江戸幕府幕閣・幕臣水野氏在職表[第2版]2/3

●職制――――
[老中(ろうじゅう)]
 大老の下に属するが、大老を置かない時は幕閣の首班(第一位の席次)であり、現在の国務大臣に相当する大政に預かり、庶務を総理しその職務は広い。徳川家では始めは年寄衆といい、一万石以上の譜代大名から補したが、後には二万五千石以上となった。定員は四人か五人で、月番制で毎月交替した。大名として最高の役職。
三代将軍家光の時に職制を改めて、皇室、公卿、門跡、大名の事を掌り、奉書に連判し、財務、寺社、大土木の事も掌った。老中となる資格は先祖以来徳川氏に忠勤した十万石前後の譜代大名からとなったが、九州に領地のある大名は国防上の見地から老中および若年寄にはなれなかった。このことこから、老中を目論んだ水野越前守忠邦のように、禄高は六万石ながらも、実高二十万石といわれた肥前唐津の裕福な土地から、表高六万石で内高と差して変わりない、どちらかといえば痩せ地である遠州浜松に敢えて移封して貰ってまで、老中になったという例もある。
 老中の権威は大老に次ぎ、御三家御三郷も会釈するほどであったから、行き会った諸大名は城中でも行列でも道を譲った。そして用向きに関しては国主大名に対してさえ、将軍や大老並みに「その方(ほう)……」と呼んで命令する位の権威があった。故に四、五万の大名でも、何十万石、百万石の国主大名の上に位する事ができるから、諸大名にとっては先述の越前守忠邦の例を挙げるまでもなく、藩士に不自由な思いをさせて官職を得るために手だてを尽くす獵官(りょうかん)運動をしてまでも、老中になりたがった。また老中になっても、羽振りを良くするためには持出し勤めを行ったから、沼津藩主水野出羽守忠成のように、うまく勤めれば加増となるが、そうでないと大名の名誉欲を満足させるだけで、家臣にとっては甚だ迷惑であり、なんとも難しい立場の役職ではあった。
 しかしながら、老中を務めた者は寛永九年(1632)に始まってから、慶応三年(1867)までの二百三十六年間に、百四十五人にも及んでいる。

[側用人]
 側用人とは、君側第一の立場で将軍を補佐する役柄であって、『柳営勤仕録』(*1)には
「御側向御用を掌り、老中伺い等を取次伝達する所の職分なるよし。上の寵遇(*2)の深浅によって、其威儀(*3)も品もあるべき事か」と記されている。
 通常は大名が任ぜられているが、直接将軍に接しているのでその勢力は大きく、老中支配下にはあるものの、時々老中、若年寄もその勢威に屈した。この顕著な例として、柳沢吉保は綱吉が五代将軍となるに随って保明も幕臣となり、綱吉の寵愛により頻繁に加増され、やがては側用人に就任し、老中の上にあって内外の政事に関係していた。待遇は老中並みで通常は御側衆から選ばれる。駿河沼津藩主水野出羽守忠友、出羽守忠成父子は、若年寄から側用人となり、さらには老中まで昇り詰めた。

[若年寄]
 大老の名称に対しての呼称として『藩翰譜』や『徳川実記』には、小老と書かれており、この若年寄という呼称は、老中を年寄衆と呼ぶこともあるのに対し、若い、つまり順序を示す数値が小さいということから、その次席という意味で用いられたものである。
また『松蔭日記』などには、執事および参政と書かれており、これは老中が執政ともいったのに対して、役職上参政といったのであろうとされる。
 管轄は、老中が公家大名を所管したのに対し、若年寄は旗本を所管したことから、古くは、「旗本支配」という別称も記録されており、『古老茶話』によれば布衣(*2)以下の旗本の御仕置の場合の申し渡しは、若年寄の邸宅で行うと記されている。
この職に就く資格は、老中と同じく、恩顧譜代の十万石以下の大名で、多くは一、二万石級の者が占めていた。願い譜代になって任命される事があるが、城持ちの城主ではなく、無城の大名である領主から選んだ。若年寄には最初から任命されるものもあったが、殆どは寺社奉行、御側衆、御奏者番、大御番頭などになっていたものから選ばれた。
水野監物忠之、水野壹岐守忠見、水野壹岐守忠韶、水野出羽守忠成、水野左近将監忠精は奏者番から選出されている。定員は四、五名で老中と同じく月番があり、勝手掛、馬掛、女中掛などの各職掌もあった。
 若年寄から老中に直接昇格した者には、水野和泉守忠之が居る。
若年寄は寛永十五年(1638)に設けられてから、明治元年(1868)に廃止されるまでの二百三十一年間に、百二十四人居り、再任者も数名いる。

[奏者番]
 武家の殿中における礼式に関する事を司り、年頭や御佳節(祝日)に、諸侯以下が将軍に拝謁する取次を行い、進物を披露し、上使(*5)に立つ重要な職である。奏者番はあくまで“武家の典礼”のみに限られてはいるが、その服務はなかなかうるさくやかましいもので、新任の者は古参の者に絶対服従であった。筆頭の二三名が寺社奉行を兼任し、筆頭上席の者を御職と言った。准国主が参府または、御暇(おいとま)のときには奏者番は上使として立ち、また諸侯の病気見舞いにも上使として立ち、さらには御三家御三郷以外の、諸侯の死去の折にも上使として立った。奏者番は種々のことを披露するので、その人の氏名官位を忘れないように小さな紙に書いて指の間に挟み、披露の時手をついた時に紙を見ながらいった。これを奏者番の手札といった。古代なら笏紙(*6)、現代ならさしずめカンペと言ったところであろうか。
 奏者番は譜代大名から選ばれ、この職を勤めた者のうち四名は寺社奉行となり、大阪城代、京都所司代を経て老中に昇るものもある。また、奏者番と寺社奉行を兼帯した水野出羽守忠成、水野左近将監忠精、水野出羽守忠忠誠、奏者番と寺社奉行・大阪城代を兼帯した水野右衛門太夫忠春、水野左近将監忠邦といくつかの職を兼帯した例もあり、特に寺社奉行の兼帯が多い。定員はないが、たいていは二十人前後で、その中に肝煎(*7)が置かれて万端を指図した。『明良帯録』(*8)には「言語怜悧英邁之仁にあらざれば絶へず」と記されているように、頭の働きや人格・才知が特別に優れている賢い者でなければ到底勤まらなかった。

[寺社奉行]
 全国の寺社ならびに神官僧侶の統制が主な任であるが、社寺領の人民、修験者、虚無僧や陰陽師らの民間宗教者、楽人、連歌師、古筆見(*9)、碁、将棋の類の芸能民、さらには徳川氏に縁故のある農工商を管轄して、その訴訟を裁判する役目である。寺社の門前地は寺社に付いているので寺社奉行の支配であったが、この門前地に町奉行の手の届かない岡場所という私娼窟が設けられ取締に甚だ支障をきたしたことから、貞亨二年(1745)、門前地に限り町奉行の支配と改め、以降は町奉行の手入れが出来るようになった。ただし犯人が寺社に逃げ込んだ場合は、町奉行から寺社奉行に連絡が入り、寺社奉行がこれを捕らえた。
 奏者番が兼帯し、定員は四名、月番を定めて勤務した。三奉行の筆頭格といわれ、およそ五万石から十万石の大名から選任されたことから、幕府直属の与力同心の配属がないので、家臣を用いてその機能を果たした。家臣から用いる職員は手溜役、寺社役各々四五名、取次十数名、大検使、小検使各々二三名、下に同心十数名で町奉行から比べると意外に少ない。またこれらの職員は主人が奉行を退くと一緒に辞職するので、交替した新任奉行および職員は全く物慣れないので大変なことであった。そこで天明八年(1788)、評定所の留役を寺社奉行所手代として勤めさせ、事務の中断されるのを防いだ。
この留役は、支配留役、さらには吟味物調方と改称された定員の四名は、四人の奉行の内それぞれ一人の奉行に付属し、寺社奉行が替わると、また新任の寺社奉行に付属した。
寺社役は神官僧侶の犯罪を捜査逮捕したり、素行調査を行い寺社領に対する幕府よりの貸付金の調べなどをした。寺社役同心は、寺社領の犯罪の捜査逮捕に当たり、寺社内の興行には絶えず見廻って監督した。取付役は用人などを用い、訴訟を受付け、事務を扱い吟味物調方の下調べに陪席して奉行に上申した。大検使は、寺社役が兼務し、事件における殺傷の場合は出役臨検した。小検使は、町奉行の捕物出役と廻方を兼ねたもので、たいていの寺社内の犯罪を扱った。
裁判については、寺社奉行単独で裁くものを「手限りもの」といったが、町奉行、勘定奉行と共に三奉行合議で裁くのを「三手掛」といい、さらに大目付、目付が加わるのを「五手掛」といった。

[京都所司代]
 朝廷に関する一切のことを掌り、公卿をも監督し、訴訟を聴断(*10)し寺社を支配した。
『明良帯録』に、「四国、中国、九州の要領(要所)なれば、尤[も]重[き]任[務]也、土地の事にも預るなり、非常の備第一」とあり、大名の任務としては西国大名の抑えの要として、幕府重職にあった。
慶長五年(1607)九月に始めて置かれ、奥平美作守信昌がこれにあたった。所司代はこの他にも西国筋の女旅行切手(通行手形・パスポート)の発行をも掌った。つまり江戸在住の大名の妻が密かに西方の領国へ帰国することを防止する役割を果たしていた。
当職は寺社奉行、奏者番から昇進して、先は大坂城代から、若年寄、老中に進む出世コースの道程である。

[大阪城代]
 大坂は軍事、政事経済上の要地であるので、元和元年(1615)六月十日、松平下総守清匡が任ぜられてより、明治元年(1868)に廃止されるまで、六十七人が歴任した。京都と同じく西国に対する抑えとして重要な地点であるところから、常時城内の警備を厳重にし、大阪およびその付近の訴訟を聴断(*10)する役であった。
一万石以上の大名から選ばれるが、これに任ぜられる大名は奏者番か寺社奉行であることから実質五万石以上の者が多く、これを勤めた者は老中に進む道が開ける。勤番中は御役知が一万石付く。赴任に際して従四位に任ぜられ、所司代格で将軍に拝謁した後、黒印を授けられ、刀(代金二十枚)、馬一疋、時服二十領を賜り、旅費として一万両借りることが許される。そして五、六年に一度は江戸へ参府して将軍に拝謁するのが例となっている。
城代の職は将軍に直属しており、将軍の代理的地位であるから、定盤以下諸役人と対する時も一段高い座についた。また大坂町奉行、堺町奉行を監督して訴訟を裁決し、関西三十余ヵ国におよぶ大名封内の事件の裁断を行った。さらには大坂町奉行の目安箱の鍵を預かり将軍代理としてその訴状に目を通した。

[大目付]
 古くは総目付といって寛永九年(1632)に三名が任じられたのが初めで、後には四人または五人となり、弘化三年(1846)には、道中御奉行、宗門御改加役人別帳御改、御日記帳改、服忌令分限帳改、御鉄砲指物帳御改を専任することに伴い、新たに五名増員して十名に及んだ。本務は監察糺弾(*11)で、『明良帯録』に、「動向は諸大名への御触事、御礼席、寄せ差引(*12)、老中方よりの御触事、御規式(*13)にかかりたる御書付は、此役場へ御渡しあり、殿中非常の取計、西丸御殿見廻り、評定所立合等、其外政務筋一なり」とあり、この職のほかに一名ずつが、道中御奉行、宗門御改加役人別帳御改、御日記帳改、服忌令分限帳改、御鉄砲指物帳御改の兼帯を持っていた。
この職に就く事が出来るのは、三千石以上の旗本で、古くは万石級の者からも選んだが、嘉永(1848--1854)頃から適任であれば五百石級からも選ばれた。万石級以上の者を監察する役であるから待遇は万石級で諸大夫(*14)である。
 将軍の代理として、役職に就いている大名及び旗本を監察する立場であるから、御目代ともいい将軍に直訴することができるから、老中の支配下にあっても老中も監察される立場にあった。また各藩の居城の修理拡張、国内の堤防に関する事、大名の関門(関所)の監督なども行った。

[町奉行]
 役職として町奉行が任命されたのは江戸幕府になってからで、徳川家が三河にいた頃もすでにこの職があり、任命された者の邸宅を奉行所として用いていた。
 三代将軍家光の嘉永八年(1631)十月に、加賀爪民部少輔忠澄を北町奉行、堀式部少輔直之を南町奉行とし、この時から役宅を造って月番で執務させたが、町奉行の始まりであるが、慶長年間(1596--1615)にすでに行われていたともいわれている。
 江戸以外の町奉行は地方官の一種であるから、京都、大坂、駿府など数カ所に置かれているが、江戸は中央政府のある首府であることから、単に「町奉行」と称して地名を冠しない。別称としては御番所、御役所ともいったが、江戸町奉行という呼称はあくまでも通称にすぎない。
町奉行に任ぜられる者は、始めは一万石以上の者であったが、後には禄高に関わりなく適任者を選んだが、およそ三千石以上の者が多かった。
 行政、司法、警察の事務を行い、武家寺社を除いた江戸市民を管掌した。定員は寛永十二年(1635)には二人であったが、元禄十四年(1701)には三人となり、享保四年(1719)には再び二人制に戻った。其の管轄地は、慶長年間(1596--1615)には三百町であったが、明暦三年(1657)の明暦の大火以降の都市改革に伴い五百余町を成し、通称大江戸八百八町と呼ばれるようになる。寛文二年(1662)には、南は高縄(高輪)、北は坂本、東は今戸まで拡がり、正徳三年(1713)には深川、本所、浅草、小石川、牛込、市ヶ谷、四谷、赤坂、麻布の二百五十九町が合併され併せて七百余町となり、また天保(1830--1844)頃には千六百七十九町まで拡張された。この合併前の旧江戸町内を、古町(こまち)といって免税されていたが、新合併の土地は代官が,年貢を取り立てていた。そこで、これを両支配の土地といっている。
 町奉行は一月交替で月番と非番があり、月番の町奉行所は門を開けて訴訟を受付け、非番の町奉行所は門を閉じて、前月受付けて未処理の訴訟を処理していた。そして奉行は月番奉行と事務連絡をしたり、江戸城へ登城して伺書を老中に提出したり、裁決された書類を受け取って戻り、罪を処理したりした。
 月番の奉行は朝四ッ(午前十時)の御太鼓前に登城して八ッ(午後二時)頃奉行所に戻り、それから民事、刑事の訴訟の処理吟味にかかるのである。

[勘定奉行]
 江戸幕府では慶長八年(1603)、大久保石見守長安を財政会計の職に就けたのが始まりであるが、その時は未だ勘定奉行という名称ではなかった。寛永十九年(1642)、幕府は勘定頭と名付け、伊丹喜之助康勝を任命しこの職に当たらせた。元禄になって初めて勘定奉行の名称が生まれた。享保七年(1722)八代将軍吉宗の時代に初めて職務を二分割し、勝手方は税収、徭役(*15)、金穀(金品)の出納、禄米(俸禄米)の支給、旗本采地(領地)の分割、貨幣の鋳造から、河川橋梁の普請、幕府の一切の“出入費”について取扱い、他方の公事方は天領(幕府直轄地)の訴訟を取り扱った。現在の用語では「経理部」および「会計課」といったもので、金銭の収支や物品・不動産の増減など財産の変動、または損益の発生を貨幣単位によって記録・計算・整理し、管理および報告する仕事である。
 また幕府の“財政”を掌る所は老中の所轄である「勘定所」というのがあり、老中勝手方とその下にある若年寄勝手方がある。こちらは「財務部」に相当し、幕府が、その存立を維持し活動するために必要な“財力”を取得し、これを管理・処分する一切の作用を行った。この勘定書を直接支配するのが勘定奉行勝手方であるから、勘定奉行勝手方は財務省・国土交通省を兼帯していたことになり、たいへんな重職であった。
勘定奉行の役に就ける者は、およそ二三千石級の旗本から任じられるが、経世理財に長けた者なら五百石級でも任命されることがある。定員は四名で二名が勝手方、二名が公事方を勤め、これらは一年で交替し合う。それぞれ二千五百石ずつが支給された。
 勘定奉行勝手方は、御殿勘定所と、大手門内の下勘定所に勘定吟味役をつれて出勤するのであるが、二箇所あるので、朝七ッ(午前五時)に下勘定所に出勤して書類に目を通し、五ツ半(午前九時頃)御殿勘定所に詰めるという忙しさで、二名が月番交替で行った。
 公事方二名は役宅で訴訟を扱ったが、評定所へも出勤して裁判をしたりして、こちらもなかなか忙しいので慶長二年(1866)から、執務場所を評定所に移した。内寄合は六日、十八日、二十七日で、寺社、町と共に三奉行が合して管轄違いの事件などを打ち合わせ交渉した。勘定奉行の支配下にあるものは、勘定所、評定所留役、金奉行、切米手形改、蔵奉行、林奉行、漆奉行、書換奉行、川船改役、京都入用取調役も金座、銀座、朱座、諸国代官、上方郡代、西国筋代、飛騨郡代、大津郡代、大阪蔵奉行、二条蔵奉行など多数広範囲に及んでいた。

[外国奉行]
 幕末には外国との交渉多端となり、安政五年(1858)、ロシア・オランダ・フランス・イギリス・アメリカと条約を結ぶようになったことから、同年七月八日にこの職を設けた。勘定奉行の水野筑前守忠徳、永井玄蕃頭尚志のほかに番頭格から三名補して五名定員として、同六年(1859)七月からは、水野忠徳と神奈川奉行村垣淡路守範忠(範正)をして月番執務をさせ、続いて神奈川奉行の兼帯とした。当時神奈川奉行は八人であったが、万延元年(1860)九月には神奈川奉行兼帯を止め十人が専任となった。
 初めは番頭級から選んだが、国事多端の折から有能な士であれば禄高に関わらず用いた。下に組頭、調役、調役並、用出役、翻訳方、定役元締、定訳などがあった。
 この役職は時局柄多忙を極め、僅か十年に七十四人の者が歴任し、重任する者九名、三回勤める者三名が居り、村垣淡路守の六年が最も長く、白石下総守の三日が最も短い。
 水野筑前守忠徳については、当記事に書いたように、外国奉行の外、長崎奉行を始め多くの奉行職を歴任しており大変魅力的な人物であり、数年前から多くの史料を収集し現在研究中であることから、その内投稿する予定をしている。乞うご期待。

[軍艦奉行]
 安政四年(1857)四月、軍艦操練所を築地に開所して、観光艦で操練を始めたときに、永井玄蕃頭尚志が軍艦教授所総督に任じられたが、教授所は軍艦所と改名されたので、安政六年(1859)二月二十四日に総督は軍艦奉行に変わった。軍艦奉行は戦隊司令官の立場である。
 万延元年(1860)、日米修好通商条約の批准書を交換するため、アメリカに渡航した有名な咸臨丸もこの奉行所の配下にあった。
 文久二年(1862)には、御船手も合併した。
 慶応三年(1867)には、場所高を止めて、年に八百両を月割りにして御役料として支給した。

[浦賀奉行]
 元和二年(1616)、初めて下田に下田奉行を設けたが、享保六年(1721)二月、これを浦賀に移して浦賀奉行所となった。当初は一人制であったが、文政二年(1819)二月、二人定員月番制と改め、天保十三年(1842)十二月、再び一人制となり、弘化元年(1844)、又二人制に戻り、さらには文久二年(1862)七月から明治に廃止されるまでは一人制と目まぐるしく体制が変更された。文久二年(1862)に一人制が確定したのは、安政六年(1859)、直線距離で北北西約24kmの場所に、貿易港として神奈川港が開港されたことに伴い、新たに神奈川奉行所が置かれたことで、浦賀には外国船は停泊しなくなったことによるものと推定される。このことから、浦賀奉行は、従来からの東京湾の出入り船舶の監督と、奥羽、江戸、大坂間の廻漕諸貨物の監査と、付近の幕府領の民政を掌ることに職務が縮小された。しかしながら外国船が渡来したときには隣接諸藩に応援警備を命ずる権限を持っていた。

[神奈川奉行]
安政六年(1859)に、長崎、箱舘、神奈川の三港が、ロシア・オランダ・フランス・イギリス・アメリカの五ヵ国の貿易港となったので、同年六月四日、外国奉行所酒井壹岐守忠行、水野筑前守忠徳、村垣淡路守範忠、堀織部正利熙、加藤壹岐守に兼帯を命じ、翌万延元年(1860)九月十五日、松平石見守康直、都築駿河守峰暉を専任とした。その職責は神奈川港の民政、刑事、運上所(税関)の事務と外交である。
 文久年間(1861--1864)後、各国の公使が江戸を退いて横浜に移ってからは、その折衝の任にに当たり、当時の幕府外交上大変重要な地位にあった。待遇は場所高二千石、御役料千俵で長崎奉行の上であった。慶応三年(1867)には場所高を止めて年給三千両とされた。支配下に支配組四名、調役等がおり、文久三年(1863)には新たに「神奈川奉行並」が設置された。
 奉行所の位置は現在の横浜である。初め神奈川に置く予定であったが、攘夷思想盛んな当時東海道の往還では葛藤の起こる虞があり、その上土地が狭く海も浅いので、対岸の横浜を開いて貿易港とし、奉行所と運上所をここに置いた。ハリスや英国公使のオールコックは条約違反であるとして反対したが、外国商人が横浜に移り住んだので各国公使も移らざるを得なった。日本でも横浜に奉行所を置いても神奈川奉行所といっていた。
尤も運上所の置かれていた位置は、皮肉にも現在の神奈川県庁に当たる。
                                       
                                                つづく


江戸幕府幕閣・幕臣水野氏在職表1/3
江戸幕府幕閣・幕臣水野氏在職表3/3
江戸幕府幕閣・幕臣水野氏在職年表
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by mizuno_clan | 2009-09-06 04:05 | R-4>水野氏諸他参考資料