【談議1】水野氏と戦国談議(第十六回)
貸借と売買(インセスト・タブーと永代売)
談議:江畑英郷
勝俣鎮夫氏はその著書『戦国時代論』の中で、「現在残されている中世の厖大な量の土地売券の主たるものは、名主職などの農民の所有する土地の用益・耕作の事実と不可分の関係にある職の売券であって、これらの売券からは直接土地そのものを売ったのか、職にもとづくその土地からの一定の収益のみを売ったのか弁別しがたい面がある」と述べている。一口に土地の売買といっても、現代の不動産売買を念頭において考えていたのでは、この時代の実態を見誤ると勝俣氏は言いたいのではないだろうか。この時代、あるいはその後現代までも含めて、土地は社会の最重要基盤であった。特に農業は土地と不可分の関係にあり、食糧のみならず第一次産品の多くは農業が生み出していたのである。その基盤である土地が売買という経済行為の中に投げ込まれ、社会を支える生産活動とは別の次元で時代を動かしていた。
戦国時代は武士たちが所領の争奪を全国的に激しく展開した時代であるという認識があるが、所領すなはち土地・耕地は経済的な売買活動によってこれまた激しく揺れ動いていたのである。食糧や各種の原材料を生み出す土地は、農民による耕作の対象であり、武士たちの争奪の対象であり、売買の対象でもありと多様であるが、土地売買自体もさらに多義的であると勝俣氏は主張するのである。
通常、作人の改替権を合む土地所有権の売買と、売主が作人として土地の耕作を継続し、その職からの収益権を買主が買う売買との二形態があり、中世後期農民的職の成立にともなって後者が一般的な形態となったとされている。当時の土地売却主体である農民にとって、その作成した売券の記載から、両者はともに同じく土地の売買と考えられていたことは間違いないが、にもかかわらず、現代的観点からいえば、厳密にその売却対象は、職の売買・土地の売買と区分する必要があるであろう。
近江の戦国大名浅井氏が一五五一(天文二十)年に出した徳政令(菅浦文書)は、永代売田畠を徳政令の対象としていないが、その第七条に「一職は永代売券たりといえども、五年以来は棄破有るべし」と、五年以内に売った永代売却地の売主への返還を定めている。この例外事例の承認は、この売却対象が「一職田畠」であることにもとづくものであり、この「一職田畠」とは、この条文のなかで売買にともなう耕作の交替の問題を定めているから、現実に占有し耕作する所持田畠と規定できる。このように「一職田畠」を解するならば、この徳政令で一般的に対象とされている売買田畠は、職にもとづく収益権であって、その永代売は徳政令の対象とならなかったことが判明する。そして、耕作・用益の事実にもとづく所持田畠のみが、五年以内の売却という時間的限定をつけられながらも、本主に返還されたのであり、ここでは、職の売買と所持田畠の売買の相違を明確に区分していることが知られる。(中略)この徳政令で永代売田畠が戻らないことを原則としているのは、同じくこれらの売買対象が収益権として動産的性格をもつと考えられたためといえよう。これに対し、「一職田畠」が永代売でも徳政令の対象になった理由は、それが土地そのものの売買であったためであることは確実であり、さきに見た売却地にはなおその元の所有者の本主権が残るという土地所有観にもとづくものであろう。
(『戦国時代論』)
ここで勝俣氏は「農民」という言葉を使っているが、これは田畠の直接耕作者を指しているというよりも、作職保有者という意味で使われていると思われる。この作職については、一般的に次のように説明される。
百姓の土地に対する権利が下級所有権、つまり「私領」として成立した。下級所有権は「作手・作職」と称されることが多いが、その名前が示すとおり、耕作権としての属性を本義としつつも、初発段階から地主制的な構造を内包する-つまり、別に直接耕作者を抱える-ことが少なくなかった。
(『中世・近世土地所有史の再構築』-中世後期における下級土地所有の特質と変遷 西谷正浩著)
ここで勝俣氏は、「職の売買と所持田畠の売買の相違」が中世には明確に区別されていたと指摘している。そしてこの年貢収納権と土地そのものの売買の区別は、単に取引対象の質が異なるというだけではなく、徳政令の対象になるかならないかの違いでもあったという。「耕作・用益の事実にもとづく所持田畠」の売買は徳政の対象となり、「五年以来は棄破有るべし」であったが、職の売買については売買事実が認定され、売主に戻されることはなかったである。このことを言い換えると、永代売りとされた売買であっても「当知行」地は取り戻しが可能であるが、「当」に当らない知行権の売買は復帰されないということである。
この職=知行権の売買と、現実に占有し耕作する所持田畠=当知行の売買との扱いの違いは、前者が動産的性格の売買と捉えられたのに対して、後者には不動産固有の所有観が背景にあり、それがために徳政において措置が分かれたというのである。この土地所有観について、勝俣氏は同書で次のように説明している。
屋敷や田畠には、それを開発した人の血の汗が浸みて、死後もそこに魂がのこるという、開発したものこそ、その土地の本来の持主(本主)であり、その土地の所有が他家に移転してもそこに魂ののこる潜在的所有権があるという土地所有観念は、わが国のひとつの土地所有観念として、前近代をとおして一貫して流れるものであった。
この談議の十三回では、「中世の所有観念には、権利であることの前に、その対象との共生、“もの”との本源的なつながりが内包されており、“当”という用語はまたその本源性への回帰を表す言葉でもあった」としたが、勝俣氏は土地と所有者の魂の通い合いという精神的次元をその観念の中に読み込んでいる。これはこれで売買によっても断ち切れない本主権の存在理由なのであろうが、やや呪術的色合いが強く、人によってはこれをもって中世所有観の後進性と受け取るかも知れない。そこで中世所有観念に対する、もう少し合理的な形成背景の説明を試みたいと思う。その第一歩は貸借と売買に関して考察することである。
その売却は、質地にする売却、すなわち一定期間の占有権の譲渡であり、真の所有権は本主にあるという考え方にたつものであった。おそらく、この敷銭による土地売買こそ、わが国固有の本来的売買であったといえよう。そして、このような観念は、現実に土地を占有し土地を耕作・経営する人々に強く流れ、それが動産における所有権の移転をともなう売買観念が浸透し定着しても、なお土地においては売買と質入れとの区分をあいまいにし、また本銭返売・年季売などの特殊な土地売買形態を生みだしたといえる。
(『戦国時代論』)
勝俣氏は、たとえ永代売買と明記してあっても所有権は本主から移転することはなく、質入と同義の実質をもつ取引であったと述べている。そして質地の質流れは、「質置人があらためて放状を出さないかぎり質は質でありつづけるのは定法」だったとしており、「質である以上、契約の約月にかかわりなく、質置人がこれを質であると認定して取戻そうとしたときは、いつでも請戻すことができ」たと述べている。質に質流れがないならば、それは永遠の貸借ということになる。第十四回「中世アナーキーのパラドックス」では、土豪と村人の間の「融通」について考察してみたが、こうしてみると土地そのものは貸借の対象とはなっても売買の対象とはならないという原則が中世を貫いていたように思える。土地という中世における最大の社会基盤は、貸借されることで社会の潤滑を促していたということであろうが、どうして貸借が売買に優越したのであろうか。
ところで、信長の日常を伝える次のような史料があるが、少し寄り道をしてこの礼状について考察してみたい。
竹の事を申し候の処、弐十本給い候、祝着の至りに候、猶浄□申すべく候間、省略候、恐々謹言、
三郎
七月廿八日 信長(花押)
浅井源五郎殿
この史料は、所望された竹を浅井源五郎が快く譲ってくれたことに対する信長の礼状である。この何の変哲もない礼状を見たとき、実はふと違和感を覚えたのであるが、それは所望の対象が竹二十本であったことにある。この礼状に年の記載はないが、『織田信長文書の研究』(奥野高広著)では年次を天文二十一年としている。この年は信長の父信秀が死去したと一般に考えられ、信長は弾正忠家の家督を継いで那古野城にいた。
この礼状に対する『織田信長文書の研究』における奥野氏の解説は次の通りである。
信長が三郎と称したことを確証できる古文書である。この花押の形状は七号文書と同じである。浅井氏は、いまの名古屋市熱田の豪族であろう。源五郎は浅井氏七代の充秀である。竹を求めたところ二十本を提供されたについての礼状である。竹は軍需資材にもなる。八月十六日に坂井大膳と甚助らを攻撃した軍事行動に関係があるとも考えられよう(『信長公記』)。信長の父備後守信秀も浅井藤次に対して大竹十本を贈られた礼状を与えている(『浅井文書』)。
ここで奥野氏は、信長が「三郎」であったことがこの礼状から確認できることを重視しているが、それ以外にこの礼状は特に言及することはないとみている。「竹」については軍需物資であったということで、信長が軍需の必要から調達したと受け取っているようだ。この礼状の文面からすると、どうやら相手の好意によるもので何か売買があったようには思われない。贈呈ということであれば二十本というのは別におかしくもないのであるが、それが清洲の守護代との緊迫した情勢下の軍需調達に絡むとするならば、あまりにささやかな贈り物ではないだろうか。
大名や領主はこの時代、相手から頼まれて制札を与えることが度々あったが、その中に「竹木を切ってはならぬ」という文言が意外に多く含まれている。これからすれば竹木は、確かに現地での軍需に諸々役立っていたようであるが、信長は別にどこかへ出陣して急に竹が入用になったというのでもなさそうである。「竹の事を申し候の処」という表現は、何かのついでに話題になったというニュアンスである。信長が「竹が少々不足してな」などと口にしたということであろうか。それを聞いた浅井源五郎が気を利かせて竹を都合したのであろうが、それが二十本とはいかにも少なすぎると思うのである。二十本の竹の不足に信長が頭を痛めていたとは到底考えられないことで、なぜ「竹の事を申し候」だったのかが妙にひっかかるのである。
また奥野氏の解説によれば、信秀のときは十本という贈呈もあったというが、これはさらに数が少なく、そういうものかと思えば素通りしてしまうのであるが、尾張随一の実力者に対する贈呈品としては奇妙なほど過少である。そこで信長や信秀への贈り物がただの竹十本二十本であったことに少しこだわって、以下でその理由について考えてみたい。
文化人類学者のクロード・レヴィ・ストロースは構造主義のエース的存在であるが、彼の最初の業績は親族の基本構造を分析することで始まった。
親族の基本単位は資源的でありかつこれ以上分割しえない。それはこの基本単位こそ、世界中すべての場所に観察される、近親相姦の禁止の直接的な結果だからである。
(『構造人類学』クロード・レヴィ・ストロース著)
インセスト・タブー(近親婚の禁止)は、人類社会に普遍的に存在する唯一の規則であるとされるが、それが何のために存在するのかについてのレヴイ・ストロースの考えは次のようなものである。
レヴィ・ストロースは、インセスト・タブーとは、自集団の女性を他集団へ贈与せよという「交換の命令」なのだという。姉妹や娘といった自分たちの集団のなかの女性との生殖行為を禁止するこの規則は、それら近親の女性たちとの性行為による自集団の再生産を放棄する規則である。つまり、それは、わざわざ自集団に、生殖行為をする相手の女性の「欠如」を作り出して、自集団の再生産を他集団からの女性の贈与に依存せざるをえなくする規則なのである。しかし、自集団の女性たちを他集団に譲渡することを命令するこの規則は、同時に、他集団が譲渡せざるをえない女性たちを自分たちが獲得できるようにしてくれる。つまり、この規則は互酬性を生成する規則なのだ。
(『レヴィ=ストロース入門』小田亮著)
今日、インセスト・タブーが存在する理由に対する通俗的な理解では、血族結婚のもたらす優生学的・遺伝学的な弊害にあるとする。しかしそうした遺伝的な弊害を意識した古代の記録は存在せず、また現代においてもこの弊害は証明されていないという。古代から存在しているがために、この社会ルールの存在は現代科学では説明できず、また現代においても遺伝的弊害説は推測に過ぎないのである。人類社会の普遍的なルールとなっているインセスト・タブーは、社会集団によって近親の定義が様々であるが、レヴィ・ストロースは構造主義の手法を使ってそこに一貫した構造を取り出してみせた。それは女性は近親者ではない他人から与えられるものであるという自戒であり、その自戒によって集団間で女性の相互贈与(交換)が繰り返されるというものである。
重要なのは、この社会にとって原初的な互酬的交換は、自律した主体に欠如があって、それを補うために主体が合理的に計算しながら他の主体と交換を行なうといった経済的な交換ではないということである。そのような経済的な交換では、同じものを交換しあうことなどありえない。それは何の経済的利益ももたらさない。しかし、インセスト・タブーによって生成されるこの互酬的贈与交換は、女性を譲渡し女性を獲得する、「同種のものの交換」である。そして、社会を生成する互酬的な交換は、このような同種のものの交換であり、「交換のための交換」(関係をつくるためだけの交換)なのである。そのことを理解しないために、他の人類学者たちは、それを女性と婚資(妻の貰い手から妻の与えてに支払う財)との交換、つまり牛などの財で女性を「購買」する交換と捉えてしまっているが、そのような交換では社会的連帯を作ることができないのである。
(『レヴィ=ストロース入門』)
「関係をつくるためだけの交換」がインセスト・タブーが志向するものであり、それによって「社会的連帯」が作り出されているという。ここで「交換」という言葉が使われているが、集団が女性を同時に交換しているのではない。インセスト・タブーが生み出す交換は実際には時間的にズレた交換であり、それは「贈与の応酬」に他ならない。そして同種の交換なのだから交換自体には意味がなく、それによって集団間の関係が構築され、その関係が維持されることにこそ意味があるのである。
贈与というものは、それを受けたことで生じる不均衡を回復させようとする力を引き出す。しかも反対給付として贈与が返されることで均衡が回復されるのではなく、それが再び反対給付を生み出すといった循環となる。インセスト・タブーが単なる交換ではなく、「贈与」である理由がここにある。贈与をするのも受けるのも、互いに紐帯が継続することを承知の上のことなのである。そしてこの紐帯は形が曖昧で、ある種の際限のなさの中にあるものである。
信長や信秀に贈呈されたただの竹十本ないし二十本は、軍需的効果も経済的効果もそこにあったとは考えがたい。それは贈呈側と信長や信秀の間に継続していた紐帯の断片なのである。贈呈側の浅井源五郎は熱田の須賀浅井家の当主であるが、『新修名古屋市史』では充秀ではなく玄秀だと書いている。いずれにしても浅井源五郎は熱田の有力者である。織田弾正忠家と熱田との関わりは、織田信秀が天文七年に今川那古野氏から那古野城を奪い、ここに本拠を移してきたことに始まる。そしてその翌年、信秀は加藤延隆に諸役の免除・徳政や関所適用の免除を保障する書状を与えている。これをもって『新修名古屋市史』は、「天文七年の那古野城攻略後、信秀の勢力が熱田にまで及んできたことを示す史料」であると述べている。それ以来、信秀そして信長は熱田の有力者と深く結びつくのであるが、武家領主とその支配下の町という規定には収まり切らない関係がこの贈与に顕れているように思える。あまりに少ないただの竹の贈呈と、それを「祝着の至りに候」と受け取るやり取りに、漠として際限がなく、それでいて止みがたい関係が示されているのではないだろうか。
さて、ここで戦国時代も含めた中世社会において、貸借が売買に優先したというのはなぜなのだろうかという問題に戻ろう。貸借と売買の違いの一つは何かと考えてみれば、それはその当事者間の関係がごく一時的なものであるか、それとも一定度継続的なものかの違いであろう。貸借においては、借り物が不要になるまで借主と貸主の関係が継続することになる。それに対して売買は、その取引の間だけの関係であり、売買が成立すれば両者を結びつけるものは何もない。
貸借にせよ売買にせよ、必要な物の余剰と欠乏があるからそこに取引が成立するのであるが、その余剰と欠乏を結びつけるメカニズムは後になって出来上がってきた。そのメカニズムとしての商品市場が出現する前は、見知った者どうしの間で余剰と欠乏が出会い取引が為されていたはずである。そして既に関係が形成された者どうしの間に余剰と欠乏が生じた場合、先のレヴィ・ストロースの知見に習えば、持てる者から持たざる者への贈与がそこに現れるのではないだろうか。レヴィ・ストロースの知見を拡大すれば、社会には関係を築き継続させようとする無意識のメカニズムが常に働いているということになる。そして関係とは静的に結ばれた線といったものではなく、絶えず互いの間を循環させるようなものということである。すなはち、余剰と欠乏の間を循環させることが社会の関係の根本でもあるが、循環そのものに意味があるとするならばそれは贈与となるはずなのである。
関係が形成された者どうしの間で余剰と欠乏が生じた場合、反対給付を強く促し関係を継続強化させる贈与が為されるのはごく自然なことのように思われる。最も関係が深い親子兄弟の間などでは特にそうであろう。無償の貸借はこれに次ぐもので、貸借期間中は貸主と借主に貸借物を介した特別の関係が形成されるし、返却後も贈与のような不均衡回復の力が働くことであろう。そして有償貸借は、一種の反対給付を含んだものとして理解することが可能である。このように贈与と貸借は既知の人間関係において、その関係継続と強化の流れに沿うものであるが、一方の売買は事情がまったく異なる。
売買の本質は、取引当事者の関係を継続させないことにある。売買関係はその場限りに成立し、後くされがないのである。売買のおいては一切の取引以外の関係が捨象されるため、双方が自身の意志で純粋に交換をおこない、売る側・買う側ともイーブンの結果を得ることができる。贈与や貸借は反対給付を強く促すという不均衡関係を前提とするが、売買が売買であるのは双方が取引の前後において対等関係であることにある。レヴィ・ストロースの知見の核心は、人間関係は不均衡であればこそ循環して継続するが、対等・均衡であれば関係は継続しないという点にある。これは互いを引き合わせる力の所在の有無をいうのであって、原理的に対等・均衡にはそれがないと言っているのである。友人関係や恋愛関係は対等じゃないかと思うかもしれないが、相手に魅力を感じているというのはそこに不均衡があるということである。したがって売買は、対等取引であるがために関係継続の契機が存在せず、その場限りの関係に終るのである。
こうして考えると、生存を共有する集団内部での贈与や貸借に対して、そうした既知の関係が成立していない離れた取引相手との余剰・欠乏を均衡させるための手段として、売買が登場したのではないかと思われる。あるいは既知の関係者どうしの間で、意図的に関係を切断した中で取引をおこなうために、売買という余剰・欠乏の均衡手段が成立していたように考えられるのである。濃密な関係においては贈与と貸借が余剰・欠乏の均衡手段として中核となるが、未知の関係、あるいは意図的に関係を遮断した場においては売買が中心となる。現代の市場貸借は「貸借」という言葉を使うが、無名の場である「市場」における貸借である限り売買と同質である。贈与と売買は所有権と使用権が同時に移転し、貸借は使用権のみが移転する。しかしその取引を為す主体関係に着目すると、贈与と貸借は既知の関係内取引であり、売買は関係不問の取引として規定できるのである。今日的な理解で言えば、取引とは所有権や使用権の移転交換と規定されるばかりで、その取引の当事者どうしの関係は捨象される。それは「取引」という言葉が、「市場取引」に限定された経済用語になってしまったからである。この談議の第十三回でも「融通」という概念を通して、村社会の中の紐帯とその継続への志向力を確認したが、市場経済が社会の中心に据えられていない時代、「取引」は誰が誰との間で行なうのかが重要だったのである。
中世・戦国社会においてなぜ貸借が売買に優越するのか。その答えは、一切を捨象した権利の移転としてではなく、主体関係を軸にして取引が観念されていたからということになるだろう。そしてその主体関係は、生存の場を共有することに源泉があることによって、曖昧で多義的な性格を帯びている。したがって区切りを付けることには本来向いておらず、売買には適さないのである。取引主体の関係が曖昧で多義的なままということは、その取引以外の関係が混入するということであり、その取引だけを切り取って扱うことが難しいということである。例えば親子や兄弟関係であれば、「水くさい」などと言い出す場合があり、それで条件を明確して後くされがないようにするなどはまず無理なことだろう。そこで売買を成立させようと思えば、親子であるとか兄弟であるといった関係を捨て去る以外にない。しかしそれも難しいのが親子・兄弟の縁というものであるから、仮に「売買」だと称しても実態は貸借であったりするのである。「永代売」の文字があっても、実態は貸借であった中世・戦国期の取引は、それと類似したものであったと考えても無理はないようである。
(補足記載へ)
by mizuno_clan | 2009-06-21 14:56 | ☆談義(自由討論)
