いに答えるために提案されたのが物語り論にほかならない」と応答する。

 その学の対象となる事象を説明するために、まず事象自体の確保が不可欠であるが、歴史学が過去の出来事を対象とするのであれば、それは科学的経験すなわち知覚することはできない。知覚に依存せずに、どうやって事実(過去の出来事)をとらえるのかについては、歴史叙述のネットワークに対する整合性が基準となることは示したが、このネットワークがどのようなメカニズムを持つものであるかには言及していない。そして事象を説明するための方法論であるが、これについては少なくとも自然科学のそれとは異なる特殊なものである、という結論をえるに至った。しかしそれでは、因果法則を用いずに、どうやって客観的な説明を歴史学はしているのであろうか。これらの問題は次回以降に持ち越しとなるが、前回と今回のテーマである「歴史学は経験科学か」の答えは出たはずである。そして、経験科学でなければ客観的な学問ではない、といった強迫観念は振り切るべきであることも、幾らかは示せたのではないかと思っている。しかしこのことを真に果たすためには、科学とはそもそもいかなるものか、という科学哲学の本丸に乗り込む必要がある。そして奇妙なことに、歴史学と科学哲学とは深い因縁で結ばれているのである。科学哲学と言語学を専門としながら、歴史物語り論で各方面の注目を浴びた野家啓一氏の次の言葉を、この「歴史学は経験科学か」の締めくくりとして以下に示しておこう。

 しばしば問題になる「歴史は科学か?」という問いは、明らかに歴史哲学の問いであると同時に、科学哲学の問いでもあるのです。また認識論の場面では、「過去の実在」をめぐるやっかいな問題は、たとえば「電子の実在」をめぐる問題と、原理的に知覚不可能な対象の存在を論ずるという点では基本的に同じ構造をもっています。そうした理由から、僕の問題関心は、最近の科学哲学や分析哲学の成果を踏まえながら、その延長線上で歴史哲学に関わる諸問題を考察していこうというところにあります。
(『歴史を哲学する』)
 だが、旧版の刊行から十年近くを閲した現在の時点から見直してみると、出発点の企図は別にして、本書が歴史学における「言語論的転回」の趨勢に掉さしていることは認めざるをえない。また、そのように位置づけられることを拒否しようとも思わない。私としては歴史学の論争に介入したつもりはまったくなかったものの、歴史学者の三宅正樹氏から思いがけず好意的な批評を賜ったことは、私にとって大きな支えとも励みともなった。ただ、私の目指す本丸が「科学のナラトロジー」にあり、「歴史のナラトロジー」はその前哨戦というべきものであったことは、ここで一言付け加えておきたい。
(『物語の歴史』岩波現代文庫)
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by mizuno_clan | 2012-02-19 22:53 | ☆談義(自由討論)

【談義1】水野氏と戦国談義(第三十五回)

歴史と過去①-歴史学は経験科学かⅠ-
                                                談義:江畑英郷

 歴史に興味を持ち、探求してみようとする動機は人それぞれであろう。私の場合は以前から織田信長に惹かれ、彼が戦国史の表舞台に登場することになった桶狭間合戦に興味というか、思わず解き明かしたくなるような謎を感じて、この研究に着手したことが始まりであった。私の中でのこの合戦に関する謎の起こりは、藤本正行氏が執筆した『信長の戦争』(注1)を読んだことによる。そしてそこには、史実に基づいた確かな分析があると感じたのだが、その結論には不満が残った。
 藤本氏はこの著書の序章で、太田牛一が記した『信長公記』の史料批判を丹念におこない、その信憑性を確認した上で桶狭間合戦の考察にこれを用いている。そしてその考察の結論が、かの正面攻撃説なのであるが、その実証的な手順の運びにもかかわらず率直に頷けない説明となってしまっていた。したがって桶狭間合戦の謎とは、実証的な手続きを経て得られた結論が、常識的には受け入れがたいものとなっていること、このことに発していたのである。藤本氏の分析がそのような結果になってしまった原因は諸々あるであろうが、言わば藤本氏が生み出した謎に挑戦している中で、その挑戦がある矛盾を起こしていることに気がついた。その矛盾とは、今川義元がどうしてあのような敗北をするに至ったのか、その原因が『信長公記』の中に銘記されていることに関わる。

今川義元、山口左馬助が在所<ザイショ>へきたり、鳴海にて四万五千の大軍を靡<ナビ>かし、それも御用にたたず、千が一の信長纔<ワズカ>二千に及ぶ人数に扣<タタ>き立てられ、逃がれ死に相果てられ、浅猿敷<アサマシキ>仕合<シアワ>せ、因果歴然、善悪ニツの道理、天道おそろしく候ひしなり。
(『信長公記』新人物往来社 桑田忠親校注)

 『信長公記』のこの箇所は、本談義三十二回「国人小河水野氏の困惑③-山口左馬助生害」でも取り上げて考察を加えた。牛一は、桶狭間合戦における今川義元の敗北は、「因果歴然」なのだと断言している。今川軍4万5千、織田軍2千という格段の戦力差がありながら、優勢なはずの今川軍が惨敗したのは、戦略や戦術などの戦い方の問題なのではないという。牛一によれば今川の圧倒的な戦力は、「善悪ニツの道理」そして「天道」の前では「御用にたたず」だったのである。桶狭間合戦の謎といえば、圧倒的に不利であったはずの信長が、どのようにして大軍の今川を撃破したのか。その勝利に至った戦い方が謎の中核にある。かつては迂回奇襲というきわどい作戦を信長が敢行したことで、その手中に勝利が呼び込まれたとそれなりに説明づけられていたが、藤本氏は信憑性の高い『信長公記』に依拠することでそれを否定し、代わりに正面攻撃がおこなわれたと結論した。そしてそのことが、桶狭間合戦の謎の始まりであったわけである。兵力においても地勢的にも圧倒的に有利であった今川軍を、劣勢の織田軍が正面から攻撃してどうして勝てたのか、そこのところが当の本人は別にして、誰もが謎であると思ったわけである。そしてこの矛盾は、この合戦の勝敗を何が分けたのかが、『信長公記』に基づいて謎として取り出されたのであるが、その当の『信長公記』に、戦い方がどうあろうとそれは因果であり、今川義元は敗れる運命にあったと明言されているという点にある。
 序章の史料批判によって、『信長公記』の記載の信憑性は高いと判定された。少なくとも桶狭間合戦の記録に関しては、『信長公記』に勝る記録はないということに異論を唱える者はいないであろう。したがってこの合戦を読み解こうとする者は、誰もがこの記録の一字一句を取り上げて、その真実に迫ろうと企てる。そしてその真実の中核は、この合戦における信長の勝利がどのようにしてもたらされたかである。しかしながらこのとき、同じ記録の中に「因果歴然、善悪ニツの道理、天道おそろしく候ひしなり」があることを、誰もが無視するのである。著者の牛一に言わせれば、「どうやって勝ったかはどうでもよいことで、だからそれを記さなかったのであり、重要なのはどうして勝ったのかなのである」、ということになるだろう。そしてその牛一の言葉を無視し続ける態度が、実証的と形容されるものなのである。
注1:JICC出版より『信長の戦国軍事学』として刊行された同書は、その後講談社学術文庫版に収められたが、その著名が『信長の戦争』である。

 桶狭間合戦における今川義元の惨敗は、彼の為した悪行が時を経て彼に返ってきたものである。これが受け入れられるならば、どのような戦い方であっても結果は同じであったわけで、それは問題にならないはずである。この合戦の研究家は、誰もがこの箇所を無視するのであるが、それは他の箇所は事実に基づいているが、この記述は虚構であるとみなしているからである。それは科学が未発達なこの時代人の迷信であって、そのような迷信は検討する必要などないのだ、ということなのであろう。もちろん当の牛一はそのようには考えていなし、同様にこの時代の人々もここには迷信が書かれているとは思わなかったであろう。このことは見方を変えれば、現代の研究者にはここに書かれていることが理解できていないともいえる。「因果歴然、善悪ニツの道理、天道おそろしく」については、これが何を意味するかは難しいところである。善悪という価値観念が、因果関係を形成するというように読めるが、その理解が当たっているのかは定かではない。また天道というのは、自然法則とは別の法則であってそれが自然法則を超えるのだ、というようにも読める。この箇所の理解は様々あろうが、いずれにしても現代における科学的知見に反する事象を意味している、と受けとめられているのは確かであろう。しかしより慎重には、この箇所は何が示されているのかが不明である、とされるべきではないかと思う。
 『信長公記 首巻』には、ここと同様に何が書かれているのかが不明とすべき箇所が幾つかある。「景清あざ丸刀の事」、「蛇がへの事」、「火起請御取り候事」には、奇談としか言いようのない事件が記されている。それを手にした者は、必ず眼を患うというあざ丸という刀、頭部が鹿のように見える奇怪な大蛇、赤く焼けた斧を素手で運べるかどうかで罪を占う儀式が、信長周囲の事跡や合戦に関する記述の合間に無造作に挿入されている。そして牛一は、当然ではあるが、それら災厄をもたらす刀や大蛇が実在することを事も無げに前提とし、そして占いの儀式が罪人を言い当てることに何の違和感ももたない。そしてそのとき気づくのが、この『信長公記』の著者は異邦人であるということなのである。ここで牛一を異邦人であると規定する場合、それは現代の我々と彼の間には、深い断絶が存在するということを認めねばならないことを意味している。したがって、この箇所は疑うべくもなく理解できるが、ここは理解が及ばないという部分の違いなのではなく、それ全体が一つの体系として異質なのである。このことを念頭におくとき、歴史を探求するということは、すべからくこの断絶を越えようとする行為なのであり、その跳躍にこそ歴史探求の意義があるということなのである。
 桶狭間合戦における今川義元惨敗の原因を、牛一が『信長公記』の中に記していることをめぐっては、すでに本談義三十二回「国人小河水野氏の困惑③-山口左馬助生害」で取り上げた。そしてその考察については、次のように結んでおいた。

 しかしどちらも人智を超え出た結びつきであり、誰かの意図によるものだとか、合理的に説明できる成り行きだというわけではない。そしてこうした混迷を救おうとしていた今川義元は、この成り行きに彼の意図とは関わりなく運命的に結びつけられて、「山口左馬助が在所」に足を踏み入れたとたんに、絡んだ因縁にその足元をすくわれたのである。こうした義元が陥った状況を無理に説明することもできようが、様々な起こりうる可能性の中であの劇的な結末が用意されたのを思えば、それが「天道」であったとするのに、いつしか違和感は消えているのである。

 『信長公記』に描かれる桶狭間合戦は、「今川義元討死の事」が詳しいのであるが、それは今川義元が沓掛城に参陣したことから始まり、今川敗戦によって尾張の今川方が退去するまでのことである。しかし太田牛一は、この合戦を思いの他マクロ的な視点からみているのであって、「山口左馬助、同九郎二郎父子に、信長公の御父織田備後守、累年御目を懸けられ」という、この合戦に先行する10年以上前の経緯を、勝敗の原因に言及する箇所の冒頭に示している。牛一の脳裏においてこの合戦は、信長が勝ったことが語るべきことであったのではなく、負けるはずもない今川が敗れ義元が討死してしまったことこそが語るべきことであった。彼には寡兵が大軍を破るに至る経緯は一つの偶然であり、その偶然がどのようであったかには関心が向かず、どのような偶然にせよそれを生み出したもの、個々の偶然をそのように結びつけた力に牛一は瞠目させられた、ということなのだろう。そしてその力に、「天道」という語彙を当てたということなのである。私が「いつしか違和感は消えている」と書いたのは、この牛一と同じ観点に立ってみると、運命の不思議を感じざるをえないし、そのことはかの合戦において信長がどう行動したかよりも、確かに思い惹かれることであると思えたからである。
 太田牛一は、『信長公記』に何を記そうとしたのであろうか。歴史記録、あるいは歴史叙述を残そうとしたのであろうか。それともそれは、個人的な懐古録であったのだろうか。このことの答えは、「歴史」という用語をどのように定義するかによって変わってくる。そして少なくとも、客観的な事跡を並べるのが歴史であるというのでなければ、この問いへの答えはその探求活動の根幹に関わることである。そしてそこでは、マクロな視点な視点に立てば立つほど、それが何を意味するのかを問題とせざるをえないという事情に突き当たる。突き当たってみたところで、「何を意味するのか」においては、違いこそ問題であるということに気づくのである。そして先に述べたように、その違いを跳躍しようとする行為が現在を照らすのである。

 これより、長くなる哲学的考察を始める前に、その議論がどこへ向かおうとしているかを示すために、ここまで前置きを書いた。この長くなる哲学的考察のタイトルは、「歴史と過去」というものであるが、それは歴史と過去の相違に考察の焦点を合わせていくことになるからである。そしてそのような考察を、この「水野氏と戦国談義」のような場で展開しようとするならば、まずは歴史学の実証性について検討し、それによって被っている足枷を取り除いておく必要があるだろう。それによって第一回目は「歴史学は経験科学か」というタイトルにしたが、これはこれで大風呂敷なのでとても一回の談義では終わらない。それにしても、ここまでの前置きによって歴史学は経験科学ではないという結論に向かうだろうということは、容易に予想されたことだと思う。後に詳しく述べるが、歴史学が経験科学だということにとどまれば、それは二流三流の科学だという評価を免れえない。しかし歴史学、あるいは歴史探求といったほうが良いのかもしれないが、それは哲学と並んで全学問への批判学である。それであるのに、これを経験科学の枠に押し込めれば、その重要な批判力を喪失させてしまうのである。
 この談義ですすめたいと思っているのは、実証や経験科学に縛られない批判的考察である。そしてそれは現代が自身を読み取るための鏡であって、この読み取りには差異が不可欠なのである。しかし自身をいくら考察しても、その自身の差異は発見できない。それは自身ではないもの、現代であれば現代的ではないものへと向かうしかないのである。しかしそこには、深い断絶が横たわっている。そしてその断絶を飛び越える必要があるが、その力は実証学にはないということなのである。歴史学がその本来の跳躍力を取り戻すこと、そのことについての具体的考察がこの談義の主旨(いつしかそうなってしまった)なのである。そしてそのつもりで筆を進めたが、例えばそれは「それが“天道”であったとするのに、いつしか違和感は消えているのである」、といった言わば控えめな表現をこれまではするしかなかった。今ここで表現と言ったが、実際はそうではなく、私自身が実証に縛られて控えめな考察になってしまったというのが実態だろう。したがってその自身の拘束を打破するためにも、「歴史学は経験科学か」を正面から問い直す必要があるというわけである。


 歴史学の基礎論ということでは、少し古いのであるが林健太郎氏が著した『史学概論』に定評があって、いまだにこれを越えるものは出ていないという評価がされているようである。そこでまずはこの『史学概論』において、歴史学がどのようなものとして規定されているかを確認したいと思う。『史学概論』第三章、「歴史学における批判的方法」において、林氏は次のように述べている。

 私は前章の末尾において、歴史学の特質の一つが一般に「実証的」といわれるその研究法にあることを述べた。しかしこの「実証的」という言葉は今日の日本の通俗の用語法に従ったのであって、私はそれを必ずしも適当なものとは考えない。この言葉は具体的なデータを重んずるというほどの意味であるが、そのような意味での実証性は具体的な事物の研究に従事する科学においては共通の要請であるというべきであって、必ずしも歴史学のみの特性であるとはいえない。歴史学に特有の研究方法とは、史料を重んじ史料に基づいて事実の認識を行なうということである。そしてそのため歴史学には特に史料学及び史料批判と称せられる基礎部門が付随しているのである。このことは、事実を認識するためには単に事実の意識を持つだけでは不十分であってそのための特別な技術を必要とすることを意味している。したがって歴史学のいわゆる「実証性」の本質はこの「批判的」というところにあるのであって、それ故私は「実証的」という通俗の言葉をしりぞけて「批判的」ということを以って歴史学の特質を表わすのが適当であると考える。
(『史学概論(新版)』林健太郎著、有斐閣)

 林氏は歴史学の特質について、「史料を重んじ史料に基づいて事実の認識を行なうということ」であって、それは「実証的」という用語よりも「批判的」という用語のほうが適切であるという。なるほど歴史学の探求方法は、「実証的」で括るには無理がある。事実認識が史料に依存するのであるから、これは他の実証的な学問とは大いに異なるわけだが、「史料を重んじ」では軽すぎるように思う。歴史学の足場は史料以外にないのであって、この点こそが際立った特質である。そしてそれは歴史学が過去を探求するものだからであり、したがって経験できるのは今ここにある史料だけだからである。林氏はこの史料の批判的検討過程が、歴史学に固有の実証性を確保しているとの認識に立ってそれを「批判」というが、「考証」のほうがやはりわかりやすい。
 さて考証の技術論は脇に置いておくとして、この考証と事実との関係がどうなっているのか。このことについて、林氏がどのように述べているかここで確認しておこう。

 私はさきに、歴史学は歴史的事物をその歴史性においてとらえる「歴史的歴史科学」であると述べた。この場合「歴史的」とはとりもなおさず「時間的」ということであるから、事物を歴史性においてとらえるということは即ちそれを時間の経過の中においてとらえるということに外ならない。しかるに未来は未だ存在せず、現在は常に一つの瞬間に外ならないとすれば、対象を時間性においてとらえるということはそれを過去性においてとらえるということでなければならない。ところが過去の事実を認識するということは、人間の直接の感官によってはなし得ないことである。従って過去の事実と現在の我々の感官を媒介するものが必要である。この媒介物が即ち史料に外ならない。それ故史料を取り扱う技術としての史料学が歴史学の基礎をなすことは当然である。
(前掲書)

 過去の事実を直接に認識することはできないが、今目の前にある史料がそれを媒介すると林氏は主張する。この過去の事実を史料が現在に媒介するがために、その適切な媒介を可能にする条件として、史料批判が据えられねばならないということなのである。それは媒介しているものを見誤らないためであり、また事実以外の媒介を排除するためでもある。このことからすれば、史料には過去の物や出来事を現在に伝達する能力が備わっていると、林氏は考えているようである。しかしその伝達には、事実ではないものも混入しているので、これを技術的に除去する方法が必要となり、それが歴史考証なのだというわけだ。そして林氏は、「史料批判の方法が確立することによって、歴史学は初めて科学と称せられるに値するようになったいわれている」と述べるに至る。
 この林氏の主張においては、過去の出来事を現在に伝達する能力が史料に備わっているということが大前提であって、そこから事実を汲み出す方法が確立すれば、過去の事実は現在において観察しうるということのようだ。しかしながら、林氏の主張の大前提である、史料には過去の出来事を現在に伝達する能力が備わっているという見解は、何の検討もなしに認められるはずもない。それでは次にこの点について、林氏はどのように述べているかをみてみよう。

 しかしそれにしても、歴史学は対象を過去性においてとらえるといういい方が、別の意味で人々の非難を受けるかも知れない。何となれば「歴史認識を決定するものは現在の意識である」乃至は「一切の歴史は現代の歴史である」というような命題が、しばしば唱えられ、そのような見方からするならば、歴史を過去として眺めるということが既にはなはだ反時代的なことのように思われるおそれがあるからである。しかし私の考えによれば、この両者は決して矛盾するものではない。後に述べるように、「歴史認識を決定するのは現在の意識である」という命題は歴史認識論の上において極めて大事な意味を持つものである。しかしながら、たとい歴史学においては対象と認識主観とが容易に分離し難い性質を持っているとはいえ、それは決して対象と認識主観とが混同されてよいということを意味するものではない。従ってもしも人が、人間の主観が客観的事物そのものをつくり出すという観念哲学を文字通り信奉するのでないならば、右の歴史認識論の命題は決して文字通り現在の意識が歴史をつくるということを意味するものではない。それは過去の事実に対する歴史像が現在の意識によって形成されるということを意味するのであって、過去の事実そのものは、現在の認識主観の前にあらかじめ与えられているのである。従って我々が歴史上の事実をあくまで過去としてとらえることによって、始めて現在の立場からするそれの把握の前提が成立するのである。
(前掲書)

 ここでの林氏の主張で、注目すべきは以下の2点である。

①過去の事実に対する歴史像が現在の意識によって形成される。
②過去の事実そのものは、現在の認識主観の前にあらかじめ与えられている。

 ①の主語は「歴史像」、②の主語が「事実そのもの」であることに注意しなければならない。歴史像は意識によって形成されるが、事実そのものは認識主観の前に与えられている。林氏は「歴史学においては対象と認識主観とが容易に分離し難い性質を持っている」とするが、そのことは①の主張に関わることで、それは歴史像の形成においてのことである。そしてその歴史像の形成は、②の過去の事実そのものの認識が前提となっているのであるが、その過去の事実そのものは、「現在の認識主観の前にあらかじめ与えられている」というのである。この「あらかじめ」というのは、認識以前にということになるが、それは史料の物的な実在のことを指しているように思われる。つまり史料は物的実在であるから、当然に認識に先立って独自にそこにある。しかしそれは単なる物ではなく、過去の事実を媒介する能力があり、したがって媒介された過去の事実も物的実在と共に、認識主観に先立ってそこにあるということになる。林氏は、「史料(Quelle,Source)という字が単なる材料(Material)ではなく、事実をそこから汲みだす場所としての意味を持つ言葉である」と述べているが、そこでは物的材料である以上に事実の源泉であることが強調されているのである。このように過去の事実が史料によって現在に伝達されるのは、あらかじめ与えられているというほどに林氏にとっては自明なことである。その能力があるから「史料」と呼ばれるのであって、そうでなければただの古びたものに過ぎないということなのだろう。
 確かにそれを史料と捉えた時点で、そこに過去の出来事が現わされていることを認めていることになる。しかしながら、それがどのようにして可能なのかは自明のことというわけではないだろう。林氏も『史学概論』の「むすび」冒頭に、「“歴史とは何であるか”という問題が“いかにしてそれが認識できるか”という問題につき当たらなければならないことは、哲学における実在論が認識論につき当たるのと同じく必然的なことである」と述べている。ならば過去の事実に対して、「いかにしてそれが認識できるか」と問うべきであるが、それが常識的な自明性でかたづけらてしまっているように思われる。
そしてその常識的自明性とは、「むすび」の冒頭につづく次の文章に示されているようなものである。

 しかし一方において我々は、人間の意識の前に事実が客観的に存在するということを承認しないわけにはいかない。従って我々は人間によって知られ考えられた限りのものが人間にとっての歴史であって、歴史そのものは認識者の主観にかかわりなく存在するものであるとしなければならない。 [中略]しかしかつて何人かによって知られていたものはその人の死によって消滅し、その後にはただ痕跡のみが残される。かくして時と共に多くの痕跡が集積しそのあるものはその間に失われるが、しかもその集積は時々刻々に増大してゆく。そしてそれが我々にとって知られる歴史となる。歴史というものはこのようにして我々の前に与えられている。
 歴史とは過去において人間が行なった一切の事柄である。

(前掲書)

 史料とは、「過去において人間が行なった一切の事柄」の痕跡である。客観的に存在する事実は、人間の意識には関わりなく痕跡を残す。そしてその痕跡が現代に伝わったものが史料なのである。先に林氏は、「過去の事実そのものは、現在の認識主観の前にあらかじめ与えられている」と述べていたが、与えれているのは過去の事実そのものではなく、その痕跡だったのである。
 痕跡はその痕跡を残したものを指向する。例えばその痕跡が犬の足跡であれば、その犬は大きいとか、北に向かっていったとかが、その痕跡から知ることができる。このように史料が痕跡であるのならば、この痕跡を残したものへの指向性が過去を現代に運ぶのである。この史料=痕跡論は後に詳しく検討したいと思っているが、今は「歴史学は科学なのか」のテーマに即して考察をすすめよう。

[つづく]
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by mizuno_clan | 2012-02-12 16:38 | ☆談義(自由討論)

【談義1】水野氏と戦国談義(第三十五回)

[つづき]

 ここまで秀逸の定評がある林健太郎氏の『史学概論』に依拠して、歴史学の基礎論を確認し、そこでこの学のどこが実証的であり科学であるかを確認してきた。その結果、史料は過去の出来事を現在に伝達する能力を備えているが、事実以外もそこには混入している。そしてこの史料から事実だけを抽出する方法が確立されたことで、歴史学は科学と評される資格を得たのである、ということが確認された。しかしながら、事実は存在し痕跡を残すのだからこの痕跡を媒介として過去は現在に伝達されている、という常識的自明性に依拠するだけのことであれば、歴史学における認識の基礎論として甚だ不十分だと言わざるをえない。そしてそれはおそらく、林氏の次のような考えに起因している。

 しかし歴史哲学というものは今日では既に具体的な歴史の研究とは一応縁のない別個の学問となっているので、歴史哲学そのものに余り深入りすることは歴史家にとって必ずしも必要なことではないであろう。
(前掲書)

 具体的歴史研究とこの手の抽象理論とは「一応縁のない別個の学問」だという、この林氏の認識がその後、そうとは言っていられなくなる事態が出現した。

 われわれは、ランケふうの素朴実在論(素朴実証主義)を離れて、歴史学が問いかけに始まることを承認したときから、歴史学の営みが歴史家の主観(関心・問いかけと、想定・解釈)に依存しているということを十分に承知している。そういう歴史学の主観性をつきつめて行けば、歴史学の営みは、文学作品の制作や物語り行為と同一視されることになろう。私は、言語論的転回以降の現代歴史学がそういう方向にとめどなく流れている状況に対して、どこかで歯止めをかけることが必要だと考えている。歯止めはどこにあるのか。その一つは、主観的解釈から独立した客観的事実の実在を認めることであり、もう一つは、事実によって裏付けられない事象を、経験科学のあずかり知らない真実の世界に属するものとして、歴史学の対象から外すことである。
(『史学概論』遅塚忠躬著、東京大学出版会)

 林氏と同名の著書を公にするにあたって、「いまさら自分が同じタイトルの書物を刊行することに躊躇を感じている」と言った遅塚氏を、このような事情が後押ししたわけである。「言語論的転回以降の現代歴史学」は、林氏が『史学概論』を執筆した時期には、少なくとも国内では始まっていなかった。しかし林氏が『史学概論』の新版を世に送り出していたころ、海外ではダントーの『歴史の分析哲学』によって歴史物語り論が登場していたのである。そしてこれ以降、歴史学の認識論はこの歴史物語り論を抜きして語ることができなくなった。
 遅塚氏は林氏の立場を継承する見解に立って、林版『史学概論』以降の歴史基礎論の激動に立ち向かうのであるが、その立脚点は「主観的解釈から独立した客観的事実の実在を認めること」だと述べている。本文中では自身の立場を「柔らかな実在論」であるというが、いずれにしても実在論と物語り論がどう対立するのか、また実証科学あるいは経験科学としての歴史学と物語り論がどう関わるのかは、腰をすえて考える必要がある。とは言っても、それは哲学的な議論にならざるをえないので、具体的な歴史探求とそうした議論がどう関わるか一言述べておく必要があるだろう。

 哲学者の鹿島徹氏は、「“歴史の物語り理論(歴史の物語り論)”とは、“物語り(ナラティブ)”をキーワードに歴史について考えようとする、複数の潮流の総称にほかならない」(『可能性としての歴史』)と述べる。そしてその潮流は2方向に大別され、一つはダントーを中心とする分析的歴史哲学であり、一方はホワイトを中心とするフランス構造主義の流れを汲むものである。そして「歴史をめぐる物語り論的議論は、現在では右の二大潮流がよくも悪しくも異種交配を行ったところに展開されている」のである。このように述べる鹿島氏は、歴史物語り論の基本姿勢は次の2つのテーゼに要約できるとする。

 第一に、物語り論的歴史理解は「歴史は物語である」と主張するものではない。そうではなく、冒頭にも述べたように「歴史は物語られる」ことに目を向け、物語る行為への着目を出発点に「歴史」をめぐる諸問題にアプローチするものである。
 第二に、「歴史は物語られる」ことに着眼するとは、「歴史は物語られつくすことができる」と見なすことではない。物語り行為によって出来事の取捨選択が行われ、それゆえ一定の事象の排除・隠蔽が必ずそこに随伴するという事態こそ、目を向けるものである。

(『可能性としての歴史』鹿島徹著 岩波書店)

 歴史物語り論は、「歴史論争場面での“物語論”といえば“歴史修正主義の物語論」に限定されて語られる”といった状況すら現出している」(鹿島)中では、とかく誤解も多いことだろう。先の遅塚氏も注意していることだが、歴史物語り論は、歴史認識に対する自覚的な反省を、言語論的方法を駆使して遂行する意図に基づいているものである。そしてここで扱う歴史物語り論も、この範囲を越えることはない。
 次に、こうした哲学理論に拠った歴史理論が、具体的な歴史研究と実際にどう関わっているかについて、鹿島氏はその現状を次のように述べている。

 日本社会では、同じ1990年代に「歴史学はいま、はげしく化けかわろうとしている」といわれながらも、歴史理論そのものについては、歴史研究プロパーの側からの発言がこれまできわめて少なかったといわれており、私自身もまたそのように見てきた。キャロル・グラックによる10年前の診断では、日本の歴史学界においては、「認識論的懐疑論によって苦しんだという感覚は、とくに最近まではそれほど明確ではなかった」といわれるが、その後もさしたる変化はない、と。
(前掲書)

 西洋史学が専攻の二宮宏之氏も、この件に関しては同様の意見を述べている。

 どの学問領域でも、ラディカルな構築主義の立場をとる者もいれば「事実」の客観的把握の可能性を信ずる客体主義の立場をとる者もいて、それぞれに対立があるのだが、歴史学の場合には、史料に基づくことで歴史事実そのものに到達しうるという実証主義以来の考え方が、ながらく学問としての歴史学の存立を保証する大前提とされてきただけに、歴史を認識するという行為の根底を問いなおすといった議論は、歴史家一般の共通の関心事になりにくい状況がある。理論的なレベルでは、現代思想や歴史哲学の分野で歴史認識論の再検討に鋭く切り込む仕事が重要な展開をみせ、近代歴史学の根本的な再検討に貢献するところは大きいけれども、これら最先端の議論は、いわゆる「プラクティカルな歴史家」、古文書館に通い生の資料をひもとく作業をもっぱらの仕事と考えている歴史家にはすんなりとは入っていかないところがあって、両者の間の対話はスムーズに進んでいるとは言えない。
(『二宮宏之著作集Ⅰ』収録「歴史の作法」 岩波書店)

 先の遅塚氏による『史学概論』は、2010年に出版されたものであるが、歴史物語り論を歴史学における認識論的懐疑論と受けとめ、それへの強い反論を意図して執筆されたものである。その意味ではまさに歴史研究プロパーによる巻き返しであり、実証史学の防波堤構築といった観があるのであるが、それが成功しているかどうかは別問題である。鹿島氏はごく最近になって、「歴史教育に従事する人びとによる物語り論の積極的受容もすでに開始されている」、「歴史研究者自身による方法論的反省の明示的理論化へと向けた討議が、広く発信されるようになってきた」とするが、物語り論の受容はなかなか容易ではない。なぜならば、個別具体的な研究への従事を本務としてきたプラクティカルな歴史家にとっては、不慣れな抽象的議論の連続であり、さらに悪いことに20世紀哲学において「言語論的転回」といわるほどの、認識論における大転換を押さえなければならないところにある。例えば、日本における歴史物語り論の代表的論者である野家啓一<ノエケイイチ>氏は、自身の学問的立場をつぎのように説明している。

 私自身の「物語り論」はむしろ哲学における「言語論的転回」から触発されたものであり、直接的には新田義弘氏の論文「歴史科学における物語り行為について」に示唆を受けて、私の専門分野である言語哲学(特にウィトゲンシュタインの言語ゲーム論とオースティンの言語行為論)と科学哲学(特にクーンのパラダイム論とクワインのホーリズム)の延長線上に構築されたものであった。
(『物語の哲学』野家啓一著 岩波現代文庫)

 野家氏の歴史物語り論は、言語論と科学哲学の学識を背景としたもので、挙がっている名前は分析哲学のエースばかりである。彼の主張はそうした知見の「延長線上に構築された」のであるから、それを理解するためにはその受容が伴わなければならないが、それをプラクティカルな歴史家に求めるのは酷であると思わざるをえない。したがって例えば遅塚氏の努力は認めるのであるが、残念ながら反論の矛先を向けている野家氏の歴史物語り論には、遠く及ばない結果となっていると思う。しかしながら、「物語り論的観点の足場を再構築しながら、幅広い参加者による更なる議論の活性化を図ることが求められている」(鹿島)ことも確かであろう。したがってここからの考察は、「幅広い参加者」の一人として、歴史物語り論を踏まえつつプラクティカルな歴史認識にどうつなぐのかに向けた考察として、この「歴史と過去」を書き進めていこうと思う。

次回に続く・・・
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by mizuno_clan | 2012-02-12 16:37 | ☆談義(自由討論)

【Event】平成23年度「水野氏講座」

平成23年度「水野氏講座」

 今月、愛知県知多郡東浦町で、小河水野氏に関する講座「水野氏講座」が開催されます。本講座は、平成十四年度以前から、年一回開催されており、本年度で十回目くらいになるということです。
講師の高木傭太郎先生は、『東浦町誌』にも「水野氏」のことを詳しく執筆されており、また本会々員でもあります。

 以下に「東浦町」ウエブサイトに記載された詳細を転載します。
 尚 この記事については、うのはな館様から、転載の許可をいただいております。

                               文責:水野青鷺


「平成23年度 水野氏講座」
▼講座内容
緒川城主「水野信元(みずの のぶもと)」と、水野一族の動向について学びます。
▼とき
2012年2月25日(土)
午前9時30分〜11時30分
▼ところ
うのはな館(東浦町郷土資料館)
〒470-2103
愛知県知多郡東浦町大字石浜字桜見台18-4
▼定員
35名(先着順)
▼講師
愛知東邦大学講師 高木傭太郎氏
▼受講料
500円
▼申し込み
2月4日(土曜日)午前9時から受付
受講料を添えて「うのはな館」へ(電話申し込み不可)
▼問い合わせ
うのはな館
電話 0562-82-1188
▼website
http://www.town.higashiura.aichi.jp/25unohana/osirase.zenki.htm
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by mizuno_clan | 2012-02-04 12:31 | Event-1(講演会・講座)

スキン(レイアウト)変更

 この度、スキン(レイアウト)の新作が出来ましたので、変更してみました。
タイトルと記事の区切りが、以前より判りやすくなったと思いますが如何でしょうか。
文字が見にくい、画像が見えづらい等、何か不都合がありましたら、この記事のコメント欄に書き込みをお願いします。 

                                              研究会事務局
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by mizuno_clan | 2012-02-03 01:42 | Information