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【Event】ワークショップ「淨圓寺・鳥居観音史料から見る近代日中関係」


水野氏研究会 会員各位

 今回のワークショップで取り上げる、曹洞宗の水野梅暁師と浄土真宗の藤井草宣師は、一般的にはあまり知られていませんが、戦前の日中関係をみていく上で、欠くことのできないとても重要な人物です。現在、私たちグループは、このふたりについての史料調査を進めていて、この度、その中間報告を行うことになりました。来場は自由ですので、ご関心のある方はどうぞお気軽にお越しください。

                         水野氏研究会web会員 広中一成



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ワークショップ
「淨圓寺・鳥居観音史料から見る近代日中関係」」


主催:愛知大学国際問題研究所
共催:愛知大学東亜同文書院大学記念センター
日時:2013年2月21日(木) 13:00-18:00
会場:愛知大学名古屋校舎 厚生棟3F W32会議室
    (名古屋駅より徒歩約10分、または名古屋駅からあおなみ線ささしまライブ駅で下車し徒歩2分。駐車場なし)
参加:事前申し込み不要・参加費無料

趣旨
日中戦争時期を中心に、近代の日中関係は複雑かつ困難なものであった。そうした、本学の前身のひとつである東亜同文書院、さらに書院に関わる藤井草宣や水野梅暁の行動は、注意深く一次史料から検討されるべきである。このワークショップでは、そうした藤草宣と水野梅暁に関わる史料状況と、そこから見える近代日中関係の一面をあきらかにしたい。ここでは、藤井草宣に関連する史料を蔵する豊橋淨圓寺、水野梅暁の史料を蔵する埼玉県飯能の鳥居観音にスポットを当て、実際の史料調査作業の経緯を含め、報告する。

プログラム(予定)【update 2013.02.07】
主催者あいさつ
1、藤井草宣・水野梅暁について…三好章(愛知大学)・藤井宣丸(淨圓寺・草宣子息)
2、淨圓寺史料と近現代中国社会史研究…佐藤仁史(一橋大学)
3、日中戦争に関する淨圓寺史料について…広中一成(三重大学)
4、淨圓寺所蔵水野梅暁関係書簡について…宮原佳昭(南山大学)
5、淨圓寺史料のデジタル化…佃隆一郎(愛知大学東亜同文書院大学記念センター)
6、淨圓寺史料の整理について…野口武(愛知大学大学院)
7、鳥居観音所蔵史料…藤谷浩悦(東京女学館大学)・川口泰斗(鳥居観音職員)
総合討論
終わりのあいさつ…馬場毅(愛知大学国際問題研究所所長・東亜同文書院大学記念センター長)

お問い合わせ:愛知大学国際問題研究所事務室、052-564-6121
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【参考資料】

Ⅰ.水野梅暁(みずの ばいぎょう)略歴
明治10(1877)年1月2日生まれ。広島県出身
昭和24(1949)年11月21日死去。73歳

雑誌「支那時事」主催
支那時報社設立(大正13(1924)年)
日満文化協会理事
東亜仏教大会役員
著作「支那仏教の現状について」など

◉ 明治時代に愛知大学の前身である上海東亜同文書院に学ぶ。
後に曹洞宗開教師となり、湖南省長沙において、僧学堂『雲鶴軒』を開設。(のち本願寺派)
中国の文人墨客と交わり仏教の布教に従事。
外交家・ジャーナリストとしても、孫文・蒋介石といった革命派の人物や清朝最後の皇帝、溥儀など中国要人と広く交流。
玄奘三蔵法師の霊骨を日本仏教徒を代表して中国国民政府から分贈され、鳥居観音の三蔵塔を建立し納骨。


Ⅱ.白雲山 鳥居観音
 埼玉県飯能市大字上名栗3198
1.鳥居観音と水野梅暁禅師
 水野禅師が病気の静養地として、鳥居観音の開祖平沼彌太郎宅を訪れたことから、仏教を通じての両氏の交流は深まり、水野禅師は玄奘三蔵法師を祀る霊骨塔建立に携わり、鳥居観音に霊骨を分骨。 

2.鳥居文庫 
  水野梅暁の多くの遺品および中国の重要人物の書画文献数百点が鳥居文庫に収蔵。

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[註]

【ワークショップ】
 もともとは「仕事場」「工房」「作業場」など、共同で何かを作る場所を意味していた。
しかし最近は問題解決やトレーニングの手法、学びと創造の手法としてこの言葉が使われる事が多く、あらゆる分野で「ワークショップ」が行われている。
 「ワークショップ」は一方通行的な知や技術の伝達でなく、参加者が自ら参加・体験し、グループの相互作用の中で何かを学びあったり創り出したりする、双方向的な学びと創造のスタイルとして定義されている。
 ファシリテーターと呼ばれる司会進行役の人が、参加者が自発的に作業をする環境を整え、参加者全員が体験するものとして運営される。
 近年、学術大会などでも「ワークショップ」と称する集まりが開かれることも多く、研究者が興味を持っているマイナーな研究分野の研究会であることが多い。(出典:Hatena )


※水野梅暁については、その出自など不明な点が多く、現在、水野氏史研究会でも調査研究中ですが、会員各位および本記事をご覧の皆様の中で、「水野梅暁」に関する情報をご存じでしたら是非お知らせください。 (研究会事務局)



2013.3.7 update
愛知大学ニュース
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by mizuno_clan | 2013-01-30 15:11 | Event-3(諸事)

【談議1】水野氏と戦国談議(第三十九回)

歴史と過去⑤-事実と解釈-

談議:江畑英郷

 前回は、出来事というものは実体的なものではなく、先回りによって全体を指向することで、その端緒から循環的なものである、ということを論じた。過去の出来事が史実であるならば、事実もまた実体的なものではなく、それが解釈とどのように区別されるのかが問題となろう。「出来事」「事実」「解釈」という概念は、歴史学においてはお馴染みのものであるが、身近であるということが自明とは限らず、ここにおいては返って灯台下暗しの例えが当てはまるように思われる。そして「出来事」は、この三つの概念の中で最も理解しがたいものである。そうしたことから、前回の出来事に関する考察は、具体的のようでいて捉えどころのないものであったかも知れない。そこで今回は、事実と解釈について踏み込んで考察し、「出来事」に再度近づいておくことにしよう。

 『史学概論』の中で遅塚氏は、事実と解釈は明確に区別されうると強調する。これは実証史学の立場からすれば当然で、この区別が曖昧ということは事実が曖昧ということであり、それではこの学における実証性および客観性が揺らいでしまうことになるからである。したがって事実と解釈の峻別は、この『史学概論』における要の議論であると言っても過言ではない。その遅塚氏は、この事実と解釈の区別を次のように説明する。

 史料にはさまざまな種類があるが、市場価格表や課税台帳のような数量的記録は別として、事件や状態を記述した報告書や議事録等の史料においては、事実がありのままに記述されていることはほとんどありえない。そのため、歴史家は、媒体としての各種の史料を批判し・照合し・解釈して、媒体の背後にある客体としての事実を認識しようとする。事実の「認識」という場合、事実を確認したり復元したりできればよいのだが、それが困難で、事実の推測にとどまる場合も多い。だが、その推測は、合理的な蓋然性を備えていることが必要である。以上が工程表の③であって、ふつう実証と呼ばれる作業であるが、私は、のちに第3章で触れるように、実証よりも考証がよいと思っているので、以下ではなるべく考証と記すことにしたい。この作業は、歴史学にとって不可欠の作業であるが、そこで歴史学の作業が終わるのではない。たとえば、1789年7月14日の事件について、参加者の身もとを入念に考証して、パリの民衆が主体だったことを明らかにすれば、それは歴史学の重要な成果である。だが、歴史学はさらに④に進む。
 ④の作業は、いまの例で言えば、バスティーユ占領という事件、ないし、その参加者の主体が民衆だったという事実が、革命という大きな動きの脈絡の中で、いかなる意味を有するかを問うことである。ある事件の意味は、その事件だけを見ていてもわからない。それに関連するさまざまな事件の関連(相互連関・因果連関)の中に位置づけられて、はじめて、その事実の意味が理解されるのだ。いまの例でいえば、バスティーユの占領は、その他の事実との関連において、フランス革命の発端だったと解釈される。その場合、諸事実の間の関連は、歴史家が主観的に想定するのだということに注意しよう。諸事実の関連を想定し、ある事実をその関連の中に位置づけて、その事実の意味を明らかにしようとする主観的な営み、そういう営みを一括して表現すれば、事実の「解釈」と言ってよいだろう。したがって、以上の③と④の作業は、単純化すれば、それぞれ、「事実の認識」と「事実の解釈」と言ってよいのである。

(遅塚忠躬著『史学概論』)

 この説明は、遅塚氏が歴史学の「作業工程表」と呼ぶ5つのステップの3段階目と4段階目に対して与えたものである。以下にその「作業工程表」の③と④を引用しておく。

③諸種の史料の記述の検討(史料批判・照合・解釈)によって、史料の背後にある事実を認識(確認・復元・推測)する。(この工程は考証ないし実証と呼ばれる)
④考証によって認識された諸事実を素材として、さまざまな事実の間の関連(因果関係なり相互連関なり)を想定し、諸事実の意味(歴史的意義)を解釈する。


 遅塚氏の挙げる「作業工程表」の③は、「事実の認識」だとされるが、そこに「史料批判・照合・解釈」とあることから、別に「史料の解釈」であるとも言っている。歴史学は史料から出発することになるが、それは単にそこにある事実を眺めるわけではなく、史料に基づいた操作が必要なのであって、その操作のことを「批判・照合・解釈」だとしているのである。この操作が必要であるということは、史料が不完全であり事実がありのままには記述されていないことを意味する。事実は「痕跡」であるという言い方がまさにこれを表わしているのであるが、それは史料が事実の断片であるということなのだ。そしてそうであるならば、その断片の元である事実は逆に完全であるということになる。しかしながら、史料という断片の背後にあって操作を必要としている事実が、完全なものであるとどうしてわかるのか不思議である。そもそも「断片」とか「背後」という用語が「完全」とか「本体」を前提にしているのだから、当然のことではあるが、この完全であったり背後にあったりする事実とは、何を意味しているのであろうか。
 事実は完全であるという前提に立つと、史料を媒介としなければならない史実認識は常に不完全ということになる。そしてその不完全な史実認識は、どのように数を集めても完全にはならない。遅塚氏はこのことを、「推測にとどまる場合も多い」と言うが、推測を超えて事実そのものに到達することは、史料に基づく限り原理的に不可能なはずである。そしてこの推測は、具体的には「批判し・照合し・解釈し」という操作であり、その操作の結果である。ここに「解釈」が登場してくるが、これは④の「事実の意味を明らかにしようとする主観的な営み」としての解釈とは意味が異なる。もしこれが別ものでなければ、③と④は区別ができないことになるのだから、当然同じものではない。遅塚氏によれば、③は「史料の解釈」であり、それは「合理的な蓋然性を備えている」が、④は「事実の解釈」であり、「主観的な営み」である。このことで、③の合理性と④の主観性が対立しているようであるが、④が主観的であることによって非合理だということではないはずだ。また③は事実で、④は「その事実の意味」であると言うが、③も事実そのものではなく事実認識なのだから、④の「その事実の意味」と何かどう違うのかがいま一つはっきりしない。
 こうした遅塚氏のような実証史学の事実・解釈観に対して、二宮宏之氏は次のような批判を加えている。

 ところで、史料の厳密な検証作業と歴史記述としてまとめることのあいだにギャップがあることは多くの歴史家が認めるところで、そのズレを埋めるために好んで提起されるのが実証と解釈の二段階論である。まず第一段階として、史料の綿密な検討に基づく過去の出来事の実証という局面があり、ついで第二の段階として、こうして確定された過去の出来事をどう関連づけて説明するかという解釈の局面がくるというわけだ。[中略]ぼくらの手に遺されている痕跡は起こった出来事そのものなのではなく、文字史料の場合で言えば、その出来事を言語によって表象したものに他ならない。さらにまた、この痕跡から歴史を探り出そうとするいわゆる実証作業はと言えば、すでにしてそこには読み手の眼が介在しているのであって、それは歴史家による読解行為に他ならないのである。しかもこの史料読解の過程には、歴史家が過去を再構成する際のナラティヴの構図がはねかえってこざるをえない。このように見るとき、実証と解釈を二分してそれぞれを別個の相互に独立したオペレーションと捉える発想は成り立ちがたくなってくる。
(『二宮宏之著作集1』収録「歴史の作法」)

 二宮氏は、実証と解釈の二段階論を否定する。そしてその否定の理由として、史料は「出来事を言語によって表象したもの」だからという点と、実証作業には「すでにしてそこには読み手の眼が介在している」からであるという二点を挙げる。理由の一点目は、「言動によって表象したもの」が何を意味するのかが分かりにくい。二点目については、二宮氏が別に事例をあげて説明している箇所があるので、次にそちらを見てみよう。

 年表は、基本的とみなされる歴史事象を時間軸に沿って記載するかたちを採っている。それだからこそ日本では、大学を受験する者ならばせめてこれぐらいの日付は暗記しておくべきだといった話にもなるのだ。「八〇〇年一二月二五日、フランク王カール(シャルル)は教皇レオ三世より西ローマ皇帝の帝冠をうけた」とか、「一七八九年七月一四日、パリの民衆がバスチーユを襲撃した」という記述は、たしかに起こった出来事に照応している。しかし前者の場合、カールとドイツ式に表記するかシャルルとフランス式に表記するかでカロリング王国をどちらの側から見ているかを示すことになるし、後者の場合、襲撃した集団をパリの民衆と呼ぶのはすでにある解釈を含んでいることになるだろう。
(前掲書)

 「基本的とみなされる歴史事象」とは、この場合事実のことであると見てよいだろう。そしてそうした事実の記述においても、記述する者の視点によって表記の仕方が違ってくる。また「民衆」のような基本的な用語が、「襲撃した」といった用語とともに使用される場合、特定の社会的立場を意図的に強調することになる。つまりそれは「人々が」では、やはり記述者の意図を適切に反映することにならないのだ。しかし襲撃したのが「民衆」であるならば、民衆に敵対的な人々が襲撃される側にいたことになる。そこには、民衆と彼らを抑圧する人々という対立する社会階層が前提されているわけだが、こうした前提がある以上、解釈抜きの事実認識であるとは言えないはずである、というのが二宮氏の主張である。
 「事実」という用語は、認識された事実という意味と、事実そのものという意味の二通りに使用される。そして時にこれが曖昧となり、混同される。しかし歴史学において重要なのは、事実は認識されたものに限られる、という点である。認識されてもいない事実そのものは、どうやっても手が届かないからであるが、さらに重要なのは、認識は記述されねばならないという点である。
 記述するということに着目する利点は、ひとまず文字という目に見える形で議論できるということであるが、そもそも学問としての歴史学が、記述されることで成り立っているという現実に沿うことになる。歴史学の成果は、実際に論文、著作、講義といった言語表明によって示される。頭の中にある認識こそが歴史学であり、記述されたものはその表現に過ぎないのではない。個々人の頭の中にある認識そのものでは議論することはできないのであって、議論するには言語を通さなくてはならない。二宮氏が言うところの「言語によって表象した」というのは、ひとまずこの意味であると考えておこう。この記述するということからすると、事実は人知れず客体として独立している事実ではなく、また形のないところで成立している事実認識でもなく、事実として記述された出来事ということになる。歴史学においては、超越的な事実が文字に写し取られているから事実記述なのではなく、「事実として」記述されているから事実なのである。このことは、事実と解釈の考察をもっと深めたところで、再度考えてみることにしよう。
 この記述に考察の足場を置くことでまず見えてくるのは、記述されるものは文であり、そこでは必ず文脈というものが働く、ということである。先の例で言えば、「民衆」や「襲撃」という単語単体では、その意味を確定することができない。同様に、「パリの民衆がバスチーユを襲撃した」という一文単独では、その意味は「D地域の人々がB施設で活動した」以上を確定することはできない。このことは、以前行った高校生のタイムトラベルという思考実験を思い出してもらえれば、分かってもらえることだろう。見えるのは「民衆」ではなく人々であり、彼らの活動は分かるがそれが「襲撃」かどうかは俄かには判断し難い。そこには「見える」を超えた意味が付与されているのであって、この記述で「パリの民衆」を「パリの人々」にしないのは、その行為が特定階層の集団によって敢行されたこと、そしてそれが抑圧に対する反撃であったという意味が必要であったからである。同様に「襲撃」も、夜盗のように忍び込んで目的を果たし、それが済むとさっさと引き上げたというものではない。「民衆」と「襲撃」という語彙は、互いに引き合い意味を規定しあって、「革命」という次なる語彙を準備しているのである。そしてそれが「暴動」という語彙を準備するのではないのは、「パリの民衆がバスチーユを襲撃した」という文が置かれている文脈からくるのである。(ただしこの場合の「文脈」は、実際の論文や著作などの記述された文との関わりを意味するのではない。その文の意味を理解可能としている知識や了解など、理解の地としての全体のことを「文脈」と言っている)
 「パリの民衆がバスチーユを襲撃した」という単文が、それだけで事実に対応しているなどということはない。この記述文が意味するところは、「民衆」と「襲撃」そして「バスティーユ」という、この3語からの組み合わせなのではない。「一七八九年七月」には、パリにおいて無数の出来事が起こっていた。人々は、様々な施設に足を踏み入れただろうし、その施設でこれまた様々な事が起こったであろう。それら無数の出来事の中から、「民衆」「襲撃」「バスティーユ」という語彙が立ち上がるとき、それは単に起こったことの写し取りではなく、抑圧への反撃として脳裏に残すべき出来事であることが、すでにそこでは知られているのである。
 「バスチィーユ」は監獄であるが、これは社会秩序を維持するための機構をなす施設である。それを襲撃するのは、社会秩序の崩壊を意味することとなり、通常これは暴動である。その襲撃者が街の店員や工場労働者であったとしても、それは犯罪であり店員や労働者だからといって特別扱いはない。今日であれば、こうした施設の襲撃は「テロ行為」だと言われるだろう。これが革命的行為なのかテロ行為なのかは、「カロリング王国をどちらの側から見ているかを示す」のと同様の問題である。そしてどちらの側から見ることもそれは解釈であるのだが、それでも「パリの民衆がバスチーユを襲撃した」には何れの解釈も含まないと言うのであれば、そこには「パリの酒場で男たちが暴れた」と区別する特別な理由はないだろう。それならば、毎夜パリのどこかで起こる「パリの酒場で男たちが暴れた」がフランス史に記述されないのに、「パリの民衆がバスチーユを襲撃した」がそこに記載されるのは何故なのだろうか。
 出来事から解釈を剥ぎ取ってゆくとどうなるかは、前回示したとおりで、それは人知を超えた有象無象に還元してしまうことになる。このことはより明確に示す必要があるだろうから、それは次回にソシュールの言語論的に言及することで果たそうと思っている。今ここで考えねばならなないのは、解釈は「歴史的意義」よりももっと基本的な認識のレベルで働いているのであり、どんな認識の場合でもそれが形成されるとき、解釈は地として動き出しているということである。遅塚氏が自身の作業工程表の③で、この「解釈」という用語を使ってしまった真の理由はここにある。
 歴史家は出来事の渦中から遠ざかっているだけに、その出来事をリアルに把握することは難しい。したがって、歴史家の言うところの事実は、それだけに冷静で覚めた講釈となる。その事件の渦中にあって最も事実に近い人々は、これに反してこう言うかもしれない。「あの時はもう、誰もが熱くなっちまって、ほとんど無我夢中で自分が何をやらかしたのかもよく覚えてはいない」と。そして彼は次のように続ける。「だけど今は皆が言うように、貴族や金持ちの奴らに対するしっぺ返しだったんだと思っている」と、当然のように言うのである。だが本当のところ、彼のやらかしたことは、「こうだ」と言えるほど整然とはしていない。あの時彼は酒に酔っていたが、酒を飲んだ理由まで「しっぺ返し」だったはずがない。そして彼の女房は、そんな彼の言い分を言い訳だと思っている。
 起こったことは有象無象で数限りなく、渦中においては誰であっても、後になって言うほどにそれが何であるかを理解してはいない。その渦中が過ぎた後になって、「民衆」と「襲撃」そして「バスティーユ」という語彙を、分別をもった者が当てるのであるが、二宮氏はこの分別を解釈と呼ぶ。そしてこの分別が成立するところには、あの先回りがあり、予見による全体像が先行しているのである。

 遅塚氏の作業工程表の③と④に、「解釈」という用語が登場していたが、問題はやはりここにあるのだろう。遅塚氏は、③の工程に対して「事実の認識」と「史料の解釈」という二通りの言い方をし、④の工程については「事実の解釈」だと言う。こ③から④の認識構造を整理すると、「事実→史料→史料解釈=事実認識→事実認識の解釈」となる。そしてここで問題なのは、史料解釈=事実認識という箇所である。二宮氏はこの箇所を捉えて、「すでにしてそこには読み手の眼が介在している」と言っているのであるが、遅塚氏は「解釈」という用語を使っていながら、そこに主観性を認めない。それは何故かというと、③の解釈は「合理的な蓋然性を備えている」からであり、それは客観的であると考えるからである。しかしそこでは、③の解釈に使用される基本用語の意味という次元が、すっかり抜け落ちていて、そこの所を埋め合わせるために客体というものを持ち込んでいるようにみえる。「民衆」と「襲撃」そして「バスティーユ」は、解釈を含まない客体で、事実はこの客体を組み合わせたものだと考えているのであり、その組み合わせが「合理的な蓋然性を備えている」とするのである。これに対して作業工程の④では、「諸事実の意味(歴史的意義)を解釈する」と言っているので、この場合の「意味」は「意義」すなわち価値ということになるだろう。しかし二宮氏が言うところの、「言語によって表象したもの」という視点では、言葉の意味に照準が向けられているのであり、「民衆」「襲撃」「バスティーユ」は実体ではなく意味なのである。そして意味と言えば、例えば「カロリング王国をどちらの側から見ているか」という価値を抜きにしては、何が示されているか判然としないものなのである。

(つづく)
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by mizuno_clan | 2013-01-01 19:10 | ☆談義(自由討論)

【談議1】水野氏と戦国談議(第三十九回)

(つづき)

 言葉の意味が、事実と解釈にどう関わっているのか。ここからは非常にシンプルな史実を、その典拠となっている史料を確認しながら、この点について考えてみることにしよう。
 まず、桶狭間合戦を歴史事典で引いてみると、そこには次のように記載されている。

 1560(永禄3)尾張桶狭間における今川義元と織田信長との戦い。義元は駿河・遠江・三河3か国の大軍を率いて信長の領内尾張にはいり、沓掛から進んで桶狭間に駐軍したところを信長に奇襲されて敗死。信長制覇の端緒となった。
(角川書店『日本史辞典』)

 この辞書で記載されているところの桶狭間合戦は、歴史上の事実とされているから、辞書にこのように記載されている。そしてこの桶狭間合戦が史実であると言えるのはなぜかと問えば、多少とも歴史学を学んだ者ならば、それを示す良質な史料が存在するからだと答えるだろう。

<史料①>
夏中進発せしむべく候条、其れ以前に尾州境取出の儀申し付け、人数を差し遣り候、然らば其の表の事、いよいよ馳走祝着たるべき候、尚朝比奈備中守へ申すべき候、恐々謹言
 四月十二日             義元
            水野十郎左衛門尉殿

<史料②>
今度不慮の儀出来、是非なく候、然らば当城の儀、堅固申し付けの由喜悦に候、やがて出馬すべく候、なお三浦内匠助申すべく候、謹言
 五月廿五日             氏真
               天野安芸守殿

<史料③>
今度合戦の儀について、早々御尋ね本望に存じ候、義元御討死の上候は、諸勢討捕候の事、際限これなく候、御推量あるべく候、其の立願の儀について、委細御使与三郎殿へ申し候、聊かの相違あるべからず候、恐々謹言
 六月十日          佐久間御書判
             福井勘右衛門尉殿

<史料④>
(略)
去る五月十九日、天沢寺殿尾州鳴海原の一戦において、味方勝利を失う処、父宗信は敵を度々追い払い、数十人手負し出し、これに相与むと雖も叶わず、誠に後代の亀鏡、比類無しの事
(略)
永禄三年 十二月二日         氏真
                松井八郎殿

(『豊明市史 資料編補二 桶狭間の戦い』収録)

 これらは皆、一次史料とか一級史料とか言われるもので、その時点における伝達・記録の必要性から記載されたものである。そうしたことから、桶狭間合戦の概要ですらここには示されておらず、永禄3年5月19日に尾張の「鳴海原」で今川方と尾張勢の間で合戦があったこと、この合戦で今川義元が討死にしたことがわかる程度である。これは、これらの史料の差出人と宛人が、起こった出来事を同時代人として共有しているために、出来事自体の説明を必要としないからである。これに対して、この合戦の基本骨格および詳細については、『信長公記』『松平記』『三河物語』などに頼る他ないが、これらが上記の4点の史料と同格というわけにはいかない。ここでは史実と解釈の原理的分離の是非について考察しているので、これら後年の記録は除外することにする。
 さて、上記4点の史料と歴史辞典の記載を比較してみると、合戦の勃発した日付については一致しているが、場所については「桶狭間」に対して「尾州鳴海原」の違いがある。しかしこれは、ほぼ同一場所に対する表現の違いであるとしてよいだろう。次に、「今川義元と織田信長との戦い。義元は駿河・遠江・三河3か国の大軍を率いて信長の領内尾張にはいり、沓掛から進んで桶狭間に駐軍したところを信長に奇襲されて敗死。信長制覇の端緒となった」は、4点の史料には存在しない記載である。これは歴史辞典が『信長公記』などに拠っていることによるのだろうが、史実に厳格な態度をとるとしてその部分を切り捨てたとしても、「今川義元と織田信長との戦い」の箇所を落とすことはできないであろう。
 桶狭間合戦が「今川義元と織田信長との戦い」であったことは当たり前で、それがもしそうでないなら、桶狭間合戦の定義が変わってしまう。しかしながら、上記4点の史料にしたがう限り、合戦当事者の一方に今川義元がいたことは確かであるが、もう一方の当事者が織田信長であったことは、これらの史料からでは確認できないのである。さらには、今川義元の当事者としてのポジションが、これら史料において明確であるとも思えない。この合戦における直接の当事者が、今川義元であったとどうして言えるのか。また、合戦を何らかの紛争解決の一手段だとして、これはいったい何の紛争であったのか。この合戦の事実を示す根拠となる史料には、これらのことが記載されていない。ましてや、もう一方の当事者とされる織田信長においては、この合戦にどのように関わったのかが、これら史料からはまったくわからないというのが実情である。
 厳格に事実に向き合おうとすると、実際のところこれら史料はかなり頼りない。もっとも厳格の意味をどう捉えるかで、取り扱う史料も変わってくるのであり、かつて織田信長の家臣であった太田牛一が、江戸時代になって書き上げた『信長公記』の記載内容を、この厳格な事実の中に加えようとする場合もある。最近公刊された『愛知県史』は、この『信長公記』の記載の一部をその資料編の中に加えている。ただし一定度の保留つきである。そしてこの『信長公記』においては、この合戦の当事者が織田信長であることは明らかである。そればかりか、信長個人の意志と行動で、この合戦が展開しているという描き方さえなされている。ここで信長はまさに戦いの最中に身を投じているのであるが、これらの記載が事実であったかどうかは、実際のところ定かではない。しかしながらこの『信長公記』は、この合戦の当事者の一方が織田信長であったことを、事実として印象づけるには絶大な効果があったように思う。それでも原点に返ってみれば、この合戦の当事者については不明な点が多いと言わざるをえない。こうして桶狭間合戦について厳格に事実を追求しようとすると、わかっているのは永禄3年に鳴海方面で、今川義元が関与した合戦があったこと。そしてその合戦で義元が死去したことに過ぎない。この他にも、今川氏真の書状から見て取れる岡部元信の鳴海城守備などあるが、合戦に直接関わることの事実は極めて少ない。そうであるのに、歴史事典にこの合戦があのように記載されるのはなぜなのだろうか。
 合戦があったとしたならば、少なくとも敵対する二つ以上の軍事的な集団が必要となる。そしてその合戦において(実際のところ義元の死とこの合戦がどのような関係にあるのかは定かでないが)、今川義元が死去しているということからすれば、小さな小競り合いということもないだろう。ただし小競り合いでないことを示す明確な根拠はないのであって、そうである以上これは解釈である。そして小競り合いの多くは、合戦とは言わない。したがって、合戦と規定した段階ですでに解釈なのであるが、そこから相応の当事者が必要となってくる。義元が鳴海で死去したならば、彼は前線に出ていたことになり、義元ほどの人物が前線に出る戦いであるのに、彼が総大将(戦闘集団の筆頭指揮者)でないというのは、従来の戦国軍事観ではありえないことである。こうして一方の総大将が今川義元であったという解釈が俄然優勢になる。一方で合戦が起こった地名として「鳴海原」が挙がっているが、この鳴海は尾張東南部の伊勢湾に面する地域である。そしてこの鳴海の西隣には熱田があるのだが、ここは織田信長との関わりが非常に深い場所である。そして永禄3年ともなると、尾張における信長の勢力が大きくなり、外部勢力との軍事的衝突に信長が関与していないとはかなり考えにくいことから、彼の参戦が事実同然とみなされる。そして佐久間信盛の書状から、信盛の参戦が事実とされ、その上位者であった信長がやはり総大将の位置にあったはずだと推測されるわけである。
 歴史事典に史実として記載されていることでも、事実という用語の厳格な意味においては、事実とみなされうる解釈であることの一例がここにある。ここで事実を厳格に扱おうとしているのは、歴史研究はそうあるべしということを言いたいがためではない。そうではなくて、通常史実とされていることも、事実という用語の厳格な適用においては解釈になってしまうということであり、さらに踏み込んで言えば、事実などなくてすべては解釈なのだと言いたいのである。このように主張すると、それは事実と事実認識を混同していると反論されるかも知れない。しかしながら、事実とその認識を分離すると、事実はどうしても実体であり実在であると主張せざるをえなくなる。認識の側が事実を完全には捉えられないのだという考えは、事実はそれ自体で完全で確実であるという前提に立っていることになるが、そうしたものを実体あるいは実在と言うのである。この実体論あるいは実在論に対する批判は、前回の出来事実在論で少なからず述べたところであるが、これがなかなか掴みづらいところだと思う。

 私の目指したのは、世界と意識、世界と私、という基本的構図をとりこわすことである。その構図は古くから哲学を呪縛してきただけではなく、われわれの日常生活の隅々にまで浸透している。そしてその日常の知識を発祥の地とする科学もまたその構図の中で成長してきたものであり、したがって現代の科学者はそれを殆んど自明のこととしてこの図の中で思考し、実験し、生きているのである。
 それにもかかわらず、この構図、世界と意識とをまず剥がしそしてダブらせるというこの構図は、錯覚であり誤解であると私には思われる。(中略)しかしこの堅固な積年の眩惑をはらうのは、自分自身でからでさえ容易ではない。それはこの構図の中で鋳こまれた言語、その言語による思考の習慣や感慨の表白、非難や賞賛、といったものから身をはがすことだからである。

(『流れとよどみ』大森荘蔵著)

 ここで大森氏が言うところの「世界」が、実在論的事実の総体に当たり、「意識」がその事実認識ということになるだろう。そして解釈はこの「意識」の側にあって、実在論的事実の不完全な写し取りの補完ということになる。しかしながら、日本史辞典における桶狭間合戦の記述に紛れ込んだ解釈は、その史料の不足にあるというのではない。どのようにしても、史料は解釈を免れないということにそれは起因しているのであり、それは歴史学が言語に浸透されているということなのである。しかし出来事実在論を振り払うことは、大森氏に「自分自身でからでさえ容易ではない」と言わしめるほど困難なことなのであり、それを平易に語る努力もなかなか成就しない。

 歴史辞書における辞項である「桶狭間合戦」あるいは「桶狭間の戦い」には、すでにそこに「合戦」あるいは「戦い」という用語が使われている。この「合戦」(「戦い」も「合戦」の意味)は、同じ歴史辞書には載っていない。国語辞典には辞項としてあるが、どれも簡素で、集英社の『国語辞典』では、「敵味方の軍勢が出会って戦うこと」と記載されていた。「出会って戦う」というのは直接の戦闘行為を指すのだろうが、そこに「軍勢が」とある。これは戦闘用に組織(といっても程度は様々であるが)された集団を意味するが、このことから直接の戦闘行為に及ぶことを想定して組織された集団間の、意図された戦闘行為を「合戦」は意味することになる。そうなるとこの戦闘集団は、あらかじめ戦う相手も想定しているわけで、どこでどの程度の規模の戦闘集団と戦うのかが、この集団編成に先行して組み込まれていることになる。戦う相手が想定できなければ、どれくらいの集団規模にすべきかが決まらないし、戦う場所の見当がなければ補給物資の量も定まらない。そんなことでは「合戦」はできないし、直接の戦闘ともなれば被害の想定もあることだろう。これは単にどれくらいの被害というだけではなく、どこに被害が出るかという想定でもある。これについて別の言い方をすれば、集団全体が均一にリスキーなのではなく、ハイリターンの者たちがハイリスクなのであり、それは軍勢という当事者の中にさらに真の当事者がいるということである。このことはまた、この戦いが何のための戦いなのかということに関わっている。このように「合戦」という用語は、単に出会って戦うという以上の多様な意味内容を包含しているのであり、その意味するところは一様ではない。
 先の歴史辞典は、「今川義元と織田信長との戦い」と記述した時点で、「戦い」を戦国大名級の意図的組織的戦闘と既定したことになる。後段の「義元は駿河・遠江・三河3か国の大軍を率いて信長の領内尾張にはいり、沓掛から進んで桶狭間に駐軍したところを信長に奇襲されて敗死」は、この「今川義元と織田信長との戦い」に折り込まれているからこそ、『信長公記』などによる記載から取り込めるのである。歴史事典では、個人名Aと個人名Bの戦いという記載の形式に、突出した軍勢の指揮者の存在と、その指揮者の意図による戦闘行為、そしてその指揮者による軍勢の召集という意味が内包されている。そして「1560(永禄3)」によって、戦国期の合戦であるという認識が加わることで、その戦闘集団の発起決定、召集方法と召集対象者、指揮命令系統、戦闘の展開と戦後処理に至るまでが、暗黙の内に「今川義元と織田信長との戦い」という記述に重ね合わされるのである。その点で後段の記述は、国名や地名、進軍経路や戦闘経緯など固有項は別にして、前段の記述に内包されていたことが展開されているだけのものであり、それだからこそ先の①から④の史料に存在しない記述を、歴史辞典に記載できるわけである。
 「戦い」という用語の用法は非常に多彩であり、直接戦闘などではない「嫁と姑の戦い」や、直接戦闘であっても「巌流島の戦い」などのように個人戦闘である場合など、その意味は用語が登場する文脈によって異なる。そして「今川義元と織田信長との戦い」は、「佐々木小次郎と宮本武蔵の戦い」と同じ「戦い」の用法ではないのは明らかであるが、そのような用法の違いを可能にしているのは、「今川義元と織田信長との」に個人名でありながら軍勢の意味を見て取る解釈が加わっているからである。この解釈には、個人名を軍勢の代わりに記述可能とするような組織モデルが適用されているのであり、そのような組織モデルを念頭におかない限り、「佐々木小次郎と宮本武蔵の戦い」と同じ「戦い」の用法になるはずなのである。
 遅塚氏のような理解では、「信長制覇の端緒となった」が事実の解釈で、「1560(永禄3)尾張桶狭間における今川義元と織田信長との戦い」は事実である。そして「義元は駿河・遠江・三河3か国の大軍を率いて信長の領内尾張にはいり、沓掛から進んで桶狭間に駐軍したところを信長に奇襲されて敗死」は、史料の解釈といったところであろうか。しかしすべては言語の内にある以上、言語の外の事実などというものは「錯覚であり誤解」なのである。文脈を離れては、どんな記述も意味を確定出来ないのであり、文脈に先んじて存在する事実などないのである。

(つづく)
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by mizuno_clan | 2013-01-01 19:05 | ☆談義(自由討論)

【談議1】水野氏と戦国談議(第三十九回)

(つづき)

 「事実」という用語には、世界をその総体として構成する事実という意味ではなく、もっとそれにふさわしい別の働きがある。それまで事実とされていたことが、ある日を境に事実ではなくなる、ということはよくあることである。そのとき昨日まで事実であった出来事は、今日は何になったのであろうか。事実ではないものなので、虚実になったのだろうか。しかしながらそれが虚実だったとして、それでは昨日までの事実は何であったのかと、ここで些か困惑気味に事実を眺めることになる。そしてここで必要になってくるのが、事実と事実認識の区別である。
 事実は些かも揺らぐものではないが、その事実の認識は時に誤ることがある。しかしそれを認めると、すべての事実認識は誤っている可能性があることになり、その誤る可能性の程度ということを問題にするようになる。遅塚氏は、「柔らかな実在論」という奇妙な用語でこのことを主張している。遅塚氏によれば、「消費税は5%である」は堅牢な事実である。しかしながら、これが言語による表明である限り、そこに文脈が介在してこの表明の意味を規定していることに変わりはない。次回以降、堅牢で揺るぎようのない事実と見えるものにも、この文脈の力が避けがたく働いていることに、踏み込んで言及することになるだろう。ここでは、事実と解釈の働きを見ることで、この両者を定義することに進もう。
 事実は、後になって事実ではなくなる可能性が、原理的につきまとっている。それは何故なのかを考えるために、以下に4つの記述文を用意した。

① 三角形の内角の和は180度である、というのは事実だ。
② 地球は太陽を中心とした円周上を動いている、というのは事実だ。
③ 雨が降っている、というのは事実だ。
④ 永録3年5月19日、桶狭間にて織田と今川が合戦に及んだ、というのは事実だ。

 「事実」という概念は、ある事態についてそれが成立しているかしていないか、いずれかの場合も取りうる中で使用される。したがって①の記述は、三角形の内角の和が180度でない事態はありえないので、事実という用語の誤用であると言える。②については、この事態が成立しているかどうかは、天文学上の理論に依存する。一般に地動説と言われる②の言明は、コペルニクスによって提唱され、それ以降定説として定着したものであるが、コペルニクス以前の天動説では、「太陽は地球を中心とした円周上を動いている」であった。②の記述は、「惑星は恒星を中心とした円周上を動く」という理論に、「地球は惑星である」「太陽は恒星である」という規定を適用したものだが、「地球は惑星である」「太陽は恒星である」という規定も地動説によるものである。したがって、地動説にしたがう限り「地球は太陽を中心とした円周上を動いている」が覆ることがないのだから、②は理論上の帰結であり科学的真理ではあっても事実ではない。これに対して③の「雨が降っている」かいないかは、まさに事実の問題である。そして④のそうした合戦があったかなかったかも、まさしく事実の範疇として検討される事柄である。そして事実の範疇にあるということは、その出来事が起こったか起こらなかったかどちらかであり、それはどちらの可能性も等しくあるということである。①は公理という不動の真理であり、②は科学理論上の真理である。それはその時々の知覚に依存するものではないが、③は成立・不成立の可能性が等しいため、完全に知覚に依存することになる。そして④は直接の知覚によるものではないが、これまた知覚抜きではその真偽はわかりようがない。
 「事実だ」の最も手堅い用法は、③のような直接に知覚される事態に対する適用である。しかしながらその知覚も、「雨が降っている」という実在が認識されているというわけではないことは、ハンソンの観察の理論負荷性テーゼが示すところである。「雨が降っている」といった日常的な言明であっても、「様々な関連事項すべてを読み取った上で」(ハンソン)の認識であり、だからこそ見間違えるということが起こる。実在の端的な認識であるならば、なぜ見間違えるといったことが起こるのか。実在がありのままに捉えられているのならば、それを間違えて認識するなどということは起こるはずもない。それなのにそこで間違えたのは、それが「様々な関連事項すべて」の読み取りだからであり、「認識を間違える」と言うのであれば、この読み取りこそ認識なのだと考えねばならなくなる。そして間違っていたと気づいたのであれば、そこには別の読み取り方が提示されているはずだし、そちらが事実だと思える何かがそこにあったのである。
 事実の定義は「実際に起こった出来事である」、とひとまず規定することができるだろう。そしてそれが「実際に起こった」とどうして言えるのかは、③のようにまずはこの眼で見たということが根拠となる。しかし見間違えや幻覚を見るということもあるので、それだけで実際に起こったと言い切れるわけではない。それでは多数の人々が目撃した場合は、文句なく事実であると言えるかというとそうでもない。ネス湖のネッシーやUFOは、多数の目撃証言があっても事実とは認められない。それは何故かと言うと、その目撃した出来事が、既に事実として認められている出来事と整合しないからである。したがって「実際に起こった」というのは、大多数の人々に事実として認められていることと整合的であり、多数の人々に知覚されてもいる、という意味となる。これが歴史上の事実の場合は、同一の出来事に関する史料が多数存在し、かつそれら記録された内容がこれまで確定している史実に整合的であることによって、その出来事を「実際に起こった」とするわけである。
 しかしながら、多数の目撃証言があり、なおかつ確定している事実と整合的であっても、後に事実でなかったことが判明する場合もある。事実は新たな事実によって覆るのだが、すると先ほどまで事実だと思っていたのは何だったのか。それは実際に起こってはいなかったのだが、実際に起こったとされていた。そこには少なくとも二つの理解の仕方があったはずで、そのうちこれだと思っていた方がハズレだったのである。しかしそのハズレの方も、これまでは事実であったのだから、事実としての資質は備わっていたはずである。そして事実だと思われ確定していたことが覆るということは、原理的にあらゆる事実は資質があるに留まるということになるはずだ。この覆りの可能性には程度があるだろうが、絶対に覆らないというのは事実ではなく真理であり、その点で事実は事実の資質があるに留まるのである。そうなると事実の意味は、「実際に起こった」ではなく、「実際に起こったと見なすことができる」出来事ということになる。しかしこの「見なすことができる」というのは、妙なことにどこか解釈を思わせるのである。
 次に解釈の定義について考えてみると、実際に起こりえないことは解釈とは言わないはずで、解釈とは起こり得ることでありながらそれと確定でないことかと思われる。なぜ確定できないのかと言うと、他に同等の資質がある別の起こりえる事態が挙がっているからである。この場合、具体的に挙がっていなくとも、他に幾らでも取りようがあるなどもこれに含まれる。そこから、目撃証言の多さとか記載史料の豊富さ、あるいは既定事実との整合性の強度などから、特定の解釈が事実に昇格する。始めからそれ単独で紛うかたなき事実などないのであって、言わばライバルの解釈に競り勝ってその座を射止めたのが事実である。したがって事実と解釈の差は位の差であって、より強力なライバルの出現によって位落ちすることもあるわけである。
 事実と解釈の違いは、その時点の資質における程度の差でしかない。そして事実は、自らを確実だとして踏ん張ろうとしたとき、足元から崩れ落ちてしまう。事実は、他の事実との整合性に支えられており、それは言わば事実どうしが互いに寄り添って、そのスクラムの力でその位を保っているという構図である。したがって、ある事実がその確実性をより確かにしようとすれば、それと整合的な関係にある事実も同じように確かさを求められることになる。それはAという事実が、Bという事実に整合することで確かであるなら、今度はBという事実はCという事実に整合することで確かであり、Cという事実は…、といった具合である。この整合性のネットワーク、あるいは根拠の連鎖は、どこまで行っても原理的に尽きることがない。それはこの整合性がネットワークであり連鎖である限りそうなのであって、第一事実あるいは根本事実なるものが存在しないのならば、この根拠への遡及は留まることを知らないことになる。そして「事実」がある起こりうる事態の一方である限り、第一事実や根本事実が存在するというのは背理となる。しかしながら、どこかでこの連鎖を、この根拠への遡及を止めなければ、事実群は事実として出発できない。
 ここで用語を改め、起こりうるのは事態であり、その整合的な事態群が複数考えられるとする。ただしその整合性に制約をかけなければ、一まとまりにみえる事態群も他の事態群と部分的に結びつき、重なり合うことになる。それはかなり複雑な関係・連鎖であり、特定の事態を取ってみるとそれは幾つもの事態群に結びついているのである。またその事態に相反する事態も存在し、その相反する事態と直接に結びつくことはないが、連鎖を経由して結びつく場合もある。これは矛盾であるが、この事態の複雑な連鎖にはそれを抑止する機能があるわけではない。この広大で複雑な事態の連鎖は、出来事の理解を可能にする前提であり地である。そしてこの事態の連鎖の中から、ある事態群を「事実として」捉えることになる。
 桶狭間合戦において、松平元康は丸根・鷲津砦を攻略すると、その後の戦いには参加せず大高城に入りその守備についた。もっともこれは『信長公記』によるものであるが、その後の元康がどうしたのかは、『三河物語』によると次のようである。

「義元は討死をなされ候由承り候、その儀においては、爰元<ココモト>を早々御引除<ハラワ>せ給ひて御尤<ゴモットモ>」の由各々申しければ、元康の仰せには、「たとえば義元討死有とても、その儀、何方<イズカタ>よりも聢<シカ>としたる事をも申し来たらざるに、城を明け退き、もし又は、その儀偽りにも有りならば、二度義元に面を向けられんや。それ故に、人のさざめき笑種<グサ>に成ならば、命ながらえて詮も無し。然らば、何方よりも碇<シカ>としたる事無うちは、兎角に退かせられまじく」と、仰せ除<ハラッ>て御座候処<トコロ>へ
(『豊明市史 資料編補二 桶狭間の戦い』収録)

 今川義元が討死したという情報が松平元康の下へ届けられたが、それが事実かどうか、この場合誰もが確信をもてなかった。むしろ当初は戦場につきものの虚報であると思ったに違いないのであるが、時間とともに情報が増えるにつれて、「これはもしや」ということになってきた。最初の第一報が信じられなかったのは、今川軍と織田軍の戦力差からみて、総大将の義元が討たれるなどありえないと判断したためである。ここでは寄せられる情報に対する解釈が幾つにも分かれ、その中で言わば常識で事実を判定しているわけである。そして義元敗死、今川軍総退却を告げる情報が増えるにつれて、松平首脳陣は常識での判定の修正を迫られるのである。そのとき元康は、「もし又は、その儀偽りにも有りならば、二度義元に面を向けられん」、さらに「人のさざめき笑種に成ならば」という懸念を述べて、今しばらく城に留まろうとする。ここでは事実の判断を誤った場合の二つの想定が念頭におかれ、織田軍中に孤立し苦境に立たされることよりも、軍務放棄の追及と対面を失うことの恐れを優先させている。このとき元康に事実はどちらなのだと問い詰めたならば、「やはり信じられない」と言ったことだろう。
 松平首脳陣にとって、このときの事実とは、大高城から退却するかどうかを決断するための切実な起点である。もちろん実際のところ義元戦死と今川軍敗走が事実かどうか、必死で探り考えたに違いない。報告は幾つもある。もしこの切実さが無ければ、「なるほど、そうか」と言ってすんなり報告を事実と認めたことであろう。だがこの場合の事実認識は、まさに身を切る思いでの決断なのである。客観性には限りがあって、彼らが求めるほどの確信を諸情報は与えてはくれない。それでも事実認識を保留することはできない。結局元康が「兎角に退かせられまじく」と言ったのは、「今川軍が敗れるなど信じられない」と言ったも同然のことであり、「事実だ」が「決心」に追い落とされている。
 事実認識と決心の関係は、事実認識がまずあって、その後にその事実認識に基づいて決心があるというものではないことが、この桶狭間合戦のおける松平元康のエピソード(事実かどうかは定かでない)から理解することができる。元康は、決心すると同時に、今川軍は敗れてはいないという事実認識を選択した。しかしながらこの場合の事実認識は、実際は解釈である。元康は大高城を守備する松平軍の次なる行動を指示しなければならず、そのために決断をして「今川軍は敗れてはいない」という解釈を事実だとしたのである。「事実」は多様な解釈の中から、行動するために選ばれているのである。行動するために、解釈は解釈のまま留めているわけにはいかなくなる。そしてこの「行動」とは、元康のような切実なものだと限ったわけではない。前に進むためには起点が必要であり、事実とはこの起点のことなのである。したがって、本来止めどないものを止めて、確かな足取りの起点を成すこと、これが事実なのである。そしてこの起点を単独で支えられる事態など存在しないのであり、それは整合的な事態全体で支持し、その支持がその整合的事態全体を事実にするのである。事実が確かで疑いようもないことなのではなくて、確かさを成して前に進ませること、この機能の発動が事実なのである。そしてこの機能の発動が必要であるから、解釈群の中から特定の解釈が事実として抜擢されるのである。

 歴史の探求において、事実と解釈という概念は、その捉え方によって探求のあり方を大きく左右するような基本概念である。言語論的転回を下地として提唱された歴史物語論は、この事実と解釈の概念に転換を迫るものであるが、それが歴史探求の足場として機能している概念であるだけに、歴史家にとってその転換は容易には受け入れがたいものだろう。見たところ遅塚氏は、言語論的転回にしろ歴史物語論にしろ、その要諦を取り違えてしまっており、その危機意識とその回避の努力は空回りしてしまっている。今回見たように、事実と解釈は何れも文脈依存的であり、相互依存的に歴史理解を支えている。その中で事実は、同じ解釈としての立場を一歩越え、確実な理解の出発点としての機能を果たす。事実と解釈は、何れも歴史理解を可能にする条件であるが、それが事実と解釈に分離するのは、理解を進め歴史を語るためである。事実を主旋律とし、解釈を伴奏とする歴史語りは、過去を固定するためにあるのではなく、縦横無尽に駆け抜けるためにこそある。

(次回に続く)
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by mizuno_clan | 2013-01-01 19:00 | ☆談義(自由討論)

2013年賀

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 旧年中は、本会事業にご協力を頂きまして、誠にありがとうございました。
本年も倍旧のご支援の程よろしくお願い申し上げます。
 平成二十五年元旦

                          水野氏史研究会事務局
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by mizuno_clan | 2013-01-01 00:03 | Information