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秋葉山明王寺の鰐口

                            筆者:水野青鷺

A.秋葉山明王寺(舞木町明王堂=まいぎちょう みょうおうどう)
 愛知県豊田市舞木町丸根164 Visit :2011‎-04-‎20‎‏‎ 12:01

 本寺は通称、明王堂と呼ばれ無住であり、弘法大師縁日以外の日は開扉されていない。
宗派:曹洞宗 本尊:釈迦牟尼如来
その他由緒などについては未詳。

B.豊田市郷土資料館
愛知県豊田市陣中町1-21 Visit :2011‎-04-‎20‎‏‎ ‏‎13:13
●天正五年(1577) 第二代水野太郎左衛門(範直・則重)(*1)作 鰐口
 [秋葉山明王寺所有、昭和四十五年(1970)、豊田市郷土資料館に寄託]

天正五年(1577) 十月二十九日 清水洞小太郎、三河国猿投社西宮に鰐口を寄進する
  一二四八 銅造鰐口陰刻銘 豊田市 明王堂
三州加茂郡高橋庄(西宮)舞木邑鰐口清水洞小太郎寄進
天正五年十月廿九日 大工水野太郎左衛門(範長)
 
                    (『愛知県史』資料編11 織豊1)

◆鰐口(わにぐち)とは、仏堂や神社社殿の正面軒先に吊り下げられた金属製梵音具(ぼんのんぐ=仏具の中で音の出るものの総称)の一種で、鋳銅や鋳鉄製のものが多い。形状は、鐘鼓(かねとたいこ)を二つ合わせた、鈴を扁平にしたような形をしており、鰐口の上部には、吊すための耳状の吊輪が二個あり、下側半分の縁に沿って細い開口部が設けられている。鼓面は、圏線によって内側から撞座区、内区、外区に区分される。

[寸法]cm
外径 31.4 径面27.0 厚胴8.1 (添付図参照)
 
◆本鰐口の由来
 鰐口に陰刻された銘によると、天正五年(1577) 十月二十九日、清水洞の小太郎が、猿投神社西宮(*2)に、鰐口を寄進したことがわかる。この「清水洞」については、現在の「愛知県豊田市雑敷町清水洞」という地名に比定され、この地を本貫とする小太郎は、猿投神社の氏子中として信仰する西宮に鰐口を奉納したものと推測される。清水洞の小太郎については、どのような身分の者であり、どういった理由から寄進したかについては、この銘のみからは判明しないが、おそらくは同地の有力者であったろうと推察される。また、この銘から、清水洞の小太郎が、第二代水野太郎左衛門(範長・則重)に鰐口を発注し鑄造させたことになるが、当時水野太郎左衛門は、春日井郡上野村(*3)に在住しており、上野村で鋳たものを清水洞か西宮に納入したと考えられる。さらには、陰刻の「西宮」の文字の上から「舞木邑」と改竄されていることから、当初は西宮社殿の正面軒先に吊り下げられていたが、いつの頃か猿投神社の麓にある舞木邑の明王堂に下げ渡されたものであろうことがわかる。四百三十余年もの間、風雨や吹雪の吹き抜ける軒下で、よくぞ耐えて当時の面影を伝えてくれている鰐口に愛おしさを覚える。

[註]
*1=二代目水野太郎左衛門の諱については、『愛知県史』では、「範直」としているが、水野平蔵家(水野分家道握系図)では「則重」と記されている。
*2=猿投山の山麓に猿投神社本社、東峯に東宮、西峯に西宮が鎮座し、古来、猿投三社大明神と称されたていた。
*3=この場所については、現在の「愛知県名古屋市千種区鍋屋上野町」と「愛知県春日井市上野町」の二説がある。


●あとがき
 この明王堂鰐口については、2005年に水野太郎左衛門についての研究を始めてから、豊田市高橋町を中心に色々と調べており、関係博物館や寺社など各所にも問い合わせをしましたが、残念ながらその所在地が判らず終いでありました。
 それから六年経った、つい先日、何のキーワードであったかは覚えておりませんが、ネットサーフィンしておりましたら、「『豊田市郷資料館だより』N0.71 P.3 2010.03」の記事にこの鰐口のことが書かれていることを承知し、「高橋庄」が、不覚にも北は猿投神社までの広範囲に渡っていたことに気付かされました。この鰐口陰刻銘からは、さらには猿投山の東北に位置する愛知県豊田市雑敷町(ざっしきちょう)清水洞の辺りまでもが、高橋庄であったことが分かりました。
 この情報を頼りに、豊田市郷資料館の所定手続きを経て、数日で鰐口の撮影許可が下りました。こうして一昨日同館を採訪し、ようやく念願の鰐口にお目にかかれることが出来ました。
 この採訪では、秋葉山明王寺の近くで、桃の花の手入れをなさっておられた農家の方が、お忙しいのにお手を止めて丁寧に明王堂のことを教えて下さいました。また鰐口の取材では、同館長様並びに学芸員様には、寛大なご配慮をいただきました。ご協力いただきました皆様に、心から深謝申し上げる次第です。


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雑敷町清水洞→猿投神社西宮→秋葉山明王寺



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猿投山


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猿投神社本社




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秋葉山明王寺




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猿投神社西宮(ウィキペディア)

# by mizuno_clan | 2011-04-22 18:41 | ★研究ノート

【寄稿17】宮本武蔵と水野勝成 『宮本武蔵の大坂夏の陣』1/2 »»Web会員««

     まえがき 
 本稿は平成6年(1994)月刊『歴史研究』400号に掲載された「宮本武蔵の夏の陣」の転載です。出版社「歴研」の承諾もいただいています。
ただ「歴研」の投稿原稿が8000字(原稿用紙20枚)に制限されていましたので窮屈に圧縮させていた部分も、せっかくですから了解を得て拡げさせていただきました。

 当時までは宮本武蔵の大坂の陣は大坂方という認識が通説でありましたが、原論文は武蔵が徳川方であったことを決定づけた論文となります。
武蔵研究の第一人者となられました国際武道大学の魚住孝至先生を始め多くの著書・論文等に引用されましたが、今では新しい定説と化して当時のように特別に書かれることもなくなりました。
 しかし、まだこれまでいかなる歴史番組でも武蔵の徳川方説が語られた事はなかったと思います。
 今年2月23日、小生も出演させていただきましたNHK「歴史秘話ヒストリア」で初めて明瞭に「武蔵は徳川方の武将の護衛として出陣した」と解説されたのは本論に基づくもので、画期的でした。
 11年前のNHK「ときめき歴史館」でも本論文の取材を受け、武蔵の大坂の陣出陣の証として本論に乗せている小生提供の『黄耇雑録』も画面に表示されましたが、ついに武蔵が徳川方であったことに触れられることはなかったのです。
 武蔵の人生において水野勝成との出会いと大坂の陣に水野の陣営から徳川方として出陣したことが大きなターニングポイントとなっています。

 水野氏研究会の皆様にも宮本武蔵と水野氏との深い関係を知っていただければと存じます。

                                     福田正秀(宮本武蔵研究家)





宮本武蔵と水野勝成
『宮本武蔵の大坂夏の陣』


                                             福田 正秀

はじめに 
  宮本武蔵は生涯六十余度の兵法勝負に無敗の剣豪として知られている。しかし武蔵が晩年に著した『五輪書』序文によれば、その勝負は若かりし頃二十代までのことであり、「われ三十を越えてあとをおもいみるに兵法至極して勝つにはあらず」とその勝利は兵法を極めたからではなかったと反省している。なおも深き道理を求めて兵法修行に朝鍛夕錬し、至極の境地を得たのは五十歳の頃であった。すなわち悟道に至る武蔵の真骨頂は六十戦全勝の前半生ではなく、三十代以降の後半生にあったのである。
そのスタートに徳川が豊臣氏を滅ぼした大坂の陣(一六一四~)があった。武蔵はこの戦場に立っているが、豊臣か徳川か、武蔵はどちら側について戦ったのであろうか。武蔵の生涯を鳥瞰してみれば、兵法至極に至る人生の大きなターニングポイントであったことは間違いない。
 実は武蔵の大坂の陣には水野勝成が大きく関与していた。本稿では武蔵が大坂夏の陣に水野勝成の陣営から出陣していたこと、すなわち武蔵が徳川方であったことを証明する。

一、通説への疑問  
 宮本武蔵が大坂の陣に参戦した事は、武蔵の死後九年後に養子伊織によって建てられた「小倉碑」にも刻まれており、史実であろう。
『二天記』はこう伝えている。
 《一、慶長十九年大坂陣武蔵軍功証拠あり、三十一歳、翌元和元年落城なり》
 大坂方か徳川方か、どちらとも書いていない。 ちらほらと徳川方説を唱える論者もいたが、大勢を変えるに至らず、これまで武蔵は大坂方の浪人募集に応じて戦ったというのが通説であった。不思議なことに何の史料的裏付けもなく、そう信じられてきた。理由は大坂方には全国から十万人余の牢人が入城したし、武蔵も牢人であり、手柄を立てて立身の好機と、当然これに参加したであろうという単なる推測だけ。関ヶ原西軍説の延長もあるようである。
 司馬遼太郎氏はその著『宮本武蔵』で、「大坂の役関係のあらゆる資料のどこにも彼の名が片鱗も見えぬところを見ると、武蔵は微賤の軽士として大坂城の石垣のなかにこもっていたにすぎなかったのであろう」と述べている。
 ところがその反対史料が出た。それは大坂陣当時、三河刈谷城主であった水野日向守勝成の陣備えを記録した「大坂御陣之御供」の名簿の中に、宮本武蔵の名前が載っているというのである。この記録は昭和五十九年に、水野藩家老中山将監の子孫中山文夫氏(名古屋市)の家にある膨大な古文書類の中から発見された。水野日向守は徳川家康の従兄弟に当たり、大坂夏の陣では大和口方面軍の先陣の大将であった。当然、徳川方である。
 史料発見当時『週刊朝日』がこれを取り上げ、通説を覆す新史料としてセンセーショナルに報道した。しかし、なぜか研究家はほとんどこれを無視、あるいは否定したのである。その理由として歴史家の岡田一男氏は「宮本武蔵研究の問題点」(『歴史研究』平成三年十月号)にて、「武蔵が夏の陣で豊臣方に加担して大阪城に入ったことは「小倉碑文」が立証している。「大坂御陣の御供」にある名は同時代に宮本武蔵を名乗る者が何人もいたので、これも同姓同名の別人であろう」と書いている。
 はたして小倉碑文は武蔵の大坂方を立証しているか。私が現地で確認した碑文の該当部分は次の通りであった。
  《豊臣太閤公之嬖臣石田治部少輔謀叛之時或於攝州大坂 秀頼公兵乱時武蔵勇功佳名縦有海之口溪之舌寧説盡簡略不記之》
(読下し)
「豊臣太閤公の嬖臣(へいしん)石田治部少輔謀叛(むほん)の時、或いは攝州大坂に於いて、秀頼公兵乱の時の武蔵の勇功佳名は、縦(ほしいまま)に、海の口渓(たに)の舌に有り、寧(むし)ろ説き盡(つく)し、簡略に之を記さず」

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[小倉碑(宮本武蔵墓)]


どこにも豊臣方あるいは徳川方についたとの記述はない。それどころか「謀叛の時」とか「兵乱の時」という言い方は、それを鎮圧する側からの表現であり、「関ヶ原、大坂、この両陣での武蔵の勇功佳名は、あまねく天下の知るところであり、簡略には説明できないほどである」と伊織は父の軍功を高らかに誇っているのである。
 伊織はこの碑を建てた時、徳川譜代大名中の名門、小笠原藩の筆頭家老であった。藩主小笠原忠真は徳川家康の曾孫(母は家康の嫡男信康の女)で大坂夏の陣では父と兄が壮烈な戦死、自らも全身に七箇所の深手を負っている。その忠真から「武蔵の石塔山(墓地)にせよ」と下賜された山に建てた石碑である(宮本家由緒書)。武蔵がもし大坂方であったなら、何の勇功、何の佳名であろう、碑文から削除される事項となる。味方の徳川方であったればこその顕彰であろう。
 岡田氏の論拠で思い出されたのが、武蔵研究家の原田夢果史氏がその著『真説宮本武蔵』で述べられていた大坂方説の論拠である。
 「秀頼公の字の上に一字空白をおいてあるのは、直属の主君に対する敬意を表す闕字(けつじ)法で、彼が関東方でないことを示す」
 岡田氏もこの事をさして言われているのか。しかし残念ながら闕字は直属の主君にのみするものではない。一般的に記述者から見て貴人に対する敬意を表するために用いる文章作法であり、徳川の世になっても太閤や秀頼は貴人であったということである。しかもこの場合の記述者は伊織であって武蔵ではない。 結論はこの碑文から武蔵が西軍、あるいは大坂方であったことを立証する事はできないということである。
次にいよいよ大坂の陣で武蔵は徳川方であった証明に入る。

二、「大坂御陳御人数附覚」〈裏付一〉
 
慶長十九年の大坂冬の陣に武蔵が参戦した証明史料は今のところ出ていないが、翌二十年(元和元年)の夏の陣に出陣した裏付け史料をいくつか見つける事が出来た。
 まず中山家史料の信憑性は、まったく同一内容の記録が広島県福山市の福山城に収蔵されていることがわかり、立証された。福山は水野日向守勝成が大坂陣後に十万石で再移封された所である。その史料は中山家同様水野家の家老であった小場家文書の中の一本で「大坂御陳御人数附覚」となっており、現地鏡櫓にて確認したところ宝暦二年の写しと、文政元年の写し二本があり、奥附けに小場兵馬所持と記されていた。
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[大坂御陣御人数附覚(福山城鏡櫓蔵)]

 これによると夏の陣での水野軍の総陣容は、《総御供騎馬二百三十騎、総御人数三千二百人之由》となっている。士(さむらい)大将は中山外記、そして御供騎馬武者二百三十人の中「作州様附」十人の四番目に宮本武蔵の名前があった。作州様とは勝成の嫡男、美作守勝重(のち勝俊)のことである。
 この東西二つの同一資料は、武蔵が徳川方、水野勝成の陣営にあった事を裏付けている。週刊朝日の「士大将格」という判断は明らかな誤り。士大将は一軍の総大将で、通常は藩の家老が任命された。水野軍では中山外記であった事がこの覚書でわかる。武蔵の立場は当初陣場借りかとも考えたが、勝重付十人のうち二人までは名前の上に「牢人にて出陣」との但し書きがある。武蔵にはそれがないということは、仕官を求めての陣場借りとも思えない。この頃すでに六十余度の勝負に勝ち、天下無双の剣豪として高名であった武蔵は、その気になればいくらでも仕官が出来たはず。水野家では遊遇の名士、勝成の御客分としての身分で、後の島原の陣での小笠原家同様、若殿勝重の身を守る護衛の任を特に勝成から頼まれたものであろう。いわば客将と見るのが正しいと思う。

三、『黄耈(こうこう)雑録』〈裏付二〉
 
 水野勝成を祖とする福山水野藩は、五代勝峯がわずか二歳で没し元禄十一年に無嗣改易となった。先祖の功をもって勝成の曾孫となる勝長に能登国の内一万石で再興させられ、のち下総結城藩一万八千石として存続するが、家臣団は分散し、家老中山家は幕臣旗本へ、分家は尾張徳川家に移った。その尾張中山家に中山七太夫という長沼流兵学者が出て、この人がたくさんの写本を中山家の今に伝えている。その中の一本に武蔵が大坂陣で活躍する場面を記録したものが見つかった。出典を探していると、名古屋の郷土史家より、それと同じ記録が『黄耈雑録』に出ているとの指摘を受け、判明した。それは宝暦の頃(一七五一~)尾張藩の松平君山という学者が、藩士等の見聞録をまとめたものであった。彼は藩の書物奉行で、膨大な記録、文書の管理と編纂が職務であった。
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[『黄耈雑録』表紙(左)と中山七太夫筆の該当部分(中山文夫氏蔵)]


 中山文夫氏のご尽力により『黄耈雑録』の写本(全十巻)が名古屋市史史料の中に見つかって写しを送っていただいた。その第一巻に中山家蔵の記録と同一内容がある事が確認できた。該当部分を抜粋すると次のようになる。

    一、宮本武蔵ハ兵法の名人なり、十四五の時分剣術を得、父ハ無二といふ、是又一流の遣ひ手なり、是をハ古流と云、武蔵我代(わがだい=城)に仕かへしとぞ、十八歳にて吉岡清十郎と仕相し名を発し、廿余にて岩石と仕合、名を発す、大坂の時、水野日向守か手に付、三間ほとの志ないのさし物に、釈迦者仏法之為知者、我者兵法之為知者と書れる。よき覚ハなし、何方にて有れん橋の上にて、大木刀を持、雑人を橋の左右へなぎ伏れる様子、見事なりと、人々誉れる。

 一つ書の中の一項目であり、きわめて短文であるが、前半の伝聞は当時から武蔵が剣豪として有名であったことを、後半では戦場で働く武蔵の様子を生き生きと伝えている。そしてこの中に、「大坂の時、水野日向守の手に付」と明確に武蔵が徳川方水野軍に属して戦った事、すなわち「大坂御陳之御供」に記録されていた宮本武蔵が、同姓同名の別人などではなく、正真正銘のあの剣豪武蔵であった事を証明しているのである。
 それにしてもこの記録は実に興味深い。陣中の武蔵は三間ほどのというから五メートル余の大指物に、「釈迦者仏法之為知者、我者兵法之為知者(釈迦は仏法の知者たり、我は兵法の知者たり)」と大書した旗を立てていたという。普通一般に指物の長さは二間弱というから、極めて派手なパフォーマンスで、あの仏教開祖の釈迦と自分を並べてアピールするなど、自信満々たる壮年武蔵の姿が浮かび上がってくる。
 そして橋の上に陣取って、寄せ来る敵の雑兵へ大木刀を振りかざし、バッタバッタとなぎ伏せる戦闘場面は、剣豪武蔵の面目躍如、あまりの見事さに、皆口々に褒め称えたと言っている。戦場で闘う武蔵の目撃史料は他になく、非常に貴重である。
 ではこの戦闘は一体いつのどの戦場でのことであろうか。
「水野勝成覚書」によると、水野軍は夏の陣の五月六日、河内の道明寺方面において大坂方の猛将後藤又兵衛基次軍と激戦している。戦闘の様子はおよそ次のようであった。
 《片山の山を(後藤軍を)下へ追い崩し、道筋両側は深田にて、田の中に小さき石橋あり、先に拙者(勝成)二番に中山勘解由、三番に水野美作守、四番目に村瀬左馬、それを乗り越すと、本多左京の軍勢が追い崩され、その橋の際まで逃げかかってきたので、右四人の者、馬より降り槍を取って突き掛かり、敵を退け、藤井寺まで進撃した》
 まるで四将だけがいるような記述であるが、配下の侍、若党などが周りを固めているのは当然である。先の「大坂御陣御人数附覚」で武蔵は勝成の嫡男勝重付の騎馬武者であったことを確認した。勝重この時十七歳、武蔵はここにいたのである。『黄耈雑録』記載の武蔵が橋の上で戦闘する場面が事実なら、この小橋での事ではないだろうか。
 
四、「宋休様御出語」〈裏付三〉 
 水野家は刈谷三万石から戦功によって一旦大和郡山六万石に封ぜられた後、元和五年にはさらに備後福山十万石に加増転封された。
 この福山に武蔵史料がないかと思い、平成五年夏、福山城博物館に問い合わせてみたところ、福山市文化財保護審議会長でもある平井隆夫氏より回答を得、更なる裏付け資料が見つかった。それは水野藩の古記録「宋休様御出語」(小場家文書)というものであった。宋休とは水野日向守勝成の隠居号で、彼が隠居後に話したことを近侍の小場兵左衛門利之が晩年に筆録したものである。(のち福山城博物館蔵の写本を確認)
 注目したのは、その中〔勝成、島原出陣〕の一節であった。

  黄昏(たそがれ)に及て御着故、いまだ陣所を取しつめさるに雨は頻(しきり)にふり出す。陣中殊之外(ことのほか)騒々しく聞へければ、前備(まえぞなえ)の小笠原家にて是を聞き凡(およ)そ着陣には法あり、さしも日向殿、当時の良将とこそ聞こえし、あの着陣の騒敷(さわがしき)はいかにぞや、今にも夜討など有らば、あの人数は物の用には立つべからずと、口々に云いければ、宮本武蔵という者是を聞き、我先年、日向守殿家にこれあり、彼軍立よく知れり、凡慮の及ばざる大将なり、各評判の及ぶ処にあらず(後略)

 と、ここでも武蔵自ら「自分は先年、日向守殿に属してその軍立てを良く知っている」と言っているのである。この島原陣の前、大坂の陣でのことを言っていることは間違いない。「前備の小笠原家」とは、宮本伊織(武蔵養子)を総軍奉行とする小倉藩小笠原忠真軍のことであり、この中に武蔵がいた事は、原城落城の日の陣中より日向県(延岡)藩主、有馬左衛門佐直純へ宛てた書状や、後日肥後細川藩筆頭家老長岡佐渡守へ陣中音信のお礼を述べた武蔵直筆の書状が残っており、立証している。また新な小笠原家史料調査によって、有馬陣出陣記録の内、小笠原信濃守長次の身の回りを固めた「旗本一番」の騎馬武者の中に宮本武蔵の名が発見され、武蔵の役割までが立証されたのである。
 もはや、武蔵が徳川方で戦った事は、動かしがたい事実であろう。 (つづく)

# by mizuno_clan | 2011-03-26 15:43 | ★研究論文

【寄稿17】宮本武蔵と水野勝成 『宮本武蔵の大坂夏の陣』2/2 »»Web会員««

五、三木之助は水野藩中川氏〈裏付四〉 
 今回の考証で思いがけず判明したのが武蔵の最初の養子、三木之助の出自であった。そしてそれがまた、武蔵が大坂の陣で水野家にあった事の証明であり、徳川方の四つ目の裏付けとなったのである。
武蔵の伝記で『二天記』より古い丹治峯均筆記『武州傳来記』によると、三木之助は造酒之助であり、武蔵が摂州尼崎街道で拾った馬子の少年となっている。二天記の「泥鰌(どじょう)伊織」と同類の伝承であるが、意外とこれを真に受けている人がいる。しかし、大方の史家、研究家は「新免宗貫の孫」としている。新免家は武蔵の養父無二之助の旧主にあたり、新免姓を下賜されている関係から、自然と受け入れられてきた。根拠もある。「作州新免系図」に三喜之助という名があり、脇書きにそのことが書かれているのだ。
《当世の美少年二刀剣術をよくす。宮本武蔵玄信の養子となり、播州姫路城主本多美濃守世子、中務太夫忠刻に仕える。七百石側小姓、宮本造酒之助と改める。本多忠刻寛永三年丙寅五月七日卒三十一歳、造酒之助即日殉死》
 三木之助と、字の違いをのぞいてはまったくその通りである。しかし不思議な事は、筑前黒田藩三奈木村に残る「筑前新免系譜」と、かなり相違がある点である。
 新免家は関ヶ原で西軍宇喜多秀家軍に属して敗れ、一族家臣とも九州へ落ち、黒田家に仕え明治維新まで続いている。領地だった三奈木村には今も「伊賀様」とよばれる新免伊賀守を祭る祠や供養塔が、新免宗家と家臣団の祭司の中心として大切に守られており、この系統の由緒は正しいが、こちらに残る新免系譜には三木之助らしい人物の記録は一切無い。
 「作州新免系図」に更に疑問が生じたのは平成三年夏、三木之助の墓を姫路に訪ねたときからであった。墓は姫路市郊外、書写山圓教寺内、本多家霊廟の中にある。寺域は広く、ロープウエイで山頂に上ってなお三十分は歩かねばならなかった。
 本多家霊廟の中は一番が幸千代(忠刻と千姫の子)、次が忠刻、そのあとは御霊家付で歴代城主墓が並んでいて見事であった。そして、忠刻の大きな五輪墓の後ろにかしずくように、殉死した三木之助と岩原牛之助の小さめの五輪墓があった。
 ちょっと本題から外れるが、圓教寺墓誌によるとこの牛之助は元忠刻の家臣で故あって牢人していたが、忠刻死するを聞いて立ち帰り、墓前で切腹したとあった。丹治峯均筆記『武州傳来記』では三木之助をそのように作り、大坂で武蔵と別れを告げさせて殉死するが、これは誤伝から出た説話であろう。
 三木之助の墓の後ろにもう一つ小ぶりの五輪墓があった。三木之助に又殉死した陪臣宮田覚兵衛の墓であるという。部下に慕われていた三木之助の人間味が偲ばれる。
 驚いたのは、三木之助の墓誌を見た時であった。
  《宮本三木之助 宮本武蔵の養子忠刻が卒すると墓前において切腹。伊勢の生まれで武蔵の養子当時二十三》
 三木之助は「伊勢の生まれ」となっていた。新免氏の作州でも筑前でもなく、まして摂州尼崎でもないのであった。三木之助と伊勢、宮本武蔵、どう考えてもこの頃の史料では結びつかない謎であった。そんな折、戸部新十郎著『考証・宮本武蔵』に出会った。そこには三木之助の出自について、先の二説のほかに「積翠雑話に宮本造酒之助は備後福山城主、水野勝成の家臣、中川志摩之助の孫だといってある」と、論評なしに付記してあった。
今度は福山。根拠がわからず、伊勢の時と同じでこの時も途惑うばかりであった。しかし、これが平成五年の発見につながった。
「大坂御陳之御供」を見た時、武蔵の名より先に飛び込んできたのがこの中川志摩之助の名前であった。その後に武蔵の名を確認し、ここで「武蔵―中川志摩之助―水野勝成」の関係が一本に繋がったのである。
『積翠雑話』が正しかった。しかも三木之助を養子にしたのはなんと大坂夏の陣が縁だったのである。このとき武蔵が客将として出陣した水野家の武者奉行が中川志摩之助であった。志摩之助は歴戦の勇将であり、槍の名手として知られていた。武蔵と意気投合し、三木之助を養子に貰い受ける事になったのではないだろうか。

以上四つの裏付けをもって、武蔵が大坂夏の陣で刈谷水野家、すなわち徳川方について戦った事を十分に証明出来たと思う。
 関ヶ原の時とは違い、この大坂夏の陣は戦国の終わりを告げるためか、大坂方に加担した牢人狩り探索は徹底的で厳しく、毎日おびただしい数の牢人が探し出されて首を切られ、路傍に三列に並べて延々晒されたという。豊臣秀頼の隠し子国松も見つけ出されて六条河原で斬首、女児は千姫が養女に引き取って尼にし、その血統を断った。
 武蔵は三木之助を連れて水野家を去り、やがて将軍家女(千姫)婿である姫路の本多忠刻に兵法師範として迎えられ、自らは仕官せず養子三木之助を代わりに仕官させて後見することになるが、武蔵がもし大坂方の牢人であったなら、とてもこの境遇は考えられないのである。
幕府が、相次ぐ改易であふれる牢人問題に頭を抱え、大坂牢人「御赦免」の方針を打ち出すのは、家光の政権となった元和九年(一六二三)のことであった。

六、「宮本小兵衛奉公書」を発見〈裏付け四の又裏付け〉
 平成五年、三木之助の姉の子孫とされる福山の平井隆夫氏の示唆を受け、岡山池田藩に宮本小兵衛なる者が提出した「宮本家由緒書」があることを知り、岡山大学付属図書館に依頼して調査したところ、所蔵の池田文庫(池田藩史料)に小兵衛が元禄九年(一六九六)に書き上げて藩に提出した「奉公書」を発見する事ができた。それが三木之助の系譜であった。冒頭に、「先祖、伊勢国中川原と申す処に小城持居り申す由」と、その出自が伊勢である事を述べている。墓誌の「伊勢の生まれ」の謎が解けたのである。武蔵の養子になった事も、子孫がなぜ岡山なのかの疑問もこの中で明瞭に判明した。
(読下し)
         奥方附足軽頭 高弐百五十石 宮本小兵衛 元禄九年子、五十五歳
一、先祖、伊勢国中川原と申す処に、小城持居り申し候由、申し来り候。祖父中川志摩之助、世倅の時分、牢々仕り、仙石権兵衛殿、讃州に御座候節、奉公罷出、武篇の走り廻り数度仕り候て、鉄砲頭に成、知行千石余り下され候、或る時、手柄仕り候褒美として、権兵衛殿の御紋、永楽之上字を下され、永ノ字を紋付け来り申し候、其の節、水野日向守殿、其の頃は六左衛門殿と申し、御父和泉守殿不和に付、権兵衛殿に御座候、其の時分より御心安く、別して入魂に仕り、其の馴みにより、其の後、日向守殿仰せられ候は、彼方此方と申すべきよりは、心安く、此方へ参るべく候。武者奉行を御頼み成されたき由にて、御呼び成され、鼻紙と仰せられ、知行六百石下され候、(後略)
一、中川志摩之助嫡子、同形部左衛門(略)
一、中川志摩之助次男、同主馬(略)
一、養祖父宮本三木之助儀、中川父志摩之助世倅にて御座候、私ためには實の伯父にて御座候。宮本武蔵と申す者の養子に仕り、児小姓の時分 本多中務様へ罷出、知行七百石下され、御近衆に召仕われ候、九曜巴紋に付け候へと仰せをもって、唯今に付け来り申し候、御替御紋と承り候、 圓泰院様、寛永三年寅五月七日 御卒去の刻、同十三日、二十三歳にて御供仕り候、
一、私父宮本九郎太郎、三木之助弟にて御座候。此者も 圓泰院様に児小姓に召仕われ候、兄三木之助殉死仕り、実子御座なく候に付、九郎太郎に跡式相違なく、 美濃守様より仰せ付られ、名も三木之助に罷り成り候、 天樹院様、 播州より江戸へ御下向成され候刻、 美濃守様御供を成され候。其の節、三木之助御供仕り候、天樹院様美濃守様へ御意にて、道中御旅館に於いて御目見え仰付られ候、 甲斐守様の御代、番頭に仰せ付られ候、内記様の御代に和州郡山に於いて、寛永十九年申九月に病死仕り候、
一、三木之助世倅、私兄、弁之助と申す、父跡式下され 内記様に罷り有り候へ共、若き時分に病死仕り、其の節、本多家を浪人仕り候、
一、私、生国大和国郡山にて御座候、十五の年、兄弁之助果て申し候。其の節より南都に罷り有り候、寛文二年寅十月十二日、江府に於いて、弐十一歳の時 当殿様へ召出され、同十一月十日、御礼を申し上げ候、今、俵六拾弐俵五人扶持下され、御式臺に相詰め、御供や御使者を、相勤め候、
(以後小兵衛の元禄九年までの池田家奉公の次第が一つ書きで年を追ってまだ延々十丁余も続くのであるが、本稿では省略する)

【寄稿17】宮本武蔵と水野勝成 『宮本武蔵の大坂夏の陣』2/2 »»Web会員«« _e0144936_20274533.jpg








































福田正秀『宮本武蔵研究論文集』(2003年 歴研)より引用


 書き出しは先祖附で、伊勢の中川原城主の出。祖父中川志摩之助から三人の伯父、父、兄のことを書いて、自分の奉公書へと繋いでいる。まず冒頭の見出し等からこの奉公書は元禄九年(一六九六)、小兵衛五十五歳のときに岡山藩に提出したものである事がわかる。当時の役職は奥方附き足軽頭で、禄高二百五十石であった。
 中川志摩之助は讃岐の仙石家の時分、槍働きの戦功で知行千石の鉄砲頭となり、その頃父に勘当され放浪中の水野勝成と知り合って入魂となった。後、大名になった水野勝成に武者奉行を頼まれて六百石で仕えた。大坂の陣でも槍働きをしたと伝えている。「鼻紙」とは、「とりあえず、ほんの気持ちばかり」という意味で、今後の加増を含んだ言葉であろう。志摩之助の三男が三木之助で宮本武蔵の養子となった。三木之助は武蔵の後見で将軍家女千姫の夫・本多忠刻の児小姓に召し出され側近七百石の出頭人となるが、忠刻の死去に殉死することとなった。跡式は弟の九郎太郎が二代目宮本三木之助を襲名して継がされている。武蔵はどうやら水野藩中川志摩之助の子を三木之助だけでなく四男九郎太郎までも養子にして二人とも本多忠刻の小姓として出仕させていたようである。その子三代目弁之助まで本多藩宮本家は継承されるが、弁之助が若死して断絶となった。弁之助の名は武蔵の改名前の初名として知られており、父の二代目三木之助の死はまだ武蔵生前の寛永十九年であるから、武蔵が襲名を許したものであろう。
弁之助の弟が小兵衛で奇しくも父の没年に出生している。後に岡山藩池田光政に召し出されてこの奉公書の伝来に至ったというわけである。
池田光政の正室勝姫は三木之助が殉死した本多忠刻と千姫の子で将軍秀忠の養女である。この縁による召出しであることは明らかであり、奉公書によれば小兵衛は光政夫妻、二代綱政にも厚い信頼を得て側近くに仕えたようである。本多忠刻(圓泰院)の五十回忌には姫路の本多家菩提寺書写山圓教寺へ光政夫妻の名代を勤めて墓参している。このとき当然のこととして忠刻墓の後ろに控える同じく五十回忌の初代三木之助の墓に参拝を果たすことになった。小兵衛の感激と感慨はいかばかりであったろう。
 この史料の発見によって、武蔵の養子三木之助の出自が伊勢出身の水野藩中川志摩之助の子であることが明確となり、三木之助の本多藩宮本家は一代で絶えたとされてきた定説が覆り、代々続いていたこと。武蔵が肥後細川藩の御客分として逗留し、畢生の兵法書『五輪書』を書き終えてこの世を去った正保二年(一六四五)の頃は、二人の養子の宮本家は本多藩の宮本三木之助家も小笠原藩宮本伊織家(筆頭家老)も共に隆々と栄えていたことが明らかになった。

 武蔵が刈谷水野家より大坂陣に出陣することになった経緯、すなわち水野勝成との出会いがいかなる由縁によるものかは今後の研究課題であるが、このことが武蔵の後半生に三木之助や伊織を養子として徳川譜代雄藩へ出仕させ、自身を常に束縛の無い自由の境遇に置いて兵法の道を極めていくという独創的な人生戦略の起点となり、兵法を極め、『五輪書』完成への道に繋がっていったことは間違いないように思われる

*本稿は月刊『歴史研究』(歴研)1994年九月号掲載「宮本武蔵の夏の陣」に一部加筆し史料写真を加えた。
*謝辞 本論の成立には水野勝成家老・中山将監重盛のご子孫である中山文夫氏の多大なご協力がありました。故人となられた御霊に深甚の感謝を申し上げます。

福田正秀(ふくだまさひで)熊本県在住
著書『宮本武蔵研究論文集』(2003年 歴研)
『宮本武蔵研究第2集 武州傳来記』(2005年 ブイツーソリューション)
共著『加藤清正「妻子」の研究』(2007年 ブイツーソリューション)



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[参考資料]
 「中山氏の系圖」については、「S-1>《水野氏関連氏族》「中山氏の系圖」第2版」をご参照下さい。(研究会事務局)

# by mizuno_clan | 2011-03-26 15:42 | ★研究論文

3/19 障害発生&復旧のお知らせ

 本日、水野氏史研究会ブログの閲覧ができない状況が長引き、アクセスいただいたみなさま方には大変ご迷惑をおかけいたしました。
先程、エキサイトブログから下記の通りのアナウンスがありましたので、転載します。

                                            研究会事務局

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3/19 障害発生&復旧のお知らせ
 いつもエキサイトブログをご利用いただき、ありがとうございます。
本日3/19(土)10:00 ~20:00 の間、エキサイトブログのサーバの負荷が高くなり、処理に時間がかかっていた影響でブログの閲覧、投稿ができなくなっておりました。
現在は復旧しています。

【影響範囲】
•PCからの閲覧、投稿
•スマートフォンからの閲覧、投稿
•携帯電話からのメール投稿

尚、今回の障害ではブログデータに影響は有りません。

ご利用の皆様には、長時間にわたりご迷惑をおかけし、深くお詫び申し上げます。
今後ともエキサイトブログをよろしくお願いいたします。

           2011-03-19 20:52
                                       エキサイトブログ向上委員会

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# by mizuno_clan | 2011-03-19 22:08 | Information

大地震お見舞い申し上げます

各位

 大地震が起き、昨日からTVで、ほんとうに悲惨で心の痛む情景が流れておりますが、
会員各位および本会にご支援ご協力をいただいております皆様方の被害状況は如何で
ございましょうか。
 御身とご家族ご親類縁者のみなさまのご無事と、できる限りの少ない被害とを願って
心からお見舞い申し上げます。

                                         研究会事務局

# by mizuno_clan | 2011-03-12 10:25 | Information