【講談1】水野氏と戦国談議(第十四回)
中世アナーキーのパラドックス
談議:江畑英郷
前回「共生としての“当”」に対して、高村氏から「当知行」という「言葉自体に『共生』まで遡れるような意味はない」だろうという指摘をいただいた。確かに中世の人々が、「当知行」という言葉に「共生」の意味をこめて使っていたというのは、過剰な深読みであると思われる。しかしながら「知行」の内に、「当」という語を引き寄せる何ものかがあったことは認める必要がある。
多少前回の繰り返しになるが、再度確認しておくと、「当知行」に相対するのは「不知行」である。「知行」は用益権であるがその実態は年貢を徴収する権利だとすると、この権利が行使できている状態と行使できていない状態があるということになる。そしてポイントは、この当知行と不知行という二通りの状態がなぜ発生するのかにある。第十二回でみたように、本郷氏は「証拠が出揃って現状が不法な占拠であることが判明したとしても、状況を改変する実行力が十分ではない」から不知行が発生するのだという。この主張の根底には、権利というものは本来不可侵のものであるが、その権利の侵害を阻止する実行力がない場合は、非本来的事態が発生するという認識が横たわっている。
「不知行」という言葉は、ただ単に「現在知行できていない」という淡々とした事実を語るものではないだろう。そこには権利というものは不可侵で、それが侵害されることがあってはならないという強い主張があり、この言葉は本来の知行者が憤りをもって発するものである。これに対して「当知行」もまた、ただ単に「現在知行している」という事実を表明するものではない。この言葉を発する者は、現在知行していることの正当性を、権利の解釈を変えて主張しているのである。
不知行を憤る者は、時の権力・制度・体制から年貢徴収行為を認定されていることが、「知行」という権利の源泉だと認識している。これに対して当知行を言い立てる者は、権利とは認定などではなく、不断の行使によって維持している事実こそが権利を生むのであり、それは目に見えるものなのだと主張するだろう。したがって当知行者と不知行者は、ともに同じ権利観に立って知行する権利が自分にあると言い合っているわけではない。認定に根拠をおくような目に見えない権利、証書一枚で何でも通ると思っているような既得権者に対する反撃が「当知行」なのである。しかしこの「当」は、暴力的な実力で横取りすることを正当化するものでもない。権利の対象となる益が発生する現場において、その益発生に主体的に関わり、その獲得に継続的に貢献している事実こそが社会において優先されるべきであるという、分配に対する本源的な問い直しの中から「当」は生まれたのではないだろうか。
認定としての権利こそ正当であるという主張と、権利は主体的な関わりから自然的に獲得されるものであるという主張が並存していたのが中世社会である。このような社会のありさまを、別にアナーキーな社会と呼ぶことができる。
要するにこの時代、人は自力によって生きねばならなかったのだ。もちろん、史上初めてイエというものが姿を現わし、農業のみならず商業、漁業においても惣村が成立していたこの時代にあっては、人はすべて集団に属することによってのみ初めて人として生きることができた。戦国社会はこのように集団的な自力救済権がせめぎ合う乱世だったが、そのような自力救済的世界は戦国期以前からの、いいかえれば律令的統一国家体制の解体後の日本中世の根本的特徴だった。戦国期のアナーキーの前には鎌倉・室町のアナーキーがあった。
(渡辺京二著『日本近世の起源』)
アナーキーの辞書的意味は、「無政府・無秩序の状態」である。しかし社会において秩序がまったくない状態というのはおよそ考えがたいことで、統一的・一元的な秩序状態ではないというのが実際であろう。無政府というのも統一政府がないということであって、秩序形成・維持の機構がまったくないというのも、これまたありえないことであろう。さらに考えてみると、秩序形成・維持の機構が複数並存している場合でも、それぞれの秩序形成力・維持力が強力であれば、それをアナーキーと呼ぶことは妥当ではない。そして鎌倉期、室町期、戦国期がアナーキーであるとは、実はこのどちらの意味でもなく、秩序形成力・維持力が抑制され、自力救済の原理が強く働いていたという認識に基づいている。
中世においても一般の土地売買や貸借は、支配者の利害に抵触しない場合、私法的な行為として基本的にその関与の埒外にあったといえる。(中略)一般的にいえば、領主は自らの公共性を意識し、裁判において自身の荘園法や上位の幕府法のみならず在地の慣習法にも依拠しつつ、「合理的」な決定を下すべく努めていたとみてよい。ただし中世の裁判全般に該当することだが、この領主の裁判はいわゆる職権主義とは正反対の性格を有し、自身以外の各種裁判と共存的であった点には留意したい。つまり、領主は在地の問題に介入的ではなく、下位権力で解決できる問題は基本的にその自律性に委ねられ、このことが中世後期に在地裁判の発展を促す重要な契機となった。
(『中世・近世土地所有史の再構築』-中世後期における下級土地所有の特質と変遷 西谷正浩著)
「自律性に委ねる」という権力は、自らの秩序形成に対して抑制的であるということである。それが秩序形成に対する技術の低さとか強制力の弱さという点にあるというよりも、社会に既に存在している慣習・習俗、地域的な秩序と共存的な性向をもっていたことからきているのではないだろうか。先に述べた二つの権利観が並存できているのも、多様な秩序を抱えながら社会が成り立っている中世ならではのことなのだと思える。しかしこのように中世社会が多様性・多義性を許容する社会であったのはなぜなのか、次にその点を考えてみよう。

史料②は、海老江村の久太夫が、隣村の坂井市左衛門に対し、「辰ノ年大込ニ而我等□□米無之候」という状況のために、土地を売却してその代を調達しようとした売券である。ここでは、「貸シ手無御座候間、貴殿へ無心申」と、実際に土地を担保に米を貸してくれる人が村内や周辺にいなかったために、隣村の有力者を頼み土地を売却していることがわかる。この文言からは、売買の主体は売主側にあったといえよう。この時期の売券には、「其方頼」「貴殿頼」、という文言が書かれる史料もみうけられる。これらについても、史料②のような状況をふまえて考えれば、売主側が買い手を探して、有徳人を「頼」んで売買・貸借をしていたと読むことができよう。
このことは、売買・貸借契約自体が売主・借主の「無心」を基本に成立する契約であったことを示している。しかも買主は、「貸シ手無御座候」という文言からは、土豪が進んで買うというよりは、頼まれたので買得したという状況を読み取ることができる。したがって、これまで土豪の土地集積とされてきた状況は、村や地域の人々が求める金銭の工面に応じたために、土豪のもとに集まってきたものであり、その意味で土豪の融通の結果であったといえよう。
(『中世・近世土地所有史の再構築』-売買・貸借にみる土豪の融通と土地所有 長谷川裕子著)
これまで買得地について何度も触れてきたのであるが、それとして明言しなかったので漠然と市場売買を前提に理解されていたのではないかと思う。確かに市場における売買として土地取引がおこなわれていたのであろうが、ここに示されているように市場外の売買、それも貸借を基本とした取引があったという指摘は非常に重要ではないだろうか。なぜならば、土地取引においても市場売買と私的融通というような多様性が認められ、そこに土豪と百姓の「村の成り立ち」をめぐる関係が浮き彫りになっているからである。
以上から福永氏の融通は、米を主要な融通物として、売買・貸借をつうじて投下すると同時に、他村の土豪や商人から銀子を借用および換金といったかたちで調達し、村内百姓に貸し出していたことが明らかとなった。このような融通システムは、村にとって、また村人にとって、さらには地域の人々にとって、「村の成り立ち」を確保する一つの方法として位置づけられていた。そして、年貢納入期における融通はもちろん、それ以外の当座必要な米や金・銀の調達も、福永氏のような土豪の機能の一つと認識されていたのである。土豪の収入のうちから米や銭を村や個人に投下できる、また他村の土豪から借用などの方法により調達できることが、村落や地域における土豪の主要な存在理由だったといえよう。
(前掲書)
前回「共生としての“当”」というタイトルを掲げたが、ここにみるような知行者である土豪と村落百姓との関係は、その共生関係そのものではないだろうか。そして長谷川氏はここに「融通」という言葉を提示しているが、これは市場取引に相対する概念として理解したい。
市場で取引されるのは商品である。そして商品は、無名の取引場に出された無名の交換価値である。ここで無名といっているのは、より有利な交換だけを原理として、その取引する売り手と買い手は意識されないことを指している。誰が売り手であるとか、誰がそれを買うのかなどは一切捨象され、ただその交換がより有利であるかだけが市場取引では問われるのである。これに対して「融通」は有名性が原則である。融通の辞書的な意味は「金などをやりくりして貸し借りすること」であるが、長谷川氏の掲げるのは「村の成り立ち」を確保する融通である。それは双方の顔がみえているだけでなく、互いにある信頼にもとづいて互助するような取引なのである。そこでは誰が誰に貸すのか、それが何よりも重要なのである。
このような「融通」は、親しい間柄における貸し借りを思い浮かべればわかりやすいかも知れない。借り手は借りようとする相手とは親しい関係であることから、彼が頼りになる(財力がある)ことをよく知っている。そして自らの窮地を必ずや救ってくれる、信頼のおける相手であるとも思っている。そして貸し手は借り手の生活が気がかりであり、できることならいつでも手を貸したいと思っている。こうした両者の間における貸借は、当然利を媒介とした取引ではなく、信頼と互助を基礎とした紐帯の確認なのである。ここでおこなわれる「融通」は、辞書にあるもう一つの意味である「とどこおりなく通ずること」である。「融通が利く人」などという用法での意味で、杓子定規とかステレオタイプ(型にはまった)とは正反対の意味を帯びる言葉なのである。
知行者と耕作者の間を媒介していた勧農があって両者が共存していたのであるが、耕作者を含む生活集団である村の人々の個人生計まで踏み込んで考えてみれば、貸借は必要不可欠であったであろう。中世の村人には、現代のサラリーマンのように月々固定収入があるわけではなく、季節の収穫から金銭的収入をえていたのであるから、収入の合間の支出は借金でまかなわれることになる。次の表をみてもわかる通り、収穫期の九月と十月に返済が集中しているのはそのためである。この表の月欄に「夏」とか「秋」とかあるのは、何月かは不明で季節だけ判明している返済数をあらわしている。

こうした「融通」を深く含みこんだ社会というものは、個別の事情というものを重視し、それらを総合し抽象化することで切り捨てるようなことはしない。反対に、強力な秩序形成を有する社会とは、多様性を排除して一つのルールに収斂させる力が強いものである。そして一つのルールに収斂するとは、明示的で他とまぎれがないこと、常に一義的で前後が明らかなことである。個別状況に対して柔軟な一義的ルールというのは背理ではないが、実際のところは杓子定規やステレオタイプに陥りやすいものである。
『徳政令』の著者であった笠松氏は、「折中の法」というものが中世社会に広くいきわたっていたと述べている。争論の中間を判決とすることが最も真理に近いというこの観念は、非常にアバウトでルーズなものであるが、「融通」に響き合うものを帯びている。これこそが唯一の正当なるものという観念に疑念をはさみ、人智の限界をわきまえ、常に個別状況に最も適合的であろうとする姿勢をそこに見出すことができるような気がする。こうした社会的な風土が中世には色濃くあったのであり、それが諸制度や秩序に対する多様性や多義性を許容する源となっていたのではないだろうか。
かくして戦国期を含む中世のアナーキーは、制度や法理によって守られることがないため自力救済とならざるをえないのであったが、その自力とは個々人ばらばらの自力ではなく、支え合う自主的な集団を形成させ、制度や規則を媒介としない人と人との紐帯を強める結果となったのではないだろうか。「融通」によって結ばれる土豪と村人の関係は、市場貸借に比べてアバウトでルーズあるが、それは根底に「共生」があったからこそである。「共生」関係においては杓子定規な秩序は必要とされず、認定に依拠する権利の主張もない。そして中世権力は非力であったから社会をあまねく覆う秩序形成ができなかったのではなく、この社会の根底にある共生関係と調和的であることを選択し、制度を通しての介入に抑制的であったのだと思われる。
アナーキーは混沌である。しかし中世の混沌は混沌のままで自律していたのであり、制度が与える秩序による他律に依存することなく、主体的な自律を引き出している分だけ「無」ではなかったのである。
by mizuno_clan | 2009-05-05 12:39 | ☆談義(自由討論)
