【談議1】水野氏と戦国談議(第二十回)補足
今回多数のコメントをいただいたが、コメント欄の字数に制約があるので、本編の補足も含めてこちらで述べることにする。まず、比良の城主についてであるが、横山住雄氏(本会会員)の『斉藤道三』に、道三から佐々隼人正に出した手紙について述べられている箇所がある。ここで横山氏は、佐々氏と比良について次のように述べている。
平成三年角川版『愛知県姓氏歴史人物大辞典』では、
「佐々氏は代々、春日井郡比良(名古屋市西区)に居住し、同郡井関(師勝町)にも一族の城があった(尾張志)。井関の城主は佐々成宗(天文二十三年没)といい(師勝町史)、永禄三年に城が比良に移されて、成政(蔵内介)が入るという。成宗には長子隼人成吉、次子に孫助成経、三子成政があった。」
と述べている。つまり一般には、永禄三年・四年頃までには他の佐々氏が比良に居り、以降ようやく佐々隼人正・孫助らが比良に入城したように思われているらしい。
余談になるが、永禄年間よりはるか四十年前の大永五年(一五二五)にすでに比良に佐々氏が居た史料が岐阜県内にある。それは、笠寺町無動寺の光得寺にある梵鐘の銘文である。(中略)
よって、比良にはかなり古くから佐々氏が居て、しかも近隣の高田寺にも勢力を広げる力を持っていたことを知ることが出来る。従って、先に紹介した道三の書状から率直に受ける印象としては、佐々隼人正は天文年間の末には信長に随身し、しかも佐々氏を代表する立場にある比良城主であったと思われる。
『愛知県姓氏歴史人物大辞典』が伝える佐々成宗の記述は、“ごくう”さんが『尾張群書系図部集』に依った内容と同様のものである。しかし同辞典では、「永禄三年に城が比良に移されて、成政(蔵内介)が入る」としているが、横山氏は「光得寺にある梵鐘の銘文」から大永五年には「比良に佐々氏が居た」として、これを否定している。横山氏と同様の見解は『新修名古屋市史』にも述べられており、こうした点を踏まえると、このころの佐々氏については、結局はっきりしたことはわかっていないのだと思う。本編で佐々隼人正を「成吉」と書いたのは、上の辞典の内容に従ったが、そうしたことで信憑性のほどは定かでないと思っている。また佐々氏についてはいろいろ書いてもらったが、少なくとも“ごくう”さんのように典拠を示してもらわないとコメントを返しようがない。
次に、旧暦の正月下旬から「季節は厳寒の最中である」と書いたことに対して、水野青鷺さんより、「永禄二年1月30日ですと、新暦に直すと3月8日となり、桃の咲くころの季節です」との指摘をいただいた。これはご指摘の通りである。実は、永禄のころ西洋で使われていたのはユリウス暦である。現在はグレゴリオ暦で、それでいえば旧暦正月下旬は二月下旬から三月上旬となる。今回はユリウス暦で変換してしまったので、二月中旬だと勘違いしてしまった。したがってこの点は、本編の文章を訂正させていただく。また「釣瓶」については、「竹の竿を斜めに地面に埋め、竹の先に綱をかけその先に瓶を繋いだもので、水を汲むときは、綱を引っ張り竹をしならせて桶を水に入れ、汲んだら竹の戻る反動でつり上げるというようなもの」と書かれているが、確かに当時としてはそうしたものだったかも知れない。
今回の『信長公記』首巻の中の奇談-「蛇がへの事」に対して、いろいろご指摘をもらったのであるが、本稿は「蛇がへ」の年時を明らかにしようというものでもないし、また佐々氏の考証をしようとしたものでもない。『信長公記』のこの段は、「蛇がへ」と信長暗殺未遂の一件が接合されているのであるが、そのウェイトは後段にあるように思われる。それは牛一が結びに、「惣別、大将は万事に御心を付けられ、御油断あるまじき御事にて候なり」と語っていることで明らかであろう。しかしこの結びの言葉が示したものは、信長が「蛇がへ」を言い出した本心を、牛一が見誤っていたというものであった。さらに、現代語訳を紹介した中川太古氏も、同様の勘違いをしていると思われる。
例えば中川氏は、「数百挺の釣瓶を立てならべ」という原文を「当日、数百の桶を立て並べ」と訳しているが、これは「釣瓶」を「桶」とすることで、「蛇がへ」の規模感を小さく表現しようとしたものだろう。それというのも、「蛇がへ」は信長の酔狂でおこなわれたもので、しかも突然であったために村人に何の準備もなく、またやる気もないのであるから、大規模な「蛇がへ」などになろうはずがないと考えたのである。それで「数百挺の釣瓶」が、「数百の桶」に変ってしまったということだろう。
本編で「釣瓶」を「単なる桶ではなく、桶を吊るした滑車のついた水汲み出しの装置である」としたのは、釣瓶の考証をしたかったからではなく、この中川氏のような解釈を打破したかったからである。信長が「蛇がへ」と言ったのは、好奇心や酔狂からではないし、ましてや佐々の逆心に対して先手を打って詰め腹を切らせようなどと考えていたからでもない。信長にとっては、村人の杞憂を取り除くことができさえすればよかったのであり、大蛇にも比良城にも関心などなかった。したがって、やるべきことを終えたならば、さっさと清洲に帰るに決まっていたのである。そうであるならば、佐々と井口がいかに策謀をめぐらそうと、比良城に立ち寄らないのであるから、「身のひゑたる危き事」などあろうはずもなかったのである。したがって、牛一の「大将は…」の教訓は、ここでは完全に的をはずしているのである。
それでは、なぜ牛一は、そして佐々と井口、あるいは現代語訳をした中川氏も含めて、揃いも揃って信長の意図を読み間違えたのだろうか。今回の談議の主題はここにある。本編では、なぜ読み違えたのかの答えを導き出してはいないが、この疑問点に到達することが狙いだったのである。そしてその疑問の入り口に、信長の「蛇がへ」がある。本編の最後に、「しかし大将がその関心を払うべきは、領民の暮らしぶりであり、村々に煩いや迷惑が及ばぬように気を引き締めることこそ大事と、当の信長はその行動で示していたのである」と書いた。また、「それは統治者そして公権力としての自覚に基づいた行動であった」とも述べた。戦国大名には、合戦あるいは地域紛争、さらには権力闘争という力の対決をする顔と、平時の統治、社会の基底にいる人々の暮らしを支える顔の二つがある。そして「蛇がへの事」は、後段が力の対決、前段が暮らしの支えに対応している。しかしながら、前段の「蛇がへ」の信長を見誤ったために、後段で佐々らが暗殺の策謀を練りながらそれが不発・未遂に終ったように、そして牛一が的外れの教訓を結びとしたように、この二つの顔の間には断絶が存在するのである。
『信長公記』はこの後、もう一つの奇談である「火起請御取り候事」を記すが、その後は浮野合戦、もりべ合戦、十四条合戦と合戦ばかりが続いている。牛一の目線、関心は信長の力としての権力に注がれており、村々を支える権力、あるいは村々の権力と競合し共存する権力のもう一面は、その視野の外にあるのである。こうした彼の目線・関心が「蛇がへ」の信長を見誤らせたのであるが、それは同時に読み手の我々の理解を制約するものでもある。この「水野氏と戦国談義」は、こうした制約のままに水野氏を、あるいは戦国を談義しようというのではない。むしろ、この制約を乗り越える談義でありたいと考えている次第である。
by mizuno_clan | 2009-10-22 22:14 | ☆談義(自由討論)
