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東粂原村と水野十郎左衛門成之

                                   投稿者:水野青鷺

  

 江畑委員が連続投稿されておられる「水野氏と戦国談議」の中で、第十回から「当地行」について論じておられますが、水野氏史研究の一環として、今般水野氏の中で最も有名な一人であるお馴染み「旗本水野十郎左衛門」の「給知」について興味を持ち調べ始めました。
 本談議の給知の時代からは、かなり時代が降っており、本談議とは大きく離れ、殆ど関係ないことで誠に恐縮ですが、次の時代である江戸初期の「給知」についても、今後給知を考えていく上で何かのご参考になれば幸いと思い投稿しました。

 以下は、――
1.宮代町郷土資料館(埼玉県南埼玉郡宮代町西原289)ホームページ
2.『宮代町文化財調査報告書第十二集』「東粂原村岡安家文書」宮代町教育委員会編
を参考資料としました。




 天正十八年(1590)、小田原北条氏が豊臣秀吉により滅ぼされると、駿河から徳川家康が関東に入封した。慶長八年(1603)には、家康は征夷大将軍に任じられ、江戸幕府が開かれた。この時、粂原村の一部(西粂原村)と須賀村の一部は、岩槻藩主高力淸長の支配下となったと推定され、残りの粂原村(東粂原村)は天領に属した。一方、百間村と須賀村の一部は、文禄元年(1592)、岩槻城主高力淸長と縁戚関係にある旗本服部権太夫政季・政信父子の支配下となったが、元和五年(1615)、近江国今切の関所番となり同国敷智郡に移された。
服部氏が百間の地を離れたため、百間村や須賀村の一部は天領となり、天領であった東粂原村や蓮谷村、和戸村国納村、吉羽村、吉羽西村と共に、同年百間領五千石の検知が行われた。江戸幕府開府に伴い、旗本達は主に江戸近在に知行所を得ることになったことから、当村々もまた旗本達の給知となったと考えられる。
寛永元年(1624)、この百間領五千石の配分については、備後福山藩主水野日向守勝成の三男旗本水野出雲守成貞に、東粂原村、和戸村、蓮谷村併せて千石、旗本池田帯刀に後の百間中村、百間中島村、須賀村の一部を併せて千石、旗本朽木民部に後の百間村三組(木村・西原組・金谷原村)分として千石が与えられ相給村となった。国納村、吉羽村、吉羽西村併せて千石が天領として残った。
 粂原村は「武蔵国田園簿」によると岩槻藩領として三百十一石二斗二升七合、旗本水野氏領として三百五十石が確認できる。
 旗本水野氏知行地の東粂原村は、元禄六年(1693)の「騎西領落堀堰論裁許状」などで確認できる通り百間領に属した。慶安三年(1650)、水野出雲守成貞は福山で没し、その子水野十郎左衛門成之が継嗣したものの、寛文四年(1664)、病と称し出仕を怠ったことから切腹を命じられ改易となった。東粂原村と和戸村・蓮谷村の領主であった旗本水野十郎左衛門の改易により、これらの村々は天領となった。このような事情や、江戸に近いこともあり各村々は、旗本領や直轄領(天領)、藩領などが複雑に入り組んでいた。
なお、宮代町郷土資料館ホームページでは、――
国納村と和戸村については、「和戸村国納村古来一村ニ御座候而田地入合申候」(鈴木家文書)とある通り、元々、一村であったものが、その後分村したことが分かる。村の分布状況としては、和戸村の中に国納村がある状況で、南の字沼端と北の字八河内にある程度纏まりがあって存在する。これは集落との関係と考えられ、二字に人家が集中し、そこに住む百姓が地先を開発した結果、周囲に飛地がある状況になったと推定される。
国納村と和戸村の分村については、その分布状態が百間村に類似すること(国納村の分布状態が中心集落からその隣接部)から、元和5年(1619)の検地の後、寛永元年に和戸村が旗本水野氏に与えられたことと関係があるのかもしれない。――と記されている。


[註]
相給=1つの村に複数の領主が支配することを相給と呼ぶ。また、3人以上の領主がいる場合、それぞれ、「三給」「四給」「五給」と呼ぶこともある。
 宮代町域では百間村が三給(元禄十年の分村以前の百間村では五給)、須賀村が三給、久米原村が四給、和戸村が二給、国納村が三給となっており、非常に錯綜とした状況を読みとることができる。





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2009/05/24追記 & 2009/06/08追々記掲載

『旗本領の研究』若林敦之/著 吉川弘文館 1987.05
第二章 旗本領と相給
四 遠江国佐野郡高御所村や相給村の年貢収取

 高弐百五石八斗三升三合   (横須賀藩主)西尾隠岐守領分 〇白  158カ所
 高百七拾石壱斗五升五合    (旗本)城織部知行所       〇黄  175カ所
 高百六拾六石六斗五升三合  (旗本)近藤主殿頭知行所    〇赤   59カ所

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by mizuno_clan | 2009-05-23 12:02 | ☆談義(自由討論)