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【寄稿23】「水野忠分の菩提寺・梨渓山心月齊」»»Web会員««

水野忠分の菩提寺・梨渓山心月齊
  愛知県知多郡美浜町大字布土字明山8    Visit :2014-02-02 14:00

                                筆者:水野青鷺

●梨渓山 心月齊(りけいざん しんげつさい)
創建:天文十五年(1546) 常滑の曹洞宗天澤院に属す
開基:盛龍院殿心得全了大居士 天正六戊寅年(1578)十二月八日卒
    布土城主(寄留地)、本貫は緒川城主 水野藤治郎忠分(藤十郎範方)
    徳川家康の生母於大の方の実弟。
開山:大良喜歓大和尚(緒川から招かれた) 元龜二年辛未年(1571)九月廿二日寂
本尊:釋迦如来、脇佛は迦葉・阿難の両尊
Web : http://www.shingetusai.com/

●水野藤治郎忠分(みずのとうじろうただわけ)(みずのとうじろうただちか) 【注釈】

 水野忠分(1537--1578)は、紀伊新宮藩初代当主水野重央(しげなか)の父であり、菩提寺および墓所は「梨渓山心月齊」(*1)である。
 母方の祖父大河内左衛門佐元綱は、三河寺津(現愛知県西尾市寺津町)の城主で、母は華陽院、のちに松平清康の後妻などになる。実名は「於富の方」あるいは「於満の方」など諸説あり。
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【資料1】『新訂 寛政重修諸家譜 第六』㈱続群書類従完成会 1964.12.30発行
[寛政重修諸家譜巻第三百三十五 清和源氏 満政流 水野] (P.85)
忠分(たゞちか)
  初範方(のりかた) 藤次郎 水野右衛門大夫忠政が八男、母は大河内左衛門佐元綱が養女。
 織田右府(信長)に属し、天正六年荒木摂津守村重叛くのとき、右府にしたがひ摂津國有岡城を攻、十二月八日先鋒にすゝみつゐに戦死す。年四十二。法名全了。尾張國知多郡小河の乾坤院に葬る。

[意訳]
水野忠分は、天正6年(1578)、荒木摂津守村重が織田信長に叛き籠城した際、信長に従い摂津國有岡城を攻め、十二月八日(新暦1月中旬頃)、部隊の先頭に立って進むも終に戦死した。享年四十二歳、法名は盛龍院殿心得全了大居士。尾張國知多郡小河の乾坤院に葬る。
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●有岡城の戦い(ありおかじょうのたたかい)
 天正六年(1578)7月-天正七年(1579)10月19日にかけて行われた籠城戦。織田信長に帰属していた有岡城主荒木村重が、突如毛利方に寝返り謀反を起こしたことから、信長軍に攻撃され落城。別称「伊丹城の戦い」とも呼ばれる。

【資料2】『月刊 歴史街道』平成26年6月号 PHP研究所 2014.5.7発行
[特集:荒木村重の謎]工藤章興「懊悩の末の叛旗、そして有岡城脱出がもたらしたもの」
[有岡城脱出、そして…] (P.92)
 月が師走に変わった八日、信長は有岡城総攻撃を命じた。三万の大軍勢による力攻めだ。だが、攻略はならなかったばかりか、万見重元や水野忠分らが討死したので、信長は無理な力攻めは避け、十数城の付城を築いての兵糧攻めに方針を転換する。 (後略) 
 


◆十六世紀知多半島の情勢
 十四世紀の中頃、三河守護の一色氏が知多半島へ進出し、東岸の河和(知多郡美浜町)の実権を握っていたものの、「応仁(応仁・文明)の乱(応仁元年(1467))」の頃になると、一族同士が戦い自滅。この一色氏に代わって知多半島を支配したのが、一色氏の被官(律令制下、上級官庁に直属する下級官吏)であった佐治氏と、田原(田原市)城主の戸田宗光であった。佐治氏は大野(常滑市)・内海(知多郡南知多町)を拠点に知多半島の西海岸の支配権を握り、戸田氏は知多半島最南端の幡頭崎(知多郡南知多町師崎)に陣代を置き、半島東海岸の河和・富貴(知多郡武豊町)に砦を築き領有した。明応九年(1500年)、その子憲光の時には、幡頭明神の社を建立し、その後、河和・富貴の外に布土(ふっと=知多郡美浜町)と陣代のある師崎に砦を築いた。永正六年(1509)、家督を憲光の子政光に譲り、河和城に移り住み、「河和殿」と称し、三河湾の制海権を握った。
 この佐治・戸田両氏を脅かしたのは緒川(知多郡東浦町)の水野氏である。水野氏は、緒川に城を築き刈谷(刈谷市)にも進出していたが、水野信元の代になると織田氏と手を結び、知多半島を破竹の勢いで南進して佐治・戸田氏と戦った。

◆2014-02-02 梨渓山心月齊 東堂様(*2)にインタビュー
 心月齋の古くからの口伝によると、水野信元は河和の戸田氏を攻略するため、布土城を築き、弟の忠分を城主の任に当たらせた。これらの勢いに押された戸田氏は戦いに敗れ、富貴・布土・北方(知多郡美浜町)を失い半島における戸田氏の勢力が衰退した。さらに天文十六年(1547)、田原城主戸田宗光は、岡崎の松平氏から駿河の今川義元のもとへ人質として送られる竹千代(家康)を強奪するという事件を起こしたことで、今川氏に攻め滅ぼされ討死する。この危機的状況を脱するため、知多半島の戸田氏は信元と講和を結び河和を残すことを図る。そこで河和城主戸田孫八郎守光は、信元の娘妙源を妻にめとり婿となって水野氏の一族に連なった。
かくして、知多半島は水野氏の勢力下に入り、布土城の役目は終わったものの、忠分が開基した心月齋は存続されるに至った。

一方、忠分は、天正六年(1578)12月8日、有岡城総攻撃により戦死。この直後、忠分の側近達により、忠分の亡骸は塩漬にされ有岡城から布土の心月齋の墓所まで葬送したと伝えられる。
 東堂様曰く「おそらくこの墓石の下に忠分氏のご遺体が安らかに眠っておられることであろう」とのことでした。

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◆葬送についての考察
 今回の採訪で、有岡城で客死した水野忠分公のご遺体が、遠く離れた知多半島の先端近くまで、丁重に塩漬にされ葬送されたという事実に触れ、果たして亡骸は如何にして運ばれたのか、歴史学の一端として考察してみることにする。(以下敬称略)
①遺体の保存方法
棺桶は、おそらく樽状の棺桶(座棺)であったろうと推定される。塩漬というからには、棺桶に粗塩をギッシリと隙間無く詰め、搬送途中でも粗塩を補足していたと思われる。当時は、一月中旬頃であったことから寒く乾いた季節で、真夏のような劣悪な状況にはなかったと推測される。
因みに、隣国の朝鮮時代は、国法によって身分別に葬礼の期間が決められ、風水思想と関連して朝鮮王室における葬礼では、遺体が埋葬されるまでは腐敗してはならないことになっていたそうである。ところが、五ヶ月という長い葬礼期間中、王・王妃の遺体を良好な状態に保つことは甚だ難しい。従って氷室に貯蔵された氷で囲って腐敗防止に務めたが、
氷が解ける過程で発生する湿気の処理の為、湿気を吸収力する能力に優れた乾燥ワカメを各所に置き除湿剤として大量に使ったと言うことである。(*3)
 現代ならドライアイスが昇華してしまうので何も問題ないが、当時は客死した遺体を腐敗無く遠くまで葬送するには、果たしてどのような処置がなされたのであろうか。
②遺体の葬送方法
 一世紀前頃までは、埋葬方法は現代の火葬ではなく土葬が主流であったことから、先述の樽状の棺桶に棒を通して棺を運んだと考えられる。先ず有岡城から棺桶を担いで運び出し、次には水路か陸路、またはその両方の選択肢が考えられる。
 この葬送方法もまた如何にして行われたのであろうか。
 江戸時代に入ってからは、大名が江戸で死去した場合、江戸の菩提寺の外、国元の菩提寺にも遺骨が埋葬されている事実が確認されている。(e.g. 松本水野藩)

[ルート]
 有岡城(兵庫県伊丹市伊丹1丁目) ⇒ 心月齋(愛知県知多郡美浜町大字布土字明山8)
[google乗換案内]で検索 (「→」=陸路、「〜〜」=水路)
a.陸路
 徒歩(198Km 41時間)
  有岡城 → 吹田 → 守口 → 木須 → 島ヶ原 → 亀山 → 四日市 → 名古屋港 →
  阿久比 → 半田 → 心月齋
b陸路と海路(距離数・所要時間ともに不明)
有岡城 → 吹田 → 守口 → 木須 → 島ヶ原 → 亀山 → 白子〜〜上野間 → 心月齋
c.海路を主とする(距離数・所要時間ともに不明)
有岡城 → 猪名川〜(下る)〜瀬戸内海〜〜堺〜〜岸和田〜〜和歌山〜〜田辺
  〜〜新宮〜〜尾鷲〜〜志摩〜〜鳥羽〜〜師崎〜〜河和 → 心月齋
d.参考までに、現在であれば自動車で
 新名神高速道路 経由(204 km 2 時間41 分)
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[註]
*1=菩提寺および墓所については、寛政重修諸家譜などでは、「乾坤院」と記載されているが、今般の取材により墓所は「梨渓山心月齊」と判明。
*2=東堂(とうどう)とは、禅宗寺院において、退薫(引退)した住職をさす言葉。2008年11月2日の晋山式(しんざんしき=住職交代儀式)で、東堂の子息27世住職と交替。
*3=韓 星姫「朝鮮王陵に込められた知恵と哲学」(『韓国の芸術と文化 』韓国国際交流財団1988)

【注釈】(update 2014.6.30)
1.「水野藤治郎忠分」の称呼については、2014-06-27本文を投稿した直後、本会会員で福山結城水野家ご当主から、下記のようなメッセージを頂戴しましたのでご披露かたがた「忠分公の称呼」に修正を加えます。
 「忠分公は私どもでは、『ただわけ』と申し上げております。兄に忠近(近信)がいることと、長子に分長(わけなが)がいることからと思っております」
2.【資料2】で引用した工藤章興「懊悩の末の叛旗…」の本文には、「みずのただわけ」とルビが打ってあり、こちらでも「ただわけ」説を採っています。(画像参照)
3.上記2点の情報から、称呼を「みずのとうじろうただわけ」とし、【資料1】で引用した[寛政重修諸家譜] に記載の「たゞちか(ただちか)」を別称として併記します。
 この併記については、本ブログ記事が、裴松之に倣い「異同のあるものは全て載せるという方針」で投稿しているこにとよります。

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C-1 >梨渓山 心月齊
http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/850794e5ff361cecc77efa67c815e5c2
C-1 >布土城址
http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/22368de504d937e72b7bd99d0c1d9639
C-1 >村木砦址(水野金吾篇)≪考証≫
http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/5e502834710aa62a0c11bc6e718324dc
C-7 >河和城址/水野屋敷(追補版)
http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/ccc794c046b47627a6fc8e1b33fd0d30
有岡城跡(伊丹市ホームページ)
http://www.city.itami.lg.jp/shokai/sansaku/1397178541099.html
有岡城の戦い(ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E5%B2%A1%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84


☆旅硯青鷺日記
 今回は心月齋様の2回目の採訪となりましたが、東堂様から思いがけず貴重なお話しが伺え、これまで水野忠分の墓所は「乾坤院」だとばかり信じられてきましたが、菩提寺の心月齋様に手厚く葬られていることが判明し感銘致しました。
 東堂様のご許可を得て、当山の墓所に詣でると、掲載の写真のように瑞々しい菊の墓花が一対供えられ、墓石には紛うことなき「盛龍院殿心得全了大居士 天正六戊寅年……」と陰刻されていました。
 この採訪に同道くださり、色々とご支援いただいた学友達に、ここに記し感謝の意を表します。    合掌








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by mizuno_clan | 2014-06-27 21:03 | ★研究ノート

【寄稿22】「鳥居観音史料取材の進捗報告Vol.1」

「鳥居観音史料取材の進捗報告Vol.1」

 この度、本会会員の広中一成さんから、「水野梅暁史料に関する中間報告書」をお寄せいた
だきましたので、会員の皆さんにご報告致します。

 以下の報告書は、Word形式でいただいたものを、コピー・アンド・ペーストしたものです。

                                              研究会事務局

=====================================
水野梅暁史料について

水野氏研究会 会員各位

 水野克彦様はじめ、御研究会会員のみなさまには平素よりお世話になっております。
今年1月30日付の「水野氏研究会」ブログで、「【寄稿20】ワークショップ「淨圓寺・鳥
居観音史料から見る近代日中関係」をご報告いたしました。すでにそこにも書きましたと
おり、鳥居観音は戦時期中国で活躍した曹洞宗僧侶の水野梅暁氏と縁のある寺院です。
 ワークショップの後、二度にわたって鳥居観音にうかがい、史料の保存状況などを確認
してまいりました。
 現在も調査中ですが、ここには水野梅暁氏が中国から携えてきたと思われる書画や写真
などが数多くあり、これらを整理することで水野梅暁の人物像がみえてくるのではないか
と思います。
 また、整理が進み次第、このブログでご報告いたします。

                               広中一成
=====================================


[註]
1.「【寄稿20】ワークショップ「淨圓寺・鳥居観音史料から見る近代日中関係」


2.史料取材時の状況につきましては、取材に立ち会われた川口泰斗様の「Facebook」の記事を、
水野氏史研究会公式「Facebookページ」にシェアしていますので、ぜひご覧下さい。


3.広中氏の著書で、現在話題の『ニセチャイナ』と、著者略歴につきましては、
出版社のウエブサイト「社会評論社」をご参照ください。
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by mizuno_clan | 2013-09-26 03:23 | ★史料紹介

【寄稿21】刈谷市文化財指定「水野氏関連古文書」の翻刻

刈谷市文化財指定「水野氏関連古文書」の翻刻

                              文責:水野青鷺

 刈谷城は、天文2年(1533) 、水野忠政(徳川家康の外祖)によってに築城され、その後、江戸時代に刈谷藩が設けられると、忠正9男忠重の世嗣・水野勝成が初代藩主となり、明治維新を迎えるまで、9家22人の譜代大名が藩主となった。
 平成25年(2013)は、本城築城480年記念にあたることから、本年度は「刈谷城築城480年記念事業」として、刈谷城に関する記念展覧会をメインイベントとし、そのほか様々な関係行事が実施されている。

 これに先立ち、平成25年1月24日、新たに水野氏に関連した「水野忠重」に係わる2件の古文書が刈谷市指定文化財に指定された。

詳細は、次のURLを閲覧いただきたい。
[Web]刈谷市公式サイト「新たに2件の文化財が指定されました」


【明細】
指定 区分 :刈谷市指定
区    分:古文書(*1)
指定年月日:平成25年1月24日
名   称:福谷定乗書状/津田宣久判物
所 在 地:刈谷市郷土資料館(愛知県刈谷市城町1-25-1)
所 有 者:刈谷市

(今回の指定により、刈谷市内の指定文化財は「国指定1、県指定11、市指定79」の計91となった。)


 上記のWeb記事には、これら二点の古文書内容の「解説」および「判物(*2)・書状の画像」は記載されているものの、本文の翻刻文(*3)は、掲載されていない。
 従って、当記事について、担当部署に問い合わせたところ、翻刻については『刈谷市史』に記載済との事であり、明確な返答は得られなかった。


】『刈谷市史』第六巻 資料(近世) を閲覧したところ、「第一章 水野氏の時代 第3節 織豊大名水野氏 忠重の所領支配(pp.138-139)」に、「福谷定乗書状」の解説が記されており、同書(p.269)のⅡ土地・年貢「四二 今岡村物成免究に付書状 文禄四年十月」に翻刻文が記載されていた。

以下に「刈谷市公式サイト」からの抜書を記す――
●福谷定乗書状(ふくたにさだのりしょじょう)
種別:有形文化財・古文書
所有者:刈谷市 刈谷市東陽町1丁目1番地
内容:
 文禄四年(1595)10月のもので、福谷藤介(ふくたにとうすけ)の代わりとして福谷伝左衛門定乗(ふくたにでんざえもんさだのり)が、同年の今岡村の年貢率を3割7分と決めたことを五郎右衛門以下今岡村の農民らに知らせたものです。福谷定乗は水野忠重の家臣と思われます。前年に水野忠重が刈谷に復帰していることを示す史料です。刈谷市に残る中世文書として希少なだけでなく、村の成立を示す史料として、また検地による年貢率の分かる史料です。


以下に『刈谷市史』からの抜書を記す――
[  ]内および「註」は、筆者による追補説明である。

忠重の所領支配
忠重が五〇〇〇石の加増をうけた直後、今岡村の文禄四年[1595]の免相(*4)が三割七分と定められ、村方に伝達された(今岡村文書、『近世資料編』268-269頁、図1-49)。
 先出のように今岡は天正拾八年[1590]以来吉田好寛(*5)の給地であった。しかし好寛は秀次事件のあとは豊臣秀康(徳川家康の次男お義伊、のちの結城秀康)に付けられているので、所領は他国に移されたとみられる。今岡が忠重領地になった確証はないが、返付された「本知」の内である可能性も考えられるので、福谷定乗は忠重家臣とみて、検見(*6)によってこの年の免相を定めたいのと[ママ]みておく。
今岡は新しい東海道筋の村であるが、荷物継送りといった宿駅的機能の遂行に関して、池鯉鮒[ちりふ → 知立(ちりゅう)]と対立したようである。詳しい事情はわからないが、上様(秀吉であろう)の鷹や荷物の運送について、今岡は絶対に渡さないとする慶長二年[1597]の池鯉鮒村役人の文書が今岡に残されている(『近世資料編』2669頁、図1-50)[知立村年寄証状]。近世的宿駅制成立の前段階であり、池鯉鮒村は宿駅として発展をはかるため、領主側と対立してもでも権益を確保しようとしたのであろう。
 なお野田村の元禄十五年(1702)の明細帳に、「百六年以前慶長二酉年、水野和泉守様御検知水帳(*7)所持仕候」とあって(『近世資料編』379頁)、この年に忠重が領地検地を行い、その検地帳を所持していると書き留められている。これが残されていれば大変面白いが、それらしきものが野田村文書中に見当たらないので、真偽未定として今後の調査に期待したい。 
(『刈谷市史』第六巻 資料(近世)pp.138-139)


[古文書の翻刻文]
 四二 今岡村物成(*8)免究(*9)に付書状 文禄四年[1595]十月

   以上

 今岡村当物
 成之義、三ツ七分ニ
 相究申候、
 少も如意仕候て者
 くせ事可為候、
 為其ニ 一筆如此候、
 恐々謹言
  
    文禄四年
     拾月廿八日
                   福谷藤介代      
                        同伝左衛門
                            定 乗(花押)

    五郎右衛門尉
    弥一郎
    百姓中ヱ
                      (「今岡村文書」今岡明神社所蔵)


[釈文]
 今岡村の本年貢率の件は、年貢率3割7分と定める、
少なくも身勝手なことをすれば、誠にけしからぬことである、
そのため、この様に文章に記す、 恐れながら謹んで申し上る、
   端書きは無い(参考資料Ⅲ)、

    文禄四年[1595年]
     拾月廿八日
                   福谷藤介の代理人      
                        福谷伝左衛門
                            定 乗(花押)

    五郎右衛門尉
    弥一郎
    百姓連中へ




】その後、残りの「津田宣久判物」の翻刻に取り組み始めたが、浅学のため文字が読み取れず、無為徒食して四月余りを過ごす。しかし8月には、刈谷城築城480年記念事業の一環として、水野氏に関連したイベントが開催される予定であることから、それ以前にはなんとか翻刻したいと意を決し、古文書に明るい会員の方に相談したところ、『愛知県史』資料編12 織豊2 「天正18年(159)」に、七七 津田宣久判物 刈谷市教育委員会所蔵文書 が収録されているとご教示いただいた。これにより、二点共に、翻刻された文書の収録先が判明するに至った。ここに記して謝意を表します。

以下に「刈谷市公式サイト」からの抜書を記す――
●津田宣久判物(つだのぶひさはんもつ)
種別:有形文化財・古文書
所有者:刈谷市(愛知県刈谷市東陽町1丁目1番地)
内容:
 天正十八年(1590)のもので、同年8月頃に水野忠重(みずのただしげ)が伊勢国神戸(かんべ)に移されたあと豊臣秀次の家臣である津田四郎兵衛尉宣久(つだしろうべえのじょうのぶひさ)が泉田村百姓に対して出したものです。したがって水野忠重の転封(てんぽう)後、豊臣秀次の支配を受けていたことを示しています。刈谷市に残る中世文書として希少なだけでなく、現在のところ史料に泉田(いずみだ)という地名が現れる最初のものであり、村の成立を示す史料として、また豊臣家臣の検地奉行名や検地による年貢率の分かる史料です。


以下に『愛知県史』資料編12 織豊2 (pp.89-90)からの抜書を記す――
[ ]内および「註」は、筆者による追補説明である。

[古文書の翻刻文]
十月十三日 豊臣秀次の臣津田宣久、三河国和泉田村の年貢率を定める。

 七七 津田宣久判物 刈谷市教育委員会所蔵文書

   以上
 (碧海郡)和泉田村之
 免あい(相)之事、
 田畠おしこめて
 三つ七分ニ定置
 うへ相替義有
 之間敷者也、
                     津田四郎兵衛尉
   天正拾八年               
            十月十三日     宣久(花押)

      いつミ田村
            惣百姓中



[釈文]
 和泉田村の免相のこと、田や畠の成物を全て入れて、
年貢率3割7分と定めるので、これを替えることは、あってはならない、
   端書きは無い(参考資料Ⅲ)、

天正拾八年(1590年)     津田四郎兵衛尉
      十月十三日            宣久(花押)

    和泉田村
    統べての百姓連中へ


[地図]
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[註]
*1=古文書(こもんじょ)=特定の相手に意志を伝えるために作成された書類のうち、江戸時代以前のもの。
*2=判物(はんもつ)=室町時代以降、将軍・大名などが所領安堵(あんど)などを行う際に花押を署して下達した文書。
*3=翻刻文(ほんこくぶん)=和紙に毛筆で記載された文字を「活字」に直したもの。
*4=免相(めんあい)=元は石高から貢租としての納付分を差し引いて、残りの農民による自由な処分を免(ゆる)した分を指したが、江戸時代前期以後には貢租の占める割合を指すようになった。たとえば、免四つ(四公六民)、免五つ(五公五民)などと呼ばれている。免合とも。
*5=吉田好寛(よしだよしひろ ?-1615 修理、亮)=美濃の出身、家康の臣であったが、去って秀吉に仕え、尋(つ)いで、秀次に転任。大坂夏の陣の元和元年五月七日、軍律違反の責任で、天満川に投身自殺とも、敗敵を追撃して天満川に陥り溺死したともいう。
(『戦国人名辞典』)
*6=検見/毛見(けみ)=中世・近世の徴税法の一。米の収穫前に、幕府または領主が役人を派遣して稲のできを調べ、その年の年貢高を決めること。けんみ。
*7=<「水帳(みずちょう)」は「御図帳」の当て字> 1 検地帳のこと。 2 人別帳のこと。
*8=物成(もりなり)=1 田畑からの収穫。 2 江戸時代の年貢。本途物成(ほんとものなり=年貢米)と小物成(こものなり=山野・湖沼の用益などに課した雑税)があったが、特に本途物成をさす。 3 禄高の基礎となる年貢米の収入高。
*9=免究(めんぎめ)=江戸時代の年貢の賦課率。免定(めんさだめ)。


[参考資料]
Ⅰ.刈谷市トップページ>観光・文化・スポーツ>歴史・文化>歴史・文化のお知らせ
    >新たに2件の文化財が指定されました
Ⅱ.C-1 >刈谷城跡
Ⅲ.【寄稿19】古文書の文法「已上」について 

update:2013.06.20
 本文中の二カ所が、免相が三割七分であるのに対し、釈文では、三公七民(納税30%、農民70%)と誤記しました。 正しくは、「年貢率3割7分」です。訂正してお詫びします。


[余滴]
 刈谷市公式サイトには、 福谷藤介(ふくたにとうすけ)および、福谷伝左衛門定乗(ふくたにでんざえもんさだのり)と、ルビが打たれているが、刈谷市の北東部にみよし市があり、同市地名に「福谷(うきがい)」という地名が存在する。現在も福谷町(うきがいちょう)、福谷城(うきがいじょう)などと称されており、地名や旧跡では、「うきがい」と呼ばれている。
 一方、愛知県出身者では、最近有名になった、中日ドラゴンズの投手「24福谷 浩司(ふくたに こうじ)」君がいるなど、人名においては、やはり「ふくたに」である。
しかしながら、水野氏の場合などの家名に見るように、出身地の地名から家名を採ったものが多いと思われる。
このことから元々は「福谷」も、熊谷「Kumagai」などのように「Fukugai」と発音されていたものが、頭の「F」が無声化し、ごく小さく発声されたり、またほとんど発声されなくなり、「Ukugai」と発声されるようになった。また「u」が、訛音化して「i」となり 「Ukigai」と なっていったのではないか、とも考えられる。
しかしながら、地元の人以外は、この「うきがい」は難読漢字であるため、何時しか一般の人たちが読める「ふくたに」と称されるようになったのであろうか。
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by mizuno_clan | 2013-06-19 20:19 | ★史料紹介

【寄稿20】ワークショップ「淨圓寺・鳥居観音史料から見る近代日中関係 」»»Web会員««

【Event】ワークショップ「淨圓寺・鳥居観音史料から見る近代日中関係」


水野氏研究会 会員各位

 今回のワークショップで取り上げる、曹洞宗の水野梅暁師と浄土真宗の藤井草宣師は、一般的にはあまり知られていませんが、戦前の日中関係をみていく上で、欠くことのできないとても重要な人物です。現在、私たちグループは、このふたりについての史料調査を進めていて、この度、その中間報告を行うことになりました。来場は自由ですので、ご関心のある方はどうぞお気軽にお越しください。

                         水野氏研究会web会員 広中一成



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ワークショップ
「淨圓寺・鳥居観音史料から見る近代日中関係」」


主催:愛知大学国際問題研究所
共催:愛知大学東亜同文書院大学記念センター
日時:2013年2月21日(木) 13:00-18:00
会場:愛知大学名古屋校舎 厚生棟3F W32会議室
    (名古屋駅より徒歩約10分、または名古屋駅からあおなみ線ささしまライブ駅で下車し徒歩2分。駐車場なし)
参加:事前申し込み不要・参加費無料

趣旨
日中戦争時期を中心に、近代の日中関係は複雑かつ困難なものであった。そうした、本学の前身のひとつである東亜同文書院、さらに書院に関わる藤井草宣や水野梅暁の行動は、注意深く一次史料から検討されるべきである。このワークショップでは、そうした藤草宣と水野梅暁に関わる史料状況と、そこから見える近代日中関係の一面をあきらかにしたい。ここでは、藤井草宣に関連する史料を蔵する豊橋淨圓寺、水野梅暁の史料を蔵する埼玉県飯能の鳥居観音にスポットを当て、実際の史料調査作業の経緯を含め、報告する。

プログラム(予定)【update 2013.02.07】
主催者あいさつ
1、藤井草宣・水野梅暁について…三好章(愛知大学)・藤井宣丸(淨圓寺・草宣子息)
2、淨圓寺史料と近現代中国社会史研究…佐藤仁史(一橋大学)
3、日中戦争に関する淨圓寺史料について…広中一成(三重大学)
4、淨圓寺所蔵水野梅暁関係書簡について…宮原佳昭(南山大学)
5、淨圓寺史料のデジタル化…佃隆一郎(愛知大学東亜同文書院大学記念センター)
6、淨圓寺史料の整理について…野口武(愛知大学大学院)
7、鳥居観音所蔵史料…藤谷浩悦(東京女学館大学)・川口泰斗(鳥居観音職員)
総合討論
終わりのあいさつ…馬場毅(愛知大学国際問題研究所所長・東亜同文書院大学記念センター長)

お問い合わせ:愛知大学国際問題研究所事務室、052-564-6121
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【参考資料】

Ⅰ.水野梅暁(みずの ばいぎょう)略歴
明治10(1877)年1月2日生まれ。広島県出身
昭和24(1949)年11月21日死去。73歳

雑誌「支那時事」主催
支那時報社設立(大正13(1924)年)
日満文化協会理事
東亜仏教大会役員
著作「支那仏教の現状について」など

◉ 明治時代に愛知大学の前身である上海東亜同文書院に学ぶ。
後に曹洞宗開教師となり、湖南省長沙において、僧学堂『雲鶴軒』を開設。(のち本願寺派)
中国の文人墨客と交わり仏教の布教に従事。
外交家・ジャーナリストとしても、孫文・蒋介石といった革命派の人物や清朝最後の皇帝、溥儀など中国要人と広く交流。
玄奘三蔵法師の霊骨を日本仏教徒を代表して中国国民政府から分贈され、鳥居観音の三蔵塔を建立し納骨。


Ⅱ.白雲山 鳥居観音
 埼玉県飯能市大字上名栗3198
1.鳥居観音と水野梅暁禅師
 水野禅師が病気の静養地として、鳥居観音の開祖平沼彌太郎宅を訪れたことから、仏教を通じての両氏の交流は深まり、水野禅師は玄奘三蔵法師を祀る霊骨塔建立に携わり、鳥居観音に霊骨を分骨。 

2.鳥居文庫 
  水野梅暁の多くの遺品および中国の重要人物の書画文献数百点が鳥居文庫に収蔵。

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[註]

【ワークショップ】
 もともとは「仕事場」「工房」「作業場」など、共同で何かを作る場所を意味していた。
しかし最近は問題解決やトレーニングの手法、学びと創造の手法としてこの言葉が使われる事が多く、あらゆる分野で「ワークショップ」が行われている。
 「ワークショップ」は一方通行的な知や技術の伝達でなく、参加者が自ら参加・体験し、グループの相互作用の中で何かを学びあったり創り出したりする、双方向的な学びと創造のスタイルとして定義されている。
 ファシリテーターと呼ばれる司会進行役の人が、参加者が自発的に作業をする環境を整え、参加者全員が体験するものとして運営される。
 近年、学術大会などでも「ワークショップ」と称する集まりが開かれることも多く、研究者が興味を持っているマイナーな研究分野の研究会であることが多い。(出典:Hatena )


※水野梅暁については、その出自など不明な点が多く、現在、水野氏史研究会でも調査研究中ですが、会員各位および本記事をご覧の皆様の中で、「水野梅暁」に関する情報をご存じでしたら是非お知らせください。 (研究会事務局)



2013.3.7 update
愛知大学ニュース
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by mizuno_clan | 2013-01-30 15:11 | Event-2(諸事)

【寄稿19】古文書の文法「已上」について »»Web会員««

【研究余滴】

古文書の文法「已上」について

                              水野青鷺

 だいぶ以前に、筆者が本会に寄稿した研究ノート「『金切裂指物使番』にみえる『水野久右衛門尉』」に関連した〝水野久右衛門尉〟の人物像については、その後も研究を続けてはいるものの、誠に恥ずかしながら遅々として捗って居ないのが現状です。
 さりながら、この〝水野久右衛門尉〟と、昨年〝第1回 水野氏史研究会主催講演会〟で講演しました「鋳物師 水野太郎左衛門――その氏族と作品――」に関する古文書の中に、共通した文法で記された文言があり、それぞれの資料作成の際にいろいろと調べてはみたものの、残念ながらその書法のもつ意味合いが判らず終いのままでした。

 その書法とは、袖(文書の初め、右端の余白)に、「已上」(=以上)と記された文言があるものです。([正則発給文書のイメージ画像]を参照)
「以上」とは、通常文書の〝末尾〟に記して「終わり」の意を表す文言でありますが、問題とするこれらの文書には、〝冒頭〟に大きく「已上」と記されているのです。

 最近ある研究会に参加した際、某先生にお伺いしたところ、愛知大学教授山田邦明先生がお詳しいとお教えいただきました。早速参加されていた山田先生にその旨お尋ねいたしましたところ、誠に簡潔で明解なご教示をいただきましたので、漸く長年の謎を解くことが出来ました。その後も諸先生にいろいろご教示を賜りました。ここに記して感謝の意を表します。

 以下に簡単ではありますが「已上」について判明した内容を記します。

●已上・以上
 以て上がる。
  以て=くぎり・限界を示す。「これを―終了」出典:「デジタル大辞泉」
  上がり=物事の終わり。出典:「デジタル大辞泉」
これをもって終わりとする。

●「書止(かきとめ)」は、「以上」「端書無之」などで締める
(1)追而書(おってがき)とは、尚々書(なおなおがき)とも呼ばれ、中世の書状によく見られた書式で、書状本文の内容とは関係のない事柄を書状の端か、礼紙(らいし=書状の文言を書いた紙に重ねて添える白紙)などの別紙に書き添えること。現在の追伸に近い。書出が「追而申」(おってもうす)または「尚々」から始まることからこの名称が付いた。書止は「以上」「端書無之」(はしがきこれなし)などで締める。(出典:wikipedia「追而書」をもとに編集)

(2)追而書については、戦国時代後半から江戸時代初期にかけて、本文の重要な事柄を更に 強調するため同様の内容を再度記すことが常であった。従って追而書を記さない場合 には、この文書には「追而書・尚々書は書かれていない証」として「書止」の「已上」が用いられた。(山田邦明氏談話)


◆「已上」三例
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田中吉政書状(折紙)
 (包紙ウハ書) 
 「 関白様御時   (ママ)  
      田中兵部少輔殿 」

  已上
鐵屋職事、如先規可鑄之、御次目之、御書、重而申上可遣之條、可有其心得、
今度於清須、上様御釜、無由断出来候様ニ、可為専用候、謹言、
天正十八      田中兵部大輔
    十一月八日    吉政(花押)
   鐵屋
    太郎左衛門殿
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慶長三年一一月 福島正則より諸役免許の判物 (水野太郎左衛門資料七)
 (包紙) 
 「羽柴清須侍従様
        御墨印」

    以上
 鉄屋大工職事任先判旨申付候、幷家屋敷ニ付、門次之諸役令免許之状、件如、
慶長三年     羽柴清須侍従
    十一月十三日 正則(花押)
      清須鉄屋大工かしら
       太郎左衛門とのへ 
--------------------------------------------------------------------------------
久留島家文書
 福島正則宛行状 折紙
「福嶋左右衛門太夫様ゟ/水野内記 江/御書壱通/於鍋様御物成書附入/三十番」

以上

安芸之國加茂郡
之内を以六百拾八石
三斗河尻村同國
あんほく郡之内を以
弐百石とけ村
都合八百拾八石三斗
者如前々其方へ
令進入候全所務
可有之候仍如件

    羽少将
慶長拾五年
 十二月七日  正則(花押)

 水野内記殿
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[正則発給文書のイメージ画像]
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◆「端書無之」の二例
西谷山 西照寺文書
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     端 書 無 之
 就今度其方帰参 木佛 以下虫喰 言上候処被成 御免候間難有可為到安置候
御礼之儀者追而  御染筆、可被成候条可為得其意候猶其節此一紙可差出候不宣
                          下間刑部卿法橋
                             頼源花押
            正徳四年甲牛六月三日
               越中国射水郡西田村   西照寺 祐慶
--------------------------------------------------------------------------------
     端 書 無 之 
 就今度其方帰参 御開山様御影太子七高僧御影御裏申替願之通遂言上候処此節
御用多故御裏 御判形ニ而先被成 御免候間難有被存候御裏之儀者追而 御染筆
可被成下候不宣                     
                         下間刑部卿法橋
                                   頼源花押
            正徳四年甲牛五月十二日               
越中国射水郡西田村   西照寺 祐慶
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by mizuno_clan | 2012-12-05 17:10 | ★研究余滴

【寄稿18】秋葉山明王寺の鰐口 »»Web会員««

秋葉山明王寺の鰐口

                            筆者:水野青鷺

A.秋葉山明王寺(舞木町明王堂=まいぎちょう みょうおうどう)
 愛知県豊田市舞木町丸根164 Visit :2011‎-04-‎20‎‏‎ 12:01

 本寺は通称、明王堂と呼ばれ無住であり、弘法大師縁日以外の日は開扉されていない。
宗派:曹洞宗 本尊:釈迦牟尼如来
その他由緒などについては未詳。

B.豊田市郷土資料館
愛知県豊田市陣中町1-21 Visit :2011‎-04-‎20‎‏‎ ‏‎13:13
●天正五年(1577) 第二代水野太郎左衛門(範直・則重)(*1)作 鰐口
 [秋葉山明王寺所有、昭和四十五年(1970)、豊田市郷土資料館に寄託]

天正五年(1577) 十月二十九日 清水洞小太郎、三河国猿投社西宮に鰐口を寄進する
  一二四八 銅造鰐口陰刻銘 豊田市 明王堂
三州加茂郡高橋庄(西宮)舞木邑鰐口清水洞小太郎寄進
天正五年十月廿九日 大工水野太郎左衛門(範長)
 
                    (『愛知県史』資料編11 織豊1)

◆鰐口(わにぐち)とは、仏堂や神社社殿の正面軒先に吊り下げられた金属製梵音具(ぼんのんぐ=仏具の中で音の出るものの総称)の一種で、鋳銅や鋳鉄製のものが多い。形状は、鐘鼓(かねとたいこ)を二つ合わせた、鈴を扁平にしたような形をしており、鰐口の上部には、吊すための耳状の吊輪が二個あり、下側半分の縁に沿って細い開口部が設けられている。鼓面は、圏線によって内側から撞座区、内区、外区に区分される。

[寸法]cm
外径 31.4 径面27.0 厚胴8.1 (添付図参照)
 
◆本鰐口の由来
 鰐口に陰刻された銘によると、天正五年(1577) 十月二十九日、清水洞の小太郎が、猿投神社西宮(*2)に、鰐口を寄進したことがわかる。この「清水洞」については、現在の「愛知県豊田市雑敷町清水洞」という地名に比定され、この地を本貫とする小太郎は、猿投神社の氏子中として信仰する西宮に鰐口を奉納したものと推測される。清水洞の小太郎については、どのような身分の者であり、どういった理由から寄進したかについては、この銘のみからは判明しないが、おそらくは同地の有力者であったろうと推察される。また、この銘から、清水洞の小太郎が、第二代水野太郎左衛門(範長・則重)に鰐口を発注し鑄造させたことになるが、当時水野太郎左衛門は、春日井郡上野村(*3)に在住しており、上野村で鋳たものを清水洞か西宮に納入したと考えられる。さらには、陰刻の「西宮」の文字の上から「舞木邑」と改竄されていることから、当初は西宮社殿の正面軒先に吊り下げられていたが、いつの頃か猿投神社の麓にある舞木邑の明王堂に下げ渡されたものであろうことがわかる。四百三十余年もの間、風雨や吹雪の吹き抜ける軒下で、よくぞ耐えて当時の面影を伝えてくれている鰐口に愛おしさを覚える。

[註]
*1=二代目水野太郎左衛門の諱については、『愛知県史』では、「範直」としているが、水野平蔵家(水野分家道握系図)では「則重」と記されている。
*2=猿投山の山麓に猿投神社本社、東峯に東宮、西峯に西宮が鎮座し、古来、猿投三社大明神と称されたていた。
*3=この場所については、現在の「愛知県名古屋市千種区鍋屋上野町」と「愛知県春日井市上野町」の二説がある。


●あとがき
 この明王堂鰐口については、2005年に水野太郎左衛門についての研究を始めてから、豊田市高橋町を中心に色々と調べており、関係博物館や寺社など各所にも問い合わせをしましたが、残念ながらその所在地が判らず終いでありました。
 それから六年経った、つい先日、何のキーワードであったかは覚えておりませんが、ネットサーフィンしておりましたら、「『豊田市郷資料館だより』N0.71 P.3 2010.03」の記事にこの鰐口のことが書かれていることを承知し、「高橋庄」が、不覚にも北は猿投神社までの広範囲に渡っていたことに気付かされました。この鰐口陰刻銘からは、さらには猿投山の東北に位置する愛知県豊田市雑敷町(ざっしきちょう)清水洞の辺りまでもが、高橋庄であったことが分かりました。
 この情報を頼りに、豊田市郷資料館の所定手続きを経て、数日で鰐口の撮影許可が下りました。こうして一昨日同館を採訪し、ようやく念願の鰐口にお目にかかれることが出来ました。
 この採訪では、秋葉山明王寺の近くで、桃の花の手入れをなさっておられた農家の方が、お忙しいのにお手を止めて丁寧に明王堂のことを教えて下さいました。また鰐口の取材では、同館長様並びに学芸員様には、寛大なご配慮をいただきました。ご協力いただきました皆様に、心から深謝申し上げる次第です。


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雑敷町清水洞→猿投神社西宮→秋葉山明王寺



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猿投山


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猿投神社本社




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秋葉山明王寺




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Sanageyama03.jpg‎ (480×360ピクセル、ファイルサイズ:108キロバイト、MIMEタイプ:image/jpeg)
猿投神社西宮(ウィキペディア)
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by mizuno_clan | 2011-04-22 18:41 | ★研究ノート

【寄稿17】宮本武蔵と水野勝成 『宮本武蔵の大坂夏の陣』1/2 »»Web会員««

     まえがき 
 本稿は平成6年(1994)月刊『歴史研究』400号に掲載された「宮本武蔵の夏の陣」の転載です。出版社「歴研」の承諾もいただいています。
ただ「歴研」の投稿原稿が8000字(原稿用紙20枚)に制限されていましたので窮屈に圧縮させていた部分も、せっかくですから了解を得て拡げさせていただきました。

 当時までは宮本武蔵の大坂の陣は大坂方という認識が通説でありましたが、原論文は武蔵が徳川方であったことを決定づけた論文となります。
武蔵研究の第一人者となられました国際武道大学の魚住孝至先生を始め多くの著書・論文等に引用されましたが、今では新しい定説と化して当時のように特別に書かれることもなくなりました。
 しかし、まだこれまでいかなる歴史番組でも武蔵の徳川方説が語られた事はなかったと思います。
 今年2月23日、小生も出演させていただきましたNHK「歴史秘話ヒストリア」で初めて明瞭に「武蔵は徳川方の武将の護衛として出陣した」と解説されたのは本論に基づくもので、画期的でした。
 11年前のNHK「ときめき歴史館」でも本論文の取材を受け、武蔵の大坂の陣出陣の証として本論に乗せている小生提供の『黄耇雑録』も画面に表示されましたが、ついに武蔵が徳川方であったことに触れられることはなかったのです。
 武蔵の人生において水野勝成との出会いと大坂の陣に水野の陣営から徳川方として出陣したことが大きなターニングポイントとなっています。

 水野氏研究会の皆様にも宮本武蔵と水野氏との深い関係を知っていただければと存じます。

                                     福田正秀(宮本武蔵研究家)





宮本武蔵と水野勝成
『宮本武蔵の大坂夏の陣』


                                             福田 正秀

はじめに 
  宮本武蔵は生涯六十余度の兵法勝負に無敗の剣豪として知られている。しかし武蔵が晩年に著した『五輪書』序文によれば、その勝負は若かりし頃二十代までのことであり、「われ三十を越えてあとをおもいみるに兵法至極して勝つにはあらず」とその勝利は兵法を極めたからではなかったと反省している。なおも深き道理を求めて兵法修行に朝鍛夕錬し、至極の境地を得たのは五十歳の頃であった。すなわち悟道に至る武蔵の真骨頂は六十戦全勝の前半生ではなく、三十代以降の後半生にあったのである。
そのスタートに徳川が豊臣氏を滅ぼした大坂の陣(一六一四~)があった。武蔵はこの戦場に立っているが、豊臣か徳川か、武蔵はどちら側について戦ったのであろうか。武蔵の生涯を鳥瞰してみれば、兵法至極に至る人生の大きなターニングポイントであったことは間違いない。
 実は武蔵の大坂の陣には水野勝成が大きく関与していた。本稿では武蔵が大坂夏の陣に水野勝成の陣営から出陣していたこと、すなわち武蔵が徳川方であったことを証明する。

一、通説への疑問  
 宮本武蔵が大坂の陣に参戦した事は、武蔵の死後九年後に養子伊織によって建てられた「小倉碑」にも刻まれており、史実であろう。
『二天記』はこう伝えている。
 《一、慶長十九年大坂陣武蔵軍功証拠あり、三十一歳、翌元和元年落城なり》
 大坂方か徳川方か、どちらとも書いていない。 ちらほらと徳川方説を唱える論者もいたが、大勢を変えるに至らず、これまで武蔵は大坂方の浪人募集に応じて戦ったというのが通説であった。不思議なことに何の史料的裏付けもなく、そう信じられてきた。理由は大坂方には全国から十万人余の牢人が入城したし、武蔵も牢人であり、手柄を立てて立身の好機と、当然これに参加したであろうという単なる推測だけ。関ヶ原西軍説の延長もあるようである。
 司馬遼太郎氏はその著『宮本武蔵』で、「大坂の役関係のあらゆる資料のどこにも彼の名が片鱗も見えぬところを見ると、武蔵は微賤の軽士として大坂城の石垣のなかにこもっていたにすぎなかったのであろう」と述べている。
 ところがその反対史料が出た。それは大坂陣当時、三河刈谷城主であった水野日向守勝成の陣備えを記録した「大坂御陣之御供」の名簿の中に、宮本武蔵の名前が載っているというのである。この記録は昭和五十九年に、水野藩家老中山将監の子孫中山文夫氏(名古屋市)の家にある膨大な古文書類の中から発見された。水野日向守は徳川家康の従兄弟に当たり、大坂夏の陣では大和口方面軍の先陣の大将であった。当然、徳川方である。
 史料発見当時『週刊朝日』がこれを取り上げ、通説を覆す新史料としてセンセーショナルに報道した。しかし、なぜか研究家はほとんどこれを無視、あるいは否定したのである。その理由として歴史家の岡田一男氏は「宮本武蔵研究の問題点」(『歴史研究』平成三年十月号)にて、「武蔵が夏の陣で豊臣方に加担して大阪城に入ったことは「小倉碑文」が立証している。「大坂御陣の御供」にある名は同時代に宮本武蔵を名乗る者が何人もいたので、これも同姓同名の別人であろう」と書いている。
 はたして小倉碑文は武蔵の大坂方を立証しているか。私が現地で確認した碑文の該当部分は次の通りであった。
  《豊臣太閤公之嬖臣石田治部少輔謀叛之時或於攝州大坂 秀頼公兵乱時武蔵勇功佳名縦有海之口溪之舌寧説盡簡略不記之》
(読下し)
「豊臣太閤公の嬖臣(へいしん)石田治部少輔謀叛(むほん)の時、或いは攝州大坂に於いて、秀頼公兵乱の時の武蔵の勇功佳名は、縦(ほしいまま)に、海の口渓(たに)の舌に有り、寧(むし)ろ説き盡(つく)し、簡略に之を記さず」

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[小倉碑(宮本武蔵墓)]


どこにも豊臣方あるいは徳川方についたとの記述はない。それどころか「謀叛の時」とか「兵乱の時」という言い方は、それを鎮圧する側からの表現であり、「関ヶ原、大坂、この両陣での武蔵の勇功佳名は、あまねく天下の知るところであり、簡略には説明できないほどである」と伊織は父の軍功を高らかに誇っているのである。
 伊織はこの碑を建てた時、徳川譜代大名中の名門、小笠原藩の筆頭家老であった。藩主小笠原忠真は徳川家康の曾孫(母は家康の嫡男信康の女)で大坂夏の陣では父と兄が壮烈な戦死、自らも全身に七箇所の深手を負っている。その忠真から「武蔵の石塔山(墓地)にせよ」と下賜された山に建てた石碑である(宮本家由緒書)。武蔵がもし大坂方であったなら、何の勇功、何の佳名であろう、碑文から削除される事項となる。味方の徳川方であったればこその顕彰であろう。
 岡田氏の論拠で思い出されたのが、武蔵研究家の原田夢果史氏がその著『真説宮本武蔵』で述べられていた大坂方説の論拠である。
 「秀頼公の字の上に一字空白をおいてあるのは、直属の主君に対する敬意を表す闕字(けつじ)法で、彼が関東方でないことを示す」
 岡田氏もこの事をさして言われているのか。しかし残念ながら闕字は直属の主君にのみするものではない。一般的に記述者から見て貴人に対する敬意を表するために用いる文章作法であり、徳川の世になっても太閤や秀頼は貴人であったということである。しかもこの場合の記述者は伊織であって武蔵ではない。 結論はこの碑文から武蔵が西軍、あるいは大坂方であったことを立証する事はできないということである。
次にいよいよ大坂の陣で武蔵は徳川方であった証明に入る。

二、「大坂御陳御人数附覚」〈裏付一〉
 
慶長十九年の大坂冬の陣に武蔵が参戦した証明史料は今のところ出ていないが、翌二十年(元和元年)の夏の陣に出陣した裏付け史料をいくつか見つける事が出来た。
 まず中山家史料の信憑性は、まったく同一内容の記録が広島県福山市の福山城に収蔵されていることがわかり、立証された。福山は水野日向守勝成が大坂陣後に十万石で再移封された所である。その史料は中山家同様水野家の家老であった小場家文書の中の一本で「大坂御陳御人数附覚」となっており、現地鏡櫓にて確認したところ宝暦二年の写しと、文政元年の写し二本があり、奥附けに小場兵馬所持と記されていた。
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[大坂御陣御人数附覚(福山城鏡櫓蔵)]

 これによると夏の陣での水野軍の総陣容は、《総御供騎馬二百三十騎、総御人数三千二百人之由》となっている。士(さむらい)大将は中山外記、そして御供騎馬武者二百三十人の中「作州様附」十人の四番目に宮本武蔵の名前があった。作州様とは勝成の嫡男、美作守勝重(のち勝俊)のことである。
 この東西二つの同一資料は、武蔵が徳川方、水野勝成の陣営にあった事を裏付けている。週刊朝日の「士大将格」という判断は明らかな誤り。士大将は一軍の総大将で、通常は藩の家老が任命された。水野軍では中山外記であった事がこの覚書でわかる。武蔵の立場は当初陣場借りかとも考えたが、勝重付十人のうち二人までは名前の上に「牢人にて出陣」との但し書きがある。武蔵にはそれがないということは、仕官を求めての陣場借りとも思えない。この頃すでに六十余度の勝負に勝ち、天下無双の剣豪として高名であった武蔵は、その気になればいくらでも仕官が出来たはず。水野家では遊遇の名士、勝成の御客分としての身分で、後の島原の陣での小笠原家同様、若殿勝重の身を守る護衛の任を特に勝成から頼まれたものであろう。いわば客将と見るのが正しいと思う。

三、『黄耈(こうこう)雑録』〈裏付二〉
 
 水野勝成を祖とする福山水野藩は、五代勝峯がわずか二歳で没し元禄十一年に無嗣改易となった。先祖の功をもって勝成の曾孫となる勝長に能登国の内一万石で再興させられ、のち下総結城藩一万八千石として存続するが、家臣団は分散し、家老中山家は幕臣旗本へ、分家は尾張徳川家に移った。その尾張中山家に中山七太夫という長沼流兵学者が出て、この人がたくさんの写本を中山家の今に伝えている。その中の一本に武蔵が大坂陣で活躍する場面を記録したものが見つかった。出典を探していると、名古屋の郷土史家より、それと同じ記録が『黄耈雑録』に出ているとの指摘を受け、判明した。それは宝暦の頃(一七五一~)尾張藩の松平君山という学者が、藩士等の見聞録をまとめたものであった。彼は藩の書物奉行で、膨大な記録、文書の管理と編纂が職務であった。
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[『黄耈雑録』表紙(左)と中山七太夫筆の該当部分(中山文夫氏蔵)]


 中山文夫氏のご尽力により『黄耈雑録』の写本(全十巻)が名古屋市史史料の中に見つかって写しを送っていただいた。その第一巻に中山家蔵の記録と同一内容がある事が確認できた。該当部分を抜粋すると次のようになる。

    一、宮本武蔵ハ兵法の名人なり、十四五の時分剣術を得、父ハ無二といふ、是又一流の遣ひ手なり、是をハ古流と云、武蔵我代(わがだい=城)に仕かへしとぞ、十八歳にて吉岡清十郎と仕相し名を発し、廿余にて岩石と仕合、名を発す、大坂の時、水野日向守か手に付、三間ほとの志ないのさし物に、釈迦者仏法之為知者、我者兵法之為知者と書れる。よき覚ハなし、何方にて有れん橋の上にて、大木刀を持、雑人を橋の左右へなぎ伏れる様子、見事なりと、人々誉れる。

 一つ書の中の一項目であり、きわめて短文であるが、前半の伝聞は当時から武蔵が剣豪として有名であったことを、後半では戦場で働く武蔵の様子を生き生きと伝えている。そしてこの中に、「大坂の時、水野日向守の手に付」と明確に武蔵が徳川方水野軍に属して戦った事、すなわち「大坂御陳之御供」に記録されていた宮本武蔵が、同姓同名の別人などではなく、正真正銘のあの剣豪武蔵であった事を証明しているのである。
 それにしてもこの記録は実に興味深い。陣中の武蔵は三間ほどのというから五メートル余の大指物に、「釈迦者仏法之為知者、我者兵法之為知者(釈迦は仏法の知者たり、我は兵法の知者たり)」と大書した旗を立てていたという。普通一般に指物の長さは二間弱というから、極めて派手なパフォーマンスで、あの仏教開祖の釈迦と自分を並べてアピールするなど、自信満々たる壮年武蔵の姿が浮かび上がってくる。
 そして橋の上に陣取って、寄せ来る敵の雑兵へ大木刀を振りかざし、バッタバッタとなぎ伏せる戦闘場面は、剣豪武蔵の面目躍如、あまりの見事さに、皆口々に褒め称えたと言っている。戦場で闘う武蔵の目撃史料は他になく、非常に貴重である。
 ではこの戦闘は一体いつのどの戦場でのことであろうか。
「水野勝成覚書」によると、水野軍は夏の陣の五月六日、河内の道明寺方面において大坂方の猛将後藤又兵衛基次軍と激戦している。戦闘の様子はおよそ次のようであった。
 《片山の山を(後藤軍を)下へ追い崩し、道筋両側は深田にて、田の中に小さき石橋あり、先に拙者(勝成)二番に中山勘解由、三番に水野美作守、四番目に村瀬左馬、それを乗り越すと、本多左京の軍勢が追い崩され、その橋の際まで逃げかかってきたので、右四人の者、馬より降り槍を取って突き掛かり、敵を退け、藤井寺まで進撃した》
 まるで四将だけがいるような記述であるが、配下の侍、若党などが周りを固めているのは当然である。先の「大坂御陣御人数附覚」で武蔵は勝成の嫡男勝重付の騎馬武者であったことを確認した。勝重この時十七歳、武蔵はここにいたのである。『黄耈雑録』記載の武蔵が橋の上で戦闘する場面が事実なら、この小橋での事ではないだろうか。
 
四、「宋休様御出語」〈裏付三〉 
 水野家は刈谷三万石から戦功によって一旦大和郡山六万石に封ぜられた後、元和五年にはさらに備後福山十万石に加増転封された。
 この福山に武蔵史料がないかと思い、平成五年夏、福山城博物館に問い合わせてみたところ、福山市文化財保護審議会長でもある平井隆夫氏より回答を得、更なる裏付け資料が見つかった。それは水野藩の古記録「宋休様御出語」(小場家文書)というものであった。宋休とは水野日向守勝成の隠居号で、彼が隠居後に話したことを近侍の小場兵左衛門利之が晩年に筆録したものである。(のち福山城博物館蔵の写本を確認)
 注目したのは、その中〔勝成、島原出陣〕の一節であった。

  黄昏(たそがれ)に及て御着故、いまだ陣所を取しつめさるに雨は頻(しきり)にふり出す。陣中殊之外(ことのほか)騒々しく聞へければ、前備(まえぞなえ)の小笠原家にて是を聞き凡(およ)そ着陣には法あり、さしも日向殿、当時の良将とこそ聞こえし、あの着陣の騒敷(さわがしき)はいかにぞや、今にも夜討など有らば、あの人数は物の用には立つべからずと、口々に云いければ、宮本武蔵という者是を聞き、我先年、日向守殿家にこれあり、彼軍立よく知れり、凡慮の及ばざる大将なり、各評判の及ぶ処にあらず(後略)

 と、ここでも武蔵自ら「自分は先年、日向守殿に属してその軍立てを良く知っている」と言っているのである。この島原陣の前、大坂の陣でのことを言っていることは間違いない。「前備の小笠原家」とは、宮本伊織(武蔵養子)を総軍奉行とする小倉藩小笠原忠真軍のことであり、この中に武蔵がいた事は、原城落城の日の陣中より日向県(延岡)藩主、有馬左衛門佐直純へ宛てた書状や、後日肥後細川藩筆頭家老長岡佐渡守へ陣中音信のお礼を述べた武蔵直筆の書状が残っており、立証している。また新な小笠原家史料調査によって、有馬陣出陣記録の内、小笠原信濃守長次の身の回りを固めた「旗本一番」の騎馬武者の中に宮本武蔵の名が発見され、武蔵の役割までが立証されたのである。
 もはや、武蔵が徳川方で戦った事は、動かしがたい事実であろう。 (つづく)
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by mizuno_clan | 2011-03-26 15:43 | ★研究論文

【寄稿17】宮本武蔵と水野勝成 『宮本武蔵の大坂夏の陣』2/2 »»Web会員««

五、三木之助は水野藩中川氏〈裏付四〉 
 今回の考証で思いがけず判明したのが武蔵の最初の養子、三木之助の出自であった。そしてそれがまた、武蔵が大坂の陣で水野家にあった事の証明であり、徳川方の四つ目の裏付けとなったのである。
武蔵の伝記で『二天記』より古い丹治峯均筆記『武州傳来記』によると、三木之助は造酒之助であり、武蔵が摂州尼崎街道で拾った馬子の少年となっている。二天記の「泥鰌(どじょう)伊織」と同類の伝承であるが、意外とこれを真に受けている人がいる。しかし、大方の史家、研究家は「新免宗貫の孫」としている。新免家は武蔵の養父無二之助の旧主にあたり、新免姓を下賜されている関係から、自然と受け入れられてきた。根拠もある。「作州新免系図」に三喜之助という名があり、脇書きにそのことが書かれているのだ。
《当世の美少年二刀剣術をよくす。宮本武蔵玄信の養子となり、播州姫路城主本多美濃守世子、中務太夫忠刻に仕える。七百石側小姓、宮本造酒之助と改める。本多忠刻寛永三年丙寅五月七日卒三十一歳、造酒之助即日殉死》
 三木之助と、字の違いをのぞいてはまったくその通りである。しかし不思議な事は、筑前黒田藩三奈木村に残る「筑前新免系譜」と、かなり相違がある点である。
 新免家は関ヶ原で西軍宇喜多秀家軍に属して敗れ、一族家臣とも九州へ落ち、黒田家に仕え明治維新まで続いている。領地だった三奈木村には今も「伊賀様」とよばれる新免伊賀守を祭る祠や供養塔が、新免宗家と家臣団の祭司の中心として大切に守られており、この系統の由緒は正しいが、こちらに残る新免系譜には三木之助らしい人物の記録は一切無い。
 「作州新免系図」に更に疑問が生じたのは平成三年夏、三木之助の墓を姫路に訪ねたときからであった。墓は姫路市郊外、書写山圓教寺内、本多家霊廟の中にある。寺域は広く、ロープウエイで山頂に上ってなお三十分は歩かねばならなかった。
 本多家霊廟の中は一番が幸千代(忠刻と千姫の子)、次が忠刻、そのあとは御霊家付で歴代城主墓が並んでいて見事であった。そして、忠刻の大きな五輪墓の後ろにかしずくように、殉死した三木之助と岩原牛之助の小さめの五輪墓があった。
 ちょっと本題から外れるが、圓教寺墓誌によるとこの牛之助は元忠刻の家臣で故あって牢人していたが、忠刻死するを聞いて立ち帰り、墓前で切腹したとあった。丹治峯均筆記『武州傳来記』では三木之助をそのように作り、大坂で武蔵と別れを告げさせて殉死するが、これは誤伝から出た説話であろう。
 三木之助の墓の後ろにもう一つ小ぶりの五輪墓があった。三木之助に又殉死した陪臣宮田覚兵衛の墓であるという。部下に慕われていた三木之助の人間味が偲ばれる。
 驚いたのは、三木之助の墓誌を見た時であった。
  《宮本三木之助 宮本武蔵の養子忠刻が卒すると墓前において切腹。伊勢の生まれで武蔵の養子当時二十三》
 三木之助は「伊勢の生まれ」となっていた。新免氏の作州でも筑前でもなく、まして摂州尼崎でもないのであった。三木之助と伊勢、宮本武蔵、どう考えてもこの頃の史料では結びつかない謎であった。そんな折、戸部新十郎著『考証・宮本武蔵』に出会った。そこには三木之助の出自について、先の二説のほかに「積翠雑話に宮本造酒之助は備後福山城主、水野勝成の家臣、中川志摩之助の孫だといってある」と、論評なしに付記してあった。
今度は福山。根拠がわからず、伊勢の時と同じでこの時も途惑うばかりであった。しかし、これが平成五年の発見につながった。
「大坂御陳之御供」を見た時、武蔵の名より先に飛び込んできたのがこの中川志摩之助の名前であった。その後に武蔵の名を確認し、ここで「武蔵―中川志摩之助―水野勝成」の関係が一本に繋がったのである。
『積翠雑話』が正しかった。しかも三木之助を養子にしたのはなんと大坂夏の陣が縁だったのである。このとき武蔵が客将として出陣した水野家の武者奉行が中川志摩之助であった。志摩之助は歴戦の勇将であり、槍の名手として知られていた。武蔵と意気投合し、三木之助を養子に貰い受ける事になったのではないだろうか。

以上四つの裏付けをもって、武蔵が大坂夏の陣で刈谷水野家、すなわち徳川方について戦った事を十分に証明出来たと思う。
 関ヶ原の時とは違い、この大坂夏の陣は戦国の終わりを告げるためか、大坂方に加担した牢人狩り探索は徹底的で厳しく、毎日おびただしい数の牢人が探し出されて首を切られ、路傍に三列に並べて延々晒されたという。豊臣秀頼の隠し子国松も見つけ出されて六条河原で斬首、女児は千姫が養女に引き取って尼にし、その血統を断った。
 武蔵は三木之助を連れて水野家を去り、やがて将軍家女(千姫)婿である姫路の本多忠刻に兵法師範として迎えられ、自らは仕官せず養子三木之助を代わりに仕官させて後見することになるが、武蔵がもし大坂方の牢人であったなら、とてもこの境遇は考えられないのである。
幕府が、相次ぐ改易であふれる牢人問題に頭を抱え、大坂牢人「御赦免」の方針を打ち出すのは、家光の政権となった元和九年(一六二三)のことであった。

六、「宮本小兵衛奉公書」を発見〈裏付け四の又裏付け〉
 平成五年、三木之助の姉の子孫とされる福山の平井隆夫氏の示唆を受け、岡山池田藩に宮本小兵衛なる者が提出した「宮本家由緒書」があることを知り、岡山大学付属図書館に依頼して調査したところ、所蔵の池田文庫(池田藩史料)に小兵衛が元禄九年(一六九六)に書き上げて藩に提出した「奉公書」を発見する事ができた。それが三木之助の系譜であった。冒頭に、「先祖、伊勢国中川原と申す処に小城持居り申す由」と、その出自が伊勢である事を述べている。墓誌の「伊勢の生まれ」の謎が解けたのである。武蔵の養子になった事も、子孫がなぜ岡山なのかの疑問もこの中で明瞭に判明した。
(読下し)
         奥方附足軽頭 高弐百五十石 宮本小兵衛 元禄九年子、五十五歳
一、先祖、伊勢国中川原と申す処に、小城持居り申し候由、申し来り候。祖父中川志摩之助、世倅の時分、牢々仕り、仙石権兵衛殿、讃州に御座候節、奉公罷出、武篇の走り廻り数度仕り候て、鉄砲頭に成、知行千石余り下され候、或る時、手柄仕り候褒美として、権兵衛殿の御紋、永楽之上字を下され、永ノ字を紋付け来り申し候、其の節、水野日向守殿、其の頃は六左衛門殿と申し、御父和泉守殿不和に付、権兵衛殿に御座候、其の時分より御心安く、別して入魂に仕り、其の馴みにより、其の後、日向守殿仰せられ候は、彼方此方と申すべきよりは、心安く、此方へ参るべく候。武者奉行を御頼み成されたき由にて、御呼び成され、鼻紙と仰せられ、知行六百石下され候、(後略)
一、中川志摩之助嫡子、同形部左衛門(略)
一、中川志摩之助次男、同主馬(略)
一、養祖父宮本三木之助儀、中川父志摩之助世倅にて御座候、私ためには實の伯父にて御座候。宮本武蔵と申す者の養子に仕り、児小姓の時分 本多中務様へ罷出、知行七百石下され、御近衆に召仕われ候、九曜巴紋に付け候へと仰せをもって、唯今に付け来り申し候、御替御紋と承り候、 圓泰院様、寛永三年寅五月七日 御卒去の刻、同十三日、二十三歳にて御供仕り候、
一、私父宮本九郎太郎、三木之助弟にて御座候。此者も 圓泰院様に児小姓に召仕われ候、兄三木之助殉死仕り、実子御座なく候に付、九郎太郎に跡式相違なく、 美濃守様より仰せ付られ、名も三木之助に罷り成り候、 天樹院様、 播州より江戸へ御下向成され候刻、 美濃守様御供を成され候。其の節、三木之助御供仕り候、天樹院様美濃守様へ御意にて、道中御旅館に於いて御目見え仰付られ候、 甲斐守様の御代、番頭に仰せ付られ候、内記様の御代に和州郡山に於いて、寛永十九年申九月に病死仕り候、
一、三木之助世倅、私兄、弁之助と申す、父跡式下され 内記様に罷り有り候へ共、若き時分に病死仕り、其の節、本多家を浪人仕り候、
一、私、生国大和国郡山にて御座候、十五の年、兄弁之助果て申し候。其の節より南都に罷り有り候、寛文二年寅十月十二日、江府に於いて、弐十一歳の時 当殿様へ召出され、同十一月十日、御礼を申し上げ候、今、俵六拾弐俵五人扶持下され、御式臺に相詰め、御供や御使者を、相勤め候、
(以後小兵衛の元禄九年までの池田家奉公の次第が一つ書きで年を追ってまだ延々十丁余も続くのであるが、本稿では省略する)

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福田正秀『宮本武蔵研究論文集』(2003年 歴研)より引用


 書き出しは先祖附で、伊勢の中川原城主の出。祖父中川志摩之助から三人の伯父、父、兄のことを書いて、自分の奉公書へと繋いでいる。まず冒頭の見出し等からこの奉公書は元禄九年(一六九六)、小兵衛五十五歳のときに岡山藩に提出したものである事がわかる。当時の役職は奥方附き足軽頭で、禄高二百五十石であった。
 中川志摩之助は讃岐の仙石家の時分、槍働きの戦功で知行千石の鉄砲頭となり、その頃父に勘当され放浪中の水野勝成と知り合って入魂となった。後、大名になった水野勝成に武者奉行を頼まれて六百石で仕えた。大坂の陣でも槍働きをしたと伝えている。「鼻紙」とは、「とりあえず、ほんの気持ちばかり」という意味で、今後の加増を含んだ言葉であろう。志摩之助の三男が三木之助で宮本武蔵の養子となった。三木之助は武蔵の後見で将軍家女千姫の夫・本多忠刻の児小姓に召し出され側近七百石の出頭人となるが、忠刻の死去に殉死することとなった。跡式は弟の九郎太郎が二代目宮本三木之助を襲名して継がされている。武蔵はどうやら水野藩中川志摩之助の子を三木之助だけでなく四男九郎太郎までも養子にして二人とも本多忠刻の小姓として出仕させていたようである。その子三代目弁之助まで本多藩宮本家は継承されるが、弁之助が若死して断絶となった。弁之助の名は武蔵の改名前の初名として知られており、父の二代目三木之助の死はまだ武蔵生前の寛永十九年であるから、武蔵が襲名を許したものであろう。
弁之助の弟が小兵衛で奇しくも父の没年に出生している。後に岡山藩池田光政に召し出されてこの奉公書の伝来に至ったというわけである。
池田光政の正室勝姫は三木之助が殉死した本多忠刻と千姫の子で将軍秀忠の養女である。この縁による召出しであることは明らかであり、奉公書によれば小兵衛は光政夫妻、二代綱政にも厚い信頼を得て側近くに仕えたようである。本多忠刻(圓泰院)の五十回忌には姫路の本多家菩提寺書写山圓教寺へ光政夫妻の名代を勤めて墓参している。このとき当然のこととして忠刻墓の後ろに控える同じく五十回忌の初代三木之助の墓に参拝を果たすことになった。小兵衛の感激と感慨はいかばかりであったろう。
 この史料の発見によって、武蔵の養子三木之助の出自が伊勢出身の水野藩中川志摩之助の子であることが明確となり、三木之助の本多藩宮本家は一代で絶えたとされてきた定説が覆り、代々続いていたこと。武蔵が肥後細川藩の御客分として逗留し、畢生の兵法書『五輪書』を書き終えてこの世を去った正保二年(一六四五)の頃は、二人の養子の宮本家は本多藩の宮本三木之助家も小笠原藩宮本伊織家(筆頭家老)も共に隆々と栄えていたことが明らかになった。

 武蔵が刈谷水野家より大坂陣に出陣することになった経緯、すなわち水野勝成との出会いがいかなる由縁によるものかは今後の研究課題であるが、このことが武蔵の後半生に三木之助や伊織を養子として徳川譜代雄藩へ出仕させ、自身を常に束縛の無い自由の境遇に置いて兵法の道を極めていくという独創的な人生戦略の起点となり、兵法を極め、『五輪書』完成への道に繋がっていったことは間違いないように思われる

*本稿は月刊『歴史研究』(歴研)1994年九月号掲載「宮本武蔵の夏の陣」に一部加筆し史料写真を加えた。
*謝辞 本論の成立には水野勝成家老・中山将監重盛のご子孫である中山文夫氏の多大なご協力がありました。故人となられた御霊に深甚の感謝を申し上げます。

福田正秀(ふくだまさひで)熊本県在住
著書『宮本武蔵研究論文集』(2003年 歴研)
『宮本武蔵研究第2集 武州傳来記』(2005年 ブイツーソリューション)
共著『加藤清正「妻子」の研究』(2007年 ブイツーソリューション)



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[参考資料]
 「中山氏の系圖」については、「S-1>《水野氏関連氏族》「中山氏の系圖」第2版」をご参照下さい。(研究会事務局)
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by mizuno_clan | 2011-03-26 15:42 | ★研究論文

【寄稿16】白銀師 水野源六 »»Web会員««

白銀師 水野源六

                                        筆者:水野青鷺

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 高百三十万石加賀藩は、藩政前期の豊富な資金力を背景に、文武の府を目指した歴代藩主が、金属工芸・漆芸・陶芸職人などを招聘した。この一環として中世末期の京都の名金工後藤家も金沢に招かれた。金沢における金工とは、鋳物・彫金・鍛金・象眼等をさす。
尚、本稿では加賀藩祖(初代藩主)は前田利長、開祖は前田利家としている。


●源次家
▶元祖源次好栄――豊臣秀吉家臣であったが、天下趨勢が徳川に代わる頃、武士を捨て白銀師(*1)を志し京都に移る。信長および秀吉から大判・分銅の二役を拝命する御用彫金家(*2)、後藤宗家四代後藤光乗に入門。光乗の次男長乗にも師事。後藤家が加賀藩前田家から高禄で召し抱えられるに伴い、加賀藩初代前田利長の御用を勤めるようになり、慶長十四年(1609)頃、後藤家の有能な実働先遣部隊として、家族共々金沢に送り込まれ、五人扶持を得る。幼少の子供達を厳しく仕込んで源七・源六の二人ともに御用職人に育て上げる。慶安二年(1649)没。好栄の通称「源次」は長男源七が継ぎ、次男「源六好房」は別に家を興す。

▶二代源次源七――父の没後源次継承、白銀師裁許(許可)を命じられる。寛文七年(1667)死去。

▶三代源次――元禄六年(1693)没。

▶四代源次――享保四年(1719)没。

▶五代源次――宝暦元年(1751)没。

▶六代源次――宝暦三年(1753)没。

▶七代源次――六代源次の弟を養嗣子。安永七年(1778)没。嗣子無く嫡統絶家。

▶八代源次――安永九年(1780)、源六光政の斡旋により、鞘師(*3)九蔵次男元房(源六光政
に師事)が、後藤東乘に学び、源次家を再興。天保三年(1832)没。

▶九代源次克弘――細工者に列す。嘉永五年(1852)没。

▶十代源次克正――克弘次男克正が家督相続。元治元年(1864)没。

▶十一代源次克則――廃藩(明治四年[1871])の際源次家廃業。明治十五年(1882)頃、金工職工は雇主から容易に馘首され、賃銀をカット・停止されることが多かったことから「銅器職工同盟」をつくって地位の保全にあたった。「銅器職工同盟規定名扣(控)」の加盟者名筆頭に「第壱号 枝町四拾四番地 水野克則」の名が見えることから、廃業後も金沢で銅器職工として生計を立てていたことがわかる。


●源六家
▶初代源六好房――源次好栄の二男。寛永元年(1624)、十八歳で分家独立。寛永年中、二代藩主前田利常より五人扶持を下され白銀職御用を任じられる。御差料(腰に差す刀)や御好み(趣味の注文品)の重要な仕事を多数受注。軍の武器などの定式(一定の形式)のものも毎年多数仰せつかる。正保三年(1646)、高岡町の武土地の一角に邸地を賜り別家を構える。後藤宗家の悦乗が加賀を去る際、水野本家筋である源次家三代源次にではなく業界最長老で元締め的存在の源六家初代に「白銀職頭取の職務代行」を命じられる。後、三代前田光高、四代綱紀と加賀藩三代の御用を六十四年間に渡り勤め上げ、利常隠居先の小松にも度々出向き御用を賜る。貞享四年(1687)、八十二歳で病死。

▶二代源六照喜――初代存命中に藩御用を仰せつかり、初代没後家督相続し、初代同様に町地諸役御免となり奥納戸御用など多数拝命。寛永元年(1704)、初代同様御細工所において兜の前立てなどの御用を勤め褒美を賜る。五代藩主前田吉徳の嫡子勝丸の弓初めに当たり、お弓土蔵役所の御用を勤め、この後幾度も拝命。この御用は「矢筒」の細工などであったろうか。また武器や軍の定式の仕事を数多く勤める。四代藩主綱紀、五代吉徳の御用を五十五年間勤めた。元文二年(1737)九月、七十四歳没。

▶三代源六多光(まさみつ)――通称源六郎、享保九年(1724)四月、先代同様、父存命中に御用を仰せつかる。元文二年(1737)、家名相続。先代同様各種御用を勤める。宝暦元年(1751)、表納戸の御用で、京都北野天満宮へ奉納の宝剣(*4)の金具制作に当たり、首尾良くできて金子拝領。同年、京都神護寺へ寄進された太刀の制作にも携わる。当御用に携わった内の一人、桑村源左衛門克久については、伝来の家風に自己の意匠を加えた斬新な形式と、鏨痕(ざんこん)の鮮麗は、当代に比肩するものなしと称せられたことから、多光らは大いに刺激を受けたものと考えられている。また多光は、良工(優れた技術を持つ彫刻家)と称せられる。五代藩主吉徳から九代重教までの五代にわたり三十七年間御用を勤める。宝暦十年(1760)二月、五十九歳没。

▶四代源六光政――旧姓「大川端」で多光門下、その技精妙(優れて巧み)で、あらゆる技術に精通。この代から十代まで養子となる。父没年三月に家名相続。明和三年(1766)、将軍家拝領の家宝御長巻(柄の部分の長い太刀)の焼損に伴い、願い出て長巻を再製。この金具師の仕事は、元締として七代源次に委託した模様。寛政元年(1789)、九代藩主重教(しげみち)霊堂の唐戸の金具仕事で、鉄地に御定紋(加賀梅鉢)、葉唐草の銀象眼に仕上げているが、白銀師といえども鉄地を扱い、建築建具の金具までをも扱った事が判る。さらには印章も依頼され制作した。また、絶家していた源次家再興を図り鞘師九蔵の次男を斡旋。寛政十二年(1800)六十一歳没。

▶五代源六光益(みつえき)――光政門人・鈴木光弘の次子を養嗣子。文化四年(1807)、長巻(*5)の受注に当たり、研師(*6)、鞘師、柄巻師(*7)など八名の名が記され、その内、四名は三代源六の時にも組んでおり、上述の鞘師九蔵も含まれている。このほか刀工(*8)、塗師(*9)などが居る。このように御用職人集団は結束が堅く、仕事の請負に当たっても共同受注を行っていたを窺わせる。十代藩主治脩(はるなが)、十一代斉廣(なりなが)の二代にわたり二十一年間の御用を勤め、文化十三年(1816)五十一歳で没。

▶六代源六光則――柄巻師北川長蔵の弟源蔵を養嗣子。歴代同様に奥納戸御用などを勤め、
十一代藩主斉廣が嫡子勝千代に持たせる衛府(京都護衛役)の金(こがね)作りの太刀(刀身は則光)の御用を賜り、褒美を頂戴。これまでは、こうした衛府の太刀制作は京都へ仰せつけられていたが、この度は各職それぞれが京都に入門し技術取得したことで、初めて当地で全て出来た。天保七年(1836)、再び豪華な衛府の太刀を制作し、褒美を頂戴した。
十一代斉廣、十二代斉泰(なりやす)の二代に仕え、天保九年(1838)十一月、五十二歳没。

▶七代源六光和――旧姓高尾源吾、初名光忠を養嗣子。歴代御用の三所物(みところもの)(*10)ほか、天保十二年(1841)四月、三池伝太光世(平安時代末期、筑後国の刀工)の刀身で野太刀の仕事を賜る。金作の定紋を彫り上げ、魚々子地(*11)、七宝流し螺鈿入りという豪華なものであった。嘉永元年(1848)八月、十二代斉泰の二男喬松丸(後の十一代鳥取藩主池田慶栄[よしたか])の入婿に伴い、奥納戸において御差料大小の仕事を急ぎ勤めた。また同年、御細工所に召し出され、具足金物を三ツ葵の御紋に、また甲州流真の鞭の金具を、銀無垢に牡丹唐草を彫り、見込には三ツ葵の御紋を彫り上げた。このほかにも武器の御用を多数勤めている。安政三年(1856)正月、軍御用増加に伴いご用聞き職人も増員したことで、白銀御用棟取役を仰せつかる。同役名は当家由緒書で初見。安政二年(1855)白銀職棟取。慶応二年(1866)七月、六十六歳没。

▶八代源六光春――旧姓谷源三を養嗣子。文久三年(1863)、十二代藩主斉泰が初めて上洛するにあたり、水野家ではこれまで代々こうした時の御差料や太刀などの御用を勤めてきていることから、現地で急用が発生した際の予備として先に上洛し待機していた。予測通り太刀の修繕の仕事があり、これを急ぎ仕上げたので、「厚き志之旨結構」の書立(書き付け)を以て金子を拝領。元治元年(1864)、藩主斉泰が金作りの太刀などの新調に際し、御用を承り金子拝領。家督相続の慶応二年(1866)、十三代慶寧(よしやす)の代替わりに際し、御差料、銀(しろがね)作りの野太刀用金具の御用、官服の金具修復まで仰せつかり、金子拝領。このほか歴代が勤めてきた御用の数々を承る。 当家由緒書は、明治三年(1870)五月で終わっている。明治五年(1872)、大蔵省から三千円の加賀象眼花瓶を受注。翌年ウィーンで開催された万国博覧会(1873.05.01-1873.10.31)では、光春は加賀象眼を出品して優勝牌を受けた模様。その後も宮内省から常にご用命を受ける。明治十年(1877)、金沢に銅器会社が創設されると、光春は頭取の一人として参画する。初代から定住してきた高岡町邸宅売却。明治二十八年(1895)五十八歳没。

▶九代源六光美――本名石王次三郎。石王家から一旦士族中村家へ養子に入り、同家を廃絶し水野家の養嗣子となる。明治十五年(1882)、金沢区費留学生に推挙され京都府の画学校(現京都市立芸術大学)に留学。同十九年(1886)卒業後、石川県専門学校等の教師を勤める。同二十一年(1888)、教職を辞して金属象眼に従事。同二十四年(1891)、海外に通用する新しいデザイン創作を目論み販路拡張を謀る。明治二十八年(1895)の家督相続後は、加賀象眼が最盛期を迎えたが、他地方の模造品に悩まされ、また戦乱により打撃を受けるなどし、やがて長期低落期に入っていった。同三十三年(1900)、皇太子(後大正天皇)成婚にあたり、金沢市は源六光美に制作を依頼し貴金属製鴛鴦(オシドリ)置物を献上した。この後宮内省に十数点の製品を納入。同三十六年(1903)、合金に関する研究を試み、朧銅(おぼろどう)を製し、また九谷陶器と銅器とを継ぎ合わせた花瓶を制作し好評を博した。同年嗣子朗のために銅像制作工場を築造し、同業の発展に尽力した。昭和十三年(1938)三月七十一歳没。

▶十代源六(光晶)朗――埼玉県出身、旧姓堀内、初名虎次郎、光朗。金沢工業学校に通うことを条件に養子嗣子となる。朗は平面図案より立体造形に優れていた模様で、工業学校では窯業科製陶部で陶磁塑像を学ぶ。明治三十八年(1905)、ベルギー万国博に出品し名誉賞を受ける。彫刻家を目指し、養父の反対を押し切って東京美術大学(現東京芸術大学)の彫刻科に進学。在学中の明治四十二年(1909)、文部省美術展覧会に彫刻作品を出品し入選。抜群の腕を持っていたが、諸事情により中退。その後も海外で数度受賞を果たし、大正四年(1915)八月、農商務省より二カ年間米国各地の金属工芸視察を命じられる。大正七年(1918)九月、金沢卯辰山日蓮宗善妙寺の日蓮上人銅像を建立。十代朗の絶頂期であった。その後大正末期から昭和の初めにかけて金沢市金属工芸協同組合長を勤め、職人集団の
一方の旗頭として、衰退する業界の指導に当たるとともに、町方職人系と御用職人・御細工職人系との内紛に巻き込まれ、以降不出品となる。嫡男旺に次第に望みを託すようになるが、長男は五十を過ぎてからの子であったことから焦りもあった模様。晩年は加賀象眼の資料を体系付けることや展覧会で世間を啓蒙することに熱心であった。昭和四十年(1965)全てを息子に託して七十九歳没。

▶十一代 旺(ひかる。現当主・水野源六は踏襲していない)
 =石川県工業試験場情報指導部勤務 漆器の高品質化に関する研究員


[註]
*1=白銀師(しろがねし)=ハバキは刀身の手元の部分に嵌める金具。刀身が鞘から容易に抜け落ちることを防ぎ、かつ、刀身を鞘に固定する機能がある。刀身は鞘の中で棟(むね)とハバキによって支えられ、他の部分は宙に浮いている状態で保持される。もし刀身が鞘に触れるとその部分が錆びやすくなる。古くは、刀匠が鉄で作っていたが、のちに専門の白銀師(しろがねし・ハバキ師)によって、素銅、赤銅、銀、金などで製作される。

*2=彫金師(ちょうきんし)=鍔や縁頭の彫刻や象嵌の専門家。金属を主に鏨(タガネ)で彫って作り上げる。刀身彫刻の目的は、大きく分けて三つあり、1.樋(ひ=日本刀の側面につけた細長いみぞ。血流し)などで刀身の強度をほとんど落とさずに軽量化を図る。2.神仏の名前や象徴を彫り込み、戦勝祈願や繁栄を祈願する信仰的なもの。3.装飾として彫られたもの。がある。非常に時間と手間が掛かるため、納期は半年から一年程度を必要とする。

*3=鞘師(さやし)=日本刀の鞘を制作する。拵(こしらえ)の鞘は、日本刀が本来の切れ味を出す為に刀身に着いた油を打ち粉で拭き取って鞘に収めることから、そのままにして置くと錆てくる。従って刀を使わない時は日本刀全体に丁字油を塗り、拵の鞘とは別の白鞘に入れて休ませる。元来、拵はよそ行きの着物で、白鞘は普段着であることから、昔は白鞘を「休め鞘」や「油鞘」といった。平素は普段着を着せておくことが理想であり、また白鞘は錆が出た場合は、直ちに割って中を掃除することが出来るよう、続飯(そくい=飯粒をへら状のもので押しつぶし練って作った糊)で付け、割れやすくしてある。

*4=北野天満宮には、当宮を崇敬した加賀藩主前田家から、御祭神菅原道真公薨去後五十年目毎の大萬燈祭に奉納された刀剣が宝物殿に伝存。元禄十五年(1702)二月二十五日(前大萬燈祭)の八百年大萬燈祭には、加賀四代藩主前田綱紀より、重要文化財太刀(銘 恒次、 附 糸巻太刀拵 刀身2尺4寸5分5厘(74.4cm)鎌倉時代)が当宮に奉納。作者恒次は、鎌倉時代中期に活躍した、備中国青江派の刀工。

*5=大太刀から発展した武具であり、大太刀を振るい易くすることを目的に発展した刀である。長大な刀身をもつことから、これらは「大太刀」「野太刀」と称されるようになったが、非常に重く扱い辛いため、それまでの太刀の拵えと同じ形状の柄では扱いにくいことから柄は次第に長くなった。

*6=研師(とぎし)=刀身の研ぎを行う。刀の切れ味は勿論のこと、刀本来の美しさ、および刀匠が鍛錬した刀の持ち味を引き出す為に時間を掛けて丁寧に磨き上げる伝統工芸。

*7=柄巻師(つかまきし)=柄部分に紐を巻く専門家。 柄下は柄に幾度も研磨した鮫革を張るまでをいい、柄前は絹糸や綿糸または革紐を柄に巻いて行く専門家。

*8=刀工(とうこう)=玉鋼を鍛えて刀身を作る。「刀匠」、「刀鍛冶」とも呼ばれる。

*9=塗師(ぬりし)=鞘に漆を塗る。蒔絵師(まきえし)は、漆で文様を描き、金・銀・スズ・色粉などを付着させる。漆を何度も塗り重ねていくことから納期は1~2ヶ月かかる。

*10=みところもの。刀剣外装金具のうち、小柄(こづか)、笄(こうがい)、目貫(めぬき)の三種を言い、小刀の柄であった小柄と、烏帽子からはみ出した髪を整える理髪用具の一種であった笄と、刀身を柄に留める目釘から発達した目貫との装飾性が増し、三所物を担っている。三所物は、同一の文様で揃えるのを常としたとされており、水野家が御用を命じられた物の多くの用途は、献上品及び諸公への進物だったといわれる。

*11=ななこじ。彫金技法の一つ。先端が小円になった鏨を打ちこみ、金属の表面に細かい粒が密に置かれたようにみせるもの。魚卵の粒がつながっている形に似ていることから名が付いた。


●参考文献
黒田威人「水野源六家と加賀金工(1)」(「金沢美術工芸大学紀要 第35号」P.23-36, 1991-03-01)

黒田威人「水野源六家と加賀金工(2)」(「金沢美術工芸大学紀要 第37号」P.51-60, 1993-03-01)

日置謙/編集『改訂増補 加能郷土辞彙』北国新聞社

石川県/編集『石川縣史』石川県図書館協会

田中喜男「金沢金工の系譜と変容」シリーズ名: 国際連合大学人間と社会の開発プログラム研究報告 1980年 ――日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア経済研究所 デジタルアーカイブス 「日本の経験を伝える」―技術の移転・変容・開発 技術と都市社会 

update 2010/05/18
 金城大学短期大学部美術学科 教授 黒川威人先生から、新たに次の参考文献を御教示いただきましたので追補します。
1.『金沢金工師 水野源六家史料――江戸期金沢ご用職人の創造の原点』 黒川威人著 橋本清文堂(1996.4)(文部省の科学研究費、出版助成による出版)
2.『ホワットイズ・金沢――職人・作家・商人のルーツを探る』金沢学 黒川威人編 前田印刷株式会社出版部(1992.2) 「幻のデザイン都市」黒川威人著
3.『パースペクティブ・金沢――「金沢デザイン」のパースペクティブ』金沢学5 前田印刷株式会社出版部(1993)


●参考WEB
金沢美術工芸大学(藩政時代より加賀金工の中心的な存在であった水野源六家に伝わる鐔・目貫等の刀装具、図案や文書類などの収録品) ■ 水野家資料



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by mizuno_clan | 2010-05-15 13:34 | ★史料紹介

【寄稿15】「金切裂指物使番」にみえる「水野久右衛門尉」(補遺1)»»Web会員««

◆本稿は、さきに投稿した「金切裂指物使番にみえる水野久右衛門尉」の「補遺1」として、新たな資料に基づき次の項目内容を追補した。――

                                            (文責:水野青鷺)

★水野久右衛門尉 ≪考証≫
1.水野久右衛門尉に関する史料
2.来島長親の経歴
3.玄興院について

■補遺1
『時空を超えて――森藩誕生四〇〇年』甲斐素純・竹野孝一郎著 西日本新聞社 2005.05. P.38に、――
[来島康親]正室は、福島正則の養女「玄興院」。彼女の名は「おちゃう」様といい(「秋山家文書」) 、実は福島正則の妹婿水野久右衛門尉の娘である。なお久右衛門は、初め豊臣秀吉の家臣であったが、妹婿の関係でのち福島家に仕えている。
正則が、一五八七(天正十五)年 東予・中予で十一万石を与えられ、伊予の大名となったころから来島家とも関係を結び、朝鮮出兵では、共に伊予の一員として出兵した。 玄興院は江戸にて死去し、墓は東京都港区の青松寺(曹洞宗)と同町[大分県玖珠郡玖珠町]森の玄興院(供養塔)にある。」


――とある。これによると、福島正則は水野久右衛門尉の義兄であり、久右衛門の娘おちゃうは、正則の養女となるが、正則の姪でもある。また、水野久右衛門尉正室のお鍋は、正則の妹であることが判明した。さらに「一五八七(天正十五)年東予・中予で十一万石を与えられ、[愛媛県]伊予の大名となったころから来島家とも関係を結び」とあることから、この頃、福島家は、新領地東伊予と海峡を挟んで近接する同伊予地方領主久留島家との間で、縁戚による一体関係強化を図るため、正則は姪のおちゃうを一旦養女とし、来島通総の次男で嗣子の康親に福島家から嫁がせたものと推察される。その後、徳川家同様に久留島家もまた外戚水野氏の血筋を継承していくこととなる。

【寄稿12】「金切裂指物使番」にみえる「水野久右衛門尉」»»Web会員««


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by mizuno_clan | 2010-05-08 18:21 | ★研究ノート