【談議1】水野氏と戦国談議(第四十回)

過去と歴史⑥-歴史と言語Ⅰ-

談議:江畑英郷

 遅塚氏が書いた『史学概論』は、詰まるところ「歴史学は事実に基づく」ということを、分厚くなった紙数を埋める文字で訴えたものだと思う。そして「歴史学は事実に基づく」などという基本的なことを、今さらことさらに主張しなければならなかったのは、その歴史学の根本基盤が揺らいでいる、と危機感を募らせたからである。この遅塚氏が捉えていた危機感は、その著作に頻繁に登場する歴史物語論および言語論的転回の浸透に向けられている。もっともこの浸透は、学術的側面ではほとんど進んでおらず、政治がらみの歴史認識で一時期ばっと騒がれた、ということに過ぎないのかもしれないが。
 これまで遅塚氏の『史学概論』からは何度も引用させてもらったが、これも詰まるところ、「歴史学は事実に基づく」という場合の「事実に基づく」とは、何であるのかを考察するためであった。前回は「事実と解釈」をテーマとして掲げこのことに言及したが、それだけでは十分とは言えない。なぜならば、このことを言語の面から考察していないからである。遅塚氏が危機として認識した言語論的転回、それは歴史物語論の基礎をなすものであるが、これが何であるかについて遅塚氏はほとんど理解できていなかった。そしてそのことが本人の熱意を裏切るように、「歴史学は事実に基づく」を陳腐なお題目に貶めた原因である。このことからすれば、歴史学はこの言語論的転回を知らぬ、では済まされないはずである。したがって今回からは、この言語論的転回を踏まえた「歴史と言語」について考察していこうと思う。

 現在の歴史学者が、歴史と言語の関係をどのように見ているのか、それを示す一例を以下に掲載する。

 歴史認識は、歴史的事象の事実そのものについての認識である事実認識と、そこに各人の生き方からの判断を加える価値認識とからなる。これらの認識において子供の頭の中に成立している知識は、前者は事実的知識、後者は価値的知識と呼ばれている。これらの歴史的知識は何層かに分けることができる。ここではそれらを次の6層でとらえることにする。すなわち「事象の構成要素」、「事象記述」、「事象解釈」、「時代解釈」、「社会の一般法則」、「価値的知識」である。
(1) 事象の構成要素-これは歴史的知識の基礎をなすもので、事象を構成するさまざまな事項にかかわる用語である。たとえば、鎌倉、阿波、東海道といった地名等、源頼朝、徳川家光といった人名、文永11年、1467年といった年号、上げ米の制、勘定奉行といった制度・職名等、元寇、2・26事件といった事件名等がこれにあたる。
(2) 事象記述-これらの用語を組み合わせ、ある事象に対して解釈を含まない命題の形で記述したのが「事象記述」である。たとえば、「文永11年、元軍が博多湾に攻め込んできた」とか、「1722年、上げ米の制が実施された」などの記述である。
(3) 事象解釈-このようにして記述されたいくつかの事象を概括的に解釈することによってなされた説明が「事象解釈」である。これは、いくつかの事象の関連を探求することによって、ある事象がなぜ生起したのか、その結果どのようになったのかといったことを説明するものであり、それは一つの解釈を示している。たとえば「江戸幕府の財政が窮乏したので、幕府は財政の立て直しを図って享保の改革を実施したが、立て直しは一時的なものに終わった」というような享保の改革に対する解釈を述べたものがこれにあたる。

(伊藤亮三著『社会科教育学』)

 この歴史的知識階層の説明は、(4)「時代解釈」、(5)「社会の一般法則」、(6)「価値的知識」と続くがそれは省略する。この伊藤氏による歴史的知識の6階層は、前回引用した遅塚氏の5階層の作業工程表と基本的に変わるところがない。しかしながら、「歴史的知識の基礎をなすもの」として「名」を挙げている点が、遅塚氏の作業工程表との違いとなっている。歴史的知識の階層と歴史の作業工程階層であるから、整理の仕方に違いがあるのは当然であるが、知識を記述とし、その構成要素を「名」と捉えた点が注目される。(2) の事象記述は、「ある事象に対して解釈を含まない命題の形で記述した」ものであるのだから、遅塚氏の定義するところの「事実」に当たる。そして伊藤氏は、この事象記述が「名」であるところの「用語を組み合わせ」て成立するとして、その事象の記述構造を示すのである。
 このように伊藤氏は、歴史的知識の階層を示そうとすることから、それを記述されたものとして捉えるのであるが、これによって事象あるいは事実と言語の関係を、暗黙的にではあるが示す結果となった。そして伊藤氏が示す結果となったのは、歴史的事象が記述可能なのは事象の構造と記述の構造が一致しているからだ、ということである。事象は知識となりうるのであり、知識であるならば記述が可能である。記述が可能ということは、事象は言語で示すことができると言うことである。そしてなぜ事象を言語で示せるのかと言えば、構造が合致しているからということになる。伊藤氏がこのことをどこまで明確に意識していたかわからないが、用語と記述の関係を示すことで、この前提が露見したのである。そして歴史的事象を言語で示すことができないならば、歴史学というものも成り立たないであろうから、このことは歴史家であれば誰もが前提としているということになる。
 歴史事象が記述可能であるということは歴史学の大前提であろうが、あまりにも基本的なことなので、歴史学の中でこのことが踏み込んで言及されるのは稀であろう。伊藤氏の示したことがその踏み込みに当たるというのではないが、この「事象記述」について考察することから「歴史と言語」を始めることにしよう。

 伊藤氏によれば、名を示す用語は「歴史的知識の基礎をなすもの」であり、「事象の構成要素」である。つまり名を示す用語は歴史的知識の基礎要素なのであるが、この基礎要素だということは、これをそれ以上の要素に還元できないということである。これは歴史学の原単位が名を示す用語だと規定するもので、歴史的知識はこの原単位の「組み合わせ」で成立しているという主張である。そしてこの原単位の最小の組み合わせが、事象記述なのである。歴史学は事象記述を基盤としており、その事象記述の構成要素が用語なのであるが、その用語の妥当な組み合わせを示すのが歴史学の使命である。つまり「文永11年、元軍が博多湾に攻め込んできた」という事象記述においては、「元軍が攻め込んできた」のが「文永11年」かどうか。あるいは「元軍が攻め込んできた」のが「博多湾」なのかどうか。あるいは「博多湾に攻め込んできた」のは「元軍」なのかどうかが、この歴史的知識の妥当性に関わることになる。ところで伊藤氏のこうした歴史的知識と言語の捉え方をみていると、20世紀を代表する哲学者であるウィトゲンシュタインが示した、言語の写像理論が思い起こされる。

 像の理論とは、端的に言えば、「命題は現実の像である」ということにほかならない。命題は「名前」と呼ばれる単純記号の構造的連鎖であり、名前は現実の構成要素である「対象」を名指している。そのことによって、単純記号の配列である「命題」は、諸対象が鎖の輪のように繋がり合って成立する「事態」を描写することができる。だが、それだけでは「像」としての命題が事態を正しく描写しているか否かを決めることはできない。そのためには像と現実とがある種の「形式」を共有する必要がある。すなわち、「いかなる形式の像であるにせよ、およそ像が現実を正しく、あるいは誤って写せるには現実と共有しなければならないもの、それがすなわち「論理形式」にほかならないのである。そして、現実と「論理形式」を共有する像の最小単位は「要素命題」と呼ばれる。要素命題の真偽は、事態の存立・非存立と余すところなく一致するのである。それゆえ、ウィトゲンシュタインは次のように主張する。
「すべての真なる要素命題を枚挙すれば、世界は完全に記述される。すべての要素命題を挙げ、さらにそのうちのどれが真であり、どれが偽であるかを指定すれば、世界の完全な記述が得られる。」(論理哲学論考)

(『岩波講座現代思想4 言語論的転回』収録野家啓一著「ウィトゲンシュタインの衝撃」)

 ウィトゲンシュタインにおけるこの写像理論の核心は、現実と像の「論理形式」の共有にある。その点で伊藤氏の見解とは別次元なのであるが、言語と現実が写像関係にあるから、事象を言語で示すことが可能であるという点は、伊藤氏あるいは歴史家の暗黙の前提と合致する。名前は「現実の構成要素である“対象”を名指している」のであり、この名指しが成功していることで、名前は命題の要素となることができる。名前は命題(事象記述)の構成要素であり、名前によって名指される対象は現実の構成要素である。名前と対象、命題と事象(現実)が対応し、<名前-命題>と<対象-事象>の構造が合致していることで、事象は言語(命題)で示すことができるというものである。
 伊藤氏の暗黙の前提は、この言語の写像理論を介して捉えるならば、歴史事象は歴史要素命題として「すべての真なる要素命題を枚挙すれば」、歴史は「完全に記述される」ということになる。そして歴史要素命題の真偽は、名前の組み合わせの妥当性次第であり、歴史家はこの妥当な組み合わせを示す役割を担っている、ということになる。ただしここで言いたいのは、伊藤氏の歴史事象と言語に関する暗黙の前提が、ウィトゲンシュタインの写像理論と同じであるということではない。正しくは同じではないはずだが、名前と対象をを写像関係で結びつけ、その写像関係が成立していることが暗黙の前提となっている、ということをここで明確にさせておきたかったのである。伊藤氏の前提がそうでなかったのならば、「事象の構成要素-これは歴史的知識の基礎をなすもので、事象を構成するさまざまな事項にかかわる用語である」とは記せなかったはずである。こうして、事象の構成要素は言語の外側に実在する対象であり、歴史的知識の還元限界であるのだから、歴史学は名前から始めるのである。

(つづく)
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by mizuno_clan | 2013-03-31 13:40 | ☆談義(自由討論)

【談議1】水野氏と戦国談議(第四十回)

(つづき)

 伊藤氏がこのような歴史事象と歴史認識における言語の写像関係を前提としたのは、歴史学が客観的な学問であるということを示す必要があったからである。客観的な歴史的知識は、単に「私は認識した。それは私の頭の中にある」では済まないわけで、歴史的知識は記述されねばならないという点から、伊藤氏は事象記述の構造について言及した。このことはもちろん適切なことで、林氏と遅塚氏の二つの『史学概論』では、正面から言及されなかったところのものである。事象、事実、あるいは客体でも実在でもよいが、それはどのようにして記述されるのか。歴史学の対象とそれを捉えた成果としての記述がどのような関係にあり、さらにはどうして捉えられたと言えるのか。歴史と言語の問題は、歴史学存立の根幹に関わることだと言えるだろう。
 歴史事象と歴史記述(歴史の要素命題)の構造が一致しているという見解の中心には、事象における対象と記述を構成する名前(用語)が、名指しによって直接に結びついているという前提がある。また伊藤氏は「用語を組み合わせ」たものが事象記述だと述べているが、このことは歴史家が主観的に用語を組み合わるということではないだろう。事象対象に対する適切な名指しが為されれば、必然的に適切な用語の組み合わせになるのであり、組み合わせそのものは事象側にあるはずである。したがって歴史事象の認識の根幹を支えているのは、この事象対象の適切な名指しであり、その作用の結果としての妥当な用語の使い方にあることになる。それでは、伊藤氏の挙げた事象記述の事象例は、そのような事象対象の適切な名指しとなっているのかをここで詳しくみることにしよう。

 伊藤氏によれば、「文永11年、元軍が博多湾に攻め込んできた」は事象記述である。そうであるならば、「文永11年」「元軍」「博多湾」は、この事象記述の構成要素であるということになる。「攻め込んできた」は名詞ではないが、これも事象記述を構成する要素である、と考えねばならない。そして事象記述は事象と写像関係にあり、「元軍」「博多湾」はその名に対応する対象を指し示している、ということになる。それではここでまず、「元軍」という用語が指し示す対象とは何であるかを考えてみることにしよう。
 「元軍」とは元の軍隊のことであるが、この「元の」というのは、中国の元王朝が編成維持しており、その元王朝の命令に従わせている、という意味であると理解される。したがって、「元の」というのは「軍」の所属を表す用語であり、「元軍」の本体的用語は「軍」ということになる。それでは「軍」とは何んであるかと言うと、辞書(大辞林)での「軍」は「軍隊」のこととされ、「一定の秩序をもって編制された軍人の集団」とある。ではその「軍人」とは何かと言えば「兵士」だと書かれている。そして「兵士」は「戦闘に従事する者」とある。つまり「軍」とは、戦闘行動を目的として編成された組織(一定の秩序をもった集団)ということになるが、この規定を箇条書きにすると以下のようになる。

①編成された集団である。
②秩序(決定と行動の統一性)が維持されている。
③戦闘を目的としている。

 この「軍」の定義の①と②は、「軍」の外部に主体を必要としており、「軍」を編成した主体と「軍」の行動を決定する主体が必要である。そして「元軍」は、このどちらの主体も「元」だということを示している。そして②の秩序であるが、この秩序が維持されているかどうかは、「元軍」という存在の根幹に関わる。なぜならば、この軍としての秩序が維持されていなければ、編成されていようと命じようと、それは軍として働かないからである。そして軍として働くということは戦闘することであるから、その秩序は厳格でなければならない。例えば元王朝によって動員編成された軍隊であれば、その時点でこの集団の目的は戦闘行為となる。ところが、どうしたことか元王朝の命令を聞かず勝手に動いているとしたら、これはもはや元軍ではない。つまり①と③は成立しているが、②が欠如してしまうとそれは軍隊とは言えず、無秩序で暴力的な集団である群盗とか暴徒ということになる。またその集団は秩序立ってはいるが元王朝の命令に従わない場合、それは反乱軍と呼ばれるようになる。このように②の秩序・統制については、特にその程度というものが実態を規定することになるが、文永の役における元軍はこの点どうであったかを確認することにしよう。

 文永十一年(一二七四)十月、日本遠征の準備は整い、遠征は決行された。元軍の第一次日本遠征すなわち文永の役である。その兵力は史料によってまちまちであるが、屯田軍・女真軍(もと金の領内の兵、漢軍ともいう)・水軍からなる元軍が二万人、高麗軍が六〇〇〇人で、計二万六〇〇〇人というのが、池内宏氏の説である。高麗軍は金方慶に率いられ、蒙漢軍(モンゴルと旧金の軍)は忻都<キント>が主将で、洪茶丘<コウサキュウ>・劉復亨<リュウフクコウ>がこれを補佐した。
(佐伯弘次著『日本の中世9 モンゴル来週の衝撃』)

 ここで佐伯氏は、「元軍の第一次日本遠征すなわち文永の役である」という表現をする一方で、「元軍が二万人、高麗軍が六〇〇〇人」とも書いている。同じく「元軍」と記しても前と後では意味が違うことになるが、これらの記述では用語と事象対象が一対一の関係とはなっていない。前者の「元軍」と後者の「元軍が二万人、高麗軍が六〇〇〇人」が等しいのであり、後者の記述の「元軍」の指し示す対象の方がより限定されている。この点について他の記載に当たってみると、講談社の『日本の歴史10 蒙古襲来と徳政令』では「モンゴル・高麗連合軍」と記され、海津一朗氏の『蒙古襲来』でも「蒙古・高麗連合軍三万数千人」と記載されている。このことからすれば、より適切には元王朝と高麗王朝の連合軍であり、前者の「元軍」というのはその総称ということになる。そしてそうした総称が可能なのは、高麗王朝が元王朝に臣従しているという前提があってのことである。
 しかしながら佐伯氏の記載をさらによく見ると、「屯田軍・女真軍(もと金の領内の兵、漢軍ともいう)・水軍からなる元軍」という表現がされている。つまり後者の意味での「元軍」がさらに細分化されており、ここでの「屯田軍」とは、高麗人の抵抗勢力である珍島政府や三別抄に対して派遣されたモンゴル人主体の戦力である。

 開城の元宗政府が頼りとするのは、モンゴル駐留軍であった。珍島掃討作戦は、海の戦いとなる。そのため忻都を指揮官とする五〇〇〇のモンゴル騎馬軍団は、半島南部沿岸の金州に進駐した。合わせて、高麗人コロニーの主人、洪茶丘(洪福源の子)は、自分の領民から成る私兵軍を率いて屯田した。時に、中国本土の中央部では裏陽戦のさなかであった。
 モンゴルの指令下で、元宗政府による造船作業が開始された。一二七一年、モンゴルの部将アカイ率いる第一次の珍島攻撃は、多くの損害を出して失敗した。陰暦五月、ヒンドゥ麾下のモンゴル・高麗連合軍は夏の海を渡り、珍島に猛襲を加え攻略した。捕獲された王温は、斬刑に処せられた。モンゴルとしては、ささやかであったとはいえ、事実上、最初の海戦の勝利であった。

(杉山正明著『モンゴル帝国の興亡<下>』)

 佐伯氏は、高麗軍と連合した「元軍」に対して、さらにモンゴル人主体の屯田軍と旧金軍というような識別を与えている。このように一口に「元軍」と言っても、それを単一で均質的な軍隊とみることはできない。特に高麗軍については、「クビライ王朝に最も忠実な附庸国」(杉山)であったのだが、高麗人内部の内乱に連合軍として対処するなど共同関係を続けており、両者の関係は軍事力を背景とした強圧的な力の前の服従として済まされるものではなかったのである。こうした事情が「元軍」には存在するのであるが、「文永11年、元軍が博多湾に攻め込んできた」における「元軍」は、このような連合あるいは混成の軍事的集団であったことを何ら示してはいない。むしろそれを示さないことで、一口に「元軍」と言ってしまえる単一の対象が存在する、と思わせる結果になっている。そうであるならばこの記述は、非常にシンプルであるために解釈を含まない記述であると思いがちではあるが、実際は「元軍」という単一の存在を喚起するという解釈を生んでしまっていることになる。それは「元軍」が「攻め込んできた」と結びつくことで、「攻め込まない」ことはなかったとしているわけで、攻め込むことに関しての単一性・均質性を示す結果となっている。しかし連合とか混成といった集団は、単に種別の違うものが組んでいるというだけでなく、目的や行動における不一致を孕んでいるということでもある。そうであるならば、「攻め込まない」ことを完全に排除することはできないはずで、具体的には旧金軍(漢人化した女真人と華北の漢人)がモンゴル人と同程度には忠実に攻撃していないとか、高麗人の中には隠れて攻撃の足を引っ張る者もいた、ということを排除できないだろうと言うことなのである。そうであるのに、「元軍」を「攻め込んできた」と結びつかせることで、そこに単一の意味しか示せなくなっているのである。この点からすれば、歴史的知識の基礎になるという事象記述は、その意に反して物事を単純化し粗略に記述したもの、ということになるだろう。

 次に「元軍」という中国の王朝軍が「攻め込んできた」場所である、「博多湾」について考えてみよう。この「博多湾」は、この場合単に自然地形の名前として機能しているのではない。この記述においては、「攻め込んできた」場所が博多湾なのではあるが、より正確には進入した場所が博多湾であり、攻め込んだのはそこの施設とかそこにいた敵対集団に対してである。そして博多湾にいたことを理由として、その施設や集団が攻められたのではなくて、そこが日本であり日本の施設や集団であったから攻め込まれたのである。つまり「博多湾」は、元軍の敵対者である「日本」の隠喩としても機能している、ということなのである。
 事象記述に隠喩が紛れ込んでいるというのは、かなり問題である。というのは隠喩である以上、それが何を指し示すのかを解釈しなければならないからである。そうなると、解釈を含まないことが事象記述の要件である以上、この伊藤氏が挙げた記述は事象記述ではないことになる。それならば、「博多湾」を事象要素としての「攻め込んだ」対象に変えればよいか、と言うとそうもいかない。「博多湾」は「日本」の自然地形だから、この用語を「日本」に変えたとする。しかしながら、「日本」に攻め込んできたというのも隠喩である。この場合の「日本」とは、日本人とか日本人の所有する施設という意味であって、特に「攻める」というのであれば、何らかの抵抗が想定されるのでなければならないだろう。つまりそこに戦闘が含まれているのであるから、元軍は敵対的日本人を対象として「攻め込んだ」のである。それならばこの場合の敵対的日本人とは、具体的にどのような人々を指すのだろうか。「対外戦争の社会史」という副題が付されている海津一朗氏の『蒙古襲来』には、文永の役が次のように説明されている。

 六度にわたる通好要求の無視によって、モンゴル帝国(一二七一年、国号を元とする)皇帝フビライによる日本征討は必至の情勢となった。一二七三年(文永一〇)に高麗の三別抄の乱(崔氏残党)を鎮圧すると、翌七四年(文永二)に蒙古・高麗連合軍三万数千人(戦闘員二万五六〇〇、水手・大工六七〇〇)を擁して、対馬・壱岐の両国を軍事占領し、一〇月二〇日未明に博多湾岸に上陸した。毒矢やてつはう(炸裂弾)などみなれぬ兵器と、統制のとれた集団戦法を駆使する元軍の前に、幕府に動員された御家人ら武士たちはたまらず大宰府まで没落した。だが、この夜、海上の船に引き上げた元軍は、夜半の暴風によって多くの被害をだして高麗に撤退した。第一次の蒙古襲来(後世「文永の役」と呼ばれる)の顛末である。
 この時の元軍敗退については、季節はずれの暴風の有無も含めて謎が多く、予定された撤退ではないかという説もある。けれども、暴風が吹いた事実は複数の一次史料で確認されるし、また元の正史が一万三五〇〇人の戦死者と捕虜を出したと被害を明記していることもあり、通説にしたがってよいとおもう。
 この戦闘では、御家人であっても戦場に行きながら戦闘を拒んだり、境を守ると称して動かないなど「不忠の科」が続出した。幕府は、このような者の名前を出させるなど厳罰を求め、御家人に対する当世は以降しだいに強化されていったのである。


 ここで元軍の対戦相手は、「幕府に動員された御家人や武士たち」と記載されている。そして彼らの実態については、「御家人であっても戦場に行きながら戦闘を拒んだり、境を守ると称して動かないなど“不忠の科”が続出した」とある。この海津氏の説明からすれば、この幕府によって動員された集団は、軍隊としての統制力に大きな問題があったことになる。そしてその後、「御家人に対する統制はしだいに強化されていった」ということなので、その7年後におこった弘安の役ではどうであったかをみてみよう。

 五月に高麗の合浦<ガッポ>を出帆した九百余艘の東路軍は、対馬・壱岐を占領し、三〇〇艘を長門に向かわせ(『勘仲紀』弘安四年六月一四日条)、主力は六月六日博多湾に到着した。ここで、幕府軍と海陸において交戦したが、頑強な抵抗にあって上陸を断念し壱岐に撤退した。
一方、江南軍の大船団三五〇〇艘は、予定より二週間遅れて七月に慶元(寧波)を出発し、平戸付近で東路軍と合流し、二六日伊万里湾の鷹島を占領した。三〇日夜半から閏七月一日にかけての台風接近により、海上の元軍は壊滅的な打撃をこうむり高麗に敗走した(後世「弘安の役」と呼ばれる)。この日は、ユリウス暦の八月一六日、台風シーズンの真っ最中であった。異民族の混成軍は世界各地でみられる元軍の特徴だし、最新鋭の巨大軍艦と、海戦に熟練した宋の指揮官に率いられた江南軍が壊滅したことは今もって謎となっている。

(前掲書)

 文永の役においては、総勢「三万数千人」に過ぎなかった元軍であったが、「たまらず大宰府まで没落した」幕府軍であった。一方の弘安の役での元軍は、「幕府軍と陸海において交戦したが、頑強な抵抗にあって上陸を断念し壱岐に撤退した」のであった。この時の元軍は、「東路軍四万」「江南軍一〇万」(海津)という大軍勢であったが、元軍は幕府軍の防衛線を突破できなかったのである。このように、二度の戦役における日本側の戦力には、大きな違いがあったのであるが、その一度目の事象記述が「文永11年、元軍が博多湾に攻め込んできた」ならば、二度目の事象記述は「弘安4年、元軍が博多湾に攻め込んできた」なのであろうか。
 事象記述は解釈を含まないと伊藤氏は言うのであるが、それは事象の記述だから解釈を含まないのではなくて、解釈を排除した残余の記述を事象記述と称しているからなのではなかろうか。そうなれば、文永の役と弘安の役の違いを年次だけで表わし、それ以降は「元軍が博多湾に攻め込んできた」とするのが無難である。どこまでが事象記述でどこからが解釈であるのかは、実に厄介な問題であるのだから、このような無難な選択も十分あると言える。「博多湾に攻め込んできた」は隠喩を含むので、「博多湾に進入し幕府軍に攻め込んだ」に変える必要があるだろうが、年次だけを異なるものとして、二つの蒙古襲来事象を記述することに不都合はない。しかしながらそうしてその二つを並べてみれば、これらの記述に陳腐さを感じないではいられない。
 攻め込んできたのはどちらの戦役も「元軍」であり、攻め込まれた場所はどちらも「博多湾」であるが、方や簡単に上陸を許し陸戦でも敗れて大宰府へ退却し、後の方は50日余りも上陸を阻止して暴風雨の到来を呼び込んだ日本側を、同じ「幕府軍」あるいは「鎮西御家人」とすることができるであろうか。この場合どう見ても、この二つの戦役を事象的に分けているのは、元軍の規模もさることながら博多湾で「元軍」を迎え撃った集団の戦力の違いにある。そしてそれが同じ「幕府軍」であるとしたならば、どうしてこのように軍の根幹をなす戦力に大きな違いができたのかを示す必要がある。「文永11年、元軍が博多湾に攻め込んできた」は、この戦役の根幹にある攻め込まれた側の実体を隠喩に逃げ込んで済ましているのであり、それは一口で「幕府軍」と言い表すことに躊躇したからではないかと思うのである。

 「文永11年、元軍が博多湾に攻め込んできた」が事象記述かどうかは、「これを事象記述として読みなさい」という指示に従っているかどうかによる。「元軍が」という箇所を海津氏が読めば、「蒙古・高麗連合軍三万数千人」が念頭に浮かぶのであり、さらには副元帥として参戦していた洪茶丘について、「高麗出身者でありながら完全なモンゴル人としてふるまい、高麗人将士の怒りと憎しみを一身にあつめた(高麗軍の大将軍金方慶は、茶丘のために誣告され、国王の面前で拷問を受けた経験をもつ)」(講談社『日本の歴史10』)といった事情から、軍内の統制に問題があったことを思い起こす場合もあるだろう。そうしたことのどこまでが事実でどこからが解釈であるかは線引きが難しいが、「文永11年、元軍が」にはそうしたことが重ね合わされる。したがって「文永11年、元軍が」と言うだけでは、その読み方は多様なのであり、「元に帰属する軍隊」の意味に限定して読まねばならないという理由はない。同様に、博多湾に攻め込まれた側を、その内容を顧みずに「幕府軍」や「鎮西御家人」で済ませるのかどうかは、読み手の見識・力量に依存するだろう。つまり「文永11年、元軍が博多湾に攻め込んできた」は、それを様々な解釈をともなって読むことができない、などということにはならないのである。そうではなくて、それを実証史学の命題という文脈で読む際には、そこから解釈部分を除いて読むのであり、またそれでも命題として崩れないということなのである。しかしながら、その分内容は極端に限定され、例えば文永の役でも弘安の役でも、年号だけが違うだけで後は同じということになりかねない。

 伊藤氏が挙げた一つ目の事象記述の事例についてここまで考察を加えたが、次にもう一つの例文、「1722年、上げ米の制が実施された」にも言及しておこう。ここでの「上げ米の制」は、その内容はわからずとも、用語の意味としては制度のことである、と理解することができる。それでは「制度」とは何であるか。この用語を辞書で引くと、以下のように記載されている。

社会における人間の行動や関係を規制するために確立されているきまり。また、国家・団体などを統治・運営するために定められたきまり。「封建―」「貨幣―」
(大辞林)

 簡素に過ぎる記述で却ってわかりにくいが、「社会における人間の行動や関係を規制するために」ということは、制度には社会的な目的があるということである。この目的が存在しない、あるいは不明確な場合は、それを制度だとどうして言えるのかがわからなくなる。単に「きまり」というだけなら約束や慣習などもそれに該当するが、約束や慣習と制度には大きな違いもある。それでは、「1722年、上げ米の制が実施された」という事象記述において、どうして「上げ米」が制度だと言えるのか。この事象記述は解釈を含まないと言うが、これを制度であると規定するためには、「江戸幕府の財政が窮乏したので、幕府は財政の立て直しを図って」といった目的が示されねばならない。また制度だと言うのであれば、それが施行され一定期間は継続したことが要件に含まれるだろう。「享保の改革を実施したが、立て直しは一時的なものに終わった」には、制度の実施とそれの継続が示されている。制度が施行されれば、一定の経過の後に成功と失敗のどちらかの結果が生まれるわけである。制度の中身はわからずとも、少なくともここまで示されて、「上げ米の制」は制度だと言えるのである。しかしながら、「江戸幕府の財政が窮乏したので、幕府は財政の立て直しを図って享保の改革を実施したが、立て直しは一時的なものに終わった」は、伊藤氏によれば事象解釈である。事象記述は解釈を含まないと言うが、この事象解釈を含まないと「上げ米の制」は制度とは言えないはずである。まさか「~の制」という呼び方をしているから、それは制度であると言うのではあるまい。それならばこの事象記述は、解釈を含まずしてどうやって制度であることを示しているのだろうか。

(つづく)
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by mizuno_clan | 2013-03-31 13:40 | ☆談義(自由討論)

【談議1】水野氏と戦国談議(第四十回)

(つづき)

 記述の中で対象を指定するために用語を使うが、この用語の使用に解釈を含まないと言えるのは、それが名指しであるからである。この名指しであるということは、「元軍」や「上げ米の制」が対象を指し示す単なる指標に過ぎず、その指標が指し示す対象の実在こそが事象記述を支えている、と言うことを意味する。先に言語の写像理論について言及したが、写すという機能は写されるものの存在が前提となる。そこでは写され方は問題となるが移されるものの存在は前提であり、それ自体は問題とはならない。したがって「元軍」や「上げ米の制」という用語は、その名の指し示す対象に真っ直ぐに向かっているのであるが、その対象にまつわる諸々は写され方の問題を孕む、と実証史学の写像理論は考えるのである。
 文永11年に博多湾に攻め込んだ「元軍」は、蒙古・高麗連合軍であったり、高麗人の将軍が同国人から激しく恨まれていたといった解釈はあるにせよ、「元軍」はその解釈の前提である。なぜならば、何にせよそれは「元軍は」を主語として始めなければならないからである。そしてこの「元軍」が名前であるならば、それが名指すところの対象が存在し、その対象が「元軍」の意味なのであり、用語としての「元軍」はその透明な指標に過ぎないのである。事象は対象の生起であり、その対象は用語の名指し機能によって記述に持ち込まれ、その用語の適切な組み合わせが事象記述を可能とする。そしてこうした認識論的前提が、事象あるいは事実を記述できるとしている実証史学を支えているのである。
 このように実証史学の認識論的の根底には、用語が対象を名指すという基本認識が存在する。そしてこの名指し機能は、すべての写像理論の基本原理である。しかしながら、この言語の働きの中枢はこの名指し機能にある、という言語観こそが、あの言語論的転回によって突き崩された当のものなのである。

 我々の生活世界は、コトバを知る以前からきちんと区分され、分類されているのではない。それぞれの言語のもつ単語が、既成の概念や事物の名づけをするのではなく、その正反対に、コトバがあってはじめて概念が生まれるのである。たとえば、「牛」はフランス語では boeuf 英語では ox と呼ばれているから、第二の言語を学習することは、すでに知っている事物や概念の新しい呼び名を学ぶことであり、すべての概念は各言語に共通していると考えがちである。ところが「牛」と boeuf と ox とは、それぞれに異なった意味範囲をもつ概念であり、それぞれの語が生まれる以前は存在しなかった概念なのである。フランス語の boeuf は ox ばかりか beef をも包摂しているし、また例えば日本語の「木」は、机などを作っている材料でもあれば、庭の青々とした樹木でもあるが、英語では前者が wood 、後者が tree であることは中学生でも知っている事実である。それでは材木の意味の「木」と wood が完全に重なりあう概念であるかというと、これもそうはいかない。wood には「森」という意味も含まれているからである。
 それぞれ「犬」と「狼」という語で指し示される動物が、はじめから二種類に概念別されねばならぬという必然性はどこにもないのと同様に、あらゆる知覚や経験、そして森羅万象は、言語の網を通して見る以前は連続体である。[中略]言語はまさに、それが話されている社会にのみ共通な、経験の固有な概念化・構造化であって、各言語は一つの世界像であり、それを通して連続の現実を非連続化するプリズムであり、独自のゲシュタルトなのである。

(丸山圭三郎著『ソシュールの思想』)

 文を構成する要素が単語である、ということは誰もが知っている。しかしこの場合の「要素」とは、文を構成するのだから、文が依存するところのものであっても文に依存することはない、という意味で「要素」なのではないだろうか。ところが「日本語の「木」は、机などを作っている材料でもあれば、庭の青々とした樹木でもある」ということならば、「木」という単語単体では意味を確定できない。この「木」の意味を確定するには文脈が必要なのであるが、そうなると単語は文の構成要素だとは言えなくなる。文法上は文の構成要素であっても、意味論上では単純に要素だとは言えないのである。このことは日本語の「木」が、特定の英単語にぴったり一致しないことにも関わりがある。「木の温もり」という表現があるが、この場合の「木」は樹木の「木」なのだろうか、それとも材質としての「木」なのだろうか。答えはどちらとも言えないであるが、それはどちらでも意味は通るということでもある。それではこれを、英語に翻訳しようとするとどうなるか。そこでは「tree」か「wood」か、どちらかの単語を選択しなければならない。そして問題はここにある。
 この場合の「温もり」という表現は、温かいという物理的なものであるよりも、精神的な「安らぎ」とか「心地よさ」を示している。そしてそれが精神的なものであるだけに、材質そのものの物性から受けるものではなく、樹木というものに対する日本人の心持ちに由来するものなのである。そうであるから、「木の温もり」における「木」は「tree」でも「wood」でもないのであり、英語には翻訳できないのである。このことは丸山氏が、「言語はまさに、それが話されている社会にのみ共通な、経験の固有な概念化・構造化であって、各言語は一つの世界像であり、それを通して連続の現実を非連続化するプリズムであり、独自のゲシュタルトなのである」と言うところの由縁となっている。「木の温もり」という表現は、「温もり」であるから木を身近に引き寄せた場面で適用される。したがって木を材料にして作られた家具とか、木製の道具や装飾品などに対して用いられることになる。その点では「wood」なのであるが、材質が温もっているのではなく、その材料が何からできているのかを指向していることにそれは基づいている。つまり元は生命のある樹木であり、それが別の形になっても生命は失っていない、という感覚がこの場合の日本人にはあるのだろう。「温もり」は暖かいとかなめらかといった物性ではなく、生命のもつ包容力に対する感応だと思われる。そうであるから、形は変わっても「木」という言葉を、この感応を宿している文化においては使い続けるのではないだろうか。
 異なる言語間では、語彙の範疇がぴったりと重なり合わないことが多々あるのであるが、ソシュールはこれを日常言語のルーズさとは考えず、言語が自制的に対象を捉えているからだと理解した。このことによって、「それぞれの言語のもつ単語が、既成の概念や事物の名づけをする」という捉え方が、ある特定のしかも誤った言語観であることが自覚され、これを言語名称目録観と呼んだのである。ソシュールのこの自覚を「言語名称目録観」と呼んだのは丸山氏であるが、これは広く普及してはいるが一つの言語観であり、しかもそれが誤っているということの認識が重要である。そしてこの認識はウィトゲンシュタインにも共有されており、言語論的転回はこの認識からスタートすると言っても過言ではない。さてそのウィトゲンシュタインであるが、彼が『論理哲学論考』の中で示した言語の写像理論は、その後ウィトゲンシュタイン自身によって批判され放棄されることになった。その事情をここで詳しく述べるつもりはないが、野家氏はこのことを次のように表現する。

 ここに見られる「要素論(atomism)」的な構えこそは、『論考』全体を貫く根本前提とも言うべきものであり、やがてはウィトゲンシュタインにとっての「蹟きの石」ともなるものなのである。
(野家前掲書)

 ここで要素論的な構えが「蹟きの石」となったと述べているが、これは名前を事象記述の構成要素とする伊藤氏の考え方においても同じことが言える。この要素論的な構えとは、即自的で自己規定的な要素という原単位を想定し、それを組み合わせることで全体が成立する、という考え方である。自動車を例にすると、車体、タイヤ、エンジン、座席などの部品を組み合わせると、全体として機能する自動車が完成する。この場合、各部品は各々それ自体で固有の機能をもっており、自動車はこれらの機能の複合機能を発揮するものである。このように部品(要素)は、組み合わせ以前にそれとして存在し(自即的)、独自の性質を保持している(自己規定的)のである。このように構成要素であるということは、自即的自己規定的であるということである。そしてこのことは、要素への分解・分析と、その要素からの再構成によって客観世界を説明しようとする、時代制約的な知の枠組みがその根底にあることを暴き出すのであるが、そのことには今後言及することにしよう。ウィトゲンシュタインは、この要素論的な構えという「蹟きの石」を自覚したとき、言語の働きに体系的全体というものを認めるようになる。

 ある対象の長さを記述する諸々の言明は、一つの体系を、命題の一体系を構成しているのである。そのような命題の体系全体が現実と比較されるのであり、一つの命題が現実と比較されるのではない。もし私が例えば、視野のこれこれの点は青いと言えば、私はただ単にその事のみを知っているのではなく、その点は緑ではない、赤ではない、灰色ではない、等々という事をも知っているのである。私は色の序列全体を一度にあてがったのである。(中略)このことは、要素命題は相互に独立である、すなわちある一つの事態の成立から人は他の事態の不成立を推論することはできない、という事を私は信じていた、という事と関係している。しかしながら、命題の体系についての私の今の所見が正しいとすれば、人は、命題の体系によって記述されるある事態の成立から、それ以外のすべての事態の不成立を推論することが可能であるという事は規則ですらあるのである。
(『ウィトゲンシュタインとウィーン学団』)

 ここでウィトゲンシュタインは、要素から体系全体へ言語の働きの場を移している。「言語論的転回」の根底には、この要素から体系全体へという言語観の転換があるということを、ここでしっかりと見ておく必要があるだろう。そこで再度、ソシュールの言語論に戻ることにする。

e0144936_13283554.jpg その体系の中では、ここの単位の大きさとか価値は、ネガティブにしか規定されない。少々突飛な例かもしれないが、箱の中に入っている饅頭と、同じ大きさの箱の中に押し込められている同じ数の風船のイメージを考えてみよう(図参照)。その風船はただの風船ではなくて、圧搾空気が入っているものと仮定する。さて、饅頭の場合は、その中から一つ取り出して箱の外においても、当然そこに空隙が残されるだけで箱の中の他の関係は変わらない。箱の外に取り出した饅頭自体も一定の大きさ、一定の実体を保っているであろう。ところが、技術的に可能かどうかはさておき、圧搾空気をつめた風船の場合は、箱の中でしか、また他の風船との圧力関係においてしか、その大きさはない。もしその中の風船を一つ外に出すと、当然ながらパンクして存在しなくなってしまう。また、残した穴もそのままであるはずはなく、緊張関係におかれてひしめきあっていた他の風船が全部ふくれ上がってたちまち空隙を埋めてしまうであろう。これがソシュールの考えていた体系であり、ここの項の大きさとか実体性というものは、もともと存在しない。在るのは隣接諸項との間に保つ関係だけであり、ネガティブというのもこの意味に解されねばならない。これを否定的あるいは消極的と訳しにくい理由もそこにあるのであって、ネガティブというのは、「・・・ではない」という規定しか出来ず、「・・・である」という規定が出来ない存在に対して用いられるのである。これはまた、「言語の中には《差異》しかない」というテーゼと深く関わっている。
(ソシュールの思想)

 言語における「饅頭」は、箱の中における圧搾空気の緊張であり、それが同じ箱の中にある別の緊張との平衡を生み出す最中に、この「饅頭」が出現する。言語名称目録観を脱却した言語観を示す表現として、丸山氏のこの例えは秀逸である。ソシュールは言語を、「価値体系」として捉える。その場合の価値とは、圧搾空気の緊張であり、その緊張の平衡が体系である。そして言語におけるこの緊張は、不断の「経験の固有な概念化・構造化」が引き起こしているものなのである。
 先にウィトゲンシュタインは、ある色を示すということは、「色の序列全体を一度にあてがった」ことで成立すると述べていた。「序列全体を一度にあてがう」というのは、順番に比べるとか全体を見渡すといったことではなくて、色の価値が均衡によって示されるのであり、そこに時間差はない。均衡というものは、すべてが同時に働くことで成立するのであり、ウィトゲンシュタインの言うところの「一度に」というのは、このことを指している。そして、この「一度に」が逐次経過的ではないといことが、必然的に「ネガティブ」を意味することとなる。「視野のこれこれの点は青いと言えば、私はただ単にその事のみを知っているのではなく、その点は緑ではない、赤ではない、灰色ではない、等々という事をも知っている」ことだと、ウィトゲンシュタインは述べていた。このことは、見えていると思っている青は、青でない他色との緊張関係によって現前しているのであり、ここに色彩体系が下地として働いている、ということを意味する。そして丸山氏がこれを「ネガティブ」として強調するとき、実在はポジティブというあり方をするということが、ネガティブに示されているのである。
 「言語の中には《差異》しかない」というテーゼは、ポジティブに何かが示されるのではなく、「ではない」という仕方で対象が示されることである。このことを先の「元軍」で考えてみると、ポジティブにある存在対象が示されているのではないから、「これこれ」とそれは規定できないし、「これ」と指で指し示すこともできない。そこで「元軍」の意味は、次のような複合系列の一つのポジションだと考えるとよいだろう。

系列1:中国/日本/朝鮮/…
系列2:王朝/共和制国家/民主国家/…
系列3:集権体制/分権体制/離散的権力体制/…
系列4:集団/離散/個/…
系列5:人間/馬/犬/…
系列6:戦闘/厭戦/非戦/…

 以上の系列1から系列6までの、左端を串刺しにした複合ポジションが「元軍」の意味である。もっともこれは簡略的な系列の列挙であるし、あまり正確であるとも言えない。さらに難しいのは、例えば「元」を中国の王朝だとした場合、その中国は単に日本や朝鮮などを並べて、その系列を表せるものではない。その系列は「国」の系列のように見えるが、「中国」という国は存在しない。また地域のようでもあるが、やはり「中国」という地名は存在しない。ユーラシア大陸の東の二つの大河を中心とし、歴史的にその一帯に幾度も統治体が出現し交代した、といったことを念頭において理解されているのが中国であり、民族を軸として理解できる日本や朝鮮とは同系列とは言えない。このように「中国」という用語がまた、高度に複合的な系列のポジションをその意味とすることを思えば、「元軍」の意味は単なる系列の串刺しに留まるはずもない。それは意味の宇宙という、果てしのないネットワークという表現が相応しいのかもしれないが、そうなると「元軍」の意味は、広大なマトリックスにおける、一つのセルを示すものだと言えるだろう。
 圧搾空気の膨張力が相互に働き合って均衡が生ずると、そこに場というものが出現する。ソシュールはこれを「価値」と呼んだのであるが、ここではそれに「ポジション」という用語を当てた。そしてこれを意味の宇宙だと言うのは、ある膨張力の均衡はまた別の均衡との間にも緊張関係をもっており、それらの間にもまた均衡が出現しているからである。均衡のそのまた均衡というように、それは入れ子状にもなっているのであるが、実際の意味の力場は圧搾空気のような物理的なものではないので、これらが重なり合って相互に浸透もする厄介なものなのである。
 このように多層的多元的な力場の緊張は「作用」なのであり、この作用(もちろん物理的な作用ではない)には実体がない。そして実体がないのだから、それを主題的に見ようとすれば、それは「でない」というネガティブな表現になるのである。意味というものを、実体的な対象のように捉えれば、それはネガティブなのであるが、実際には「その点は緑ではない、赤ではない、灰色ではない」などとは言わない。このように逐次的に並び立てても、それは「青」にはならないからである。ウィトゲンシュタインの言うように、それは「全体を一度にあてがった」のであり、一が全なのである。
 こうしてみると意味とは実に不思議なものであるが、それもまた何かを前提としなければ「不思議」と感じることもないだろう。この意味の宇宙の自覚から、「構造」という用語が生まれた(というのは通常の意味とは異なるからである)のであり、そこから構造主義という思潮が出現もした。この場合の「構造」は「価値体系」のことであるが、このことを「構造」と言うのには問題がある。なぜならば、「構造」という用語は、「何かの構造」というように「組成」に通じてしまい、そこからあの「要素論的構え」に舞い戻ってしまいかねないからである。そしてこの「要素論的構え」の残滓が少しでも残っていると、非実体的な力場のダイナミクスが失われることになる。

 事象世界の基本単位である対象を、名指すという機能によって認識に持ち込み、それら持ち込まれた対象を組み合わせて事象を写像する。これが事象記述の働きであり、この働きに則ることが「事実に基づく」ということである。そしてこのような認識論を前提とする歴史学を、ここでは実証史学と呼んでおこうと思う。なぜならば、史料に基づくとか、論理整合性を備えるなどということは学問であれば当然のことであり、それをもってことさらに実証史学などと言う必要はないからである。その一方で「事実に基づく」というのは、事象世界に直結する名指し機能に依存することである。名指しは機能であってそれ自体は実体をもたないため、遠方にあろうと過去であろうと、時空を超えて直接に届くのであり、この直接性が事実性を保証しているのである。
 そうは言っても、歴史の研究活動のすべてが、こうした意味での実証史学に基づいているのではない。しかしながら、「文永11年、元軍が博多湾に攻め込んできた」を、事象記述だと言って憚らない歴史家が大多数である、という実態は厳然として存在する。そしてそうした人々は、読解や推測の核として、また学としての客観性の源泉にこの事実記述を位置づけるのであるが、そのとき彼らは例外なく要素論的構えを取っているのである。確固とした核となる事実命題があり、この事実命題を要素命題として解釈を含んだ歴史命題が構築されているのだと考える。そしてこの事実命題の事実性は、「元軍」や「博多湾」などの用語が支えているという、これまた要素論的構えを取っているのである。伊藤氏の歴史的知識の段階論も、遅塚氏の歴史の作業工程表も、この点で変わるところはない。
 これ以上遡及不可能という要素に至り、その要素の組み合わせとして事象を説明する。これは今日我々が収得している基本的な知の枠組みなのであるが、このモデルにはめ込むために持ち出されるのが、事実と解釈の二分法である。しかしながら事実とは、前回述べたことであるが、便宜的な機能なのである。「文永11年、元軍が博多湾に攻め込んできた」が事実であるのは、他の多様な言及(解釈)において共有されているところの集約としてである。ほとんどの言及がこの「文永11年、元軍が博多湾に攻め込んできた」を含むために、それは異論のない命題として「事実」なのである。またこの記述は、事実命題として読むものなのであり、ここで「元軍」とは何であるか、などという問いを発しないことがここでの約束事である。この約束を無視して「元軍とは何か」といった問いを一度発すれば、それは際限のない応答となってしまう。例えば、「元軍とは元に帰属する軍隊のことである」と答えれば、「元とは何か」「軍隊とは何か」「帰属するとはどういうことか」という問いが返される。「元とは13世紀後半から14世紀半ば過ぎまで、中国を支配した王朝である」という答えは、次に「中国とは何か」「支配とは何か」「王朝とは何か」という問いを呼び起こす。こうして尽きることなく応答は繰り返され、しかもその範囲は拡大する一方である。そして何よりも、そうした問いに対する答えが事実に留まり、解釈を含んでいないと言い切ることが困難になる一方であることが、この応答の最大の問題なのである。
 事実とは、多様な解釈の共通集約記述であるのだが、共通集約であるために確実なのだ、というわけでもない。それは研究や議論を先に進めるための起点として機能的に設定されたものであり、その機能性を根拠として有効な記述とされるものなのである。このように事実を機能として捉えるならば、事実と解釈は相互依存的なものとして理解されるようになり、語彙の意味を実体的に捉える必要はなくなる。歴史的知識というものは、事実と解釈の本質的区別はなく相互に依存し合う記述体系として存在し、その体系全体で自らを支えているのである。それは記述体系の外側に規範をもつのではなく、言語として必然的に関係し合っている記述集合が、自らの求心力で歴史学を支えているのである。
 そうした意味で歴史学は、自己実現をしているのであるが、自己実現のあり方も様々である。そしてここに示した実証史学の作法は、歴史学の本来の自己実現を妨げている。それは本来の史料批判の力を奪っている。それと言うのも、言語の本来の姿を完全に見誤っている実証史学が、言語による史料批判を本来的に遂行できるはずがないからである。事実記述と解釈的記述の二分法の根底には、それ単独で事象に一致することで確固たる命題となるものを創出する狙いがある。それは言語の外側の事象に何もかもを委ねてしまっているのであり、言語はただ対象を名指すだけの指標に過ぎないものとされる。言語論的転回は、この言語観の上に立った認識論を否定し、言語の自制的働きに新たな展望を開こうとする。この展望においては、事実と解釈は地続きなのであって、事実命題にその機能的有効性を超えるような優越的特権は認められない。そして特定の史料の一文を解釈を含まない記述であるとか、歴史家が提示する一命題が歴史記述の前提になる、といった実証表明を解体するのである。

次回へつづく
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by mizuno_clan | 2013-03-31 13:31 | ☆談義(自由討論)

カテゴリーの改訂について

 今般、本会開設5周年を機に――
カテゴリーの凡例」を、「水野氏史研究分類表」に改め、
更に内容を一部改訂し「水野氏史研究分類表[第20版]」を
第21版]に改版しました。
 詳細は、こちらをご覧下さい。

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by mizuno_clan | 2013-03-14 00:28 | Information

【Event】第20回東浦町於大まつり

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 愛知県東浦町で、八重桜のきれいな4月中旬の土曜日に、恒例の「於大(おだい)まつり」が開催されます。
会場は、乾坤院(けんこんいん)や於大(おだい)公園、明徳寺川沿いの「於大のみち」です。
 かわいい於大姫や、鎧兜の武者達が行列する、まるで時代絵巻のような情景をお楽しみください。


※このまつりの転載については、東浦町うのはな館さまのご許可をいただいております。


第20回東浦町於大まつり

日 時:平成25年4月20日(土曜日)
    午前10時「さくら橋前」から行列スタート
      ※雨天の場合は、21日(日曜日)に順延
      ※20日(土曜日)午前6時30分に可否決定
問合先:東浦町於大まつり推進協議会(商工振興課内)
    電話0562-83-3111(内線288・287)

催 事
 (1)於大行列・水野家行列
    午前10時~  
    中央図書館から明徳寺川の左岸を歩いて、於大公園ステージまで。
    小学生のバトン・金管バンド、東浦音頭小唄踊り保存会・健康づくりのグループも参加予定。
 (2)於大公園ステージ
    午前10時35分~午後3時15分
    各種イベントショー等
   (以下省略) → 東浦町のウエブサイトをご覧下さい。
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by mizuno_clan | 2013-03-06 08:06 | Event-2(諸事)

◆本会開設5周年ご挨拶

e0144936_20491579.jpg  水野氏史研究会(以下本会)は、「水野氏史研究」に関心を持っておられる多くの人々が、その研究成果の発表および意見交換を行い集える場として、2008年3月、web上に設立されました。
 本日3月3日は、桃の節句と同時に、本会の「開設5周年記念日」にあたります。

 本会運営は、主としてインターネット上で行い、紙媒体の会報や年報の発行は行わず、投稿および活動報告などは、電子媒体の「Web刊」(ブログ記事)で代替します。
 本ブログでは、会員諸氏の研究成果を投稿し、会員やゲストの方々からのコメントを付していただき、「水野氏史研究」に資するよう日々努めております。また昨年から新たに「公式Facebookページ」による情報交信も始めましたので、お気軽に書き込みください。


 本会発足当初、「水野氏」を取り上げた、歴史教科書を始め大学の講義や諸著述・編纂などは、決して多いとはいえず、未知であったり、また手付かずの文献資料は全国に多数散見されます。このことから本会では、今後も長い年月を掛けてこれら史料を解読し、「水野氏」が歴史上に果たした大きな役割を顕彰し、未だマイナーな存在である「水野氏」を、様々な媒体を通じて全世界に広報していきたいと考えております。

 お陰様で本会は開設5周年を迎え、発足以降の前述したマイナーな状況が徐々に改善されつつあります。その成果の一部をご紹介しますと――
 イベントでは、従前より開催されてきた愛知県東浦町で毎年行われている「東浦町 於大まつり」および「水野氏講座」、3年前から愛知県安城市で毎年開催されている「松平シンポジウム」、そして本年から開催されたワークショップ「淨圓寺・鳥居観音史料から見る近代日中関係」等々において、「水野氏」が取り上げられ、学者諸氏ならびに一般の研究者によって、それぞれ熱心な研究が続けられております。
 また本会主催および出講で「水野太郎左衛門」の講演会も開催されてきました。

 寄稿としては、研究論文では、「桶狭間合戦」「宮本武蔵と水野勝成」、研究ノートでは「永明院と常滑水野家」「大脇曹源寺と周辺の水野氏勢力」「水野忠分と心月斎」等々、史料紹介では「水野忠央公奉納の十一面観音」等、また談義(自由討論)では、「水野氏と戦国談議」が第三十九回を数えるなど、会員諸氏による研究成果により、次第に充実した内容と成ってきております。


 本会会員には、歴史・宗教学者諸氏、歴史研究家諸氏、小河水野氏(福山結城水野家第二十代ご当主、山川山形水野家第十六代ご当主、及び各嫡流庶流家諸氏)、桓武平氏水野氏(嫡流庶流家諸氏)、並びに全国の大学院生・学部生諸氏等のほか、海外在住(米国・中国)の方々にも会員となっていただいております。

 また、本会は、全国大学の学長・副学長・名誉教授・教授・准教授諸氏、および学芸員諸氏、作家諸氏など、多くの著名な方々から深いご理解とご支援をいただいております。


 以上、簡単ですが、本会の5年間の成果をご案内いたしました。
 尚 末筆ながら、本会では、今後とも研究を発展させていく所存でおりますので、皆様方の倍旧にも増したご支援ご協力を賜りますよう、お願い申し上げます。

                                          研究会事務局
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by mizuno_clan | 2013-03-03 00:01 | Information

アクセス解析 No.20

●2012年12月から2013年2月まで、3ヶ月間の「水野氏史研究会ブログの第20回アクセス解析」を発表いたします。

 一般の研究会では、月に一度程度の例会、および年数回「会誌」を発行しておりますが、本会では委員会・講演会の外は、定例の大会・例会の開催および会誌等の発行を予定していないことから、これらの集会参加人数、および会誌の発行部数を定期公表する事は出来ません。
従って本ブログへのアクセス状況(ユニーク・ユーザー数)を、四半期毎にご報告する事により、甚だ変則的な方法ではありますが「集会状況と会誌の発行部数に代替」とさせていただきます。
 みな様には日々お仕事などで、ご多用中にも関わりませず、本会にご理解ご尽力いただいておりますことに、ここに改めまして深謝し心から御礼を申し上げます。今後とも引き続き本会活動にご参加ご支援いただきたくお願い申し上げます。

                                               研究会事務局

▼【エキサイトブログ・レポートの集計データ】 更新2013.03.01
2012.12.01~2012.02.28までの〝ユニーク・ユーザー数〟
合計  1,955 ip (前回比 95.18%)

前計 36,534 ip
累計 38,489 ip

 ※ユニーク・ユーザー【 unique user 】数とは、ブログにアクセスされた接続ホスト数をユニーク(同じ物が他に無いの意)な訪問者の数として日毎に集計している。つまり同一人物が1日に何回アクセスしても、最初の1回のみがカウントされる。この集計基準は、ページ・ビューなどの基準に比べ判定方法が難しいが、実質訪問者数を示している事からサイトの人気度をより正確に反映できる。
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by mizuno_clan | 2013-03-02 08:36 | アクセス解析