【談議1】水野氏と戦国談議(第四十二回)

温故知新

談議:江畑英郷

 昨年8月、水野氏史研究会の委員でもある水野智之先生のお骨折りで、「歴史と過去」で考察してきたことを歴史学を専攻する現役の大学院生に聞いてもらう機会をえた。そこでまず以下に示す4つの著作から適宜抜粋した文章を事前に読んでもらい、当日はそれを踏まえた内容ですすめるようにした。

『歴史学ってなんだ?』小田中直樹(社会経済史)著
『歴史の作法』二宮宏之(西洋史)著
『史学概論』遅塚忠躬(西洋史)著
『物語の哲学』野家啓一(科学哲学・分析哲学)著

 まず小田中直樹氏の『歴史学ってなんだ?』は、タイトルに表れているとおり一般向けの啓蒙書である。ご本人によれば、「歴史を学ぶことには意味と意義があるか、あるとすればそれは何か、という問題を論じている」歴史学の入門書である。この書の序章は「悩める歴史学」であり、それはマルク・ブロックの『歴史のための弁明』冒頭の引用から始まる。

「パパ、歴史は何の役に立つの。さあ、ぼくに説明してちょうだい」。このように私の近親のある少年が、二、三年前のこと、歴史家であるその父親にたずねていた。読者がこれから読まれようとするこの本について私の言いたいことは、この本が私の返答であるということである。

 続けて小田中氏は、歴史学の有用性に疑問が呈されるシーンを、自身が考えたフィクションとして3つ提示する。そしてその3つ目は、学生数が減少した大学において廃止される学科リストの第一に歴史学科が挙がっているというものである。小田中氏は、歴史学をこれから学ぼうとする人々が内心もっとも気にかけていることが、この歴史学の有用性であると考えているわけである。そして歴史学の入門書として掲げるべきテーマは、次の3つであると述べる。

①歴史学は、歴史上の事実である「史実」にアクセスできるか。
②歴史を知ることは役に立つか。
③そもそも歴史学とは何か。

 ①は②の前提となる問題であり、史実にアクセスできるのでなければ②の答えはノーとなる。ただし小田中氏は「史実」を集団的合意形成の枠内で捉えようとし、「みんなで考えれば、よりよい認識や解釈や歴史像に到達できる」と述べる。そして③は「何か」というより他の学問領域との相違であり、歴史学の固有性を問うものであるが、そこに固有性がなければ②はノーとなるといった仕方で②に接続していると見るべきだろう。したがって歴史学は何の役に立つのかという問いが、ストレートに表明されている点がまさに入門書ならではということなのだろうが、これに真正面から答えることは容易ではない。そしてこの困難な問いは「悩める歴史学」の本源なのだろうが、そうした悩むこと自体を忘れている現実があるのであって、そのことが小田中氏に廃止学科のトップというフィクションを描かせるのではないのだろうか。

 小田中氏の入門書には、歴史学は悩むべきだという主張があると思うのだが、二宮宏之氏はこのところを『歴史の作法』で次のように書いている。

 歴史学の場合には、史料に基づくことで歴史事実そのものに到達しうるという実証主義以来の考え方が、ながらく学問としての歴史学の存立を保証する大前提とされてきただけに、歴史を認識するという行為の根底を問いなおすといった議論は、歴史学一般の共通の関心事になりにくい状況がある。理論的なレベルでは、現代思想や歴史哲学の分野で歴史認識論の再検討に鋭く切り込む仕事が重要な展開をみせ、近代歴史学の根本的な再検討に貢献するところは大きいけれども、これら最先端の議論は、いわゆる「プラクティカルな歴史家」、古文書館に通い生の史料をひもとく作業をもっぱらの仕事と考えている歴史家にはすんなりとは入っていかないところがあって、両者のあいだの対話はスムーズに進んでいるとは言えない。

 ここで「両者のあいだの対話はスムーズに進んでいるとは言えない」というのは、「プラクティカルな歴史家」が「歴史を認識するという行為の根底を問いなおすといった議論」に無関心であるという現実からきている。そしてそうした対話の停滞・無関心が蔓延する背景を、二宮氏は次のように説明する。

 歴史の具体的な探求と歴史学という学問についての理論的な省察がまったく切り離されていることがある。とくに近代の大学制度ができてからは、制度的枠組みとしても別だてになり、史学科では歴史哲学や史学史の授業がほとんど行なわれていない。辛うじて史学概論という形での概括的な講義があるだけで、あとは具体的なテーマに直ちに取り組んでいくのが史学科のやり方である。他方、歴史認識論はどこで論じられてきたかと言えば、それはもっぱら哲学科の領分であり、こちらはこちらで、歴史の具体的探求の作業とは無関係に抽象的な思弁に走る傾向が強く、史学科と哲学科が共同作業を行なうのはむずかしい仕組みになっている。

 二宮氏は「プラクティカルな歴史家」を、「古文書館に通い生の史料をひもとく作業をもっぱらの仕事と考えている歴史家」と規定する。そして「生の史料をひもとく作業をもっぱらの仕事と考えている」のであれば、それ以外のことは視野に入らないのだろうし、歴史認識論を論じる哲学においては、「歴史の具体的探求の作業とは無関係に抽象的な思弁に走る傾向」が強いとなれば、両者の対話が進まないのは当然と言える。そしてこの断絶が、「史学科と哲学科が共同作業を行なうのはむずかしい仕組み」であることに起因すると言うのであるが、その仕組みが見直されないままである現実が何によるのかを見ておく必要があるだろう。

 遅塚忠躬氏が著した『史学概論』は、歴史学者が歴史認識論について論及した著作であり、二宮氏の言うところの「両者のあいだの対話」に切り込もうとする労作である。そしてこの遅塚氏の歴史認識論の根幹は、以下のような二つの客観性を保証する条件によって支えられている。

 歴史学は、そこで提示された命題が公衆の自由な討論に付されて、その命題の「反証可能性」(だれもが反証を挙げてそれを論破しうる可能性)が保証されているかぎり、消極的にではあれ、客観的な科学と見なされてよい。
 では、歴史学上のある命題を論破するための「反証」の基準は何か。その基準は、提示された命題が論理的につじつまが合っているかどうか。また、その命題の根拠とされた事実を覆すような事実はないかどうか、という二点である。この二点を精査してみて合格ならば、その命題は、その当座、客観性を有していると言ってよい。こうして、まさに、前項で歴史学の前提たる「約束ごと」としておいた論理整合性と事実立脚性とこそが、歴史学をして客観的な科学たらしめる根拠であり、必要不可欠な条件なのである。


 ここに「提示された命題が公衆の自由な討論に付されて、その命題の「反証可能性」(だれもが反証を挙げてそれを論破しうる可能性)が保証」されれば、歴史学は「客観的な科学と見なされてよい」という箇所は、小田中氏が示した「みんなで考えれば、よりよい認識や解釈や歴史像に到達できる」と共通した見解であるようにみえる。ただし歴史学が「よりよい認識や解釈や歴史像に到達」する条件として、そこに「反証可能性」が保証されていることが必要であるとされる。そして遅塚氏の言うところの歴史学における「反証可能性」は、「提示された命題が論理的につじつまが合っているかどうか。また、その命題の根拠とされた事実を覆すような事実はないかどうか」の2つの条件をいつでも適用できることである。これは科学哲学者であるカール・ホパーの主張を取り込んだものであるが、そこに「事実立脚性」を当てたことで遅塚氏の主張の根幹が瓦解してしまっている。
 遅塚氏は、「その命題の根拠とされた事実を覆すような事実はないかどうか」を精査すると言うのであるが、事実を覆すような事実というものは存在しない。ホパーの反証可能性においては、事実(観察・実験)によって反証されるのは理論である。理論は事実によって裏づけられるから事実によって反証されもするのであるが、同じ資格の事実間で裏づけたり反証したりするなどということは論外である。ホパーの「反証可能性」においては、理論の妥当性の要件として厳しいテストを絶えぬいたことが挙げられるが、歴史的事実はテストすることができない。そしてそれは「歴史的」事実だからテストできないのではなく、事実をテストするということ自体が背理なのである。事実として認定できるのは確かな手順による観察と実験の結果であり、その事実(観察・実験)自体は反証可能性などを持ち出すまでもなくそれと確定できるものである。そうであるならば、遅塚氏が「事実」と呼んでいるものは「理論」なのである。それが「理論」という知的構築物であるからこそ事実によって覆るのであり、その場合の「事実」とは史料にある記述そのものである。由緒の伝承が添えられた古めかしい用紙に記載があること、それはテストするまでもない事実である。しかしながらその記載内容から読み取れることは事実なのではなく、知的構築物であるからテストすることが必要となる。そしてこの場合のテストとは、他の「事実」から引き出された知的構築物との比較であり、同じ知的構築物であるからこそ比較が可能なのであり、その比較を主導するのが「論理整合性」なのである。
 遅塚氏は「事実を覆す」と言うのであるが、それは史料における特定の記載内容に「事実」というランクを付与していたが、それが他のよりランクの高い史料の記載内容と矛盾したことから、付与されていたランクを剥奪したという事態である。つまり史料の記載内容という点では同格であるものに、「事実」というランクを付与するルールが存在するのであり、そのランクには強度があるということなのである。そして遅塚氏が「論理整合性」と呼ぶものも、このルールの性格の一面を示したものである。この史料をランク付けするルールは、歴史学において史料批判の方法論と呼ばれているものに相当する。そしてこのルール自体には反証可能性は適用できない。そこにあるのは粗略なルールがより精巧なルールによって置き換わるだけであるが、そこに事実が関与する余地はない。
 またホパーの「反証可能性」論自体も、今日の科学哲学においてはその有効性を失ってしまっており、別の文脈で捉えなおされるようになっている。

 実験による「反証」と理論の「棄却」とは論理的には独立の事柄であり、科学者はむしろ「反例」を未解決の「課題」として意識し、既成の枠組の内部でその解決に腐心するのである。そのような科学者の行動様式を、I・ラカトシュは、「科学者は厚顔なのだ」と単刀直入に言い表している。[中略]
 科学者は厚顔なのだ。彼らは事実が理論に合わないからといって、理論をおいそれとは捨てない。そういう場合彼らは、新しく救済用の仮説を案出して、理論に合わない事実を単なる一つの変則事例と呼べるようにしてしまった上でそれを説明してしまうか、その変則事例をうまく説明できない場合には、それを無視して、別の問題に関心を移してしまうのである。

(野家啓一著『科学の解釈学』)

 事実と理論は直接に対応しているのではなく、理論は事実から距離をおいた自立性を備えており、それがために反証となると思われた事実を理論の自己増殖でかわすことが可能となっている。このことはその理論の客観性を保証しているのが、事実との対応である以上に当該専門家集団の認定にあり、その認定の下地としてパラダイムの共有があるというトーマス・クーンの主張に共通するものである。
*パラダイムとは、「一般に認められた科学的業績で、一時期の間、専門家に対して問い方や答え方のモデルを与えるもの」(クーン)である。
 歴史学において事実ランクを付与するルールもまた、その妥当性は歴史家集団が共有するところのパラダイムに依存している。実際のところ、歴史家集団が揃って事実だと認定しているものを否定することなどできないのであり、そのことを離れて客観性を主張する必要などはどこにもないだろう。小田中氏の挙げた入門書の課題でいうならば、「①歴史学は、歴史上の事実である“史実”にアクセスできるか」は、事実ランクを付与するルールが現に機能している以上、答えは「yes」である。そしてこのようにして「yes」であるからこそ、歴史学における専門家集団は、「歴史を認識するという行為の根底を問いなおすといった議論」に無関心でいられるのである。遅塚氏のように不慣れな哲学的議論に入り込まずとも、歴史学は進んでいけるのである。しかしながら問題は、①が「yes」であってもそのことによって核心である「②歴史を知ることは役に立つか」が「yes」にならないところにある。

次へ続く
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by mizuno_clan | 2014-01-12 11:40 | ☆談義(自由討論)

【談議1】水野氏と戦国談議(第四十二回)

前からの続き

 小田中氏が『歴史学ってなんだ?』で述べた「みんなで考えれば、よりよい認識や解釈や歴史像に到達できる」は、一応クーンの議論を踏まえたものであり、素朴な表現ながら①の問いに対する回答となっている。しかしながらここで小田中氏は、「認識や解釈や歴史像」という言い方をしているが、これらはいづれも知的構築物であることが強調されねばならない。そして歴史学において、このことを果たすために「物語」という用語の導入が要請されたのである。
 歴史家としてこの「①歴史学は、歴史上の事実である“史実”にアクセスできるか」の問題に切り込んだ遅塚氏の胸の内には、「近年、いわゆる“言語論的転回”以降、歴史の“物語り”論がにわかに学界で脚光を浴びていることは大方に周知のところであろうが、そこでは、歴史学と文学の間の垣根を取り払うことが提唱されているのである」という危機感が充満していた。①の問題は言語論的転回、そして歴史物語論に触発されるかたちで、歴史学の悩みとなっていったのである。この言語論的転回、ことに歴史物語論は歴史哲学以外の多方面で議論を呼んだ経緯もあって、この用語で何を意味するかにもバラツキがある。その中で歴史学がそれとして受容すべき言語論的転回・歴史物語論は、例えば野家啓一氏が『物語の哲学』に記載した次の説明であろう。

 現実に物語り論は社会構成(構築)主義ともゆるやかな連携を保ちつつ、文学理論や歴史哲学のみならず、臨床心理学、医学、教育学などの諸領域において、人間科学の方法論ないしは文化の基礎理論として多様な展開を見せている。[中略]この機能概念としての物語りがしばしば実体概念としての物語(たとえば「国民の物語」)と取り違えられるところから、物語り論はあらぬ誤解や曲解を招き、不毛な応酬が繰り返されることになる。それゆえここでは、物語りが機能概念であることに加えて「方法概念」でもあることを強調しておきたい。つまり、「物語り」はわれわれの経験を時間的に分節化する言語行為であるとともに、その存立構造を解明する一つの分析装置でもあるのである。

 歴史物語論はとかく誤解を受けているのであるが、ここで野家氏は物語りを「機能概念である」として実体概念と区別している。歴史物語論は歴史記述=物語(作者の意図による創作物:実体)を主張するものではなく、「物語り」が歴史記述に不可避的に表れる構造であり働きであることを意味するものである。このことはアーサー・ダントーにおいては、「物語り構造が出来事に関するわれわれの意識に浸透している」(『物語の歴史』)と表現される。そしてこの出来事記述に不可避的に表れる構造というものを、野家氏は以下の具体例で説明している。

 このことは出来事の典型的事例である「行為」を考えてみれば明らかであろう。ピアノの演奏やピッチャーの投球動作が示すように、あらゆる行為は時間的出来事であり、それは「始め-中間-終わり」という時間的構造をもっている。「右手を上げる」というごく単純な行為ですら、その例外ではない。右手を上げ始め、上げ続け、やがて上げ終えるという時間的経過がそこには含まれている。しかも、右手を上げるという行為は、それだけで完結する出来事ではない。右手を上げ始めたのは、向こうからやってくるタクシーが見えたことの結果であろうし、右手を上げ終えたことが原因となって、タクシーは停止することであろう。また、ピッチャーが投球動作を開始するのはキャッチャーのサインに促されてのことであろうし、投げ終えた球は逆転満塁サヨナラホームランを帰結するかもしれない。その場合には、ピッチャーの投球動作を中間部分と見なし、この出来事を「キャッチャーのサイン・ミスが敗戦をもたらした」と記述することも可能であろう。このように、出来事は入れ子型の連鎖構造をなしてゆるやかな「原因-結果」のネットワークを形作っているのである。[中略]出来事は物理的事物のように路傍にころがっているものではなく、一つの出来事を同定しようとすれば、何かを原因とし何かを結果とするかをめぐって、それを確定する「視点」と「文脈」とが要求されるからである。この視点と文脈を与えるものこそ、われわれの言う「物語り(narative)」にほかならない。とりあえずここでは、簡単に「物語り」を複数の出来事を時間的に組織化する言語行為として特徴づけておこう。

 歴史物語論は、「歴史学と文学の間の垣根を取り払うこと」を目的としているものではないが、両者の記述構造の類似性は指摘する。そしてこの類似性は、歴史学の客観性に対する疑義に向かっているのではなく、両者の創造性(知の拡大という意味で)に向かっていると理解すべきである。「右手を上げ始め、上げ続け、やがて上げ終える」という行為は、この記述においては3つの動作の連続である。そしてその同じ行為が、やってきたタクシーを呼び止めるという一つの出来事で記述されたり、ピッチャーの投球という出来事として記述されもする。しかしながら3つの動作という出来事を集めることによって、タクシーを呼び止める、あるいはピッチャーの投球という出来事が生まれたわけではない。3つの動作を一つに編み上げる文脈が関与しなければ、それぞれの出来事は出現しない。出来事を記述するということは、それ自体にないところの意味を文脈的に構成するということであり、その働きを「物語り」と呼び、この働きが歴史記述を可能にしているという認識を示したものが歴史物語論である。
 出来事の粒度は様々に決めることができる。「右手を上げ始め」も出来事であるし、ピッチャーが直球を投げたも出来事である。そうした出来事によって歴史は描かれるのであり、動きようもない固定した事実の集積が歴史となることはできない。このことは例えばダヴィンチが描いた絵画を、後世の人々が見るということで考えるとわかりやすいかもしれない。ダヴィンチは筆を動かしてキャンバスに色を重ねた。そしてその行為をとおしてダヴィンチはダヴィンチの絵画を描いたのであるが、後世の我々が見るのはキャンバスに重ねられた色である。その色の重ね合わせから微笑する女性を見て取るとしても、それがダヴィンチが描いた絵画なのではない。人はそれぞれの眼をもっていて、その眼が色の重ね合わせから何かを受け取る。何を受けとるのかはそれぞれが行使していることであって、その受け取りの行使に隅々まで行き渡った決まりがあるのではない。それでも同じ絵画を見て、これは女性を描いたものだとは誰もが思うのであるから、その人たちに共通する受け取りの行使は存在する。それでも幼い子供が、「この女の人、怒っているね」と言うのを止めることはできない。大人が「少し笑っているのだよ」と訂正しても、その子供は「変なの」と子供なりの事情を返すだけである。人として共有しているものもあれば、その時代に生きる大人として共有しているものもあって、それが「同じ物」を見ているのだと人に思わせるが、そうではなくて「同じように」見ているのである。
 その著作のタイトルに惹かれて読んでいる『言語派社会学の原理』(橋爪大二郎著)に、次のような箇所がある。

 社会科学の樹てる理論モデルは、近代社会の人びとが自分たちの社会について抱くイメージをかたどったものだ。経済学者の資本主義社会論、政治学者の民主主義論、社会学者の現代社会論、…。どれも一応もっともらしく、何かを説明してくれるような気がする。だがそれは、その社会の人びとの常識をなぞっているので、そう思えるだけである。
 記述のための概念も、常識からの借り物である。権利、人格、自由、家族、…。社会を記述ためのもっとも基本的な概念を、その研究対象、近代社会を生きる人々から借用している。人類学では、ある社会の人びとが自分たちの社会について持っている知識を、「原住民の知識」というが、いまの社会科学は、そうしたものの一種だ。
 すると、どうなるか。記述概念や説明の枠組を、説明の対象(近代社会を生きる人びと)と共有しているのだから、一見説明力があるのは当り前。なるほど社会科学者の言うとおり、と人びとは容易に納得できる。そこで生じているのは、循環にほかならない。だからいまの社会学は、西欧近代社会だとうまく分析できるが、それと似ていない社会(たとえば、日本の現代社会)だとそれほどうまく説明できなくなり、もっと異質な社会だとほぼお手あげ。要するに社会一般を考察することができていないのだ。


 ここで橋爪氏は。「常識からの借り物」である基本概念を使っての説明は、西欧近代社会には妥当するが「もっと異質な社会だとほぼお手あげ」だと書いている。思うに現代社会と同じであるならば、それが時計時間においてどんなに過去であってもそれは現代社会である。時計時間で例えば「50年以前は現代ではない」と規定できない以上、時間の隔たりではなく社会の相違によって時代を区別するより他にない。そうであるならば、例えば中世社会は「もっと異質な社会」に当たるはずだが、歴史学は「ほぼお手あげ」とはなっていない。それでは歴史学においては社会学と事情が違って、常識からの借り物である基本概念を使っていないのだろうか。社会一般を考察しようとして奮闘している社会学にとって盲点となっている基本概念に、歴史学が依存していないなどということはまずない。なぜならば社会学は、社会一般を考察するために歴史社会も視野に入れているからである。そしてその歴史社会の知識を提供しているのは、他ならぬ歴史学以外にはないだろう。そして歴史学が提供する知識を社会学が理解しようとするとき、そこにはやはり常識からの借り物である基本概念が知識の橋渡しを果たしているのである。つまり社会学も歴史学もともに常識からの借り物である基本概念を共有することで、相互に知識の交換が可能となっているのである。したがって歴史学は「ほぼお手あげ」となるのではなく、社会学そして現代の常識と「同じように」過去をみることによって、「もっと異質な社会」の異質性を埋め合わせてしまうのである。そして現代の常識からなる借り物概念を使って説明された異質な社会(歴史社会)は、現代に取り込まれた擬似現代社会として理解され、その「異質」は同軸上の布置の差に過ぎなくなる。「異質」として現れることが「歴史」であるはずなのに、断絶のない過去から現代への進化モデルに包摂されてしまうのである。
 「歴史と過去」というタイトルは、時間同軸上の布置の差である「過去」から「歴史」という概念を救出する意図を込めている。「歴史」とはそれを捉えようとする者にとっての差異であり、その異邦性のゆえにまずは理解不能という言葉(呪術的とか未開など)を投げかけられるものである。そして現代に同化してしまうのではなくその異邦性を乗り越えようとすれば、否応なしに現代の盲点に到達し、現代の常識からなる借り物概念の使用を停止し、その底へと降りて行かねばばならないとき、「歴史」が開かれるのだと思う。
 「歴史を知ることは役に立つか」と問われて、「温故知新」と答えるとしよう。この答えは半ばは当たっているといえるが、もう半分は現実が追いついていない。なぜなら、史実を確定するルールが機能していることで「温故」は当たっているのだが、そこから未来を切り開く「知新」を生み出せていないだろうからである。しかしながら、理解が及ばないような異質を踏み分けて行こうとするなら、それは既知を打ち破らねば無理なわけで、そこに「温故知新」が成就するのではないだろうか。

 昨年8月に歴史学を専攻する大学院生たちに聞いてもらった内容を、加筆修正してこれまで記載してみた。話をした内容は、「歴史と過去」で考察したことをコンパクトにしてわかりやすくしたつもりであったが、聞いてもらった彼らに変化があったようすはない。参加のあった大学院生のほとんどが中世史学専攻であるが、このことは日本の中世史学におけるパラダイムが安定していることを示すものであろう。その一方で廃止学科リストのトップという小田中氏の不吉なフィクションが、社会一般の動向とのギャップを示すものであるようにも思われる。私自身は学生時代に哲学を専攻したことから、「知新」から入って「温故知新」へという推移を経ているが、「温故」から入って「温故知新」へと進むことはむしろハードルが高いように思える。哲学のような学問はある種の貪欲さのようなものがあって、何にでも考察の手を伸ばすのであるが、膨大な古文書を抱える日本の中世史学はともするとそこに埋没しがちであるのかもしれない。
 二宮氏は「史学科と哲学科が共同作業を行なうのはむずかしい仕組み」があるというが、「両者のあいだの対話はスムーズに進んでいるとは言えない」のは仕組み以前の問題によるのだと思われる。「温故」と「知新」は既存と革新に相当するのであり、「温故」に向かう中から革新がもたらされることはない。「温故知新」は相対するベクトルの働きを一つにしているところに意味があるのだが、それは「温故」と「知新」を分離した後に一つにするといったものでは成就しない。「温故」は過去に向かうものであっても、歴史は同じアプローチでは到達できないものである。それ一体として働く「温故知新」が歴史なのであり、現在を破りながら異邦へと降り下るものが歴史なのであって、そうであってこそ歴史は現代において渇望されるものとなるのである。
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by mizuno_clan | 2014-01-12 11:36 | ☆談義(自由討論)

2014年賀

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by mizuno_clan | 2014-01-01 00:04 | Information